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中野剛志 "異端"の経済理論が「デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字をむしろ拡大すべき」と説く理由 文春オンライン 2019年6月25日




 中野剛志 

"異端"の経済理論が「デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字をむしろ拡大すべき」と説く理由 文春オンライン 2019年6月25日

https://nam-students.blogspot.com/2019/06/blog-post_37.html@

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"異端"の経済理論が「デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字をむしろ拡大すべき」と説く理由


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"異端"の経済理論が「デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字をむしろ拡大すべき」と説く理由
文春オンライン 2019年6月25日 06:00 0
「自国通貨を発行する政府は、高インフレの懸念がない限り、財政赤字を心配する必要はない」

 こう説くMMT(Modern Monetary Theory「現代貨幣理論」)が話題となっている。

 もしこの理論が正しければ、10月に予定されている「消費増税」はもちろん、長らく日本の課題とされてきた「財政赤字の健全化」など、不要となるからだ。

■メディアでは「異端の経済理論」として紹介
 MMTの提唱者、米ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授は、「政府債務は過去の財政赤字の単なる歴史的記録です。これによってわかるのは、これまでの赤字財政で日本経済の過熱を招くことはなかったということです」として、「理論を実証してきた」日本を「成功例」として挙げている。

"異端"の経済理論が「デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字をむしろ拡大すべき」と説く理由

 一方、「財政規律の軽視」につながる議論としてMMTを警戒する財務省は、「MMT反論資料」を作成し、財政制度等審議会に提出した。

 財務省だけではない。多くのメディアでは、MMTは「異端の経済理論」として紹介され、経済学者やエコノミストの多くが「トンデモ理論」と斬って捨てている。

 しかし、MMTは「最近、にわかに登場したトンデモ理論」とは決して言えないのだ。

 2016年刊の大著『富国と強兵』(東洋経済新報社)で、日本でいち早くMMTを論じた評論家の中野剛志氏はこう述べる。

「最近になって登場した感があるが、実は、20世紀初頭のF・G・クナップ、J・M・ケインズ、J・A・シュンペーターらの洞察を原型とし、A・ラーナー、H・ミンスキーなどの業績も取り込んで、1990年代に、L・ランダル・レイ、S・ケルトン、W・ミッチェルといった経済学者、あるいは投資家のW・モズラーらによって、MMTという名で成立していた理論である」

■「貨幣」とはそもそも何なのか?
 中野氏によれば、MMT(現代貨幣論)は、その名の通り、何よりも「貨幣論」だ。「貨幣」の理解の仕方が主流派経済学とまったく異なるのである。

「主流派経済学の標準的な教科書は、貨幣について、次のように説明している。

 原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった『商品』が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な『商品』が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。

 しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす(N・グレゴリー・マンキュー『マンキューマクロ経済学Ⅰ入門編 第3版』東洋経済新報社)。

 このような貨幣論を『商品貨幣論』と言う。しかし、この『商品貨幣論』は、実は、誤りなのである」

■貨幣とは「負債」である
 その上で、中野氏はこう述べる。

「では、『貨幣=商品』でないとすると、貨幣とは何であるのか。

 これについては、イングランド銀行の季刊誌(2014年春号)に掲載された貨幣に関する入門的な解説が参考になる。この解説によれば、『今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である』。
 この解説のように、貨幣を『負債』の一種とみなす学説を『信用貨幣論』と言う。 


 イングランド銀行は、『貨幣=負債』であることを説明するために、『春にロビンソン・クルーソーが野苺を収穫してフライデーに渡し、その代わりにフライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する』という異時点間の物々交換を例に出す。この場合、春の時点では、クルーソーにはフライデーに対する『信用』が生じ、反対にフライデーにはクルーソーに対する『負債』が生じる。秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの『負債』は消滅する。

 これは二者間の取引を想定した例であるが、現実の経済における財・サービスの取引は、多くの主体の間で行われるため、『売り手』と『買い手』の間の『信用/負債』関係もまた無数に存在することとなる。

