ビル・ミッチェル「マンキューの『原理』は洗脳だ」(2009年12月29日)
Bill Mitchell, “Do not learn economics from a newspaper“, – billy blog, December 29, 2009.
(訳注:10年前のエントリで、リンクはいろいろ切れていますがそのままにしています。また、原題は「新聞で経済学を学ぶな」という感じですが、著者が別エントリでこの文書を次のように紹介していることからタイトルを変えています。
Do not learn economics from a newspaper – for more discussion on why these principles are just an ideological brainwashing exercising.)
(訳注:10年前のエントリで、リンクはいろいろ切れていますがそのままにしています。また、原題は「新聞で経済学を学ぶな」という感じですが、著者が別エントリでこの文書を次のように紹介していることからタイトルを変えています。
Do not learn economics from a newspaper – for more discussion on why these principles are just an ideological brainwashing exercising.)
先週末、シドニーモーニングヘラルド紙の上級経済記者がセールスマンに変身した。世界中の経済学の教科書を独占しているマンキューの教科書のキャンペーンに自主的に参加しているようだ。彼の教科書「経済学原理(the Principles of Economics)」、これは明らかにただの洗脳なのだが、学生は冒頭で「経済学の十原則」というものを紹介されることになる。この原則、とても売り物になるものではないのだが、セールスマンが自分でもこんな製品は精査に耐えられるものでないと知っているのに、手数料を稼ぐために売りつけてくるものと似ている。しかしギッティンズ記者は、読者たちの経済的思考に対する自分の影響力を知りつつ、この原則は経済学を理解するために知る必要があるすべてであるかのように紹介するのだ。とんでもないペテンだ。
2009年12月26日のシドニーモーニングヘラルド紙でギッティンズが書いてのがこちらだ。- 「やさしい十原則で考える人生のトレードオフ」。彼はこのように始める。
二度とない休日のための特別記事:十の簡単なステップでわかる必須の経済学。ハーバード大学のグレゴリー・マンキューによるベストセラーの経済学の入門教科書から(オーストラリア版の共著者はJoshua Gans と Stephen King)。
願わくば人々がボクシングデーのクリケット試合やシドニーからホバートへのヨットレースその他のレジャーに忙しくて、こんなゴミ記事など目に入っていなければいい。
「経済学原理」(以下「原理」)は、新古典派のミクロおよびマクロ経済での考え方のおおもとになるものだ。 初学者がこの考え方を学び始めるときは、まずいくつかの基本的な主張が出発点となる。合理性、最大化、競争、効率性、完全な先見性、などだ。次に、これらの主張からの論理に沿って導出されるすべてのことは正しいのだと推定する。これら基本的な主張は実証的な精査を受けることはほとんどないか、あってもすぐに実証不足が露呈する。
「人々はそれぞれ自己の効用を最大化している」という仮定はその一例だ。観測されるわけではない効用は、続けて実益(real income)として表現されるということにされる。 これは不合理なトートロジーだ。なぜかと言えば、たとえば排水溝に倒れて「次の一発」を待っている麻薬中毒者でさえ、実益を最大化していると見なせてしまう。こんな風に、「私たちは効用を最大化している」という命題は、定義により自明の真実なのである。もちろんそこに意味ある内容は皆無だが、主流経済学者はそれを気にかけることはない。
ギッティンズの表現を借りれば最初に提示されるのは「個人の意思決定についての四原則」だ。この教科書はいきなり宣告しているのだが、本当はこれらについての大論争があることには触れない。「原理」には論争は存在しないという – カテキズム(訳注:キリスト教における入門用の教理)なのだ。そういうわけで、本当は「原理」は単なるセンテンスでしかないという強力な証拠に基づく文献があるのだが、経済学への認識論的導入を行おうという学生に対して反論の存在が示唆されることは決してない。信心の問題なのだから。
いったい誰がこれらが「原則」だと言っているのか? それはどうやって決めたのか?いつ? 現実との対応関係はあるのか? 要するにかの言明群は、「これは最も洗練された車です」というような言明と似ている。そうである可能性はあるが、他社のセールスマンは違った見方をしているだろう。
