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月曜日, 4月 15, 2019

『源氏物語』と一九三〇年代



『源氏物語』と一九三〇年代 

                        関本洋司 

  はじめに 

 『源氏物語』にとって、一九三〇年代は二つの意味で受難の時代であった。一つは政治的に利用されたという点で、もう一つは理解者を得なかったという点においてである。 
 この論考では、『源氏物語』を一九三〇年代の言説の中に探ることで、アジア・太平洋戦争に突入する一九三〇年代の日本の権力構造の位相を明らかにしたい。 
 「批評空間」に掲載された村井紀の論文「国文学者の十五年戦争」(註・)は、国学者達の反動的な姿勢を暴露している。その中で村井は<「恋」と「戦争」はリンクする>と述べ、『源氏物語』を恋物語ととらえた人々と、『源氏』が戦争という状況からの逃避としてして機能したこととを同時に批判している。村井紀の論は実証的な目的で書かれたものではなく、また『源氏』に特化されたものでもないので厳密な論考が期待できないのは仕方がないが、この指摘は『源氏』の読みに関わる部分を多々含んでおり、さらなる考察を要する。 
 また、村井と同じく戦後の研究者である小林正明は『批評集成源氏物語第五巻』(註・)において、一九三〇年代の『源氏物語』受容の資料面と考察面での集大成をおこなっている。 
 ここでは両名の考察に多くを負う形で『源氏物語』をめぐる当時の権力構造を検証する。まずはじめに村井氏が「古代人」と批判した折口信夫を振り返ることから、まだ開かれていない『源氏』の読みの可能性について考察してゆきたい。 
 まず、今日的立場から『源氏』の読みに関して述べるならば、村井紀によって「古代人」として批判された折口信夫(一八八七~一九五三)は、一見反動的に見えながら、実は後述する小林正明が明らかにしようとする『源氏』の反(非)権力的な側面を開示する。 
 戦後の言説ではあるが、本居宣長が提示した「もののあはれ」に対して折口は「もののけ」という呪術的な側面を強調している(「もののけその他」「新訳源氏物語付録」一九五一年九月)。その読みが安易にオカルティズムに回収されていない理由は、源氏の成立、作品生成を二段階に分けるような分析的視点を提供しているからである(「日本の創意」『折口信夫全集第八巻』中央公論社一九六六年六月)。
 また恋を扱っているから戦争に加担していないだとか、不敬だからけしからんといった、安易に評価の反転してしまうような読みを折口はとらない。 
 折口は性をめぐる言説を「色好み」と「好きもの」とに分節化し、前者を政治的な折衝の産物として積極的に評価している(折口の源氏読解については後述)。 
 一九三三年に上演禁止にあった新劇『源氏物語』の台本を書いた番匠谷英一(ドイツ文学研究で著名だった)は、そのことを理解しているように思える。というのは戯曲の冒頭で「好きもの」を批判させ、光源氏を「色好み」という性的言説を分節化した果てにあらわれる肯定的概念のもとに扱っているからである(註・)。とはいえ、この戯曲は「もののあはれ」といった、定点観測的で容易に反動化される観念自体に対しては免疫を持っていなかった。 
 番匠谷は、一九三三年一二月の「文芸」初出から二年後の一九三五年に河出書房から戯曲を単行本として出版し、その前書きにこう書いている。 

 <いづれの御時とも分らず、ただ渺茫として定めがたき時代の物語。もとよりその架空なること『唐土にはいと多くとも、日本(ひのもと)には更に御覧じ得る所なし』と記されて居るとほりである。> 

 番匠谷が書いたこの前書きを小林は次のように評している。 

<偶然というべきか、意図的というべきか。昭和八年の禁止から二年後の昭和一○年に単行されたD本(引用者註、一九三五年の河出書房版のこと)は、弾圧を誘発した禁忌の核心を、ここでは純然たる虚構であることの根拠として誇示している。おそらく。弾圧を逆手にとって一矢報いるとの意図が込められていた、と推断したい。> 

