MMT(現代貨幣論)の世界一わかりやすい解説-イルカでも分かる現代貨幣論概要【ヤンの字雷】
本日は、ヤン様の寄稿コラムです!
本日はタイトルにもありますように、MMTについての世界一わかりやすい解説をヤン様が届けてくださいました。
自らの頭の中で解釈し直して、ここまでわかりやすくMMTを解説することが出来る人間が世界中を見渡しても果たしているのか、どうか。
ネットでググるだけでは駄目で、相当、読書をしていないと無理です。
そんなヤン様の超大作コラムに拍手を!
↓ヤン様新サイトでの人気ブログランキングクリックも忘れずに!
現在進撃の庶民では寄稿コラム執筆者を募集しております。執筆いただける方はアメーバメッセージでご連絡ください。
※アメーバアカウントが必要です
フリードリヒ・リストの画像
MMT(現代貨幣論)の世界一わかりやすい解説-イルカでも分かる現代貨幣論概要【ヤンの字雷】
MMT(現代貨幣論)という難しそうで簡単なもの
本日は「イルカでも分かる現代貨幣論の解説」と題して解説をしていきたいと思います。その前に私の現代貨幣論へのスタンスを申し述べますと、現在のところ一番説明がつくのが現代貨幣論であるというスタンスです。これ以上に説明のつく貨幣論が出てくれば、そちらに鞍替えすることもやぶさかではありませんが、どうもそれは現在のところ見当たりません。なぜ見当たらないのか?
非常に簡単に経済思想の二大潮流についてお話をしておきます。アダム・スミスやハイエクをその源流とし、200年前にリカードによって自由貿易論が打ち立てられ、そして1970年台にミルトン・フリードマンによって打ち立てられた新古典派経済学ないし古典派経済学という、小さな政府と自由貿易、国境の希薄化を目指す主流派経済学がその1つの思想潮流と言えましょう。
端的にいえば市場における政府の介入を小さくし、自由競争と自由貿易こそが経済の発展に資するという思想です。
もう一方は200年前のジェイムス・テイラー・コールリッジやフリードリヒ・リスト(ドイツ、歴史学派の経済学、後のアメリカの制度経済学に影響を与える)を源流とし、1930年代であったと思いますがケインズがまとめ、その弟子筋たるアバ・ラーナーやハイマン・ミンスキーによって洗練されたケインズ経済学とでも呼ぶべき経済学です。これは政府の市場介入は不景気のときには積極的にするべし、政府赤字は資本主義において健全であるとする思想潮流です。
もう1つ、カール・マルクスによるマルクス経済学(共産主義)がありますが、これはソビエトの例から失敗であったとされております。一言申し添えておくのならば、共産主義と社会主義は異なるものです。共産主義が私財(土地など)を認めないのに対して、社会主義では私財を認めるという違いがございます。こちらはすでに潰えたものとして、二大潮流とさせていただきました。
端的に申し上げれば、現代貨幣論(MMT)とはケインズ経済学に属します。先程上述しましたケインズ経済学の源流となったリストやコールリッジはケインズと同じ表券主義でありました。逆に新古典派経済学は商品貨幣論、金属主義であります。未だに貨幣論においてこれ以外の理論は「発見されていない」のです。発見しましたら大発見でありますので、ぜひとも全体論としてまとめてほしいところです。
さて、現代貨幣論に話を戻します。「貨幣とはなにか?」の前に、我々の生活とは経済なしでは成り立ちません。むしろ生活こそが集合して経済となるのでしょう。そして我々が生きるこの世界は貨幣経済で成り立っております。つまり経済を語る時に、貨幣というのは「基本の基本」なのですね。これをなくして経済というものはそもそも語れない、とすら見るべきでしょう。
そしてそれを最もうまく現在のところ説明しているのが、現代貨幣論というちょっと一般的(家計的な)な感覚とは違う理論なのです。そこさえ理解できれば、現代貨幣論への理解は非常に容易です。
国債がいくらでも発行できる論=現代貨幣論
余談ですが三橋貴明さんが2008年辺りだったでしょうか?「国債はいくらでも発行できる!日本に財政危機などない!」と書いたときはなかなかに衝撃的だったのではないでしょうか?なにせ、メディアは連日のように「財政破綻!緊縮財政!プライマリーバランス!」などと書いていた頃でありますから。
