正統派という呼称はマネタリストによるケインズ主義への背乗りを隠蔽するから相対的な位置を表す主流派が呼称として適当。そして彼らは近年の日本の金融政策の失敗への反省がない。つまり現実との接点がない。
モズラーは投資家だが資本主義のリスクを見ている。これはケインズだけを見ているとわかりにくい。
カレツキ、ミンスキーの系譜であり、ここにゴドリー(部門別会計)をレイが紹介してMMTが完成する。
繰り返すとケインズではなくカレツキを中心に見ないとポストケインジアンはわからない。
カレツキを国家共産主義と見ることもできるがソ連に対するカレツキのいたポーランドは中央政権に対する地方政府である。
モズラーは投資家だが資本主義のリスクを見ている。これはケインズだけを見ているとわかりにくい。
カレツキ、ミンスキーの系譜であり、ここにゴドリー(部門別会計)をレイが紹介してMMTが完成する。
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カレツキを国家共産主義と見ることもできるがソ連に対するカレツキのいたポーランドは中央政権に対する地方政府である。
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6&5)─政府予算制約の無用論と有用論 野口旭 2019/8/13
参考:
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割 野口旭 2019/7/23
サミュエルソンの45度分析(ミッチェル#15)とケルトン教授の赤字フクロウ派分類に触れている
スペンディングファーストのような基本は否定できないということがわかる
あと45度線分析は北欧起源であり英語論文ではカレツキが最初
サミュエルソンは広めただけ
アセモグルなどはゲーム理論で置き換わるというが何のためにグラフを使うのかということである
リソースは有限なのだから無限の心配をする必要はない
赤字フクロウに関しては広くポストケインズ派の位置付けが求められる
貨幣の根拠を徴税に見出す説明は、アダム・スミス『国富論』にすでにある。FTPL派はこれをよく引用するが、スミスは商品貨幣論を併記し、結果的に神の手に集約されがちということでMMTerはあまり引用しない
徴税拒否で逮捕、これ以上の負のインセンティブはないし
主流派の国家嫌いは精神分析の問題だ
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性 | 野口旭 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
https://www.newsweekjapan.jp/noguchi/2019/08/mmt6_1.php
2019/8/20
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性
marchmeena29-iStock
<モズラーによって発見されたMMTの中核命題や、それに基づく会計分析それ自体は、必ずしも正統派と共存不可能ではない......>
経済学派としてのMMTの一つの大きな特徴は、自らを正統派と対峙する異端派として位置付け、現代の主流派マクロ経済学を全体として拒絶している点にある。その主流派ないし正統派としてMMTの主な批判となっているのは、新しい古典派マクロ経済学というよりは、ニュー・ケインジアンによるNMC(新しい貨幣的合意)である。これは、現代のマクロ経済政策とりわけ金融政策に理論的根拠を提供しているのが、もっぱら広義のニュー・ケインジアン経済学であるという事情を反映している。
MMT派はまた、新古典派的総合の系譜にある新旧のケインジアンを亜流ケインジアン(Bastard Keynesian)と呼び、彼らと対峙し続けてきたジョーン・ロビンソンやハイマン・ミンスキーらを、自らを含む異端派としてのポスト・ケインズ派の先駆とし、それをケインズの本来のヴィジョンを受け継ぐ本流ケインジアンとして位置付けている(本連載(1)の「マクロ経済学系統図」を参照)。これは、カール・マルクスが、古典派経済学の始祖であるスミスやリカードウを、彼らを追随する「俗流経済学者」たちから区別し、自らをスミスやリカードウら元祖古典派の「真の」後継者として任じたことに似ている。
こうしたMMTの自己規定からも、また本連載でこれまで論じてきたことからも明らかなように、MMTと現代の主流派マクロ経済学は、「緊縮派」に対抗して政策的に同盟できる局面がないわけではないにしても、多くの部分において共存不可能である。つまり、MMTのある部分を受け入れるのであれば、それに対応する主流派マクロ経済学の一部は受け入れることができなくなるし、その逆もまた真ということである。
とはいえ、それは、現代の主流派がMMTの「すべて」を受け入れ不可能であることを意味しない。実は、MMTの中には、主流派にとっても何の変更もなくそのまま受け入れ可能な部分も確かに存在する。そしてそれは、これまでの主流派には大いに欠けており、しがたってMMTから積極的に学ぶべき部分でさえある。
意味のある「中央銀行の金融調節を通じた財政の金融の協調」という把握
以下は、本連載(1)で明らかにした、ウオーレン・モズラーによって「発見」されたMMTの中核命題の再掲である。
