土曜日, 10月 26, 2019

ユクスキュル 生物から見た世界


生物から見た世界

(297)
価格:720(税抜)

作品レビュー

[ 2016-03-25 ]

ちょっと思い浮かべてみてほしい。
ごくごく普通のリビング・ダイニングがあるとする。
テーブルには皿とコップがある。天井からはペンダントライトがぶら下がっている。部屋の一方にはソファと肘掛け椅子がある。別の一方には書き物机と丸い回転椅子がある。奥には本棚だ。
人にはダイニングチェアもソファも丸椅子も「座るもの」として捉えられる。皿とコップは食器、床は歩く場所、本棚は読書と関連するもの。
同じ光景が犬にとってはどうだろう。皿はおいしいものをのせるものでお裾分けがあるかもしれないから「食べ物」の範疇だ。足つきの椅子は飛び乗って座ることも出来る、座る道具だ。ソファは寝やすいからちょっと上等の座るもの。だが丸椅子はまったく別のグループだ。飛び乗ろうとしてもくるくる回ってしまうから、こんなもの、「いす」とは関係ない。ダイニングテーブルも書き物机も等しく意味のないもの。本棚も無意味。単なる「背景」と一緒である。
蠅だったらどうだろう。彼にとってはここで意味のあるものは、皿とライトしかない。他の情報は区別できず、また区別することに意味もない。
人・犬・蠅が同時に同じ光景を見ていても、三者がそこから抽出してくる情報はずいぶん異なるものになる。

ヤーコプ・フォン・ユクスキュルは19世紀から20世紀にかけて生きた、生物学者・哲学者である。若い頃は異端でありすぎたためか、大学に属することなく、フリーで研究を続けた。60歳を過ぎた頃、ようやく名誉教授としてハンブルク大学に迎えられる。ローレンツなどの動物行動学者やあるいは哲学者に影響を与えた人物である。
本書は彼の思想のエッセンスを短い14章にまとめたもので、冊子に近い薄さである。だが含まれるイメージは多様で刺激に満ちている。
目からウロコが落ちる、世界がまったく違って見える、といささか大げさな言葉を当ててもよいほどだ。

動物はそれぞれ、違う知覚体系を持ち、同じ環境にあっても、見ている部分はまったく異なり、別の「環世界」を持っているというのがユクスキュルの主張である。
本書でもっともよく引用される挿話はおそらく、ダニの事例だろう。森に住むダニは視覚も聴覚も持たない。通りかかる動物の汗に含まれる酪酸を感知し、木から飛び降りて動物の体温を感じたら、皮膚の毛のない部分に移動し、食い込んで血を吸う。ここには嗅覚と温度感知と触覚しかない。木々の緑も小鳥のさえずりもダニには関係がない。しかしそのことを豊かさがないと言うのは的外れだろう。彼らはそうして生きてきたし、またそうして生き続けていくのだ。

ユクスキュルが使った「ウムヴェルトUmwelt」という言葉に「環世界」という訳語を当てたのは、本書の訳者であり、著名な動物行動学者である日高敏隆である。主体を取り巻くものを指すのだが、客観的な「環境」そのものを指すというよりは、主体が認識する「世界」であり、主観的なものである。イメージとしては、それぞれの主体が、周囲にそれぞれのシャボン玉を持っているようなものだ。シャボン玉は主体の見えるもの・感じ取れるものを囲い込む。主体が移動するとともにシャボン玉も移動する。

彼の思想は、純粋に、動物行動学としても役に立つ見方だろう。あるいは動物福祉を考える際の参考にもなろう。またさらに、自分の感覚とは何か、自分の感覚が捉える世界とはどれほど確固としたものかという哲学的な広がりも持ちうる。

人間と他の動物種が同じ環境にいるときであっても、人間が見ている世界と他の動物種が見ている世界は明らかに違う。
それはつまり、環境からのインプット(環境をどう捉えるか)も、それに対するアウトプット(環境にどう反応するか)も異なるということである。
我々が「見て」いながら「それとは認識していない」世界。
いやはや世界は広く、深く、そして多様であるのだ。

[ 2013-02-20 ]

これは科学哲学ならぬ生物哲学とでも言えば良いのだろうか。いわゆる「客観的な世界」というのは人間の環世界が形成させたものであって、イヌにはイヌの受容器官に基づく環世界が形成されているし、ハエはハエの受容器官に基づいた環世界の中で生きている。そして環世界を異にする生物同士は、決して同じ時間と空間を共有している訳ではないのだ。内容は造語がやや目立つものの、説明はシンプルで図説も豊富。読書が持つ役割の一つに読み手の世界観を広げるというのがあるけど、これほどまでに自らの世界観を広げてくれる本は他に無いと言っていい。

