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木曜日, 3月 07, 2019

マグナ・カルタ 1215


  (リンク::::::::::) 
NAMs出版プロジェクト: 『憲法の無意識』柄谷行人 201604 岩波新書
http://nam-students.blogspot.jp/2016/03/201604.html


Horrible Histories | Epic Magna Carta Rap Battle | CBBC
https://youtu.be/F_5My8XH-n0





マグナカルタとは - コトバンク

kotobank.jp/word/マグナカルタ-633707
デジタル大辞泉 - マグナカルタの用語解説 - 1215年、イングランド王ジョンが封建貴族たちに強制されて承認、調印した文書。



マグナ・カルタ - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/マグナ・カルタ
マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(羅: Magna Carta、羅: Magna Carta Libertatum、英: the Great Charter of the ...



大憲章/マグナ=カルタ - 世界史の窓

www.y-history.net/appendix/wh0603_2-007.html
マグナ=カルタ(Magna Carta)。1215年、イギリス・プランタジネット朝の国王ジョンに対し、封建諸侯と都市代表が共同して認め ...



マグナ・カルタ(大憲章)とは何なのかわかりやすく解説

ganbarustars.info/twdict/archives/363
マグナ・カルタ(大憲章)をわかりやすく言うと、世界で初めて国王に制限を加えた憲章のこと。憲章とは、「極めて重要で根本的な ...

マグナ・カルタ - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/マグナ・カルタ
マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(羅: Magna Carta、羅: Magna ... これにより、イングランドにおいて法の支配が確認されることになった。マグナ・カルタは教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされ ...
マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(Magna CartaMagna Carta Libertatumthe Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]

1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

概要編集

ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョン王は、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発する。彼らは徴兵に応じるどころか、ジョン王に対し、それぞれ抱えていた不満を救済するよう強く求めた。 1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でラニーミードにおいて制定されたのがマグナ・カルタである。これにより、イングランドにおいて法の支配が確認されることになった。マグナ・カルタは教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後、数度改正されている(英語版を参照されたい)。 1225年に作られたヘンリー3世のマグナ・カルタの一部は、現在でもイギリスにおいて憲法を構成する法典の一つとして効力を有する。
マグナ・カルタの理念は、国王と議会が対立した17世紀に再度注目されるようになり、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。また、清教徒革命アメリカ独立戦争の根拠ともなった。2009年、マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録された。

未知の憲章編集

1204年、ジョン王フランスフィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年、ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、同年7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教John de Gray)は彼らに対話で解決するよう働きかけたが同年10月18日に死んだ。貴族側は、さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties)の写しを要求の出発点とした。「未知の憲章(The Unknown Charter)」が作成され、年内から交渉に用いられた。この12項目からなる「未知の憲章」は、19世紀末にジョン・ホラース・ラウンド(J. Horace Round)により再発見され[2]、現在大英図書館に所蔵されている。貴族らは雑多ながらも具体的な要求を掲げた。デュー・プロセスの保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、ヘンリー2世の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。
いかなる人も御料林に関して生命を奪われてはならないし、手足を切断されてはならない。

貴族条項編集

1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日ノーサンプトンで、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は教皇庁に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。5月5日ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。一週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日ロンドン市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter)を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の慣習を調査することを規定したにとどまった。

バロン戦争へ編集

経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。三ヶ月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、三ヶ月すぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは十州で自分たちの州長官を任命した。
教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスルイ王太子に王位を提供しようとした。
1216年10月、ジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章(Charter of the Forest)が公布された。
ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。

マグナ・カルタの構成編集

前文と、63ヶ条から構成される。原文はラテン語が用いられている。写しが大量に書かれたため[3]、各地に残っているが、イングランド内に現存するオリジナルの文書は4通である。特に重要な5項目を挙げておく。
  • 教会は国王から自由であると述べた第1条
  • 王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金軍役代納金を集めることができないと定めた第12条[4]
  • ロンドンほかの自由市交易の自由を持ち、関税を自ら決められるとした第13条
  • 国王が議会を召集しなければならない場合を定めた第14条
  • 自由なイングランドのは国法か裁判によらなければ自由や生命財産をおかされないとした第38条
イギリスの現行法令集w:Halsbury's Statutesに載っている条文は、1225年のヘンリー3世の時代に作られた新しいマグナ・カルタを、1297年にエドワード1世が確認したものである。前文と4か条が廃止されずに残っている。
  • 前文 国王エドワードによるマグナ・カルタの確認
  • 第1条 教会の自由
  • 第9条(1215年の原マグナ・カルタの13条に相当) ロンドン市等の都市・港の自由
  • 第29条(原39条および40条) 国法によらなければ逮捕・拘禁されたり、財産を奪われない(デュー・プロセス、適正手続)
  • 第37条(1225年のマグナ・カルタの37条および38条に相当) 盾金、自由と慣習の確認、聖職者および貴族の署名

