(プラトン@ 、『哲学の起源』、リンク:::::::::)
NAMs出版プロジェクト: プラトンの洞窟の比喩と映画
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/test_18.htmlNAMs出版プロジェクト: 信念について
http://nam-students.blogspot.jp/2015/01/blog-post_17.htmlエルの物語の 簡単な解説。
(結構仏教的なので親しみがある。)
エルは神様の命により、ハデス(死)の世界を一般庶民に伝えるため死後の世界を
見物させられた。
不正をはたらかず、哲学するモノは救われるらしいが、2000年前の死生観として
参考にしてください。
尚、霊界の裁判官がえんま様になっているのは小生の誤りです。訂正してお読みください。
人は(すべての生き物)、
輪廻転生し、生まれ先は選べるが、その人生の結末は神のみぞ知る。それが
落ちでありますから、決して 王様を選べば良いと言うわけにはいかないようで、経験の多い
魂は、獣や一般庶民を選択するらしい。
《このような事情により、ひとつにはまた籤運も手伝って、多くの魂にとって善い生涯と悪い生涯とが入れ替わることになったのである。…》
プラトン『国家』#10
https://plaza.rakuten.co.jp/finlandia/diary/201708190000/
《あの世からの報告者(エル)の伝えたところによれば、
そのとき先の神官は次のように言ったという。
『最後に選びにやって来る者でも、よく心して選ぶならば、
彼が真剣に努力して生きるかぎり、満足のできる、けっして悪くない生涯が残されている。
最初に選ぶ者も、おろそかに選んではならぬ。
最後に選ぶ者も、気を落としてはならぬ』》
確かに動物を選択すれば、罪を犯さず、しばしの休息が約束されるが
天国にはいけない。
また転生しなければならない。
プラトン、お釈迦さまともに 徳 を積まなければ 天国 (極楽) は遠いと
おっしゃっていますし、とある文献 (神との対話) では愛を多く
経験できなければ、転生するとも言っています。
どのみち、そう簡単には この転生への運命からは解脱できそうにないが
あなたならどうする??
https://plaza.rakuten.co.jp/finlandia/diary/201708050000/
“蘇生”
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」9
“エルの物語” 戦士エルは、炎を浴びる前に蘇える。
「引き寄せの法則」の考察から始まった本稿、
『国家』第10巻末の“エルの物語”でひとまず締めようと思います。
プラトンの「正義」と「不正」の定義は『国家』前半部を読んでもらうとして、
ソクラテスは、「魂の「正義」を実行する者は、
(日本でいうところの“天狗の隠れ蓑”に相当する)
ギュゲスの指輪やハデスの兜を持っていようがいまいが、
正しいことを心がけねばならぬ」と述べているのです。
何しろ、姿が透明になる魔法のアイテムを使えるならば、
巨万の富も! 海外旅行も! 豪華クルーザーでのパーティも! あれもこれも!
たとえ凡夫の身であれ、やろうと思えば
容易に実現できるであろうこと、想像に難くありません。
__そのような条件に関係なく、正義を行なうものの行く先と、
不正を行なう者の末路についての、ソクラテスの言葉を読んでみましょう。
「さて」とぼくはつづけた、
「これでわれわれは、さまざまな問題を議論のなかで片づけたわけだが、
特に君たちが言っていたようなヘシオドスやホメロスのやり方と違って、
われわれは正義について、その報酬や評判を讃えるということはしなかった。
われわれが発見したのは、
正義はそれ自体として魂それ自体にとって最善のものであるということ、
そしてギュゲスの指輪を持っていようといまいと、
さらにそのような指輪に加えてハデスの兜をもっていようといまいと、
魂は必ず正しいことを心がけねばならぬ、ということだったね?」
「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
「では、グラウコン」とぼくは言った、
「いまならもう、これまで論じた事柄に加えて、
正義その他の徳が本来もつべき報酬のことも認めてやったとしても、
何も文句は出ないだろうね
__正義の徳は魂に対して、人間たちからも神々たちからも、
人がまだ生きている間も死んでからのちも、
どれだけの、またどのような報酬をもたらすかを語ったとしても?」
「ええ、おっしゃるとおりです」と彼。
「それならひとつ、前に君たちが議論のなかで僕から借りたものを、
返してくれるつもりはないかね?」
「いったい全体、それは何のことですか?」
「先にぼくは、君たちに一歩譲って、正しい人が不正な人間だと思われたり、
不正な人が正しい人間だと思われたりするということを許した。
それはほかでもない、君たちが、
たとえ正と不正が神々と人間の目を逃れることは実際に不可能だとしても、
なおかつ議論のために、そのことを認めねばならぬ、そうでなければ、
正義そのものを不正そのものとくらべて判定することができないからと、
ぼくに要請したからなのだ。
__憶えていないかね?」
「憶えていないとしたら不埒〔ふらち〕な話でしょう」と彼は答えた。
「では」とぼくは言った、
「その判定もすでに終わったいま、
ぼくはこんどは、正義のためにその点を返還しよう
__それが神々からも人間からも実際に受けている評判を、
そのままわれわれも正義について認めるべきだとね。
そうすれば正義は、正しいと思われることから獲得して
正義の持ち主に授けるところの褒賞もまた、確保することになるだろう。
正義が、正しくあることから由来する数々の善きものを与えるということ、
正義をほんとうに自分のものとする人々をけっして裏切らないということは、
すでにあきらかになったのだからね」
「そのように要求されるのは正当なことです」と彼は言った。
「では」とぼくは言った、
「そのようなぼくの返還要求に応じて君たちがまず認めるべきことは、
正しい人も不正な人も、
それぞれどんな人間であるかは神の目を逃れることができない、ということだ」
「返還に応じましょう」と彼。
「しかるに、神々の目を逃れえないとすれば、
一方は神に愛される人間であり、他方は神に憎まれる人間だということになろう。
これは、われわれがそもそもの最初に認めていた結論とも一致する」
「そのとおりです」
「そして神に愛される人間には、およそ神から由来するかぎりすべてのことが、
可能なかぎり最善のものになるということに、われわれは同意しないだろうか?