[ 2015-01-25 ]

最初から難しい単語でグイグイくるからついていくのがやっとだったけど、この本を読まなければこの視点には全く気がつかなかった。驚きと感動。

[ 2015-01-02 ]

人間にとって見えて認識している環境(世界、空間)と、生き物から見て認識しているそれとの間には甚だしい乖離がある。その理由は主体にとって価値や意味があるものが異なり、センサーの役目をする器官も異なるからという理由を説明した古典的な名著。
序章と一章は最初は理解できなくて読み飛ばしてもよいです。二章から後ろは短編なので好きなところから読むと取っつきやすい。あとで序章と一章を読めばなるほどと書いてある意義が納得できました。

[ 2013-12-22 ]

[このレビューにはネタバレが含まれます]

続きを表示

[ 2012-04-01 ]

「暇と退屈の倫理学」の中で「環世界論」が紹介されていて、興味を持ったので読んでみました。160ページ程度の短い本で、挿絵も豊富で読みやすい本でした。

人間が見ている世界と、他の動物が見ている世界は、根本的に違う、ということを、具体的な実験事例、観察事例を挙げて説明しています。

よく似たようなことを、漠然と思っていたことがあったのですが、その考えについて、一つのまとまったパッケージとしてこの本と出会えたのはとてもよかったと思います。

私が考えていたのは、自分が有する感覚(五感とかいわれる感覚など)の一部がそもそも存在しないとき、世界はどう感じられるのか?とか、通常の人間が持たない、まったく新しい「感覚」があったとしたら、そのとき世界はどのように感じられるのだろうか?ということ。
本書は多分に前者について整理した本だと感じました。

また、本書を読んで、「意識」とは何かを環世界の観点から語るとどうなるのだろう?とか、「アフォーダンス」と組み合わせて考えるとどうなのだろう?とか、いろいろ連想が広がっていきました。

良い本です。

[ 2011-12-12 ]

ジョルジョ・アガンベンの『開かれ』の中で重要な書物として詳しく言及されていたこの本、ユクスキュル『生物から見た世界』は、1934年に一般向けに易しく書かれた自然科学書だが、これは凄い本だった。この薄さで、人によっては世界観をまるで変えてしまうほどの衝撃がある。
たとえば森に住むマダニには眼も味覚もないが、木の上で待ち伏せ、下を通るほ乳類の皮膚腺から出る酪酸の匂いを感知すると飛び降りて暖かな皮膚の部分まで進み、血を吸う。
下に獲物のほ乳類が通るまで、なんと18年も待っている場合があるという。
このダニにとって、とりあえず酪酸の匂い以外のものは、世界に存在しない。人間が動物たちと「同じ世界」に住んでいると思い込んでいるのは単なる幻想であり、空間も時間も、それぞれの動物の主観により限定された環境世界(環世界=Umwelt)によって生み出されているものにすぎず、それは決して共有された、包括的なものではない。
「主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された例え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。」(p.50)
こんなことを発言する自然科学者がほかにいただろうか?
ユクスキュルはさらに、動物それぞれの種に限らず、同じ人間であっても、生活習慣や経験などに応じて、個人個人によって「環世界」が異なることをも示唆している。
この驚くべき直観は、たとえばグッドマン『世界制作の方法』の「ヴァージョン」にも通じる。
世界は無数に存在し、それが一つしかないという幻想は、単に「話が通じやすくするため」なのだ。
「生きた主体なしには空間も時間もありえない。」(p.24) 
これは恐るべき思考へといざなう、小さな、しかし素晴らしい書物だ。必読。

[ 2013-02-09 ]