脚注編集

  1. ^ 意訳。「イングランドに身柄のある敵国の商人は、原則として身体の自由と財産権をなんら損なうことなく留め置かれる。ただし、王か王室裁判所の所長が、敵国に身柄のあるイングランド商人がどのような待遇を受けているか知った後は、イングランド内の敵国商人は互恵主義に基づいて扱われる」 Constitution SocietyThe Magna Carta (The Great Charter), 1215, Article. 41.
  2. ^ John W. Baldwin, "Master Stephen Langton, Future Archbishop of Canterbury: The Paris Schools and Magna Carta", The English Historical Review, Volume CXXIII, Issue 503, 1 August 2008, Pages 811–846, saying, "As a postscript to Stephen Langton's role in Magna Carta, some detective work is required to account for the Unknown Charter at Paris. Initially found in the French archives by an English Royal Commission early in the nineteenth century, it lay buried in their unpublished reports. The French archivist Alexandre Teulet had edited it in 1863 in his comprehensive Layettes du Trésor des Chartes (vol. I, nos. 34 and 1053), but it was John Horace Round who ‘discovered' it thirty years later in 1893 as he was examining the reports of the Royal Commission in London."
  3. ^ マグナ・カルタ写本4点を初の同時展示、発布800周年で - ロイター(2015年 02月 3日 15:22 JST版 2015年2月3日閲覧)
  4. ^ F・W・メイトランド 『イングランド憲法史』 創文社、1981年、P.87。

参考文献編集

  • エドマンド・キング著 古武憲司 ほか2名訳 『中世のイギリス』 慶應義塾大学出版 2006年 141-148頁

関連項目編集






法の支配 - Wikipedia

ja.wikipedia.org/wiki/法の支配
法の支配(ほうのしはい、英語: rule of law)は、専断的な国家権力の支配を .... は、 中世以後徐々にコモン・ロー体系が確立していったイギリスにおいてマグナ・カルタ以来の法の歴史を踏まえ、中世的な「法の優位」の ...
法の支配(ほうのしはい、英語rule of law)は、専断的な国家権力の支配を排し、権力をで拘束するという英米法系の基本的原理である。法治主義とは異なる概念である。
「法の支配」とは、統治される物だけでなく統治する側もまた、より高次の法によって拘束されなければならないという考え方である[1]大陸法的な法治主義とは異なり、法の支配では法律をもってしても犯しえない権利があり、これを自然法憲法などが規定していると考える[1]
  • 法の支配における「法」[注釈 1]とは、全法秩序のうち、「根本法」ないし「基本法」のことを指す[2]
  • 法の支配は、歴史的には、中世イギリスの「法の優位」の思想から生まれた英米法系の基本原理である[3]
  • 法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義民主主義とも密接に結びついている[3]
  • 法の支配は、極めて歴史的な概念で、時代や国、論者により異なる様相を呈する多義的な概念である点に留意が必要である[3]

歴史編集

古代編集

「法の支配」の原型は、古代ギリシアプラトン[4]アリストテレスの思想[注釈 2]を経て発展したローマ法ヘレニズム法学に求める見解や[5]古き良き法に由来する中世のゲルマン法に求める見解もあり、一定しない。
市民の誰が支配するよりも、同一の原則である法が支配する方が適切だ。仮に特定の人々に最高権力を置く利点がある場合には、彼らは法の守護者および執行者としてのみ任命されるべきである。— 政治学アリストテレス3.16
我々が自由であるために、我々は皆、法の奴隷でなければならない。(ラテン語Omnes legum servi sumus ut liberi esse possumus)— キケロ[6]

