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日曜日, 3月 24, 2019

プルードン語録 Proudhon

プルードン語録


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プルードン語録 Proudhon
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  1. あえて言うなら、消費は国籍をもたない。労働そのものも、収益によって制約され、専門分野を狭くて隷属的なものに限定されて、もはや祖国をもたない。(『貧困の哲学』第9章)
  2. <アソシアシオンとは何か——機能と生産物に応じた産業諸力の組織化である>(プルードン)
  3. <アソシアシオンのあらゆる計画のなかには、何らかの程度でこの権威の観念が見出されるのであり、それはつねに、人間をもっと自由にするために人間を隷従させるという結論に行きつくのである>(プルードン)
  4. <アソシアシオンは、相互性の原理によってより純化されたより簡単になりより正当なものになれば、容易に支えうるものになり、新たな発展とをもたらすであろう>(プルードン)
  5. <アソシアシオンは断じて指導的原理ではない>(プルードン)
  6. <アソシアシオンは自由を束縛する>(プルードン)
  7. <アソシアシオンは友愛と同じく不正確な言葉だ>(プルードン)
  8. <アソシアシオン反対!それは自由を束縛する。……何らかのアソシアシオンへの加入はすべて自由の譲渡である>(プルードン)
  9. あなたが税について述べるたわごとは、法律家の屁理屈にそっくりだ。あなたは、人口の増大が税負担を分割させ、一人あたりの負担を軽くするという希望さえいだけない。なぜなら、人口の増大は貧困を増大させ、貧困の増大は国家のしごとや役人の数を増大させるからである。(『貧困の哲学』第7章)
  10. あなたが高い位の人間なら、その職を解いてあげよう。これであなたは自由だ。役職にあてがわれた制服を着ていると、高慢で不遜で怠惰な人間になってしまう。科学が求めるのは自分自身の考えに逆らうことなのだが、要職についたひとが考えることは、自分自身の待遇である。(『貧困の哲学』プロローグ)
  11. あなたたちが貧乏人の軽率さと人口増加を大声で非難するのであれば、われわれもそれに負けじと大声で、金持ちの偽善と強奪行為を非難しよう。(『貧困の哲学』第13章)
  12. あなたたちは人口の増えすぎが貧困を決定づけると言うが、われわれの証明にもとづくならば、貧困にはあなたたちの気づかぬ秘密の原因が存在することになる。だから、あなたたちはもう引っ込んでいなさい。(『貧困の哲学』第13章)
  13. あなた(民主主義派)にとって必要なのは、権力や政治を消滅させて社会改革をすすめることではなく、権力と政治を再構築することなのである。そのとき、(中略)権力の真実の友である貴族や王党派、つまりあなたの競争相手はそれが幻想であることをよく知っている。(『貧困の哲学』第7章)
  14. あなたは毎年10万人の才能を大学で育てあげて、それでいったい何をしようというのか。/こうしたできのいい若者たちでも、職を得るためにはヒエラルキーのいちばん下まで降りていかなければならない。(『貧困の哲学』第3章)
  15. <あまり多くのものを要求しないようにしましょう。獲得したもので満足しましょう。いま重要なことは、この勝利を花火のように消えさせてしまわないことです>(プルードン)
  16. <あらゆるア・プリオリなドグマチズムを一掃したのちに、こんどはわれわれが人民をわれわれの意志に従わせたりするようなことはけっしてしないようにしましょう>『プルードンからマルクスへの手紙』(プルードン)
  17. あらゆる教育システムのなかで一番バカげているのは、知能と実践を分離し、一個の人間を半分は空論家、半分は自動人形にしようとする空疎な方式である。(『貧困の哲学』第4章)
  18. あらゆる時代、あらゆる民族において、国家がたえず心がけてきたのは、いかにしてその内奥から信用をわき上がらせるかではなく、いかにして借金をするかということだけであった。(『貧困の哲学』第10章)
  19. <あらゆる社会問題は分配、流通、交換の問題であって、それ以外ではない>(プルードン)
  20. <あらゆる政体のうちで、唯一真実なものがあるが、それは普通選挙の組織化に由来するものだと考える>(プルードン)
  21. あらゆる正しい思考は一定の時間と二つの契機を必要とする。二つの契機はそれぞれ他方の否定であり、そして、より高次の観念のもとでどちらも消えてしまう。したがって、アンチノミーは生命と進歩の法則そのものであり、永久運動の原理なのである。(『貧困の哲学』第14章)
  22. ある時期、商業貴族制が地中海沿岸一帯で成長し、世界帝国を掌握する直前にまで達した。歴史上もっとも荘厳なこの瞬間こそ、スキピオに始まり、ルターとレオ一〇世でようやく終わった長きにわたる退歩の出発点であった。(『貧困の哲学』第9章)
  23. <いかなる政府もいかなる権威も相互性の原理と両立しない。それだけではなくて、いかなる権威も改革に役立たない。なぜならあらゆる権威は平等と権利に反するからだ>(プルードン)
  24. イギリスはあちこちの王国からものを取りつくし、地上の金を自分のもとへ吸い寄せた。しかし同時に、地球上のあらゆる地点から貧困がイギリスにやってきた。途方もない財産家が誕生した反面、すべての小所有者が財産を喪失し、人口の三分の二が赤貧階級に変貌した。(『貧困の哲学』第9章)
  25. いま、あらゆるところで、搾取される側にたいして搾取する側が結託している。そうなると、地上はまもなく奴隷たちの兵舎でしかなくなるだろう。私が望むのは、資本が労働に出資し、労働者一人ひとりが経営者となり、特権者にもなれるようにすることだ……。(『貧困の哲学』第10章)
  26. いま緊急になされるべきは、消費税を全面的に廃止することである。消費税は民衆を疲労困憊させ、飢えで苦しめる。それは急進的な改革者ばかりでなく、経済学者の結論でもあるのだ。(『貧困の哲学』第7章) 
  27. いまここにある社会のありかたをひっくりかえすには、一種の不可抗力が必要である。(中略)それは民衆の労働でなければならない。民衆の労働は、科学的で合法的で不滅であらがいえないチームワークによって、資本を民衆に服従させ、権力を民衆の手に渡す。(『貧困の哲学』第7章) 
  28. いまや問題は、労働に固有の悪が生じさせる貧窮、もっと正確に言えば労働の誤った組織化による貧困、政治経済学がつくりだす貧困をいかにしてなくすことができるか、それを知ることである。(『貧困の哲学』第13章)
  29. 印刷業でも役所でも、労働者の九割が残る一割のための家畜として働くよう、ものごとは整えられている。これが産業の進歩の必然的な帰結であり、社会が豊かになるための必要条件なのである。(『貧困の哲学』第3章)
  30. 思うに、経済科学はあらゆる科学のうちで、もっとも包括的で純粋なもの、そして事実をもっとも的確に表現してくれるものである。つまり、この科学は具体化された論理学あるいは形而上学であり、旧来の哲学の基礎を根底的に変えるものなのだ。(『貧困の哲学』第1章)                                                      
  31. <階層的構造が原始的社会の存在条件であるように、アナルシーは成熟した社会の存在条件である>(プルードン)
  32. 科学・技術・組織化により産業が改善されていけばいくほど、世界全体で労働は強度の面でも時間の面でも(つまり量的にも質的にも)増大していく。したがって、生産は相対的に減少する。そして、その行きつく先はこうだ。すなわち、社会において生産物の多さは労働の増加と同義である。(第13章)
  33. <各人が……献身に最小のものしか残さないようにするためには、つねにまたかつてないほどアソシアシオンを分業と権限の分割にもとづいてうちたてることが必要であろう>(プルードン)
  34. <革命は普遍的にならなければ、フランスにおいてさえ崩壊するであろう>(プルードン)
  35. <革命は理念なしにおこなわれた>(プルードン)
  36. <過去二五年間にわたって丹精したわたくしの経済学の全観念は農工連合体ということばに要約される。>(プルードン)
  37. 貸方と借方、購入と販売の対立は、われわれがすでに定めた信用の将来的な目標、すなわち生産と交換を均衡させるという目標を、きわめて明瞭にしてくれる基本的な対立である。しかし、それに加えて、いわゆる複式簿記がわれわれにもうひとつの対立を明らかにする。ひとと物の対立である。(第10章)
  38. 家族の権利は普遍的であるが、共有されるものではない。家族にとって相続は必要であり、したがって遺産も必要なのである。相続は社会の全体ではまだ実行されていないからという理由で、相続を禁止するのは唯物論者のような、反革命的な合理化のしかたである。(『貧困の哲学』第11章)
  39. 価値の尺度、すなわち価値の比例関係の理論は、平等の理論そのものである。すでに見たように、社会的には生産者と消費者は完全に同一だから、このような社会で、ただ遊んで暮らしているだけの人間に所得を与えるのはエトナの火山に貴重なものを投げ入れるにひとしい。(『貧困の哲学』第2章)
  40. 価値はつぎの三つの様相であらわれる。まず最初は使用価値、それから交換価値、そして総合的価値ないし社会的価値である。この三つ目が本当の価値である。第一項がその対立物である第二項を生み、この二つが相互に浸透し吸収しあって第三項を生みだすのだ。(『貧困の哲学』第3章)
  41. <可能なかぎり小さく相互に独立した諸グループによるアソシアシオンの分割——これが自由の原理だ。これが節約と安価の原理でもある>(プルードン) 
  42. 神、それは悪である。人間が祭壇の前でひれ伏すかぎり、人間は国王や司祭の奴隷として苦難のうちにとどまる。人間がほかの人間から神の名でなされる説教を受けいれるかぎり、社会は偽りの証言のうえに成り立つ。平和も愛も人間から遠ざけられる。神よ、退散せよ。(『貧困の哲学』第8章)
  43. <彼(プルードン)は新大陸に、だれも導き手として役立たないほど新しく、未開拓の領域に到達した。矛盾は、彼の思想のなかによりも、それが映しだす対象そのもののなかにあった>(ゲラン)
  44. 関税の制度は、経済学者のバカげた想像とは異なり、けっして独占に奉仕するものではない。むしろ独占を成り立たせる条件にとっての障害、独占の発達と存立にとっての障害なのである。したがって、そういう制度は廃止しなければならないし、廃止されるであろう。(『貧困の哲学』第9章)
  45. <管理の集中と、非常に不均衡な産業を単一の指導のもとに結合することが、費用の低減をもたらすと一般に考えられている。これは間違いだ。というのは分割すれば官僚制は必要でなくなるからだ>(プルードン)
  46. 機械、競争、独占、国家組織、保護貿易や自由貿易、これらはすべて労働者階級の暮らしを良くするものとして人類の知性が考えついたものだが、そのすべてがつぎつぎと特権階級を利するものに転じ、労働をますます苦しめる抑圧的なものに変わっていった。(『貧困の哲学』第10章)
  47. 議会というコメディのへたくそな役者である君主や議員の諸君よ、諸君の正体はつまりは未来を封じようとする魔よけの札にすぎない。毎年、民衆のうめき声があなたの耳にとどく。解決を求められると、それを無視するのがあなたの賢さだ。そういう特権を守る必要があるだろうか。(『貧困の哲学』第4章)
  48. 機械技術がどれほど進歩し(中略)ても、けっして人間が解放されることはない。人間に余暇が生じることもない。あらゆるものがタダで生産されることもない。機械の進歩がもたらすのは、たんに労働の増大、人口増加の奨励、隷属の強化、生活費の高騰にすぎない。(『貧困の哲学』第4章)
  49. 機械とは何か。労働を短縮する方法である。(中略)労働がもはや需要を満たさないとき、機械があらわれ、均衡を回復し、さらにはときどき労働が緩和される時間をもたらす。しかし、この観点においてすでに、機械は労働の過重化を証明する。(『貧困の哲学』第13章)
  50. 機械は恩恵の源泉であると同時に、コストの源であり、隷属の原理なのである。なぜなら、どのような機械を産業が作動させようとも、それを動かすのはつねに人間だからである。(中略)人間が道具に取り囲まれれば取り囲まれるほど、監督の必要が生じ、苦痛も増える。(『貧困の哲学』第13章)
  51. 機械はけっしてひとりでには動かない。機械が動き続けるためには、周囲から組織的にたくさんのサービスを受けなければならない。けっきょく、まわりに道具が増えれば増えるほど、人間はますます多くのしごとを自分でつくりだす。(『貧困の哲学』第4章)
  52. 機械は、政治経済学においては分業に対立するものであるが、人間の精神のなかでは分析にたいしての総合を表象する。少し先回りして言うと、分業と機械ですでに政治経済学の全体がみてとれるように、分析と総合、これが論理のすべてであり、哲学のすべてなのである。(『貧困の哲学』第4章)
  53. 偽善、金銭ずく、売春、盗み、いまはこれが民衆の意識の土台を形成している。しかし、人類が、自分を殺すものによって生きることを学ばないかぎり、裁きと償いのときは近いと考えざるをえない……。(『貧困の哲学』第14章)
  54. 規則があるからこそ労働は魅力的になるのだ。ところが、あるひとびとは、労働は魅力的なものでなければならないとのスローガンをかかげて、正義を否定し、共産制へと走る。かれらはまるで、庭の花を摘んできて階段のうえで花壇をつくる子どもたちとそっくりだ。(『貧困の哲学』第2章)
  55. 貴族もプロレタリアも同じ泥土のなかから出てきたのではないのか。では、何世紀ものあいだに産業・科学・技術の驚異的な発展がつみかさなったにもかかわらず、豊かさや上品さが万人のものにならなかった理由はどこにあるのか。(『貧困の哲学』第3章)
  56. 教育が普及すれば、ひとは自尊心が増した分だけ貧困が辛くなる。何と悲惨なことだろう。あなたの教え子が雇用もされず、資本ももっていないなら、職業教育が何の役に立とう。(『貧困の哲学』第3章)
  57. 共産主義者たちの愚昧で反動的なすべての偏見のうちで、もっとも根強いのは独裁である。産業の独裁、交易の独裁、思想の独裁、社会生活と私生活における独裁、ありとあらゆるところで独裁が必要とされる。(『貧困の哲学』第12章)
