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NAMs出版プロジェクト: 経済学日本人著者入門書
http://nam-students.blogspot.jp/2016/10/blog-post_9.html
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負債論 貨幣と暴力の5000年 デヴィッド・グレーバー 著
グレーバー、負債論、貨幣論
転載:【貨幣論】グレーバーの負債起源論・マルクスの剰余価値説・ハラリの貨幣観
一般に貨幣には以下の4つの機能があるといわれる。
- Medium of Exchange:交換媒体(支払い手段)
- Unit of Account:計算尺度(価格)
- Store of Value:価値保存(貯蓄)
- Standard of Deferred Payment:繰り延べ返済の基準(融資・返済手段)
とくに上の2つの機能がもっとも基本的な機能だとされるが、一挙に同じ時代・同じ場所に生まれたのではなく、徐々に組み込まれていったと理解されている。
マルクスの貨幣論:フェティッシュ化と剰余価値
貨幣の起源についてはいろいろな説が出されているのだが、影響力という点でいうとマルクスがダントツNo.1だろう。マルクスはきわめてドライにお金の発生を考えた。
Money, as described by Marx, can only be transformed into capital through the circulation of commodities. Money originates not as capital, but only as means of exchange. Money becomes capital when it is used as a standard for exchange.
マルクスによれば、貨幣は商品の流通を通じてのみ資本に転化する。貨幣は資本として生まれるのではなく、交換の手段として生まれる。貨幣が資本になるのは、貨幣が売り手と買い手の共通の計算基準となった場合のみである。
ここでマルクスは貨幣の基本2機能のみに着目している。しかし、マルクスが思想家としての本領はこの先にある、彼は資本に転化した貨幣のなかに、恐ろしい “宗教性” を見出したのだ。この辺りに関するマルクスの議論には「価値形態論」という小難しい名前がついているが、簡単にいうとこうだ。
時間を超越する抽象的な記号
マルクスによれば、人間の労働が商品になり、商品が貨幣と交換される当たり前の交換過程のなかに、とんでもない倒錯が潜んでいる。貨幣は本来、自分もひとりの商品だったくせに、いつの間にか自分自身の価値を主張せず、他の商品の価値を言い表す機能に専念する別の何かに変身を遂げた。(たとえば、日本銀行券は千円札でも一万札でも製造原価は数十円に過ぎない。紙幣そのものに商品価値はほぼ皆無だ。)
貨幣は、ただただ他の商品たちの交換を媒介し、その商品たちの値段を表わすだけの、万能の尺度に化け、おまけに商品の価値を胎内に宿す化け物になった。自然法則に従って劣化し崩壊していく商品世界のなかで、原理的には唯一時間を超越し、永遠に生き続けることができる存在。
- 貨幣に肉体は要らない。金銀は紙幣に化け、紙幣はコンピュータ端末上の数字になり、とうとうネットワーク上にしか存在しない仮想通貨になった。
- 貨幣は貨幣を生む。商品にはありえないことだ。たとえば、なぜ銀行やクレジットカード会社は潤うのだろうか?繰り延べ決済という時間が、利子(金利)なる新たな貨幣を連れて帰ってくるからだ。
お金はコンビのおにぎりからポルシェカレラに至るまで、どんな商品だって代表することができる。自分自身は無価値なのに、どんな商品とも交換可能なので、いまや貨幣の方が商品より偉くなっている。人々に欲されているのは商品自体より、商品といつでも交換できる権利、貨幣のみがもつ信用という名の価値なのだ。
このような倒錯した事態をマルクスは貨幣のフェティッシュ化と呼んだ(日本では、通常、物心崇拝と訳されている)。貨幣を崇拝する人々のフェチぶりはすさまじい勢いで、この世のありとあらゆるものを商品世界に巻き込んでいく。『資本論』に以下の記述がある。
それ自体としては商品ではないもの、たとえば良心や名誉などは、その所持者が貨幣と引き換えに売ることのできるものであり、こうしてその価格を通じて商品形態を受け取ることができる。それゆえ、ある物は、価値を持つことなしに、形式的に価格をもつことができるのである。
剰余価値論