政府の赤字財政支出(税収を超えた支出)は、政策金利を一定の目標水準に保つ目的で行われる中央銀行による金融調節を通じて、すべて広い意味でのソブリン通貨(国債も含む)によって自動的にファイナンスされる。したがって、中央銀行が端末の「キーストローク」操作一つで自由に自国のソブリン通貨を供給できるような現代的な中央銀行制度のもとでは、政府支出のために必要な事前の「財源」は、国債であれ租税であれ、本来まったく必要とはされない。
驚くべきことに、この命題それ自体は、一言一句の変更もなく、正統派にそのまま受入可能である。さらに、MMT派が得意とする、政府、中央銀行、民間銀行部門、民間非銀行部門等のバランスシートによる資金循環表を用いた「財政と金融の協調」に関する分析も、それ自体として正統派にとって受け入れ難い部分は何もない。というのは、それはMMT派が常々強調するように、確かに単なる「会計的な事実」にすぎないからである。
正統派にとって受け入れ難いのは、MMTが示している会計分析ではなく、彼らがこの「政策金利を一定の目標水準に保つ」同調的金融政策を絶対視し、中央銀行による金利調整の役割を認めないことである。MMTはまた、政府財政支出に関する実際的な意味での財源の無用性という把握から、政府の通時的な予算制約の無用性をそのまま導き出すが、それも正統派には受け入れられない。確かに中央銀行の金融調節さえあれば個々の具体的な財政支出にいちいち財源は必要ないというのは疑いもなく正しいが、それは必ずしも政府財政の長期的持続可能性を無視してよいことを意味しない。
おそらくは自らを正統派と峻別するためにあえて付け加えられたこれらの無用な「拡張」を別にすれば、MMTの中核命題それ自体には正統派が問題視すべき点は何もない。それはむしろ、正統派の把握と補完的でさえある。というのは、「中央銀行の金融調節を通じた財政の金融の協調」というMMTの把握それ自体は、財政および金融政策の実務的運営に関する重要な一側面であり、かつそれは正統派の中で必ずしも実態に即して描写されてきたとはいえない部分だからである。
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性
もちろん、正統派が貨幣外生説一辺倒ではまったくないことは、マクロ経済学におけるヴィクセル以来の伝統からも明らかである。とはいえ、初級の教科書などでは、金融政策のすべての出発点は中央銀行によるベース・マネー操作であり、それが信用乗数的なプロセスを通じてマネー・サプライを生み出すといった素朴外生説的な説明に終始しているものも未だに多い。より専門的な文献では、「信用乗数式はベース・マネーとマネー・サプライの需給関数から利子率を消去した誘導型であり、前者から後者への因果関係を示すものではない」といった注意が書かれている場合もあるが、それは必ずしも一般的ではない。その意味で、財政政策と金融政策の実務的および会計的実態に即してそこに何が生じているのかを追求するMMTの姿勢は、モデルと現実との「距離」にしばしば無頓着になりがちな現代の経済学全体が学ぶべきところかもしれない。
さらに、このMMTの中核命題は、市場関係者であったモズラーによって指摘されるまでは、誰によっても明確に指摘されることはなかった。それまでも、「政府が財政支出を行えば民間銀行部門のマネー・サプライが自動的に拡大する」とか「マネー・サプライが拡大すればベース・マネー需要が拡大するので、金利一定である限り、それに同調して中央銀行のベース・マネー供給も自動的に増える」といったことは、さまざまな立場の金融専門家によって指摘されてはいた。しかし、それらを、単なる断片的な把握を越えて、中央銀行による財政支出の自動的ファイナンスという一般的な「概念」にまで高めたのは、疑いもなくMMTの独自性であろう。
このMMT命題にもう一つ大きな意義があるとすれば、それは、政府が何らかの財政支出を行うという時に必ず生じる財源論議の無意味さを明らかにした点にある。たとえば教育無償化にせよ子育て支援にせよ、新たな財政支出を伴う政策を実行すべきか否かが議論される場合に必ず争点になるのが、この「財源をどうするのか」という問題である。この場合の財源とは、一般には「増税」か「他の歳出の切り詰め」のどちらかと理解されている。しかし、MMT命題によれば、あらゆる政府支出は中央銀行による国債を含むソブリン通貨供給によって自動的にファイナンスされるのであるから、そこで財源を云々することに意味はまったくないことが明らかになる。
このMMTの把握は、正統派にも完全に受け入れられる。もとより、反緊縮正統派の多くも、従来から緊縮派を批判するに際しては、「重要なのは全般的な財政状況であるから、個々の支出の財源を云々しても無意味である」とか「その財政状況とりわけ税収は財源どうこうよりも経済状況により大きく依存する」と論じ続けてきたのである。MMT命題は、その反緊縮正統派の従来の主張とまったく整合的である。MMTとの相違は、もっぱら政府財政の長期的維持可能性についての把握にある。
金利が果たす役割の把握に対する根本的な相違
これまで詳述してきたように、正統派とMMTとの最大の相違は、マクロ経済政策という領域における政策戦略にある。すなわち、正統派が基本的に財政政策と金融政策をそれぞれ独立した政策手段として把握しているのに対して、MMTは両者の分離を概念的に否定する。MMTによれば、政策手段として独立しているのは財政政策のみであり、金融政策はそれによって誘導される存在にすぎない。MMTのこの部分には、内生的貨幣供給派ポスト・ケインジアンの把握がそのまま受け継がれている。
