『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末には
ケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明す
るに至ったという。
この全集第29巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、
ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつ
を明確化している。
1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関す
る著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調
べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分
からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。
《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意
味深長な観察と若干の関係をもっている。》
それによると、マルクスは、現実世界の生産の性格が、経済学者たちがしばし
ば想定しているようなC一M-C′(商品一貨幣一他の商品という交換)のケ
ース――これは私的消費者の観点からのものである一一ではなく、M-C一M
′(貨幣一商品一より多くの貨幣という交換)のケース――これが事業の態度
である――であることを指摘したが、この指摘はケインズの想定する企業家経
済を分析する際の重要な視点を提供している、というのである。
この商品と貨幣との交換過程に関する範式は、もともとマクラッケンが、剰
余価値の源泉を流通過程ではなく生産過程に求めていったマルクスの説明を、
『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の叙述に即しながら解
説したものであり、マクラッケン自身はマルクスに忠実にこの範式を使用して
いたのであるが、ケインズは、この範式に独自の解釈を施し、それにマクラッ
ケンの著書では触れられていなかった『資本論』第2巻の三つの資本循環に関
する分析の内容を盛り込んで、つぎのように主張する。それによれば、前者の
範式は古典派理論の想定する経済像を表現したものであり、そこでは、
《企業家の生産過程開始への意欲は、彼の取り分となると期待されるものの生
産物表示での価値量に依存する、すなわち、彼に帰属するより多くの生産物へ
の期待のみが彼にとっての雇用増大への誘因となる》
と考えられている。しかし、
《企業家経済の下では、これは企業打算の性格についての間違った分析である
。企業家の関心は、彼の取り分となる生産物の量ではなく、貨幣の量にある。
彼は、産出量を増加させることによってその貨幣利潤を増加させることができ
ると期待するならば、たとえこの利潤が以前よりも少ない生産物量を示すとし
ても、その産出量を増加させるであろう。》
(参照:ケインズ全集・J.M.K Vol.XXIX,p. 81~2)
マルクスのケインズへの影響はカレツキと似ている。バーナード・ショーへの
手紙におけるマルクス批判(邦訳ケインズ全集28巻)などは擬態だったということ
になる。
邦訳が出れば日本人経済学徒のケインズ観は一変するかも知れない。
2018年現在、全集の3分の2が邦訳されているが、残り1/3の中でも本巻が最重要であろう。邦訳が待たれる。
《マルサスが格闘した有効需要の大いなるは経済学の文献から姿を消した。古典派理論に最も
完成した表現を与えたマーシャル、エッジワース、ピグー教授のあらゆる著作をくまなく捜し
てみても、有効需要については一言の言及さえないことに気づくだろう。わずかに、カール・
マルクス、シルヴィオ・ゲゼル、ダグラス少佐という地下世界で、表面下、ひっそりと生き延びる
ことができただけである。》一般理論#3
上記は#8:3に関連する
《消費性向に変化がないとした場合、雇用が増加しうるのは投資がそれと歩調をそろえて増加するときのみだということである。雇用が増加しても消費者は総供給価格の増加ほどには支出しないから、その開きを埋めるに足るだけの投資の増加がなければ、雇用を増やしても利益とはならないからである。》#8:3
シルヴィオ・ゲゼルの社会主義論と地域通貨の思想 - J-Stage
(Adobe PDF)伊藤誠
ゲゼルの主著は,自由主義的社会主義者たちに「ア. ナーキズムの『 ... は「幻影」として退け. られ,「需要と供給を至高かつ唯一の価格決定要因と ..... する貨幣の導入により, 貨幣の流通を加速して,有効. 需要を高め, ...