ギッティンズは言う。
経済学とは、人々(そして社会)が織りなすトレードオフについて、また直面するトレードオフを人々が解決する時の手助けについてものだ。社会が直面する典型的なトレードオフは、効率性と公平性の対立だ。 資源配分の効率性とは、限られた資源から社会が最大限の利益を得ることを目指すものだ。 一方、公平性は、資源から得られる利益が社会の構成員の間で公平に分配されることを目指す。 しばしば、ケーキを大きくする(効率の向上)ためにできることが、ケーキのスライスを不均等にする(不公平にする)してしまったり、そのちょうど逆のことが起こる。
このナンセンスを無知なわれわれが聞き流していると、次はこう言われる。経済学とは、競争的主体の間における限られた資源の分配についてのもので、私たちはいつも公平と効率の間の厳しい選択に迫られているのだが、合理的個人である我々はどうすれば最善の選択ができるかがわかるという。
これらの概念そのものは常も漠然としている – いつも上の引用のような感じだ。ところがこれらのメッセージはすぐに政治的になものに進化し、公共的な討論に登場するようになる(それを推すのはこの教義を教える経済学者たちだろう)。
こうして、政府が再分配(累進課税制度など)によって公平性を高めようとすることは効率の低下につながるので経済成長が損なわれるなどという話を読まされ、聞かされることになる(税は生産性向上の努力を歪めるのだそうだ)。
さらによく聴くと、この効率性の概念は、全体の成果のことではなく、個別主体における費用便益計算に偏っていることが透けて見える。学生たちは、 規制(たとえば炭素税)によって企業のコスト負担が増えると、生産性が失われたり価格が上昇したりという非効率的が生まれるなどという主張を、深い吟味なしに受け入れさせられる。
しかし例えば炭素税は、真の「費用」が製品の価格に組み込まれていないことによって、今の企業が本来より多くの利益を得たり、本来できる量よりも多くの製品を製造販売しているという事実に対応するための試みだ。教科書の最後の方には、社会的費用/便益と個人的な費用/便益を区別することを述べる「外部性」の章が大抵はあるのだが、最初から強調されることは決してない。
さらに、最大の非効率 – つまり大量失業 – の原因は、明らかに十分な雇用をシステムが生み出せていないことにあるのだが、これは合理的最適化の仮定に反するので、手に負えないものとして無視する。
それどころか、大量失業は逆に、政策の失敗(過大な最低賃金や失業手当)、ないし個人の努力の失敗(怠惰、希望的な賃金要求など)と誤魔化す。国家貨幣(不換紙幣)が失業を生み出すということをそのような教科書からは学ばない。非貨幣的な社会ならば失業は起こらない。
政府の純支出が少なすぎると大量失業が起こるということを学生が教わる場面はない。基本的なマクロ経済の命題、つまり会計上事実として、生産されたものがすべて売れるためには、総支出が総所得と等しくなければならないという命題を「原理」が学生に紹介することは決してない。
現代金融経済の中での非自発的失業とは、今の賃金水準では買い手を見つけることができず、非自発的に遊休してしまっている労働力のことだ。民間部門が全体として支出を所得以下に抑えたいと望んでいる場合、政府支出がなければ失業は増える。
これは賃金を引き下げるだけでは解決されない。民間部門にはびこる純貯蓄への欲望を一掃し、支出を増加させる必要がある。 つまり、民間部門における納税の義務および純貯蓄への欲望に対し、政府の純支出が不十分であるとき失業が起こるということだ。
効率性と公平性のトレードオフに関しては大問題がもう一つあって、それが合理的な現実描写になっていないところにある。
一例として、経済成長および発展についての最新の研究によれば、平等な国の方がより早く成長するという。平等と成長の間に正の相関があることが実証により強く示唆されている。社会は平等であるほど、不平等な社会よりも優れた教育成果を生み出し、高い技術レベルをもたらす。 旧来の新古典派の成長モデルは決してこれを受け入れない。原則(いわゆる収穫逓減の法則など)を立ててしまうから、論理の問題としてこのような事態を想像することができなかった。違う世界を見ることを恐れてはいけない。
ちなみに、収穫が逓減する「法則」もでっち上げで実証的な精査に耐えられるものではない。
平等と成長の関係は、公衆衛生や社会学でも研究が発展している。 貧困が健康の喪失や犯罪の増加、不利益の波及を生み出すスラム、その他の社会的コストを増大させることは疑いの余地がない。主流の経済学者はこの成果を無視しがちだ。