つまり、MMTの体系には同調的金融政策が存在するのみであり、「中央銀行による金利操作」という本来の意味での金融政策は存在しない。実際、ランダル・レイのModern Money Theoryでは、金融政策については単に「ケインズの後継者たち--自らをケインジアンと呼んでいる連中と混同しないように注意されたい--は常に、金利政策が投資に大きな影響を与えるという考えを拒絶してきた」(p.282)と一言述べられているのみである。MMT派の教科書であるMacroeconomicsでは、第23章第5節で金融政策についての一般的な解説がきわめて手短に記されているが、その最後は「したがって、金融政策が持つ総支出への影響と、そのインフレ過程への間接的な影響は、きわめて疑わしい」(p.366)という総括によって唐突に締めくくられている。
MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している。MMTにとっては、金利とは何よりも中央銀行が政策的に決めるものであり、「市場の需給」とは無関係である。さらにその金利は、単に民間銀行がその資産を国債で持つか準備預金で持つかというポートフォリオ選択に影響を与えるにすぎない。そして、民間銀行がその資産を国債と準備預金のどちらで持ったとしても、それらはともに政府の債務としてのソブリン通貨である以上、両者の間に本質的な相違はない。
それに対して、正統派における金利は、資金市場における資金の需要と供給、その背後にある財市場における投資と貯蓄によって、本来的には市場において決まる。それが、かつては貸付資金説と呼ばれていた、資金市場の需要供給分析である。その背後には、貯蓄における人々の時間選好と投資における投資家の収益期待が存在する。つまり、金利にはその背後に、待忍に対するプレミアムや投資に対する収益という実物的な基礎が存在する。したがってそれは、名目的に表示されてはいるものの、基本的には実物的な変数である。
その両者の関係を明らかにしているのが、「名目金利=実質金利+期待インフレ率」というフィッシャー方程式である。この実質金利は、短期的には財市場における投資と貯蓄の均衡によって決まるが、長期的には実質経済成長率に収斂する傾向を持つ。仮にこの右辺の期待インフレ率が中央銀行の目標インフレ率と一致しているとすれば、中央銀行はその目標を維持するためには、名目金利をこのフィッシャー方程式に合わせて設定しなければならない。というのは、そうでないと、例のヴィクセル的なインフレあるいはデフレの累積過程が生じてしまうからである。
正統派は他方で、こうした金利の持つ市場調整機能が十全に発揮されるのは基本的には完全雇用時であり、不完全雇用時には中央銀行による金利設定の裁量余地がより大きくなることを認める。というのは、労働市場にスラックが存在する不完全雇用経済では、中央銀行が金利を政策的に引き下げることにより、投資と所得と貯蓄を同時に増加させることができるからである。フィッシャー方程式を用いていえば、中央銀行は完全雇用時には名目金利を右辺に合わせて設定しなければならないのに対して、不完全雇用時には逆に、名目金利の引き下げを通じて実質金利の引き下げをもたらすことができる。このようにして行われる金利の調整こそが、正統派にとっての金融政策である。
このように、MMTと正統派との間に横たわる金融政策あるいは金利の役割についての認識上の隔たりはきわめて大きい。MMTはしばしば、正統派が時に用いる貸付資金説的な把握を、赤字財政による金利上昇や民間投資のクラウド・アウトといったその結論とともに否定する。しかし正統派の側からすれば、MMTの金利についてのきわめて非市場的な把握は、単に中央銀行の裁量余地が大きくなる不完全雇用での状況を一般化したにすぎない。また、そこにおいてさえ、金利の役割は極度に矮小化されている。それはいわば、経済学でこれまで展開されてきた金利についての数百年にわたる考察の大部分を無視しているようにさえ写るのである。
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性
MMTの政府債務把握がはらむ「矛盾」
正統派から見たMMTのもう一つの大きな問題点は、政府債務についての把握にある。MMTは常々、政府の債務は民間にとっての純資産であることを強調する。これは正統派にとっては、政府と民間が共に非リカーディアンであることを意味する。というのは、もし政府と民間がリカーディアンであったとすれば、民間の持つ資産は同時に将来の増税によって確実に返済を強制される負債ということになり、ロバート・バローが述べる通り「国債は純資産ではない」ことになるからである。
正統派の発想では、政府と民間が共に非リカーディアンであることが想定されている場合には、赤字財政政策の無効性を意味する「リカード=バローの中立命題」は成立せず、政府債務の拡大によって人々の支出が拡大し、その結果として物価が上昇するはずである。しかしながら、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTにおいては、政府債務の拡大は、財政破綻の可能性の高まりといった「悪いこと」をもたらさない反面で、人々の支出を拡大させるという「良い効果」も持たない。それが、MMTがFTPLやヘリコプター・マネー政策とは異なるということの意味である。
つまり、MMTの世界は、その前提が非リカーディアンであるにもかかわらず、そのふるまいはまったくリカーディアンなのである。これは、明らかに矛盾している。正統派から見れば、その矛盾を解消するための方法は一つしかない。それは、政府の通時的予算制約の明示である。
