http://www.freeassociations.org/
偶像崇拝は、人間の発展のやや高い段階の特徴をなす。人間の最も低い種族のあいだにはその痕跡が見られない
ことについては、ラフィト (『アメリカ未開人の習俗』第一巻、一五一ページ) のなかで、正しくこう言われて
いる。「一般に、大多数の未開民族は偶像をもたないと言える」と。呪物と混同するな。呪物崇拝は、神的存在
にたいする攻撃であり、偶像崇拝はそれにたいする屈服の行為である(二二五ページ)。
補巻553頁より
以下ラボック原著(p284に該当箇所?)
The error of regarding
Idolatry as the general religion of low races has no doubt
mainly arisen from confusing the Idol and the Fetich.
Fetichism, however, is an attack on the Deity; Idolatry is
an act of submission to him-rude no doubt, but yet
humble. Hence, Fetichism and Idolatry are not only
different, but opposite, so that the one could not be developed
directly out of the other. We must therefore expect to
find between them, as indeed we do, a stage of religion
without either the one or the other.
ジョン・ラボックJohn Lubbock 1834~1913
初代エイヴベリー男爵ジョン・ラボック(John Lubbock, 1st Baron Avebury, 1834年4月30日 - 1913年5月28日 )第4代エイヴベリー準男爵、初代エイヴベリー男爵は、イギリスの銀行家、政治家、生物学者、考古学者。準男爵ジョン・ウィリアム・ラボックの息子。
ラボックはイートン校で1845年から教育を受けた。卒業後、父の銀行に勤め(後にその銀行はクーツ銀行に合併された)、22歳で共同経営者となった。1865年に父が死去すると準男爵位を相続した。1870年と1874年にメイドストーン選挙区から自由党の下院議員に当選した。1880年に議席を失ったが、1872年以来彼が副学長を務めていたロンドン大学の支持者が当選した。彼は1871年の銀行休日法や1882年の古代モニュメント法を含む多数の法律の制定に関わった。1886年に自由党がアイルランド統治法のために紛糾すると、分裂した自由統一党に参加した。
ラボックは1879年の銀行家協会(Institute of Bankers)の初代理事長となった。1881年にはイギリス学術協会の会長、1881年から1886年までロンドン・リンネ学会の会長を務めた。1883年に銀行員孤児院(the Bank Clerks Orphanage)を設立した。1986年にそれは銀行員と元銀行員、および彼らの家族のための慈善団体、銀行員慈善財団:Bankers Benevolent Fundとなった。1884年に、のちに選挙改革協会となる比例代表制協会を設立した。
1865年にラボックはおそらく19世紀にもっとも影響力を持った考古学のテキスト『前史時代:古代遺跡と、現代の未開人のマナーと習慣による描写(Pre-historic Times, as Illustrated by Ancient Remains, and the Manners and Customs of Modern Savages)』を執筆した。また石器時代を大きく二つにわけ、旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)という用語を提案した。ラボックはいくつかの分野でアマチュアの生物学者であり、膜翅目に関する本『アリ、ミツバチとスズメバチ:社会的膜翅目の習性の観察記録』(1884)を書いている。また昆虫の感覚器とその発達について、動物の知性について、他の自然史のいくつかの話題についても本を書いた。彼はトマス・ヘンリー・ハクスリーのXクラブの9人の会員の一人でもあった。
ラボックはチャールズ・ダーウィンと幅広く交流した。ラボックの生家はケント州ダウンにあり、広大な敷地の隣にはダーウィンの住まいがあった。彼らはラボックがチスルハーストにいた1861-1865年を除いて隣人同士だった。ラボックは幼い頃からダーウィンと親しく、科学的思考や自然の探求の方法を学んだ。有名なサンドウォークを産出する土地をダーウィンに最初は貸し、後に売った。1882年にダーウィンが死去するとXクラブのメンバーはウェストミンスター寺院に埋葬するために奔走したが、ラボックは国会と経済界に働きかけた。
