http://www.freeassociations.org/
参考:
善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より 森本 公誠
https://www.amazon.co.jp/dp/4022572698/
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https://twitter.com/mihotoke_chan/status/1601568065141231617?s=61&t=Ko1QnnJwUbBWnrPLP4BWyw
NAMs出版プロジェクト: 華厳経 Avataṃsaka Sūtra
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_28.html @
https://www.blogger.com/blog/post/edit/28938242/4372220348294891141
六十華厳経 | 八十華厳経 |
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武道における「事理一致」に関する一考察 ──華厳宗思想に着目して──
金 炫勇*・矢野下 美智子*
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/12070/20160414190051/47-4.pdf
華厳経エピソード編-自己相似集合の世界観
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo09.htmlNAMs出版プロジェクト: 華厳経
http://nam-students.blogspot.jp/2017/05/blog-post_28.htmlBurke Collection | The Thirty-sixth Stage, from Zenzai Dōji’s Fifty-five Pilgrimages (華厳五十五所絵巻), also known as Zenzai Dōji emaki (善財童子絵巻)
http://burkecollection.org/catalogue/29-the-thirty-sixth-stage-from-zenzai-dōjis-fifty-five-pilgrimages-also-known-as-zenzai-dōji-emaki第三十六知識 沃田城堅固解脫長者讚 :
勤求正[水缶]无休息﹐
徧事如來盡信誠。
清淨莊嚴堅固力﹐
皆從无者念中生。
華厳経エピソード編-自己相似集合の世界観
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo09.html今回の展示画像は、一つの円を中心にその周囲に八つの円から構成される合計九個の円を生成素(図1(A))として、これを一つの円の中に相即・相入し、これを3回繰り返した自己相似集合の図形です。さらに繰り返して、もっと小さな円を入れ込むことも可能ですが、繁雑になるのでこの程度にとどめますが、完全な形は無限に繰り返した場合です。これは前回の展示画像と同様に幾何学的に完全な自己相似集合の図形です。
前回と今回の画像を目をこらしてじっと見ていると、ある限られた領域に、その領域の形状よりも小さな無数の相似の集合で構成され、かつきわめて秩序正しく均等に配置されていることが判ります。
そして普賢菩薩の毘廬舎那仏の世界について語る偈文(げもん)「一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、装いきよらかに、広々として安住する」とか「一つの微塵のなかに、あらゆる微塵のかずに等しい微細の国土が、ことごとく住している」文献(1)の文章のイメージが、あざやかに浮かび上がるのです。
華厳経を勉強して最も不思議に思うのは1500年も前の昔に上記のような文章がなぜ書けたのであろうということです。普通凡人には何らかのイメージがないと、このような文章は書けませんので、華厳経の作者は天才的な頭脳を持っていたとしか私には考えられないのです。
さて本論に入ります。「相」の意味は広辞苑(第五版)によると、①外見、形状 ③あいともに、互いに ⑤[仏]性質、特徴、現象的なすがた などあり、単に形だけでなく外に表れる性質なども含まれると考えられます。
「自己相似」の意味を自己と他者とが相即・相入し合い、相互に依存する関係にある人々と考えることもできます。ところで幾何学的な自己相似集合の図形は、生成素をその生成素の構成要素の中に相即・相入することの繰り返しで形成されるのでした。この生成素を自己及び他者あるいはこれらの世界と考えると、自己と他者あるいは自己と世界(全体)の差別はなく、他者や全体の中に相即・相入した自己を見出す世界観が浮かび上がり、自己も他者もその全体も調和の視点で相似の集合体と見なせます。