重要なのは、この政府予算制約の設定は、財政の長期的持続可能性に留意するものではあっても、「不況下の増税」的な緊縮主義を含意するわけではまったくないという点にある。正統派的には、財政の長期的持続可能性には通貨発行益(シニョレッジ)も考慮する必要があるから、通貨主権を持つ国の政府予算制約はより緩やかになる。それは、不況期における循環的財政赤字の許容度や持続性がより高まることを意味する。この点の把握は、ソブリン通貨という概念こそ用いていないものの、MMTと軌を一にしている。他方では、上述のように、非リカーディアンである限り、そのように許容された財政赤字そのものにも支出拡大効果が期待できる。要するに、不況下の増税に反対する反緊縮主義は、政府の通時的予算制約を想定しても十分に成り立つのである。
財政の長期的持続可能性を考える場合にもう一つ重要な点は、各国における将来的な徴税可能性である。仮に完全な通貨主権を持つ国であったとしても、将来の現実的な徴税能力以上に政府債務が拡大した場合には、ハイパー・インフレとは言わないまでも、FTPL的な物価調整プロセスが望ましくない形で生じる可能性は存在する。そのような可能性は先進諸国ではまったく考えられないが、税金逃れが横行しているとか徴税制度が十分に整備されてないといった状況が稀ではない新興諸国では、一定の現実味を持っている。本来であれば、「ソブリン通貨の裏付けは政府の徴税にある」という把握から出発するMMTこそがこの課題に正面から取り組むべきであるが、政府債務は良くも悪くも何の意味も持たないとするMMTの赤字フクロウ派的な認識がそれを妨げているように思われる。
財政主導初期ケインズ主義の再興としてのMMT
現状のMMTの経済学派的特質を一言で表現すれば、「モズラーの発見を媒介とした財政主導初期ケインズ主義の再興」ということになるであろう。その初期ケインズ主義が何であったのかは、マネタリズムによるケインズ経済学批判が学界を席巻しつつあった1960年代後末に、その潮流を横目で見ながら、ケインズ派内部からの自己改革を唱えて旧来の"ケインジアン"経済学を根底的に批判したアクセル・レイヨンフーブッドによって、以下のように描写されている。
金融政策の有効性に対するケインズの悲観論と、財政政策の慫慂は『一般理論』の特徴点ではあるが、これが多くの初期"ケインジアン"の手により、単純化されたドグマに作りあげられてしまった。つまり景気後退期における金融政策はまったく有効でなく、一方財政政策は景気の加熱、停滞どちらにも有効であり、かつマクロ経済問題に対する唯一の処方箋である、とされたのである。(Leijonhufvud, A.[1968] On Keynesian Economics and the Economics of Keynes: A Study in Monetary Theory, p.158)
このレイヨンフーブッドの『ケインジアンの経済学とケインズの経済学』で詳述されているように、初期ケインジアンたちは、金融政策の無効性と財政政策の有効性をまさにドグマチックに信奉していた。その根拠の一つとなっていたが、オックスフォード大学グループによる1930年代の実態調査などを受けて浸透した、企業家の投資に関する意志決定は金利からはほとんど影響を受けないという「投資の利子弾力性悲観論」である。このレイヨンフーブッドとは逆に、レイはModern Money Theory, p.282で、「この弾力性悲観論こそが"ケインジアン"とは区別されたケインズの真の後継者たちの認識である」と述べているのであるから、レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである。
MMT派による「新しい貨幣的合意」という言葉が示唆しているように、その後のケインズ主義は、財政政策重視から金融政策重視へとその政策戦略を大きく転換した。それは、ミクロ的基礎を持たないケインズ型消費関数に基づく45度線モデル的な財政乗数理論や、それに依拠する財政一辺倒主義が、ケインジアン内部からも粗野なケインズ主義(crude Keynesianism)と批判されるようになった状況を反映している。金融政策に関しては逆に、資産市場の一般均衡分析、マンデル=フレミング・モデル、合理的期待形成理論、貨幣についてのクレジット・ビュー、ファイナンシャル・アクセラレーターの理論等々を通じて、資産チャネル、為替チャネル、期待チャネル、信用チャネルなどのさまざまな波及経路が理論的に確認されていった。その結果、かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった。そこではもはや、金利チャネルは金融政策が実体経済に影響を与える数多くの経路のうちの一つでしかなくなったのである。ちなみに、拙著『世界は危機を克服する』(東洋経済新報社)は、初期の財政政策重視ケインズ主義を「ケインズ主義Ⅰ」、その後の金融政策重視のそれを「ケインズ主義Ⅱ」と名付けて区別している。
こうした現代マクロ経済学の展開から見れば、現状のMMTは、旧ケインジアンのマネタリズム批判から分岐した、マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない。既述のように、ポスト・ケインジアンの内生的貨幣供給論は、ニコラス・カルドアが1970年代から80年代初頭にかけて展開していたマネタリズム批判に始まる。端的に言えば、ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである。