オーストリアの町ヴェルグルでは,町長のウンター・グッゲンベルガーが1932年に,現金と交換できるスタンプ貨幣「労働証明書」を発行して,公共事業に失業者を動員するための賃金,町の職員の給与の半分の支払い,地方税の受け入れなどに用いることとし,あわせて町の財政赤字を削減しつつ,スタンプ料は貧困者救済の財源とした。このスタンプ紙幣は,一般の貨幣の14倍の流通速度で通流したとされ,その需要創出効果で町の経済は急速に復興し,他の地域からもこの制度導入のための見学者が訪れ,200もの町でこれを応用する機運が高まっていた。しかし,中央銀行が通貨発行の独占権を行使して,こうした「緊急通貨」発行を禁じ,人びとはこれに抗議して告訴したが,最高裁で敗訴し,ヴェルグルの実験も1年あまりで終息した。こうした補完通貨としての地域通貨は,1930年代に,バルト3国,ブルガリア,カナダ,デンマーク,フランス,イタリア,オランダ,スペイン,スウェーデン,中国などにもみられた。ことにアメリカ,カナダ,メキシコでは,実に数千のスクリップ(scrip)と総称された臨時紙幣ないしコミュニティ通貨が使用されていたとされ,その多くは成功を収めていたとされている(Lietaer(1999),Chap. 5)。ケインズが指摘していたように,エール大学のI.フィシャーは(たとえばFisher(1933)などで),ゲゼルのスタンプ貨幣論を先駆的に評価しつつ,こうしたコミュニティー通貨の試みを積極的に支援していた。そして財務次官ディーン・アチソンと何度も会談し,スタンプ紙幣こそ大恐慌から脱出する手段であると説得を試みていた。しかし,F.ルーズベルト大統領は,1933年に就任し,中央集権的なニューディール政策をすすめるなかで,こうした地域通貨やその企画を大統領令により禁止し,アメリカでのそうした試みもいったん終了した❖7)。
こうして,1930年代に試みられた地域通貨の欧米における主要な事例と企画には,あきらかにゲゼルのスタンプ紙幣提唱の影響が顕著に認められる。とくに減価する貨幣の導入により,貨幣の流通を加速して,有効需要を高め,経済不況と失業問題の解決をはかるゲゼルの発想が重視され,地域経済においてその適用が試みられ,効果をあげていた事例が少なくない。
もっとも,ゲゼル(1920,邦訳239-40ページ)は,もともと「貨幣制度には統一性が必要になる」,「われわれの選択肢は国定貨幣か無貨幣かの二者択一しかない。つまり貨幣製造における営業の自由などといったものは絶対に不可能なのである」と主張し,その貨幣改革を国家の事業として(さらに国際的連帯においても)大規模に実現し,社会主義社会を実現する構想をたてていた。これとくらべると,地域通貨の実践は,あきらかにかぎられたコミュニティー社会の経済活動の再活性化を試みるものであり,それぞれの規模は比較的小さく,その達成目標も少なくとも直接的には社会主義におかれていたとはいいがたい。そこで,その貨幣論からみて「シルビオ・ゲゼル自身は地域通貨には反対の立場でした」とする解釈も有力である(廣田(2009),75ページ)。とはいえ,スタンプ紙幣の国家主義的な実現の企画より,こうした草の根的な地域通貨の成功例を積み重ね,その協力関係を広げてゆくほうが,国家によらない民衆的な相互扶助活動を尊重し,その連帯をつうじ,むしろ国家の役割を縮小・廃止してゆく社会主義への方策として,プルードン以来のアナーキズムの精神を継承するゲゼルの発想の根本には,より適合的なところがあるともいえる。いずれにせよ,大恐慌の衝撃をうけて,ナチズム(国家社会主義),ニューディール,および地域通貨が,それぞれ異なる様相のもとに,社会主義との対抗や社会主義的発想を重要な要素としてふくみつつ,登場することになったわけである。しかし,この時期の欧米の地域通貨の多くは,(生き残って20世紀末までに会員8万人,年商20億ドル余に成長しているスイスの補完通貨,ヴィアなどの例外はあるが),中央集権的な国家の経済管理の観点から禁止され消滅してゆき,ニューディールから戦後の資本主義世界にはケインズ主義的管理通貨体制が普及してゆく。それは,ソ連型国家主義的社会主義に対抗する冷戦体制のもとでの資本主義世界での国家主義的経済管理の支配的なしくみの重要な一面をなしていた。その後,概して一般にはむしろ忘れられていた補完通貨としての地域通貨が,あらためて地域コミュニティーの相互扶助的経済生活の活性化を促す方策として試みられ,世界的にも日本でもその実践例が増し,関心を集めるにいたったのは,1970年代初頭までの戦後の高度成長期が終わり,その後,資本主義世界に経済的な危機と再編が現代的にくり返されるにいたった過程においてである。
クリフォード・ヒュー・ダグラス
:: Morino,Eiichi
[gesell2505]クリフォード・ヒュー・ダグラス01
現在の地域通貨のうねりには、いろいろな理論や思想が流れこんできています。
私は戦前に貨幣改革論として知られながら、ケインズの表現によれば経済学の「地下世界」に存在するしかなかった、諸理論も大いに貢献しうるものがあるはずと考えてきました。
それらはまず、シルビオ・ゲゼルの理論であり、そしてクリフォード・ヒュー・ダグラス、さらにはフレデリック・ソディの理論です。
