第3章「一般理論」に向かって
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[ここで原稿の一頁が消失している。]
III
協力経済と企業家経済の区別は、カール·マルクスの萌芽的観察と幾分の関係がある。もっともその後、彼はこの
観察をきわめて非論理的にしか利用しなかった。彼は、現実の世界における生産の性質は、しばしば経済学者が想定
するようにC-M-C、すなわち別の商品(あるいは労力)を入手するために、ある商品(あるいは労力)を貨幣と
交換する場合ではない、と指摘した。それは私的消費者の視点ではあり得る。しかしそれはビジネスの態度ではない。
ビジネスの態度はM-C-Mの場合、つまり、いっそう多くの貨幣を入手するために貨幣を手放して商品(あるい
は労力)を入手するのである(*)。この点は以下の理由があるために重要である。
(*) H・L・マクラッケン 「価値理論と景気循環」[ニューヨーク、一九三三年]四六頁を参照。ここで現代理論との関係でマルク
スの理論のこの部分が引用されている。M'がMを超過する部分はマルクスの剰余価値の源泉である。次のことは経済理論の歴史
における一つの珍品である。古典的な公式 C-M-Cに公式 M-C-M'をいろいろな形態で向かい合わせてきた過去一〇〇年間
の異端者たちは、実際の経験の中で次のどちらが支配的な時期に暮らしていたかに従って、M'はいつも必ず Mを超過しなければ
ならないと信じるか、あるいは Mはいつも必ずM'を超過しなければならないと信じるかのどちらかをとる傾向があった。資本主
義体制は必然的に捧取的特徴を持つと信じるマルクスたちは M'が超過するのが不可避であると主張する。他方で、デフレーショ
ンと過少雇用に向かう固有の傾向があると信じるホブソン、あるいはフォスターとキャッチングス、あるいはダグラス少佐は、M
の超過が不可避であると主張する。しかしながらマルクスが、徐々に強度を増す一連の危機によってか、あるいは企業家の倒産と
過少雇用によって、連続的な M'超過が中断されるのは不可避であろうと付け加えたとき、その中断の間にはたぶん M が超過しな
ければならず、彼は中間の真理に近づいていた。私自身の議論は、もしそれが受け入れられるならば、古典派経済学者たちを依然
として MとM'はつねに等しいとの信念で孤立したままにしておき、少なくともマルクスの追随者とダグラス少佐の追随者とを融
和する効果を持つだろう!
#29,103頁
#4:4
第1章 貨幣の分類
脱してはいない。本来の貨幣は、
この言葉の完全な意味内容からいって、ただ計算貨幣とのかかわりでしか存在する
ことはできない。
貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
の恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
賀際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
編
場合にはこの区別はきわめて重要でありらる。この違いは、イギリス国王(それは誰であってもよい)とジョージ国
第王との違いのようなものである。一〇年後にイギリス国王の体重に等しい重量の金を支払うという契約は、現在ジョ
1ジ国王であるその個人の体重に等しい重量の金を支払うという
契約と同じものではない。そのときになって誰がイ
ギリス国王であるかを布告するのは、国家の役目である。
ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代がか物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
全集#5:4~5頁
計算貨幣は、連続的でなくてはならないことに注荘意すべきであろう。名称が変更されるときには、|その名称は
それに照応する貨幣の変化と同時に起きることもあれば、そうでないこともあるであろう||新しい単位は古い単位
に対して確定的な関係を保っていなくてはならない。国家は、通常、新しい計算貨幣を古い計算貨幣で定義する一つ
の公式を公布するであろう。しかしながら、たとえ国家による布告がなく、一定時日以前のすべての契約は古い通貨
で計算され、そしてその時日以後のすべての契約は新しい通貨でなされるとしても、その場合でさえ市場が自ら二つ
の通貨間の比価を設定せざるをえない。したがって、すべての現存の契約がいっせいに無効にされてしまうような大
「激変による以外には、計算貨幣の系譜における継承の連続性には実質的には何らの破綻もありえない。
三
本来の貨幣と銀行貨幣
われわれは、計算貨幣の導入が二つの派生的範嘩|この計算貨幣で表示される契約の付け値、契約および債務の
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