以上自己相似集合の世界は、自己を全体の必要不可欠の構成要素として位置付け、かつ他者と全く平等であることを明示する構造なのです。
文献(1)の「重重無尽の縁起の教え」の項で、「十玄門」について「・・・、 自己についても、本来、他者の要素を自己の中に豊かに有しているのであり、 世界の中の一存在であると同時に、もとよりあらゆる他者に開かれた存在であることが見えてくることでしょう。・・・ この自己がかけがえのない自己であるがゆえに全体なのであり、かつ他のあらゆる主体と相即・相入していることを思うべきでしょう。」と記述されています。
なお自己相似集合図形が華厳の思想になじみやすい事例をもう一つ挙げると、展示画像の背景は、因陀羅網を意味する網の目構造の自己相似集合です。この華厳思想を具体的に表現している網の目構造は、三本のベクトルが一点に集束するような生成素(図1(B))の自己相似集合として容易につくれます。この生成素の三本の線分(ベクトル)は、あたかも三本足の鼎(かなえ)のように、いずれが主でもなく従でもなく、互いに補い合って依存しています。
「フラクタル(Fractal)」という用語は、1975年にベノワ・マンデルブローが新たに考案した言葉であり、語源は不規則を意味するラテン語のfractusで、小片、断片、微小、破片などの意味が含まれるといわれています。これらの意味にはさらに深い意味があるものと考えられますが、これについてはまた別の機会に説明します。ここではより一般的な意味について記述します。フラクタルについて、文献(3)の招待論文の中でマンデルブローは下記のように記しています。
「自分でフラクタルと呼んだ形状はすべて「ざらざらしていて自己相似的」という性質をもっていた。 相似といっても必ずしも幾何学的相似の意味はなく、「似ている」といったつごうのよいゆるい意味である」。
フラクタルという言葉 を学術用語として難しくとらえるよりは、自然界や社会のモデルとして、もっと身近な存在としてとらえたほうが役に立ちそうです。マンデルブロー自身これを多くの欲望が対立する株価の変動モデルとして応用しています。
ここでは,この「ざらざらしていて自己相似的」という世界は、前々回及び前回でも検討したように、多かれ少なかれ自我をもつ善男善女の住むこの世を表していると考えてもよさそうです。この世界は自然界の現象も含めて現実社会の複雑性があり、きわめて魅力的なのです。
これに対して今回展示したような滑らかな円の幾何学的自己相似集合の図形は、比較的単純な構造のため基本的な世界観を説明するときには役立つのですが、完成度が高すぎて(秩序が良すぎて)、 創造性という面からはあまり面白くないのです。
このように自己相似集合図形と言っても、簡単な手法で作ることができる幾何学的な図形と、 漸化式による決定論的カオスから生まれる「華厳経の風景」で見られるような、局部的な自己相似性をもつより複雑で創造性の豊かな図形とがあります。
(1) | 竹村牧男:NHKこころの時代「ブッダの宇宙を語る、華厳の思想(上)(下)」日本放送出版協会、2002年4月 竹村牧男:「華厳とは何か」、(株)春秋社、2004年3月 |
(2) | 中村量空:「複雑系の意匠」(中公新書)、中央公論社、1998年10月 |
(3) | パイトゲン/リヒター:「フラクタルの美」(宇敷重広訳)、シュプリンガー・フェ アラーク東京(株)、1988年6月 |
華厳経エピソード編-自己究明/視点による自己意識の違い
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo24.html今回の展示画像について説明します。前々回(「22. 鈴木大拙「華厳の研究」の研究」)の展示画像の一つである正六角形の内部に正六角形を六つ相即相入した自己相似集合図形では、その中央の部分に十分な空きが存在しています。 そこで今回は、この部分にもう一つ正六角形を追加して、合計七つの正六角形を相即相入したときの自己相似集合図形です。
このような図形を電脳で描かせるための考え方は、「5.リカーシブ(再帰的)処理という概念」で説明しています。これは対象を自分の外に置かないで、対象の中に自分を入れ込んでしまうような概念なのです。言い換えると、対象を自分から見る視点に置かないで、自分の内に自分を含む対象を見るような視点なのです。
もう少し具体的な例は、 前回話題にした、車に搭載されているアラウンドビューモニターです。今回はこの視点をさらに考察します。何らかのテレビの実況放送中、その画面が映っているテレビ受像機を、テレビ局のスタッフが実況しているテレビカメラで写したら、テレビ画面には何が映るのでしょう。普通に想像したら、画面にはテレビ受像機が映り、その受像機の画面には、また受像機が映り、・・・と、受像機がどんどん縮尺されて無限に映っていくのです。