機械論的な生物学とは違うとの主張だが、なにがどう新しいのかなかなかわからなかった。それどころか、ユクスキュルの主張している内容こそ機械論的とすら思える。
読み進めてわかってきたのは、ものすごく乱暴かつ単純にしてしまうならこれは情報処理の話だってこと。環世界という言葉のためとても文学的で印象だけど、やってることは生物を情報処理システムとして捉えるということなんじゃないか。だから、情報の処理とフィードバックによる系といなれば現代の感覚的には非常に機械論的に映る。知覚時間の話なんてユクスキュルが映画フィルムの例を出しているようにサンプリングレートそのもの。知覚器官が違うなら取得できる情報も違うし、取得できない情報は主観的には存在しないに等しくて、そうして世界も違うなんて当たり前じゃん、と思えてしまう。
原著が書かれたころは情報なんて概念はまともなかっただろうし、あったとしても人口に膾炙していたとは思えない(原著は1934年で、シャノンの論文や
ワトソン=クリックの発見は1950年前後のはずなのでそれと比べてもだいぶ早い)。だから情報の概念を用いることなく情報の話をしようとするからこういう回りくどいことになるし、情報というものに慣れた現代人にはぴんとこない。本人も情報の話をしている意識は当然なかったんだろう。
そうした時代にこんな考察を進めたというのは先進的だし、これがあったからこそオートポイエーシスみたいな議論も生まれたんだろうし、(ハイデガーが援用したという要因は大きいとは言え)哲学思想にも大きく影響あたえたんだろうなどと思う。。。。のだけど生物学は全く詳しくないし、ネットで見ても環世界と情報の関係に関する言及は見当たらないので、もしかしたらすごい誤読してるかもしらん。

[ 2019-06-04 ]

時々こう、思うんだけど、例えば、高いところにあってカミさんが届かないものに、身長差でオレは届いたりするでしょう。身体感覚が違えば空間認識も違う。認識が違えば精神形成ももちろん異なる。自分と他者との違いって、そういう抜本的なレベルから始まっているんだろうな、と。

まして異種族ならなおさらではないか。よく、動物や昆虫と人間が喋ったり仲間になったりするけど(映画とかで)、いや、それ絶対ムリだから。宇宙人と意思疎通とかも、あり得ないと思う。

そんな素朴な肌感覚に、科学的な照射を当ててくれるのがこの本。1934年に、ドイツの生物学者ユクスキュルが書いた。生物・・・昆虫、みみず、鳥などなどの目から見た世界、世界の見え方、あるいは何が見えないかについて論じた科学啓蒙書である。そう、思いもよらないものは、見えすらもしないのである。

学術的な知見としてはいささか古い内容もあるようだけど(ハエの複眼の構造とか)、科学者の思考実験・・・というより科学者がうたた寝の間に見た夢といった、ちょっと不思議な趣があった。

[ 2018-09-30 ]

環世界をテーマにしたアニメ見てたのですが、これ読んでかなり理解度深まった気がします。すごーく面白かった。薄いけど、本棚における優先度はかなり高いです。

[ 2019-01-11 ]



言葉の定義がイマイチなされていないため、
(もしくは、訳の問題なのかはわからないが)
わかりにくい概念もあるが、視点が面白い。

ある生物、つまり主体、のまわりには、
世界が広がっている。
世界には、いろいろなものがあるが、
生物は、自分にとって意味のあるものしか認知しない。
つまり、関係ないものは、見えておらず、存在しないに等しい。

複雑な生物になると、自分にとって意味あるものが
増える。そのため、複雑な機能が必要になる。
逆に、単純な生物でもいきていけるのは、
意味を絞っているから。

と、こういう理解。

[ 2018-06-01 ]

生き物から見た世界を想像したいという人にはきっと楽しく読める本。一つ一つの生き物は、空間や時間、形や動きをどのように捉えるのか。周りの物や他人に、どのように意味を見出すのか。まえがきや序章は難しい話が書かれているけれど、後章はわかりやすくて挿絵も多い。単純な世界から豊かな世界、さらには人それぞれのもつ世界の違いまで、幅広く想像させてくれる。読み終わる頃には、文字通り世界が広がっているはず。

[ 2017-07-10 ]

全然関係ないエネルギー系の新書から手に取ることに。
生物学の古典的な著書でありながら、文系の自分にも読みやすく、動物にとって見えている世界を、様々な事例をもとに知的好奇心をくすぐられながら読むことができた。
環世界という考え方は哲学的な側面もあり、新鮮な感覚だった。

[ 2017-08-11 ]