  58. 共産主義者は権力をとって、上からの命令で不平等を補おうとする。しかし、どうがんばっても、それは実行できない。(『貧困の哲学』第6章)
  59. 共産主義は政治経済学のすべての矛盾を、その逆の面において再生産する。共産主義の秘密は、生産・交換・消費・教育・家族といった社会機能のいずれにおいても集合的人間が個人のかわりにあらわれることにある。(『貧困の哲学』第12章)
  60. 共産主義は、不幸ながら所有のルーティンからの借り物であり、労働の嫌悪、人生の倦怠、思考の抑制、自我の死、虚無の肯定である。共産主義は、科学においても自然においてもニヒリズムと同義であり、不分割、不動、闇、沈黙と同義である。(『貧困の哲学』第12章)
  61. 競争があってこそ、ものの値段は安くなる。競争を禁じれば闇の取引が助長される。つまり、商業の自由をなくせば、あなたは行政の専横に身をゆだねるしかない。あなたは平等を実現するために、自由を破滅させる。それは平等そのものの否定につながる。(『貧困の哲学』第2章)
  62. 競争が個人的な利益のためにのみおこなわれ、その社会的な成果を科学が確定するわけでもなく、国家が保持するわけでもないばあい、競争は民主主義と同じ道をたどるだろう。すなわち、内乱状態から少数者支配へ、さらには独裁制へ向かい、それが崩壊すると、再び内乱が始まる。(『貧困の哲学』第5章)
  63. <競争と協同は相互に支えあっており、一方は他方なしには存在しない>(プルードン) 
  64. 競争によって、権力はいたるところで労働を押しつぶし、産業をひとつの巨大な独占の同盟に変える。労働者という平民は、いまふたたび貴族の前で膝を屈する。労働者は賃金について交渉することもできず、また交渉する権利ももたない。(『貧困の哲学』第14章)
  65. 競争は、公正や正義といった観念をすべてひっくりかえす。投下資本を不必要に増やして、じっさいの生産コストを上昇させ、生産物価格の高騰と暴落を交互にひきおこす。すべてを博打に変え、まっとうな生きかたを否定し、公衆の良心を堕落させる。(『貧困の哲学』第5章)
  66. 競争をなくすことはここでの問題とはなりえない。それは自由をなくすことと同様に不可能なのだ。ここで重要なのは均衡を見出すことである。私なりにあえて言うなら、取り締まることである。(『貧困の哲学』第5章)
  67. <競争を破壊することは問題になりえないのであって、自由を破壊することと同じく不可能なことである>(プルードン)
  68. 競争を否定すれば、二つの選択肢しか残らない。ひとつは奨励、すなわちごまかし、もうひとつは自己犠牲、すなわち偽善、この二つしかない。(『貧困の哲学』第5章)
  69. <協同組織は決して経済力ではない。それはもっぱら一つの精神的絆、良心に課せられたものであり、労働と富にたいしては何の効果もないし、むしろ有害な結果をもたらすものである>(プルードン)
  70. 協同の最上位の様式は、個人的な打算の対象である資本とは何の関係もない。それはただ富の増進の唯一無二の源泉である生産のバランス、交換の諸条件、原価の低減にのみかかわる。(『貧困の哲学』第6章)
  71. 共有とか友愛とかに訴えるのは、まだ早すぎる。分業や機械の使用のなかで育った人間たちのあいだには、共有されるものは何もなく、友愛も存在するわけがない。少なくとも現在のところ、われわれが解決を求めるべきはそちらの方向ではない。(『貧困の哲学』第4章)
  72. 共有とは何か。それは個人の個性とイニシアティヴを吸い取るまでにいたった国家の経済理念である。ところが、共産主義は国家の本性や目的を理解すらしなかった。共産主義はこのカテゴリーを占領しながら、自分自身に肉づけし姿形を与えるのに反動的な側の観念しかつかみとらなかった。(第12章)
  73. 虚構の支配は終わった。社会はその本性がそなえる誠実さへ回帰していくだろう。あらゆることがそう予告する。独占は世界規模にまでふくれあがった。しかし、世界を飲みこんでしまうと独占は排他的なままではいられない。(『貧困の哲学』第14章)
  74. 気をつけたまえ。人間という存在を一連の情欲において正当とするために、あなたは後ずさりをし、そして人間の道徳性を救い出すのでなく、それを投げ捨てている。いっぽう私はといえば、私は野獣と化した人間よりも罪深い人間のほうが好きである。(『貧困の哲学』第8章)
  75. 均衡の法則は、エゴイズムによって発見され、憎悪によって維持され、偽りの哲学によってそしられてきたが、それこそが諸国民のあいだでの労働の条件と豊かな生活の条件の平等化をもたらすものなのである。(『貧困の哲学』第9章)
  76. 近代における批判が明らかにしたように、この種の対立のなかで、真理は一方が他方を排除することによってではなく、まさに両者が和解することによってのみ得られる。自然の分野でも観念の分野でも、あらゆる敵対はより普遍的な事実において解消される。(『貧困の哲学』第1章)
  77. 近代の哲学用語で言えば、政治経済学はアンチノミーをその本質的な性格とする。政治経済学は、死刑の宣告と無罪の宣告を同時に受けとるのだ。(『貧困の哲学』第2章)
  78. 金融業者、企業者、ブルジョワ、工場主、職工長などのカースト(……)がするしごとというのは、地代を消費すること、高利を取り立てること、労働者から搾り取ること、そしてそのすべてにもまして重要なのは、搾取と貧困のもっとも恐るべき形態である警察を動かすことである(『貧困の哲学』第14章)
  79. 経済科学の対象は何であろうか。/方法それ自身がわれわれにそれを示す。アンチノミーは自然における引力と均衡の原理である。したがって、アンチノミーが人類における進歩と均衡の原理である。そこで、経済科学の対象、それは正義である。(『貧困の哲学』第14章)
  80. 経済学者は、自分たちの原理に反することがあれば政府を非難すべきだと思っているが、すでになされたことにかんしてはオプティミストである。一方、社会主義者はこれからなされるべきことにかんしてオプティミストである。(『貧困の哲学』第1章)
  81. 経済学者は社会主義の側からの非難にたいして、公共の富もますます増大しているとか、もっとも貧しい階層の生活状態も改善されつつあると言い返す。経済学者はそんなことを言うとき、自分ではそうと気づかぬまま、自分の理論の否定につながる真理を公言しているのである。(『貧困の哲学』第2章)
  82. 経済学者は労働の必要性を説教しながら、愚かな同情心とともに労働への嫌悪感を維持し、本来ならば労働者を後押しして、もっと前進させるべきときに、労働者にむかってもう止めろと言っているように思われる。(『貧困の哲学』第13章)
  83. 経済学のさまざまの学派が、社会主義にこぞって反対してきたが、それは経済学の原理そのものの誤ったとらえかたにもとづくものでしかない。かれらにとっては不名誉な話でも、本当のところはこれだ。(『貧困の哲学』第2章)
  84. 経済学の理論が貧困ということばを発するとき、そのことばは人間の成長発展の内的な法則、人間の存在の本質、人間の生きる形をあらわすものであった。人口の急速な増加、食糧のより緩慢な増加、これらは同一の観念の二面、たったひとつの現象の二つの側面なのである。(『貧困の哲学』第13章)
  85. <経済的革命とともに国家は完全に消滅すること、そして国家のこの消滅は信用の組織化と租税の改革の必然的結果である>(プルードン)
  86. 経済的な困窮は人間の思想の構造によるものだが、人間の罪だとされる犯罪はけっして経済的な困窮によるものではない。人間は正義が強要したわけでもないのに英雄的な行為をして胸を張り、必要もないのに悪事をおこなって平然としている。(『貧困の哲学』第8章)
  87. <契約は契約当事者たちに、彼らの個人的約束から結果する以外のいかなる義務も課さない>(プルードン)
  88. <契約はどのような外的権威の支配も受けない。それはただそれだけで当事者たちの共通の規範を形成する。それは契約当事者たちの自発性からのみその実施を期待する>(プルードン)
  89. <結合することが少なければ少ないほど、それだけ多く自由である>(プルードン)
  90. 「結婚は愛の墓場である」すなわち「愛の解放である」という諺が民衆の錯覚をあらわす。民衆はことばをつねに具体的にしか理解せず、愛というものを欲情が胸のなかで暴れること、血がたぎることだと理解していた。愛は結婚とともに消え去ると諺で言う(…)まさしくこうした愛のことである(第13章)
  91. <権威は、討議し抵抗する、あるいは服従する自由なしには空語である。自由は、その対極をなす権威なしには無意味である>『連合の原理』(プルードン)
  92. <堅実な基礎の上に立っているすべての協同組織においては、契約の連帯性が最低限の必要性の範囲を決して超えていない>(プルードン)
  93. 献身! 私は献身を否定する。献身などはまやかしだ。(中略)もし私が、たまたまあなたを援助するはめになったら、私は自分でそうしたいからそうするであろう。しかし、けっして私はそれを強制されたくない。私に献身を強要するのは、私に私を殺せということである。(『貧困の哲学』第6章)
  94. 現代におけるわれわれの病は、金への執着である。すなわち、信用の欠乏である。(中略)偽善的な道徳や貧乏くさい文学や後ろ向きの民主主義は、銀行の支配とひとびとの金銭崇拝に抗議するが、この頭の悪そうな抗議は、理念の勝利の行進を非難しているだけである(『貧困の哲学』第10章)
  95. 権力がもちいる時間とお金は、納税者からまきあげたもの。没落した業者に税金をつかって補償金を支払うのは、あらたな発明をおさえつけ、銃剣によって共産主義をつくりだすようなものである。それは問題を解決することではない。国家による賠償にこれ以上こだわるのは無益だ。(『貧困の哲学』第4章)
  96. 権力は集合的な力の道具であり、社会のなかで労働と特権の仲介役としてつくられたものであるから、必然的に資本に服従し、プロレタリアートに対立する方向で操作される。いかなる政治改革もこの矛盾を解決することができない。(『貧困の哲学』第7章)
  97. 権力は本質的には資本と同様、労働を補助する従属物なのに、社会に敵対関係があることによって、生産的な諸機能を偵察し、判定し、上から支配するものとなる。もともとは劣位にあるものが自分への服従を命じる。王、君主とはこういう権力なのである。(『貧困の哲学』第7章)
  98. こうしていまも、二つの勢力が覇権を競い、相対立する二つの信仰のために激しく非難しあっている。一方は政治経済学、すなわち伝統、他方は社会主義、すなわちユートピアである。(『貧困の哲学』第1章)
  99. 工場経営者たちは、封建的な生活および父権制社会の伝統を模範とした。分業やその他、生産過程でのできごとは自分たちが大きな家族であることを呼びかけるものにほかならなかった。友愛を表現し、育てていく予備的な体制のきざしにほかならなかった。(『貧困の哲学』第8章)
  100. 国王は自分の利益のため、文人は自分たちの虚栄心のため、そして社会主義者は善人ぶりたいために、こういう考えかたを広めようとする。かれらは、国民の奴隷状態を永続化させ、ものごとには序列があると言いたいのである。(『貧困の哲学』第4章)
  101. 国民がそのボキャブラリーの枠のなかで科学を極めたあと、その中身をさらに高度の哲学で追求するのでなく、詩人が着るようなマントを着て、文章の切りかたや行の分けかたで遊びはじめるとどうなるか。はっきり言って、そういう社会はおしまいである。(『貧困の哲学』第3章)
  102. 個々の政体は、その内部で成長したかずかずのアンチノミーを徐々に解決することをとおして正常な体制に達するが、人類もまた、諸国民のあいだのアンチノミーの解決をとおして単一の構成体に近づいていく。したがって、諸国民のあいだの交易はできるかぎり自由でなければならない。(第9章)
  103. 互助共済の諸制度から個人的に恩恵を得るひとがたとえ何人かはいようとも、それはかならず少人数だし、そういう制度が貧困にたいして無力であることは数学的に証明される。それは宝くじと同じく、多数者の負けによって少数者が儲けるのである。(『貧困の哲学』第10章)
  104. <個人の数がふえるにつれて社会的紐帯はたえず弛緩してゆくということから、空想家たちは権威や社会的指導権をますます権力や摂政に集中させるように導かれた。>(プルードン)
  105. 古代人は悪の起源の問題を神話のなかで提起したばかりでなく、それをべつの神話によって解決した。人類は最初から犯罪者であることをためらうことなく肯定したのである。(『貧困の哲学』第8章)
  106. 国家が信用を組織し、銀行を経営するばあい、その財源は国家自身のものではなく、国民の財産なのである。(中略)国家が信用を組織するシステムにおいては、本来なら市民に帰属するものが、ある種の暗黙の擬制的な連帯によって国家に帰属する。しかし、その逆はない。(『貧困の哲学』第10章)
  107. <国家とは社会力の外的構成体である>(プルードン)
  108. <国家の目的は正義を組織し、もたらし、遵守させることである。正義は国家の本質的な属性であり、中心的な機能である>(プルードン)
  109. 国家は警察のような不生産的な機関として、また国有と称する集合労働の生産者として、ただ献上金でのみ生きている。いったいどういうマジックで、どういう途方もない変身をとげて、国家は自分では一銭ももたないくせに、とつぜん資本の分配者になるのだろうか。(『貧困の哲学』第10章)
  110. 国家は(中略)いかなる形態のものであっても、平等な社会に素直にしたがう機関にならないのであれば、国家とは民衆にとって逃れようのない地獄だということ。私がすでにほのめかしたように、民衆がそういう地獄におちるのは当然の報いである。(『貧困の哲学』第7章)
  111. <国家は、国民を援け市民やコミューンにつくすかわりに、それらから持物をとりあげ、搾取する強大な株式会社になる。>『連合の原理』(プルードン)
  112. この争いの結果はご存じのとおりだ。値引き販売合戦、在庫過剰、不景気、輸入禁止、競争の根絶、独占、賃金の下落、最高価格法、財産のはなはだしい不平等、そして貧困。こうしたことが価値のアンチノミーから生じる。(『貧困の哲学』第2章)
  113. この分でいくと、労働条件あるいは賃金条件の全面的な変革がなされないかぎり、やがて労働の増大は、つまり富の増大はわれわれにとってまったく不可能になってしまうだろう。土地がわれわれに不足するよりもずっと以前に、われわれの生産はストップする。貧困と犯罪だけがたえず増大し続ける(13章)