これはまさに「入れ子構造」そのものです。この原理は自己相似集合図形を作成するのに応用でき、これを用いると今回の展示画像を描かせることなど朝飯前の仕事なのです。
すなわち、自分(見るもの)と対象(見られるもの)とが一体化したときの一つの様相が、自己相似集合図形なのです。一つと表現したのは、もっと不思議なことが起こるのですが、これはいっの日にか考察します。
前回の「23.「空」の基本構造」で取りあげた「般若心経」の最初の文の解釈では、「視点」に着目して、「視点の転換による済度」として考察しました。 このまとめを表1に示します。
自己から他者を含む世界を見る視点 | 世界の上方(天空、宇宙、仏)から自己や他者が関わる世界を見る視点 |
---|---|
「色」(分別と差別)の世界 | 「空」(無分別と無差別(平等))の世界 |
主客二元的な対立が生まれる。 当然、自己中心的な執着、欲望、怒りなどの人間の苦の原因となる煩悩が芽生えます。この苦を「度する」には、視点の転換が必要となります。 | 「主客不二・物我一如」の境地が生まれる。 大局から見れば、世界を構成する個々の人や物に対して、区別など付けようがなく、全く同等と見るのが基本となるのでしょう。すなわち個々は世界を構成する仲間であり、そこに倫理観や慈悲の心が芽生えます。 この世界観を図で表現したのが「空」の基本構造です。 |
大局的立場あるいは仏の立場から見た視点からは、自己も他者も甲乙つけがたい同じ人間なのであって、すなわち相似形なのであって、そこには執着、欲望や怒りなどの煩悩は存在しないのです。これら煩悩は自己から他者を含む外界を見た視点のときにのみ生じるのです。この大局から見た視点からは、全体を構成する同じ人間だからこそ、お互い助け合って、切磋琢磨(せっさたくま)して、互いに自己を高めようとする「慈悲」の心が生まれるのです。私はこれが「空」の境地であろうと思います。「色」と「空」との違いは「視点」の違いだけなのです。
ただしこの大局的な立場の視点から見られるようになるには、かなりの修行を必要とします。これを実行するには、自己や他者が関与する世界を、自己の内部に映して(イメージして)、それを自己が見ることになるのでしょう。このとき、曇りや歪みを生じさせることなく映し込むために、それ相応の修行が必要なのです。もう少し具体的には、道元の言うとおりで、『仏道をならふといふは、・・・自己をわするるなり。・・・』なのです。
この世界観を図で表現したのが、「空」の基本構造としての自己相似集合図形なのです。
展示画像のような自己相似集合図形をどのように解釈するかの基本的な概念を表2に示します。
外側の輪郭とその内部 | 内側に存在する各輪郭とその内部 | |
---|---|---|
基本概念 | 全体 一般(普遍) 包括するもの 世界 | 全体の構成要素としての部分 特殊 包括されるもの 個物・自己及び他者 |
世界観 | 世界の上方から見た視点としての自己や他者が関わる世界 | |
世界(宇宙、仏、自然)と自己との一体化構造 | ||
- - - | 自己と他者との一体化構造 |
曼茶羅は宇宙(大日如来)と自己の一体化を感得するための手段として用いられるものですが、曼茶羅の構図の一つに自己相似集合図形に近いものが存在していることは、自己相似集合図形は、「空」の境地を得るための図形といえるのでしょう。
自己相似集合図形の内側に存在する相似形は、全体を構成する要素としての個を表していますが、個が変われば個の集まりとしての全体も同時に変化し、そしてこれによって全体を内包する各個も再度変化するのです。これを無限に繰り返すことで全体と個の間の「矛盾」は徐々に解消され、一体化していくのです。言い換えると、全体との関係においてそれぞれの個が存在し、個は他の個々との関係においてのみ成立する世界なのです。
一切の相似形は外形(輪郭)だけで、実体はないと考えることもでき、仮の集合とも考えられます。 または「有」でもなく「無」でもなく、どちらにも属さない「中(ニュートラル)」の状態ともとれます。
次に自己と他者に着目すると、自己の対象としての他者を含む外界は、自己と同じ相似形です。すなわち一切の対象は自己と同じ相であって、二元的対立の生じない、不二の世界です。このような一体化構造は、相互に無礙(むげ)の関係にあり、調和のとれた秩序が成立しています。 すなわち事事無礙法界の成立する世界でもあるのです。
「空」の基本構造とは、実体のない輪郭だけで形成され、二元的対立を克服するための全てが一体化した調和と秩序のある構造なのです。この一体化構造ゆえに全ての煩悩が滅せられると同時に、他者への慈悲の心を自覚できるのです。