その人が前世の過ちのために、
何か避けられぬ不幸をはじめから背負っているのでないかぎりはね」
「たしかにそのとおりです」
「したがって正しい人間については、
たとえその人が貧乏のなかにあろうとなかろうと、病いのなかにあろうと、
その他不幸と思われている何らかの状態のなかにあろうと、
その人にとってこれらのことは、彼が生きているあいだにせよ死んでからのちにせよ、
最後には何か善いことに終るだろうと考えなければならぬ。
なぜなら、すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人、
徳を行なうことによって、人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が、
いやしくも神からなおざりにされるようなことは、けっしてないのだから」
「たしかにそのような人間なら当然」と彼は言った、
「彼が似ている相手からなおざりにされはしないと考えられます」
「そして不正な人間については、
ちょうどそれと正反対のことを考えなければならないのではないかね?」
「大いにそのとおりです」
「では神々からは、およそ以上のようなことが、
正しい人への褒賞として与えられることだろう」
「少なくとも私は、そう思います」と彼は答えた。
「では、人間の側からはどうだろう」とぼくは言った、
いまこそ真実を言うべきだとすれば、事情は次のごとくではあるまいか。
__腕利きの不正な人々というものは、
往路はよく走るが帰路はそうではない走者と、同じではないだろうか?
彼らは、最初はすばやく跳び出すけれども、
最後には、栄冠をいただくこともなく、耳を肩に垂らして逃げ去り、
みなの笑いものになる。
真の走者こそが、決勝点に達したとき賞を獲得し、栄冠をいただくのだ。
正しい人々についても、事の成行きは多くの場合、これと同じではないかね?
ひとつひとつの行為や人とのつき合い、また人生全体において、
彼らは最後に至って好評を得て、人間たちから褒賞をかちうるのではないかね?」
「たしかに」
「それなら君は、君自身が前に不正な人々について言っていたことを、
そのままここでぼくが正しい人々について語るのを許してくれるだろうね?
つまり、ぼくが言おうとしているのはこういうことだ
__正しい人々は、年が長じてから、望むならば自分の国において支配の任につき、
どこからでも好きなところから妻をもらい、
誰でも好きな者と子供たちを結婚させることができる。
さらにそのほか、君が不正な人々について言ったことをすべて、
そっくりそのまま、ぼくはいまこの人々について言うわけだ。
他方もまた、不正な人々についてもぼくは言おう。
__彼らの多くは、たとえ若いうちはその正体に気づかれずにいたとしても、
競争路の最後まで来たときに、捕われて笑いものになり、
年老いてからは、よそ者からも同市民たちからも惨めなありさまで辱めを受け、
鞭打たれ、さらに、
君がいみじくも残酷な話だと言ったさまざまな刑罰を受けることになるのだ。
どうか、ああいうすべてのことを不正な人々は身に受けるのだと、
ぼくが君にくり返すのを聞いたつもりになってくれたまえ、
__しかしどうだね、
もう一度言うが、ぼくがこういうふうに語るのを許してくれるかね?」
「ええ、よろこんで」と彼は言った、
「あなたの言われるのは正当なことですから」
「それでは」とぼくは言った、
「先に語られたような、正義がそれ自体だけで提供する数々の善いものとは別に、
正しい人が神々と人間から褒賞や報酬や贈物として生存中に授かるものは、
だいたい以上のようなものだということになる」
「ええ」と彼は言った。
「それらは大へんすばらしい、しかも確実なものです」
「さてしかし」とぼくは言った、
「これらのものは、正しい人と不正な人のそれぞれの死後において
待ちうけているものにくらべるならば、
数においても大きさにおいても、何ものでもないのだ。
それがいかなるものかを、いまやわれわれは聞かなければならない。
正しい人と不正な人のそれぞれが聞かされるべきことを聞いて、
われわれの議論から借りとして支払われるべきものを、
すっかり完全に受け取ってしまうために」
「どうか話してください」と彼は言った。
「わたしがこれ以上よろこんで聞くことは、ほかにはあまりたくさんないのですから」
ぼくはその話を、次のようにはじめた。
「さてそれでは、ぼくがこれから話そうとするのは、アルキノオスの物語ではない。
これはひとりの勇敢なる(アルキモス)戦士であった、
パンピュリア族の血筋をうけるアルメニオスの子、エルの物語である。
そのむかし、エルは戦争で最期〔さいご〕をとげた。
10日ののち、数々の屍体が埋葬のために収容されたとき、
他の屍体はすでに腐敗していたが、エルの屍体だけは腐らずにあった。
そこで彼は家まで運んで連れ帰られ、
