甲州ワインの歴史を刻む家~山梨・勝沼「宮光園」を巡る旅 | 百年名家~築100年の家を訪ねる旅~ | BS朝日
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覚鑁(かくばん、嘉保2年6月17日(1095年7月21日) - 康治2年12月12日(1144年1月18日))
https://nam-students.blogspot.com/2020/01/26171095721-212121144118.html@
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81★
大善寺(山梨県甲州市)―ぶどうを持った平安時代の薬師如来と日光・月光菩薩
山梨県には素晴らしい仏像が多い、ということは、前回の大聖寺、その前の福光園寺のエントリでも取り上げたとおりであるが、甲府盆地の東の端、ワインで有名な勝沼にも、素晴らしい仏像を多く所蔵する古刹・大善寺がある。
大善寺の本尊は薬師如来であり、脇侍の日光・月光菩薩を含めた三尊像は5年に1度、わずか1週間の期間ながら開帳される。私が初めて大善寺を訪れたのは3年前だった。もちろん厨子は閉められていたが、それ以外の仏像も素晴らしいので満足して帰った記憶がある。その時、3年後のご開帳は必ず来よう、と思っていたのであった。
勝沼は我が家のある東京都多摩地区からは比較的近く、中央道を1時間ほど走ればいいので行きやすい。ただ、土日は観光客で大渋滞になるため、この日は午後休をとって勝沼へと向かった。
八王子からすぐに山へと分け入る。大垂水峠付近から相模湖あたりのクネクネを越え、笹子トンネルを抜けると山梨県へ入る。甲府盆地へと下っていくが、この高速からも、右手に大善寺薬師堂(本堂)の大きな屋根を見ることができる。
勝沼インターチェンジで降りると、ものの5分ほどで大善寺に到着した。周辺はぶどうが赤い実をたわわに下げている。
さすがにいつもとは違って駐車場も混んでいて、誘導員も何人もいる。5年に1回ということで、お祭のような感じになっているのはどこのお寺のご開帳も同じである。幸いにして1台分空いており、狭い道を上がる第3駐車場には行かなくてすんだ。
大善寺山門の堂々たる仁王。
石段を登る。いつもとは違う吹き流しのようなものがたくさん風になびいている。
いつ見てもこの本堂は見事だ。屋根の張り出しがすごい。さすが国宝!という感じである。いつもは正面3つの扉のうち、左側と真ん中は閉まっているが、この日は全部開放されていた。
お堂に入り、内陣へと入ると、木の赤い色とも相まって、数多くの仏像がズラリと並ぶ様はいつ見ても壮観だ。そして今日は中央の厨子が開いていて、小さな日光・月光菩薩も厨子を出て須弥壇の上にいる。
薬師如来坐像(平安時代初期)国指定重要文化財 像高85.4cm サクラ材 一木造
この薬師如来は、何と言っても本当にぶどうを左手に持っていることが特異だ。それもかなり大事そうに持っているように見える。
実物を見ると明らかにぶどうは後補である。というか、薬師如来なのだから薬壺を持っているはずの手にぶどうなので、これでは薬師如来ではなく葡萄如来になってしまうではないか、という気もする。
しかしぶどうは薬効がある、ということをこの薬師如来が教えてくれた、という話であり、この薬師如来から勝沼のブドウ栽培が始まった、という説もあるくらいで、そういう意味では、薬壺に入っている万能薬と同じく、この地においてはぶどうこそ万能のスーパー薬なのかもしれない。
ぶどうの他にぱっと見での印象としては頭が大きい、ということであろうか。少し微笑んで瞑想しているように見えるが、とてもいいお顔をされている。偏袒右肩の衣紋の彫りはとても美しい。
また、斜めから見るとわかるが、この薬師如来はやや後ろにもたれかかるような姿勢だ。リクライニング如来などと言ったりしてしまうのだが、南伊豆・河津町の南禅寺で拝観した薬師如来坐像も同じくリクライニング如来だった。大きさはかなり違うのだが、同じ薬師如来でもあるし、何かそういう造形があるのだろうか?奈良の新薬師寺の本尊・薬師如来坐像(平安時代初期・国宝)も、横から見ると、ここに挙げた2像ほどではないが少しリクライニングしている。
右手は触地印になっている。我が家に、母にもらった東南アジア産と思われる小さな薬師如来の金銅像があるのだが、これも左手に薬壺、右手は触地印にしている。
触地印といえば釈迦如来の八相に見る、降魔成道の場面ということで知られるが、これはあまり関係ないのだろうか。以前のエントリでも取り上げた、八王子市郷土資料館の薬師如来像も、あちらは倚像ではあるものの、やはり薬壺を持たない手(この像は左右が逆という稀有な例)は触地印のように膝においている。よく知らないのだが、薬師如来には経典上で何かそれらのような内容が記されているのだろうか。