「華厳経の風景」での花の配置の典型は、一つの大きな花を中心にして、その周りに相似形の中くらいの花が秩序正しく配置され、さらにこの中くらいの花の周りに相似形の小さい花が配置されるという繰り返しの構造です。「華厳経における花の意味」で記述していますが、 花は仏や菩薩のおられる場所(座)を意味し、花の大きさは修行の成果(仏果)を表していると想定して、考察を進めてきました。
今回の展示画像のような自己相似集合図形の内部には、大きさの異なる相似形が多数存在しますが、これらを全体(世界)を構成する要素(個)と解釈するとき、この大きさは、 物の場合は「大きさ」、「規模」を意味し、人間の場合は「修行の完成度」、「智慧の量」や「人格としての水準の高さ」のようなことを意味するのでしょう。
大きさは量を表しますが、量的変化と質的変化は相互に転化しますので、質的変化と考えてもよいのです。
我々は少しでもより大きな自己になるために、日常的に努力し、精進しているのです。相似形の大きさは、これを意味するものと考えてよいと思われます。
「自己の究明」とは、今回の展示画像の自己相似集合図形の内部の一つの相似形を自己であると認識することなのです。
これでは世の中、面白くも、おかしくも、何ともなく、まさに機械の歯車の一つではないかと思われるかもしれません。ここで重要なことは、機械の歯車は寿命が尽きるまで、固定された状態が続くのですが、 人間の世の中では、その位置(立場)や大きさは、人間の努力や運しだいで変わり得るということです。修行によって、ひと回りもふた回りも大きく成長できるのです。
「「空」の基本構造」で、「基本」と呼んだのは、この幾何学的な自己相似集合図形のような、構造が簡単で静的なもので、 仏教の世界観を誰でもが理解しやすい図形だからです。実際の「空」はより神秘的(難解)でもっと奥深いのです。
もうみなさまには御存知のように、このような簡単な幾何学図形ではなく、より創造的で動的な挙動を呈する「華厳経の風景」のような画像が存在するからです。このような画像がなぜ生み出されるかについては、私自身修行が足りず、いまだわかっていないのです。
これに関し、鈴木大拙の「空」からの創造についての記述が、きわめて印象的なのです。いままでも検討していますが、鈴木大拙の洞察力はすごいものがあり、未来を見越したような文章によく遭遇するのです。その一例が「11. 「空」からの「創造」/ 電脳三昧 」で引用した文章ですが、 決定論的カオスの挙動など知るよしもなかった当時、何故あのような文章が書けたのであろうか、私のような凡人には理解しがたいのです。
多少重複しますが、鈴木大拙の著作の中で私の最も好きな「仏教哲学における理性と直観」(鈴木大拙全集、第十二巻、(株)岩波書店、2000年9月)の最終の部分を引用させていただきます。
『・・・空は、静なるものとしてではなく、動なるものとして、いや、むしろ同時に静であり動であるものと考へられなければならない。般若の場は、止観を通じて創造し、創造を通じて止観するのだ。
こういうわけで、般若においては、永遠の進展があり、而も同時に決して変ずることのなき統一の情態があるのだ。・・・論理的にいえば、般若の創造性は限りない矛盾の連鎖を蔵するのだ。 ありとあらゆる形および仕組みにおいて、理性の中に般若が、般若の中に理性があるのだ。ここに般若と理性とが、無限に錯綜し、重重無尽に浸透しあう情態が生じてくる。・・・この最も徹底した相互浸透、 理性と般若とが表現することもできぬほど錯綜していながら而も秩序を維持しているというこの囘互(えご)の情態、これこそ般若自らの手で編んでいく網なのである。ここでは分別理性が主役となってはたらくのではない。それで般若直観のある所、このすべての神秘が不可思議を演ずるのだ。』
華厳経エピソード編-鈴木大拙「華厳の研究」の研究
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo22.htmlみなさん、f(f(x))の意味がおわかりですか。
高校の数学で、2つの変数xとyの間に何らかの関係があって、xの値が定まれば、これに応じてyの値が定まるとき、yを「xの関数」といい、y=f(x)と表わします。ここでf( )は、いわば何らかのfunction(機能、作用)が与えられる容器のようなもので、このカッコの中にxを入れ込むと、yになれるのです。
これはまさに「相即相入」の概念によく似ていいると思われないでしょうか。 ここで、f( )にf(x)を入れたf(f(x))は、「「xの関数」の関数」ということになります。 さらにこれを無限に「反復・繰り返し」を行うと、・・・f(f(f(f(x))))・・・、すなわちxの関数の関数の関数の・・・ということになります。 ただこの様に表現すると、わかりにくくなるので、変数Xに下付きの添字を付けて、X0, X1, X2, X3, ・・・Xn, Xn+1とします。ここで最初のXをX0とし、次のX1をf(X0)と表わしています。
すなわちX1=f(X0)、X2=f(X1)=f(f(X0))となります。したがって、