いま、LetsのMLでは、ダグラス理論にたつ経済学者の発言が目立っています。
日本では、歴史的にみても、ダグラス理論にたつ社会信用論者の運動が存在しなかったようで、あまり知られていません。
エンデの遺言では、触れませんでしたが、戦前、ヴェルグルと並んで注目すべき取組が存在しました。
それはカナダ、アルバータ州の実権を握ったダグラス支持者の社会信用政府の取組です。
そこで、これから少し基本的な情報をポストすることとします。
まず巷間、ダグラス少佐といわれる人間とはどんなひとであったか、です。
.................クリフォード・ヒュー・ダグラス01CliffordHughDouglasは英国人です。
1879年生まれ、1952年に死去。
ゲゼルと同じ時代を生きたひとです。
レーニンが「帝国主義論」を書くときに参考にしたボブソンの論敵でありました。
産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問、エコノミスト、著述家、そして社会信用運動の創始者でした。
その初期の職歴は、カナダ・ジェネラル・エレクトリック社(カナダ、ピーターバロ)の技術者、ラシーン・ラピッズ・ハイドローリック・コンストラクションの技術助手、ブエノスアイレス・アンド・パシフィック・レエイルウェイの副主任電気技師、インドの英ウエスティングハウス社の主任兼マネージャー、英王立空軍航空機工場(英国、ファーンバロ)の指導監督助手がある。
第一次世界大戦中、彼は英国王立空軍航空兵科で少佐を務め、後に王立空軍(予備役)に籍を置いた。
技術者生活から引退後、妻と二人で、数年間、サウサンプトン港の近くで小さなヨット製造工場を営んだ。
優れた設計のレーシングヨットのもつ美しさと機能性の組み合わせが彼をとりわけ惹きつけたのだ。
ハンプシャー州の古い水車場で暮らしたとき、彼は水車を利用して発電機を回し、得られた電力を旋盤や他の機器類ばかりでなく、家の照明や暖房に使った(柴田さん、中川さんの大先輩よー)。
その後、スコットランドに移ったが、彼の多くの友人や支持者たちは、彼が小さな水力発電所を自分の土地を流れる小川に建てるのを手伝ったそうだ。
経済力の分散が彼の考えの神髄であり、彼が自ら唱えたことを実践したことは記録されてしかるべきである。
1914年の大戦の少し前に、彼が携わった興味深い仕事の一つが、ロンドンの郵便局地下トンネルの電気工事に関する事前の試験作業の計画、仕様作成、実施で、後にその作業の監督を務めたが、これは工学史上における完全自動化事例の初期の一つであった。
この仕事に具体的な問題はひとつもなかったが、ダグラスはしばしば作業を遅らせるよう、また人員を解雇するよう命じられた。
しかし、戦争が始まってみると、政府が望むものについてはもはやカネの問題は発生しないことに気づかされた。
1916年に、ダグラスは王立航空機工場の事業の「無駄」を特定するためにファーンバロに送り込まれたようだ。
そのために、彼は、非常に注意深く原価計算を調べる必要に直面した。
彼はこの作業を当時、「表作成機」として知られる機械を導入して処理したが、これはそれからかなり後の、コンピュータの使用を予想させるアプローチであった。
またこの仕事は彼の関心を、工場が賃金や給与のかたちで収益を分配する割合に比べて、コストを発生させる割合の伸びのほうが急激なことに向けさせた。
これはどの工場にも民間の事業所にもあてはまるのであろうか、と。
[gesell2517]クリフォード・ヒュー・ダグラス02
クリフォード・ヒュー・ダグラス02...................そこでダグラスは、英国の100以上の大企業から情報を集め、その結果、倒産に瀕している企業を除き、どの事例でも総費用が常に賃金や給料、配当として支払われる総額を上回っていることを発見した。
このことから出てくるのは、最終生産物の一部のみがその生産によって支払われた所得を通して配分されうるだけで、さらに産業工程が迂回化し、複雑化することで、現行賃金に対する間接費の割合の増加を伴いながら、その配分が減少していくということであった。
財務上の簿記計算におけるこうした欠陥が正されなければ、彼はそれが完全に実行可能と考えたが、分配はますます、信用貸付や輸出信用によって融資され、倒産や産業力の集中につながるコスト割れ販売によって資金手当された将来の製品のための仕事(需要のいかんに関わりなく)を進めることに依存するようになる。
それは悲惨な結果をもたらすほかないであろう。
事実、現代のジレンマである失業による大量の貧困やインフレの拡大、債務、独占を生みだしているし、人間の努力や「完全雇用」を維持するために地球資源の無駄遣いを伴いながら、耐えざる「成長」や国家間の経済戦争を必要とし、軍事戦争へと発展するものだ。
この、彼の考え方は、金融制度を商品の効率的な分配のための簿記上の便宜とみなしている、その発券制度に関する考えと同様に、当時に経済理論家たちには完全に異質で受け入れがたいものであった。
ただひとり、オーストラリアのシドニーのアービン教授だけが賛同したが、その直後、同教授はその職を退いている。
しかし、経済学者たちによる非難は二つの矛盾した考えによるものであった。
