火曜日, 5月 28, 2019

徳川宗春




 https://twitter.com/tiikituukahana/status/1133434598803689472?s=21


参考:

徳川宗春 江戸を超えた先見力 温知政要(1731) 御側風説 咄書 条々二十一箇条 

メモ:MMTリンク集2021 ~MMT(モダンマネタリーセオリー)14~

https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/07/mmt2021-mmt.html


●徳川宗春(1696~1764

(将軍吉宗の緊縮財政に対抗した悲劇の名君)

《省略かへつて無益費と成事あり(省略[倹約]することで、 

かえって無益な出費となることがある。)》『温知政要』(1731)より

高家寺就職サイト

http://www.muneharu.net/works.html 

http://muneharu.net/onchiseiyou.pdf

(第九条 お金は活かして使え 過度な倹約省略はかえって無益になる)


MMT・政府紙幣推進・ヘリマネ派bot (@rifureha)
荻原重秀と水野忠成は歴史家の評価がものすごく悪いのですね。この人達が江戸経済を発展させた立役者と言っても過言でないにも関わらずです。歴史学会はマルクス主義に支配されているため、封建君主の贅沢が経済を発展させたとは認めたくないためだと思います。



八代将軍吉宗 総集編3より 倹約か積極財政か


#23   「享保の改革」  2013年3月13日放送

#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」
#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

徳川幕府の危機

徳川幕府誕生から110年。度重なる大火事や飢饉により幕府は財政破綻に。その影響は庶民にまで及んでいた。この惨状を救うべく二人が立ち上がる。一人は徳川御三家、紀州藩に生まれ、後に8代将軍になった徳川吉宗。そしてもう一人は御三家筆頭の尾張藩主となった徳川宗春。二人が掲げた政策は正反対であった。吉宗が打ち出したのは、国を挙げての節約生活。極端な倹約令を全国民にしき、経済を根幹から建て直そうとした。しかし宗春は、吉宗の緊縮政策を真っ向から否定。豪華絢爛、ド派手な衣装に身を包んだ宗春。吉宗に対抗し打ち出したその驚きの政策とは!? ある時、吉宗のもとに届いた一冊の本、「温知政要」。書いたのは宿命のライバル宗春。そこに記されていたのは反享保の改革ともいえる言葉の数々であった。宗春の思想を危険視した吉宗は、宗春を尾張藩主の座から引きずり降ろす為クーデターを起こす。将軍吉宗が放った策、果たしてその結果は? 中興の祖の名君、徳川吉宗。徳川幕府きってのトリックスター、徳川宗春生死存亡を賭けた戦いが今始まる。

因縁の二人

貞享元年(1684)、吉宗は紀州藩主徳川の四男として誕生。紀州徳川家は、いわゆる“徳川御三家”の一つ。御三家には将軍家の後継ぎが途絶えた時、御三家のいずれかから将軍をたてるという役割があった。御三家とはいえ吉宗は四男。出世の道は既に閉ざされていた。ところが、宝永2年(1705)、父、長男、三男が次々と急死。吉宗は思いも寄らない形で紀州藩主の座についた。さらに大きな運命が吉宗を待ち受けていた。正徳6年3月。7代将軍の徳川家継が病にかかり危篤状態に陥る。家継はまだ8歳。当然子はなく、徳川宗家の血が途絶えてしまう一大事。次期将軍候補は、御三家の尾張・徳川継友、水戸・徳川綱条、そして、紀州の吉宗。御三家筆頭、尾張の徳川継友が最有力候補とされていた。時の老中、間部詮房が将軍に指名したのは紀州の吉宗。正徳6年、6月26日。吉宗は江戸幕府8代将軍に就任した。一方、当然将軍家になると考えていた御三家筆頭尾張藩は、後継者争いに負け落胆。数年後、その尾張から吉宗にとって不倶戴天の敵、継友の弟、徳川宗春が現れる。宗春は、元禄9年、尾張藩三代藩主の子として誕生。父には多くの側室があり、子供の数は39名。宗春は20番目の男子。当然、跡取りの望める様な状況ではなく、宗春は江戸の町に毎夜くり出し、芝居見物や遊郭で遊ぶ気ままな日々を過ごしていた。宗春が35歳になった享保15年、大勢いた兄が次々と死に、存命の兄も他家を継ぐ事となっていた為、宗春が藩主の座を継ぐ事に。宗春は吉宗に藩主となった報告をする為江戸城に出向く。質素な服を着た将軍の目の前に、豪華な衣服を身にまとう宗春が現れた。片や4男、片や20男。出会うはずのない二人が、同じような道を辿り、将軍と御三家筆頭藩主として歴史の表舞台であいまみえる。
#23 「徳川吉宗 VS 徳川宗春」