 クルーソーとフライデーの例のように、二者間の関係だけで『信用/負債』関係を解消することは、現実の経済では極めて難しい。そこで、ある二者間の関係で定義された『負債』と、別の二者間の関係で定義された『負債』とを相互に比較し、決済できるようにするために、負債を計算する共通の表示単位が必要になる。この共通の負債の表示単位なるものが、例えば、円やドルやポンドのことなのだ。要するに、『負債』を円やドルやポンドといった共通の計算単位で表示したものを、我々は『貨幣』と呼んでいるのである」

 つまり、「貨幣=商品」ではなく「貨幣=負債」ということだ。

 続いて、中野氏はこう解説する。

「『貨幣とは負債である』ならば、債務を負えばだれでも貨幣を創造できるように思える。しかし、実際には、だれの負債でも貨幣として受け取られるというわけではない。負債には、デフォルト(債務不履行)の可能性があるからだ。それゆえ、デフォルトの可能性がほとんどないと信頼される特殊な負債のみが、『貨幣』として受け入れられる」

■貨幣の価値は国家権力に担保されている
「デフォルトの可能性がほとんどないと信頼される特殊な負債」として現在流通しているのが、ドルやポンドや円などの通貨だ。では、こうした通貨の流通はどのように担保されているのか。これについて、次のような明快な解答を示したのがMMTだ、というのだ。

「国家が貨幣を租税の支払い手段と定めていることで、貨幣の価値が担保されている。要するに、通貨の価値を裏付けるものは、租税を徴収する国家権力なのだ」

 こうした「貨幣」理解に立つMMTは、次のような“常識”とは異なる結論を導き出す。

「民間において通貨が取引や貯蓄など納税以外の手段として使用されるためには、国家は税収以上の支出を行う必要がある。ランダル・レイの言い方を借りれば、「『正常な』ケースは、政府が『赤字財政』を運営していること、すなわち、税によって徴収する以上の通貨を供給していること」となるのだ。

■財政規律は「インフレ率」にすべき
 日本は、20年もの間、デフレである。ということは、日本の財政赤字は、大きすぎるのではなく、小さすぎるということになる。

 財政赤字の拡大のリスクはインフレだけである以上、財政規律は『インフレ率』にすべきなのだ。

 財政赤字の拡大がインフレ圧力になるのは事実である。だからこそ、デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字を拡大すべきなのだ」

 中野氏がMMT理論を詳細に解説した「米国発『消費増税無用論』の真贋」の全文は、 「文藝春秋」7月号 に掲載されている。

(「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2019年7月号)



「米国発『消費増税無用論』の真贋」


中野剛志


文藝春秋2019/7



 昨今、 M M T(現代貨幣理論、 M o d e r n  M o n e t a r y  T h e o r y)なる耳慣れない経済理論が現われて、 「自国通貨を発行する政府は、財政赤字を懸念しなくともよい 」という議論を展開し、アメリカそして日本で一大旋風を巻き起こしている。

 最近になって登場した感があるが、実は、二十世紀初頭の G・ F・クナップ、 J・ M・ケインズ、 J・ A・シュンペーターらの洞察を原型とし、 A・ラーナー、 H・ P・ミンスキーなどの業績も取り込んで、一九九〇年代に、 L・ランダル・レイ、 S・ケルトン、 W・ミッチェルといった経済学者、あるいは投資家の W・モズラーらによって、 M M Tという名で成立していた理論である。

 このような堂々たる系譜をもつ M M Tだが、主流派経済学とはまったく異なる理論体系をもった 「異端 」の学説だ。しかし、 M M Tは、主流派経済学の隆盛の陰で、伏流水のように脈々と研究が進められ、発展してきた。そんな異端の学説が、突然、脚光を浴びたのである。

 きっかけは、二〇一九年一月に、アメリカの史上最年少下院議員(民主党)として話題のアレクサンドリア・オカシオ =コルテス議員が M M Tへの支持を表明したことだった。これが引き金となって、アメリカで M M Tを巡る大論争が巻き起こった。この論争が日本にも飛び火したのである。

 折しも日本では、十月に消費税率の八%から一〇%への引き上げを予定しながら、景気の悪化によって増税への不安が高まっていたので、 「財政赤字は心配ない 」と主張する M M Tを巡る議論が巻き起こり、国会でも論議される事態となったのだ。