この「国債いくらでも発行できる論」を深め、貨幣論的観点から理論化したのが現代貨幣論(MMT モダンマネーセオリー)と言えます。なぜならば・・・通貨と国債は「ほとんど性質が同じもの」であるからです。異なる点は「一般的に市場で取引に使われているかどうか?」だけですね。
貸し借りの論理が現代貨幣論の本質
経済とは「貸し借りで成り立っているっ!」といわれたら、即理解はなかなか難しいでしょう。ですので「資本主義経済とは貸し借りで成り立っているのだ」とご説明していきたいと思います。これが理解できましたら、現代貨幣論の9割が理解できたと言ってもよいのではないでしょうか?(細かい技術論などは今回は解説を一切しません)
貨幣とはどのように生じるのか?(信用創造と呼ばれるやつです)とは「所得とはどのように生じるのか?」と一緒の問です。三橋理論を思い出してみましょう。「誰かの所得=誰かの消費」であり「誰かの債権=誰かの負債」ですね。ここで重要なのは後者、つまり「誰かの消費」であり「誰かの負債」です。なぜか?
そもそもお金を貸したくても、借りる人がいなければ貸せないでしょ?
このことを説明するために社会契約論の自然状態というものをちょっと持ってきましょう。(社会契約論が正しいとは言ってません)
社会契約論というのはすごく簡単に言うと「国家というものがまだ生まれてない状態で、個人が共同体と契約して、それが大きくなって国家になった。その思考実験的な原初の状態を自然状態という」みたいな話です。では経済も「経済がまだ生まれていない状態から、どのようにして貨幣が生まれ、経済が繋がれたのか?」を思考実験として考えてみましょうという話です。
これは富国と強兵にも書かれていた例ですけど、サンマと春キャベツで例えます。
2人の住人がいました。一人は畑を耕して春キャベツを、もう一人は漁業をしてサンマを取っていました。
春キャベツを作っている人はお魚が食べたくなり、秋に漁師のところに行きました。
「今は春キャベツがないんだが、来年の春には春キャベツで払う。だからサンマを5匹くれないか?紅だぁぁぁあ(Xジャパン)」
「よしわかった、サンマをやる。しかし証文は書いてもらうぞ?来年の春には春キャベツ3つと交換だ」
この証文、つまり借用書が貨幣の発生でありました。さてこの証文、来年の春に春キャベツ3つを払うと消滅します。物理的にではなく「貸し借りという契約がなくなる」ので消滅するわけです。物理的にタンスの奥に存在していたとしても、それは使用されないのだから契約としては消滅と解釈するのが普通でしょ。
そして来年の春キャベツを担保にサンマを「借りに行った(消費しに行った)」ことで「証文が発生した」のですから、「消費」や「負債」という「借り」こそが信用創造(貨幣の創造)となるわけです。
これが複雑化して中央銀行制度や政府の内債、そして需要創出や銀行貨幣の創造(万年筆マネー)という話になっていくわけですが、基本的には上記の論理を理解いただけたら現代貨幣論のエッセンスは理解したということになります。
国家と貨幣と内債の解説
国家にとって内債、つまり国債とはまごうことなき負債ではありますが、実は債務ではありません。ここでひとつ、負債と債務の違いだけ簡単にご説明差し上げます。といいますか・・・漢字のまんまなのですが。
債務とは「負債を務めて返さなければならない」ので債務と言います。負債とは「請け負った債(借り)」と言うだけであり、必ずしも返さなければならない債務と微妙に性質が異なります。
現代貨幣論では「貨幣=(特別な)負債」と考えます。なぜなら前項でお話した通り「消費」「借金」などの「需要(借り)によって生まれるもの」だからです。では発行主体の政府ないし日銀(どちらも一体なのですが)にとってはどのような性質か?返す必要がないのですね。債務性はありません。負債としては厳然として数字として存在しますが。
だから国債(内債)および通貨はいくら発行しても「返す必要はない」のです。そもそも・・・資本主義であり貨幣経済である国家において、政府とは「借り続ける存在」なのです。したがって資本主義国家における政府とは「赤字が正常な状態である」のです。