死んでから12日目に、まさにこれから葬られようとして、
野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき、エルは生きかえった。
そして生きかえってから、彼はあの世で見てきたさまざまな事柄を語ったのである。
彼が語ったのは次のようなことであった。
__彼の魂は、身体を離れたのち、他の多くの魂とともに道を進んで行って、
やがてある霊妙不可思議な場所に到着した。
そこには大地に二つの穴が相並んで口をあけ、
上のほうにもこれと向かい合って、天に別の二つの穴があいていた。
これらの天の穴と地の穴とのあいだに、裁判官たちが坐っていた。
彼らは、そこへやってくる者をつぎつぎと裁いては判決をくだしたのち、
正しい人々に対しては、その判決の内容を示す印しを前につけたうえで、
右側の、天を通って上に向かう道を行くように命じ、
不正な人々に対しては、これもまた
それまでにおかしたすべての所業を示す印をうしろにつけて、
左側の下へ向かう道を行くように命じていた。
エル自身がそこへ近づくと、彼らは、
お前は死後の世界のことを人間たちに報告する者とならねばならぬから、
ここで行なわれることをすべて残らずよく見聞きするように、と言った。
そこで彼は、一方において、魂たちが判決を受けてのち、
天の穴と地の穴のそれぞれ一つの口から、そこを立ち去って行くのを見た。
別の二つの穴のところでは、地の穴のほうからは、
汚れと埃にまみれた魂たちが大地のなかから上ってきたし、
天の穴のほうからは、別の魂たちが浄らかな姿で天から降りてくるのであった。
こうしてつぎつぎと到着する魂たちは、
長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え、うれしそうに牧場へ行き、
ちょうど祭典に人が集まるときのように、そこに屯〔たむろ〕した。
知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし、
大地のなかからやってきた魂は、別の魂たちに天上のことをたずね、
天からやってきた魂は、もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。
こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが、
そのさい一方の魂たちは、地下の旅路において
__それは千年つづくのであったが__
自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか、
目にしなければならなかったかを想い出しては、悲しみの涙にくれていたし、
他方、天からやってきた魂たちは、数々のよろこばしい幸福と、
はかり知れぬほど美しい観物〔みもの〕のことを物語った。
そうした物語のなかの多くの事柄をそのまま話すのは、グラウコン、
長い時間を要するだろう。
しかしエルの語ったところによれば、その要点というのは次のようなことなのだ。
すなわち、それぞれの者がかつて誰かにどれだけ不正をはたらいたか、
どれだけの数の人々に悪事を行なったかに応じて、
魂はそれらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、
その刑罰の執行は、それぞれの罪について10度くり返して行なわれる。
すなわち、人間の一生を100年とみなしたうえで、
その100年間にわたる罰の執行を10度くり返すわけであるが、
これは、各人がそのおかした罪の10倍分の償いをするためである。
たとえば、国や軍隊を裏切ることによって、
多くの人々の死をもたらしたり、奴隷の状態におとしいれたり、
その他何らかの悪業に加担したりしたような者があれば、
すべてそのような所業に対して、それぞれの罪の10倍分の苦痛を与えられることになる。
他方また、いくつかの善行を為したことのある者、正しく敬虔な人間であった者があれば、
同じ割合でそれにふさわしい報いを与えられるのである。
これとは別に、生まれるとすぐに死んだ者たちや、
わずかの期間しか生きなかった者たちのことについてエルは語ったが、
それらはここで取り立てて話すだけのこともないだろう。
しかし神々や生みの親たちに対する不敬と敬虔について、
またみずから手をくだした殺人については、
彼は以上のものよりもさらに大きな報いがあることを物語った。
すなわちエルの話では、ある者が他の者から、
『アルディアイオス大王はどこにいるか?』
とたずねられているところへちょうど居合わせたそうである。
このアルディアイオスという人は、いまからちょうど千年前、
パンピュリアのある国の独裁僭主であった者で、歳老いた父親を殺し、兄を殺し、
その他数多くの不敬な所業をかさねた男だと言われている。
エルの話では、そのときアルディアイオスのことをたずねられた者の答はこうであった。