 小林の「推断」には同意出来る部分が多々あるが、『源氏』に対する反権力的なレッテル張りは、村井の批判する「抵抗神話」の捏造や安易な逃避的姿勢の擁護へと反転する危険があり、そうならないためにも当時のテクストを見るべきであろう。小林はまた、次のように言う。 

<むろん『源氏物語』は虚構だが、この虚構が虚実の皮膜を希薄化して、具体的な歴史情況と相互浸透するとき、虚構の潜在的な暴力は現実の歴史情況のさなかで発動する。(中略)この近接遭遇の強度の磁場において、万世一系の単一線条は、(中略)正統と傍系との自明性を喪失し、複数の混線に変容する。(中略)『源氏物語』は、想像の領域において、万世一系・神聖不可侵の絶対理念に大逆する造叛の書物に他ならない。> 

こうした小林の反権力的(この場合「非権力」ではない)な読みを固定化する前に、戦時下の言説を小林の編集した資料を使い、読み解く必要がある。 
 また、ある種の研究対象との同一化(「反権力」へのそれであろうとも)は谷崎潤一郎が現代語訳をした際にとった冷静で持続的な態度(谷崎は原文尊重であると同時に、フェミニズム的視点から光源氏に同一化できないと表明している。註・)と対照的に、『源氏』の可能性を閉じてしまう危険性がある。また、単なる漢語を羅列しただけの観念的読みでは、源氏は読めないし、より多様な読みを開くためには観念自体を分節化する「源氏」の本文を見る必要がある(註・、・) 。谷崎は、原文の「幾様の意味にも取れるやうな含みのある物の云い方」(「源氏物語の現代誤訳について」「中央公論」一九三八年二月)に着目していたと述べているように、『源氏物語』の文章の持つ多様性に意識的であった点が注記され得る。 
 さらにこの論では、音読、上演といった多様でパフォーマティブな読みを誘発しつづける『源氏』のエクリチュールを十分に評価しなければならない。 
 以下、一九三三年(昭和八年)の『源氏物語』上演禁止事件、国定教科書採用問題など、源氏をめぐる「事件」を見ていきたい。 

 一、『源氏物語』上演禁止事件と雑誌「むらさき」 

 <昭和八年一一月二二日午後、警視庁保安部より、上演準備中の『源氏物語』劇を中止すべし、との命令が発せられた。(中略)前売り券は一万枚が既に売りつくされていた。(中略)最終禁止による被害総額は、報道によれば、一万二千円ないし一万三千円あるいは四千円とされている。〉(前出の小林論文より。小林は当時の新聞記事をもとにしてこの論文を書いている)。 

 ここで、<その理由は光源氏が上つ方の人であるがためである>という当局側の上演不許可の理由(一九三四年二月「むらさき」創刊号より)には、注釈が必要であろう。村井紀が指摘するように、あくまでも「演劇レベルの禁止」であること、そしてさらに村井紀の言葉によれば、戯曲の載った雑誌「むらさき」は、創刊号から編集し直され、その第二創刊号からのシリーズでは一九三三年の上演禁止事件という事実が抹消されているということである。 

<おそらく上演禁止という思わぬ政治化を消去するために、リニューアルしたのである。政治を消去する紫式部学会と新装『むらさき』、しかしむしろこれは、いわば源氏物語の政治化の第一歩であったろう>(村井論文より)。 
  
 だが一九三四年の検閲の状況を見なければ、これは被告人を転移するだけだ。また弾圧されたから抵抗した、あるいは抵抗したから弾圧されたという資料面の「トートロジカル」(小林)な袋小路の危険に注意しなければならない。 
 小林は、一九三三年四月に斉藤内閣のもとに設けられた思想対策協議委員会に着目し、<その委員会が打ち出した立案のうち、九月一四日に閣議報告で了承を取り付けた「思想取締方策具体案」は、「この時点における政府のマスメディアと統制策を知る上できわめて重要である。また、ここに示されている具体案(全十六項目)は、その多くが、やがて数年ならずして、実現に移されている点でも意義が深い」>と記述している(『マス・メディア統制1 現代史資料四〇』内川芳美解説、みすず書房一九七三年一二月参照)。 
 内川芳美によって資料として纏められ、小林が言及した「思想取締方策具体案」の第十三項と第十六項は以下の通りである。 