嘘だと思うのでしたら、近代国家において政府負債(内債)を返しきった国家を上げてみてください。すべての国家が国債の拡大をしているはずです。そして国債の拡大をしている国家ほど経済成長をしているはずです。なぜならば・・・政府が借りるということは、民間に仕事が生まれる(需要創出)であり、それは民間が豊かになることと同様なのです。(インフラ整備論、国土論などはこの際省きます)
インフレとデフレと解釈の問題
現代貨幣論は上述したようにケインズ経済学の思想潮流の延長線上であると述べました。ですのでアバ・ラーナーの機能的財政論を完全に踏襲しております。
要するに不景気だったりデフレだったら政府が支出すればいいじゃない。インフレが過激になったら引き締めてね?というだけの話であり、これは三橋貴明さんだけでなく世界中のケンズ経済学の学ぶ人達とも全く同様の主張です。(細かい学派はこの際、論じません)この現代貨幣論が新自由主義的であるという主張は、まったくもって解釈に苦しまざるを得ない話です。
まるで「南海トラフ地震が心配されるから、国家が主導して防災・減災のための対策を!!」と主張すると「独裁国家になる恐れが!」などと反論されるような事態と似ているように思えます。
そして冒頭に著したように、経済の考えたかは二大潮流しか現在のところはなく、それは偉大な先人たちが考え、理論化し、研究した成果でもあります。私は自分のことを頭が良いなどとはこれっぽちも思いませんので、ソクラテスが「こうじゃないか?」と言えば真摯に「おお、そうかもしれんな?どういうことやろか?」と考え理解し、その上でもしも異なるのであればそれを学会にでも発表したいですが、私には100%無理です(笑)
偉大な先人たちの知慧を私が超えられるとは、思えません。それどころか、ビル・ミッチェルの脳みそにすら私は及ばないことでしょう。(軍事学については、私のほうが物知りかもしれませんが、そ~いうことじゃないですしね(笑))
結局現代貨幣論とは何なのか?
では最後にまとめていきます。現代貨幣論とは?そのエッセンスとは?
- 経済は貸し借りで成り立っている
- 貸しは「借り(消費、借金、投資)」などがないと成り立たない
- その証文として発行されるのが貨幣であり、わが国では円という通貨が大半である
- 通貨を発行する政府(統合政府、日銀含む)は、理論的に国債、通貨の発行は無限にできる
- しかし行き過ぎたインフレという経済状態になれば制約される(機能的財政論)
- 金融緩和で経済成長しなかったのは、当座預金にブタ積み(つまり需要がなかったから)である
- 需要をデフレ期に創出できるのは政府だけだ
- 貨幣、通貨とはいくら現物があろうと飾り。使われてなんぼである。(消費(借り)があるから所得(貸し)が発生する)
- 通貨の消滅とは「契約の消滅」を指すのである。それは貸し借りがゼロになったことを指す。
- 政府は「借り続ける存在」である。資本主義社会においては少なくともそうである。
- 租税貨幣論(論が長くなるので、今回は論じません)
箇条書きにしてみましたけれどもいかがでしたでしょうか?家計は「お父さんから預かったお金から、やりくりする」のですが、国家会計は「借り続けるから、国民が豊かになり経済成長する」のです。
最後に万年筆マネーについてやや解説しておきましょう。「消費」があるから「生産して所得が生まれる」のであり、その貸し借りが証文として貨幣という形を取る、とお話しました。証文とは「実態がなくても、契約が成立すれば発生する」のです。つまり数字でもOK。
そして貨幣は「特殊な負債」と述べました。それは「債務性(返さなければいけない性質)を発行主体(政府)が持たない」ので「特殊な負債」なのです。国債も一緒ですけどね。
さて、銀行は手元に通貨がなくても「通帳に記入すればOK」な存在です。じつは日本で出回る現金通貨というのはわずか100兆円ほどでございます。ちなみに・・・企業取引などでは当然ながらニコニコ現金払いで取引する企業なんぞ殆ど無いでしょう。まあ小切手やらは流通しているでしょうけれども。
したがって貸し出しに現金は必要が殆ど無いのです。・・・まあ1千万円を現金で持ち歩きたい人だらけなら別ですが(笑)