すなわち1、費用と所得の差は、費用がすべて賃金や給料などとして事前に支払われた金額であることをダグラスが理解できないために生じた幻想であるとして、ダグラスの分析の要点である時間要因を無視している。
2、この差は金融及び財政制度が新たな生産を刺激し、雇用水準の維持に有効に働くとして、ダグラスの基本的な視点、つまり生産の目的は「雇用」やその他の金融目的ではなく、消費者の利用のためだとする見解を無視していた。
1930年代の大恐慌が残酷にもダグラスの分析を立証し、彼に世界的な評判と支持者をもたらしたとき、彼の批判家たちは彼が金融制度の一時的な過失を恒常的な欠陥と取り違えたのだと説明した。
しかし、その後の出来事がことごとく彼の予測に従ってきたことから、こうした批判は妥当性をもたなくなった。
当時の体制側の拒絶にもかかわらず、ダグラスは1923年のカナダ銀行経営調査会議及び1930年のマクミラン委員会で証言を求められた。
また数回にわたる世界ツアーでは特に、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで多数講演し、1929年には東京の世界工学会議でもスピーチをしている。
1935年に彼はオスロ・マーチャント・クラブでノルウェー国王及び英国公使の列席のもと重要な講演を行った。
同年、彼はカナダのアルバータ州の「連合農民」政府の主席経済再建顧問に任命され、その年の後半、同州は「社会信用」政府と名付けられた初の政府を選出した。
しかしカナダ連邦政府はダグラスの勧告の具体化をあらゆる方法を使って妨害し、立法化を否決した。
いくつかの立法は通過したが、再度否決された。
その後同党は30年以上政権の座にあったが、党が最初に選出される基になったその原則は段階的に放棄された。
前例として、歴史に記されるべきは、二回の「州による配当」の支払いが市民に支払われたこと、ダグラスの勧告に基づく活動期間中に同州は借り入れを増やすことなく経済的に自立し、州の負債を大幅に削減したことである。
クリフォード・ヒュー・ダグラス03.....................こうしたダグラス理論の党派政治の袋小路への逸脱は広く知られるところとなった。
しかし1934年以降、政治への実験的アプローチが試みられた。
それは彼の講演や著作、すなわち英国での5回の主要講演、「民主主義の本質」、「人間活動の悲劇」、「現実への取組」、「哲学の政策」、「現実的立憲主義」で手がかりが提供されたものである。
1934年に社会信用事務局がダグラスを議長に設立され、議会や政党のためでなく、有権者が望む政策目的のために投票を利用するキャンペーンが開始された。
これに続き、地方でも、政策目的重視、無党派選挙キャンペーンが取り組まれ、低地方税並びに地方税評価キャンペーンが取り組まれ行政サービスを低下させず、地方税納税者の負担の軽減に成功した。
第二次大戦が組織的なこうした取組に終止符を打たせた。
社会信用運動は地方的な分散状況を示すこととなった。
晩年、1939年から1952年まで、ダグラスは自分の考えを包括的にまとめ上げたが、それは信用の独占を強化するものときわめて対照的な議論となっている。
世界に多大の影響をもたらしてきた彼の理論のうちよく知られたものは経済の分野でのものである。
リアルクレジットの理論協同関係の増分の観念文化的遺産の理論国民分配分の理論公正価格(補正価格)の理論などがある。
彼の政治上の考えはあまり知られていないが、重要なものである。
それはダグラス特有の実際的見地から実行され、事態の推移のなかでフィードバックされたもので、民主主義の本質をこれほど明らかにしているものはないとの評価があるほどである。
地方分権の重視、階層的行政管理の必要性の提起、有権者の政策立案、並びに拒否権など多くの提起がある。
1947年、ロンドンで開催された立憲調査会でダグラスは最後の講演を行い、現行の無記名、無責任な多数決投票の考えの転換を求め、責任投票、記名選挙を提起した。
元労働党党首のヒュー・ゲーツケルはかつて皮肉を込めて「科学というよりむしろ宗教的改革者」と述べた。
これは彼が感じた以上に的を射ているかもしれない。
哲学や政策、宗教の問題に関するダグラスの考えや、これらの言葉に与えられた特別な意味は宗教的信条と社会に適用される原則との関係の回復に重要な貢献となるものだ。
彼の考えでは「哲学」すなわち宇宙の概念は常に、「政策」、-これは「哲学」によって定められた目的に向かう特有な一連の長期的行為であるが-としてはっきりと現れるものである。
宗教(ラテン語religare「結合する」という意味)は単にキリスト教の教義で表されるような一連の信条ではなく、まさにこれらの信条を個人レベルのみならず社会の政治、経済関係において我々の生活に現実に「結合し直す」ことである。
つまり彼における宗教は社会経済関係のなかで現実に宗教の教義を結合し直す(religare)目的性のなかで政策として成立するものである。
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経済学における古典派の命名はマルクスによるものと一般に言われている。ケインズが一般理論#1注で言及している。
以下は『経済学批判』より
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