  114. <コミューンがそれ自身の法に基かず、より上位の法を承認せざるをえなくなるや否や、コミューンを部分とする大集団がコミューンの連合の関係の表現ではなくてその上位者である事が明瞭になるや否や、いつの日かコミューンはこの大集団と矛盾に陥り、闘争が勃発する事は避けられない>(プルードン)
  115. <コミューンは主権者であるか出先機関であるか、すべてであるか無であるかのどちらかであって、その中間はないのである。>(プルードン)
  116. ご立派な経済学者諸君、人口を増やさずに富を増やすというのは、ひとの口の数を減らしてひとの手の数だけ増やしたいというのと同様、不条理なことである。あなたたちはそれを忘れている。お願いだから、もう少し頭を使ってほしい。(『貧困の哲学』第13章)
  117. これが独占だ。これが資本の利子だ。これが地代だ。アダム・スミスは、すべての幻想家と同様、ものが見えても理解はしない。かれはものを語るが、意味は知らない。かれは驚きもせず哀れみもせず、ただ神の霊感を受けて語る。所有者による横領についても淡々と冷静に語る。(『貧困の哲学』第14章)
  118. これはおおかたのひとびとに斬新に映るはずだが、経済学者は自己矛盾すればするほど真実に向かうことを示してあげたい。とくに、かれらの自由貿易論は自由な独占の理論であるからこそ価値があることを示したい。(『貧困の哲学』第9章)
  119. これまでに描かれたユートピアはどれも、価値の確定、すなわち価値の社会化については恣意的な操作にゆだねたし、あらゆる改革はヒエラルキー構造のままの同職組合にいきつくか、もしくは国家独占、つまり共産主義の独裁にいきつくのである。(『貧困の哲学』第5章)
  120. 今日のような社会体制のもとでは、プロレタリアートが教育によって豊かさを手に入れることも、また豊かさによって教育を手に入れることも、どちらもありえないのである。ありていに言えば、人間=機械であるプロレタリアは、安楽な暮らしにも教育にも耐えられないのだ。(『貧困の哲学』第3章)
  121. 今日われわれが置かれているような極限の状態において、賃金の値上げが、さらには物価の引き下げが、いっさい不可能になってしまっているのであれば、それは革命が近いことのしるし、そしてわれわれの退路が閉ざされていることのしるしなのではないのか……。(『貧困の哲学』第13章) 
  122. この争いの結果はご存じのとおりだ。値引き販売合戦、在庫過剰、不景気、輸入禁止、競争の根絶、独占、賃金の下落、最高価格法、財産のはなはだしい不平等、そして貧困。こうしたことが価値のアンチノミーから生じる。(『貧困の哲学』第2章)                                                    
  123. <最強の力がより弱い力を吸収・同化するのは一つの自然法則である>(プルードン)
  124. 最後に、保守主義者、復古主義者、エゴイスト、偽善者。かれらは、神の愛を説きながら隣人にたいしての憎悪をあおる。ノアの大洪水以来の世界の不幸は人間の自由のせいだと言い、自分たちの愚かしい感情をたてに人間の理性を中傷する。(『貧困の哲学』プロローグ)
  125. 産の配分における不平等、愛の配分における不平等、これが偽善的な社会改革者たちの望みである。かれらにとっては、正義も理性も科学も無である。かれらはただ他人に命令し、自分たちが楽しめればそれでいい。けっきょく、かれらは変装しているが、その正体は所有の味方なのである。(第12章)
  126. 産業の進歩によって、社会の豊かさは増大していくが、その一方で、独創的な企業者にもたらされる純生産物は、しだいに減少する。それはちょうど樹木の幹を構成する同心円の層が、樹木の成長につれて、そしてまた円の中心から離れるにつれて、薄くなっていくのに似ている。(『貧困の哲学』第6章)
  127. <産業は哲学と諸科学の母である>(プルードン)
  128. サン=シモン主義者、フーリエ主義者その他の男娼たちの社会体制については、さっさとすませよう。かれらは自由恋愛にも、恥じらいの気持ちや繊細さやきわめて純粋な精神性がありうるとする。くだらない社会主義の悲しい幻想である。意識が混濁しはじめた悪党の最後の夢である。(第12章)
  129. <漸進的アソシアシオンの大原則は、現物での商品交換の原則である>(プルードン)
  130. <漸進的組合——その最初の中核が一たび形成されれば、つぎつぎに産業のあらゆる方面に向かい、その販路の重要性がますにつれて、請負業者にさえ販路を提供するという改善が実現するであろう>(プルードン)
  131. <漸進的組合の組織化に関する私の出発点は何か。それは神権でも力でも情念でも、……権威でも犠牲でも慈善でも献身でも平等でもない。……それは自由である。相互性は自由そのものである>(プルードン)
  132. <漸進的組合は銀行、貯蓄・保険・互助金庫になるだろう>(プルードン)
  133. <しかし私は、それ(公益のためにつくられた大規模なもの)がひとたび公衆にひきわたされれば、それらを国家の手中にとどめておく必要を決して認めない。私の考えでは、そのような中央集権化は、あまりにも過度の権力を形成する>(プルードン)
  134. <自己目的としての協同組織は純然たる宗教行為、超自然的な絆であり、実際的価値のない神話である>(プルードン)
  135. 司祭がついに得心すべきは、貧困こそが罪だということ、そして、宗教や神と戦うことこそがわれわれを永遠の命に値するものにする真の美徳だということである。(『貧困の哲学』第14章)
  136. 事実に向かいあおう。人類に尋ねよう。われわれは人類以上に良いガイドを得ることはできない。価値の振動のつぎに見えてくる分業は、利潤と賃金にたいして歴然とした影響を与える経済的な事実である。分業は、神が産業という大地にうちこんだ最初の道しるべだ。(『貧困の哲学』第3章 
  137. 慈善! 私は慈善を否定する。慈善などはまやかしだ。(中略)あなたが私に親切なのは、そこに利益があるからだ。私はただ自分が投じたコストの分を取り戻したい。コストの分だけ戻ればよい。なぜあなたはそういうことを拒否するのか。(『貧困の哲学』第6章)
  138. 資本家は、金や銀が真実の価値ではないと考えねばならない。(……)そして、かつて資本の生産性というフィクションが労働者の収奪に機能したように、これからは組織化された労働が資本を吸収してしまうだろう。(『貧困の哲学』第14章)
  139. 資本家は労働者を、自分たちの陰謀の使い走りにし、自分たちのどんちゃん騒ぎの仕出し屋にし、自分たちの略奪行為の共犯者にする。資本家は労働者をまったく自分とそっくりにする。そうしたうえで資本家は豪語する。革命の正義など達成されるはずがない、やれるものならやってみろと(第8章)
  140. 市民プルードンとはどんな人か? 市民プルードンはフランシュ・コンテの一農民で、種々の職業を経歴し種々の研究を行った人である。彼は『財産とは何か?』で「財産とは盗みである」と言い、フランス人をびっくりさせた。しゃれが分からないギゾーは彼を裁判にかけた。-エンゲルス6.547
  141. 社会科学とは社会がかつてはどうであったかとか、これからはどうなるかではなく、生成発展する社会をあるがままに合理的・体系的に認識することである。すなわち、つぎつぎに様相を変化させていく社会を総体としてとらえることである。(『貧困の哲学』第1章)
  142. <社会革命が政治革命を通じて到来するなら、社会革命は重大な危機にさらされるだろう>(プルードン)
  143. <社会革命は、政治的団体の全体およびそのあらゆる諸部分において自発的に遂行される、一つの変革である。>(プルードン)
  144. <(社会革命は)もっとも散文的な事柄であり、革命的エネルギーや偉大な言葉にはもっともふさわしくない事柄>(プルードン)
  145. 社会主義が人口問題にかんして見出した解決は、政治経済学と同様に、死と恥辱であった。ユートピアを唱える偽善者たちは、しきりに労働とか慎みといったことばをもちだすが、それはただ単純なひとびとにたいして、説教の低劣さをごまかすためのものでしかなかった。(『貧困の哲学』第13章)
  146. 社会主義者たちよ、われわれの最大の敵はユートピアなのだ。経験の光をかざし、決然とした足どりで歩きながら、われわれはただ前に進めという指令のほかには何も知らない。(『貧困の哲学』第10章)
  147. 社会主義者は「労働者が利害に関心をもつのは良いことだ」と言う。──私はさらに「それは正しいことだ」と言おう。しかし、利害関心は同意にもとづく責務よりも人間を強く動かし、はっきり言えば人間としての義務よりも強いもので、この利害関心をもつからこそ人間は罪を背負わされる(第8章)
  148. 社会主義は貨幣・競争・独占・結婚・家族・所有・自由、そして正義を、貧困の原因として廃止したあと、共有という偽善で立ち止まるべきではなかった。本来なら、さらに進んで労働を禁止し、絶望を説くべきであった。社会主義の最終的なドグマは自殺なのである(『貧困の哲学』第13章)
  149. 社会主義はじつに奇妙な理論だ。それは理念を説明せず、関係を明確にせず、義務の原理も権利も示さず、ただそれらをすべて廃止する。共産主義、それは科学ではない。それは虚無である。(『貧困の哲学』第12章)
  150. 社会主義をはっきりと見きわめるなら、それは悪の共有であり、個人のあやまちの責任を社会のせいにすることであり、各人の犯罪はすべて相互依存の関係にあることである。(『貧困の哲学』第12章)
  151. 社会的ユートピアは、プラトンの「アトランティス」からカベーの「イカリア」にいたるまですべて、その意味を圧縮すれば、けっきょくはひとつのアンチノミーをべつのアンチノミーで置き換えたものにすぎない。発明にかんしては、すべてにおいて利点はゼロである。(『貧困の哲学』第12章)
  152. 社会の構造的な矛盾をもちだして、人間の罪をカバーすることはできない。さらに言えば、社会の矛盾それ自体を眺めると、それはヒエラルキー体制の理論にほかならない。ヒエラルキーは社会の基本形態であり、したがって非難することのできないものなのである。(『貧困の哲学』第8章)
  153. 社会の次元においても、自然の次元においても、貧困は必然的なものである。貧困をまぬがれたいと望むのは、対数の法則をわれわれの都合にあわせて変え、算数を真理ではないものにしようと望むことにひとしい。(『貧困の哲学』第13章)
  154. 社会の真理はユートピアのなかにも慣習のなかにも見出しえない。(中略)この地球における人類の最終目的であると思われる決定的な組織化をなしとげるために、残されている課題は、われわれのあらゆる矛盾についての一般方程式を立てることだけである。(『貧困の哲学』第14章)
  155. <社会の第三の形態、すなわち共産主義と所有権との総合、それを我々は自由となづける。>(プルードン)
  156. <社会は政府を指導原理と考え、自分の理性を補うものにほかならないと考えた>(プルードン)
  157. 社会は必然と自由意志のあいだを、いわば天秤のように揺れながら少しずつ成立していく。正義は盗みがあるから成り立つ。社会において平等は、不動の水準として生み出されるのではない。平等は自然のすべての大法則と同じように、ひとつの抽象的な点である。(『貧困の哲学』第14章)
  158. 奢侈を憎んで禁欲を説き、自由を恐れて服従を説き、先の見通しにおびえて静寂主義を説く。共産主義は普遍的な窮乏であり、恒常的な窮乏である。いつもびくびくし、いつもいらいらする。創意工夫に乏しく、実行力に乏しく、風格に乏しい。つまり、共産主義は貧困の宗教なのである。(第12章)
  159. <自由が救われるためにフランスが敗北し、面目を失うことが必要だとすれば、あなたは躊躇するでしょうか。わたしはこのようなためらいを知りません>(プルードン)
  160. 宗教によって教育された人間は、この世での自分の分際を知り、分際にふさわしく行動し、その分際にかなうものを得て満足する。こういう人間はけっして政府をわずらわす存在になるはずがない。むしろよろこんで政府に身を捧げるだろう。ああ、愛すべき宗教よ。(『貧困の哲学』第3章)
  161. <(宗教は)われわれの本性のもっとも本源的で、もっとも破壊しがたい本能>(プルードン)
  162. <集権的管理を採用すれば必ずゆきすぎになるであろう>(プルードン)
  163. 自由に放任され、より上位の有効な原理によって導かれることがなければ、競争はあいまいな運動にすぎない。産業の力が無目的のまま振動し、どちらも有害な二つの極のあいだで永遠にゆれ続けることである。(『貧困の哲学』第5章)
  164. 集合的な産業の進歩のおかげで、個人の一労働日あたりの生産量はますます大きくなり、その必然的な結果として、労働者は以前と同じ賃金でも日ごとにますます裕福になっているはずなのに、社会にはますます栄える層と、その反対にますます貧窮する層が存在する。(『貧困の哲学』第2章)
  165. 収入を超えるほど重たい税を資本に課することはできないのと同様、課税の対象がどう分類されようと、資本家はつねに優遇され、プロレタリアばかりが税の不公正と抑圧で苦しめられる。まちがいは税の割り当てにではなく、財産の割り当てにある。(『貧困の哲学』第7章)
    プルードン
    恐るべし
  166. 10年の結婚生活は、妻が夫に嫌気がさすようになるのに十分な長さだ。男の知性も下落したり、心が堕落したりする。そういうばあい、男の性欲は衰えるどころか、欲望を満たしたことからふたたび盛り上がり、あらたな対象を求めるようになる。性的な欲情は前にも増して強くなる。(第13章)
  167. 自由は知性と同様に、そもそもは不確定で不定形な能力であるが、のちに外部の力によって価値と性格をそなえるようになる。つまり、最初は消極的な能力だが、訓練によって、すなわち教育によって少しずつしっかりと形が整った能力となる。(『貧困の哲学』第4章)
  168. 自由貿易、すなわち自由な独占は、資本と工業の領主たちの神聖同盟であり、分業・機械・競争・独占・警察によるいとなみ、すなわち小規模産業をおしつぶし、プロレタリアートを決定的に奴隷化するいとなみを、地球上のすべての地点で完遂させる巨大なすり鉢である。(『貧困の哲学』第9章)
  169. 自由貿易は、力と栄光を獲得した所有である。そして、このシステムを完成に導くためには、数百万の労働者が飢え、無数の罪のないひとびとが乳飲み子のころから底辺におしつけられ。多数の娘や妻が売春婦となり、多くの魂が売り渡され、気概のある人間がいなくなってしまわなければならない。(第9章)