貨幣は 「商品 」でなく 「負債 」


 この M M Tを筆者は高く評価する者であるが、どんな理論なのか、その概要を解説しよう。

  M M Tは、その名に m o n e t a r yとあるように、貨幣に関する理解を基点として展開される経済理論である。ただし、 M M Tの貨幣の理解は、主流派経済学とはまったく異なる。

 主流派経済学の標準的な教科書は、貨幣について、次のように説明している。原始的な社会では、物々交換が行われていたが、そのうちに、何らかの価値をもった 「商品 」が、便利な交換手段(つまり貨幣)として使われるようになった。その代表的な 「商品 」が貴金属、とくに金である。これが、貨幣の起源である。

 しかし、金そのものを貨幣とすると、純度や重量など貨幣の価値の確認に手間がかかるので、政府が一定の純度と重量をもった金貨を鋳造するようになる。次の段階では、金との交換を義務付けた兌換紙幣を発行するようになる。こうして、政府発行の紙幣が標準的な貨幣となる。最終的には、金との交換による価値の保証も不要になり、紙幣は、不換紙幣となる。それでも、交換の際に皆が受け取り続ける限り、紙幣には価値があり、貨幣としての役割を果たす( N・グレゴリー・マンキュー 『マンキューマクロ経済学 Ⅰ 入門篇第3版 』東洋経済新報社)。

 このような貨幣論を 「商品貨幣論 」と言う。しかし、この 「商品貨幣論 」は、実は、誤りなのである。

 第一に、貨幣が物々交換から発展したという歴史的証拠は、未だ発見されていない。それどころか、金属貨幣が発明されるより数千年も前のメソポタミア文明やエジプト文明において、国家が税の徴収や支払いなどを計算するための単位として、貨幣が使われていたことが判明している。

 このため、歴史学や人類学における貨幣研究は、軒並み、商品貨幣論を否定しているのだ。

 第二に、一九七一年にドルと金の兌換が廃止されて以降、世界のほとんどの国が、貴金属による裏付けのない不換通貨を発行している。しかし、なぜ、そのような不換通貨が流通しているのかについて、商品貨幣論は納得できる説明ができない。

 では、 「貨幣=商品 」でないとすると、貨幣とは何であるのか。

 これについては、イングランド銀行の季刊誌(二〇一四年春号)に掲載された貨幣に関する入門的な解説が参考になる。

 この解説によれば、 「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において交換手段として受け入れられた特殊な負債である 」。

 この解説のように、貨幣を 「負債 」の一種とみなす学説を 「信用貨幣論 」と言う。

 イングランド銀行は、 「貨幣=負債 」であることを説明するために、 「春にロビンソン・クルーソーが野苺を収穫してフライデーに渡し、その代わりにフライデーは秋に獲った魚をクルーソーに渡すことを約束する 」という異時点間の物々交換を例に出す。この場合、春の時点では、クルーソーにはフライデーに対する 「信用 」が生じ、反対にフライデーにはクルーソーに対する 「負債 」が生じる。秋になって、フライデーがクルーソーに魚を渡した時点で、フライデーの 「負債 」は消滅する。

 これは二者間の取引を想定した例であるが、現実の経済における財・サービスの取引は、多くの主体の間で行われるため、 「売り手 」と 「買い手 」の間の 「信用/負債 」関係もまた無数に存在することとなる。

 クルーソーとフライデーの例のように、二者間の関係だけで 「信用/負債 」関係を解消することは、現実の経済では極めて難しい。そこで、ある二者間の関係で定義された 「負債 」と、別の二者間の関係で定義された 「負債 」とを相互に比較し、決済できるようにするために、負債を計算する共通の表示単位が必要になる。この共通の負債の表示単位なるものが、例えば、円やドルやポンドのことなのだ。要するに、 「負債 」を円やドルやポンドといった共通の計算単位で表示したものを、我々は 「貨幣 」と呼んでいるのである。

 さて、 「貨幣とは負債である 」ならば、債務を負えばだれでも貨幣を創造できるように思える。しかし、実際には、だれの負債でも貨幣として受け取られるというわけではない。負債には、デフォルト(債務不履行)の可能性があるからだ。それゆえ、デフォルトの可能性がほとんどないと信頼される特殊な負債のみが、 「貨幣 」として受け入れられる。