事実、多岐な分野にわたる社会科学研究の中で、分野をまたがった引用をする回数が一番少ないのが経済学であることが実証されている。 そうなるのは、彼らが自分たちが宗教的教義として信じる世界観から出発しているからであり、その世界観(「原理」)に反するものはすべて事実に反すると断じ無視するからだ。 主流の経済学は実に傲慢な社会科学なのだ。
希少性という概念についても多くの議論がある。希少性が人を動機付ける要因だというのだが、世界経済のダイナミクスを動かす動機となっている資本主義的な富の蓄積プロセスをみると、我々が利用可能な(有限の)資源に束縛されているという考えとは、まるで合致していない。
…何かの費用とは、何かを手に入れるために諦めた別の何かのことだ。 つまり、その「機会費用」だ。 経済学では、代替的な行動を採用した場合の費用と便益を比較する。 何かをすることや何かを買うことの利点は通常かなりはっきりしているが、Aという選択肢がそれ以外の選択肢より優れているかどうかを確認するためには機会費用を比較検討する必要がある。フルタイムで大学に行くための費用に、家賃や食費は含まれない(これらは大学に行かなくても必ずかかる費用だから)。 費用として一番大きいのは、フルタイムで働くことができないことによってあなたが失う収入 – これが古典的な機会費用の例になる。
こういう表現の問題は、いつも挙げる例がどうでもいいような話なのだ。下で見るように、いつも暗黙の前提がある。経済は常に生産可能性フロンティアにあると思いこませようとしている。つまり、すべての資源は、個々の合理的選択を反映した結果として現時点で最大利用されているという前提を置いているのだ。
こうして学生には、教科書にある古典的な「銃とバター」の話が与えられる。今よりも多くの銃を生産したい場合(通常は公的支出として登場)、生産資源の配置を変えるためにバターの生産(通常は民間の産出として登場)を控える必要が出てくる。公的支出の機会費用は民間での生産の減少だというわけだ。
学生はこのナンセンスを暗記し、試験や小論文でこれを延々と繰り返し、自分が実際に労働市場に参入するころには、「公的支出は効率が悪いのに対し、民間部門の支出は市場で決まり、それゆえ効率的である」というように格好良く言えるようにまでなっている。実にナンセンスだ。
そもそも、ほとんどの経済はその資源を十分に活用できていない。遊休状態の資源があるときに失業者に仕事を提供するようなときにトレードオフはなく、「機会費用」の原則とはかなり状況が違っている。
ところが、これに対抗して主流経済学者は次のように言う。誰かに仕事を与える機会費用は、その人がその仕事をやめるためにあきらめる「余暇」なのだと。 そうやって彼らは大量失業という破壊的な資源そして個人の可能性の無駄使いを言い繕う。 失業者コミュニティで何か仕事をしたことがある人なら誰でも知っている。ほとんどの失業者にとって、主流のエコノミストたちが楽しんでいると主張している「余暇」の価値などゼロだ、と。
ギッティンズは続いて「合理的な人々は限界原理で意思決定している」という第三原理を紹介する。 これはどういう意味か? ギッティンズは以下のようにマンキューのご宣託を流暢に説明している。
「限界的な変化」とは、ある行動計画に対応する追加的な調整のことだ。たとえば教師が10人の学生に対する短期講習を10,000ドルの費用で運営しているとする。つまり学生一人当たり1,000ドルだ。ここでもう一人の学生が参加申し込みをして来たとする。この学生に対して何ドルを要求すればいいだろうか。1,000ドル? 残念。次のように考える。新たに一人の学生が増える時の限界費用は?おそらくそれはかなり少額で、50ドルというところだろう。これはつまり、限界費用の50ドルよりも高い料金設定をすれば、その差額分だけ利益が増えることを意味している。もちろん、あまり高くしてしまうと学生は参加することを諦めてしまい、その場合は、彼が50ドルを超えて支払っても良いと考えていただけの額を損した、ということになる。
ここでも例がどうでもいい内容であることに注目せよ。新古典主義の教科書はいつも漠然とした例を出してくる。個々は合理的に意思決定しているという概念を批判する無数の研究はすでにある。
たとえば、人類学者(Marshall Sahlins、Karl Polanyi、Maurice Godelierなど)は実地調査によって、生産や交換における互恵行動の基本は、主流の経済学者が考えるような合理的最大化モデルではなく、相互尊重主義であることを示している。この論文は、競争の激しい「市場経済」とは著しく対立する「贈与経済」という概念を生み出した。