『彼はここへまだ帰って来ていない。そして永久に帰って来ないだろう。……』
(プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
(つづく)
“明暗”
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」10
“エルの物語” 神は、籤〔くじ〕を引かない。
(前回からの続き)
『われわれは』とその者は事の次第を説明して言った、
『数々のおそろしい光景を見たけれども、これから話すのもそのひとつだ。
われわれは、受けねばならぬ苦しみをすべて受けてしまったのち、
地の穴から上に抜け出ようとして、出口の近くまでやってきた。
そのとき突然われわれは、
あのアルディアイオスが他の者たちといっしょにいるのを目にしたのだ。
それは、ほとんどが独裁僭主たちであったが、
一般の人々で大きな罪をおかした者たちも何人かいた。
彼らは、いまやようやく上に抜け出られるときが来たつもりになっていたのだが、
出口が彼らを受けつけなかった。
その穴の出口は、罪を癒しえないほど極悪な者や、
まだじゅうぶんに罰を受け終えていない者が上に出ようとすると、
その度ごとに咆哮〔ほうこう〕の声をあげたのだ。
するとそこには__とその男は語った__猛々しい男たちが、
火のような形相をして待ちかまえていて、その咆哮の声の意味を了解し、
彼らを両側から鷲掴みにして連れ去った。
しかしアルディアイオスとそのほかの何人かに対しては特別に、
その手と足と頭を縛り上げ、投げ倒して皮をはぎ、道に沿って外へ引きずって行き、
刺〔とげ〕の上で、羊毛を梳〔す〕くようにその肉を引き裂いた。
そして、そこを通り過ぎて行く者たちの皆に、
どういうわけで彼らがこんな目にあっているのかということと、
彼らがこれからタイタロスへ投げこまれるために連れて行かれるのだということを、
告げ知らせるのだった』
こうして、その男が語ったところでは、
自分たちは多くのありとあらゆる恐怖を味わったけれども、
何といってもいちばん恐ろしかったのは、
めいめいが穴から上に登ろうとするときに、
その咆哮の声がはじまりはしないかということだったという。
だから、ひとりひとりが上へ登るその瞬間に穴の出口が沈黙していてくれたときには、
これにまさる喜びはなかったのである。
かくて裁きと刑罰とは以上のごときものであり、
他方恩恵もこれに相応ずるものである、とエルは語った。
さて、牧場に集まった魂たちのそれぞれの群れが七日を過すと、
八日目には彼らはそこから立ち上がって、旅に出なければならなかった。
旅立って四日目に、彼らはあるひとつの地点に到着したが、
そこからは、上方から天と地の全体を貫いて延びている、
柱のような、まっすぐな光が見えた。
その光の色は何よりも虹に似ていたが、もっと明るく輝き、もっときよらかであった。
そこからさらに一日の行程を進んだのち、彼らはその光のところまで到着した。
そしてその光の中央に立って、天空から光の綱の両端が伸びてきているのを見た。
というのは、この光はまさしく、天空をしばる綱であったから。
それは、あたかも軍船(三段橈船〔どうせん〕)の船体をしばる締め綱のように、
回転する天球の全体を締めくくっていたのである。
その端からは、アナンケ(必然)の女神の紡錘が伸びているのが見られ、
それによってすべての天球が回転するようになっていた。
その紡錘の軸棒と鈎〔かぎ〕とは金剛〔こんごう〕でできていたが、
はずみ車はこれとその他の材料とが混じり合って出来ていた。
このはずみ車はどのようなものかというと、
形の点では、われわれの世界にあるそれとそっくりであるが、
その構造は、エルの語ったところによれば、
次のようになっていると考えなければならない。
すなわち、一つの大きなはずみ車が内側をすっかりくり抜かれて
洞〔うつ〕ろになっている中に、
それよりも小さい別の同じような車がぴったりとはめこまれて、
ちょうど椀が椀の中にぴったり収まった具合になっている。
そして同様にして、その中に第三の車、第四の車がはめこまれ、
さらにあと四つの車がつぎつぎとはめこまれている。
つまり、それらの車は全部で八つあり、
軸棒を中心として、全体がただ一つのはずみ車であるかのように、
その連続した表面を形づくっているのである。
軸棒は、八番目の車のまん中を貫き通っている。
これらのはずみ車のうち、
第一のいちばん外側の車の円い縁〔ふち〕が最も幅ひろく、
外側から第六番目の車の縁が第二番目に幅ひろく、
第三番目に幅ひろいのは第四番目の車の縁であり、
第四番目に幅ひろいのは第八番目のそれ、
第五番目は第七番目のそれ、
第六番目は第五番目のそれ、
第七番目は第三番目のそれ、
第八番目は第二番目のそれ、となっている。
いちばん大きな車の縁は、飾りをちりばめたようにきらきらと輝き、