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性
共存可能な正統派と「モズラー経済学」
興味深いことに、その観点からモズラーのSoft Currency Economics IIを読み直してみると、レイのModern Money Theoryやレイやミッチェルの教科書Macroeconomicsとは、その筆致に大きな相違が存在することに気付く。そこにはまず、レイやミッチェルなどでは二言目には出てくる「正統派マクロ経済学批判」がほとんど出てこない。確かに、信用乗数の外生論批判をはじめとして、金融政策に対する教科書的説明に対する実務的観点からの批判はふんだんに展開されているが、その視点はどちらかといえば翁邦雄『金融政策--中央銀行の視点と選択』(東洋経済新報社、1993年)などに近い。もちろん「利子外生、貨幣内生」の観点は一貫しており、その点ではポスト・ケインジアンと相通じる部分を最初から持っている。しかしだからといって、金利操作という意味での金融政策の意義を全否定しているわけでもない。むしろ、中央銀行によるマネタリー・ターゲティング的な金利操作を「好意的に」解説しているくらいである。
これらの事実は、MMTにおける「反正統派」的な理論構成は、おそらくモズラー自身によってではなく、主にレイやミッチェルなどの元々の異端派によって、モズラー命題を「拡張」する形で追加されていったことを示唆している。本稿では冒頭で、モズラーによって発見されたMMTの中核命題や、それに基づく会計分析それ自体は、必ずしも正統派と共存不可能ではないことを指摘した。そのことは、モズラーのSoft Currency Economics IIや、そのオリジナルである1993年のSoft Currency Economicsの内容からも裏付けられるのである(オリジナルの方は現在入手不可能であるが、そのテキスト版と思われるものはEconPapersサイトのダウンロード・リンクから入手可能である)。
モズラーのSoft Currency Economics II序文には、そのオリジナルが1996年に出版されて以降、現在のようにMMTと呼ばれるようになる以前には、その主張は「モズラー経済学」と呼ばれていたことが書かれている。おそらく、MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう。それはもちろん、正統派と対峙する異端派を自認する現状のMMTにそれが可能であればの話ではあるが。
(連載終わり)
(連載終わり)
MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論
野口旭 2019/8/13
<MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略である......>
MMTによれば、現代の主流派マクロ経済学の大きな誤りの一つは、「政府の赤字財政支出は、希少な民間貯蓄を奪い、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」と論じている点にある。MMTはそれに対して、政府の赤字財政支出は、それ自身が民間にとっての資産(貯蓄)となるので、民間投資のクラウド・アウトは原理的に生じないと主張する。これは、赤字財政は原則的に許容されるべきというMMTの結論を支える一つの大きな論拠となっている。
本連載(4)で検討したように、正統派からみたこの議論の問題点は、MMTが政府の赤字財政支出を基本的に金融的な側面でのみ捉えており、財市場に与える影響を考慮していないところにある。というのは、民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、インフレの加速等は、金融的現象であると同時に、財市場がその供給制約に直面して初めて顕在化するような実物的現象だからである。MMTも資源の制約が存在することに一応は言及するが、それは分析上何の役割も果たしていない。その意味では、MMTはいわば「終点のない45度線モデル」のような、不完全雇用が永遠に続く経済を暗黙裏に前提しているのである。
実際、Macroeconomicsの第15章「総支出モデル」で展開されているのは、初期ケインジアンの基本モデルであったポール・サミュエルソン由来のケインズ型所得・支出決定モデル、いわゆる45度線モデルである。MMTにとってのサミュエルソンは、代表的なバスタード・ケインジアンの一人のはずである。にもかかわらず、IS-LMモデルやフィリップス曲線の扱いとは異なり、MMTはそのサミュエルソン的なモデルを自らの体系の一部として受け入れている。MMTは実際、「政府の赤字財政支出はその乗数倍の所得をもたらし、それはさらに政府赤字に見合うだけの貯蓄をもたらす」といった45度線モデルに特徴的な推論を、そのまま無批判に援用している。それに対して、正統派にとっての45度線モデルは、不完全雇用経済の考察においてのみ意味を持つ、その特質の一面を経済学の初学者に理解させるために長年用いられてきた教育上のツールにすぎない。
以上の点は、「家計とは異なり政府には予算の制約は原理的に存在しない」という、MMTの基本命題を理解する上で、きわめて重要である。MMTは常々、政府財政における本質的な制約は政府の資金にではなく、その時々の生産資源の存在量にあることを強調する。逆にいえば、MMTは「供給に制約がない経済では、政府はその赤字あるいは債務を無限大にまで拡大できる」と述べている。それは、政府の予算制約は原理的に存在しないというMMT命題から導き出される、必然的な含意である。