《商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。》
通常『経済学批判』1859年第1章が参照されるが、『哲学の貧困』1847年#2:1:7の方が早い。
《プロレタリア階級とブルジュワ階級とのあいだ…敵対性があきらかになればなるほど、経済学者、ブルジュワ的生産の科学的代表者は、かれら自身の理論ともつれてくる。そしてさまざまな学派が形成される。》
《 宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。
…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、現代に属する。
…つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気やすめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブルジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。
…博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべての人をブルジュワにしようとする。
…経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産主義者とはプロレタリア階級の理論家である。
…氏[プルードン]はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず動揺する、… 》
古典派(スミス、リカード)
経済学 - 宿命論学派<
< ロマン派 人道学派→博愛学派
社会主義、共産主義
参考:
古典派とは?
ケインズ一般理論#1注で古典派の命名がマルクスのものであると言及している
マルクスをよく読んでいる
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古典派経済学
ジョン・メイナード・ケインズによれば、古典派の用語を初めて用いたのは、カール・マルクスであるという。マルクスは、1859年に出版された『経済学批判』において、古典派経済学による商品の分析について次のように記した。
商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。[3]
ケインズは、「古典派経済学」という用語にひとつの混乱をもたらした。『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、新古典派とみなされるマーシャルやピグーを含めて、その理論を「古典派理論」と呼んだからである[4]。現在では、この用法は一般に使われないが、ときにケインズの意味で「古典派」「古典派理論」と呼ぶ人がいるので注意を要する。ケインズは、古典派理論の本質はセイ法則を前提とするところにあり、『一般理論』はそれをくつがえすものであるとした[5]。
イギリス系の経済学者に加えて、マルクスを古典派に数えることもある[6]。
引用
[3] ^ カール・マルクス『経済学批判』、国民文庫、1953年、58-59ページ
経済学批判
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHiJ.html
http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHi1.html
-p.57, l.13-
商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。
序 言
第一部 資本について
第一篇 資本一般
第一章 商品
A 商品分析のための史的考察☆
第二章 貨幣または単純流通
一 価値の尺度
B 貨幣の度量単位についての諸学説
二 流通手段
a 商品の変態
b 貨幣の通流
c 鋳貨。価値表章
三 貨幣
a 貨幣蓄蔵
b 支払手段
c 世界貨幣
四 貴金属
C 流通手段と貨幣についての諸学説
附録 一
「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
経済学批判序説(カール・マルクス)
附録 二
「経済学批判」の準備ノートから
カウツキー版序文
研究所版序文
解 説
『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作である。フェルディナント・ラッサールの協力により、ドゥンカー書店から1859年に出版された。「序言」「第1章 商品」「第2章 貨幣または単純流通」から成る。
経済学が用いている経済的カテゴリーを批判することをつうじて、資本主義経済のシステムを批判することを目的としている。
この本の「序言」によると、資本主義経済のシステムを資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察することになっていた。そのうち公刊されたのは、第1部「資本について」のうちの最初の2章、商品と商品流通(から生じる貨幣の諸機能)についてだけである。続きは上の計画をもとに分冊形式で出す予定だったが、1867年に『資本論』(副題に「経済学批判」)の形で出ることになった。『資本論』では最初の章に『経済学批判』の内容が要約され、また叙述が改善されているとマルクスは言っている。
