六〇年代から現在まで
――柄谷さんは、一昨年『坂口安吾論』と『柄谷行人書評集』を刊行されていますが、書き下ろしの御著書は、二〇一六年の『憲法の無意識』以来三年振りとなります。第一部のⅠ「柳田国男論と私」において、執筆までの経緯を詳しく語られています。『遊動論』の時のインタビューの際も伺ったのですが(『読書人』二〇一四年二月二八日号)、批評家としてデビューし、かなり早い段階で、「柳田国男論」に取り組んでおられます。それとほぼ同時期に、「マルクスその可能性の中心」の連載もなさっています。本書「あとがき」にもあるように、最初期に向きあった問題が、今回、柄谷さんの中に「回帰」してきた。マルクスについては、常に頭の中にあったと思いますが、柳田国男は、いわば後景に退いていた、あるいは意識の底に沈んでいたといってよいかと思います。それが、二〇一一年以来「回帰」してきたのだと。柄谷さんが援用されるフロイトの言葉を借りれば、「抑圧されたものの回帰」のようなものだったのでしょうか。
柄谷
今世紀に入ってから、哲学・理論的なものに力点が置かれて、「文学」あるいは「日本」といった問題が視野の外にあったのは確かですね。それが二〇一一年に回帰してきた、といっていいと思います。
――『世界史の実験』は、四五年前に取り組まれた問題に加えて、『世界史の構造』における主要な論点を、合わせてテーマとしています。そのことに関して、やはり「あとがき」で、次のように語られています。「自分の意志をこえた何かが働いていると感じる」。執筆される時には、そうした感覚がいつも訪れるのでしょうか。あるいは、やはり今回は、特異なケースだったのですか。
柄谷
そうですね。どうも、柳田論となるとそういうことになるようです。私は二〇一〇年代になって、『世界史の構造』と『哲学の起源』を書きましたが、その次に、柳田国男について『遊動論』を書いた。柳田に関して書いたのは四〇年ぶりです。そして、それで片づいたと思っていました。そのあと、それの余滴のようなエッセイを雑誌に書きましたが、一冊の本として出版する気はなかった。以来、『世界史の構造』の続きとして、「力と交換様式」という問題に取り組んできました。それ以外の仕事はしていません。最初にいわれたように、近年刊行した本は、『坂口安吾論』や『書評集』にしても、大江さんとの共著(『大江健三郎 柄谷行人 全対話』)にしても、はるか前に発表したものをまとめただけです。
だから、今回の『世界史の実験』を出すにいたったのは、自分でも思いがけないことでした。思い起こせば、私は一九七三、四年ぐらいの時に、柳田国男について連載エッセイを書いた。その一方で、マルクスについても連載エッセイを書いていた。つまり、文学と社会科学や哲学、一見すると相反するように見えるものを、同時にやっていた。あるいは、日本のことと世界のことを、同時に考えていた。その後、次第に「文学」や「日本」から離れていったわけですが、それらが「回帰」してきたのではないか、と思います。
――同じテーマについて、くり返し論じる醍醐味、面白さについてお聞かせください。
柄谷
それを意識して考えたことはありません。前にやっていたことを、別の観点から見るようになったという程度のことです。私は大体、何かを書き終えたら、それを忘れることにしています。別に努力しなくても、忘れてしまいますけど(笑)。ただ、ある時、昔書いたものをふと思い出し、もう一度考えてみようという気になることがある。それは、巡り合せとしかいいようがありません。柳田についても、二〇一一年に東日本大震災があったあと、ふと『先祖の話』を読みかえしてみて、考えるようになった。それが『遊動論』を書くきっかけです。その辺りの経緯については、第一部の冒頭に、詳しく書いてあります。なぜ今、自分は柳田論をやっているのか、それと『世界史の構造』以来の仕事が、どこでどう繋がっているのか。人に説明するためというよりも、むしろ自分で確かめようと思ったのです。私は柳田とマルクスを、半世紀以上前から読んでいます。そんなに長くくり返し読んできた思想家は、他にはいません。柳田に関していうと、「日本」の問題を扱っているからといえますが、一つには「文学」にかかわるからです。柳田は「新体詩」の詩人でした。北村透谷、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋、……というような連中の間でも、中心人物だったのです。だから、柳田は私にとって、もともと文学の問題であった。今私は、狭義の文学批評からは遠く離れてしまったのですが、原点としての文学批評は今も残っています。