外側から第七番目の車の縁はその光が最も明るく、
第八番目の車の縁は、第七番目のそれに照らされて色彩をもらい受け、
第二番目と第五番目のそれは互いに似かよった色合いをもっていて、
先の二つよりも黄色がかっている。
第三番目のそれは最も白い色合いをもち、
第四番目のそれはやや赤味をおび、
第六番目のそれは白さにおいて第二番目である。
紡錘の全体は同じ方向に回転して回転運動を行なっているが、
回転するぞの全体の中で、内側の七つの輪は、
全体と反対の方向にゆっくりと回転する。
この七つのなかでは、外側から第八番目の輪が最も速く動き、
第七番目・第六番目・第五番目の輪がそのつぎに速く、
互いにいっしょに動く。
第四番目の輪は、彼らの見えたところでは逆もどりの回転運動を行ないながら、
三番目に速く動き、
第三番目の輪が四番目に速く、
第二番目の輪が五番目に速く動く。
紡錘はアナンケの女神の膝の中で回転している。
そのひとつひとつの輪の上にはセイレンが乗っていて、
いっしょにめぐり運ばれながら、一つの声、一つの高さの音を発していた。
全部で八つのこれらの声は、互いに協和しあって、単一の音階を構成している。
ほかに三人の女神が、等しい間隔をおいて輪になり、
それぞれが王座に腰をおろしていた。
これはアナンケの女神の娘、モイラ(運命の女神)たちであって、
白衣をまとい、頭には花冠をいただいている。
その名はラケシス、クロト、アトロポス。
セイレンたちの音楽に合わせて、ラケシスは過ぎ去ったことを、
クロトは現在のことを、アトロポスは未来のことを、歌にうたっていた。
そして、クロトは間をおいては紡錘の外側の回る輪に右の手をかけて、
その回転をたすけ、
アトロポスも同じようにして、内側の輪に左手をかけてその回転をたすけている。
ラケシスは、左右それぞれの手でそれぞれの輪に交互に触れていた。
さて、魂たちは、そこに到着すると、
ただちにラケシスのところへ行くように命じられた。
そこには神の意を伝える役の神官がひとりいて、まず彼らをきちんと整列させ、
ついで、ラケシスの膝からさまざまな籤と、
いろいろの生涯の見本を受け取ったうえで、
高い壇に登って次のように言った。
『これは女神アナンケの姫御子〔みこ〕、乙女ラケシスのお言葉であるぞ。
命はかなき魂たちよ、ここに、死すべき族〔やから〕どもがたどる、
死に終るべき、いまひとたびの周期がはじまる。
運命を導くダイモーン〔神霊〕が、汝らを籤で引き当てるのではない。
汝ら自身が、みすからのダイモーンを選ぶべきである。
第一の籤を引き当てた者をして、第一番目にひとつの生涯を選ばしめよ。
その生涯に、以後彼は必然の力によって縛りつけられ、
離れることができぬであろう。
徳は何ものにも支配されぬ。
それを尊ぶか、ないがしろにするかによって、
人はそれぞれ徳をより多くあるいは少なく、自分のものとするであろう。
責〔せめ〕は選ぶ者にある。神にいかなる責もない』
神官はこのように言うと、すべての者に向かって籤を投げ与えた。
それぞれの者は、自分のところに落ちた籤を取り上げたが、エルだけは除外された。
彼にはそうすることが許されなかったのである。
籤を取り上げた者は、それぞれ自分が第何番目を引き当てたかを知った。
そのあとでこんどは、神官はさまざまな生涯の見本を彼らの前の地上に置いたが、
その数は、そこにいた者の数よりもはるかに多かった。
ありとあらゆる種類の見本がそこにはあった。
あらゆる動物の生涯があったし、
人間の生涯も、あらゆるものがそろっていたからである。
たとえば、そのなかには独裁僭主の生涯もあったが、
それも、一生つづくものもあれば、途中で滅びるのもあり、
貧乏や追放に終るもの、乞食となり果てるものもある、というふうであった。
名高くなる男たちの生涯もあったが、
そのあるものは姿かたちの点で、容貌の美しさの点で、
あるいはまた強さの点で、競技の腕前の点で、名高くなる男たちの生涯であり、
ある者は氏素性〔うじすじょう〕と
先祖の功業において名高くなる男たちの生涯であった。
同様にして女たちの生涯にもさまざまなものがあった。
ただしこれらのなかには、魂そのものの序列を決めるものはなかった。
これは、魂はそれぞれが選んだ生涯に応じて、
おのずから必然的にそれぞれ異なった性格を決定されるからである。
しかし、いま挙げたようなそれ以外のさまざまの条件は、
互いに混じり合い、富や貧乏と混じり合い、
あるいは病気と、あるいは健康と混じり合っている。
また、これらの富と貧乏、健康と病気の中間の状態にあるものもある。
(プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
__物欲まみれの流行〔はやり〕の「引き寄せの法則」考のはずが、
何やら雲行きが怪しくなってきました。
くじ引きで順番を決める? 自分で好きな生涯を選べる?
