書斎の窓 2019年1月号 行動経済学を読む⑥(最終回)リバタリアン・パターナリズムが世界を変える 依田高典
第6回(最終回) リバタリアン・パターナリズムが世界を変える
1 リバタリアン・パターナリズムを知る
意思決定には2種類ある。下から積み上げるボトムアップ型か、上から決めるトップダウン型か。同じように、政策主張にも2種類ある。個人の選択の自由を重視するリバタリアン(自由主義)と、為政者が個人の選択の自由を制限してもよいとするパターナリズム(温情主義)である。
選択の自由を重視する近代経済学者の多くは、過剰な干渉にもつながりかねないパターナリズムには疑問を呈する。近年、限定合理性という観点から、基本的には選択の自由を尊重しながら、場合によっては選択のデフォルト(初期値)に介入することが許容されるという新しい立場、「リバタリアン・パターナリズム」が、キャス・サンステイン/ハーバード大学ロースクール教授たちによって提唱されている(その有力な同盟者が、2017年ノーベル経済学賞受賞者リチャード・セイラー/シカゴ大学ビジネススクール教授である)。
その考え方は、選択をする人が、自分にとってより良い結果となる選択を、選択者自身の判断に基づいて行うように、選択に影響を与えることとしてまとめられる。行動経済学では、人々の合理性は限定的であり、どの選択肢を選ぶかは、選択肢の与えられ方によって左右される。これを「フレーミング効果」と呼ぶ。例えば、確率50%で賞金がもらえると説明されるか、同じ確率で賞金がもらえないと説明されるかによって、内容は同じであるにもかかわらず、人々の選択の仕方が変わってくるのだ。選択が選択肢の与えられ方に依存する以上、為政者は、人々の選択の自由を認めつつも、彼らが後悔しない選択肢を選ぶように選択肢の与え方を工夫すべきである。これがサンスティーンたちのいう「ナッジ」である。節を改めて紹介しよう。
2 ナッジを利用する
ナッジとして、よく用いられる例を紹介しよう。オランダのアムステルダムの国際空港では、男子トイレの小便器の排水溝付近に、ハエの絵が描かれている。そうすると、男性たちはハエの絵を狙って、用を足すので、飛び散りが80%減ったという。このハエの絵は、人間の注意を引きつけて、良い方向に行動を変容させるナッジだと言えよう。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。
リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(著)、遠藤真美(訳)『実践 行動経済学――健康、富、幸福への聡明な選択』日経BP社、2009年
(日経BP社のサイトに移動します)
以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。
『デフォルト・オプションをうまく設定すると大きな効果が生まれるが、これはナッジが緩やかな力をもっていることを示す事例の一つにすぎない。われわれの定義に従えば、「ナッジ」とは、エコノには無視されるものの、ヒューマンの行動は大きく変えるあらゆる要素を意味する。エコノは主にインセンティブに反応する。政府がキャンディーに課税すると、エコノはキャンディーを買う量を減らすが、選択肢を並べる順番のような「関係のない」要因には影響されない。ヒューマンもインセンティブに反応するが、ナッジにも影響される。インセンティブとナッジを適切に配置することによって、人々の生活を向上させる能力が高まり、社会の重大な問題の多くを解決できるようになる。しかも、すべての人の選択の自由を強く主張しながらそうできる。』(『実践行動経済学』21―22頁)
ナッジを実際の行動変容に活用しようとする国もある。2008年7月、イギリスの野党第一党である保守党のデーヴィッド・キャメロンとその協力者は、行動経済学を経済政策に活用することに興味を持って、セイラーに協力を求めた。2010年5月の総選挙で保守党が勝つと、キャメロンは首相となり、イギリスの内閣府の下に、「行動洞察チーム」(通称ナッジ・ユニット)を組織した。
例えば、税金滞納者に税金を支払うように催促するために、「イギリスの納税者のほとんど(90%以上)が税金を期限内に支払っている」「あなたはまだ納税していない少数派の一人です」というメッセージを手紙で添えるというフィールド実験を行ったところ、税金の納付率が5%以上も高まったという。ナッジを使えば、やり方次第では、大したコストをかけずに、大きな効果が期待できるのだ。
時を同じくして、サンスティーンは、アメリカの首都ワシントンDCで、ホワイトハウス社会・行動科学チームという小さなユニットを立ち上げ、ナッジを使った社会問題解決に取り組んだ。2014年現在、136ヵ国が公共政策に何らかの形で、行動科学的知見を活用しているという。
3 予防原則で備える
想定外という言葉がよく使われるようになったのは、2011年3月11日の東日本大震災の以降だ。未曽有の巨大地震とその後の原発事故も、想定外の巨大リスクだった。このような時、巨大リスクの発生前と発生後を比較してみると、人間は往々にして、想定外のリスクの完全な無視から過剰な反応へ、正反対な態度に一転しがちである。