X3=f(X2)=f(f(X1))=f(f(f(X0)))です。これを一般的に表現したのが、
Xn+1=f(Xn)
この式は今までに何度も登場してきた漸化式の基本形です。
Xn+1=f(Xn)
=f(f(Xn-1))=f(f(f(Xn-2)))=・・・
=・・・f(f(f(X0)))・・・
すなわちXn+1は、Xn, Xn-1, Xn-2,・・・X0がそれぞれ「相即相入」していることになり、それぞれ一体化して、今ここにおいてXn+1として成り立っていることを意味します。そしてこの漸化式は、まさに「関数f( )の入れ子構造」であり、「相即相入」を何度も「反復・繰り返し」たときの結果を示すものなのです。
すでに「相即相入/事事無礙(じじむげ)」で検討しましたように、基本的な自己相似集合図形の作り方は、この「相即相入」を何度も「反復・繰り返し」することでした。今回の展示画像も全く同様の方法で作られたものです。
今回の題目でもあります「鈴木大拙「華厳の研究」の研究」は、厳密には正確ではありません。正確には「華厳の研究」の研究の研究の・・・なのです。
すなわち最初に鈴木大拙「華厳の研究」を研究した大先輩がこの影響を受けて、新たな論説を生み出し、それを中先輩が受け、再度考察し、さらに小先輩が再度考察した結果が私の知識となり、これを基礎として「華厳の研究」を再度考察する訳です。この「反復・繰り返し」によって、すなわち多くの人が一体化することで、物事が徐々に変化していくのです。これを「漸化」というのでしょう。また生物の「進化」と考えてもよいと思います。
鈴木大拙全集、第五巻((株)岩波書店、2000年5月)の「華厳の研究」の第二篇の「華厳経に於ける場面の全面的転廻」で次のように記述しています。
『「華厳経」に来ると大乗仏教という大宗教劇の演じられる舞台面に完全な変化がある。・・・目にうつるあらゆるものが、すべて皆、たぐいのない光に輝きいでるからだ。われわれはもはや、暗い、硬い、そして限りのあるこの地上の世界に居るのではない、 不可思議にも身は運ばれて天上の銀河の間に上る。この天上の世界は光明そのものである。・・
・・この光明の世界、この相即相入の場面は、個物の世界である世間界との対照に於て、法界として知られている。・・・法界は真実の存在であって世間界から離れたものではないが、ただわれわれが菩薩の生きている霊的生活にまで至らないと法界と世間界とが全く同一だということにはならぬ。個の堅い外郭が溶け去り、有限性の感じがもうわれわれを悩ますことがなくなった時に始めて法界は実現する。この様な法界に入ることを説くものという意味で、「華厳経」はまた「入法界品」ともよばれるのである。』
大乗仏教の経典の中でも、華厳経は人間の思想を全く超えた不可思議な光景であると、大拙は記述していると同時に、これを極力理解するために、「法界」や「相即相入」という教義を詳細に記述しています。そして「相即相入の教義」の中で次のようにも記述しています。
『多くの人々にはそれらは余りにも空想的なものであるかの様に、また余りにも遠く常識の領域を越えているものであるかの様に見える。しかし、われわれが経に叙述せられた通りに菩薩の霊性的経験の中心事実を把握すれば、ここに画き出されるすべての光景が全く当然なものであるという考えがおこり、それらの中にもはや何の非合理性も見ないということになるであろう。』
この後の文章から「菩薩の霊性的経験の中心事実」というのは「相即相入」を直覚することなのですが、これを把握すれば、華厳の世界の光景は当然なものであると記述しています。これは私にとってきわめて重要なことで、次項で検討しますが、「華厳経の風景」に「お墨付」をいただいたようなものなのです。
さらにこの後の文章で、唐の則天武后が相即相入の意を把握するのに困難を感じた時に、華厳の碩学(せきがく、学問のひろく深い人の意)法蔵が、提示し説明した「燈火を鏡で囲った光の多重反射のたとえ」について記述しています。これはすでに「「重重無尽」が行き着く世界」で検討したので省略しますが、大拙のいう華厳経の舞台の光明の世界とは、この燈火を鏡で囲った光の多重反射の様相を意味しているのでしょう。
当時、鈴木大拙は「フラクタル」の概念など知る由しもないのですが、法蔵と同様、直覚で理解していたと考えられます。
なお以後の考察は「10.自己相似集合であることの証明」での考察と一部重複します。
いよいよクライマックスの第三篇に入ります。まず本論に入る前に今回の展示画像について少し考察します。ところで臨済宗妙心寺派の禅僧、仙崖義梵(せんがいぎぼん, 1750-1837)和尚が描いたという禅画「○△□」は、多くの方が見たことがあると思いますが、この究極の意味がおわかりでしょうか。