ここまでのマルクスは炯眼というしかないのだが、ここから先は革命家(資本家憎し)としてのマルクスの偏向が露わになってくる。
簡単にいうと、市場で商品と貨幣が流通しているだけならまだしも、いつの頃から産業資本なら大規模な資本家が経済の主体となり、賃金労働者に正当でない賃金を支払わず、掠め取った分(剰余価値と呼ばれる)を自分の蓄財に回し始めたというのだ。そうなると貨幣を多く持てば多く持つほど資本家が有利になる。
万国の労働者諸君、資本家どもの搾取に立ち向かえ!あこぎな守銭奴を打倒せよ!というわけだ。マルクスはとにかく商品価値の根源を人間の労働に見る人なので、働かざる者食うべからずなのだ。せっかく貨幣のフェティッシュ化といういい線をつきながら、剰余価値論から労働者vs資本家の階級闘争の世界へ脱線してしまう。
そのあげくに産業資本主義の矛盾は暴力組織(プロレタリアート)による暴力組織(根源的資本の蓄積と呼ばれる過去の因業)の排除に帰結するといい、共産社会が到来するはずだと予言した。メジャー化したからそうは呼ばれないが、本質はトンデモ史観ではないか。
商品はシニフィエ、お金はシニフィアン
むしろフェティッシュ論から、お金と言語の構造的同一性に思考を進めた方がよかったのではないかと思う。
経済世界が商品と貨幣で構成されると考えるなら、貨幣とは個々の商品(シニフィエ)を言い表すシニフィアンなのだ。
言語の場合、たとえば「アップル」という単語は、「すっぱい」「甘い」「赤い」「青森」「スティーブ・ジョブス」「PC」「スマホ」と様々なシニフィエを包摂するシニフィアンなのだが、経済の場合、「1万円」というシニフィアンは、ありとあらゆる1万円という値段(価値)の商品(シニフィエ)を包摂する。「指輪ひとつ」「ビール50本」「ハーレクインロマンス8冊」「オレの日給」「毎月の通信費」なんでも意味できる。
貨幣という万能な「言語」が経済界に持ち込まれたことで、商品という具体的なもの(それは古代から現代に至る文明の産物を代表する)と、「価値」という抽象的なもの(売買不能な愛や憎しみや嫉妬や快楽も、人間の脳内にしかない抽象性の次元では商品と等価である)を、同一の陳列棚に並べることができるようになったのだ。
マルクスは商品が売れることを「命がけの飛躍」と呼んだが、むしろ、この貨幣が「市場」という場で地球を覆いつくし、あらゆるものを価値として同列に表象できるようになった事態こそ、人類史にとって「命がけの飛躍」だったのではないか?
人の命もそこらに転がっっているスクラップの鉄くずも、貨幣のもとでは同じシニフィエに過ぎないのだから。人の命は地球より重いと理念で言うのは勝手だだが、貨幣を前にしたとき空々しく響くに違いない。あらゆる理念は貨幣の前に敗北している。
国家転覆を考えるよりも、このことのリアルさを考える方がよほど面白いと思うのだが・・・
マルクスの議論を否定するグレーバーの貨幣観
グレーバーは、2011年に起きたウォールストリート占拠運動の指導者のひとりとして、仲間と一緒に「われわれは99パーセントだ」(”We are the 99%”)というスローガンを生み、抗議運動に関わったとされる。アナーキストの人類学者である。
アナーキストらしくグレーバーの貨幣論の照準は個人と権力の関係に据えられている。貨幣が人間の自由を制約する側面と解放する側面のせめぎあいを意識しているのだ。グレーバーによればマルクスら経済学の一般的(教科書的)貨幣論は逆立ちしている。「貨幣とは交換を促進させるために選ばれた商品であり、価値を測定するために使われる」という定式は誤謬だというのである。
貨幣の起源は負債の管理
どういうことか?
実際には、最初に貨幣が生み出され、それを独占的に発行する国家が貨幣の使用を強制する。これが市場=商品を生む。後に国家は貨幣を税として納めるよう仕向ける。背景には有無をいわさぬ暴力(武力)が控えている。
つまり、貨幣は取引に不便だから生み出されたのではなく、債務を記録し追跡管理するために作られたのだ。もう一度、先ほどの貨幣4機能を見てみよう。
- Medium of Exchange:交換媒体(支払い手段)
- Unit of Account:計算尺度(価格)
- Store of Value:価値保存(貯蓄)
- Standard of Deferred Payment:繰り延べ返済の基準(融資・返済手段)
グレーバーの考えでは、4の繰り延べ返済手段こそ貨幣の最も基本的な機能である。1~3は貨幣が権力によって制度化され、市場が出来て以降付け加わっていった機能なのである。さらに言い換えるなら、貨幣は経済の産物ではなく政治の産物なのである。
貨幣の強制流通はシュメール起源?