  170. 自由貿易は、略奪と貧困の体制を地上の全面で中央集権化する。この体制は、最初は文明から自然に生まれたが、しかし、文明がその法則を意識しはじめたらただちに崩壊すべきものである。(『貧困の哲学』第9章)
  171. 重要な点は、監督の労働と末端の肉体労働は値段がちがうというのが当たり前の常識になっている点だ。労働日の価格が下がる必然性もそこにある。こうして労働者は、しごとのつまらなさによって精神的に苦しめられたあと、こんどは報酬の安さによって肉体的に打ちのめされる。(『貧困の哲学』第3章)
  172. 商業において、横領と交換は同一だ。そして、本当に驚かされてしまうのは、その体制をいずれの側の良心も弁解しないことのみでなく、そのような体制がまさに正義によって命じられたものだという点である。(『貧困の哲学』第14章)
  173. 商業簿記は、形而上学のもっともみごとで、もっとも有益な応用のひとつである。簿記はひとつの科学である。なぜなら、対象や領域がきわめて限定されたものであっても、簿記は正確さや確実性の点で算術や代数学に少しも負けず、その意味でまさしく科学の名に値するものだからである。(第10章)
  174. 商人は、自分が口にした意見を大事にせず、平気で捨てたり、またもちだしたりする。自分にも責任があるのに、ひとが約束を破ると痛烈に攻撃する。商人は苦情を言うとき嘘をつき、セールスでも嘘をつき、収支決算でも嘘をつく。ものごとを誇張し、軽んじ、あるいは過大に評価する。(第8章)
  175. 食糧の保有者、社会の倉庫係はどうして、きまって物不足に見せかけ、警鐘を鳴らし、物価の上昇をひきおこそうとするのだろうか。消費者大衆は目先のことしか見えないので、思いのままにあやつれるからだ。気温の多少の変動が良い口実になる。(『貧困の哲学』第8章)
  176. <諸君が労働の組織化について語るとすれば、それはあたかも自由を根こそぎにすることを提案するようなものである>(プルードン)
  177. <所持を保全しながら所有を廃止せよ。ただそれだけの修正によって諸君は法律、政治、経済、諸制度のいっさいを変えるだろう。諸君は地上の悪を除き去るのだ。>(プルードン)
  178. 所有が打ち倒されたら、共産主義の仮説の検証が問題となる。そのとき、共産主義は所有と同様、持続的に衰退すること、そして、共産主義はユートピア、すなわち無にひとしいこと、また、共産主義はたえず再生が試みられ、そのたびに共産主義は所有のカリカチュアに変わることが明らかになる(第12章)
  179. 所有者は、自分が社会の地代を徴収しているにすぎないことを知るべきである。そして、自分がかつて戦争を利用して土地への立ち入りを禁止できたとすれば、こんどはプロレタリアが協同(アソシアシオン)によって収穫物への立ち入りを禁止できるはずだ。(『貧困の哲学』第14章)
  180. 所有制の社会、およびその代言人であるマルサスにおいて、弾圧手段の第一列にあらわれるのは飢餓・疫病・戦争で、これらが所有がくだす極刑の執行人たちである。じっさい、今日においてもなお、増えすぎた人口の排泄口はこういうものなのだ(『貧困の哲学』第13章)
  181. 所有という名詞は、原理においては強盗や泥棒と同義語なのだが、この時点から長い年月のうちに、それとわからぬ所有の変化によって、また宗教的なスタイルできわめてしばしば表明される未来への期待によって、まさしく泥棒や強盗の反対語になった。(『貧困の哲学』第11章)
  182. 所有とは何か。所有は何に由来するのか。所有は何を望むのか。これが哲学にとってもっとも興味深い問題なのである。すぐれて論理的な問題、そしてその解決が人間と社会と地球の存在にかかわる問題なのである。(『貧困の哲学』第11章)
  183. <所有とは不労収得権、すなわち働かずに利得する力である。>(プルードン)
  184. 所有の共同化を協同(アソシアシオン)と取りちがえないようにしよう。所有者=個人なら慈悲や正義や恥にたいする感受性を示すことができるが、所有者=団体は情と無縁で、良心の呵責もない。(『貧困の哲学』第11章)
  185. 所有の体制のもとでは、本質的に集合的である労働がもたらす剰余は、全体が地代として所有者の手に渡る。しかるに、この偽装的な横領と、共有財産の詐欺的な抜きとりとのあいだにどんなちがいがあるだろうか。(『貧困の哲学』第11章)
  186. <所有の深い意味が見出されるのは、とりわけ家族においてである。家族と所有とは相互に支えあいながら、両者を結合する関係によってのみ意味をもちながら、前進する>(プルードン)
  187. 所有は、使用し乱用する権利、一言でいえば専制である。専制は、ものの破壊を志向していると見なされるものではない。使用し乱用する権利とは、そのように理解されるべきものではない。破壊のための破壊は、けっして所有者があらかじめ狙いとするものではない。(『貧困の哲学』第11章)
  188. 所有は先占の権利であり、かつ排除の権利である。/所有は労働の対価であり、かつ労働の否定である。/所有は社会の自発性の産物であり、かつ社会の崩壊である。/所有は正義の制度である。が同時に、所有、それは盗みである。(『貧困の哲学』第11章)
  189. <所有は他の所有にたいして無力である>(プルードン)
  190. 所有は、ものの保有においてのみならず、ものの生産においても反社会的である。労働用具を絶対的に支配する女主人は、不完全でいんちきでひどい生産物しかつくらない。消費者はもはや、まともなものを与えられず、ただ金を盗まれるだけだ。(『貧困の哲学』第11章)
  191. <所有を支配し吸収し変革すべき重大な経済的、社会的事実は交換である>(プルードン)
  192. 神学的な問題、宗教の謎はすでに説明がされており、知識の価値や正しさを対象とする哲学的な問題も解決されている。残るは社会的な問題であるが、それは先の二つの問題とあわせてひとつをなす。そして、誰もが願うその解決に本質的にかかわるのが所有である。(『貧困の哲学』第11章)
  193. 進歩それ自身がひとつの特権なのではないか。荷車も馬ももたない人間は、永遠にぬかるみを徒歩で行くことを強いられるのではないか。はっきり言おう。人間は(中略)どん底まで落ちてしまうと、はいあがろうという意欲さえ心のなかから失せてしまうのである。(『貧困の哲学』第3章)
  194. <人類の組織は共産主義的でも社会主義的でも所有者支配でもない。それは相互主義的である>(プルードン)
  195. 信用が社会にもたらした環境は、われわれが想像しうる以上の最悪のものであった。そこでの人間は、ものを最大限に乱用できるが、ものを最小限にしか所有しえなかった。(『貧困の哲学』第11章)
  196. 信用の制度が発達したのち、独占の状態はさらに悪化する。/生産者たちは、協同することが大事なのに、その協同がまったくできなくなった。かれらは労働への意欲も労働の精神も失った。いまはみんな賭博師である。競争への盲信に、ルーレット博打への熱狂が加わる。(『貧困の哲学』第11章)
  197. 信用は嘘をつく。ゆえに信用は盗みである。この二つの観念の結びつきは、不生産性と貧困の結びつきと同じくらい必然である。(『貧困の哲学』第10章)
  198. 信用は、その本質からしても目的からしても、宝くじと同様、与える分よりもかならず多くを要求するものである。(中略)それをしなければ信用ではない。したがって、そこにはかならず大衆からの略奪があり、またどのように変装しようとも、それは資本による労働の一方的な搾取なのである。(第10章)
  199. 人類3000年の歴史から私が学んだことは、ひとにむかって神の名をもちだすのは、ひとの自由か、もしくはひとの財布を奪おうとする連中だということだ。(『貧困の哲学』第6章)
  200. 人類は、ふらふらと左右に揺れて歩きながら、たえず本道に戻ってくる。人類の進歩は人類の伝統を再生させることにほかならない。さまざまの体制は、見かけのうえでは対立しあっているようでも、べつの観点から眺めれば、つねに同一の基盤をもつことが明らかになる。(『貧困の哲学』第14章)
  201. ストライキによって賃金が上昇すれば、それが物価全般の高騰につながらないことは絶対にありえない。(中略)そういうやりかたで賃上げしても、労働者はけっして富を手に入れることができないし、富よりはるかに大切な自由も手に入れることができない。(『貧困の哲学』第3章)
  202. <すべての生産物は、生産者の手から生じるのだが、あらかじめ社会によって抵当権が設定されている。>(プルードン)
  203. すべてを国内で生産するというのは、今日ではとんでもない空想とされるが、じつはそれこそが商業封建制への感染をふせぐ唯一の保障でもあることをしっかりと認識しなければならない。イギリスで発生した産業封建制は、コレラのようにヨーロッパ全土を侵略しかねない。(『貧困の哲学』第9章)
  204. 性愛の技術は、もっとも教養があり、あらゆる芸術にたいしてもっとも理解があったひとびとによって体得されていた技術であった。その技術は表現においても多様で、形式においても豊かであった。(『貧困の哲学』第13章)
  205. 税金、したがって警察──われわれはこの二つの概念を今後は区別しない──は、貧困のあらたな源泉である。(『貧困の哲学』第7章)
  206. <生産者自身、社会を構成する諸個人の数に等しい分母をもつ一分子としてしか、自分の生産物に対して権利をもたない。……労働者は自分の生産物の所持者ですらない。>(プルードン)
  207. 生産と消費がぴったり同一のものをあらわす二つのことばであるのと同様に、教育は労働を身につけることであり、また豊かさを身につけることであると考えられる。ものを楽しむ能力は、ものを生産する能力と同様に、科学と訓練を必要とするのだ。(『貧困の哲学』第13章)
  208. <生産の組織化は、社会主義者の会議でおしゃべりをすることによっておこなわれるものではない。それは仕事に参加することによって、働くことによって、生産することによっておこなわれるのである>(プルードン)
  209. 生産物の自然価格をそこねるような労働奨励金や産業への報奨金はすべて、無償の贈与である。すなわち、権力が消費者からまきあげた金を、何の見返りもなしに自分のお気に入りの業者にわたす賄賂である。(中略)つまり、一種のペテンである。(『貧困の哲学』第5章)
  210. 政治経済学が明らかにしたように、そうした労働の組織化は一部分の貧困を解消するが、同時に他の部分の貧困をかならず激化させる。それが労働の組織化の本質なのではないか。われわれが知るべきはそれだ。貧困の問題は、まさにこういう形で提起されねばならない。(『貧困の哲学』第3章)
  211. 政治経済学の観点からすれば、社会の進歩は価値の構成の問題をたえず解決していくことにある。すなわち、生産物の比例性と連帯性を確立していくことにある。(『貧困の哲学』第3章)
  212. 政治経済学は価値の異常性とエゴイズム優先を公認し、それを永続化しようとする点で、まぎれもなく不幸の理論であり、貧困の体制化である。(『貧困の哲学』第2章)
  213. 政治経済学は最初から、プラトンやルソーなど古今の著述家の誰もが不可能と見なしてきた人間の暮らしの平等、財産の平等を、一種の矛盾によって肯定しているのである。(『貧困の哲学』第2章)
  214. 政治経済学は私的所有の不健全な慣習を弁護するが、まさにこの慣習のせいで、商業においても工業においても、また芸術においても国家においても、誰もがたえず自分の過大評価を求め、法外な報酬や援助金や年金や不相応な名誉を欲しがっているのではないか。(『貧困の哲学』第2章)
  215. 政治経済学は、そのすべてのカテゴリーにおいて宗教の観念の矛盾を再生する。(『貧困の哲学』第14章)
  216. <正当性、合法性、寛容という三つの性格が革命の正義を構築する>(プルードン)
  217. <政府のもっとも古い要素、権威の城砦が宗教であることには異論の余地はない>(プルードン)
  218. <(政府万能主義的偏見は)もしも政府が一方の手から他方の手に移るならば、……人民のために労働と福祉と自由を確保することが可能になると信じる>(プルードン)
  219. 生命保険においては長生きする者が早死にする者によって搾取されていると言える。つまり、ここでもやはり不幸を配分することが不幸にたいする保険とされる。不幸の深さを不幸の広がりに変えて浅くするのが、やはりその秘訣なのだ(『貧困の哲学』第10章)
  220. 税を減らすとか税を公平にするとか、権力の側は宣伝するし、各党の指導者たちも強く要求してきたが、そういう希望はすべてまやかしである。独占の体制のもとでは、減税がなされることはありえず、税負担の公正な配分もありえない。(『貧困の哲学』第7章)
  221. 絶対なるものにわれわれはまったく近づけず、ただその二項対立をとおしてしか理解できない。そして、そうした項のみがわれわれにとって経験可能なものなのである。(中略)信仰にとっては単一なるものが重要だが、科学にとっては二項対立が第一の条件なのである。(『貧困の哲学』プロローグ)
  222. 潜在能力として初源的には平等であったように、社会の進歩は教育方法をたえず改善して、知性をふたたび万人平等なものにしなければならない。そうしないかぎり、労働は一部の人間にとっては特権、その他の人間にとっては懲罰であり続けるであろう。(『貧困の哲学』第4章)
  223. (前略)なぜなら、権力を構成する諸条件、すなわち権威・所有・ヒエラルキーがそのまま残っているとき、普通選挙とは民衆が抑圧されることに自ら同意することにほかならないからである。つまり、普通選挙とはもっとも愚かなペテンにすぎない。(『貧困の哲学』第7章)
  224. 相続というのは、家庭の希望であり、家族のつっかい棒であり、所有の最終根拠である。相続がなければ、所有は空語にすぎず、妻の役割は謎となる。社会主義的な共同作業所においては、男の労働者と女の労働者を区別する意味があるのか。(『貧困の哲学』第11章)
  225. 相続の廃止は、共和主義者のあらゆる夢想と同じく、バカげたイデオロギーから生まれる。つまり、人間の自由な行動を全面的に権力の強制力で置き換え、現実の存在を理性がつくった存在で置き換え、命や自由をひとつの妄想で置き換えようというイデオロギーである。(『貧困の哲学』第11章)