サンスティーンは、どちらの極端な態度にも陥らず、費用対効果を考慮しながら、予防的なリスク削減措置を講じるべきだと主張した。人類は、今、テロや巨大災害など確率が見積りにくい想定外の巨大リスク(サンスティーンは「キャットリスク」と呼ぶ)の脅威にさらされている。そうした脅威を想定外に置いて安心するのではなく、予防措置の経済性を慎重に考慮しながら、リスクを低く抑える対策を取ることが重要である。ここら辺の経緯は次の著作に詳しい。
キャス・サンスティーン(著)、田澤恭子(訳)『最悪のシナリオ――巨大リスクにどこまで備えるのか』みすず書房、2012年
(みすず書房のサイトに移動します)
以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。
『本書では、この種の問題の解決を進めることを目指す。そのために具体的な目標を三つ定めている。一つめは、最悪のシナリオに対して人がどう反応するか、特に過剰反応と完全な無視という二つの対照的な問題にどれほど陥りやすいかを理解することだ。これから見ていくように、この二つの問題は個人にも政府にも同じように影響する。二つめの目標は、低確率の災害リスクを伴う状況について、個人と当局者はどうしたらより賢明に考えられるかを検討することである。あらゆる場所に存在するリスクの確率と規模を重視する、広い視野を求めることから始めるとよいだろう。三つめの目標は、費用便益分析の用い方と限界について、特にすぐには起こらないと思われる損害を扱う場所について検討することである。金銭ではなく幸福という真に大事なものを評価する場合、費用便益分析はせいぜい代替的尺度にしかならない。しかし、代替的尺度が役に立つこともある。』(『最悪のシナリオ――巨大リスクにどこまで備えるのか』11頁)
サンスティーンは、重大で取り返しの付かないキャットリスクに対して、何とか、予防原則と費用便益分析の緩やかな両立を図ろうとしている。同書には、齊藤誠 一橋大学教授の丁寧な解説が付いている。科学的根拠を無視し、費用対効果を度外視する極端な予防原則は暴走し社会を混乱させてしまう。そこで、著者は危機における人間の弱さを徹底的に見つめ直しながら、その弱さを克服できる仕組みを作らなければならないと、斎藤氏は述べている。専門家、行政、市民を含めた多様な人間が、忍耐と寛容をもって多様な意見を交換する「熟議による合意形成」が危機の領域の到達点となるのである。
4 理解を深めるための読書案内
それにしても、サンスティーンの生産力には呆れるばかりだ。上で取り上げた2冊の発表後、毎年のように、ナッジと予防原則の思索を深めた著作を発表している。以下、代表作を3冊選んで論評しよう。
キャス・サンスティーン(著)、⻆松生史(訳)、内野美穂、神戸大学ELSプログラム(訳)『恐怖の法則――予防原則を超えて』勁草書房、2015年
(勁草書房のサイトに移動します)
本書で、サンスティーンは予防原則をさらに深く考察した。人間は、恐怖の対象であるキャットリスクを前にして、なぜ完全な無視と過剰な反応にぶれてしまうのだろうか。サンスティーンは、人間が思い出せる事象を同じ頻度で起きるが思い出せない事象よりも、ずっと高く確率で評価するという想起可能性バイアスを持っているからだという。より良いデフォルト・ルールを設定できれば、リバタリアン・パターナリズムがそうしたバイアスを克服できるとサンスティーンはいう。
キャス・サンスティーン、リード・ヘイスティ(著)、田総恵子(訳)『賢い組織は「みんな」で決める――リーダーのための行動科学入門』NTT出版、2016年
(NTT出版のサイトに移動します)
本書で、サンスティーンはデフォルト・ルールをさらに深く考察した。インターネットの発展で、個人情報を大規模に集めるプラットフォーム企業が登場している。そうした企業は、一人ひとりに対して、個別化したデフォルト・ルールを設定することが可能だ。そうした時代に、個別化したデフォルト・ルールが新たな問題を生みかねない。個別化したデフォルト・ルールは、我々の選択のための学習を妨げてしまう。また、個別化したデフォルト・ルールが、個人のプライバシーを侵害する重大な懸念がある。しかしながら、個別化したデフォルト・ルールは、好むと好まざるとにかかわらず、ますます利用されるだろうと、サンスティーンは予想する。
キャス・サンスティーン(著)、伊達尚美(訳)『選択しないという選択――ビッグデータで変わる「自由」のかたち』勁草書房、2017年
(勁草書房のサイトに移動します)
本書で、サンスティーンは、集団が個人の間違いを正すどころか、その間違いを増幅すると表明する。集団には、往々にして、最初に行動する人間に従うという「カスケード効果」が存在するからである。その結果、楽観的な集団は益々楽観的に、悲観的な集団は益々悲観的になったりする。対策として、集団の少数が持っている答えを、他のメンバーも納得し受け入れることが必要だ。熟議を通じて集団内で情報を共有できれば、集団が革新的な問題解決法を発見できるとサンスティーンはいう。
さて、6回にわたって、行動経済学にかかわる著作を紹介してきた。これで、連載は終わりであるが、行動経済学のブームはまだ当分終わりそうにない。次から次へと新しい行動経済学の著作が発売されている。これからの行動経済学の発展を祈りたい。
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