さらに、社会学の論文(例えば、Ralf Dahrendorfの初期の研究が出発点)では、個人の行動の動機づけになっているのは、「自己の利益」という狭い概念より、むしろ社会的役割の追求であることが示されている。 トートロジーだと述べた上のコメントを再度参照いただきたい。 経済学者たちは、社会的な目的のように見えるものも本当は欲に過ぎないと言う。
ケインズの一般理論(1936年発行)の基本的な考え方の一つは、心理的な影響 – 群集心理やパニックなどの影響 – に関するものだった。この考えは現代心理学の文献で研究で拡張されている。
認知心理学(例えば、Amos Tversky)の重要な研究では、人々が継続的に「非合理的な経済的決定」をしていることが示されている。 有名な新古典派経済学者のケネス・アローも、1996年に次のように認めている。
合理的な行動という仮説は、ずっと若干の後ろめたさはあったものの、ずっと経済学の中心に位置していた。経済学的におけるこの仮定は、ずっと心理学者たちによって批判されてきたが、対して経済学者たちは、心理学者が当の仮説を十分には理解していないのだと主張することで批判を退けてきた。それには一定の正当性が存在していた 。しかしこのAmosの仕事に対しては、そのような防御は不可能だった。 (Stanford University News Service 1996)
合理的な意思決定が支配的であるという「原理」は、他の社会科学で浮上してきた研究によってもはや否定されたにもかかわらず、頑なに力説されている。 新古典主義のご宣託の核心にある合理的な人間という概念には多くの説得力のある反論がある。
それなのにマンキューは、この概念を「真実」として提示する – すべての人々は合理的であり、そのようにふるまうのだと。 「合理的」という言葉は良いこととして聞こえ、「非合理的」は悪いこととして聞こえるものだ。 このことは教室の中で原則を維持するための強力な手段になっている。 学生だった頃、私に「失業者は意思に反して失業していると考えるのは不合理なのだよ」と教えてきた教授たちを思い出す。教師は、教壇の上から右手で合理性、左手で失業は問題ではないという教義を天下り的に押し付けたのだ。
この戦術だと、いつも異議は屈辱的に却下される。 私の場合は「私が間違っていました! 」と言わされた。私にとってはそういうやり方は、いつか真実に辿り着き、ご宣託をかわすことへの情熱を高めることになった。
さらに、合理性の概念は規範的なものだという記述はどの教科書にもない。すると合理性は功利主義と結びつこととになる – 私たちは物質的な結果を最大化するよう努めている、ということになる。 しかし他の分野の社会科学者たちは、倫理やその他の価値体系が人間の努力を強く動機づけていることを示しており、効用の追求というな狭い概念は否定されている。
主流派がどのように防御しているか。それは上のトートロジーの話に戻ってほしい。彼らは、より広い概念のように見えるものも実は効用で、それを最大化していると言うだけだ。大量の証拠に対抗しうる反証は示されていない。ただ盲目的にイデオロギーを死守する。
個人が限界概念で考えることもめったにあるものではない。 人々は普通、社会の規範に合わせようとしたり、自分が所属するチーム(家族など)の役割にふさわしい行動を探すことで行動を決めている。
第四の原則は、「人々はインセンティブに反応する」だ。ついていけない。さまざまな文化が交錯する環境の中で、人々はどうやってインセンティブを認識するのか、そして、どうやって選択肢を「合理的」な方法でランク付けし、「ベストな」選択肢を採用するのかを定義するのだろうか。ここには深刻な問題がある。「ベストな」選択肢という概念は規範的なものだ。
続く三つの原則は「人々はどのように影響しあうのか」についてのものになる。
第五原則「交易(取引)はすべての人々をより豊かにする」について、ギッティンズの描写はこうだ。
オーストラリアと中国の間の貿易は、一方が勝者に、もう一方が敗者となる競技スポーツのようなものではない。むしろ、貿易は双方を豊かにするもので(必ずしも同じくらい豊かになるわけではない)、だからこそ貿易が発生するのだ。国家間の貿易は、国内において企業と世帯の間で行われている取引を拡張したものに過ぎない。
呪文だ。 主流のアプローチは、公正な貿易(フェア・トレード)と自由貿易(フリー・トレード)の違いを学生に教えない。 IMFは貧しい国々に対し、自給自足型(持続可能な)農業を輸出用作物の栽培に変えることを計画的に強制しているのだが、貿易のそうした悪影響について学生は教えられない。
先進国とアフリカの間では膨大な貿易がなされてきた過去30年間で、前者が一人当たりの所得の大幅な増加を享受して来たのに対し、後者はより貧しくなったのはどうしてか?