  226. そこでわれわれは、社会科学によって獲得した理念にもとづいて、社会主義者にも経済学者にも反対する。その立場を明言したい。すなわち、労働はこれから組織すべきものでもなく、またすでに組織されたものでもない。労働は組織され続けるものなのである。(『貧困の哲学』第1章)
  227. 組織化された社会においては、労働の量は分業や機械などによって減少していきそうだが、じつは反対に、労働者集合体にとっても個々の人間にとっても増大していく。それがまさしく経済発展の事実なのであり、また経済発展の理由なのである。(『貧困の哲学』第13章)
  228. その固有の意義およびその傾向において考察すれば、競争は集団の活動のあらわれであり、その実践の様態であり、社会の自発性の表現であり、民主主義と平等の象徴であり、価値の構成のもっともエネルギッシュな道具であり、協同の支えである。(『貧困の哲学』第5章)                                             
  229. <たがいに連帯せよ、その自立性を捨てよ、契約の絶対の掟のもとに身を置くべし>(プルードン)
  230. たしかに、株主の観点に立てば民間企業による経営のほうが絶対によい。しかし、民営化すれば、投機が横行し、独占が公共事業を食いものにするので、社会全体の利益がその犠牲となる。(『貧困の哲学』第7章)
  231. ただ生きるためにものを食うというのは、人間にとって何になろう。食事を味わい深いものにするには、変装とファンタジーと気取りが必要だ。(『貧困の哲学』第13章)
  232. たとえすべての人間が愛を宿命づけられているとしても、社会の秩序において、すべての人間が結婚および親になることを宿命づけられているわけではない。人格として徳が育てばそれだけで、愛については何も失うことなく、一生を完全に純潔のまま貫くことができる。これは人間だけの特権である(13章)
  233. 誰もが税金は金持ちが払うべきだと言う。税金は贅沢品やムダなものにかけるべきで、生活必需品にはかけるべきではないと言う。要するに、税金は特権者のための一種の特権だとされる。大まちがいの考えかたである。なぜなら、それは事実上、特権の正当性を認めることだからだ。(『貧困の哲学』第7章)
  234. 単純労働者との関係においても、商人の手口はきわめて巧妙で、きわめて偽善的である。小商店の店主から大きな卸売業者にいたるまで、商人はこうした労働者を上手にこき使うことができるし、労働者と上手にわたりあって、賃金をかなり安くすることができる。(『貧困の哲学』第8章)
  235. 地球のどの地帯の住民も、まず最初はその土地の自然の産物で生活していた。そしてのちに、剰余のおかげで、その国で生産されないものまで獲得するようになる。(中略)ところが、独占が支配するようになった地球においては、労働者はもはや無国籍の有閑階級につかえる農奴でしかない。(第9章)
  236. 秩序によって無秩序を消し去る方法、「秩序で無秩序を追放する」方法を知る者はいない。そこで経済学者は、存在するものはすべて良いという立場にたつことにした。改革の提案はすべて政治経済学に敵対するものと見なすことにした。(『貧困の哲学』第1章)
  237. <抽象的な人民主権ではもはやない、労働者大衆の現実的な一つの主権を我々はもつ。>(プルードン)
  238. 長期の動乱がくりかえされたおかげで、ここ数年、社会主義に魅力を感ずる人間がわれわれのあいだでも増えてきた。すると、これまで議論には興味も関心もなかったひとびとが、それに恐怖を覚えて、宗教的な思想や君主制の思想に駆け込む。(『貧困の哲学』第1章)
  239. 貯蓄銀行の経済上の秘密の目的は、貯金という手段で、食糧暴動や同盟やストライキを予防することにある。これは、いつの日にか労働者を襲って労働者を絶望においやるかもしれない不幸を、労働者の人生全体に振り分ける。(『貧困の哲学』第10章)
  240. 貯蓄銀行の政治的で体制的な目的は、それに求められる信用によって、民衆を事物の秩序にしばりつけることにある。なるほど、社会の安定、市民の平等、産業による権力支配にむけてのあらたな一歩であるが、しかし、同時にそれはエゴイズムの助長であり、信用への失望である。(『貧困の哲学』第10章)
  241. つまり、あらゆる政府を否定することこそが完璧な政府のありかたなのではないか。いかなる政治的幻想からも宗教的幻想からも魂を解放しなければならない。お先棒かつぎにもならず、背教者にもならないためには、いまではそれのみが唯一の方法なのである。(『貧困の哲学』プロローグ)
  242. <手のくぼみに思想をもつものは、頭に思想をもつものよりも、しばしば知的な人間であり、あらゆる場合により完全な人間である>(プルードン)
  243. <手労働の熟練は整備された設備にとってかわられ、人間と素材の役割は逆転している。精神はもはや労働者のなかにはなく、機械のなかに移っている>(プルードン)
  244. 同時に同一の視点から肯定もされ否定もされるようなものが真理と言えるのだろうか。矛盾があればそれは誤りの証拠だとした昔の論法はお払い箱にしなければならないのだろうか。(中略)アンチノミーを正しく理解しておかないと、かならずそれはたちまち矛盾とひとつになる。(『貧困の哲学』第2章)
  245. <闘争がおこれば、論理的に見ても力の点でも勝利するのは中央集権である>(プルードン)
  246. 独占に独占で対抗することは、盗みに盗みで対抗することだ。(中略)経済学者は、労働者の権利を問題にするばあいには国内における独占を擁護し、有閑階級の消費を問題にするばあいには外国人による独占を擁護する。経済学者は、利害闘争の理論を唱えるために、すべてを利用するのである。(第9章)
  247. 独占の結果としてあらわれる光景のうちで、胸を苦しくさせる光景は、恵まれない労働者たちが貧しさを自分たちのせいにして、お互いに責めあうことである。そして、互いに団結して支えあえば、賃金の下落を阻止できると思い込んでいることである。(『貧困の哲学』第6章)
  248. 独占の体制のもとでは、信用の組織化は社会の全財産で博打をすることである。国民どうしが、あり金全部を賭け、破産によってたえず失い、あるいはたえず取り戻す。社会のなかでの粗生産物と純生産物の差こそ、貧困の唯一の本当の原因であるのに、(中略)気づかれぬままとなっている。(第10章)
  249. 独占の体制のもとでは、税は純粋にたんなる反発にすぎないものになっている。税は、独占者の保有物に手を出したりはするが、けっきょくは賃労働者の立場をさらに悪化させてしまうような、一種の非合法活動にすぎない。(『貧困の哲学』第7章)
  250. 独占は抵抗する。自分が払うべきであったのに現実には払っていない分担金をここで弁償するかのように、なんと労働の名で、そして労働の利益のためと称して、自由貿易に反対する。国内商業の特権を叫ぶ。(『貧困の哲学』第9章)
  251. 独占は当然ながら競争の反対物である。競争の廃絶を唱えるユートピア思想は、協同とか友愛が競争の反対物だとするが、すでに指摘したとおり、そういうユートピアを打ちのめすにはこの単純な定義を示すだけでたりる。(『貧困の哲学』第6章)
  252. ところが、社会主義はすっかり図に乗り、ついには共産主義のユートピアにまで走ってしまった。社会はもはや伝統を重んじることもできず、また、ちょっとでも失敗すれば数千年もあともどりさせられるような実験に没頭することもできず、途方に暮れている。(『貧困の哲学』第1章)
  253. 土地が何の役にも立たないなら、労働が土地をすきかえして肥沃にして活用して土地に価値を与えないなら、所有にとって土地も労働も大事なものではない。(……)労働者も自分が生産したものをすぐに取りあげられる。労働者は主人が手なずけた狩猟犬のようなものである。(『貧困の哲学』第14章)
  254. 土地の賃貸は、金銭およびあらゆる動産・不動産の賃貸と同様に、自然発生的で普遍的なことである。その根源はわれわれ人間の本性のもっとも深いところにあり、そしてふつうに成長すれば、やがて社会を組織するもっとも強力な原動力のひとつになるだろう。(『貧困の哲学』第1章)
  255. どちらも似たような宗教、というか、どちらも同じ宗教もどきでありながら、社会主義と伝統的なキリスト教との争い、すなわち人間と社会の争いは、けっきょく神の否定に帰着せざるをえない。(『貧困の哲学』第8章)
  256. 富が滅び、豊かさが消えてなくなるのを見たくなければ、労働者のしごとをたえず、いままで以上に増やし続けなければならない。機械のおかげでわれわれは豊かになると同時に、自分たちの労働を廃止、あるいは軽減できるなどと想像するのは、存在するはずのない永久運動を求めるにひとしい。(第13章)
  257. どんな政治党派の価値についても、まったく幻想をもたなかったのは商人だけである。商人は政治のどの党派についても、ひとしく自分が利用できるもの、すなわちどれもそろってバカだと考える。(『貧困の哲学』第8章)                                                   
  258. 長いあいだ自分のしごとに励んできた労働者はいつのまにか芸術家になってしまう。(中略)見かけはどれほどつまらない特殊性であっても、かれらはそのしごとに突然、輝かしい奥行きを発見したのである……。(『貧困の哲学』第13章)
  259. <なぜ社会にはかくも多くの苦痛や貧困があるのか。人間は永遠に不幸であらねばならないのだろうか。>(プルードン)
  260. なぜなら、先人も言うとおり、体系的な矛盾はかならずあらたな構築を予告するものだからである。そのうえ私は、この構築のための土台をすえることはすませた。したがって、経済の矛盾の体系を明らかにすることこそが、普遍的な協同の基盤となるのである。(『貧困の哲学』第3章)
  261. なるほど、社会の現状をそのまま肯定するひとはほとんどいない。しかし同時に、ほとんどのひとはユートピアをいぶかしく思う。つまり、もう誰もが理解しているように、真理は《保守》と《変革》という二項の和解という形式のなかにあるのである。(『貧困の哲学』第1章)
  262. ナンセンスのきわみである。労働者はあなたにとってコストであるとしても、労働者はあなたの商品の買い手でもある。あなたが労働者を追い払えば、かれらはもはや商品を買うことができない。そのとき、あなたは自分の商品をどう始末するつもりか。(『貧困の哲学』第4章)
  263. <二〇年にわたってくり拡げられたわたしの経済思想のすべては、農=工連合という三つの言葉に要約される。私の全政治的見解はおなじような公式に還元される。すなわち政治的連合あるいは分権化>(プルードン)
  264. <二〇世紀は連合制の時代を開くだろう。>(プルードン)
  265. <二〇世紀は連合の時代を開くであろう。さもなければ人間は千年にわたる煉獄をくりかえすことであろう>『連合の原理』(プルードン)
  266. <人間が協同組織を作るのは、必ず不本意ながらであり、ほかにしようがないからなのである>(プルードン)
  267. 人間が、子どもができるという結果にはつながらないようにして、快楽だけを望み、追求していくと、結婚はいわば余計な制度となる。青年たちは生殖と無縁の性生活をおくる。家族は消滅する。そして家族の消滅とともに所有が消滅する。経済の運動は解決をもたぬまま、社会は野蛮状態に戻る。(第13章)
  268. <人間だけが主観的・客観的なあらゆる宿命論から自己を解放しようとし、また実際に解放するのである>(プルードン)
  269. 人間にかかわる事実はいずれも人間の理念の体現である。したがって、社会経済の法則を研究することは、理性の法則を理論化することであり、哲学を創造することである。ここから、ようやくわれわれは本来の研究のみちすじをたどることができる。(『貧困の哲学』第4章)
  270. 人間の悪意は、時代とともにあらわれかたややりかたが変わる。中世の領主は大通りで旅人から金を巻き上げながら、その旅人を自分の城でもてなした。商業封建制はそれほど獰猛ではないが、プロレタリアを搾取しながら、プロレタリアのために病院を建てる。(『貧困の哲学』第8章)
  271. 人間の一生は矛盾ばかりで織りなされている。その矛盾のひとつひとつがそれ自体、社会構造のひとつのモニュメントであり、公的な秩序と家族の幸せの一要素なのである。そもそも家族というのも、両極の性の神秘的な協同によってのみ生み出される。(『貧困の哲学』第10章)
  272. <人間はアソシアシオンに反撥する。協同していないかのように協同すること——これが問題だ>(プルードン)
  273. 人間は、かつてまどろみと怠惰によって身を滅ぼしたように、こんどは自分の力を10倍にする分業によって滅び、さらに力を100倍にする機械によって滅びる。人間にとって悪の第一の原因はつねに人間自身のうちにある。(中略)まさしくこの原因を打ち破らねばならない。(『貧困の哲学』第13章)
  274. 人間は芸術家としての本性によって、自分の労働を理想化する傾向をもつわけだが、自分の性愛を理想化するのも人間には必要なことである……。(『貧困の哲学』第13章)
  275. <人間は、私的利益と普遍的利益との対立を、本能と理性との対立とおなじく和解しがいたいものと考え、新たな調停者を求めた。国王がそれであった。こうして人間は、自分の道徳性と判断の主体性を脱ぎすて、自分の自主性を放棄した>(プルードン) 
  276. 人間は自分が自分であること以上に貴重なものをもたないし、したがって、自分のことは自分で責任をとるということ以外に戒律をもたない。自己犠牲を説く理論は、奨励の理論と同様に、社会を破壊し道徳を破壊するペテン師の理論なのである。(『貧困の哲学』第5章)  
  277. 人間は蛇のように有毒で、虎のように残忍で、豚のように貪欲で、猿のように好色だ。しかし同時に、犬のように忠実で、馬のように高潔で、蜜蜂のように勤勉で、鳩のように貞淑で、ビーバーや羊のように社交的である。しかも、そのうえに人間は人間である。(『貧困の哲学』第8章)
  278. 年功序列にはつぎのような欠点がある。すなわち、労働や思考という本質的に自由で主体的ないとなみを硬直化させる。権力の代理人のあいだにさえ権力行使の障害をつくりだす。偶然にまかせること、あるいは無能であることが天才の誉れを受けたり、大胆さの報償を受けたりする。(『貧困の哲学』第7章)
  279. 「能力の不平等は義務の不平等をあらわす」。──「自然の恵みが多かったひとは、同胞にたくさん与えなさい」。──ほかにも耳に心地よく感動的なフレーズがいくつもある。それらは、頭がからっぽのひとに効果があるが、われわれが想像しうるもっとも無邪気なものでもある。(『貧困の哲学』第6章)                                                       