中世編集

「法の支配」が、明確な形としてあらわれたのが中世のイギリスにおいてであることには、ほぼ異論がない[7]
ヘンリー・ブラクトンの「王は人の下にあってはならない。しかし、国王といえども神と法の下にある」という法諺が引用されるように少なくとも中世のイギリスに「法の優位」(Supremacy of Law) の思想は存在していたとされる[8]。中世のイギリスでは、国王さえ服従すべき高次の法(higher law)があると考えられ、これは「根本法」ないし「基本法」(Fundamental Law)と呼ばれ、この観念が近代立憲主義へと引きつがれるのである[2]。そのため、法の支配は、立憲主義に基づく原理とされている[3]
当時はボローニャ大学で、ローマ法の研究が進み、1240年ローマ法大全の『標準注釈』が編纂されると、 西欧諸国から留学生が集まるようになり、英国にもオクスフォード大学ケンブリッジ大学が相次いで設立されるなどしてローマ法の理論が研究され、一部持ち込まれたという時代であるが、既に英国全土の共通法ともいえるコモン・ローの発展を見ていた英国では、大陸において発展した「一般法」(ユス・コムーネ、jus commune)を取り込む必要は乏しかった。そのため、後にローマ法に由来する主権の概念とコモン・ローとの緊張関係が問題となったが、英国では、「法の主権」の概念の下、「法の優位」が説かれたことがあった。しかし、その思想は、封建領主と領民との間の封建的身分が前提とされた関係理論に基づいていたのであって、マグナ・カルタにおいては、バロンの有する中世的特権の保護するために援用されたのである。また、その思想は、被治者の権利・自由の保護を目的としていたわけではなく、道徳・古来の慣習法と密接に結びついた当時のキリスト教的な自然法論と親和性のあるものであったのである[2]
以上に対し、被治者の権利・自由の保障を目的とする近代的な意味での「法の支配」は、中世以後徐々にコモン・ロー体系が確立していったイギリスにおいてマグナ・カルタ以来の法の歴史を踏まえ、中世的な「法の優位」の思想を確認する形で、16世紀から17世紀にかけて、法曹によって発展させられた[2]
1606年エドワード・コーク卿は、王権神授説によって「国王主権」を主張する時の国王ジェームズ1世に対し、ブラクトンの法諺を引用した上で、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないので、王の判断が法律家の判断に優先することはない。」と諫めたとされる[9][注釈 3]。ここでは、コモン・ロー裁判所裁判官の専門的法判断の王権に対する優位が説かれており、中世的特権の保護から、市民的自由の保護への足がかりが得られるきっかけを作られたといえる[10]
1610年、コークによる医師ボナム事件の判決は、コモン・ローに反する制定法は無効と判示し、司法権の優位の思想を導くきっかけを作ったとされる[11]
1610年、トマス・ヘドリィ(Thomas Hedley)の庶民院における長大な演説によってノルマン征服以前の古き国制(ancient constitution)の伝統を理由にコモン・ローの本質が明らかにされ、以後、議会ではヘドリィによって定式化されたコモンローの優位が繰り返し説かれることになった[注釈 4]。ここでは、「庶民」(commoner)[注釈 5]が議会に政治的参加をすることによって制定される法律の王権に対する優位が説かれており、民主主義と法の支配が密接に結びつくきっかけが作られたのである。そのため、法の支配は、民主主義とも密接に関連する原理とされている[3]
1688年メアリーとその夫でオランダ統領ウィリアム3世(ウィレム3世)をイングランド王位に即位させた名誉革命が起こると、これを受けて1701年王位継承法で裁判官の身分保障が規定されることによって法の支配は現実の制度として確立したのである[12]

アメリカ合衆国における法の支配編集

1787年アレグサンダー・ハミルトンらによって成文憲法として起草されたのがアメリカ合衆国憲法であるが、これは「法の支配」を成文憲法によって実現しようとするものであった。合衆国は、イギリスが立憲君主制をとるのと異なり、共和制を採用し、執政体としては、君主に代わり大統領選挙によって選出するものとした上で間接民主制をとって立憲主義を採用したのである。ここでいう共和制とは、人民主権の下、選出された代表者が権力を行使する政体のことである[13]
1803年マーベリー対マディソン事件をきっかけに米国で発祥した違憲立法審査権は、コークの医師ボナム事件の判決にヒントを得て、「法の支配」から発想された憲法原理の一つである。