その概念の全体が、狭い定義に過ぎない物質的利益が富の全体を正確に描写しているかのように構築されている。こうすることで経済学者は、発展途上国での環境の悪化や、一部の国における労働組合活動家の殺害といった問題を避けることが許される。殺される理由は、貧困を食い物にする多国籍企業が自らの「貿易からの利益」を増やすために提供する危険で薄給の仕事に対して、彼らが反対したからだ。
昨今は中国の純輸出の役割についての議論があるが、先進国に出荷される商品を提供するために危険な状況で低賃金労働を行っている中国の貧しい工業労働者のどのくらいが「豊か」になったのかについて、自分は深く疑問に思っている。 中国政府は貿易の結果として巨額の金融資産(米ドル建て)を保有している。しかし、その果実はどのように分配されているだろう?こういった問題は決して精査されない。
ギッティンズは第六原則、「通常、市場は経済活動を組織する良策である」を議論を加えることもなく、それ自体が真実であるかのように提示する。 教義を売るだけなのだから彼はそれで問題ないのだろう。
市場経済とは、「多くの企業や世帯それぞれの決定が、商品やサービスの市場で相互作用する結果として資源の分配が決まる経済」だ。経済活動を組織化するもう一つの方法は、どの商品やサービスを生産することにするか、そして生産量はどれくらいにするのか、また、誰が生産して生産物を誰が購入するのかについて、すべての計画を中央で行うことにするというものだ。これはうまくいかない。
うまくいかない?誰にとって?私は今、アジア開発銀行で中央アジアに関する仕事をしている。直近のカザフスタンへの調査旅行での驚きの結果だったのは、ソビエト体制の崩壊に対する見方が世代間で違っていたことだった。年配の人々、つまり現役時代には仕事の対価としてそれなりの住居や医療、食べ物や衣服を提供されてきて、おそらく引退後には少額ながらそれなりの年金を享受できるだろうと期待していた人々は、崩壊を良く思っていない。これを経験しなかった若い世代は、「市場」に可能性を見出しているが、レントシーキング(別名、汚職)の証拠があった。
多くの高齢労働者はソビエト体制が崩壊したとき権利を失い、今は年金なしで市場で決まる家賃を支払っており貧困生活に直面している。 彼らは間違いなく豊かになっていない。ソビエト体制のシステムには大きな問題があったが、彼らにとっては「うまくいって」いたのだ。
Adbusters のこの意見は適切だ:
グレゴリー・マンキューは当代で最も影響力があり才能に恵まれた伝道者の一人だ。 彼の目標、それは若い経済学の学生だ。しかし厄介なのはマンキュ―の教科書で、彼が提示する経済学の基本原則はが、完全に新自由主義のアジェンダに合致したものであることだ。マンキュ―は、市場がすべての解決策になると考えている – そして彼は、学生も同じように考えてほしいと望んでいる。マンキュ―によれば、問題が解決しない場合、その理由は次の二つのいずれかだ。市場が不完全であるか、市場が存在していないか。 持続的な経済や社会問題についての他の説明は存在しないかのようだ。
この市場主義をより一般的に言うなら、人々は互いに競争し合った方がうまくいくという教義ということになる。競争は私たちの生来の人間性の一部というわけだ。
もちろん、この概念を否定する膨大な文献がある。 例えば、学習心理学とゲーム理論の論文(例えば、Robert Axelrodの著書 – 1984年に出版されたThe Evolution of Cooperation)は、最良の結果をもたらす選択肢は協調して行動することで、 主流経済学が示唆するように競争することではないということをはっきりと示している。
囚人のジレンマの例では、主流の経済学の考え方には反する帰結を導き、協調行動の結果としてカルテル(市場への呪い)がどのように機能するかを理解する助けになる。
ジョン・キャシディーによる面白い記事がある(ニューヨーカー誌 (October 5, 2009))
– 資本主義がクラッシュしやすい本当の理由
– 資本主義がクラッシュしやすい本当の理由
金融市場の参加者は他の人の行動に反応する個人で構成されている。そのため自由市場経済学の理論は、囚人のジレンマ – 1950年代前半にランド社によって開発されたゲーム理論に基づく戦略的行動の分析 – ほどには明快にはならない 。ランド社で行われたこの仕事の多くは、当初は核戦争の論理に適用するためのものだったのだが、これはやはり爆発しやすいもう一つの分野を理解するのに非常に有用であることが分かってきた。ウォール街である。あなたはもう一人の男とともに逮捕され、共同で強盗を行ったとして起訴されたとする。取り調べはそれぞれ別室で行われ、コミュニケーションの手段はない。二人とも自白すれば懲役10年となるが、二人とも否認すれば、銃の所持した罪だけとなり懲役3年で済むことは皆わかっている。あなたが相手を裏切って自白し、相手は裏切らずに否認した場合にはあなたは裏切ったことへの報酬として釈放され、相手は15年の刑を宣告されるという。よって最悪のシナリオは、あなたが否認して相手が自白する場合だ。あなたはどうするべきか? 二人合わせて最良のシナリオは二人とも否認することだ。この場刑期は合わせて6年となり、合計の刑期は他のどの組み合わせよりも短くなる。しかし、否認すると相手が裏切って自由になるチャンスを獲得し、自分の刑期が最大になることがわかっている。