  280. 歯車仕掛けの現代の社会においては、労働も資本もどちらもひとりでには停止しない。資本は利子が二倍になれば増えるのと同じように、労働は分業と機械によって無限に重たくなる。労働と資本は、創造や時間と同じように、果てしもなくずっと追求され続けるものである。(『貧困の哲学』第13章)
  281. はっきり言うが、関税を生み出した諸原因はずっと存続するだろう。したがって、そこには社会が解決していくべきアンチノミーが永遠に存在するのである。その解決がなされないかぎり、どの社会も互いに失望し、互いに貧しくなるしかない。(『貧困の哲学』第9章)
  282. <反動が革命を規定する>『19世紀の革命観』(プルードン)
  283. 販売あるいは開発の特権を語る者は、必然的に購入と消費の特権を語り、けっきょく両方の否定にいたる。こうして、独占者は賃金生活者にたいして生産を禁じ、同時に消費を禁ずる。競争は市民戦争であり、独占は捕虜の虐殺である。(『貧困の哲学』第6章)
  284. ひとが生きることはひとつの永久戦争である。欠乏との戦い、自然との戦い、同じ人間との戦い、したがって自分自身との戦いである。友愛と自己犠牲にもとづく平和な平等をとなえる理論は、この世における財産と快楽の放棄を説くカトリックの教えの模造品にすぎない。(『貧困の哲学』第5章)
  285. ひとつの公式の発見が幾何学にあらたな可能性をもたらすのと同様に、ひとつの機械の発明は肉体労働を省略させて生産者の力を増大させる。分業のアンチノミーは、すっかり解消するわけではないにせよ、機械によってバランスがとれ、中和されると考えられる。(『貧困の哲学』第4章)
  286. 人手を減らすことは価格が下がることであり、したがって、市場の拡大と同義である。(中略)反面、人手を減らすことは市場の縮小と同義である。なぜなら生産者は、所得が減れば、ものをあまり買えなくなるからだ。(『貧困の哲学』第4章)
  287. ひとは、商工業において、経営者として労働者の賃金からいくばくかを差し引くたびに、あるいは、自分が受けとるべきもの以上の利息を受けとるたびに、盗んでいる。(『貧困の哲学』第11章)
  288. <人びとは、反動的傾向に反対するために、革命家ではなくて純潔な乙女を求めている>(プルードン)
  289. 100年ほど前から公式に「政治経済学」という名がついたさまざまの、そしてバラバラの理論のすべてを、私は科学と見なさない。政治経済学は、その名の語源とはうらはらに、所有の法典、あるいは太古以来の所有の慣例にすぎない。(『貧困の哲学』第1章)
  290. 平等は社会の最高の法則であるが、しかし、それは固定した形ではまったくない。それは無限につらなる差分の平均である。したがって、平等は経済の進化の第一段階、すなわち分業のときからわれわれの前にあらわれた。こうして、平等は摂理による立法のときからずっとあらわれ続けている。(第14章)
  291. 貧困というと経済学者はいつでも労働者自身のせいにする。すなわち、貯蓄心のなさ、怠惰、自尊心の欠如、無知、身持ちの悪さ、早婚などをもちだす。こんな駄弁に何の意味があろう。こうした不道徳、不品行はすべて貧困の外観にすぎないのだ。(『貧困の哲学』第3章)
  292. 貧困の原理はまったく社会的であり、貧困は社会全体の犯罪だ。(『貧困の哲学』第10章)
  293. 貧困の先行、これは未開状態の特徴でもあったが、所有の体制のきわだった特徴でもある。そして、これこそ私がマルサスに反対し、かれの理論を無価値なものにするもっとも主要な普遍的事実なのである。(『貧困の哲学』第13章)
  294. 貧困の様態は、科学的に属・種・変種に分類されてきた。貧困はそれでひとつの完全な博物学であり、人類学のもっとも重要な一部門である。(『貧困の哲学』第3章)
  295. 貧困は怠惰の結果でもあるが、同時に貧困は労働の結果でもあるのだ。(『貧困の哲学』第3章)
  296. 貧乏人を怠け者だと言って非難するのは、まず最初に一般の民衆である。下層階級のひとびとが、一度も救貧院に行ったことがないのを貴族のしるしみたいに自慢したり、生活が一番苦しかったときにも公的な施しをいっさい受けなかったことを自慢したりするのは、きわめてよくある光景だ。(第8章)
  297. フーリエ主義は、結婚と家族によって表明される正常で神聖な占有を嫌悪し、姦淫の全体化を心の底から願い、ひたすら追求する。それがフーリエ主義による人口問題解決の秘密なのである。(『貧困の哲学』第13章)
  298. フーリエとその一派は、つねにこのような矛盾した与件にしたがって行動した。つまり、労働者をアンチノミーの総合によって、あるいは資本や所有よりも上位の原理によって解放することを求めず、つねに資本の補助金と権力の恩恵を乞い願うばかりだった。(『貧困の哲学』第13章)
  299. 不生産者は服従すべきであるのに、笑止千万にも不生産者が命令する。(『貧困の哲学』第14章)
  300. <普通選挙の不可侵性は、自由の守護神である>(プルードン)
  301. 不平等は、平等の否定ではあるが、それ自体のうちに自らの不当性のしるしと崩壊の予兆をはらんでいる。そのことがかつては誰にも理解されなかった。(『貧困の哲学』第3章)
  302. <普遍的協同組織は協同組織の無効性の同義語である>(プルードン)
  303. <普遍的協同組織は真の合言葉である>(プルードン)
  304. 分業が進めば進むほど賃金は下がっていく。だから、われわれは細分化された奴隷労働に従事しても、そのおかげで豊かになれるわけではないことは明白だ。分業は人間を機械に変えてしまうだけである。(『貧困の哲学』第3章)
  305. <分業がなければ、才能や能力は生まれえないし、産業家は永続的な幼稚さのなかに停滞する。しかもいまや同じ原理が我々を、この根元的な愚鈍にひきもどしている。>(プルードン)
  306. <分業の結果、労働は創意も理想もない機械的、画一的、単一的、初歩的な操作になり果てた!>(プルードン)
  307. 分業の総合的な組織化がなされるまで、分業はその性質上、どうしても人間どうしの身体的・精神的・知的な不平等の原因になる。それにたいしては、社会も良心もともに何もできない。そこには必然という事実がある。金持ちも分業の末端労働者も、それについては何の罪もない。(『貧困の哲学』第8章)
  308. 分業や機械によって人間は、本来であれば科学と自由にむかって自分をしだいに高めていくはずなのに、人間は分業によって、また機械によって動物と化し、奴隷と化す。(『貧困の哲学』第14章)
  309. 文明におけるもっとも驚くべき現象、経験によってもっともはっきりと証明されながら、理論家たちにはもっとも理解されなかった現象、それが貧困である。(『貧困の哲学』第13章)
  310. 平等実現のために打破すべき最大の障害は、けっして金持ちたちの貴族的な高慢さにあるのではない。最大の障害は貧乏人たちの御しがたいエゴイズムにある。(『貧困の哲学』第8章)
  311. 平等は社会の最高の法則であるが、しかし、それは固定した形ではまったくない。それは無限につらなる差分の平均である。したがって、平等は経済の進化の第一段階、すなわち分業のときからわれわれの前にあらわれた。こうして、平等は摂理による立法のときからずっとあらわれ続けている。(第14章)
  312. 平均寿命の数値が正しく、しかもますます延びていながら、同時に貧困もたえず増大していくのはありうることなのだ。そもそも、ここで重要なのは死亡年齢ではなく、人間が患うことなく生きられる時間の長さなのである。(『貧困の哲学』第13章)
  313. <平民の解放を要求しながら、平民を叛徒にするか啞にしてしまうことになる選挙の方式を平民の名において受入れること——これは何たる矛盾であろうか>(プルードン)
  314. <変化は急速である。われわれは、もっとも有力な個人でさえも単に数字で呼ばれるような巨大な株式会社にむかって進んでいる> 
  315. 弁証法とは、まさしく知性がひとつの観念からべつの観念へ、より高次の観念へ移っていく、すなわち、ひとつの系列を通り抜けていく独特の歩みかたにほかならない。(『貧困の哲学』第11章原注)(プルードン)
  316. 貿易のバランスが諸国民のあいだで正しく保たれるなら、それはけっして保護貿易や自由放任のように、隷従や特権に堕落することはありえない。まさしくこのことが、真実と有益な影響とによって証明される。(『貧困の哲学』第9章)                                         
  317. まさに一部の人間しか進歩の側にいれてもらえなかったことが、生活の不平等は自然で宿命的なものだという考えかたをながく保たせ、身分制を生みだし、どの社会でも上下の構造をつくってきたのである。(『貧困の哲学』第3章)
  318. まず独占者がコストや利潤や利子で損得を計算し、賃金生活者=消費者はそのあとで自分たちの分を計算する。そのとき、賃金生活者は労働の契約で100もらう約束だったのに、じっさいには75しかもらっていないことに気づく。したがって、独占者は賃金生活者を破産においこむ。(『貧困の哲学』第6章)
  319. 無一物で、寄る辺もなく、その日暮らしの者たちは、わが身さえ守れず、ましてや結婚することなど話にもならない。何の基盤もないまま結びつくよりは、結びつかないほうがましなのだ。したがって、労働者階級はあさましい生きかたしかできないよう運命づけられている。(『貧困の哲学』第11章)
  320. <無機的存在においてはもっとも低い段階にあり、動植物においてはより高められた段階にある自発性は、人間において自由の名のもとで完全なものになる>(プルードン) 
  321. もし、あなたも社会科学がわかっていれば、社会づくり(アソシアシオン)の問題は不生産的な階級の組織化にとどまらないことを知っていよう。(中略)問題は生産者をも組織することである。そして、生産者を組織することによって、資本を従属させ、権力を制することである。(『貧困の哲学』第7章)
  322. <もっとも権威主義的な社会においてさえ、一部は必らず自由のために残されている。もっとも自由な社会においてさえ、一部は権威のために残されている>『連合の原理』(プルードン)
  323. <もっとも賢明な政策は、人類永遠の進化が大股にではなく、目にも見えず音もなく実現されていくように、一歩一歩革命に道をゆずることである>(プルードン) 
  324. ものごとを高所から、またその不動の真実において眺めるならば、地代生活者は、構成途上の社会において社会の経済を守護する者であり、地代によって形成された資本を管理する者にほかならない。(『貧困の哲学』第11章)
  325. もはや能力のヒエラルキーは組織の原理や法則として認めることができない。これは与件からの必然的な帰結だ。平等はわれわれの理想であると同時に、それのみがわれわれのルールなのである。(『貧困の哲学』第3章)                                                  
  326. <やがて腐敗が、汚職が、自堕落がこの制度に浸透する。それは、自分を支えること、その特権をふやすこと、業務をふやし、予算を膨張させることに専念し、やがて専制と事なかれ主義に陥る>『連合の原理』(プルードン)
  327. <友愛のユートピアの作者たちは、集合力、分業または交換のみに属する美徳と効果を、理由も証拠もなしに組合契約に帰属させた>(プルードン)
  328. 友愛! (中略)あなたはあなたの財力に応じて私に生活必需品を授けると言う。私としては、自分の働きに応じて授かるほうがよい。でなければ、私は働くのをやめる。(『貧困の哲学』第6章)
  329. <(有機体的とは)あらゆる政治制度、あらゆる国家組織に優越する、社会の内的で古くからある組織を構成するもの>(プルードン)
  330. 豊かにはなれないひと、あるいは豊かさを保てないひと、不幸の洞窟へ入りこんでしまったひとは誰でも、自分の貧しさに比例して負担が重たくなることを甘んじて受けいれなければならない。まさしく、「この門をくぐる者はいっさいの希望を捨てよ」。(『貧困の哲学』第7章)
  331. 輸入国は搾取される国。グレート・ブリテンの政府高官の英知はここにある。かれらは自国の生産物を武力によって全世界におしつけることができないので、世界の五大陸で自由貿易の鉱脈を掘削しはじめた。(『貧困の哲学』第9章)
  332. ようやくその日が来たぞ。うれしい、万歳。労働は自由だ。しかし、公正なる天よ、それは何の自由だ。プロレタリアにとって自由とは、自分の決断で労働することである。すなわち、もっと巻き上げられる自由だ。あるいは、自分の決断で労働しないことである。すなわち、飢えて死ぬ自由だ。(第14章)                                                    
  333. 理性の不条理を賞賛せよ。起源においては正当で非の打ち所のない所有が、実行においては誰の目にも明らかな不公正をつくりあげる。この不公正は、それを修正する要素の付加もないまま、たんに原理の展開のみによって成立する。(『貧困の哲学』第14章)
  334. 立法者はすぐれた社会的な視点に立って、占有にはもっとも強力な保証を与えるべきだと考えた。そして、かれは独占者による略奪の日々の成果をその独占者に永久に保証することによって、労働者からは希望まで取りあげたのである。(『貧困の哲学』第11章)
  335. <流通は真の普遍的協同組織である>(プルードン)
  336. <(流通は)全産業と全財産を相互に結びつける>(プルードン)
  337. 理論によれば、税金は財産に比例すべきであるのに、じっさいは逆に、税金は貧困に比例する。(『貧困の哲学』第14章)
  338. 累進税はどういじくっても、けっきょくは正義の否定、生産の妨害、財産の没収に行きつく。それは抑制のきかない無制限の専制である。労働や節約や改善によって公共の富に貢献するもの全体を権力が勝手に支配する。(『貧困の哲学』第7章)
  339. <ルイ・ブランは、……彼自身が書いているように、善事をなすために独裁的権威を要求している>(プルードン)
  340. ルソーは、(中略)すなわち、社会の秩序は不完全であり、そこには何かが欠けているというのである。ルソーの誤りは、社会を否定したことではない。それはありえない。ルソーの誤りは、自分の論法を最後まで貫徹できなかったことにある。(『貧困の哲学』第8章)