(十三)現行制度ノ下二於テ内務、逓信、大蔵等ノ諸省に分掌セラレ居ル検閲事務二付統一セル方針ノ下二一層緊密ナル連絡ヲ保チ処理ノ敏活ト統一トヲ期スルコト 
(十六)現在二於テ検閲ノ対象トセラレ居ル出版物、活動写真フイルム、演劇脚本、ラヂオ放送等ノ外二尚思想発表ノ手段トシテ社会的二相当ノ影響力ヲ有シ検閲ヲ必要トスルモノアラバ将来之ガ為ノ検閲制度ヲ設クルコト 

 ここでは、国家が検閲制度の一元化を求め(警視庁から内務省へという流れ)、様々なメディアヘの対応が急がれていたことが読み取れる(この一元化は単に政治制度上のものではなく自己検閲、後述する自主規制という制度の内面化を伴う)。 
 また、能楽における上演の取り止めなどもこの統制政策の結果であり、<高貴の御身柄に扮して登場することは自発的に遠慮>(東京日々新聞一九三九年一一月二八日の記事より)といったように「自主規制」を余儀無くさせられている。つまり、新劇『源氏物語』の上演禁止は、その前段階だったと言えるだろう。 
 番匠谷の戯曲の内容に関して言えば、題材としては須磨までを扱い、「品定め」という階級意識に触れ、構成的としては最後は無常感を強調することで終わっている。番匠谷は階級的な悲劇として『源氏』を認識しているのである。だから、ここに一義的な国策への転換を見ることはできない。むしろ村井の言う「国策文学」への転換を指摘するとしたら、それは国文学研究の状況を写し出す鏡としての『源氏物語』本文を見てゆかねばなるまい。 
 古典の本文校定に貢献した、藤村作、池田亀鑑、久松潜一ら、蒼々たる「東大国文」人脈が顧問となった上演計画の反動性は、村井氏も指摘するようなその後(一九三四年五月の第二創刊号以降)の上演禁止事件そのものの隠蔽に顕著に見られる。また、池田の母性崇拝と結び付けた読みは戦争中の国家に奉仕する母という国家側のプロパガンダに直結(註・)する危険があり注意を要する(鹿野政直著『戦前・「家」の思想』一九八三年四月創文社、参照)。 
 ただ、「紫式部学会」がささえた雑誌「むらさき」(一九三四~一九四四)には、現象としてさらに多様な側面を見ることができる。 
 例えば、小林も触れていたように、一九三六年五月号の座談会に円地文子の次のような発言が載っている。 
  
<番匠谷さんが判り易くずつとお書きになつたから、あれで警視庁の人達なんか始めて源氏と云うものが判つたんじやないかと思ひます。さうして吃驚しちやつたんじやないかと思ひます。さうして考へて見ると、あれは今長谷川(長谷川時雨、引用者註)先生が仰有つたやうにいけないに定まつてゐる。> 

 戦後『源氏物語』の現代語訳を出版した円地の活動の出発点がここに見られる。「趣味」と「教養」が国策に通じるものとしてあるとしても、ここに一定の成果を認めなければなるまい 
 このように『源氏』のテキストがいかに反(非)権力性とつながり、いかに実際に反(というよりも非)権力性を持っているかを明らかにするために、さらに別なレベルの論争、国定教科書採用問題(一九三八年から一九三九年に顕在化した)と谷崎源氏の検閲問題(一九三九年に顕在化)とを見てゆきたい。 

