佐和隆光
https://nam-students.blogspot.com/2018/10/blog-post_21.html@
参考:
ブートストラップ法(『計量経済学』末石直也)、計量経済学・入門―三日間の経済学 佐和 隆光他
http://nam-students.blogspot.jp/2016/02/blog-post_70.html
計量経済学・入門―三日間の経済学 単行本 – 1991/2 146頁~参照
マクロにはクロスセクションかパネルが多い。
ミクロやファイナンスだと時系列が多い。
時系列データ、時系列資料(timeseries date):
(一つの対象を時間毎に計測)
価格
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| X X
| X
| X
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|__________
数量
クロスセクションデータ、横断面資料(cross-section date):
(対象を増やし同時に計測。以下は同一価格にした事例)
価格
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| X X X X
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|__________
数量
時系列、需要安定:
価格
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| X
| X
| X
| X
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|__________
数量
時系列、供給安定:
価格
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| X
| X
| X
| X
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|__________
数量
計量経済学・入門―三日間の経済学 単行本 – 1991/2 146頁~参照
佐和 隆光 (著), 土志田 征一 (著), 黒田 昌裕 (著)
母集団と標本:
価格 x
|B /A
| \ /
| \x /x
| \/
| /\
| x/ \
| /x \
|__________
XXX XX 数量
123 45
母集団はBではなくAと推察できる。
同163頁参照
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経済学とは何だろうか (岩波新書) 新書 – 1982/2/22
本書は著者長年の懸案である「経済学とは何か」という問いに基づき、戦後の経済学について、その傾向(潮流)を概観したものである。
同時に、出版年(1982年)から推して、当時の保守化に傾く日米の政治的な流れを睨みながら、
今後(80年代)の経済学の動向を占う、というスタンスで書かれたものであろう。
第1章では、「科学」としての経済学が、そのじつ時代と社会の文脈に依存する(パラダイム説)、かなり恣意的なものであることが論じられ、
第2章では、「科学」の装いをまとった経済学の典型として、50年代から60年代にかけて、
ことにアメリカで隆盛を極めた近代経済学(新古典派経済学とケインズ経済学)による「制度化」の内容が論じられる。
さらに第3章では、そうした傾向の日本への移植状況が論じられ、第4章に至って、70年代に席巻した既成経済学(ことにケインズ)に対する
批判の意味が問われ(その批判には第1章で論じられたパラダイム説が影響している)、
第5章において、脱理論的な傾向をみせる新保守主義的な経済学の今後が予測されている。
以上のように本書は経済学の流れを概観しつつ、これに著者の批評が加味されたものであるが、結論は先に提示されているといってよい。
すなわち第1章で論じられたような、クーンのパラダイム説を反映した「科学としての経済学」批判である。
であれば経済学にも栄枯盛衰の歴史があるのは当然で、著者の批評を今日のグローバリズムの流れのなかに置いて見ると、
新保守主義もまた批判に晒されているのを見ることができるのは当然である。
最後に付言すれば、本書はこれまでの経済学の傾向を偏りなく概観しているが、
それもパラダイム説(一種の相対主義)に依拠するかぎり当然のスタンスであろう。
しかしその分、著者の立場が超越的になるきらいがあって、こちらに訴えるものが乏しいという不満が残る。
その意味で、著者の主張が明確に出ている『市場主義の終焉』(2000年)に比べ、見劣りがすると言わなければならない。
経済学のすすめ――人文知と批判精神の復権 (岩波新書) 新書 – 2016/10/21