  341. ルターによって、それからさらにフランス革命によって廃止された旧体制のもとでも、産業の進歩をともなうかぎり、人間は幸せでありえた。ところが、人間はそれを望まなかった。むしろ反対に、人間は幸せになることを自らに禁じた。(『貧困の哲学』第8章
  342. 歴史の哲学は社会経済の薄暗い経路のなかにある。芸術的な著作家のみなさんのお気には召すまいが、働くことと食べること、これのみが人間の明白な目的なのである。それ以外のことは、働く場を探し、パンを求めるひとびとの右往左往にすぎない。(『貧困の哲学』第10章)
  343. レバーやバネといった部品程度の役目しかできない者に、人並みの報酬はとても与えられないというのが、一般の意識なのである。金持ちはそのエゴイズムによってそれを表明し、プロレタリアートはその無関心さによってそれを表明する。(『貧困の哲学』第3章)
  344. <労働が個人的自由の同義語であること、交換の正義を別とすれば、労働の自由は絶対的であるべきこと、政府は自由な労働を規制したり制限したりするためではなくて、それを保護するために存在すること、これらのことを人びとは理解しようとしない>(プルードン)
  345. 労働が増大するにつれて、芸術がかならずしごとのなかから立ちあらわれ、そして労働はかつて嫌悪された苦痛だらけの労働ではなくなる。性愛も同様で、強さを増すにつれて、みだらでいやらしい形を失う。(『貧困の哲学』第13章)
  346. <労働が分割され、機会が改良されればされるほど、労働者の価値はますます低くなる。したがって彼はより僅かしか支払われなくなる。……それは一つの宿命的な論理であって、いかなる立法もいかなる独裁もその結果をまぬがれることはできない>(プルードン)
  347. 労働がまったく社会化されず、したがって価値が総合的に決定されないところでは、かならず交換における混乱と不正、謀略やだまし討ち、生産や流通や消費の妨害、不生産的な労働、安全の欠如、略奪、抗争、貧窮と贅沢が存在する。(『貧困の哲学』第2章)
  348. <労働者アソシアシオンは生産の炉床であり、現在の株式会社にとってかわるべき新しい原理、新しいモデルである>(プルードン)
  349. 労働者階級にとって問題は、権力や独占を獲得することではなく、権力と独占を同時に打倒することにある。すなわち、資本と国家を包み込み、征服するひとつのより大きな権威、より強力な事実を、民衆の内側から、労働の深部から生み出すことにある。(『貧困の哲学』第7章)
  350. 労働者階級は無知であり、放棄され分散させられた存在であるけれども、かれらを抑制するために、世界中の警察、すべてのブルジョワジー、万国の王室が手を取りあっても、それはけっしてやりすぎではない。ついには、中間階級が共犯者として加担する。(『貧困の哲学』第9章)
  351. <労働者の結合と調和とから、かれらの諸努力の集中と合同とから生まれるこの強大な力に対して、資本家は何も支払わない。>(プルードン)
  352. 「労働者の生活態度が悪い」ということはありうる。しかし、それはおそらく労働者が正しくあつかわれていないことによるものだ。そして、真実には、労働者の賃金の程度が問題なのに、労働者の生活態度が問題とされている。(『貧困の哲学』第13章)
  353. <労働者は、自分の労働の代価の所有者ですらないし、またそれを完全に処分することすらできないのだ。>(プルードン)
  354. 労働者は投機的な市場の犠牲となり、手足をしばられて資本の利得のためにいいように使われてきた。ここからもたらされるのが、細分化された労働の悲劇的な帰結、機械による抑圧、競争による破滅的な動乱、税金の不公平と不条理なのだ。(『貧困の哲学』第9章)
  355. 労働者は独占の犠牲者であるのに、独占者が背負うべき罪を背負わされる。これが裁判をつかさどる連中の正義だ。裁きの女神のかっこうで仮装した愚かな娼婦よ、おまえはいったいいつまで、虐殺されたプロレタリアの血をすすり続けるのだ。(『貧困の哲学』第6章)
  356. 労働と資本の協同は、労働も資本もなしで生産をおこなうのと同じくらい不可能である。──平等を権力によってつくりだすのは、権力と平等をともになくすことや、民衆も警察も存在しない社会をつくるのと同じくらい不可能なのである。(『貧困の哲学』第7章)
  357. 労働と特権の、こうした絶えることなき戦いの、なんという光景。前者は、無からすべてを創造する。後者は、自分で何も生産しなかったものを食いつくすために登場するだけだ。(『貧困の哲学』第14章)
  358. 労働における特殊性は、個々の労働者がひとつの頂点となり、その高みから社会経済の全体を支配し、考察し、一人ひとりが社会経済の中心となり、視察官となることである。したがって、労働における特殊性は、関係の多さ、多様さによって無限である。(『貧困の哲学』第13章)
  359. 労働の過重化にかんして、われわれに甘い幻想をいだかせる元になっているのは、機械の導入が価値の変動をひきおこすことである。(中略)しかし現実には、その変動はわれわれの労苦の積み重なりをあらわすものにすぎない。(『貧困の哲学』第13章)
  360. 労働の細分化は、知性の退化に続けて労働時間の延長をもたらす。労働時間は、費やされる知性の量が少なければ、それに反比例して延ばされる。というのも、生産の成果は量と質の両面で評価されるものであるから、労働の質が下がれば量で埋めあわせざるをえない。(『貧困の哲学』第3章)
  361. 労働の組織化のために権力と資本にたよる者はみんな嘘つきである。/なぜなら、労働の組織化は資本と権力の失墜でなければならないからである。(『貧困の哲学』第12章)
  362. 労働の法則、交換における平等がちゃんと実現されるためには、経済の矛盾がすべて解決されていなければならない。いまわれわれが問題にしていることがらにかんして言うなら、貿易の自由は、協同が存在しないところではかならず強者の専制を意味するものでしかない。(『貧困の哲学』第9章)
  363. 労働は、自由・愛・野心・才能と同様、そのものとしてはあいまいで、輪郭もはっきりしないが、対象を得てはじめてその性質がはっきりと確定される。すなわち、労働は生産物によって具体的現実となる。(『貧困の哲学』第2章)
  364. 労働は、その力をどこまでも増大させる方法や機械を発明し、競争によってその産業精神を刺激し、資本の利潤や開発の特権という手段で独占を保証した。こうして労働は、社会のヒエラルキー構造をいっそう深化させ、いっそう不可避のものにした。(『貧困の哲学』第8章)
  365. <労働は物質に対する人間の知的活動である。労働は、経済学者にとって、人間と動物とを区別するものである。>
  366. 労働は不名誉なものとされた。聖職者や貴族は貧乏人を食いものにした。かれらは自分の動物的な情念を満たすために、自分の心から思いやりの気持ちを消し去った。かれらは労働者を破滅させ、抑圧し、殺害した。それは現在でも、資本がプロレタリアートを狩り出すときに同じ光景が見られる。(第8章)(プルードン)                                                 
  367.  わかりやすく言えば、心理学と社会経済学は同じ物語をそれぞれべつの視点で展開したものにほかならない。このことはアダム・スミスのあの偉大な法則、分業においてとりわけ明瞭にあらわれる。(『貧困の哲学』第3章)
  368. 私が支払うべきは自然の無償の効用にではなく、労働にたいしてである。これこそが社会経済の法則である。この法則はいまはまだほとんど知られておらず、今日まで分業・機械・競争などのかずかずの神話のなかに包みこまれたままだ。(『貧困の哲学』第9章)
  369. 私が対決する秘かなプロパガンダは、白日を求めず、批判に挑戦せず、路地裏の薄暗がりに身を隠す。私が対決するのは、その破廉恥な官能主義、卑俗な文学、図々しい乞食根性、労働者階級の一部に拡がりはじめた知性と魂の鈍化である。私は社会主義の汚辱といっさいかかわらない。(第12章)
  370. 私が、私の排他的な財産である生産物を作(……)るということそのものによって、つぎのことがらが生じる。すなわち工場が、すなわち人間の搾取が、私によって組織される。私の事業にかかわりをもつようになるひとびと全員を犠牲にして、利潤は私の手のなかで蓄積されていく(『貧困の哲学』第14章)
  371. 私に言わせれば、人間は隣人愛の律法を守らず、必要もないのにすすんで社会の矛盾をそのままひとを害する手段に変えた。人間のエゴイズムにより、文明は奇襲あるいは待ち伏せをして戦う争いとなった。(『貧困の哲学』第8章)
  372. 私はいまだに貧困とは何であるかがまったくわからない。しかし、ひとつ確かなことがある。それは貧困が生産に先行するということ、そして、労働の乏しさがそのせいだとわかるよりも前に、貧困はわれわれを打ちのめすということである。(『貧困の哲学』第13章)
  373. 私は神から、父親とか王とか裁判官といった肩書きや、善良だとか寛大だとか慈悲深いとか、困ったひとを救うとか善行に報いるとか悪を罰するといった形容詞を剥奪する。神の観念を構成するこうした属性は、すべて人間性のカリカチュアにすぎない。(『貧困の哲学』第8章)
  374. <わたしは協同組織が不可欠であるような状況を認める>(プルードン)
  375. 私は、さまざまの社会革命の秘密を、あらゆる既存の思想にたよらず自分で心ひそかに研究していくなかで、神を重要な未知数として仮定するにいたった。言いかえれば、弁証法のツールとして神を必要とするにいたったのである。(『貧困の哲学』プロローグ)
  376. <わたしは僧侶と全抑圧機関を犠牲にする決意をしていますから、文明と自由な思想が要求するばあいには、フランスそのものを犠牲にするでしょう>(プルードン)
  377. 私は普遍的な伝統を守る立場に立つ。もっとも不動で、もっとも確かな信念を擁護する。私の私らしい部分は、経済学者たちへの疑念と経済学者たちが語る事実への反対である。まさにこの反対、この疑念、この伝統を私は説明したいのであり、それが私の正しさを証明するのである。(『貧困の哲学』第9章)
  378. 私は、労働の組織化や富の分配といった大問題に、アプリオリに答えを出さない。私は既存の政治経済学を、人類の奥義が秘められたものとして検討していく。私は、事実が発生した順序にしたがって、事実そのものに語らせよう。(『貧困の哲学』第2章) 
  379. 私も、所有のメカニズムにさまざまの肯定面があることは認める。しかし、私が見るところ、こうした肯定面も所有制における生産のメカニズムが生みだす貧困によって完全に相殺される。(『貧困の哲学』第1章)
  380. われわれが信用と名づけ、そして一般にすばらしい成果が期待されている社会的なアンチノミーの現段階においては、きちんと組織化されているものはまだひとつもない。労働はこまかく分割されたままであり、工場は親方制と賃労働制に、市場は競争と独占にゆだねられている。(『貧困の哲学』第10章)
  381. われわれがプロレタリアートにたいしていだく同情心は、われわれが動物を見ていだく感情と似たようなものだ。身体の繊細さ、貧しさへの恐怖、苦しみを免れたという自慢、こうしたエゴイズムを回避してようやくひとへの思いやりが生まれる。(『貧困の哲学』第8章)
  382. われわれのこうしたみじめさは、政治経済学にとっては自分のあやまちを取りつくろうのに役立つものであり、また、部分的にはそれ自体が政治経済学のしわざなのではないのか。「犯行から利を得る者が犯人である」。政治経済学はわれわれを滅ぼすことによって利を得ている。(『貧困の哲学』第13章)
  383. <われわれの世代に欠けているのは、ミラボーのような人物でも、ロベスピエールのような人物でも、ボナパルトのような人物でもない。それはヴォルテールのような人物である>(プルードン)
  384. <われわれの眼から見れば、その法則にしたがって組織された普通選挙は民主主義の制度そのものである>(プルードン)
  385. <われわれは運動の先頭にいるのですから、われわれを新しい不寛容の指導者にしたり、たとえ論理の宗教、理性の宗教であるとしても、新しい宗教の使徒を自任したりしないようにしましょう>『プルードンがマルクスへの手紙』(プルードン)
  386. <われわれは革命的行動(武装蜂起)を社会改革の手段として提起するようなことをしてはなりません。なぜならこの手段なるものは、力に、恣意に訴えることであり、簡単にいえば矛盾だからです>(プルードン)
  387. われわれは神に邪魔されても科学に到達するし、神に邪魔されても豊かになるし、神に邪魔されても社会を成り立たせる。われわれの進歩は、われわれが神なるものを打ち破っていく勝利の積み重ねにほかならない。(『貧困の哲学』第8章)
  388. われわれは自分の運命の秘密をなおも求めて何をなすべきか。労働が何の役に立つのか。われわれは何を希望しうるのか。われわれの運命、それは貧困である。われわれの労働、それは貧困である。われわれの希望、それは貧困である。(『貧困の哲学』第13章)
  389. <我々は、資本家が彼らの産業を営なむことを妨げはしない。利子つき貸借を禁止するものではない。……我々は自由を侵害するものでもない。……我々はただ、生産物の流通のために資本家に年貢を支払うことを欲しない人びとがそれを支払うことを強制されないことを要求するだけだ>(プルードン)
  390. <われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)
  391. われわれは、貧乏の原因が子どもをつくりすぎることにあると教えられた。(中略)いまではお役所が、家庭内の義務のシンボルとして若い嫁に与えるのは、政治経済学と売春宿のなかだけでしか用いられないことばで言えば、避妊具だ。……なんという恥辱。(『貧困の哲学』第13章)
  392. われわれを殺す搾取、われわれを辱める卑劣行為について責任をおうべきはあなたたち、あなたたちのみである。われわれはいたるところで、雷のような大音声で、何度もくりかえしこう叫ぼう。政治経済学は貧困を組織化するものである。盗みの伝道者、死の配達人、それが経済学者なのだ、と。(第13章)
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《社会革命が政治革命を通じて到来するなら、社会革命は重大な危機にさらされるだろう》(プルードン)