貨幣はどう生まれるのか


 今日、 「貨幣 」として流通しているのは、 「現金通貨(中央銀行券と鋳貨) 」と 「銀行預金 」である。

 ここで、 「銀行預金 」が貨幣に含まれるのは、それが給料の受け取りや貯蓄に使われており、貨幣として機能しているからである。しかも、貨幣の大半を占めるのは、現金よりもむしろ銀行預金の方である。

 さて、現金通貨(のうち中央銀行券)は、中央銀行が創造する。他方、 「銀行預金 」という通貨( 「預金通貨 」)を創造するのは、商業銀行であるが、そのプロセスを見てみよう。

 多くの人が、銀行は、民間主体が貯蓄するために設けた銀行預金を原資として、貸出しを行っていると誤解している。しかし、実際には、銀行による貸出しに預金という元手は必要ない。その逆に、貸出しによって預金という貨幣を創造しているのである。

 例えば、銀行が、借り手の A社の預金口座に一千万円を振り込む場合、それは銀行が保有する一千万円の現金を A社に渡すのではない。単に、 A社の預金口座に一千万円と記帳するだけである。こうして銀行は、何もないところから、新たに一千万円の預金通貨を生み出すことができる。

 銀行の貸出しは、元手となる資金の量的な制約を受けることはない。制約があるとすれば、それは借り手側の返済能力である。

 とは言え、銀行は、いざという時の現金通貨の引き出しに備えて中央銀行に一定額の準備預金(日本の場合は、 「日銀当座預金 」)を設けておかなければならない。例えば、家計による銀行預金から現金通貨の引き出しが大量にあった場合、銀行は、準備預金から現金通貨を引き出して、家計に支払うのである。

 では、その現金通貨の価値は、どのように担保されているのか。これについて明快な解答を示したのが、 M M Tなのだ。 

 その要点をまとめれば、 「国家が貨幣を租税の支払い手段と定めていることで、貨幣の価値が担保されている 」ということになる。

 まず、国家は、国民に対して納税義務を課し、 「通貨 」を納税手段として法定する。すると、国民は、国家に通貨を支払うことで、納税義務を履行できる。その結果、通貨は、国家に課せられた納税義務という 「負債 」を解消できるという価値をもつ。そして、その価値ゆえに国民に受け入れられ、財・サービスの取引や貯蓄など、納税以外の目的においても広く使用されることとなる。

 要するに、通貨の価値を裏付けるものは、租税を徴収する国家権力なのだ。 L・ランダル・レイの言い回しを借りれば、 「租税が貨幣を動かす( t a x e s  d r i v e  m o n e y) 」のである。

 政府が、国民から税を徴収するためには、国民が事前に通貨を保有していなければならない。では、国民は、その通貨をどこから手に入れたのか。通貨を発行する政府からである。

 ということは、論理的に言って、政府は徴税する前に支出して、国民に通貨を渡していなければならないことになる。政府支出の前に、徴税することは不可能なのだ。政府支出が先にありきで、徴税が後なのである。つまり、政府は、支出のための財源として、事前に税を徴収する必要はない。

 では、政府は支出の財源をどこから調達するのか。政府自身が作り出すのである。例えば、日本政府が一〇億円の支出をする場合、コンピューターのキーを叩いて、何もないところから一〇億円という通貨を創造するのだ。

 銀行が貸出しによって預金を新たに創造しているように、政府は政府支出によって貨幣を創造しているのである。

 それを確かめるために、実際の政府支出がどのように貨幣を創造しているのかを確認してみよう。


政府支出のオペレーション


 まず、政府は、中央銀行にのみ口座(日本であれば 「日銀当座預金 」)をもっている。日本銀行とは、 「日本政府の銀行 」なのである。

 また、民間銀行も、日本銀行に 「日銀当座預金 」を開設する義務がある。日本銀行は、 「銀行の銀行 」でもあるのだ。

 さて、日本政府が公共事業を行うために、建設会社 Aに対して一〇億円を支払うとしよう。また、この日本政府と建設会社 Aの取引は、建設会社 Aの取引先の民間銀行が仲介するとしよう。