それにしてもこの薬師如来、かわいらしい。造形の素晴らしさもあるが、何よりもかわいらしい薬師さんだな、というのが一番の印象だった。
日光・月光菩薩立像(平安時代初期)国指定重要文化財 サクラ材 一木造
私はこの脇侍にかなり惹きつけられた。まっすぐに下へと垂らした、それぞれ本尊側の腕の先の手を平にしているところも独特で、両手でやったらヒゲダンスなのだが、小ささと相まって、そのポーズがまずとてもかわいらしい。
詳細を見ても、足の形がすけて見えるようなぴったりとした薄い衣の造形の美しさは比類がなく、衣紋にも翻波式衣紋がきれいに出ていてとても美しい。よく見ると、一瞬、漣波式か?と見まごう2つの小波にも見えるが、形式化する前の自由な造形になっていると言われる。足の間にも渦巻き紋があったりして平安初期の古い様式をよく伝える。顔は、細い目を閉じているかのようで、頭は一般的な宝髻ではなく、何かをかぶっている。小さく、やや寸胴にも見えるが、全体のまとまりとバランスはかなり良い。
薬師如来の入っている厨子(南北朝時代・国宝)は薬師如来だけでもやや手狭な感じに見えるが、ご開帳の時は須弥壇まで降りているこの2体の脇侍も、この厨子に薬師如来と一緒に入って5年間を過ごしているわけで、さぞ窮屈だろうなぁ、と思ってしまう。
この三尊像は5年に1度の開帳だが、その脇を固める仏像たちは常時拝観が可能だ。
十二神将像(鎌倉時代・国重文)は福光園寺の吉祥天と二天像を作ったということで以前のエントリでも取り上げた、慶派の仏師・蓮慶の作である。
ベンガラのような赤の彩色がかなりインパクトがあるのだが、それ以上に表情や甲冑の造形はさすが慶派、という感じがある。ただ、1体のみ、午神将はちょっと様子が変だ。さすばに1体だけあまりにも違う雰囲気なので、これは別人による造像であろうか。
3年前に来た時には修復中で、背面の壁のフックしか見えなかった大きな日光・月光菩薩像も並んでいる。
一歩下がって、厨子も開き、すべての仏像が並ぶ空間をじっくりと拝観する。何というすごい空間。山梨の懐の深さはなかなかのものだ、と改めて感じた。
ご朱印も堂々たるものだった。「ぶどう寺」の文字がいい。
仏像の素晴らしさもさることながら、お堂の雰囲気というものがお寺を決める部分というのはあるな、という気もした。やはりこのお堂は素晴らしい。
下の庫裏では、庭を眺めつつ、ご住職と檀家さんが協力して醸造しているお寺オリジナルのワインをいただくことができる。私はドライバーなのでボトルを購入して、家でじっくり味わわせていただいたが、なかなか美味しかった。
〒409-1316 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
TEL:0553-44-0027
拝観料金:500円(グラスワイン拝観、抹茶拝観はそれぞれ800円)
拝観時間:9:00〜16:30(4月〜11月)、9:00〜16:00(12月〜3月)
拝観:本尊薬師如来および脇侍は5年ごと、秋に1週間程の開帳。次回は2018年。
駐車場:あり(無料)
TEL:0553-44-0027
拝観料金:500円(グラスワイン拝観、抹茶拝観はそれぞれ800円)
拝観時間:9:00〜16:30(4月〜11月)、9:00〜16:00(12月〜3月)
拝観:本尊薬師如来および脇侍は5年ごと、秋に1週間程の開帳。次回は2018年。
駐車場:あり(無料)
大善寺 (甲州市) - Wikipedia
大善寺東方の甲州市勝沼町柏尾には柏尾山経塚が所在し、平安時代の康和5年(1103年)の年記を有する経筒が出土している[1]。銘文には三枝氏の一族である三枝守定・守継の名が見られる。経筒の銘文によれば、康和2年正月に山城国乙国郡石川村出身の勧進僧・寂円が、山梨郡牧山村の米沢寺において千手観音宝前において発願したという[2]。康和5年3月24日には完成した経典が米沢寺から大善寺にあたる柏尾山寺往生院へ移され、同年4月3日に往生院院主・堯範により開講演説・十種供養の行事が行われると、柏尾山に埋納されたという[3]。なお、経典が書写された「米沢寺」は後の米沢寺雲峰寺の前身寺院と推定されており、山梨市牧丘町杣口に所在する金桜神社奥社遺跡に比定する説がある[4]。