 二、国定教科書採用問題/『谷崎源氏』/「大和魂」 

 谷崎潤一郎の現代語訳『源氏物語』(註・)は、一九三九年一月の第一回配本の時点で、山田孝雄の校閲により部分的に削除されており、序にそのことが明示されている(「分量から言へば、三千何百枚の中の五分にも達しない。」谷崎執筆の「序」より)。 
 戦後、谷崎自身はこう書いている。 

 <あの翻訳が世に出た頃は、何分にも頑迷固丙な軍国思想の践雇してゐた時代であつたので、私は分らずやの軍人共の忌避に触れないやうにするため、最小限度に於いて筋を歪め、削り、ずらし、ぼかし、などせざるを得なかったのであつた。>(「源氏物語の新訳について」、一九五一年四月「中央公論」) 

 ここで山田孝雄による校閲の実体と、テクストの分析が必要であろうが(代表的な例では、賢木に大幅な削除が見られる)、谷崎が「軍人」に責任を転移していることに注意しておきたい。戦時下で、源氏のテクストから美的(非権力的)な文章を学び取った谷崎は、戦後の自己の回想においても、非政治化への「ずらし、ぽかし」(脱構築)を試みているのだ。 
 また教科書採用問題「若紫」「末摘花」をダイジェストにして採用した教科書は、「女子教育」に奉仕しようとした面(註・)もあるが、紫式部が「女」であることの必然性を明記した部分など評価できる面もある。この問題が巻き起こした論争については、蓮田善明らが「源氏物語」の不敬説に対して擁護の文章を書いていることが特記される。<少国民教育に関することであり最も良心と誠意をようすることである。>「教材としての源氏物語是非の輿論 [上]」「国語教育」一九三八年一二月)。 
 「みやび」という朝廷側の文化的概念とひきかえに天皇制を軍国主義から切り離す蓮田の論理には短絡的という危険な面もあるが、ここでは 文体における「みやび」を指向した谷崎との連関性を指摘するにとどめる(関東大震災以来、谷崎は関西に移住し、関東に対して関西を対置しているので、谷崎の場合は蓮田とは違い内実を伴った文化的闘争足り得ているのだが。ちなみに関東大震災は、資料散逸とそれに対応した国文学ブームの原因となったと言われている。また、近代日本における断絶の原因として関東大震災と第二次世界大戦とが併置される傾向があるが、天災である前者と人為的である後者には明確な差異がある)。 
 その後、一九三九年における国定教科書論争は、谷崎源氏の論争へと大衆の注意が移行するなかで下火となる。 
 以上のような通時的に見ると目まぐるしい関心の転移が、国家側の(谷崎に倣って軍人と断定出来るかは論考を要する)検閲を使った権力の行使を許す状況を作ることにつながったのではないだろうか。 

  <権力とは、われわれを征服する側とされる側に分断する教育システムだよ。ただ、注意しなくちゃいけないのは、それはわれわれを一いわゆる支配階級から、一番貧しい人たちに至るまで、一「全員」を仕込もうという「画一的」教育システムだということだ。>(『パゾリーニあるいは<野蛮>の神話』ファビアン・S・ジェラール著、内村瑠美子/藤井恭子訳一九八六年一〇月青弓社より) 

 パゾリーニが述べるように権力と教育は結びつき易く、目まぐるしい読みの変化は、一元的な権力を相対化するにはあまりに短期的な視座しか研究面ちもたらさなかった(戦前から折口は慶応大学で『源氏』に関する講議を続けていたが)。その結果、『源氏』のテクストは政治的な踏み絵となり、教育雑誌の扇情的な記事は、学問レベルから逸脱してゆく。 
 「源氏」のテキストがいかに非権力性(「反権力」ではその多様性に相応しくない)を持っているのかについては、やはり本文そのものを見る必要がある。 
 当時、権力側の読みの根拠となり、戦時下で論争となった「大和魂」の用例について『源氏』本文に次のようなものがある(「少女巻」・「乙女の巻」におけるそれが『源氏』における「大和魂」の唯一の用例である)。 