そして相手もまた同じことを考えると予想できる。 それ故に、あなたにとっての合理的な戦略は、自白して刑務所で10年間務めるということになる。結果は酷いものだが、それがゲーム理論の言葉で「支配戦略」ということになる。囚人のジレンマはアダム・スミスの見えざる手とは逆の理論で、自由市場は自己利益を追求する個人個人が全体の利益を調整する働きをしている。スミスは「国富論」の中で、企業家が各自「自分自身の利益のみを追求していて」、「見えざる手によって、各個人の意図とは無縁の目的を促進させるよう導かれる」と書いている。しかし市場環境では、個々の自己利益の追求が、たとえそれが合理的なものであっても集団的な厄災への道を開くことが起こり得る。 見えざる手が拳となるのだ。
では、なぜギッティンズは読者にこういった複雑性について述べなかったのだろう。さらに、失業についての議論も市場信仰に基づいている。
Adbusters はこう書いている。
失業は市場が完全ではないことの一例だ。マンキュ―からすると、もし失業が存在するのであれば、それは失業手当、労働組合、最低賃金などの失業者の利益となるような人間の発明によるものだ。それらがなければ失業はあり得ない。 マンキュ―はこの見解を、経済学者の間で合意に値するものとして提示している。 実際、労働市場は非常に特殊な「市場」なのであり、その価格(賃金)は他の「商品」、例えばトマトの価格と同じようには設定されてはいけないということを認める経済学者はほとんどいない。 Alan Kruegerはこのことを次のように言っている。「賃金は需要と供給における競争力によって決定される」あるいは「市場が決める賃金」という値があるという言説は度過ぎた単純化だ。
賃金の決定についての社会学的な文献は大量にあるのだが、主流の経済学者はほとんどこれらを無視している。
興味深い話がある。2001年11月にハーバード大学では、清掃業者の待遇をめぐる争議があった。学生たちは清掃業者を支持し、大学はわずかな昇給を受け入れることになった(それでも貧困ラインを下回るものだった)。その最中、マンキューは the Harvard Alumni Magazine の記事でこう述べている。
興味深い話がある。2001年11月にハーバード大学では、清掃業者の待遇をめぐる争議があった。学生たちは清掃業者を支持し、大学はわずかな昇給を受け入れることになった(それでも貧困ラインを下回るものだった)。その最中、マンキューは the Harvard Alumni Magazine の記事でこう述べている。
そうすることは知識の創造と普及に対する本大学のコミットメントを疑わしくさせるだろう。
同じリンクでRichard Freemanによる回答も見ることができる。
こういうことが、ハーバードがロシアの詐欺スキャンダルに関与した一因だったのだろう。2006年のタイム誌のレポートを見よ。当時のハーバード大の学長の関与が示唆されている。ラリー・サマーズだ。
他の報道では、サマーズがハーバードの資金を金融市場での投機につぎ込んでいたことを指摘していて、最終的にそれは18億ドルの損失になったとのことだ。なるほど、知識の創造と普及に対する大学のコミットメントだ。
しかし、マンキュ―の場合、これは教化と等しい。
原則七は、「政府は時に市場の成果を改善することができる:市場が失敗したとき」。これについてはもう十分だろう。
原則七は、「政府は時に市場の成果を改善することができる:市場が失敗したとき」。これについてはもう十分だろう。
最後、うしろの3つの「原理」は私の専門、マクロ経済学をカバーしている。
第八原則は、「一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している」というものだが、マンキュ―は次のように述べている。「労働者が単位時間当たりに大量の財とサービスを生産するような場所の生活水準は高くなる。 同様に、国の生産性が向上するにつれて、その平均所得も増加する。」 この原則についてのギッティンズの宣伝は次の通り。
第八原則は、「一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している」というものだが、マンキュ―は次のように述べている。「労働者が単位時間当たりに大量の財とサービスを生産するような場所の生活水準は高くなる。 同様に、国の生産性が向上するにつれて、その平均所得も増加する。」 この原則についてのギッティンズの宣伝は次の通り。
ある期間における財やサービスの生産の価値はGDPとして測定される。生活水準の簡単な尺度は、そのGDPをその人口の大きさで割ったものだ。 一人当たり所得は、発展途上国よりも先進国の方がはるかに高い。どうして? 豊かな国々は生産性が高いからだ – 労働者は一時間ごとにより多くの商品やサービスを生み出しているのだ。
福祉の尺度(生活水準)としてGDPが非常に不適切だと見なす人はたくさんいる。 例えば、原油を流出させた企業が海をきれいにするために大規模な回収作業をする羽目になったとすると、その分GDPは増加する。これはどのような意味で生活水準の向上なのだろうかで。国民が貧困と圧制下に置きつつ、軍事装備を生産している国はGDPの成長率が非常に高い。それらの国の生活水準が力強く成長していると言うだろうか?