――確かに「プロローグ」を拝読すると、大学の学部生の頃からを振りかえり、一九六九年に評論家デビューし、それ以後の批評家としての足跡が語られています。ある意味で、〈柄谷行人入門〉的なかたちとして読むこともできます。近年の『世界史の構造』以後の読者、もしくは本書で柄谷さんの著作に初めて触れた人たちが、ここから過去の作品に遡って読むことができる。そのための読書案内になっています。《『世界史の実験』→『遊動論』→『日本近代文学の起源』→『柳田国男論』》というルートで、また一方では、《『世界史の実験』→『世界史の構造』→『トランスクリティーク』→『マルクスその可能性の中心』》と、逆に辿りながら読む楽しみもあります。
柄谷
今の読者は、昔の私の本をあまり読んでいないでしょうから、どういう順序でどんな仕事をしてきたのか、輪郭だけでもいっておこうと思いました。また自分自身も、ふりかえってみて、六〇年代からの問題・関心が現在まで繋がっていることを確認したのです。
一九三五年の柳田国男
――もう少し、本書を執筆するに至った経緯について伺いたいと思います。『遊動論』を書き終えたあと、まだ「物足りなさ」も感じていらした。それが、「ある本を読んで「閃き」を感じた」と吐露されています。
柄谷
ジャレド・ダイアモンドらが書いた『歴史は実験できるのか〔原題:Natural Experiments of History(歴史の自然実験)〕』ですね。ダイアモンドが「自然実験」と呼んでいるのは、つぎのような方法です。多くの面では似ているが、その一部が顕著に異なるような複数のシステムを比較することによって、そうした違いが及ぼす影響を分析する。実は、これは、柳田国男が「実験の史学」でいっていたことです。つまり、柳田は一九三五年の段階で、ダイアモンドらの「自然実験」と似たようなことを定式化していた。それが「実験の史学」なのです。
ダイアモンドの本は、以前から読んでいました。ただ、『銃・病原菌・鉄』や『文明崩壊』を読んだ時には、柳田と同じ方法に基づいているとは気がつかなかった。『歴史は実験できるのか』を昨年読み、そのことに初めて気がついたわけです。そうして、残念に思うのは、ダイアモンドの仕事を紹介したり推賞している人たちが柳田のことを何も知らない、ということです。他方、柳田に関する専門家も、柳田がやっていたことが「自然実験」であったことを知らない、ということです。
柳田は一九二一年に、国際連盟委任統治委員としてジュネーブに滞在しています。そこで太平洋の島々の委任統治の仕事に従事した。その仕事を通じて「島」というものについて考え、比較考察をもとに世界史を見直す方法を学んだ。それが「実験の史学」につながってくる。だから、それ以前の柳田、『遠野物語』や『山の人生』の柳田とは違うんですよ。「実験の史学」といった時、彼は世界史について考えていたのです。太平洋の島を考えることから、世界の歴史を見ている。日本列島も太平洋諸島の北端に位置しているのであって、世界史の文脈で考えていくことができる。
日本の国学者は、中国大陸の文化に対して日本という島の文化を考えようとした。しかし、柳田がいう「新国学」はそれとは違う。柳田は、日本列島を太平洋の島々の延長において見ようとした。その点で、パプア・ニューギニアから世界史を見ようとしたダイアモンドを先駆けるものです。柳田にとって、日本は「実験」に適した稀有な場所だった。このことは、日本中心主義とは無縁です。柳田は日本列島を歴史学的に宝庫であり、特権的な場所だとは考えたけれども、国学者のような思念はまったくなかった。