これについて、 私なりにイメージしたのが、今回の展示画像なのです。ただし円については、すでに「相即相入/事事無礙」や「9.自己相似集合の世界観」で展示していますので、ここでは省略します。その代わりに正三角形や正四角形のほか、さらに欲張って、正五角形と正六角形も描いてしまいました。このへんが私が凡人の域から抜け出られないところです。 さらに語呂がよいので、三角形は三つの三角形、四角形には四つ、五角形には五つ、六角形には六つのそれぞれの形を、互いに妨げあわないように「相即相入」を繰り返したものです。
電脳で描いていますので、相即相入を無限に繰り返すことができますが、内部が黒く塗りつぶされて、きたなくなりますので、 適当な反復回数でとどめています。これらの図形がどのように描かれるかを、 わかりやすく説明するために、 三角形と四角形について、反復回数一回の場合と二回の場合を下図に示します。
特に三角形の中に三つの三角形を繰り返し入れ込んだパターンは有名で、シェルピンスキー(ポーランドの数学者,1882-1969)のガスケット(ガスの漏れを防ぐパッキング)と呼ばれるもので、 自己相似集合の教材として、よく用いられる形です。
さて話を本論に戻しますが、「楼閣の描写」について、 鈴木大拙の記述を要約すると、楼閣は法界であること。 この法界の個多のものは完全な秩序が存すること。この秩序とは、『大楼閣の中には、また無量無数百千の楼閣がある。 その一々の楼閣がまた大楼閣そのものと同じ様にいみじく妙なる荘厳に飾られ、また空虚の如く広闊(こうかつ)である。しかしてまた、これらのすべての、その数、無量無数の楼閣は相互に障礙(しょうげ)するところさらになく、一々の楼閣はすべての諸処(しょしょ)の他の楼閣と完全に調和しつつしかもそれ自体の存在を保っている、一楼閣が他の楼閣と個々にまた全体的に融合することを妨げる何物もなく、そこには完全な相互交入があり、しかも完全な正整がある。若き求道者善財は自らを一々の楼閣の中に見ると共にまたすべての楼閣の中にも見るのである。すべては一々の中に含まれ、一々はすべてを含むからである。』
この鈴木大拙の記述と、展示画像のような自己相似集合との対応を考えるときに、もう一つの重要な概念を導入することが必要なのです。
それは西田幾多郎や鈴木大拙の思想の中心となる「真の自己とは何か」という概念です。 これも仏教思想に根ざしたものといわれていますが、自己と他者、およびその周囲環境(この場合は楼閣)が自己の内側に存在する世界、すなわちこれらが全て同一と直覚する境地を導入します。これで展示画像のような調和のとれた自己相似集合図形は、 まさに鈴木大拙の楼閣についての記述内容と完全に一致し、事事無礙法界と解釈できます。
以上自己相似集合は、 西田、鈴木の「自己究明」の概念を導入することで、 単なる幾何学図形から、 仏教思想の理想的な世界観を表現する図形へと生まれ変わるのです。そしてこれが善財童子が大楼閣の内部に入って(入法界)、直覚した大楼閣そのものであり、また「事事無礙法界」の構造であると考えられます。
そしてこの自己相似集合図形は、「相即相入」を反復・繰り返すことで作られるのでした。
この事事無礙法界の構造と考えられる自己相似集合は、「相即相入/ 事事無礙」ですでに考察をしていますが、 このような図形の原形は、 自己相似集合やフラクタルなどの概念が生まれるはるか以前、八世紀頃に、 金剛界曼茶羅として仏教界に存在していたことは、 みなさまには御存知のことと思います。
代表的な胎蔵・金剛界曼陀羅の図を見れば容易に理解できるように、大日如来を中心とした諸尊の集まりの場所であって、諸尊の大楼閣を象徴した図と考えるのが、もっとも素直で基本なのでしょう。この図に自己相似集合に近いものが存在することは、大楼閣の内部が自己相似集合であることを物語るものと考えられます。
また曼陀羅を構成する図形も、主に円や正方形で、これも楼閣やその城郭(じょうかく)を表しているのでしょう。また三角形も存在するといわれており、仙崖和尚の禅画「○△□」が頭をよぎり、これが楼閣を表している可能性もあります。
さて先に引用した鈴木大拙の記述、『法界(この場合は事事無礙法界と考えられます)は真実の存在であって世間界から離れたものではないが、ただわれわれが菩薩の生きている霊的生活にまで到らないと、法界と世間界とが全く同一だということにはならぬ。』とか『相即相入を直覚し、把握すれば華厳の世界の光景は当然なものである』という意味は、 相即相入から導かれる自己相似集合のような構造をいうのでしょう。さらにこのことに関して、 大変興味深い発見がありました。
大楼閣を内側から見た平面図は、 展示画像のような構造と考えられるのですが、ここで四角形の場合を注目しましょう。四角形に四つの四角形を相即相入した場合の配置図は、田の字構造なのです。
「不可思議神変事」といわれる大楼閣といえども、 我々凡人の住宅の室の配置の基本といえる田の字構造と何ら変わりがないのです。我々は各室を有効に利用するため、 室の空間を幾重にも細かく区切って、 そこに物を相即相入して、 収納庫として用いているのです。