かような壮大なスケールの話を前にしては、
「巨万の富」や「レアグッス」や「海外旅行」など消し飛んでしまいます。
たしかにアインシュタインの説く「時空の歪み」みたいな力で、
欲しいものが身近にスルスルと落ちてくるかもしれません。
しかし、作用には反作用があり、引力に対する斥力〔せきりょく〕があり、
一点にばかり集中すると、他への注意がお留守になる、
などというような事態もおこりそうです。
(つづく)
“旅路”
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」11
“エルの物語” 〔完〕 来世、そんな先のことはわからない。
(前回からの続き)
けだしこの瞬間にこそ、親愛なるグラウコンよ、
人間にとってすべての危険がかかっているのだし、
そしてまさにこのゆえにこそ、われわれのひとりひとりは、
ほかのことを学ぶのをさしおいて、ただこのことだけを自分でも探求し、
人からも学ぶように心がけねばならないのだ
__善い生と悪い生とを識別し、自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも、
より善いほうの生を選ぶだけの能力と知識を授けてくれる人を、
もし見出して学ぶことができるならば、
それによって、われわれひとりひとりは、
いまいろいろの生涯の見本として語られたすべての条件が、
互いに結びつく場合にも、単独に別々のものとしても、
善き生ということに対してどのような関係をもつかを考慮しながら、
美しさが貧乏あるいは富といっしょになるとき、
またどのような魂の持前とともにあるとき、
どのような善いこと悪いことをつくり出すかを知らなければならぬ。
氏素性の良さ悪さ、私人としてあることと公的な地位にあること、
身体の強さ弱さ、物分かりの良さ悪さ、
そしてすべてそれに類する魂の先天的ないし後天的な諸特性が互いに結びつくとき、
何をつくり出すかを知らなければならぬ。
そうすれば、その人は、すべてこれらの事柄を総合して考慮したうえで、
もっぱら魂の本性のことに目を向けながら、
魂がより不正になるような方向へ導く生涯を、より悪い生涯と呼び、
より正しくなるような方向へ導く生涯を、より善い生涯と呼んで、
より善い生涯とより悪い生涯とのあいだに選択を行なうことができるようになるだろう。
そしてほかのことには、いっさい見向きもしないようになるだろう。
なぜならば、われわれがすでに見定めたように、そのような選択こそは、
生きている者にとっても死んでからのちにも、
最もすぐれた選択にほかならないのであるから。
かくて人は、金剛のごとく堅固にこの考えをいだいて
ハデスの国〔冥界〕へ赴かなければならぬ。
あの世においてもまた、富およびそれと同類の害悪に目をくらまされることなく、
独裁僭主の生活やその他同様の境遇に落ちこんで多くの癒しがたい悪事をはたらいたり、
さらには自分自身がもっと大きな害悪を身に受けたりすることのないために、
しかり、できるかぎり現在のこの生涯においても、
またこれから来たるべきどの生涯においても、つねに中庸の生活を選び、
どちらかの方向に度を超えた生活を避けることを知るために……。
なぜならば、人間はそのようにしてこそ、最も幸せになれるのだから。
じじつまた、あの世からの報告者(エル)の伝えたところによれば、
そのとき先の神官は次のように言ったという。
『最後に選びにやって来る者でも、よく心して選ぶならば、
彼が真剣に努力して生きるかぎり、満足のできる、けっして悪くない生涯が残されている。
最初に選ぶ者も、おろそかに選んではならぬ。
最後に選ぶ者も、気を落としてはならぬ』
エルの話によると、神官がこのように言い終わるや、
第一番の籤を引き当てていた者は、ただちにすすみ出て、最大の独裁僭主の生涯を選んだ。
彼は選択にあたって、浅はかさと欲ふかさのために、
あらゆる事柄をじゅうぶんに考えてみなかったのである。
そこには自分の子供たちの肉を食らうことや、
その他数々の禍いが運命として含まれていることに、彼は気づかなかった。
しかし、時間をかけてよく調べたあとで、彼は胸を打って、自分の選択を嘆いた。
その際彼は、神官によってあらかじめ告げられてあったことを守らなかった。
彼は不幸の責を自分自身に帰することなく、運命を責め、ダイモーンを責め、
およそ自分以外のものならすべてに八つ当たりをしたからである。
この男は、天上の旅路を終えてやって来た者たちのひとりであった。
彼は前世において、よく秩序づけられた国制のなかで生涯を過したおかげで、
真の知を追求する(哲学する)ことなく、
ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。
概して言えば、これと同じようなしくじりにおちいった少なからざる者が、
天上からやって来た者たちであった。