ユクスキュルは、19世紀後半から20世紀前半のエストニア出身のドイツの生物学者・哲学者。
本書は、1934年に出版されたユクスキュルの主著『動物と人間の環世界への散歩』(原書直訳)の新訳である。
著者は本書で、客観的に記述されうる環境というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体(生物)にとってみれば、そこに現実に存在しているのは、その主体が主観的に作り上げた世界であり、それは、客観的な「環境」とは全く異なる、それぞれの主体が環境の中の諸物に意味を与えて構築している「環世界」である、との論を展開しているが、ユクスキュルのこの考え方は、当時、動物学の見地からは、A.ポルトマン やコンラート・ローレンツ(本書には、ローレンツから提供を受けた観察結果なども含まれている)などの一部の動物行動学者に影響を与えるに留まり、むしろ哲学方面に影響を及ぼしたと言われる。
本書では、それぞれの生物にとって、知覚・作用する世界(空間や時間)がいかに異なるかを、実に様々な生物(マダニ、ミツバチ、ハエ、闘魚、カタツムリ、ゾウリムシ、クラゲ、ウニ、コクマルガラス、ミミズ、蛾、キリギリス、ニワトリ、ヤドカリ等)の観察事例を挙げて説明しているが、それは、我々が囚われがちな「世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物が詰め込まれており、全ての生物には同じ空間、同じ時間しかない」という幻想を打ち砕くに十分である。
そして、もうひとつの興味深い考察は、我々が通常「本能」と呼んでいる主体(生物)の生得的行動は、主体が自ら目的をもって行うものではなく、単に自然が設計したものだということである。私は、先日、近所の舗装された道路で糞をした犬が、後ろ足で爪を立ててアスファルトを引っ搔いていたことを思い出し、深く納得した。(犬は、糞をした後、後ろ足で土を被せるように「設計」されているわけだ。。。)
世界の見え方が少し変わるような気がする、一読の価値ある古典と思う。
(2017年8月了)

[ 2015-06-04 ]

ハイデガーの世界内存在へとつながる環世界という概念を提唱したユクスキュル。
初めの方は難しく苦労したが、中盤以降はその努力が報われたように快調に読み進めることが出来た。
知覚と感覚、この二つの対比も重要なキーワードであるように思えた。
哲学関連の本は皆そうだが、この本もまた何度か読み直さないと著者であるユクスキュルの思想を深く読み解き、解釈するのは困難であるように思える。

[ 2015-11-11 ]

ちょっとわざわざ難しく書かれているのが残念。
生物には色んな見え方、世界があるよということに興味がある人には進めたい1冊。

・人間のみる世界が全てではない。生物独自の世界がある。
・受容器>知覚神経細胞>運動神経細胞>実行器、とある反応に基づいて生物は動く。
・作用空間。人間は三半規管を中心に、前後、左右、上下を区別している。
・触空間。人間は、舌と指先がもっとも多数の場所を区別できる。
動物では、猫やネズミの触覚が特徴的だが、視力を失っても、触毛がある限り運動には全く支障は来さない。
・人間にとって、一瞬=1/18秒。これが聞き分けられる限界。
・目的と設計。目的を立ててすべての動物が生きているわけではない。DNAに組み込まれ、こう来たらこう動いてしまうという自然の摂理があるのを忘れてはいけない。設計は人生に縛りを与えるものではなく、効率的に生きる上で重要なのだ。
・なじみの道は、一度こう動くとこういう成果が得られるという知識を得てしまうと、もっと効率的に同じ効果を得られる場面でも、なんの考えもなしに、非効率的なこれまでのやりかたを踏襲してしまうという傾向にある。

[ 2016-09-21 ]

[このレビューにはネタバレが含まれます]

続きを表示

[ 2013-10-08 ]

「環境」とは区別された「環世界」をはじめ、「機能環」、居住・保護・摂食・愛などの「トーン」、「知覚像」と「探索像」といった興味ぶかい概念が随所に見られ、それらを使ってもう少し考えてみたくなった。
良書だけどコンパクトすぎることもあって、まだユクスキュルの考えがよくわかっていないので、他の著作も読みたい。
訳者あとがきに少し触れてあるけど、理解されて認められるまでユクスキュルは苦労したみたいですね。

[ 2013-06-02 ]

メルロ=ポンティの本に出てきたので読んでみた。「環世界」という概念について。確かに知覚哲学に通じるところもある。

[ 2013-09-15 ]

環世界という概念はまだまだ磨くことのできる豊かな概念だ。生態学者のみならずあらゆる学者にとって、短いが必読の書だと思う。

[ 2013-04-23 ]