「序言」では唯物史観の簡単な定式が述べられている。
邦訳では補録として、『経済学批判要綱』から転載された「経済学批判への序説」が収められている。
なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。
日本語訳 編集
『経済学批判』杉本俊朗訳 大月書店国民文庫 ISBN 4-272-80040-X
外部リンク 編集
A Contribution to the Critique of Political Economy(原著英語訳,html)
岩波文庫(昭和31年5月25日)
関連項目 編集
下部構造
上部構造
アジア的生産様式
古典派の使用例最古は1847年
哲学の貧困2:1:7
?
宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することをたすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらがブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のなかには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。この闘争にあずかるプロレタリアートは、この熱狂的な仕事に夢中になって、ただ一時的偶然的苦悩をもつにすぎず、み
…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量に産出される、現代に属する。
つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気やすめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブルジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。
博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべての人をブルジュワにしようとする。
経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産主義者とはプロレタリア階級の理論家である。
プルードンは
氏はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず動揺する
とされる
貧困の哲学では、
#7:1
[ホッブズ]
かれの著作 『リヴァイアサン 』はさんざん中傷されたが 、こうした古典的なアンチノミ ーを展開したものにほかならない 。
…
税は 、アダム ・スミスが警察という語で総称した予防 ・強制 ・抑圧 ・懲罰の制度の一群に属する 。
#1注で古典派の命名がマルクスのものであると言及している
返信削除マルクスをよく読んでいる
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古典派経済学
返信削除ジョン・メイナード・ケインズによれば、古典派の用語を初めて用いたのは、カール・マルクスであるという。マルクスは、1859年に出版された『経済学批判』において、古典派経済学による商品の分析について次のように記した。
商品を二重の形態の労働に分析すること、使用価値を現実的労働または合目的的な生産的活動に交換価値を労働時間または同等な社会的労働に分析することは、イギリスではウィリアム・ペティに、フランスではボアギユベールに始まり、イギリスではリカードに、フランスではシスモンディに終わる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的最終成果である。[3]
ケインズは、「古典派経済学」という用語にひとつの混乱をもたらした。『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、新古典派とみなされるマーシャルやピグーを含めて、その理論を「古典派理論」と呼んだからである[4]。現在では、この用法は一般に使われないが、ときにケインズの意味で「古典派」「古典派理論」と呼ぶ人がいるので注意を要する。ケインズは、古典派理論の本質はセイ法則を前提とするところにあり、『一般理論』はそれをくつがえすものであるとした[5]。
イギリス系の経済学者に加えて、マルクスを古典派に数えることもある[6]。
引用
[3] ^ カール・マルクス『経済学批判』、国民文庫、1953年、58-59ページ
経済学批判
返信削除http://web1.nazca.co.jp/hp/nzkchicagob/DME/KeiHiJ.html
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商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカアド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判的な成果である。