田の字の個々の四角の中に、また田の字が入り、またその個々の四角に田の字が入るという繰り返しなのです。 これが大楼閣の内部の構造なのです。
最後に、 仙崖和尚が描いたという禅画「○△□」の究極の意味は、 外から見た大楼閣の平面図に他ならず、この外面的な○△□の図形の内側には 「相即相入」とか「重重無尽」や「事事無礙法界」などの華厳思想の核心が、 隠されていると直観したのですが、如何でしょう。
華厳経エピソード編-三年間の「華厳経の風景」回想
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo21.html「華厳経における花の意味」の「追記」で述べたように、華厳の世界すなわち蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうそうごんせかい)を構成する大蓮華は、 幾重もの「風輪」によって支えられていると言われています。この風輪は風の渦のことで、この流体の渦は、普通「対数螺旋(らせん)」であると考えられます。
この対数螺旋は、「「重重無尽」が行き着く世界」で提示した佐藤修一の「自然にひそむ数学」にも記されているように、「黄金比」・「フィボナッチ数列」や「フラクタル」と密接な関係があり、これらは自然の基本的な法則そのものなのです。すなわち天才的な先駆者達が、 自然とまじめに向かい合ったときに、直観的に感知される仕組み(構造)なのです。
この「風輪」を幾重にも重ねると、下図のように、華厳の世界の基本構造が明らかになります。
この渦(対数螺旋)は、一種の「入れ子構造」であり、フラクタル(自己相似集合)の基本です。そしてこの渦を幾重にも重ねるのですが、 このとき渦の回転方向、すなわち時計回りと反時計回りの渦を別々に扱い、それぞれの渦を均等(等角度)に配置してして、この回転方向の異なる二つの渦群を重ね合わせます。
例えば三本の渦を用いて、回転方向を異にした二つの渦群を重ねると、図の中央のような花びらが形成できます。これはバラの花のような感じですが、対数螺旋の数やその形を変えるパラメータを変えれば、もっと単純な蓮の花のような花びらも形成できます。
さらに十五本の渦を用いますと、図の右側のような画像が得られ、これはまさに網の目構造です。
以上、 華厳の世界の象徴的な表現としての花や、 華厳の世界の思想的表現としての、全体(世界)と部分(自己)との関係を具体的に表した網目構造が形成されるのです。そしてこれらは全てフラクタルなのです。
華厳経 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/華厳経『華厳経』(けごんぎょう、梵: Avataṃsaka Sūtra, アヴァタンサカ・スートラ)、正式名称『大方広仏華厳経』(だいほうこうぶつけごんきょう、梵: Mahā-vaipulya-buddha-avataṃsaka Sūtra, マハー・ヴァイプリヤ・ブッダ・アヴァタンサカ・スートラ)は、大乗仏教経典の1つ。
経名は「大方広仏の、華で飾られた(アヴァタンサカ)教え」の意。「大方広仏」、つまり時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。
元来は『雑華経』(ぞうけきょう、梵: Gaṇḍavyūha Sūtra, ガンダヴィユーハ・スートラ[1])、すなわち「様々な華で飾られた・荘厳された(ガンダヴィユーハ)教え」とも呼ばれていた[2]。
華厳経は、インドで伝えられてきた様々な経典が、4世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものであると推定されている[3]。 華厳経全体のサンスクリット語原典は未発見であるが、「十地品」「入法界品」などは独立したサンスクリット経典があり現代語訳されている。
漢訳完本として、
がある。
部分訳としては、
等がある。
また、チベット語訳完本も存在し、チベット大蔵経の「カンギュル」(律・経蔵)の主要な一角を占めている。
中国では華厳経に依拠して地論宗・華厳宗が生まれ、特に華厳宗は雄大な重重無尽の縁起を中心とする独特の思想体系を築き、日本仏教史にも大きな展開を起こした。
上代日本へは、大陸より審祥が華厳宗を伝来し、東大寺で「探玄記」による「六十華厳」の講義を3年間に及び行なった。東大寺は今日まで華厳宗大本山である。
ネパールでは『十地経』と『入法界品』(Gaṇḍavyūha)がそれぞれ独立の経典として九法宝典(Navagrantha)に数えられている[4]。
六十華厳経 | 八十華厳経 |