 <なほ、才をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるる方も強うはべらめ> 

 久松や池田はこの今日では「柔軟な応用力」と通釈される「大和魂」に過度の重点を置き、日本の優越性の根拠へと拡大解釈させかねない方向へ道を開いている(久松潜一「源氏物語と大和魂その他」、一九三八年一二月「中央公論」所収。池田亀鑑「やまとだましひ」、一九四一年二月「むらさき」所収。註・、・)。 
 だが「源氏物語」の本文を読めばここに日本の優位性(近代愛国主義イデオロギーの起原的言説としての「もののあはれ」が指し示すようなそれ)の認識を探し出すことはできない。 
 日本の政治的成熟度に関して言えば、丸山真男(『日本政治思想史研究』東京大学出版会一九五二年一二月)も指摘するように、そもそも日本では政治意識の上でのプレモダンと技術面でのポストモダンとが結びついているだけで、「モダン」(この場合は古典に対する批判的かつ正当な読み)が存在しないのであり、アカデミズムもその意味で存在しないと言っていい(ただ批判する中でかろうじてアカデミズムの存在を内在的に捉えることができる)。 
 日本の優位性を読み取ろうという意図に反して、作者と目される紫式部は(通説では『源氏物語』は西暦一〇〇〇年頃の作品。註・)、中国との交通の中で生まれてきた生まれて来た小説というジャンルを、構造として認識しており、後の研究者の恣意的な解釈によってその全体像を歪ませることはできない(端的に述べるなら、平安時代と一九三〇年代の「日本」では、対中国関係が逆転している。また「日本」そのものが対中国的に形成された)。また上演、あるいは上演禁止という現実化の中でそうした偏向性を持った読みは暴露されるだろう。 

 三、折口信夫の源氏読解とについて 

 冒頭で触れた折口の源氏の読みにここでふたたび触れたいと思う 。 

 <だから色好みと、すき者とでは、ことばのうえで、だいたいハッキリと区別している。女性を自家のものにして、同時に国の勢力が自然に広まってくる。色好みはだから、当時の狭いモラルにかなってい 
たのです。>(座談会「源氏物語研究」、一九五一年九月「三田文学」より) 

 この戦後の折口の言葉は読みの多様性を切り開く上で重要である。大正期には宣長の「もののあはれ」に対抗して使っていたタームを、戦後は更に差異の中で捕らえようとしているのだ。それはあからさまに脱権力であり、脱構築的である。 
 平野謙が証言した「アラヒトガミ事件」(「群像」一九五三年一一月号。これは折口の死に触発されて執筆されたもの)でもそうであったが、折口の一見神道に準じた読みも、学問レベルに徹することで十分抵抗の拠点足り得るのである。 
 戦後、折口は、源氏の「恋愛純化」(藤田徳太郎、註・)や「大不敬」説(橘純一、註・)、聖典化といった事態に抵抗出来る根拠として、本居を更新するかたちでその成果を発表していく。 
 例えば、「もののあはれ」を宣長が拡大適用していると云った指摘(註・)や、先述の「もののけ」以外に「貴種流離譚」(戦後、作家中上健次によって受け継がれたコンセプト)といった概念によって定点観測的な「もののあはれ」を相対化しているのである。 
 ここで、戦後の折口の発言を援用して、戦中の状況の中で価値判断することは慎まねばならないが(折口は「色好み」というタームを大正期に「もののあはれ」と並べる形で記述している。註・)、それでも後で説明するように構造主義的な学問研究の端緒が折口に垣間見られ、それがその神道的発言の概観と裏腹に、安易な国粋主義を内側から解体するものであることは指摘しておきたい。この意味で折口はニーチェ的であり、十分に交通の中に生きたと言える。 
 学問レベルでの折口の言説を精密に分析するならば、「古代人」といったレッテルとは別の側面が原理的に見えてくる。教科書採用問題に関しても、「恋愛」を扱っているからよい、扱っていないから悪いといった、同じ思考回路の中での評価の反転という袋小路から脱する可能性を、折口の読みは学問的に与えるものである。  