それに対して、正統派の多くは、「家計と政府はその制約の度合いが大きく異なるとはいえ、少なくとも時間的視野を無限大にまで引き延ばした時には、供給制約の有無にかかわらず、政府にも予算制約は存在する」と考える。確かに、政府の予算制約は家計や個人よりもはるかに緩やかである。例えば個人の場合には、寿命という生物的な制約が存在するため、債務を負う場合にも、残りの寿命の中で将来的に稼得かつ返済可能な金額がその上限となる。しかし、政府にはそのような生物的制約は存在しないので、それぞれの国がある時点でどれだけの債務を背負うことができるのかは、まさに千差万別である。
たとえそうではあっても、正統派はMMTのように政府に予算制約は存在しないとは考えない。というのは、それが存在しないとなれば、「政府の予算制約を満たすように物価水準が調整される」ことを想定する後述の「物価水準の財政理論」やヘリコプター・マネー論が成立しなくなってしまうからである。そこでの政府予算制約の役割は、財政再建必要論といったような立場とはまったく結びつかないことに注意する必要がある。
政府の財政運営に関するタカ派、ハト派、そしてフクロウ派
MMTは、財政に関する専門家のスタンスを、以下のように3分類する。
われわれは適切な財政戦略に関して、(a)赤字タカ派、(b)赤字ハト派、(c)赤字フクロウ派という三つの異なる視点を区別することができる。このカテゴリ(c)は、アメリカUMKCのMMT派エコノミスト、ステファニー・ケルトンによって追加された。
一般には1会計年で政府収入と支出を正確に一致させることは難しいと認識されているが、赤字タカ派は、政府が財政収支の均衡あるいは黒字さえ達成するよう努力することを求める。したがって、均衡財政からの逸脱が発生した場合、政府は常にそのような不均衡に対応する必要が生じる。それは、ある年に赤字が発生した場合、政府はその翌年に支出削減あるいは増税を行い、黒字を作ることでそれを補うよう努めるべきことを意味する。
赤字ハト派は、政府は財政収支均衡を景気循環過程の中で達成することを目指すべきであり、景気後退期は赤字を創出し、拡大期の余剰を相殺すべきだと考えている。つまり、政府は民間部門の支出の変動を相殺するために、自らの財政能力を反循環的な政策手段として積極的に使用すべきということになる。たとえば、赤字ハト派は世界大不況期において、主要な西側諸国の低迷した経済を刺激するために赤字が必要だと主張した。彼らの見解によれば、均衡財政に向かうべき時は、回復が堅調に進行し、税収が増加し始めた後においてのみ訪れる。
赤字フクロウ派は、機能的財政の原理に基づいており、これらとはまったく異なる立場にある。 彼らにとっては、主権政府の財政的成果は、政策立案の有用な目標ではない。それは、 政策指針という意味では機能的ではない。そうではなく、政策は、完全雇用、物価の安定、貧困の緩和、所得不平等の減少、財政の安定、環境の持続可能性、全体的な生活水準などの、経済的に重要な課題の達成を目標とすべきなのである。(Macroeconomics, pp.333-4)
このタカ派、ハト派、フクロウ派というMMTの3分類は、財政に対する専門家たちの立場を区別するのに確かに有用である。赤字タカ派の歴史的な代表例は、政府財政赤字は単に民間投資のクラウド・アウトをもたらすにすぎないという、ケインズがかつて批判した大蔵省見解であろう。反ケインズ派の財政学者、ジェームズ・ブキャナンなどに代表されるように、こうした考え方は、ケインズ経済学が一般的に受け入れられて以降も根強く受け継がれていた。ちなみに、ケインズが大蔵省見解を批判したのは、民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用経済では必ずしも成立しないからである。
それに対して、赤字ハト派とは、財政均衡は景気循環の過程で達成されればそれで十分であり、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという立場である。それはまた、「縮小させる必要がある財政赤字とは、不況期に必然的に生じる循環的赤字ではなく、好況期においても残っている構造的赤字である」という、財政運営の基本的指針を導き出す。この意味での循環的な赤字財政主義を最初に提起したのは、ヴィクセルを引き継ぐストックホルム学派を代表するグンナー・ミュルダールであったとされている。この赤字ハト派のカテゴリには、おそらく過去から現在に至る新旧ケインジアンの大部分が含まれる。
MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と考えているのである。MMT派が常々強調しているように、彼らのこうした考え方は、アバ・ラーナーの機能的財政論に発している。確かに、ラーナーは『統制の経済学』(1944年)第24章で、「政府財政に均衡させられるべき何らかの理由があるとすれば、それは、財政赤字は悪いことだという人々が持つ偏見あるいはイデオロギーの存在のみである」と述べていた。
政府財政をめぐるリカーディアンと非リカーディアン