一般に、その点が誤解されています。たとえば、柳田は一九〇九年に郷土研究会を始めた。しかし、それは郷土主義と無縁です。彼は、ある郷土が特異であると考えるような「地方主義」を否定しました。「真の地方主義は事実を確かめること、そうして結局はどこにも飛び抜けて珍らしいことはないという結論に行くつもりでなくては駄目です」という。要するに、比較研究=実験が大事だということです。
郷土研究は、もっと広く、普遍的な人類の歴史を追究することでもあると、柳田は考えていたのです。彼が郷土研究会を開始したのは、台湾で知り合った新渡戸稲造と一緒に、です。さらに、新渡戸に頼まれて国際連盟で仕事をするようになった。したがって、柳田にとって、ジュネーブは別に郷土から離れることではなかったのです。またそれは、西洋に行くと同時に、「島」に行くことでした。国際連盟による、太平洋の諸島の委任統治という仕事ですから。
たとえば、「方言周圏論」というと、柳田が独自に考えだした理論だと考えられています。しかし、これは彼がジュネーブにいたとき、フランスの言語地理学から学んだ考えです。柳田も自分が考えた理論だとはいっていない。ある意味では、昔からいわれていることです。たとえば、宣長は『玉勝間』で、「ゐなかに古へのわざの残れる事」を論じています。これは地方の言葉や慣習に古い形態が残っているという意味です。ところが、宣長はそれを比較=実験するのではなく、もっぱら『古事記』という文献の研究に向かった。柳田が宣長を批判するのは、そこです。
第一次大戦後の世界
柄谷
たとえば、エマニュエル・トッドは、二〇一五年パリのシャルリ事件について論じた『シャルリとは誰か?』(文春新書)で、フランスには四種類の家族システムが残っていると主張したのですが、その際、彼は言語地理学における「周縁地域の保守性原理」という仮説にもとづいたと書いています。これは、かつて柳田国男が「方言周圏説」を唱えたときに依拠した、フランスの言語地理学の考えを回復するものです。だから、もしトッドやダイアモンドが新しいというのであれば、柳田も新しいといわなければならないはずです。
――今の話に関わりますが、柳田国男にとって、ジュネーブにおける経験は、様々な面で、とても大きな意味を持ったことを、本書では強調されています。
柄谷
ジュネーブ滞在が柳田にもたらした、もうひとつの変化があります。帰国後の柳田は、大正デモクラシーと呼ばれる運動の先頭に立ち、普通選挙実現に向けて、率先して活動するようになります。なぜ、彼がそのような運動に関わることになったのか。それは、第一次大戦後の世界的な状況に深く関係します。ヨーロッパでは、大戦で死んだ、戦闘員および民間人が約三七〇〇万人だといわれています。国際連盟が設立されたこと、また、社会主義革命の運動が起こったことは、その意味で、当然です。
それに比べて、日本は第一次大戦に参加したとはいえ、その被害は微少でした。だから、ヨーロッパで起こっていることが、日本人には実感できなかったと思う。柳田はジュネーブで、第一次大戦後の世界を経験しながら、日本との違いを痛感したのではないか、と思うのです。ところが、一九二三年関東大震災が起こった。その報を受けて、彼は国際連盟の仕事を途中で投げ出して、急遽帰国しました。たぶん、彼は震災で日本は変わると思ったのでしょう。死者は約一〇万ですが、地震が首都に起こったことが大きい。そのために日本人は、第一次大戦後のヨーロッパに起こったことを初めて実感できるようになったのでないか、と思います。
大戦後になされた世界史的な「実験」が二つあります。一つは国際連盟であり、もう一つはロシア革命ですが、その現実性が日本で感じられるようになったのは、震災後です。そこに急遽戻ってきた柳田が、何をしたか。ジュネーブでやっていたことを日本で実行したのです。たとえば、ブルジョア的民主主義を批判する「民本主義」を唱えた吉野作造とともに、「大正デモクラシー」を代表するような運動を担うようになった。大正デモクラシーというと、大正時代と思われますが、むしろその終わり頃、つまり、大正一二年の震災以後に生じたものです。