解説編集

法の支配における法(Law)とは、不文法であるコモン・ローおよび国会が制定する個々の法律(a law、laws)を含めた全法秩序のうち、基本法(Fundamental laws)のことを指す。基本法は、形式的意義の憲法(憲法典)と区別する意味で、実質的意義の憲法と呼ばれている[注釈 6]アメリカ合衆国日本では、成文憲法典を制定されているので、基本法は原則として憲法典のことを指すが、それに限定されるわけではない[注釈 7]
法の支配は、国会が権限を濫用して被治者の自由ないし権利を侵害することがあり得ることを前提とするものであって、権力に対し懐疑的で、立憲主義権力分立と密接に結び付いている。ただし、どのように権力を分離するのかはその国の歴史によって異なり、合衆国のように厳格に三権に分立するというものでは必ずしもなく、イギリスのように議会と裁判所を明確に分離しないというような国もある。詳細は英国法#英国法の歴史を参照。
法の支配は、名誉革命によって近代的憲法原理として確立したものであり、上掲のヘドリィの庶民院での演説によって明らかにされているように民主主義とも密接に結びついている。ただし、イギリスのように立憲君主制とも、合衆国のように共和制とも結びつき得るものであり、その国の歴史によって異なる多義的な概念である。ここでいう共和制とは、人民主権の下、選出された代表者が権力を行使する政体のことである[13]
その目的は、人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の「権利ないし自由」を保障することである。イギリスには権利章典というものが存在しない[要出典]ので、そこでの法の支配は権利ではなく、市民的自由を保障することを目的としていると長く解されてきたが、1998年人権法が制定されてからは、伝統的な解釈に変化がみられる[14]。 法の支配は、戦後現代的変容を余儀なくされており、その多義性ゆえ議論は錯綜を極めている。

ダイシーと法の支配編集

法の支配を理論化したのは、ダイシーの『憲法序説』であり、以後国会主権(Parliamentary Sovereignty)と法の支配がイギリス憲法の二大原理とされるようになった[15]
ダイシーによれば、法の支配は以下の三つの内容をもつものとされる。
  1. 専断的権力の支配を排した、基本法の支配(人の支配の否定)
  2. すべての人が法律と通常の裁判所に服すること(法の前の平等、特別裁判所の禁止)
  3. 具体的な紛争についての裁判所の判決の結果の集積が基本法の一般原則となること。(具体的権利性)
ただし、ダイシー流の法の支配に対しては、ダイシー自身の政治思想や当時のイギリスの政治状況、例えば、コレクティビズム(集産主義)という概念を作り出し批判するのは、自身の政治信条であるホイッグを擁護する点にあるのではないか、フランスでは行政行為に司法審査が及ばないと誤解したことに端を発する行政法に対する不寛容、法の支配の第3番目の内容は国会主権を否定するに等しいなどジェニングズ(W.I.Jennings)による体系だった批判がなされているが、ダイシー流の法の支配は現在でもイギリスの公法学界において多大な影響力を有している[16]
また、国会主権と法の支配との関係については、ハートVSロン・フラーen: Lon L. Fuller)論争を代表に議論がなされているが[17]、ダイシー流の法の支配は、国会を上訴権のない裁判所ととらえることなどにより国会主権が多数者支配を是認するものとはとらえず、コモン・ローの伝統的理解にむしろ忠実なものであるとの理解がイギリスの公法学界では通説とされている[18]

法の支配と法治主義編集

大陸法系においては、ローマ法が普及するに伴い「法の支配(Rule of Law)」は衰退し、19世紀後半にドイツのルドルフ・フォン・グナイストが理論的に発展させた「法治主義」(rule by laws、:Rechtsstaat)が浸透していった[19]
法治主義は、法律によって権力を制限しようとする点で一見「法の支配」と同じにみえるが、法治主義は、手続として正当に成立した法律であれば、その内容の適正を問わない。したがって、「法の支配」が民主主義と結びついて発展した原理であるのと異なり、法治主義はどのような政治体制とも結びつき得る原理である。このような意味での法治主義を後に述べる実質的法治主義と対比する意味で「形式的法治主義」と呼ぶこともある[3]
他方、「法の支配」の下においては、たとえ「法律(立法)」の手続を経てなされるとしても、法律の内容は適正でなければならず、権利・自由の保障こそ本質的であるとする点に法治主義との差がある。このような違いが歴史的に生じたのは、イギリスにおいては、法とは、「古き国制」に由来する人の意思を超えたものであって、人の手によって創造され得るものでなく、発見するものであると伝統的に考えられてきたことが背景にあるとされている[20]
もっとも、現在では、ドイツでは、法律の内容の適正が要求される「実質的法治主義」の考え方が主流となっているが、反対に、イギリスでは、アンドレ・マルモーが代表する「古き良き法と法の支配は異なる」とする論調のように、多義的な概念である法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むこと自体を批判し、法の支配と(形式的)法治主義を同視する見解が多い。