グレーバーは貨幣制度の原型をシュメール文明に求める。シュメールは農業や牧畜が盛んな豊かな土地だったが、材木や石材、金属に恵まれていなかった。そのため商人を外国に派遣し、輸入を行った。その際、商人に貨幣を前貸して後から利子分を上乗せして返済させた。苦役である。貨幣の貸し付けはやがて農民に及ぶと、社会は重税にあえぎ、税滞納が相次ぐ。国王はたびたび債務帳消しを行う破目に陥ったという。
貸し付けは住民の負債である。おそらく奴隷制も敷かれていたろうから、奴隷にとっては一生返しきれない債務である。
負債の起源
では、この負債の起源はどこにあるのか?それは最初から金銭的な債務として生まれたのか?人間は誰か―両親、家族、社会―のおかげで生まれてくるから、まずは人に対して負債を負っている。社会(共同体)は生まれてくる者に対して、何らかのお返しをすることを期待する。この点、参考になるのは古代インドのヴェーダの記述だ。
ヴェーダによれば、人が負債を負っているのは第一に宇宙の力に対してである。第二が文化を授けてくれた先人たち、第三が両親や祖父母、第四が周囲の人びとの寛容である。これは金銭でお返しすることを意味していない。人の道を守り、祭儀を行い、先達となり、祖先となることでお返しすればいいのである。それがふつうの人類社会の在り方だった。
では、どこでこの負債概念に金銭が闖入してくるのか?グレーバーによれば、国家(政治権力)の登場によって、である。以下、グレーバー自身のことばを借りよう。
市場と国家は正反対のものであり、それらのあいだにこそ人間の唯一の可能性があると、わたしたちはたえまなく教えられてきた。しかしこれはあやまった二分法である。国家は市場を創造する。貨幣と市場は国家によって生みだされ、そこで生活をいとなむ人びとは、国家に借りを返すよう求められる。それが税の原点だと考えられる。
つまり貨幣という負債関係を強制する権力(背景に軍隊や法律)が市場をつくり、商品を介して貨幣を流通させ、貨幣を社会に埋め込む、というわけだ。
アフリカの奴隷貿易などに見られるように、それまで自給自足か互恵的な取引でのんびりやっていたところへ奴隷商人が入ってきて奴隷の売買を始めると貨幣が共同体に入りこむ。そして貨幣はありとあらゆる経済行為に浸透していく(白人が他の弁済手段を受け付けないから)。
奴隷貿易の時代が過ぎても、いったん破壊された互恵的な経済システムは戻ってこない。アフリカにも国家が出来てしまったからである。こうして残存する市場がアフリカの旧社会を破壊し、貧困化させていったのである(残念ながら、産業化など自力で立ち直るための投資はなされなかった)。
ポイントは以下の通りとなる。
- マルクスは一商品の分際だった貨幣商品が、自分自身から価値を取り去り、物象(フェティッシュ)化したと考えた。しかしこれは逆である。負債としての貨幣が先にあり、それを政治権力が強制力によって流通させた結果、商品や市場が産み落とされたのである。
- 市場経済の特徴は信用の制度化と匿名性だ。人間的な信頼関係(互恵)は法律的・制度的な信用(=債務関係)に置き換わり、市場参加者は顔見知りである必要がなくなる。貨幣が債務関係を追跡しているので赤の他人でもOKだ。
- 最初は信用されず、なかなか受け取ってもらえなかった貨幣だが(そのため金や銀など高価なもので作られていた)、国家の後ろ盾(担保)を得るようになると(紙切れに数字を印刷すれば済むようになった)活発に流通するようになり、市場はどんどん拡大していった。こうして市場は地球の隅々に浸透し、グローバル化していったのである。
物々交換起源説の嘘
ついでに補足しておこう。俗流の経済学は物々交換が商品経済(あるいは貨幣)の原点だと考えるが、それも真っ赤な嘘である。人類学や考古学の知見は、古代に物々交換がなかったことを示している。どこにも痕跡が見つからないのである。
そもそも物々交換は「欲望の二重一致」(double coincidence of wants、「ニーズの二重一致」と訳した方がわかりやすいと思う)といって双方の欲しいものと手放したいものが一致しないと成立せず、非常にまどろっこしい仕組みだ。