序 言
第一部 資本について
第一篇 資本一般
第一章 商品
A 商品分析のための史的考察☆
第二章 貨幣または単純流通
一 価値の尺度
B 貨幣の度量単位についての諸学説
二 流通手段
a 商品の変態
b 貨幣の通流
c 鋳貨。価値表章
三 貨幣
a 貨幣蓄蔵
b 支払手段
c 世界貨幣
四 貴金属
C 流通手段と貨幣についての諸学説
附録 一
「カール・マルクス著 経済学批判」(フリードリヒ・エンゲルス)
「経済学批判」についての手紙(カール・マルクス)
経済学批判序説(カール・マルクス)
附録 二
「経済学批判」の準備ノートから
カウツキー版序文
研究所版序文
解 説
『経済学批判』(けいざいがくひはん、Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)は、カール・マルクスの6編プランから成る経済学批判体系の第1分冊に相当する著作である。フェルディナント・ラッサールの協力により、ドゥンカー書店から1859年に出版された。「序言」「第1章 商品」「第2章 貨幣または単純流通」から成る。
返信削除経済学が用いている経済的カテゴリーを批判することをつうじて、資本主義経済のシステムを批判することを目的としている。
この本の「序言」によると、資本主義経済のシステムを資本・土地所有・賃労働・国家・外国貿易・世界市場の順序で考察することになっていた。そのうち公刊されたのは、第1部「資本について」のうちの最初の2章、商品と商品流通(から生じる貨幣の諸機能)についてだけである。続きは上の計画をもとに分冊形式で出す予定だったが、1867年に『資本論』(副題に「経済学批判」)の形で出ることになった。『資本論』では最初の章に『経済学批判』の内容が要約され、また叙述が改善されているとマルクスは言っている。
「序言」では唯物史観の簡単な定式が述べられている。
邦訳では補録として、『経済学批判要綱』から転載された「経済学批判への序説」が収められている。
なお『経済学批判』の序言“Vorwort”と、『経済学批判要綱』の序説“Einleitung”は別物である。
日本語訳 編集
『経済学批判』杉本俊朗訳 大月書店国民文庫 ISBN 4-272-80040-X
外部リンク 編集
A Contribution to the Critique of Political Economy(原著英語訳,html)
岩波文庫(昭和31年5月25日)
関連項目 編集
下部構造
上部構造
アジア的生産様式
再生産表式もプルードン批判の中で考案されたと言える
返信削除経済学における古典派の命名はマルクスによるものと一般に言われている。ケインズが
返信削除一般理論#1注で言及している。
以下は『経済学批判』より
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《商品を分析して二重の形態の労働に帰すること、つまり使用価値を現実の労働または合
目的的な生産的活動に帰し、交換価値を労働時間または同質の社会的労働に帰することは、イ
ギリスではウィリアム・パティ、フランスではボアギュベールにはじまり(15)、イギリスではリカア
ド、フランスではシスモンディにおわる古典派経済学の一世紀半以上にわたる諸研究の批判
的な成果である。》
通常『経済学批判』1859年第1章が参照されるが、『哲学の貧困』1847年#2:1:7の方が早い。
《 宿命論派経済学者があり、ブルジュワ自身が実践において、かれらが富を獲得することを
たすけるプロレタリアの苦悩に無関心であるのとおなじく、かれらの理論においてかれらが
ブルジュワ的生産のふつごうとよぶところのものに対して無関心である。この宿命論学派のな
かには古典派とロマン派とがある。古典派はアダム・スミスやリカードのように、なお封建社会
の遺物とたたかいつつ、ただ経済関係から封建的汚点をふきとり、生産力を増大し、産業や
商業に新しい飛躍をあたえることのみをつとめているブルジュワジーを代表する。
…ロマン派は、ブルジェワジーがプロレタリアートに直接対立し、貧困が富とおなじほど大量
に産出される、現代に属する。
…つぎには人道学派がくる。これは現在の生産関係の悪い方面を気にかける。これは、気や
すめや、現実の対照をすこしでもごまかそうとつとめる。それはプロレタリアートの悲嘆、ブル
ジュワ相互間の拘束のない競争を、心からなげく。
…博愛学派は完成された人道学派である。これは対立の必然性を否定する。これはすべて
の人をブルジュワにしようとする。
…経済学者がブルジュワ階級の科学的代表者であるのとおなじように、社会主義者と共産
主義者とはプロレタリア階級の理論家である。
…氏[プルードン]はただ、資本と労働とのあいだを、経済学と共産主義とのあいだを、たえず
動揺する、… 》
古典派(スミス、リカード)
返信削除経済学 - 宿命論派<
< ロマン派 人道学派→博愛学派
社会主義、共産主義
古典派(スミス、リカード)
返信削除宿命論派<
広義の経済学< ロマン派 人道学派→博愛学派
社会主義、共産主義
返信削除古典派(スミス、リカード)
宿命論派<
広義の経済学< ロマン派→人道学派→博愛学派
社会主義、共産主義