《アソシアシオンとは何か——機能と生産物に応じた産業諸力の組織化である》(プルードン)

《アソシアシオンのあらゆる計画のなかには、何らかの程度でこの権威の観念が見出されるのであり、それはつねに、人間をもっと自由にするために人間を隷従させるという結論に行きつくのである》(プルードン)

<アソシアシオンは、相互性の原理によってより純化されたより簡単になりより正当なものになれば、容易に支えうるものになり、新たな発展をもたらすであろう>(プルードン)

<人類の組織は共産主義的でも社会主義的でも所有者支配でもない。それは相互主義的である>(プルードン)


《われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と
交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに
競争が開かれることを要求するだけだ》

《いかなる政府もいかなる権威も相互性の原理と両立しない。それだけではなくて、
いかなる権威も改革に役立たない。なぜならあらゆる権威は平等と権利に反するからだ》

《漸進的組合の組織化に関する私の出発点は何か。それは神権でも力でも情念でも、
……権威でも犠牲でも慈善でも献身でも平等でもない。……それは自由である。
相互性は自由そのものである》プルードン
              
《権威は、討議し抵抗する、あるいは服従する自由なしには空語である。
自由は、その対極をなす権威なしには無意味である》『連合の原理』プルードン
《もっとも権威主義的な社会においてさえ、一部は必らず自由のために残されている。もっとも自由な社会においてさえ、一部は権威のために残されている》『連合の原理』(プルードン)

<競争と協同は相互に支えあっており、一方は他方なしには存在しない>(プルードン)
<国家とは社会力の外的構成体である>(プルードン)

《社会主義者たちよ、われわれの最大の敵はユートピアなのだ。経験の光をかざし、決然とした足どりで歩きながら、われわれはただ前に進めという指令のほかには何も知らない。》(『貧困の哲学』第10章)
<経済的革命とともに国家は完全に消滅すること、そして国家のこの消滅は信用の組織化と租税の改革の必然的結果である>(プルードン)


《権威は、討議し抵抗する、あるいは服従する自由なしには空語である。
自由は、その対極をなす権威なしには無意味である》『連合の原理』プルードン

<競争を破壊することは問題になりえないのであって、自由を破壊することと同じく不可能なことである>(プルードン)

<所有は他の所有にたいして無力である>(プルードン)

<所有とは不労収得権、すなわち働かずに利得する力である。>(プルードン)

<社会革命は、政治的団体の全体およびそのあらゆる諸部分において自発的に遂行される、一つの変革である。>(プルードン)

<人間はアソシアシオンに反撥する。協同していないかのように協同すること——これが問題だ>(プルードン)

<漸進的アソシアシオンの大原則は、現物での商品交換の原則である>(プルードン)

<われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)

<結合することが少なければ少ないほど、それだけ多く自由である>(プルードン)

<友愛のユートピアの作者たちは、集合力、分業または交換のみに属する美徳と効果を、理由も証拠もなしに組合契約に帰属させた>(プルードン)

<人間はアソシアシオンに反撥する。協同していないかのように協同すること——これが問題だ>(プルードン)

<アソシアシオンのあらゆる計画のなかには、何らかの程度でこの権威の観念が見出されるのであり、それはつねに、人間をもっと自由にするために人間を隷従させるという結論に行きつくのである>(プルードン)

<労働者の結合と調和とから、かれらの諸努力の集中と合同とから生まれるこの強大な力に対して、資本家は何も支払わない。>(プルードン)

6 件のコメント:

  1. <われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と
    交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに
    競争が開かれることを要求するだけだ>(プルードン)

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  2. <いかなる政府もいかなる権威も相互性の原理と両立しない。それだけではなくて、
    いかなる権威も改革に役立たない。なぜならあらゆる権威は平等と権利に反するからだ>(プルードン)

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  3. <漸進的組合の組織化に関する私の出発点は何か。それは神権でも力でも情念でも、
    ……権威でも犠牲でも慈善でも献身でも平等でもない。……それは自由である。
    相互性は自由そのものである>(プルードン)

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  4. 《われわれはただ、貨幣によって表現される君主政的で個人主義的な原理と
    交換銀行によって表現される共和主義的で相互主義的な原則とのあいだに
    競争が開かれることを要求するだけだ》

    《いかなる政府もいかなる権威も相互性の原理と両立しない。それだけではなくて、
    いかなる権威も改革に役立たない。なぜならあらゆる権威は平等と権利に反するからだ》

    《漸進的組合の組織化に関する私の出発点は何か。それは神権でも力でも情念でも、
    ……権威でも犠牲でも慈善でも献身でも平等でもない。……それは自由である。
    相互性は自由そのものである》
                  プルードン

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  5. 《権威は、討議し抵抗する、あるいは服従する自由なしには空語である。
    自由は、その対極をなす権威なしには無意味である》『連合の原理』プルードン

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  6. 市民プルードンとはどんな人か? 市民プルードンはフランシュ・コンテの一農民で、種々の職業を経歴し種々の研究を行った人である。彼は『財産とは何か?』で「財産とは盗みである」と言い、フランス人をびっくりさせた。しゃれが分からないギゾーは彼を裁判にかけた。-エンゲルス6.547

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