だから原始的な共同体は基本的には交易のような経済は営まず、自給自足を原則としていた。どうしても外部の共同体と交換が必要なときは互恵(reciprocal)的な取引をしていた。信頼関係に基づく、いわばツケである。
政治思想と貨幣論
さて、マルクスが正しいのか、グレーバーが正しいのか?当サイトとしては判断を保留したい。
どうしてかというと、どちらにも「国家否定」というバイアスがかかっているからだ。歴史的に見れば、グレーバーのようなアナーキストと、マルクスのような社会主義者は双子の兄弟のようにほぼ同時に生まれている。
アナーキズムと共産主義は同根の国家否定思想
彼らが反資本主義で一致するのは、資本主義が国家支配を強めるシステムだと見なしているからだ。つまり、始めに打倒国家というモチーフがあり、それを補強するために資本主義と貨幣が狙い撃ちされている節があるのである。政治的動機に基づく議論の可能性を否定しきれないのだ。
- マルクスは非労働者階級のユダヤ人である。汗水の労働から遠い書斎で、価値は労働の成果であると唱えた。ホントは人々はここで「?」となるべきところなのだ。生活実感から生まれた発想ではないのではないか?そう疑うべきだったのだ。続きを見てみよう。一商品に過ぎなかった貨幣というやつが、いつの間にか商品の価値を表す全権を掌握した。それは腐らないから資本として蓄積され、専横な資本家の思いのまま労働者を抑圧し疎外している。だから打倒資本家!だというのである。価値転倒、体制転覆。国土を持たない根無し草な民族の恨み節である。共産社会とは経済史観を装った千年王国論に過ぎないだろう。宗教を否定しているようで、発想はキリスト教(もしくはユダヤ教)の枠組みから一歩も出ていないのである。
- グレーバーは国家憎しのアナーキストである。国家は個人を抑圧すると考える点でマルクスに近いのだが、アナーキストは全体主義的な社会主義を嫌う。あくまで念願は個人の完全な自立、完全な自由主義社会である。ただ「負債=信用」という視点は買える。少なくてもマルクスの本末転倒した商品⇒貨幣説より本質的議論だ。問題は、貨幣経済の大元に暴力(政治権力)があるとしても、それ以外に、大きな社会を統制できる政治技術がどこかにあるだろうか?国家廃絶?そうした方がよくなる確証はどこにもない。また、人間は市場おいて必ずしも利己的な、あるいは貸借関係だけの冷たいビジネスを営んでいない。弊害が腐るほどあるのはわかるが、問題は市場や貨幣そのものではなく、社会における貨幣の使い方にあるのではないか?
社会への影響の大きさを考えたとき、アナーキズムと共産主義の近親憎悪は大事なポイントだ。外部サイトから解説を引用しておこう。
アナキズムが一つの思想潮流として登場してきたのは、18世紀末から19世紀中ごろにかけてのことであるが、この思想が労働・社会運動、革命運動のなかで世間の注目を浴びるようになったのは、19世紀後半以降の社会主義とくにマルクス主義との対抗関係においてである。17~18世紀の市民革命の結果生まれた近代国家と近代社会は、人間の自由を保障するという面では著しい前進を示した。しかし、その後の近代資本主義の発展は、人間の間に経済的、社会的不平等をもたらし、この格差を維持するために自由の拡大もまた抑圧された。このため19世紀に入ると、国民の大半を占める労働者や農民の地位を改善することを目ざしたさまざまな社会主義思想が登場した。アナキズムはこうした思想状況のなかで登場した思想であるから、それは、空想的社会主義やマルクス主義(科学的社会主義)と同じく社会主義思想の一種とみることができよう。ただこのアナキズムは、当時革命思想として労働者階級の間で指導的地位を確立しつつあったマルクス主義と、その理想社会のイメージおよびそれを実現する方法をめぐって対立関係にたつことになる。したがって、マルクス主義者とアナキストは、歴史上、激しく対立はしたが、ときには、両派は専制支配の打倒や反ファシズムのために共同して闘うこともあった。たとえば、マルクスはアナキズムの代表的思想家プルードンの革命理論を厳しく批判し、第一インターナショナルのなかではマルクス派とバクーニン派が路線問題をめぐって激しく対立した(1869~1873)。また大正期の日本でも、いわゆるアナ(大杉栄)・ボル(堺利彦、山川均)論争(大正9~11年)がおこった。他方、マルクスが『フランスの内乱』のなかで絶賛した「パリ・コミューン」の労働者たちのなかには多数のプルードン主義者がいたし、ロシア革命初期あるいは1936年に始まったスペイン内戦の初期にはボリシェビキとアナキストとの共同行動がみられるのである。(「ニッポニカ」アナキズム)