 この場合、日本政府が一〇億円支出すると、建設会社 Aが開設した民間銀行の口座の預金が一〇億円だけ増やされ、それと同時に、民間銀行の日銀当座預金も一〇億円増やされるというオペレーションとなる。なお、このオペレーションは、今日、すべて電子システム上の処理によって行われる。

 つまり、政府支出は、その支出額と同額だけ、民間預金と日銀当座預金の両方を増やすのだ。

 ちなみに、政府が税を徴収する場合のオペレーションは、支出の場合と逆になる。すなわち、納税者の取引先の民間銀行の口座から納税額分の預金が減らされ、その民間銀行の日銀当座預金もまた、同額だけ減らされるという電子システム上のオペレーションが行われる。

 このように政府は、政府支出の財源を何の元手もなしに創造できる。そうであれば、政府は、何のために国債を発行するのか。

 先ほどの建設会社 Aに対する政府支出を例に取ろう。

 一〇億円の政府支出によって、民間銀行の日銀当座預金は、一〇億円分増えている。

 ところで先に述べたように、民間銀行は、日銀に一定額の当座預金(準備預金)を預けておかなければならないが、その一定額を超過すると(超過準備)、資金需要に対して資金供給が増え、金利を下げる圧力となる。そこで政府は、政策目標とする金利水準を維持するために、国債を発行して民間銀行に売却し、超過分の準備預金一〇億円を吸い上げる。

 このオペレーションが意味するのは、 「国債は、財源確保のためには必要ないが、金利を調節するためには必要である 」ということである。つまり国債は、財源確保の手段ではなく、金融政策の手段、国民経済を適切に調整するための手段なのだ。

 以上をまとめると、次のようになる。 

 ①政府が支出を行うと、支出額と同額分だけ、民間事業者の預金が増え、同時に、民間銀行の日銀当座預金もまた、同額だけ増える。 

 ②そうすると、日銀当座預金の超過が生じて、金利が低下するため、政府は、国債を発行して、民間銀行に売却し、金利の水準を維持する。 

 ③その結果、金利は不変のまま、財政支出は、それと同額だけ民間部門の預金を増やすことになる。

 以上は、政府支出のオペレーションをやや単純化して説明したもので、実際は、予算執行前に国債を発行し、民間銀行が国債を購入した後に、政府支出が行われる。しかし民間銀行は、民間部門から集めてきた預金ではなく、日銀が供給した日銀当座預金によって新規発行国債を購入するので、政府支出の原資は民間貯蓄でない、という点に変わりはない。政府支出は、それと同額の民間貯蓄(預金)を増やす、という点も同じである。つまり、財政支出は、金利水準を変えないまま、支出と同額だけ民間部門の預金を増やすのだ。

 ここから、極めて重要な事実が明らかとなる。それは、 「政府の財政赤字をファイナンスしているのは、民間貯蓄ではない 」ということだ。 


M M T批判に対する反論


 この点に関して、主流派経済学は、 「政府の債務は民間貯蓄によってファイナンスされているので、財政赤字の拡大は民間貯蓄を減少させ、金利を上昇させる 」と教えている。したがって、公共投資を拡大したとしても、金利が上昇すれば民間投資が減少するので、意味がないというのである(同前 『マンキューマクロ経済学 Ⅰ入門篇第 3版 』)。

 同様に、財務省の財政制度等審議会 「財政健全化に向けた考え方 」(平成二十六年五月)は、次のように述べている。 

「諸外国と比較しても、歴史を振り返っても、我が国の債務は、ほとんど他に類を見ない水準まで累増しているが、これまでは家計が保有している潤沢な金融資産と企業部門の資金余剰という国内の資金環境を背景に、多額の新規国債と債務償還に伴う借換債を低金利で発行できている 」 

「(しかしながら)高い家計貯蓄率と国内の豊富な資金余剰という、これまで国債の安定的消化に寄与してきた国内の資金環境が将来にわたって確実に維持される保証はなく、国債市場における海外投資家のプレゼンスが高まることも予想される。こうした中では、国債発行額を減らして債務残高を圧縮し、金利変動に伴う財政リスクを出来るだけ少なくする必要がある 」

 要するに、日本の巨額の政府債務は潤沢な民間貯蓄がファイナンスしているから、低金利を維持できているが、その民間貯蓄が減ったら金利は上昇するから、巨額の政府債務は持続可能ではないというのだ。