温知政要

家臣への給米も払えぬ程、財政状況が追いつめられる中、吉宗が最も力を入れたのが、徹底した倹約だった。自らも率先し倹約に努めた。安い木綿の服を着て、色も地味。食事は1日2食、おかずは三品まで、それ以上は「腹の奢りである」と自らを戒めた。ある時、質素倹約を進める将軍吉宗は奇妙な噂を耳にする。「江戸にある尾張藩邸が近頃やけに賑やかで、深夜を過ぎても人の出入りがある」との事だった。この頃宗春は、日常生活に関する物の売り買いまでも制限する吉宗の政策を問題視していた。そして宗春は真っ向から吉宗に勝負を挑みはじめる。藩主となった宗春は、まず尾張藩邸の夜遊び帰りの門限を撤廃し、規制を大幅に緩める。同年、尾張に戻った宗春は、芝居の興行を奨励。さらに、遊郭の営業も認める。ある日、宗春は質素になっていた盆踊りを盛大に行うよう藩庁に指示を出す。町民は浮き足だち、町は俄然にぎやかになった。が、その最中、宗春の2歳になる娘が、亡くなるとの報が入る。当然、藩庁は祭りの中止を告げ、領民たちはあきらめてこの触れに従った。ところが、「上に立つ人間の都合で、民の楽しみを奪ってはならぬ」と宗春は言い、盆踊りの再開を命じたのだ。人々は心をうたれ、宗春を支持する者が増えた。自らの政治理念を記した本「温知政要」を、堂々と吉宗に献上したというのだ。それはまさに時の将軍吉宗に対する挑戦状であり、もし宗春が敗北することがあれば、尾張藩自体の存亡も危ぶまれる。この時、吉宗は、自分にとっての宿命のライバルが現れた事を悟った。

対決

二人の対決がついに始まる。宗春は端午の節句の日、江戸の尾張藩邸におびただしい数の鯉の幟を飾り町人に見物させた。贅沢を禁じる吉宗への挑発。怒った吉宗は宗春のもとへ使者を差し向ける。使者は倹約令を守らない宗春の態度を咎め詰問。意外にも宗春は素直に頭をさげた。抵抗を恐れていた使者はこの態度に胸を撫で下ろす。すると宗春は使者に「ここからは世間話ですが」と断り一気にまくしたてた。「上にたつ主が倹約、倹約とおっしゃっても、貯まるのは幕府の金庫の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約でしょうか。私は金を使いますが、使う事によって世間に金が回り、民の助けになるから使っているのです。口だけの倹約とは決して異なるものです」使者を真っ向から説き伏せてしまった。確かに吉宗が目指していたのは、緊縮財政政策による幕府の再建で、民の暮らし向きは二次的なもの。宗春の人気は急速に広がり、やがて「近々、尾張公が公儀をあいてに、一戦挑むそうな」といった不穏な噂までもがでる始末。この噂は、尾張藩士たちに強い危機感を与えた。吉宗は尾張藩の内部分裂を見逃さなかった。ある日吉宗は密かに尾張藩の重臣を江戸城に呼び寄せる。吉宗は、重臣を通じ尾張藩の有力な家臣たちに次々と接触。秘密裏にある計画を進めていた。そして、宗春が参勤交代で江戸へ出向いていた時の事。重臣たちが、「宗春さまが藩主になってから決めた事はとりやめ、すべて以前に戻す。これからは藩主の言う事ではなく、我らのいうことに従うべし」と、尾張国内で勝手にお布令を出した。反宗春派によるクーデターであった。さらにとどめとなる命令が幕府から下される。「藩主宗春、行跡常々よろしからざる故もって隠居謹慎せよ!」尾張で起こったクーデターの責任を宗春にとらせるという形。宗春の失脚が決まった。側近たちは皆泣き崩れた。一人宗春だけは違った。宗春はみじんも敗者の装いを見せず一言呟いたという。「おわり(尾張) 初もの」。自らの藩主人生の「終わり」を、「御三家筆頭藩主に対する初めての仕打ち」と洒落てみせた。