ニュートラルなハラリの貨幣観
当サイトでよく扱っている『サピエンス全史』のユヴァル・ハラリの貨幣観はニュートラルである。彼にとって貨幣は人間の本性「虚構の秩序を生きる」能力の最たるものだ。
ハラリの歴史観の基本は「歴史は統一に向かって執拗に進み続けている」という認識である。ここにもユダヤ教的な終末論が反映している気がするが、ともかく彼はそう見ている。
とくにテクノロジーの発達で歴史の展開はスピードアップしている。グローバル化やジェンダーフリー社会はどんどん既存の差別や分断を取り除いているが、こうした統一へ向かう歩みにおいて決定的役割を果たしてきたのが、言語、宗教、そして貨幣なのだという。
ハラリの基本的貨幣観は、貨幣はもっとも公平で寛容な共同主観性の象徴ということである。『サピエンス全史』で彼はこう言っている。
哲学者や思想家や預言者たちは何千年にもわたって、貨幣に汚名を着せ、お金のことを諸悪の根源と呼んできた。それは当たっているかもしれないが、貨幣は人類の寛容性の極みでもある。貨幣は言語や国家の法律、文化の基準、宗教的信仰、社会習慣よりも心が広い。貨幣は人間が生み出した信頼制度のうち、ほぼどんな文化の間の溝をも埋め、宗教や性別、人種、年齢、性的指向に基づいて差別することのない唯一のものだ。貨幣のおかげで、見ず知らずで信頼し合っていない人どうしでも、効果的に協力できる。
だが、だから人間は素晴らしいということにはならない。自由主義経済は「利益と生産を増やすことに取り憑かれ、その邪魔になりそうなものは目にはいらなくなる」エゴむき出しの世界であり、幸福と不幸を同時に拡大再生産するシステムでもあるからだ。人類は自然科学の輝かしい世界を「政治」に適用するアプリをいまだ持たない。
オマケ:現代の錬金術を暴く動画
最後に動画を紹介しておこう。信用創造の特権濫用という視点から、現代の錬金術(銀行と政府の共同正犯)についてわかりやすく解説している(日本語字幕付き)。英語のオリジナルタイトルはグレーバーの著作タイトルに似ていて、”Money as Debt” である。
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返信削除http://shavetail2.hateblo.jp/entries/2014/10/30
マネーの正体は貸借-21世紀の貨幣論
2014-10-30
最近出版されたフェリックスマーティン著「21世紀の貨幣論」(原題:Money: The Unauthorized Biography)は、貨幣史を検討した上で、貨幣とは金貨でイメージされる商品貨幣ではなく、誕生したころから信用・決済のシステムだったという結論を得ました。この「異端の貨幣観」からみると、現代経済学や現代ファイナンス理論が現代人の常識とは全く別の姿に見えてきます。*1
流動性があれば信用(平たく言えば貸し借り)はマネー。
流動性がなければ信用は単に二者間の信用。
ウォルター・バジョット、ジョン・メイナード・ケインズが強調したかった金融と実体経済の極めて重要な関係*2を簡単に言えばこうなります。
しかし現代経済学は流動性が枯渇する状態は想定せず、モノ中心の貨幣観をつくりあげました。
正統的貨幣観と異端的貨幣観を概観すると次のようになります。
◯正統的貨幣観に基づく古典派経済学
・ジャン=バティスト・セイ(1803)「貨幣は正貨とも呼ばれるが、貨幣は商品であり、その価値は他の全ての商品の価値を決定するものと同じ一般的法則によって決定される」*3
・ジョン・スチュアート・ミル(1848)「貨幣は一個の商品である。そしてそれの価値は、他の商品の価値と同じように決定される」*4