日本での展開編集

日本の法体系は、長らく慣習法を基調としてきたが、近代化の推進の為、明治憲法は、プロイセンドイツ法に準拠することとなり[注釈 8]、以後、法体系は大陸法系を基調として、明治憲法下でも(形式的)法治主義(法律による行政の原則)は認められてきた。
その後、アメリカ法に影響を受けた日本国憲法が制定されると、日本国憲法が法の支配を採用しているものなのかが問題となったが、制定法主義をとり、判例法主義をとるものではないという前提がある以上、ダイシー流の法の支配は採用されていないという点には異論はなく、結局は多義的な法の支配の内容をどのように解するかによってその結論が導かれると解されるようになった。
現在の日本の憲法学においては、「法の支配」の内容は以下の4つとされている[3]
  1. 人権の保障 : 憲法は人権の保障を目的とする。
  2. 憲法の最高法規性 : 法律・政令・省令・条例・規則など各種法規範の中で、憲法は最高の位置を占めるものであり、それに反する全ての法規範は効力を持たない。
  3. 司法権重視 : 法の支配においては、立法権・行政権などの国家権力に対する抑制手段として、裁判所は極めて重要な役割を果たす。
  4. 適正手続の保障 : 法内容の適正のみならず、手続きの公正さもまた要求される。この法の適正手続、即ちデュー・プロセス・オブ・ロー(due process of law)の保障は英米法の基本概念の一つでもある。
日本国憲法は、権利の保障は第3章で、憲法の最高法規性は第10章で、司法権重視は76条81条で、適正手続の保障は31条で、それぞれ定めているので、「法の支配」を満足していると見なされている[3]
これに対しては、日本国憲法施行の当初から、GHQによる検閲農地改革等により権利の保障は大きく歪められ、また、最高裁の下す違憲判決の少なさから、日本において「法の支配」は十分に機能していないとする見解もある[要出典]
このように、現在の日本の公法学において、「法の支配」という概念が広く受容されるようになったが、そのため戦前とられていた法治主義との関係が問題とされるようになった。
現在の日本の憲法学では、ドイツと同様に実質的法治主義と法の支配を統一的に理解する見解が多数であるが[21]、以下に述べるとおり両者を厳格に区別し、法の支配に一定の積極的な意義を見出す論者もいる。
佐藤幸治は、伝統的な「法の支配」における「法」という観念が自律的で自然発生的なルールという意味合いを有していることを指摘して、日本の「法律」という観念との違いに言及し[22]、法の支配を採用して、行政裁判所を廃止した日本国憲法下においても、公定力といった旧憲法下での行政法理論が生き続ける日本の公法解釈のあり方に疑問を呈するだけでなく[23]、(実質的)法治主義は行政による事前抑制に親和的であるのに対し、法の支配は司法による事後抑制に親和的で、国民の司法への積極的な参加とこれを支える多くの法曹の存在が必要であるという積極的な意義がある点に違いがあるとする[24]
これに対して、阪本昌成は、法の観念については、佐藤と同じく自生的秩序であるとして法の支配と法治主義を厳格に区別しつつも、法の支配を主権者も法律さえも拘束するメタ・ルールであるととらえ、佐藤とは正反対に、国民に一定の行為を要求するものではありえず、むしろ法の形式に着目し、それが一般的・抽象的でなければならず、その内容も没価値的・中立的なものであることを要求するものであるとして、法の支配に政治哲学的な価値を持ち込むことに反対する。英国の公法学界の通説と結論を同じくするが、阪本の学説は、スコットランドの古典的自由主義の渓流を継ぐものなので、当然のことといえる。
なお、中川八洋は、日本の憲法学における「法の支配」の理解は、ダイシー説に依拠しており、伝統的な「法の支配」の概念と相容れないと主張している[要出典]