彼らは、苦悩によって教えられることがなかったからである。
これに反して、地下からやってきた者の多くは、
自分自身もさんざん苦しんできたし、他人の苦しみも目〔ま〕の当たりに見てきたので、
けっしてあだやおろそかに選ぶようなことはしなかった。
このような事情により、ひとつにはまた籤運も手伝って、
多くの魂にとって善い生涯と悪い生涯とが入れ替わることになったのである。
しかしながら、もし人がこの世の生にやって来るたびごとに、
つねに誠心誠意知を愛し求め、
そして生の選択のための籤が最後のほうの順番にさえならなければ、
おそらくはこうしたあの世からの報告から考えて、
その人は、ただこの世において幸福になれるだけでなく、
さらにこの世からあの世へ赴くときも、ふたたびこの世に戻って来るときにも、
地下の険しい旅路ではなく、坦々としてなめらかな天上の旅路を行くことになるだろう。
まことに、エルの語ったところによれば、
どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは、
見ておくだけの値打のある光景であった。
それは、哀れみを覚えるような、そして笑い出したくなるような、
そして驚かされるような観物だったのである。
というのは、その選択はまずたいていの場合、前世における習慣によって左右されたからだ。
彼は見た、かつてオルペウスのものであった魂が、白鳥の生涯を選ぶのを。
オルペウスは、女たちに殺されたために女性族を憎み、その憎しみのあまり、
女の腹にはらまれて生まれる気になれなかったのである。
また彼は見た、タミュラスの魂が、夜鶯〔ようぐいす〕の生涯を選んだのを。
また、彼は見た、白鳥が人間に生まれかわるために人間の生涯を選び、
その他音楽的な動物も同じようにしたのを。
20番目の籤を引き当てた魂は、ライオンの生涯を選んだ。
これはかつてのテラモンの子アイアスの魂であり、
物の具についての判決を忘れることができず、人間として生まれることを嫌ったのである。
その次の順番を引き当てた魂は、アガメムノンの魂であった。
この魂もまた、自分が受けた災難ゆえに人間を忌み嫌って、かわりに鷲の生涯を選んだ。
まんなか辺の籤を引き当てたものにアタランテの魂があったが、
男子の競技者に与えられる大きな栄誉を目にして、
見すごすことができずに、それをつかんだ。
つづいてパノペウスの子エペイオスが、
技術に秀でた女へと、生まれ変わるのをエルは見た。
また遠くに、最後のほうの順番の者たちのなかにいた道化テルシテスの魂が、
猿に姿を変えるのが見えた。
たまたまオデュッセウスの魂は、みなのなかでいちばん最後の順番が当たり、
選ぶためにすすみ出たが、前世における数々の苦労が身にしみて、
もはや名を求める野心も涸れはてていたので、長いあいだ歩きまわっては、
厄介ごとのない一私人の生涯を探し求めた。
そしてやっとのことで、そういう生涯が他の者たちからかえりみられずに、
片隅に置かれてあったのを発見し、それを見るや、
かりに第一番の籤が当たっていたとしても自分は同じようにしただろうと言って、
よろこんでそれを選んだ。
同様にその他の動物たちも、動物から人間になるものもあり、
動物から他の動物になるものもあった。
不正な動物は凶暴な野獣となり、正しい動物はおとなしい家畜となるようにして、
そこにはありとあらゆる混合がなされた。
さて、ともかくこうしてすべての魂たちが生涯を選び終えると、
みなは籤の順番に整列してラケシスのもとに赴いた。
この女神は、これからの生涯を見守って選び取られた運命を成就させるために、
先にそれぞれが選んだダイモーンをそれぞれの者につけてやった。
ダイモーンはまず最初に、魂を女神クロトのところに導き、
その手が紡錘の輪をまわしている下へ連れて行って、
各人が籤引きのうえで選んだ運命を、この女神のもとであらためて確実なものとした。
そしてこのクロトの手に触れたのち、
今度はアトロポスの紡〔つむ〕ぎの席へ連れて行って、
運命の糸を、取り返しのきかぬ不変のものとした。
そこから魂は、うしろをふりむくことなく女神アナンケの王座の下へ連れて行かれた。
そしてそこを過ぎ、他の者たちもみなそこを通り過ぎると、
魂たちは全員が連れ立って旅路をすすみ、〈忘却(レーテー)の野〉へとやって来た。
それは、息のつまりそうな、おそろしい炎熱の道行きであった。
この野原には、およそ大地に生ずるものは、一木一草も生えていなかったのである。
すでに夕方になって、魂たちは
〈放念(アメレース)の河〉のほとりに宿営することになった。
この河の水は、どのような容器をもってしても汲み留めることができなかった。
すべての魂は、この水を決められた量だけ飲まなければならなかったが、
思慮によって自制することができない者たちは、決められた量よりもたくさん飲んだ。
それぞれの者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。