 しかし、先に見たように、新規発行国債を購入しているのは民間貯蓄ではない。財政赤字の拡大(国債の発行)は、日銀の当座預金を一部吸い上げるだけで、民間貯蓄を減らすことなく、その反対に増やす。したがって、政府支出の拡大それ自体が、金利を上昇させるということもないのだ。

 このように主張する M M Tに対しては、 〝財政健全化 〟を主張する国内外の主流派経済学者や政策当局が、いっせいに攻撃を加えている。その批判のポイントは、まとめれば次の二つに絞られる。 

 ①財政赤字の拡大は国債金利の高騰を招く 

 ②財政赤字の拡大はインフレを昂進させる

 まず ①金利高騰について。

 繰り返しになるが、これは単なる事実誤認に過ぎない。政府支出の拡大は、民間貯蓄を増やす。

 また、民間銀行の新規発行国債の購入は、日銀から供給された日銀当座預金を通じて行われるのであって、民間貯蓄を原資とはしていない。したがって、財政赤字の拡大それ自体が、国債金利の高騰を招くことはあり得ない。もちろん、好景気になれば国債金利も上昇するが、それは望ましいことであって、懸念すべきことではない。また、日銀が国債を購入すれば、国債金利は容易に下がる。現に、日銀は量的緩和政策と称して大量の国債を購入した結果、国債金利は極限まで下がっている。

 過去二十年間、デフレ下の日本は政府債務を累積させ続け、 G D P比政府債務残高は先進諸国中最悪の約二四〇 %となったが、この間、長期金利は世界最低水準で推移しており、金利高騰の気配はみじんもない。

 次に ②インフレについて。

 財政赤字拡大がインフレを招くことは M M Tも認めている。政府支出の拡大は、需要を増大させるので、増大した需要が供給を超過すれば、インフレになるのは当然である。

 ところで日本は、二十年もの間、デフレである。ということは、日本の財政赤字は、大きすぎるのではなく、小さすぎるということになる。 

 M M Tを批判する人たちは、 「財政赤字の拡大はインフレを招く 」と言うが、そうであれば、その逆に、 「財政赤字の削減はデフレ圧力になる 」ことも認めなければなるまい。 M M T批判者の中には、 「いったん財政規律を緩めたら、インフレをコントロールできなくなる 」などと恐怖を煽る者もいる。しかし、それなら財政規律を 「インフレ率 」にすればよいだけの話であろう。例えば、インフレ率が四 %に達したら、財政赤字を抑制するルールにするのである。財政赤字の拡大のリスクはインフレだけである以上、財政規律は 「インフレ率 」にすべきなのだ。

 そもそも、彼らが恐れる制御不能のハイパーインフレの事例というのは、戦争や内乱で供給不足となった場合(第一次世界大戦後のドイツなど)、独裁政権がでたらめな経済政策を行った場合(ジンバブエのムガベ政権など)、旧社会主義国が資本主義への移行の過程で混乱した場合、あるいは経済制裁により禁輸が行われた場合など、極めて異常なケースに限られる。先進国の民主国家が、平時において、財政赤字を拡大し過ぎてインフレを止められなくなったなどという事例は皆無なのである。

 ちなみに、 M M Tの論者は、デフレ脱却の手段として、公的部門が不況時には、最低賃金水準で労働者を雇用して失業をなくし、好況時には、その労働者を民間部門に放出してインフレを抑制する 「就業保証プログラム( J o b  G u a r a n t e e  P r o g r a m) 」を提唱している。これによって、インフレのリスクをコントロールしながら完全雇用を達成できるというのである。

 いずれにせよ、財政赤字の拡大がインフレ圧力になるのは事実である。だからこそ、デフレ脱却を目指す日本は、財政赤字を拡大すべきなのだ。

 黒田日銀総裁は、 M M Tについて、 「財政政策は、財政赤字や債務残高などを考慮せずに、景気安定化に専念すべきであるというふうに理解しますと、(略)極端な主張であり、なかなか受け入れられないのではないか 」と述べている。だが、政府の経済政策は本来、 「景気安定化に専念すべき 」なのだ。財政政策の目的は、財政の健全化ではなく、国民経済の健全化にあるからだ。