寺伝では養老2年(718年)、行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれている。本尊の薬師如来像の持物は長く失われていたが、元は葡萄を持っていたという伝承があり、現在は左手に一房の葡萄を載せた姿に復元されている。こうした由来と、現在は寺内でワインを醸造して参拝客に振舞っていることから「ぶどう寺」とも呼ばれる[5](薬師如来像の右手は通常は掌を正面に向ける施無畏印であるが、大善寺の薬師如来像は右手を膝前に垂下している)。
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平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学においていかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成した。即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとした。
目次
経歴
嘉保2年(1095年)6月に京都仁和寺の荘園藤津庄の総追補使伊佐兼元の三男として誕生する。覚鑁は8歳の時に早くも僧侶になる誓願を起こし、10歳の時に父が亡くなると仁和寺との縁を頼って13歳で仁和寺成就院へ入り、寛助のもとで学び、16歳で得度・出家。20歳で東大寺戒壇院で受戒し、名を覚鑁と改める。その後、高野山へ入り、青蓮・明寂のもとで学ぶ。
35歳で古式な真言宗の伝法の悉くを灌頂し、空海以来の才と称されると、大治5年(1130年)に高野山内に伝法院を建立する。そして鳥羽上皇の病を治すとこれまで以上の帰依を受け、上皇が建てた北向山不動院の開山にもなり、荘園を寄進されるなど手厚く保護された。
36歳の覚鑁は、真言宗総本山である高野山の現状に眼を止める。当時の高野山には、僧侶は食べる手段と割り切った信心の薄い下僧と、権力に眼を眩ませる上僧が跋扈する有り様であった。真言宗がすっかり腐敗衰退してしまった現状を嘆いた覚鑁は自ら宗派の建て直しに打って出る。
長承元年(1132年)、覚鑁は鳥羽上皇の院宣を得て、高野山に大伝法院と密厳院を建立し、大伝法院座主に就任したのを皮切りに、さらに2年後の長承3年(1134年)には金剛峯寺座主をも兼ねて、事実上同山の主導権を制し、真言宗の建て直しを図る。しかし、当然この強硬策に反発した上下の僧派閥は覚鑁と激しく対立、遂に保延6年(1140年)に、覚鑁の自所であった金剛峯寺境内の密厳院を急襲してこれを焼き払った。
この時、密厳院不動堂にいた覚鑁の命を狙って僧徒が不動堂に乱入してきたのだが、本来、一体しかないはずの本尊不動明王が須弥壇上に二体も並んでいた。どちらかが本物の不動明王でどちらかは覚鑁が変化したものであろうと僧徒達は考え、錐を刺してみて血が出た方が覚鑁であるとし、不動明王の光背・迦楼羅炎が実際に炎を上げ、僧徒らを焼こうとするのを避けながら、二つの不動明王の膝に錐を指してみた。すると両方の不動明王の膝から血が流れ出てきたので、覚鑁は不動明王に守られているのがはっきりとし、恐れおののいた僧徒は算を乱して不動堂から出て行き覚鑁は辛くも一命を取り留めたという、有名な「きりもみ不動」伝説である。またこれら一連の騒動を「錐もみの乱」という。
この凶行に至る前に、覚鑁は権力の亡者と化した真言宗門徒の有り様を嘆き、密厳院において長期に渡る無言行を修した。この直後に『密厳院発露懺悔文』を書き上げたといわれているが、桑原康年の研究論文により、新義系二派(真言宗豊山派、真言宗智山派)の学会では作者不詳が通説となっている。
こうして保延6年(1140年)中に高野山を追われた覚鑁は、弟子一派と共に大伝法院の荘園の一つである弘田荘内にあった豊福寺(ぶふくじ)に拠点を移し、やがて根来寺を成立させていく。なお、覚鑁の命を救ってくれたあの不動明王も一緒に下山し、現在根来寺の不動堂に錐鑽(きりもみ)不動(三国一のきりもみ不動)として安置されている。
康治2年(1143年)覚鑁は入滅し、根来寺奥之院の霊廟に埋葬された。弟子たちは高野山へ戻るも既に金剛峯寺との確執は深く、ついに正応元年(1288年)になって高野山大伝法院の学頭頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移し、覚鑁の教学・解釈を基礎とした「新義真言宗」を展開し、発展させていく。
後世の評価
伝記
全集
- 『興教大師著作全集 (全6巻)』 御遠忌八百五十年記念出版編纂委員会編、真言宗豊山派宗務所、1992-1994年
研究
関連項目
外部リンク
- 誕生院 生誕地の跡に在る(新義真言宗大本山)
- 興教大師について(真言宗智山派)
- 興教大師覚鑁上人のページ (真言宗智山派由城山・慈眼寺)
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