今にして思えば、日本史において稀に見る、実験的な時代でした。あの時代に、柳田国男は吉野作造に並ぶ人物であった。吉野は東京帝大法学部教授で、彼の指導の下でできた「新人会」から、マルクス主義者が輩出したのです。この時期、柳田と吉野は共に朝日新聞の論説委員であり、また、エスペランティストでもあった。彼らは普通選挙の運動だけでなく、エスペラントを普及する運動も一緒にやっていた。この時期、柳田はもはや詩人ではないが、官僚でもなく、活動家だったのです。それを見ると、柳田はとても『遠野物語』に代表されるような人ではない。しかし、今はそれしか読まれていない。これでは、柳田国男の姿は見えてきません。
――柳田国男は、柄谷さんがおっしゃった二つの「世界史的な実験」(=国際連盟とロシア革命)を、自らかなり意識して行動していたのでしょうか。
柄谷
意識してやっていたと思います。だけど、周りの人には通じないと思っていたでしょう。実際、柳田の考えが理解されることはなかった。
「原遊動性U」
――『坂口安吾論』についてインタビューさせていただいた時、天皇制や歴史、無頼ということについて、「安吾から学んだ」とおっしゃっていました。柳田国男からは、何を学んだとお考えでしょうか。
柄谷
柳田から積極的に学んだということはないですね。気がついたら、柳田と同じようなことを考えていた、といった発見があったのです。それは、特に第二部「山人から見る世界史」で詳しく書いた論点です。柳田は、一貫して「山人」について考えていた。私は交換様式が成立する以前にある「原遊動性」(U)について考えたのですが、柳田がいう「山人」はそれではないか、と思った。つまり、柳田から学んだというより、むしろ柳田を発見したという感じです。
――「原遊動性」に関して、もう少し詳しくお聞かせください。
柄谷
元々人類は狩猟採集の遊動民でした。この「原遊動性U」は、人が定住することによって失われます。しかし完全に消えてしまうわけではない。必ず別のかたちで回帰してくる。交換様式A(贈与と返礼)、つまり何かを贈与し、それに対してお返しをする、互酬原理に基づく社会が形成される。そこではマルセル・モースがいったように、霊的な力が働いている。フェティッシュ(物神)といってもいい。
もちろん、それを「霊」と呼ばなくてもよいのです。フロイト的にいえば、それは「死の欲動」から来る、反復強迫的な衝動です。これについては、この本の第二部で論じています。しかし、「死の欲動」とか「超自我」とかいっても、物理的な実在ではありません。そこに働く力は、観念的な力、つまり、霊的な力と同じようなものです。
交換様式Aの後に、別のタイプの交換、つまり、交換様式B(支配と保護)とC(貨幣と商品)が成立します。簡単にいうと、Bは国家を、Cは資本を支える交換様式です。しかし、いずれも、Aに存する「力」の変形であるような力にもとづいています。つまり、Aが霊によるのだとしたら、BやCは、高次元の霊によるわけです。交換様式Cに基づく資本制社会でも、「霊」は残りつづけます。今、多くの人が、市場経済は物質的で合理的に動いていると考えているでしょうが、それは物神崇拝の極致というべきものです。
ついでにいうと、社会構成体は、A・B・Cの三つの交換様式の接合体としてあります。ただ、そのどれが支配的であるかによって、違ってくるのです。近代社会では、Cが支配的ですが、AもBも残る。そして、資本=ネーション=国家が形成されます。つぎに、A・B・Cを揚棄するものとして、Dがあります。これは歴史的には、古代に帝国が形成された時点で、東西アジアで、普遍宗教としてあらわれた。つまり、A・B・Cがそれぞれ霊によるものだとしたら、Dは最高次元の霊、いわば「神の力」としてあらわれたといってもよい。しかし、それはUの回帰なのです。
霊とか神とかいうと、宗教の問題だと思う人がいるかも知れません。しかし、この場合、重要なのは交換様式であって、それが宗教であるか否かは関係がありません。たとえば、世界宗教だからといって、Dであるわけではない。Dの要素はあっても、実際には、A、B、Cの面が強い。つまり、それは共同体、国家を支えるものであり、また、金をもうける手段でもある。一方、宗教を否定する立場であっても、Dがありうる。マルクスがいう共産主義は、そういうものです。