租税は何のためにあるのか 


 M M Tによれば、自国通貨を発行する政府は、税を徴収して財源を確保する必要はない。では、政府は、何のために税を徴収するのか。

 すでに述べた通り、政府が納税義務を法定すると、その支払い手段である通貨に対する需要が生み出される。徴税のおかげで、通貨に相応の経済的価値がもたらされるのだ。

 その結果として、政府は通貨を支払うことで、政策目的の達成に必要な財・サービスを民間部門から調達できるようになる。政府が特定の仕事の対価として通貨を支払うことで、雇用を創出し、失業や貧困を減らすこともできる。

 租税は、政府にとって物価調整の手段にもなる。例えば、租税が重ければ、納税のための需要が増えて通貨の価値が上がることから、人々はモノよりもカネを欲しがるようになって物価が下がる。増税は、デフレ圧力を発生させるのだ。逆に、租税を軽くすれば、今度は、納税のための需要が減って通貨の価値は下がり、インフレ圧力が発生する。このように政府は、税負担を操作することで、物価を上下させることができる。

 ということは、消費増税は、物価を下げるデフレ圧力となる。実際、一九九七年と二〇一四年の消費増税は、デフレを悪化させているのだ。

 他にも、租税は、さまざまな政策目的の達成手段として機能する。

 例えば、累進所得税によって、富裕層により重い税負担を課すことで、所得格差が是正される。この場合、租税は、格差是正の手段である。

 あるいは、温室効果ガスの排出に対して炭素税を課すと、温室効果ガスが抑制される。抑制させるべきものや減少させるべきものに課税することで、それが可能となるのだ。

 つまり課税とは、望ましくないものを抑制するための手段である。そうであるならば、消費税は、当然、消費を抑制する。しかし今の日本にとって、消費は 「抑制すべきもの 」なのだろうか。

 このように租税とは、国民経済を調整して、望ましい姿にする政策のために存在するのである。経済学とは、貨幣を使った活動に関する科学であると考えられてきた。ところが、主流派経済学は、その貨幣についての理解を間違えていたために、財政政策について大きな誤解をしていたのである。

 これに対して M M Tは、正しい貨幣の理解から出発し、実際に行われている徴税や財政支出のオペレーションを解明した。その結果、主流派経済学とは一八〇度異なる結論に至ったのである。

  M M Tは、通俗的な貨幣観を覆すと同時に、国家財政に関する考え方についても、コペルニクス的転回を迫る。これまで述べてきたように、貨幣の価値は、国家が貨幣を租税の支払い手段と定めることで担保されている。これによって通貨は、財・サービスの取引や貯蓄など、納税以外の手段としても流通する。このシステムにおいては、政府はまず財政支出を行って、民間部門に通貨を供給することになる。原理的に言えば、政府は、財政支出より前に税を徴収したり、国債を発行したりすることはできない。

 しかも、民間において通貨が取引や貯蓄など納税以外の手段として使用されるためには、国家は税収以上の支出を行う必要がある。ランダル・レイの言い方を借りれば、「『正常な』ケースは、政府が 『赤字財政 』を運営していること、すなわち、税によって徴収する以上の通貨を供給していること 」となるのだ。財政が黒字化するようなら、民間銀行による過剰な貸出し(通貨の創造)、すなわちバブルの発生を疑った方がよい。一九九〇年の日本がまさにその状態であった。つまり赤字財政は、不健全な状態ではなく、むしろ正常な状態なのである。

 このように 「貨幣とは何か 」を正確に理解する M M Tによれば、日本経済がデフレ下にあるなかで、デフレ圧力となる消費増税など論外であり、デフレを脱却するためには、財政赤字を拡大すべきだということになる。

 主流派経済学と M M Tとは、まさに天動説と地動説ほどに異なる。もちろん、地動説は M M Tの方だ。かつて地動説、進化論、あるいは相対性理論が起こしたようなパラダイム・シフトを、我々は、経済学の世界で目の当たりにしていると言っても過言ではない。

 この M M Tという新理論を受け入れて、新時代を切り拓くか。それとも既存の権威や固定観念にしがみついて財政健全化に執着し、平成の閉塞を続けるか。令和元年。我々は、運命の分岐点に立っている。

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