この赤字ハト派の循環的赤字財政主義が典型であるが、初期のケインジアンたちは、景気循環の全体を通じた財政収支均衡を漠然と想定してはいたが、政府の通時的予算制約を明示的に考慮はしていなかった。それは、IS-LM分析が示しているように、ケインズ『一般理論』で用いられていた手法が、経済をある特定の時点で切り取った静学的分析だったからである。そこでは、フローとしての政府赤字財政支出の役割は考察できても、ストックとしての政府債務の役割は考察できない。
旧ケインジアンが政府の通時的予算制約に配慮する必要に迫られるようになったのは、新しい古典派マクロ経済学の創始者の一人であったロバート・バローによる1974年の論文「政府国債は純資産なのか?」によってであろう。そのタイトルが示唆しているように、バロー論文は、「政府の赤字財政支出の結果としての国債は、民間の資産のように扱われているが、民間に対する将来の増税によって返済されるべきものである以上、必ずしも資産とは見なされない」ことを論じている。それは、「民間の資産は政府の債務によって生み出される」というMMTの視角とは、まさに対極にある。
このバローの推論は、「政府の債務は家計の債務と同様に、将来のある時点では必ず返済される」という前提に基づく。これは、政府の予算制約が通時的には必ず満たされることを意味する。この場合、政府支出を増税で賄うことと国債を発行して賄うことには、国民全体からすれば差はまったくない。というのは、経済学的には、ある金額の支払いを今行っても100年後に行っても、割引現在価値で引き戻せば同じだからである。
つまり、政府の通時的予算制約が満たされるという前提の下では、赤字財政の効果は増税と同じになる可能性がある。上述のブキャナンは、このバロー論文へのコメントの中で、同様な主張をリカードウが150年以上も前に展開していたことを指摘した。それ以降、この赤字財政政策の無効命題は「リカード=バローの等価定理」あるいは「リカード=バローの中立命題」と呼ばれるようになった。
このバローの議論は、赤字財政主義を信奉するケインジアンたちに大きな難題を突きつけた。というのは、もしこの議論が正しければ、民間資産と見なされている国債は同時に民間債務でもあるということになり、減税政策などによって政府が財政赤字を作ることそれ自体には何のマクロ的効果もないことになるからである。
ケインジアンにとっては幸いなことに、このバローの議論は、確かに一つの可能性ではあったが、必ずしも現実的ではなかった。まず、存命中に返済することが前提である個人の債務とは異なり、増税による債務の返済は「先延ばし」が可能である。それは、現世代の資産である国債の少なくとも一部は、現世代にとっては必ずしも返済する必要のない「純資産」であることを意味する。バローの議論の意義は、そのことも含めて、経済学者たちが政府の通時的予算制約の持つ政策的意味を考察する一大契機となった点にある。
このバローの指摘以降、経済学においては、財政政策のあり方に関して「リカーディアン」と「非リカーディアン」という区分が用いられるようになった。赤字国債を将来の増税で賄おうとする政府はリカーディアン政府、それをしない政府は非リカーディアン政府と呼ばれる。また、政府がリカーディアンであると考え、将来必ず増税が行われるので保有する国債を純資産の増加と見なすことはなく、消費計画も変更しない家計は、リカーディアン家計と呼ばれる。逆に、将来必ずしも増税が行われることはなく、国債を純資産の増加と見なして消費支出を増やす家計は、非リカーディアン家計と呼ばれる。
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無制限な政府債務拡大は何をもたらすのか
上述のように、MMTは、家計とは異なり政府には予算制約は本来的に存在しないと考える。MMTはまた、政府債務は民間にとっては純資産であると考える。つまりMMTにおいては、政府と民間は常に非リカーディアンである。それは、MMTが、「政府は債務拡大を通じて民間の純資産を無制限に拡大させることができる」と想定していることを意味する。
正統派は、そのような政府債務および民間純資産の無制限拡大が「そのままの形で」続くことは不可能と考える。とはいえ、それは必ずしも政府の通時的予算制約の不在を意味しない。正統派はむしろ、政府の予算制約が存在するからこそ、「政府が非リカーディアンな財政運営を続けていけば必ず何らかの物価調整が生じる」と考えるのである。
MMTによれば、政府は資源制約に直面しない限りその債務を拡大させ続けることができる。例えば、45度線モデルが永遠に続くような、生産の制約がもっぱら需要側にのみ存在する経済を考えよう。それは、ケインズが『わが孫たちの経済的可能性』(1930年)で描き出したような、社会が必要とする財貨が、近年でいえばITCやAIなどの技術革新によって、ごくわずかの労働資源の投入により供給可能になった経済である。それは、ケインズの楽観的展望とは異なり、大失業経済になる可能性もある。MMによれば、そのような経済状況下では、政府はその債務を極限まで拡大すべきであるし、そうしたとしても、資源制約に達していない以上、インフレも何も起こらない。
それに対して、正統派の推論では、仮に経済が不完全雇用であっても、政府が永遠に債務を拡大させ続けていけば、必ずある時点でインフレ圧力が生じる。というのは、政府と家計が非リカーディアンであり、政府債務の増加が民間の純資産の増加を意味するとすれば、それが物価に何の調整ももたらさずに永遠に拡大し続けることは不可能だからである。民間の純資産とは、実物的な財貨サービスに対する将来的に行使可能な請求権を意味する。その請求権が拡大していけば、財貨サービスに対する支出も当然拡大する。その支出拡大が財貨の供給拡大を上回れば、それはやがてインフレを発生させる大きな圧力になる。