こういう交換様式の視点は、宗教の問題を考えるときに、重要です。たとえば、柳田は固有信仰を重視した。それは先祖信仰です。しかし、それは、普通の先祖信仰とは違う。たとえば、生きている者が先祖を祀り供養すると、祖霊が子孫を護るというのが、普通の先祖信仰です。それは贈与とお返しという互酬交換、つまり、交換様式Aです。ところが、柳田がいう固有信仰では、子孫がどうであろうと、祖霊・氏神のほうが子孫を愛し、面倒を見ようとするのです。それは交換様式Dと同じです。
一般に、先祖信仰は宗教の初期的段階だと考えられています。実際、その通りなのですが、柳田がいう固有信仰はDなのです。一方、世界宗教といわれるような宗教も、実際には、Aであり、Bであり、またCでもある。つまり、宗教によって、共同体を維持し、権力を支え、また、金を得る。だから、先祖信仰だからといって、未開的なものだということはできない。宗教の場合、それがどんな教義によっているかではなく、実際に何をしているかが重要なのです。
戦争と地震、『先祖の話』
――話題を変えます。柳田国男の著作を、学生の頃に読まれたといわれました。それが「柳田国男試論」に繋がっていく。その後、『遊動論』を執筆される際、柳田全集を全巻再読され、アンソロジー『「小さきもの」の思想』を編まれることになります。三〇代の時に読んだ柳田と、歳月を経た後に読まれた柳田では、印象の違いは?
柄谷
それほどありませんね。ただ、今度の本では、以前には書くのを避けていたことを幾つか書きました。たとえば「祖霊」についてです。私が大学生の頃、柳田を読んで一番気になったのは、霊のことでした。私の叔父は第二次大戦の際、学徒動員で、ルソン島で戦死したんですよ。私は覚えていないのですが、寝室に彼の写真が飾ってあったので、それを見ながら育ったのです。柳田の『先祖の話』を読んで考えたのは、叔父の霊はどこに行ったのか、ということです。変な話ですが。柳田によれば、霊は死後裏山に行って、子孫を見守る。しかし、外地で死ねば行くところがない。海外で戦死した者の霊が、靖国神社になんて行くはずがない。あれは国家神道にもとづく空虚な場所であり、死んだ若者の霊が行くわけがない。では、どうするのか。柳田は『先祖の話』で、そのことを真剣に考えていました。それで、死んだ若者たちの養子になり、彼らを先祖にしてあげようということを提唱したのです。
私がつぎに『先祖の話』を読み返したのは、父親が六甲山の麓の病院で死んだ時です。これが「裏山」かと思った。その次は、阪神淡路大震災(一九九五年)の時です。そして、その次が、東北大震災(二〇一一年)のあと。こうやって見ると、私の場合、戦争、地震、柳田の『先祖の話』の三つがつながっていることがわかります。だから、先ほどいったように、地震のあと柳田のことを考えたのは、偶然ではなく、一種の反復強迫なのではないかという気がします。
「実験の文学批評」
――次に、第一部のⅡ「実験の文学批評」についてお伺いします。柳田国男と島崎藤村を比較して論じることにより、柳田の「実験の史学」を、より鮮明なかたちで浮かび上がらせていきます。ふたりにはいくつもの共通点があります。たとえば、「父親がいずれも平田派神道・国学を熱烈に追求し、神官にまでなったということ」。その父親との関係はどのようなものだったのか、比較考証し、さらに思考を広げていく。ここが本書の核となる論点の一つです。
柄谷
柳田と藤村が似た経験をしているというのは、前から知っていました。ただ、「実験」という観点から考えていくと、また違って見えてくる。『図書』の連載の時は類似にだけ着目し、それを比較することに意味があるとは、考えていませんでした。しかし、比較することにこそ意味がある。それがまさに柳田がいう「実験」である。たとえば、柳田自身は最初「比較研究」という言葉を使っていました。それを「実験」と呼んだ途端に、趣きが大分変ってきます。柳田と藤村を単に比較するのではなく、「実験」するといえば、そこから何かが出てきそうな予感がするでしょう。私は連載した柳田論を本にする話を断わりました。本にはならないと思ったから。これを一冊の本として出版する気になったのは、柳田がいう「実験」ができると思ったからです。柳田国男と島崎藤村の比較によって、それまで見えなかったことが見えてくる。私はそれを「実験の文学批評」と呼んでみました。とにかく、こんな文学批評はこれまでなかったんじゃないかと思いますよ。