この福祉と生活水準についての見方に異議を唱える研究は無数にある。たとえば、GNI(Genuine Progress Indicator)は人の福祉を幅広く捉えるものだ。
さらに、富裕国の方が自国の資源をより有効に活用しているという主張は、植民地的な抑圧を無視している。それはたいていは軍事力(またはIMF提言のような微妙な強制)を背景としていて、大量の資源が未開発国から金持ち国へと移転されている。仮に貧しい国々が自国の資源を取り戻し、それらを大衆教育や公衆衛生インフラの発展に使うことができるようになれば、豊かな国々の分布はまったく違ったものになるだろう。
さらに、富裕国の方が自国の資源をより有効に活用しているという主張は、植民地的な抑圧を無視している。それはたいていは軍事力(またはIMF提言のような微妙な強制)を背景としていて、大量の資源が未開発国から金持ち国へと移転されている。仮に貧しい国々が自国の資源を取り戻し、それらを大衆教育や公衆衛生インフラの発展に使うことができるようになれば、豊かな国々の分布はまったく違ったものになるだろう。
なぜこういった地政学的な問題が無視されるのだろう?
第九原則は圧巻だ。マンキューは「政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する」と言い、次のように示唆する。
政府が国の紙幣を大量に増出すると、その紙幣の価値が下落する。その結果物価が上昇し、商品やサービスを購入するためにはより多くの紙幣が必要となる。
ギッティンズは調子を合わせてこんなセールストークをする
通常この命題は正しいが、現在のアメリカやイギリスのように、商品やサービスの需要が商品やサービスの供給可能量をはるかに下回っているときには当てはまらない。
そもそもこの主張は政府が「紙幣を印刷する」ことによって支出していると仮定している。造幣所が紙幣を印刷する目的は、銀行やその顧客が流動性の一部を紙幣や硬貨の形で保持することを望むことに対応するためだ。 非政府部門が保有する総金融資産の割合は非常に小さい。
政府の支出および徴税は、紙幣という形ではなく銀行口座への振り込み及び引き落としでなされている。 通貨建ての新たな純金融資産はこのやり方で経済に浸透していく。何故この事実を曖昧にするのだろうか。 現代の通貨システムにおいて、政府がどのように非政府部門と相互作用しているかを理解させるために基本的な出発点としてこのことを説明してはどうだろうか。
「お金を印刷し過ぎる」という感情的なイメージを使うのは教育ではなく教化だ。
第二に、インフレは複雑な現象であり、名目需要の伸びとその成長を吸収するための経済の実力との間に不均衡があることによって生じる。
この不均衡を労働者と企業の間の所得分配闘争として捉える文献も豊富にある。実質産出に対応する債権を有利なものにするために、どちら側もその名目価値(賃金および利益率)を押し上げようとする。これが最終的には実質所得よりも名目需要の伸びを高くすることになる。政府の介入がない場合、両者の競合はインフレで解決されるしかないのだ。
出発点としてインフレを財政政策と関連付けるのはなぜだろうか。そうすると学生はインフレとは本質的に財政政策に関連したものだと信じてしまうだろう。そうではない。インフレは、名目上の支出それ自体に関係しており、それは過剰な純公的支出だけでなく、過剰な純輸出、過剰な個人消費、過剰な民間投資も絡んでいるのだ。
しかし公共の目的という観点からみて、政府は経済をあえて完全雇用以上にまで促進させたいものなのだろうか。調整されない民間の行動が結果として「行き過ぎ」た名目支出ブームを作り出す投資加熱を想像することはたやすいが、単一の主体(政府)がその愚かさを考えないとするのだろうか?