・ワルラス(1874-77)著書「純粋経済学要論」で古典派価格形成理論を定式化*5
各々の市場とは相互依存の関係にあり、最終的には貨幣という財も含め、あらゆる市場が均衡状態になる一般均衡を考察。
◯異端的貨幣観に基づく見解
・ブラックフライデー(1866.5.9)オーバーレンド・ガーニー商会破綻→1866年恐慌
・ウォルター・バジョット(1873)は著書「ロンバード街Lombard Street」で、「中央銀行は金融危機に際して最後の貸し手として無制限に流動性を供給すべき」と指摘。
・ウォール街大暴落(1929)→世界大恐慌
・ジョン・メイナード・ケインズ(1936) 大恐慌の経験を踏まえ「雇用・利子および貨幣の一般理論」を著し、古典派経済学が基礎とするセイの法則の不成立を指摘し、有効需要の原理を基礎として非自発的失業の原因を説明。
以下、正統的貨幣観と異端的貨幣観はせめぎ合うようになります。
・ヒックス(1937) 古典派とケインズ一般理論の両立を主張*6
ヒックスはケインズ理論を体系化し、IS-LM理論・流動性の罠を主張した。ただし本流ケインジアンからはヒックス理論はヒックス経済学と揶揄されている。*7
・1954 ケネスアロー・ドブリュー 「一般均衡理論」一定条件下では市場経済は一般均衡、全ての市場の需給が一致する水準に価格形成=「供給は需要を生む」とするセイの法則の厳密な証明。*8
・ハーン(1965)一般均衡理論はマネーを介さない経済でのみ成立と反論*9
・ミルトン・フリードマンも経済分析でのマネーの重要性を主張
・一般均衡理論が経済は静的ではなく動的との批判→動学的枠組み
・決定論的との批判→確率モデル導入
・合理的完全市場批判→ついに、正統的貨幣観経済学では、動学的確率的一般均衡理論(DSGE)という「鉄壁」を形成*10
・古典派理論の新バージョンに新ケインズ派と名付けた。
→中央銀行もこの洗礼名で防御を解き新ケインズ派のDSGEモデルは瞬く間に中央銀行の政策に影響を与えるようになった*11
ところが…
・サブプライム住宅ローン危機(2006-)、リーマン・ブラザーズ破綻(2008)→リーマン・ショック
・英国女王(2008) ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて「なぜ、誰もこのようなことが起こる事を予測できなかったのですか?」
・ローレンス・サマーズ・*12 ブレトンウッズコンファレンス(2011)にて「DSGEモデルなど、第二次世界大戦後の正統派経済理論の膨大な体系が危機対応においてはまるで役に立たなかった」
・イングランド銀行総裁(2012) 「現代経済理論では金融仲介機能が説明されておらずマネー・信用・銀行が意味のある役割を果たしていない」
そして筆者はこういいます。”経済学者はマネー・銀行・金融は存在しない経済の一般均衡理論の抽象化と言う神秘の超越瞑想に耽ってもいいが為政者は現実世界と向き合わなければならない。”*13
その一方でファイナンス理論はといえば…。
・ファイナンス理論は逆にポートフォリオリバランス理論・資本資産価格モデル(CAPM)、オプション価格理論は金融専門家に熱烈支持された
・新古典派理論が金融抜きのマクロ経済理論を構築したのに対し金融論は金融債券とマネーシステムの重要性を無視することでマクロ経済抜きのファイナンス理論を構築した。
これらの現代マクロ経済モデルとファイナンス理論とに決定的に欠けるのは信用の特性としての流動性の概念です。
流動性があれば信用はマネーだが、流動性がなければ信用は単に二者間の信用に過ぎない。異端の貨幣観を持つ筆者はこう指摘しています。
21世紀の貨幣論
*1:このエントリーは基本的には「21世紀の貨幣論」、特に13章の書評です
*2:同書p335
*3:同書p317
*4:同書p317
*5:同書p329
*6:同書p330
*7:wikiヒックス
*8:同書p330
*9:同書p330
*10:同書p332
*11:同書p332
*12:オバマ政権の国家経済会議(NEC)委員長
*13:同書p332