――藤村に関しては、以前から論じようという思いはあったのでしょうか。
柄谷
もともと文芸批評家だからね(笑)。長くやってきたから、いろいろ考えたことはあります。それと、アメリカで日本文学を教えていたことも大きいですね。たとえば、『世界史の構造』を英訳してくれたマイケル・ボーダッシュ(シカゴ大学教授)は、私が一九九〇年代初めにコーネル大学で教えた時、島崎藤村について博士論文を書いていたんですよ。彼からの相談に答える必要があって、藤村について勉強したことがあります。その後、ボーダッシュは『夜明け前』に関して、『The dawn that never comes(夜明けは決して来ない)』という本を出版した。これは日本語で訳出すべき好著ですね。――『図書』の連載を、当初本にするつもりはなかったといわれました。今日最初に話題となった「マルクスその可能性の中心」も、連載から単行本化に至るまで、四年以上の時間をかけて改稿されています。一冊の本としてまとめるにあたっては、また違った要素が必要とされるということなのでしょうか。
柄谷
連載中は、とりあえず書いてみる、という感じですからね。それを一冊にまとめる時は、一からやり直すことになります。また、途中で、当初考えてもいなかったような考えが出てくることがある。たとえば、一九九三年ごろ、『探究Ⅲ』を連載し始めたのですが、九八年ごろに中断した。今もはっきり覚えていますけど、その頃、尼崎行きのバスに乗ろうとした時、交換様式というアイデアが、突然浮かんだのです。そして、バスから降りたときには、全部できていた。しかし、その途端に、それまで連載してきたものを本としてまとめることができなくなった。その結果、全面的に書き直して『トランスクリティーク』と題する、別の本を作ったのです。この本は今から見れば、交換様式について、まだ初期的な書き方をしていますが、以後は、それにもとづいて考えを練り上げた。それが『世界史の構造』です。そこからふりかえると、柳田国男も、以前と違って見えてきたといえます。つまり、柳田の仕事を、交換様式の観点から見直すと、腑に落ちる面が多い。また逆に、柳田を参照することによって、『世界史の構造』で論じた問題に関して理解できるようになったことも多かった。「山人」ということも、これまでとは違った観点から考えられるようになった。また、武士が狩猟=農民であるという柳田の考えも納得できた。
交換様式の四種の形態
――『世界史の実験』を拝読していて、もうひとつ興味深かったのが、『憲法の無意識』との繋がりです。柳田国男が、敗戦間際に「いよいよはたらかねばならぬ世になりぬ」と記していたこと、また戦後間もなく、「新たな社会組織が考え出されなければならぬ」と発言したことに、柄谷さんは着目されています。そして、枢密院顧問として新憲法制定の審議に加わっていたことを踏まえて、「九条」のような平和憲法を考えていたのではないかと、推理する。非常にスリリングな展開で、まさに批評の持つ可能性を存分に味わうことができます。
柄谷
一九二八年に、パリ不戦条約が締結されました。この条約は国際連盟に関与した人たちによって考えられたものですから、同じ精神に基づいている。柳田は当然、不戦条約についても熟知していた。一方、同じ年、日本では、三・一五事件が起こり、共産党員への弾圧が強まる。その五年後には、共産党幹部であった佐野学、鍋山貞親らが転向の声明を出し、戦前の日本の共産党は、事実上終わる。またこの年、日本は国際連盟を脱退します。満洲事変に端を発して、戦争へと向かう体制が整えられていくことになるわけです。柳田がジュネーブ滞在以来考えていた道筋とは、正反対に進んでいくことになった。そのような状況の下で、柳田は何もいわなくなったんだろうと思います。しかし、柳田は決して諦めることはなかった。だから、戦争末期に、彼は「新たな社会組織」ということをいいはじめたのでしょう。柳田のその気持はわかるような気がする。私は今世紀のはじめごろ、NAM(新アソシエーショニスト運動)という運動をやっていました。二年で解散しましたけど、別にあきらめていない。もう一度やろうと思っていますよ。