哲学の命題の一つに「コウモリであるとはどのようなことか」というのがある。これは仮に、ヒトであるあなたの精神がコウモリの肉体の中に入って、どう感じるかということではない。あくまで、コウモリにとってコウモリであるとはどのようなことか、ということである。この本は、この問題についての生物学からの一答である。(しかも、およそ問われるより100年先駆けた回答である!)マダニ、カタツムリ、ウニ、イヌ、すべての生物には、それぞれに特有の知覚があり、空間の感じ方はおろか、時間の感じ方さえ違っている。往々にして自分たちは、彼らが自分たちがいるのと同じ空間、同じ時間に、同じようにしてあるという幻想にとらわれがちである。しかし、気に留めなければならない。なにもこれは生物の種の違いだけでなく、ヒト同士の間にもいえることなのだ。大人と子供で、世界の見え方も違えば、その意味も異なる。そして、同じ個人においても、状況によって世界はその色合いを変えていく。生物それぞれの主体と、それぞれにとっての客体の織りなす相互関係、その研究の端緒。

[ 2013-01-26 ]

環境とよく言われるようになって、自分らはまさに環境問題を通して、どう良き環境に改善し、人と自然や周りの環境と仲良くやっていくかという事を意識してきた。
 この本は別の訳本も読んだことがあり、本書は二回目の読了だ。
 改めて、良き環境ってのが英語のエンヴァイロメントとして捉えると個人的にも客観的に観ているような気がするけど、改めて人からの視点で構築した環境でしかなく、本書で環世界としるされるような客観的な環境という意味の言葉がまず英語になく、環境というキーワードに人や生物から見た環境と客観的な環境の両方の意味が入っている事を踏まえないといけないなぁっと改めて思った。
時折、読み返してみねばとも思う。

[ 2013-02-03 ]

客観性とは何か?
この問いは非常に奥深い問題だと思うのだが、それを生物学からのアプローチで考える同著は、客観性とは存立しえず、人間含めたあらゆる生物は主観的現実にのみ即して生きていると主張する。
なかなか鋭い視点、確かに事象として取り上げた時点で既に客観性を失ってるし。
それにしても「環世界」、あんまり上手い造語とは思えない、じゃあ良い訳語を出せと言われても困るんですが。
そうそう、最後に久々にローレンツ読みたくなったな。

[ 2015-03-28 ]

1993刊の科学の古典。行動は刺激に対する物理反応ではなく、その生物にとって知覚される環世界あってのものである。

ロボットにとってのセンサーとアクチュエーター、設計者はこのようなことを意識しているのでしょうか。

[ 2012-04-08 ]

[このレビューにはネタバレが含まれます]

続きを表示

[ 2012-02-12 ]

生物学からみた生物の世界の構成の在り方について論じている。Kantの影響を受けている。いかにして、生物が自身の世界を生存可能性に応じて構成するかを論じている。
ノミの世界を記述している箇所は秀逸で、興味を惹かれた。生物それぞれの環世界を論じている項目は示唆に富む。

[ 2012-03-28 ]

挿絵が豊かなので、読んでいて飽きない本である。人間以外の動物の認知ほ本である。ローレンツのソロモンの指輪の次に読む本であろう。

[ 2012-01-14 ]

動物や昆虫からみて世界はどう動き、どう見えているかを書いた本。
人間からみると、そういった生物の行動を、人間的考えから目的と関連付けてしまいがちだか、実際にはある状態によって発生するように遺伝子にすり込まれている。(親鶏は、雛鶏が敵に襲われていることに対して反応するのではなく、鳴き声に反応して行動する。)
人間的見地から理由付けるのではなく、まさに生物からみた世界から考察する必要を説いている。
一方的で独善的な考え方に陥ることなく、視点を変えることで本質を見抜く目を養いたい。

[ 2013-03-05 ]

例えば人間は紫外線を視力で感じることができない.他の生物には,人間の可視光域をまったく認識できないものもいるだろう.そのような生物が人間と同じような視覚反応を示すことは考えられない.

著者はこのように,各生物が感じ取る世界について考え,各生物が生きていく上で知覚する「環世界」がどうあるものかと論じている.極端なマダニの例は分かりやすい.動物から発せられる酪酸,動物の体温,といったごく少ない感覚のみを,生きるために用いている.つまり,マダニは「酪酸や体温しか感じない世界に生きている」としている.

ただ,生きるのに必要でない感覚を「有していない」とは言い切れない.生きるのに必要な知覚,生きるのに十分な知覚,のそれぞれがどれだけ一致しているかを見てみることが必要だろう.