 四、おわりに(再び雑誌「むらさき」について)  

 また、文学作品の受容者側の人間として、「むらさき」に参加した女性達について、最後に再び触れておきたい。 
 当時、「趣味と教養」という雑誌「むらさき」の表紙を飾ったうたい文句の反動性に関しては、日本ではそのような教養を受容者側が自己批判する力はなく、ブルジョアジー側の内在的批判を期待できない地点にいた。したがって「趣味」はただ単に経済的なレベルで、「教養」は伝統の継承というネーションのレベルでのみ機能し、外見的には国民国家の形成に役立った。 
 『源氏物語』はその内容の「近代性」(異質なものを取り込み続ける小説というメディア=バフチン、註・)と受容の「近代性」(後進国が中央集権的に人民を結束させるための文化的装置=ベネディクト・アンダーソン、註・)において、近代を矛盾を鏡としてして写し出して来た。 
 そこで求められるのは学間レベルと受容者レベルの背理を歴史的に明確にした上で取り除くことである。それは「他者」からの視座を必要とし続けるという点で、折口がその端緒を示したように構造主義的認識とさえ言えよう。そうした認識のもとであれば、教育といった構造的問題の責任(応答可能性)を受容者側に転嫁させることもない。 
 そしてその構造とは外部から俯瞰できる類いのものではないため、その内在的闘争は「反復」の様相を呈することになる(これは、『源氏物語』の構造とも連関する)。 
 戦時下という、きわめて娯楽の乏しい状況下で、源氏を読んでいた女性達を、国策文学の担い手達と混同するのは早計であり、戦時下でどのような抵抗があったかという命題は、近代国家がネーションの形成に文学を利用して来た(というよりも文学そのものがネーションである、と言ってよい)という事実に眼を向けた時、『源氏物語』の新たな読みの可能性へと反転させることが可能である。 
 戦争下の一元的であることを強いられた社会において、『源氏物語』の多様なレベルの読みを、通時的(この論文で列挙したように毎年ごとに様々なトピックとして世間を一時的に騒がせては消えていった)というよりも、体感し得る共時的なものとして指し示すこと、そうすることではじめて『源氏物語』を読む現代の我々が、紫式部の律令制に対する「抵抗」とかろうじて「リンク」し得るのではないか? というのが取りあえずの結論である。 