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智顗の見解では、この経典は釈迦の悟りの内容を示しているといい、「ヴァイローチャナ・ブッダ」という仏が本尊として示されている。「ヴァイローチャナ・ブッダ」を、「太陽の輝きの仏」と訳し、「毘盧舎那仏」と音写される。毘盧舎那仏は、真言宗の本尊たる大日如来と同一の仏である。
華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている[5]。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。
「六十華厳」の中で特に重要なのは、最も古層に属する「十地品」[6]と「入法界品」の章とされている。
隋の智顗は五時八教の教相判釈で、華厳経を釈迦が成道後まもなく悟りの内容を分かり易くせずにそのまま説いた経典で粗削りの教えであるとした。 唐の法蔵は『華厳五教章』において、五教十宗判の教相判釈を行い、華厳の教えを最高としている。
1 仏陀の宇宙を語る 東洋大学 竹村牧男教授による。 |
(1) 華厳経は、 |
『華厳経』には、漢訳としてまとまったものが二つある。 |
① ② | 北インド出身の佛駄跋駄羅(Buddhabhadra)359~429年が五世紀の初めに訳したもの。 → 「六十華厳」:九十九偈伴の詩句より成る。
中央アジア・コータン出身の実叉難陀(siksanandaじっしゃなんだ)652~710年が、7世紀の終わりに訳したものである。 → 「八十華厳」:六十二の詩句で構成されている。 |
752年 | 東大寺(良弁僧正が開山。華厳経の教主とされる。本尊は、毘留遮那仏びるしゃなぶつ。)この年に大仏開眼供養された。儀式の導師となったのは、インド人僧 侶(バラモン出身の菩提僊那せんな)であった。 参考: この年、第12回遣唐使を派遣。(894年第20回目が中止になるまで遣唐使は続けられた)。 |
華 厳経 | 釈尊のお悟りの世界をそのまま描いた経典。漢訳で、80巻。唯識など大乗仏教のすべてを包含している。 西暦421年に、中国で翻訳された。 後に華厳宗となり、宝蔵大師がこれを広めた。 終半の、40巻は:「入法界品」・・・善財童子(ざいぜんどうし)が、53人の師を訪ねての遍歴の物語である。 ・・・・・・文殊(もんじゅ)菩薩の励ましを受けて53人の師匠を訪ねる話
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ブッダアバタンサカ=仏がいっぱい=花がいっぱい→仏の中にすべての宇宙の現象を解け込ませている。・・・・万物が繋がり合って いるという教え。 「一即一切・一切即一」 → 「重々無尽(じゅうじゅうむじん)」
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(2) 華厳経の教えとはどのようなものか? |
一つの毛穴(けあな)のなかに、 無量のほとけの国土が、 装(よそお)いきよらかに、 広びろとして安住する。 ・・・ 一つの微塵(みじん)のなかに、 あらゆる微塵(みじん)のかずに等しい微細の国土が、 ことごとく住している。 あらゆる世界に種々のかたちあるを、 仏ことごとくその中において、 尊ときおしえを説きたまう。 これぞ弘誓(ぐぜい)の願い、 自在のちからであって、 一(いち)いちの微塵のなかに、 あらゆる国土をあらわしたまう。 ・・・ 華厳経 |
一(いち)いちの毛穴のうちに、 あまねく如来海を示現(じげん)し、 ほとけは如来の塵にいまして、 菩薩衆に囲繞(いにょう)せられたまう。 一(いち)いちの毛穴のうちに、 無量の諸仏海がおわし、 ぞれ道場の華座(けざ)に坐して、 淨妙(じょうみょう)の法輪を転じたまう。 一(いち)いちの毛穴のうちに、 あらゆる国土の 微塵数にひとしい仏が 結跏趺坐(けっかふざ)して普賢(ふげん)の行を演説したまう。 ・・・ 華厳経 |
あわ雪の 中に立てたる 三千大千(みちおおち) また その中に あわ雪ぞふる ・・・ 良寛 |
参考:
1300夜『法華経』梵漢和対照・現代語訳|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html法華経は西暦紀元前後にインド西北で成立したサンスクリット語原本ののち、やがて昼は灼熱、夜は厳寒の砂漠や埃まみれのシルクロードをへて、ホータンやクチャ(亀茲)に、そして長安に届いた。ここで法華経が漢訳されると、これには中国的解釈が徹底して加えられ、東アジア社会の法華信仰の場に向かって大きく変貌していった。
日蓮の孫弟子の日像、舌を切られ灼熱の鍋をかぶらされた日親、不受不施派に徹して対馬に流された日奥、さらには明治近代の田中智学や内村鑑三(250夜)北一輝や石原莞爾におよぶ流れにも、日蓮の法華経世界観の投影を議論すべきであるけれど、今夜はそこまで足をのばさないことにする。
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