ゆめのあと

8代将軍徳川吉宗は、その生涯を通し、不安定な幕府の財政を立て直そうと戦い続けた。吉宗が進めた改革は、一応の成功を治め、吉宗亡き後も幕府が財政破綻に陥るたび、政治家たちは享保の改革を手本とした。その吉宗が最も恐れた男・徳川宗春は謹慎を命じられると尾張に戻り、名古屋城内に幽閉された。基本的に外出は禁止、母親の葬儀にさえ参列することは許されなかったという。明和元年(1764)、歴史の表舞台に戻ることなくこの世を去る。今日、宗春の肖像画は一枚も残されていない。それどころか、宗春在命中の正式な記録は闇に葬り去られている。そんな中、宗春の治世を懐かしみ、密かに記された一冊の本がある。「遊女乃阿戸(ゆめのあと)」こんな一説が記されている。「老若男女、貴賤ともにかかる面白き世にうまれ逢う事、ただ前世の利益ならん」必ずしも、宗春の意図したようには事は進行しなかった。260年の江戸時代のどこを見ても民衆にここまで言わしめた藩主は、如何の地にも出てはいない。

4 Comments:

Blogger yoji said...

プロが選ぶ!日本を変えた室町三大事件
●本放送 平成31年 2月20日(水) 22:25~23:10 総合 全国
●再放送 平成31年 2月23日(土)
10:05~10:50
総合
全国
※放送予定は変更されることがあります。地域によっては放送の有無もあります。当日の新聞・最寄りのNHKのHPなどでご確認下さい。
エピソード1 観応の擾乱 武士の世 隆盛の起源

尊氏と直義、幼い頃より仲の良い兄弟がなぜ――(ドラマパートより)
新書本「応仁の乱」ヒットで、室町時代を最新研究をもとに著述した書籍が人気です。今回は、まさにそれらの著者で気鋭の中世史研究者、プロたちが“推す”「室町三大事件」。まずは亀田俊和さんの「観応の擾乱」。室町幕府初代将軍・足利尊氏と弟・直義の2年にわたる戦いが、武士の世を生んだ!?
 
エピソード2 嘉吉の徳政令 巨大一揆と将軍を襲った悲劇
室町時代の経済にくわしい早島大祐さんが推すのは「嘉吉の徳政令」。徳政令とは貸し借りを帳消しにする法令です。借金返済・民事訴訟を精力的に進めた室町幕府6代・足利義教(よしのり)。その暗殺後、数万の民衆が一揆を起こします。幕府への彼らの要求は「徳政令」――嘉吉の徳政令だったのです。

借金を返させることに熱心だった将軍は凶刃に…(ドラマパートより)
 
エピソード3 応仁の乱 なぜ戦国が始まったのか?

知られざる乱の中心人物・畠山義就(ドラマパートより)

4:30 午後  
Blogger yoji said...

嘉吉元年


水害


6月12日水曜 NHKBSプレミアム 午前8時00分~ 午前9時00分
英雄たちの選択「応仁の乱前夜 将軍暗殺!嘉吉の変~令和の京都で変革を語る~」


京都を騒乱に巻き込んだ「応仁の乱」。その原因は、嘉吉元年(1441)にさかのぼるという。この年の将軍の暗殺事件と史上最大規模の土一揆に、混迷の時代の原点を探る。

今回は、スタジオを出て、京都・東寺の境内に、呉座勇一さん(「応仁の乱」著者)と井上章一さん(「京都ぎらい」著者)をゲストに招き、応仁の乱の原点・嘉吉の変について話し合う。当時、金融業の台頭が格差社会を生み、決められない政治が混乱に拍車をかけていた。優柔不断の管領・細川持之の選択が、応仁の乱という大混迷の時代に突き進んでいく。令和の京都で、気鋭の論客が混迷・変革の時代についてトコトン語り合う。

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】呉座勇一,井上章一,【語り】松重豊

字幕放送字幕放送再放送再放送
配信中 見逃した!!と思ったら... NHKオンデマンド

(左)呉座勇一さん (右)井上章一さん


嘉吉元年 将軍暗殺と土一揆


土一揆に占拠された寺社 東寺 北野天満宮 東福寺

4:32 午後  
Blogger yoji said...

歴史ミステリー 吉宗に対する尾張徳川家のクーデター
https://youtu.be/-8nrAkRAMiI

10:28 午後  
Blogger yoji said...

八代将軍吉宗より
倹約か消費拡大か
徳川吉宗VS.徳川宗春 pic.twitter.com/DD6yPv9D3r

2019/05/29 3:07


https://twitter.com/tiikituukahana/status/1133434598803689472?s=21

1:38 午前  

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