みなが寝に就〔つ〕いて、やがて真夜中になると、雷鳴がとどろき、大地が揺らいだ。
と、その場から突如としてそれぞれの者は、あたかも流星が飛んでいくように、
かなたこなたへと新たな誕生のために、上方高く運び去られて行った。
エル自身といえば、彼だけは先に河の水を飲むことを禁じられたのであるが、
ただ自分がどこを通り、どのようにして肉体の中へ帰ってきたかは、わからなかった。
しかし不意に、目を開いてみると、
明け方に自分が火葬のために薪の上に横たわっているのを見出したのたという。
このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。
もしわれわれがこの物語を信じるならば、
それはまた、われわれを救うことになるだろう。
そしてわれわれは、〈忘却の河〉をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう。
しかしまた、もしわれわれが、ぼくの言うところに従って、
魂は不死なるものであり、ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであると信じるならば、
われわれはつねに向上の道をはずれることなく、
あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。
そうすることによって、この世に留まっているあいだも、
また競技の勝利者が数々の贈物を集めてまわるように、
われわれが正義の褒賞を受け取るときが来てからも、
われわれは自分自身とも神々とも、親しい友であることができるだろう。
そしてこの世においても、われわれが物語ったかの千年の旅路においても、
われわれは幸せであることができるだろう」
(プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
この「エルの物語」によれば、人間は〈忘却の河〉の水を飲んだために、
前世のことも、自ら選んだ来世のことも忘れてしまったというのです。
同様に、我々は遅かれ早かれ、
あらゆる物寄せの手練手管、流行のスピリチュアルの類、
その他諸々の願望実現の方法などを捨ててしまうでしょう、
さような方法論は幻影を作り出すための幻影であり、
いわば影の影、影の影の影であって、まったく実体ではないからです。
どうして人は実体を見ずして影の影の影、二次的三次的手段に気を取られてしまうのか。
おそらくは、所持品や環境や条件で他人を判断することに慣れてしまったために、
自分自身も外的条件で値踏みされると考えてのことでしょうが、
それらの外的条件はぼろぼろと崩れ落ちて土に還ってしまって、
魂そのものが立ち現れる時が訪れることでしょう。
(本稿 終わり)
輪廻と浄土教 - 念佛寺
輪廻と浄土教」 ○評判の悪い輪廻説 迷えるかぎり「生あるものは生死を繰り返す」という 仏教の輪廻説は近年、評判が悪い。そのせいか、「輪廻説はバラモン教から混入した ものであって釈尊は輪廻を説かなかった」とか「輪廻説は人間の身分的差別を助長する 邪説であって、仏教には本来ない ... この問題で、桜部建氏は『輪廻について』の論考で 、初期仏教について「迷える者には輪廻があり、迷いを離れた者には輪廻はない、という のがその立場である」と論述されている。 .... 仏教、ヒンズー教、プラトン哲学などである。
輪廻
概要□「死者がこの世に何度も生まれ変わってくるという輪廻転生思想はインド、古代 エジプトや古代ギリシャなど、世界各地でみられる。インドにおいては、前世での行為が 現世での境遇を決定するという業(カルマ)思想や因果応報思想と結びつき、仏教では 六道輪廻の考え方とともに、生の暫定的な目標はより寄り転生、生の究極的な目標は 輪廻転生(生死の世界)そのものからの解脱にあるととらえられている。インドその他 東方宗教の伝統においては、究極的な真理=法(ダルマ)の認識こそが究極的な形で死 を克服 ...
プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトンの輪廻転生 ...
近代主義と反近代主義である。これを形成する支点である超越論的同一性構造から 脱却しないといけない。差異を不連続化して、超越性に達することである。そして、それが 即非差異へと熟するのを待つのである。そして、Media Pointの開示が生起する。これは 、いわば、器ではないだろうか。超越的差異を受ける器、受容器ではないだろうか。聖杯 のことではないだろうか。仏教で言えば、阿弥陀如来を受容する信心ではないだろうか。 あるいは、プラトンのコーラではないだろうか。魂を受ける容器である。
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