国連・持続可能な開発目標2030アジェンダ編集

国連の2030年までに達成すべき目標として掲げる持続可能な開発目標(SDGs)のターゲット16.3において、法の支配を国家及び国際的なレベルで促進し、すべての人々に司法への平等なアクセスを提供することを謳っている。[25]

注釈編集

  1. ^ lawは、ラテン系フランス語起源の単語の多い英語には珍しく、イングランドを支配したヴァイキングデーン人の用いた古ノルド語の「置かれた物」という言葉が語源。それが掟(オキテ)、法という意味となった。イングランド東部にはデーン(北海帝国)支配時代の慣習法などの残ったデーンロー地方がある。
  2. ^ 政治学の項参照
  3. ^ コーク卿の『英国法提要』・『判例集』は、現在でも法の支配に関する不朽のテキストとされ、ウィリアム・ブラックストンの『イギリス法釈義』は、このコークの法思想を19世紀に継ぐべく書かれた、英国法の体系的なコメンタリーである。イギリスの植民地であったアメリカにおいては、不文法(非成文法)である英国法を知る手段は限定されたものであった中で、『英国法提要』・『イギリス法釈義』はアメリカの法曹に広く読まれるテキストとなり、アメリカ法に強い影響を与えることになる。
  4. ^ 「古き国制」の思想は、古くはジョン・フォーテスキューが主たる論者であり、後にエドマンド・バークの「時効の憲法」(prescriptive Constitution)の思想に引き継がれていくが、バークの時代は法の支配の衰退期とされている。
  5. ^ 庶民といっても、騎士(Knights)と一定の資産を有する「市民」(Burgesses)のことを指す。
  6. ^ 憲法典のないイギリス法の訳語としては、端的に「統治構造」と訳すべきとの者もいる。
  7. ^ 成文憲法典を持つ国では、最高法規である憲法に違背した制定法は無効とされ、裁判所が合憲性を判断する違憲審査制がとられているが、成文憲法典のないイギリスでは当然のことながら違憲審査制はない。成文憲法典のある国での違憲審査制の下では、合憲性判定の基準となる「憲法」は憲法典に限られ、基本法である実質的意義の憲法全てが含まれるわけではないとするのが通説である。
  8. ^ 明治十四年の政変の項を参照。

出典編集

  1. a b 宇野p58
  2. a b c d 芦部信喜『憲法(新版補訂版)』岩波書店、5頁
  3. a b c d e f g h 芦部信喜『憲法(新版補訂版)』岩波書店、14頁
  4. ^ プラトン著・森進一池田美恵加来彰俊訳『法律(上)』(岩波文庫)255頁
  5. ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』77頁、阪本昌成『憲法理論Ⅰ』59頁
  6. ^ Wormuth, Francis. The Origins of Modern Constitutionalism, page 28 (1949).
  7. ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』77頁
  8. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』54頁
  9. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』71頁
  10. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』142頁
  11. ^ 別冊ジュリスト『英米判例百選(3版)』(有斐閣)90頁
  12. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』8頁
  13. a b アメリカ大使館資料室「アメリカ早わかり」『米国の中央政府、州政府、地方政府の概要』
  14. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』142頁
  15. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』51~65、127頁
  16. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』55頁
  17. ^ 上掲「現代イギリス法辞典」75頁
  18. ^ 上掲『現代イギリス法辞典』66頁
  19. ^ 阪本昌成『憲法理論Ⅰ』59頁
  20. ^ 上掲樋口・129頁
  21. ^ 芦部『憲法(第3版)』岩波書店、15頁など
  22. ^ 佐藤幸治『憲法(第3版)』81頁
  23. ^ 佐藤幸治、田中成明『現代法の焦点』有斐閣リブレ、1987年
  24. ^ 第154回国会「参議院憲法調査会」第2号 
  25. ^ 「持続可能な開発のための2030アジェンダ」を採択する国連サミット”. 外務省2016年11月30日閲覧。

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

  • 堀内健志「法の支配論と法律による行政の原理」『人文社会論叢-社会科学編-14号』75頁[1]PDF

2 件のコメント:

  1. 【国会のクイズ王】立憲・小西洋之氏(参千葉)、安倍首相にまた出題「法の支配の対義語は何ですか?」→首相「海の繁栄に...」★4

    1002コメント287KB
    3月8日〜3月8日
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    1ばーど ★2019/03/08(金) 05:49:28.64ID:k4AS6K0e9>>3>>28>>89>>99>>137>>154>>205>>382>>392>>401>>443>>470>>494>>544>>552>>631>>702>>718>>790>>839>>871>>913>>925>>967
    ※夜の政治

    国会での質問で、たびたび答弁者の知識を試すことから「国会のクイズ王」の異名を持つ立憲民主党会派の小西洋之参院議員が2019年3月6日の参院予算委員会で、安倍晋三首相に改めて「出題」する場面があった。

    質問は、安倍氏がたびたび口にする「法の支配」に関するもの。安倍氏は直接は質問に答えられず、このことを小西氏は「憲政史上の大事件」だと訴えている。

    ■「安倍総理に教えて差し上げます」

    小西氏の質問は、安倍氏が1月の施政方針演説で、明治天皇が日露戦争時に詠んだ短歌を引用したことを問題視する中で出た。質問は

    「安倍総理、よく『法の支配』とおっしゃいますが、法の支配の対義語は何ですか?法の支配の反対の意味の言葉はなんですか?」

    というもの。秘書官が助け舟を出そうとして小西氏が「総理秘書官、ダメだよー!」とヤジを飛ばす中、安倍氏は質問には直接答えず、

    「まさに法の支配による、この国際秩序を維持をし、平和な海を守っていくことが、それぞれの海の繁栄につながっていく、という考え方を示しているところでございます」

    などと答弁。

    小西氏は

    「法の支配の対義語は、憲法を習う大学の1年生が、一番最初の初日に習うことですよ」

    と煽りつつ、「答え合わせ」をしてみせた。

    「憲法がよって立つ基本原理すら理解せずに改憲を唱えている安倍総理に教えて差し上げます、法の支配の対義語は『人の支配』です!権力者の専断的行為によってルールを捻じ曲げて、国民の権利や自由を侵害する、そういう時代がかつて人類にあったから、近代立憲主義に基づく憲法をつくる。その近代主義の憲法が基づく理念が、法の支配の原理なんですよ」

    なお、「法の支配」の辞書的意味は

    「イギリスの法律家コークが、国王は神と法の下にあるべきであるとして、ジェームズ1世の王権を抑制して以来、『人の支配』に対抗して認められるようになった近代の政治原理」(広辞苑第7版)

    だとされている。

    ■小西氏はメディア露出の少なさに不満

    そのうえで、小西氏は「出題意図」を明かした。

    「安倍総理が対義語を答えられなかったことに国民の皆さんも驚いておられると思いますが、私、予測していたんですが、今から6年前に安倍総理は、日本国憲法で一番大切な憲法13条を1ミリも理解せず、答えることもできず、まさに国民にとって悪夢そのものの答弁をなさったんですね。なので『法の支配』の対義語を知らないのかなー、と思ったら、やっぱり知りませんでした!」

    安倍氏は

    「勝手にいろんな憶測をしたうえで批判をする、あるいは、かなり人格的な批判をするということは、これは、まだ若い議員であられますから、将来を思えば、そういうことは控えられた方がいいのではないか」

    と反発したが、小西氏は

    「愚直にやってきただけの人間だが、安倍総理に人生を説かれるほど、私は堕ちていない」

    とやり返した。

    小西氏は、質疑の様子をツイッターで

    「憲政史上の大事件」
    「私の質疑の後、安倍総理は明らかに元気がなかった」

    などと振り返り、メディアの露出が少なかったことに不満をもらした。

    「カルロス・ゴーン氏の保釈よりも、安倍総理が『法の支配』の対義語の『人の支配』を知らなかった事実の方がはるかに日本社会への重大事件なのだが、テレビ報道は残念な限りだ」

    2019/3/ 7 17:16
    J-CASTニュース
    https://www.j-cast.com/2019/03/07352119.html?p=all
    https://www.j-cast.com/assets_c/2019/03/news_20190307165127-thumb-645xauto-153695.jpg
    サムネイル読み込み中···


    ★1が立った時間 2019/03/07(木) 17:50:04.07
    前スレ
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1551962450/

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  2. マグナカルタで有名な大憲章は本当はキリスト教の教皇インノケンティウスの話でキリスト教全体の話である。

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