ラボックはオックスフォード大学、ケンブリッジ大学(そこで1886年に特別講義を行った)、エジンバラ大学、ダブリン大学、ヴュルツブルク大学から名誉学位を授与された。1878年に大英博物館の理事に選ばれた。1888年から1892年までロンドン商工会議所の理事長、1889年から1890年までロンドン市議会の副議長、それから1892年まで議長を務めた。
1890年に彼は英国枢密院の委員に任命された[1]。1891年に新硬貨デザイン委員会の委員長を務めた。1900年1月に初代エイヴベリー男爵に叙され貴族となった。
ウィキメディア・コモンズには、ジョン・ラボックに関するカテゴリがあります。
カール・マルクスは晩年、モーガン『古代社会』やラボック『文明の起源』など古代史・人類学研究書の読書を通じて、人類史を総合的に再構築する道に分け入る。人類の社会構造と精神構造に関して、氏族組織、フェティシズムなどをキーワードにして探求する。本書の第I部において、マルクスによるド= ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』摘要を検証する。 第II部において、老マルクスによるフェティシズム概念のド=ブロス的再建過程を読む。
(フェティシュを思いちがいしてはならない。フェティシズムは神への攻撃である。)
はじめに(本書より)
唯物史観と剰余価値学説を確立する以前に、或いは共産主義者同盟や第一 インターナショナルの指導者として世界史に登場する以前に、若いマルクス がライン州でジャーナリストの体験をしたこと、これは周知の事実である。 また、そのジャーナリスト時代、すなわちケルンで『ライン新聞』の編集に 携わっていた期間(1842~43)に、マルクスが、その後における自己の思想 形成にとってたいへん重要な思想的・倫理的・理論的研鑚を積んだことも、 メーリングやルカーチの指摘をまつまでもなく、早くから明らかにされている。
だがそのような、いわば修業時代の青年マルクスの流動的な思想形成期の 只中に、時として『資本論』(第1巻、1867)を著わした頃のマルクスの、 『ゴータ綱領批判』(1875)期のマルクスの、煮詰められた思想的エッセンス を無意識に持ち込んでしまうケースが、まま見うけられる。この傾向は特に、若いマルクスが先行の社会主義者ないし残余の同時代思想家からすでにどれだけ秀でていたかという点や、後年の完成されたマルクス思想に特徴的 なことがらが若い頃にどの程度まで萌芽として垣間見られたかという点を調 査した研究に、往々際立っている。若いマルクスに対するそのような読み込 みは是が非でも慎まねばならないと自戒しながら、けっきょくのところ無意 識にその陥穽にはまってしまった例として、向坂逸郎の論考「『ライン新聞』 におけるマルクスの思想」(所収:『マルクス経済学の基本問題』岩波書店、1962)がある。「『ライン新聞』の時代に、マルクスの中にマルクシズムへの 発展の芽が、どのように存していたかである。注意深い読者には、『ライン新聞』の中にすでにこの発展の契機が、つかまれていることがわかる」。(同書、69-70頁)向坂は、若いがゆえのマルクス思想の意外な展開・振幅・多 様性でなく、賢いがゆえの一方向性を強調するという、かような発想のもとに、いま一つの論考「『物神性』の発見」をも執筆した。その中で向坂は、「この物神性の発見によって、『資本論』は不朽のものとなった」。(同書、99 頁)と綴っている。その際「この物神性の発見」は、なによりもまず『ライン新聞』時代にその発端がみられるとされているのである。
ところで、今回私が、マルクスの『フェティシズム・ノート』(1842春の摘要と推定される)を注解付きで邦訳・紹介しようと考える動機は、向坂の フェティシズム言及の動機と、表面的には、まるで違う。私は、『ライン新 聞』に係わる直前マルクスがシャルル=ド=ブロス(1709~77)の著作 『フェティシュ諸神の崇拝』(1760、2008年に法政大学出版局から杉本隆司訳が 刊行された)をピストリウスによる独訳本(1785)で読み、これを通じ、炎燃えさかるがごとき思いで描き出したフェティシズム的人間観が、その後い かに急走に失われてしまったかを、まず第一に問題としたいのである。また 第二には、若いマルクスがほんのいっとき握りしめたド=ブロス的・フェ ティシズム的人間観が、ずっと後の、最晩年の1882年秋に、持病で苦しみ つつジョン=ラボック著『文明の起原』(1870)を読書した老マルクスの脳 裏に不死鳥のごとく飛来したことを、最大重要視したいのである。 若いマルクスは、1842年10月25日付『ライン新聞』第298号において、 次の発言を放った。
「ごくひろい意味での封建制度は、精神的な動物の国であり、区分された 人類の世界である。この世界は、みずから区別する人類の世界に対立するも のであって、後者(みずから区別する人類の世界、すなわちフェティシズムの世 界)においてはたとえ不平等があるかにみえても、実はそれは平等がおりな す色模様にほかならない。未発達な封建制度の国やカースト制度の国(つま り区分された人類の世界)では、人間は文字どおりカーストに分割されており、偉大なる聖なるもの、すなわち聖なる人間の(des großen Heiligen, des heiligen Humanus)高貴な、自由に相互に交流し合う構成分子が、切りさか れ、たたき切られ、強制的に引き裂かれているところであるから、これらの 国ではまた動物崇拝、すなわち本来的な姿での動物崇拝が存在する。」 (MEW, Bd.1. S.115, 大月版『全集』第1巻、133-134頁、カッコ内は石塚、一部改訳)