第三に、ギッティンズは「通常は正しい」と主張しつつ、現在の状況(大量の空きリソースがある)は非典型的なものだという教化をすすめる。
主要経済国が最後に持続的な完全雇用に近づいたのはいつだっただろうか。オーストラリアは1975年以来そうなっていない。では、「通常」とはいつなのか。 資本主義経済は持続的な失業やインフレを引き起こすもので、インフレは脅威ではない。
最後、第十原則は「社会は、インフレ率と失業率の短期的トレードオフに直面している」である。
ギッティンズはこう言って売っている。
ギッティンズはこう言って売っている。
通常、政府がインフレを減らすためにすることは失業を増やす効果があり、失業を減らすために政府が行うことはインフレを増やす効果がある。この関係は発明者の名前をから「フィリップス曲線」として知られているが、長い目で見ればトレードオフは破綻し、過度に推し進めると、高インフレと高い失業率をもたらす可能性がある。しかし、人々のインフレ期待を下げることができれば、両方の長所を享受することができる。
インフレと失業の関係はA.W.フィリップスによって「発明された」わけではないが、彼の仕事はその一部ではあった。私もこのテーマで博士論文を書いた!
再度注意しておくが、「通常は」という言葉をあたかもそれが「正常な」状況であり、それからの逸脱は「異常」であるかのように使う。真実はその真実でしかありえない。1990年代について、主流派はいわゆる「トレードオフ」が継続的に実証・再推定されてきたとするが、その時期の世界は比較的雇用が強く、インフレ率が下がっていたというだけのことだ。
現実は明らかに第十原則の問題だったのだが、原則を廃棄するのではなく、単に問題を再発明しようとした。
今日の午後は時間切れだ。より詳しい批評を読みたければ以下のブログ記事を見てほしい。
– Long-term unemployment – stats and myths.
– Redefining full employment – again!.
– The dreaded NAIRU is still about! .
– Redefining full employment – again!.
– The dreaded NAIRU is still about! .
さらに、Joan Muyskenと一緒に最近出した本、Full Employment abandoned でも「失業とインフレのトレードオフ」という神話を詳しく扱っている。ブログのスタイルではなく学術的な形式だが!
もっと言えば、職業保証制度を導入すれば、政府は物価の安定に配慮せずとも、雇用を望む労働力のニーズを満たす雇用を必要なだけ創設することが可能だ。
この議論についてはブログ記事 – When is a job guarantee a Job Guarantee? – を読んでほしい。
さて、ギッティンズはこのようにまとめようとする。
ここまでの話についてこれた読者は課程修了だ。
私の日々のブログの読者数は今はだいぶ増えたが、シドニーモーニングヘラルドにはかなわない。ギッティンズがその立場をの乱用してこんなものを書いたのは残念なことだ。
彼の読者が修了した課程は、健全な経済探求心を間違った方向に向かわせる認識をもたらすものだ。 マンキュ―から学ぶことは何もないということは明らかだ。
こんなリンクも面白いだろう(訳注:ほぼリンク切れです)
– Reader’s Guide to Mankiw.
– Toxic textbooks.
– Economic Indoctrination.
– Post-autistic economics network.
– Toxic textbooks.
– Economic Indoctrination.
– Post-autistic economics network.
ディィダァンズ(Diddums)…
ディィダァンズ – 辞書によれば “… かわいそうに, よしよし。嘲るような表現”
ブルームバーグの記事を読みながら思わずこの言葉が出た。JPモルガンのダイモン氏、ダーリング財務大臣に抗議。
内容だが、、このJPモルガン・チェースのCEOは英国財務大臣に、銀行のボーナスに対する50%の課税に抗議したという。 彼は自分の会社に関してこういったらしい。
… ロンドンのカナリーワーフに15億ポンド(24億ドル)の欧州本社を建設する計画…JPモルガンは英国のボーナス税を回避するため、カナリーワーフにヨーロッパ本社を建設する計画をやめることを検討している…
オーストラリアにはこんな子供がいる。裏庭クリケットで、アウトの判定に納得できない。バットの持ち主はこちらのメンバーだ。怒って家に帰ってしまえばゲームを台無しにできるだろうか。しかし一つ問題があって、バットはその辺にある柵からいくらでも調達することができるので、この戦略は失敗する。
かわいそうなJPモルガン。
みんなに教えよう…
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