[ 2012-10-02 ]

20世紀前半のドイツの生態学者ユクスキュルが提唱する「環世界」について平易にまとめた文庫本。

「環世界」とは動物はそれぞれにとっての異なる世界をそれぞれ生きるということ。我々人間が描く世界は、人間にとっての「環世界」であり、全ての動物にとってのそれではないということ。
かたつむりは我々よりもより早い世界を生きるし、ミツバチにとって、人間が美しいと思う花畑は単なる線図のような単調な世界で、彼らにとっては特定の形をしたものしか興味をそそらない。美しい!きれいだな!と感じるのは、我々人間(の一部)が持つ感覚ゆえの情景。

そして、最後の項で、これは人間にもあてはまると説いている。我々、各個人、皆同じ世界に生きているように見えて、実はそれぞれ異なる世界を生きている。人間一人ひとりにそれぞれの「環世界」が存在する。

これまでの世界がちょっと違った雰囲気に感じられるかもしれません!

[ 2012-09-19 ]

再読。かなりライトで、小学生にも勧められる作品。しかしながら「生物」というだけあって微少な虫から鳥や熊まで、それぞれの多彩な世界を描き出している点ではかなりの良書。
人間だけではなく、人間も含めた生物はそれぞれの特異な世界を持ち、それらの相補性の大きなうねりの中で「自然」というものが成り立っていることを、本作を読み再認識させられた。そこからは自然の神話性すら感じ取ることができる。

[ 2017-03-12 ]

環世界(Umwelt)

生物がもつ知覚によって世界は異なる。ダニには三つの知覚しかなく、条件を満たす刺激が現れるまで、ダニの世界は停止している。刺激によって、突如としてダニの環世界は現れる。
時間や空間は、生きた主体なしには存在しえない。

カタツムリの環世界では、1秒間に四回振動する棒は知覚できず、静止した棒である。
貝の環世界では、物体の動きがヒトデと同じくらいゆっくりである場合だけ知覚標識となる。
人間の知覚限界は1/18秒。それを超えるものは音であれ触覚であれ知覚できない。

[ 2018-08-06 ]

書名は知っていたけれど、手にとって読むまでには至っていなかった本の一冊。
時間を含め、世界が決して一様ではなく、各生物はそれぞれの主観で築いた環世界の中で生きていることが、たくさんの傍証で示される。

[ 2008-12-02 ]

ユクスキュルが生物学の歴史の中でどのような位置を占めているのか、僕にはわからない。けれど、どう考えても、コンラート・ローレンツとか、ニコ・ティンバーゲンとか、ワトソン&クリックとか、デズモンド・モリスとか、ドーキンスとか、グールドとかみたいには有名じゃないことは分かる。岩波文庫に収められている生物学者と言えば、ダーウィン、ファーブルなどが当前思い浮かぶが、上に挙げた有名な生物学者たちの本は岩波文庫では出ていない。そんな中でユクスキュルの本が岩波文庫として出されるのは非常に画期的ではないかと思う。自然科学とは客観性を重んじる学問だが、ユクスキュルはこの本の中で生物のもつ主観的な物の見方、「環世界」(Umwelt)の存在を主張する。岩波だからなのかどうも文章が難しいのだけど、ユクスキュルの発想は本当に面白い。こんなに面白い学問をする人が、なぜ有名にならなかったのか不思議でならない。あと、物理を学ぶ者として気になるのは、1930年代に書かれた本なのに、光の媒質たるエーテルが出てくること。日高先生のあとがきでは簡単に流されてしまっているのだけど、アインシュタインの特殊相対論から20年以上経っているのにエーテルを信じている人なんていなかったはずだ(マイケルソンを除けば)。だからユクスキュルはそれを知っていてエーテルを登場させたのだと思いたいのだけれど、だったらあらかじめ断わるだろうという感じなのだ。もちろんユクスキュルが物理学の進歩を知らなかったなんてばかなことはない。この本の中にボーアの名も出てくるし、最後の章からは量子論的な真空についてもについて正しい知識を持っているように見受けられる。やっぱりなんかエーテルを使う理由があったように思えるんだよね。何故なのかは分からないけど。

[ 2013-05-04 ]

簡単で短いながら面白かった。動物に対しては、つい人間らしさを投入するか、機械のように思いなしてしまうけれど、それぞれ全く違う原理で全く違う生き様をしているということの新鮮な驚きを吹き込まれる。
暇なとききちんと内容一言ずつでもまとめ直しておこう。

序章 環境と環世界
一章 環世界の諸空間
二章 最遠平面
三章 知覚時間
四章 単純な環世界
五章 知覚標識としての形と運動
六章 目的と設計
七章 知覚像と作用像
八章 なじみの道
九章 家と故郷
十章 仲間
十一章 探索像と探索トーン
十二章 魔術的環世界
十三章 同じ主体が異なる環世界で客体となる場合
十四章 結び