ここでマルクスは、「カーストに分割され」た、「強制的に引き裂かれ」た 時代に特徴的な動物崇拝よりも以前に存在した、「偉大なる聖なるもの」「聖 なる人間」の時代に特徴的な或るひとつの精神運動を、語らずして語ってい る。これはヘーゲルにでなく、ド=ブロスその人に感化された若いマルクス の思想的炎のほとばしりである。それこそまさしく、彼が1842年7月10日 付、11月3日付論説で力説した「フェティシズム」なのだ。私は、『資本 論』に発展するフェティシズム理論─私のいうネガティヴ・フェティシズム ─でなく、『資本論』に行き着く過程ですっかり萎縮してしまう方のフェティシズム─私のいうポジティヴ・フェティシズム─を問い正したいがた め、今回『フェティシズム・ノート』を読むのである。
著者
目 次
1 若いマルクスのド=ブロス読書──聖なる人間の発見 2 経済学的フェティシズムの創始──転倒の世界としての宗教の夢幻境 3 老マルクスの先史研究──神を攻撃するフェティシズム再見
1 唯物史観の原始無理解 2 エンゲルス・クーノー・デュルケムの差異 3 原始労働を律するもの
著者略歴 石塚正英(いしづか まさひで)1949年、新潟県上越市(旧高田市)に生まれる。立正大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程満期退学、同研究科哲学専攻論文博士(文学)。1982年~、立正大学、専修大学、明治大学、中央大学、東京電機大学(専任)歴任。2008年~、NPO 法人頸城野郷土資料室(新潟県知事認証)理事長。
主要著作
〔論説〕学問論の構築へ向けて、立正大学学生新聞会編集『立正大学学生新聞』第229-231号、1970年(歴史知と学問論、社会評論社、2007年、所収)
〔著作〕叛徒と革命―ブランキ・ヴァイトリンク・ノート、長崎出版、1975年
〔著作・学位論文〕フェティシズムの思想圏―ド= ブロス・フォイエルバッハ・マルクス、世界書院、1991年
〔編著〕ヘーゲル左派──思想・運動・歴史、法政大学出版局、1992年
〔編著〕ヘーゲル左派と独仏思想界、御茶の水書房、1999年
〔著作集〕石塚正英著作選【社会思想史の窓】全6巻、社会評論社、2014-15年
〔著作〕革命職人ヴァイトリング―コミューンからアソシエーションへ、社会評論社、2016年
〔著作〕地域文化の沃土・頸城野往還、社会評論社、2018年
シャルル・ド・ブロス(Charles de Brosses, 1709年 - 1777年)は、フランス啓蒙主義時代の思想家、比較民族学者、ヒューマニスト。ブルゴーニュ高等法院長を務め、『百科全書』にも執筆している。
ブルゴーニュのディジョンに生まれ、21歳でブルゴーニュ高等法院の評定官に就いたド・ブロスは、好んで歴史・地理・言語およびラテン文学を含む古典の研究にいそしんだ。1739-40年にイタリアを旅行し、紀行文を書いたが、それは文芸・建築等における中世原理の軽視とヒューマニズムの礼賛で特徴づけられる。そして1746年から以下のような著作を執筆した。
博識と実証精神に富むド・ブロスは、1760年に匿名で『フェティシュ諸神の崇拝』を刊行し、その中で人類最古の信仰形態をフェティシズムと命名した(fetico=護符の意味)。この著作のドイツ語訳版は、のちにカール・マルクスの目に止まり、フェティシズムは彼の理論形成におけるキー概念の一つになる。しかしマルクスはド・ブロスの名を、公私を問わずいかなる文書にも、一生涯記さなかった。[疑問点 ]
ビュフォンやルソーと同時代のド・ブロスは、18世紀当時としては最新の研究方法であった比較宗教学の立場から、当時のアフリカ大陸やアメリカ大陸に残存する原初的信仰について研究した。そしてその土着信仰をフェティシズムと命名し、およそつぎのように特徴づけた。これは本来の宗教以前のもので、本来の宗教の出発点である偶像崇拝(Idolatrie) が存在するよりも古い。宗教でないフェティシズムと宗教の一形態である偶像崇拝との相違は決定的で、例えば前者においては崇拝者が自らの手で可視の神体すなわちフェティシュを自然物の中から選びとるが、後者においては神は不可視のものとして偶像の背後に潜む。つまり前者ではフェティシュそれ自体が端的に神であるのに対し、後者においてフェティシュはいわば神の代理か偶像かである。その背後か天上にはなにかいっそう高級な神霊が存在する。また、フェティシズムにおいてフェティシュは、信徒の要求に応えられなければ虐待されるか打ち棄てられるかするが、偶像崇拝において神霊は信徒に対し絶対者なのである。こうしてド・ブロスは、フェティシズムを宗教と明確に区別したのである。
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