著者は1942年生れの経済学者で、計量経済学で研究者としてのキャリアを始めたが、その過程で数学に過度に依存した主流派経済学(計量経済学を含む近代経済学)に嫌気が差し、環境経済学などより社会全体を視野に入れた分野に転身している。著者は早い時期から、『経済学とは何だろうか』(岩波新書、1982年刊)で近代経済学に対する批判を展開している。本書は、この前著刊行後生じた多くの変化、特に深刻な経済危機や、進む一方の大学の知的環境劣化を踏まえて、再度警告を発したものである。
著者は、文科省が意図している大学や学部の選別縮小(特に人文・社会科学系の縮小や廃止)の動きを批判する最先鋒である。本書が説明しているように、理工学偏重の大学再編の動きは確かに凄まじく、あまりに愚かである。内外の識者たちが異口同音に批判しているように、このような政策は長期的には国民の知的レベルを低下させ、ひいては国力低下という恐るべきかつ致命的な事態に直結する。日本のノーベル賞受賞者たちが、今後は日本から受賞者を生み出すことは難しいだろうと予測しているのは、文部官僚が知性を極めて狭く解釈し、世界の動きに無知だからである。
著者は、主流派経済学が科学の名に値しないまがい物であると断定している。このようなまがい物が、大学や学会だけでなく、国家の金融財政政策立案者や関係機関に蔓延しているのである。あり得ない前提条件を仮定した空想的モデルで数学をいくら「駆使」しても、複雑な社会経済現象を解き明かすのは不可能であり、人文知を取り込んだ経済学が不可欠であると力説している。同感である。
本書は、従来の主流派経済学には人文知が欠けていることを批判しているが、さらに根本的な視点から主流派経済学の欠陥と有害性を論じているのが、中野剛志著『富国と強兵-地政経済学序説』(東洋経済新報社、2016年刊)である。大著であるが、地政学という人文知と経済学とを有機的に組合わせることで、極めて有益な知見が導かれることを示している。本格的な主流派経済学批判として、こちらもお奨めする。
形式: 新書
京大経済研究所長、佐和先生の編纂による20世紀の経済学の名著の紹介である。ガルブレイス、フリードマン、サローの3冊は一般読者向けの啓蒙書であるが、残りは原書の専門書の原書である。紹介される著者のほとんどがノーベル経済学賞をとっている。各章は佐和先生の子弟の方々のレビューのためもあり、それぞれの経済学者の略歴と著作のサマリーになっているが、本書全体には一貫した主張や古典主義→ケインズ派→新古典主義(=市場原理派)のような経済史の流れは掴みにくい。(レビュアーの読解能力のせいでもあるだが...)
選択された名著は以下の通りである。
ヴェブレン『企業の理論』
シュムペーター『経済発展の理論』
ロビンズ『経済学の本質と意義』
ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』
ハイエク『市場・知識・自由』
ヒックス『価値と資本』
レオンティエフ『アメリカ経済の構造』
ハロッド『動態経済学序説』
サイモン『経営行動』
サミュエルソン『経済学』
アロー『社会的選択と個人的評価』
ミュルダール『経済理論と低開発地域』
ベッカー『人的資本』
ガルブレイス『新しい産業国家』
フリードマン『選択の自由』
サロー『ゼロ・サム社会』
経済学部の学生の方々が座右に置いて、論述試験のミニ参考書代わりに使うのが良いだろう。
ハロッドの理論では投資はもはや一定ではなく 、前期所得を所与として今期所得の増加関数となる 。そして 、投資と貯蓄を均等させるような均衡所得水準が存在するためには、固定的な平均貯蓄性向を前提とする限り 、今度は総需要関数が四五度線を左下から右上方向に横切らねばならず 、均衡の安定性は失われてしまう 。つまり 、いま計画所得が均衡所得よりも大き過ぎる場合 、それが加速度原理を通じてより大きな誘発投資需要を喚起するために 、全体としての総需要は総供給を上回ってしまう 。
…ハロッドは 、 「現実の成長率 」は 「保証成長率 」からいったん乖離するとますますこれから遠ざかる傾向を持つ 、という命題を提示した 。現実の成長経路が 「保証成長率 」の経路の上に巧く乗っている間は良いが 、一歩足を踏み外すと 、上下両サイドの奈落に突入するという意味で 、これは 「ナイフ ・エッジ 」と称される 。しかし 、これは 「定理 」と呼ばれるほどに確立された命題とはいい難い 。実際 、四〇年代から五〇年代にかけて 、この 「定理 」の是非をめぐり 、多くの論争が交わされた 。
結局 、ソロ ーの 「新古典派成長理論 」は 、ハロッド理論の 「均衡動学 」的な側面についての 、代替的な考え方を提供するものの 、 「不均衡動学 」的な側面を完全に棚上げしたものに他ならず 、自らの不均衡理論を提供してはいない 。
多くの教科書が 、 「ハロッドド ーマ ー理論 」は短期的理論であるのに対して 「新古典派成長理論 」は中長期的理論であると説いている 。しかし 、それには一定の留保を付けねばならない 。すなわち 、 「投資 ・貯蓄均衡が不安定的でない限り 」という留保である 。
秋田次郎
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