 註 

・ 村井論文「国文学者の十五年戦争2」(「批評空間」太田出版一九九八年七月)については、本論考の基調となっており内容については随時触れる。なお村井、あるいは本論考には登場しない藤井貞和ら、国学院大学出身の研究者らによる折口批判には特別なバイアスを考慮する必要がある。 
・ 『批評集成 源氏物語第五巻』(ゆまに書房一九九九・五)は全五巻で、小林正明が解説を担当した第五巻は「戦時下篇」となっている。 
・ 戯曲(初出「文芸」一九三三・一二)の冒頭は、<「ひどい人達もあるものです。面白い話を聞かしてもらひましたが、この人達の好色(すきもの)なのには、ほとほとあきれました」>という頭中将の台詞から始まる。なお、戯曲に出てくる朝廷の官位の名称が一部伏せ字となっている。 
・ 戦後の記述になるが谷崎の「にくまれ口」(「婦人公論」脚)には、〈上手口を叩く男は今の世にも沢山いて、(中略)感心する訳にはいかない>、<私はフェミニストであるから、余計そういう気がする>とある。 
・ 脱イデオロギー、脱一元論としての源氏については小林の言う通りであるが、それは仏教の軽視にはならない。なぜなら本来、仏教そのものが脱イデオロギー的であるからだ。そのことは、儒教、というより孔子とその弟子の言行録(『論語』)にも言える。 
・ 小林の説を援用するなら、『源氏』の冒頭は、「どんな天皇の時代だろうとかまうものか」 
といった非権力的な読みも可能だ。また、少なくとも作者が律令生に対して意識的だったことは読み取れる。 
・「むらさき」には毎号、藤村作の巻頭言が載っており、婦人のモラルを説いている。なお、折口の長歌「月しろの旗」が発表されたのもこの雑誌においてである。 
・ 『潤一郎訳源氏物語』(中央公論社)全二十六冊は、一九三九年一月から配本開始となり、一九四一年七月に配本終了している。 
・ 「若紫」「末摘花」「夕顔」をダイジェストにして採用した教科書は、「女子教育」に奉仕しようとした面(有働裕『源氏物語と戦争』二〇〇二年一二月、インパクト出版界)もあるが、紫式部が「女」であることの必然性を明記した部分など評価できる面もある。 
・ 谷崎は「やはり学問を本としてこそ、大和魂も一層重く世に用いられるのでございましょう」と訳し、「大和魂」を「学問以外の才、応用の才、世才のこと」と註に記している(中公文庫、現行ヴァージョンより)。ちなみに、この論の横断的原理の多くを負う折口には、戦前及び戦後にかけて、『谷崎源氏』(『細雪』をも含む)に関する複数の肯定的言及がある。 
・ ただし当時の文章から池田と久松本人が、国粋主義者であるとは判断できないし、山田孝雄などら確信犯的な国粋主義者とは一概に同列にはできない。 
・ 『源氏』成立年代については、藤村作『国文学史総説』(一九五一年五月、角川文庫)に、「寛弘の始め~や 後」とある。 
・ 藤田徳太郎「戯曲『源氏物語』の批判」(『明治文学研究創刊号』一九三四年一月) 
・ 橘純一「源氏物語は大不敬の書である」(「国語解釈」瑞穂書院一九三八・七)。ここで橘は不敬の理由として3点を挙げており、小林正明は前出の解説文でこれを重要視して、日本浪漫派が源氏を避けた理由としている。以下小林の要約文。<第一に、賜姓源氏の臣下・光源氏が父帝の皇后と密通すること。第二に、密通の子・冷泉が即位すること。第三に、冷泉帝の深慮で光源氏が准太上天皇に叙せられること。以上である>。 
・ 前出の座談会「源氏物語研究」など。 
・ 折口は「女房文学から隠者文学へ」(『隠岐本新古今和歌集』巻首、一九二七年九月)において、後鳥羽院に対する形容として「いろごのみ・もの あはれ」と二つの用語を連ねる形で用いている。宣長(一七三〇~一八〇一)については、小林秀雄(『本居宣長』新潮社、一九七七年一〇月)や子安宣邦(『「宣長問題」とは何か』一九九五・五青土社)などの考察がある。なお、保田与重郎は折口の『古代研究』(一九二九年)から影響を受け、『後鳥羽院』(一九四二年)の中で、「志尊風」、「堂上風」、「発想」といった用語を使っているが、折口と対照的に、イロニーという一元的な枠組みの中で、後鳥羽院を神格化するに至っている。また、『源氏物語』は、橘の挙げ、小林が引用した三つの不敬であるという理由(前出)以上に、保田のような浪漫派に利用されるにはスケールが大きすぎたということが言えるかも知れない。 
・ ミヒァエル・バフチン(一八九五~一九七五)小説というジャンル自体のポリフォニックな性格を理論化した。 
・ ベネディクト・アンダーソン(一九三六~)ナショナリズムについての捉え方の転換点をなす研究が、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体一ナショナリズムの起源と流行』白石隆・白石さや訳(リブロポート一九八七年)である。アンダーソン(ちなみにアンダーソンは一九三六年に中国で生まれている)は、国民(nation)を <イメージとして心に描かれた想像の政治共同体> であるとする。それは想像されたものであり、限界づけられたものであり、主権的なものであり、ひとつの共同体として想像されたものだとする。なお、この訳書ののち増補されたNTT出版版が出ている。ベネディクト・アンダーソン『増補想像の共同体一ナショナリズムの起源と流行』白石さや・白石隆訳(NTT出版一九九七年)。

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