では現金がないのになぜ貸し出せるのか?口座に数字を書くだけだからです。
途中の春キャベツとサンマの例を思い出してください。サンマ漁師がなぜ春キャベツ農家に証文だけでサンマを与えたのか?そこに返済能力があるから、なのです。春キャベツ農家がサンマ漁師に、春キャベツを「預けたから」ではないのですね。
つまり現代貨幣論では「貨幣は貸し借りという契約によって創造される」のであり、これは簡単に言うと「借りたい人がいるから、貸せる」のであり、なぜ貸せるのか?というと「返済能力があるから」と見込まれるからなのです。見込まれる、つまり「信用」があるということであり、「信用創造」といわれる所以です。なぜ信用があるか?「生産しているものが、売れて消費されると見込まれるから」ですね。
本日は現代貨幣論(MMT モダンマネーセオリー)の「概念」について解説差し上げました。はっきり申し上げますと、すでに過去に進撃の庶民にて寄稿させていただいた内容とそう変わりません。その証左に・・・一切ネットで調べたりという作業が発生せずに、スラスラ書けるので長文になりました(笑)
まだまだ書き足りないのですが、本日は「イルカでも分かる現代貨幣論」というテーマですので、エッセンスのみをできる限り平易に抽出したつもりです。
P.S あとがき
最後に勉学の仕方について申し述べたいと思います。私はその主張の主体が言っている「概念全体」を把握して、そこから細かいことについては適当に学ぶというスタイルです。
ややわかりにくいかもしれませんがプログラミングや料理に例えます。そのプログラムで「何ができるのか?」さえ把握すれば、あとは細かい組み立てと文法の話という技術論にしか過ぎません。フランス料理がどのような文化か?を把握すれば、あとは単なる技術論的な話になります。フランス人のよく言うエスプリでございますね。(フランス料理のエスプリを私ごときが理解できるとは申してません)
これは帰納法的考え方と言えるでしょう。演繹的考え方は新自由主義・グローバリズムの考え方でしょう。木を見て森を見ず、という格言があるようにまずは「森」を見るべきであろうと愚考します。
※そもそも、専門の研究者じゃないんだから「木」をどれだけ研究できるんだっていう(笑)無理でしょ。
本稿は現代貨幣論のエッセンスをできるだけわかりやすく書いたつもりですが、それでも平易でない部分が存在するのは申し開きがありません。
個々の細かいことについて批判が生じるということは、全体論的な批判が生じていない証でもあります。ぶっちゃけて言うと、批判がそのスケールにしか過ぎない、ということなのです。最も何度も申し述べている通り、現代貨幣論以上に、そして機能的財政論以上に現在を説明できる説が出てきましたら、私は鞍替え致します。ただ、それはほとんどの可能性として「ないであろう、なぜならばそんな天才はすでに他の経済論なり、貨幣論なり唱えているであろう」と思います。先人の知慧をないがしろにしてはいけません。それを超えるとは「歴史を作ることと同等」です。
ケインズの思想潮流の系統として高橋是清も、ルーズベルトも、コールリッジも、フリードリヒ・リストもビル・ミッチェルも源流であり、そして実行したものでもありました。これらを「超える」のは並大抵ではなく、それは「彼らを批判したから得られる称号」ではないのです。彼ら以上の論理、理論を「発表」しなければ、それは一笑に付されることでしょう。
ちなみに私は過去の偉人から学ぶだけであり、私が書いていることは単なる「再発見」で、私が発想したことではありません。私は頭が悪いので・・・・無理なのですよ。革新とか(笑)
しかし「過去から再発見して再構築する」のが「伝統を重んじる姿勢」であり「保守」なのであれば、私のしていることも無意味ではないのかもしれません。
できるだけ端的に書いたつもりが7000文字近くになったようです。最後までお付き合いいただいて大変有り難うございます。今年も1年、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。
(了)
発信力強化の為、↓クリックお願い致します!
人気ブログランキングへ
0 件のコメント:
コメントを投稿