九条を推進したのは誰か
――第二部の後半で論じられる「双系制」についてお伺いします。『遊動論』でも取り上げられていたトピックですが、エマニュエル・トッドの『家族システムの起源』を踏まえて、かなり推し進めた論を展開されています。
柄谷
エマニュエル・トッドは、人類の最初の家族形態は、一夫一婦で、父系的でも母系的でもなく、「双方的」だったといっている。そして単系制は父系からはじまり、それに対抗して母系制が生まれたと、トッドはいう。この考えはまだ、一般化していないと思いますが、私から見ると、この点でも、柳田は先行者であったと思います。むろん、柳田は双系制が先行したといっているわけではありません。彼は最初「聟入考」で、「嫁入婚より前に聟入婚があった」といった。だから、高群逸枝は、柳田が母系制論者だと思いこんだけれども、柳田は母系制が最初にあったという考えには賛同しなかった。つまり、母系でも父系でもない状態があったと考えていたのです。ただ、それを双系的と名づけるところまでいかなかった。しかし、柳田は母系制の先行を否定したことで非難されたのです。一九七〇年代には高群逸枝を称賛する村上和彦という学者に「史学を無視する独断」として、罵倒されていたんですよ。『高群逸枝と柳田国男』(大和書房)という本は、たしか毎日出版文化賞をもらったから、それが当時の標準的な見方ではないですか。――『遊動論』を拝読した時にも感じたことですが、本書を通して、これまでに見たことがなかった柳田国男の新たな姿が浮かびあがってきます。
柄谷
くりかえしになりますが、柳田は、社会を変えるという意味での「実験」の可能性を諦めていなかった。柳田の戦前の支持者も、戦後の支持者も考えていないのは、そのことです。戦争末期に、彼は《今度という今度は十分に確実な、またしても反動の犠牲となってしまわぬような、新たな社会組織が考え出されなければならぬ》と書いています。この「社会組織」とは何か。いろいろありますが、何といっても、それは「憲法」ということに尽きるのです。柳田は戦後すぐに、枢密院顧問として新憲法制定の審議に加わった。その審議の記録はないのですが、憲法九条を推進したのは、柳田なのではないか、と私は思います。彼は敗戦の四日前に、「いよいよはたらかねばならぬ世になりぬ」(『炭焼日記』)と書いていた。その場合、具体的に何をするのか、わかっていたと思います。先にいったように、憲法九条はパリ不戦条約から来るものです。ジュネーブの国際連盟本部にいた柳田には、その辺のことがよくわかっていたはずです。
――最後に一点。今後のことをおうかがいします。最初に、過去の文章は振り返らないとおっしゃっていたんですが、二〇一五年の講演で、次のようなことを述べられています。「私は今、過去の仕事を再検討することを考えています〔中略〕三〇年前に未完に終った「言語・数・貨幣」をこれから完成することも、考えています」(『柄谷行人講演集成1995―2015 思想的地震』)。この言葉を踏まえて、これからのお仕事に関してお聞かせいただけますか。 柄谷
今考えているのは、「力と交換様式」についてです。単なる物理的な力ではない。交換様式からくる観念的な力です。先ほどいったように、A・B・C・Dの交換様式によって、それぞれ力のあり方も違ってくる。その意味で、交換様式の問題を、力という観点から考え直す。そうすると「交換様式D」もはっきり見えてくると思います。「言語・数・貨幣」についても、そこからあらためて考えることができるのではないか、と思っています。(おわり)
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