そのことを最も簡潔に描写したのは、クリストファー・シムズの問題提起を浜田宏一・内閣参与が紹介したことで有名になった物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level: FTPL)である。それは、「現在の物価水準は将来の実質財政余剰を現在の名目債務残高と等しくさせるように決まる」という考え方である。それを式で表せば、「物価水準=名目債務残高/将来の実質財政余剰」となる。これは要するに、「物価水準は過去から将来にわたる政府の予算を均衡させるように決まる」ということである。
ここで「名目債務残高」は過去から現在の財政赤字の累積として既に決まっているから、「将来の実質財政余剰」が大きくなれば物価水準は下落し、それが小さくなれば物価水準は上昇する。ただし、この名目債務をすべて将来の財政余剰すなわち増税で返済しようとするリカーディアン政府下では、こうした財政主導の物価変動は生じない。つまりFTPLでは、政府も家計も常に非リカーディアンが仮定されているのである。
同じことは、ミルトン・フリードマンに始まりベン・バーナンキによって引き継がれたヘリコプター・マネー論についても言える。これは、財政拡張と金融緩和を同時に実行することで、あたかも紙幣をヘリコプターでばらまくかのように民間経済主体が保有する資産としての貨幣を増やそうとする政策である。上述のように、それによって人々が保有する資産が拡大すれば、財貨サービスに対する支出も拡大し、やがてインフレがもたらされる。この政策はFTPLと同様に、必ず非リカーディアンな政府と家計を前提とする。というのは、仮に人々が「政府はヘリコプターからばらまいた貨幣と同額を必ず増税によって回収するだろう」と考えれば、人々が支出を増やすはずもないからである。
根本的に異なる政府債務と予算制約に関するMMTと正統派の把握
新旧ケインジアンの多くが含まれる赤字ハト派と、ラーナーからMMTに至る赤字フクロウ派は、少なくとも不況下あるいは不完全雇用下では、政府による積極的な赤字財政という政策戦略を共有できる。しかし、対立はやはり完全雇用が達成されたあとに生じる。赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである。
MMTと正統派の間には、不況対策という面でも一つの大きな相違がある。上述のように、正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、「財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する」という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない。その意味で、MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略なのである。
(以下、MMTの批判的検討(6完)に続く
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<MMTは「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と結論しているが、それがどのような推論から導き出されるのかを検討する......>
その主唱者たちによれば、MMTの目的は、主流派マクロ経済学という「歪んだメガネ」によって生み出された財政と金融に関する誤った観念を排し、それをMMTから得られる正しい把握に置き換えていき、それを通じてマクロ経済政策を正しい方向に導いていくことにある。MMT派の教科書Macroeconomicsの第8章では、そのMMTによって駆逐されるべき主流派の誤謬(Mainstream Fallacy)として、以下の9つの命題が掲げられている。
誤謬その1:政府は家計と同様な「予算」の制約に直面している。
誤謬その2:財政赤字(黒字)は悪(善)である。
誤謬その3:財政黒字は一国の貯蓄を増加させる。
誤謬その4:政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである。
誤謬その5:財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウト(締め出し)する。
誤謬その6:財政赤字は将来の増税を意味する。
誤謬その7:政府の浪費は財源の喪失を意味する。
誤謬その8:政府支出はインフレを生む。
誤謬その9:財政赤字は大きな政府につながる。
新旧ケインジアンを含む反緊縮正統派はおそらく、これらが「主流派の誤謬」だと言われれば、その誤謬を信じている主流派とはいったい誰のことなのか、よくメディアに出てきては赤字赤字と大騒ぎする緊縮保守派のことだろうか、などといぶかしく思うであろう。というのは、「政府の赤字は家計のそれとは違う」とか「政府の財政赤字は別に悪いことでない」というのは、まさしく反緊縮正統派がこれまで口を酸っぱくして言い続けてきたことだからである。実際、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという赤字財政主義は、ケインズ主義が誕生して以来の基本的な政策指針の一つであった。
しかしながら他方で、この中には確かに正統派とは明確に異なるものもある。それは例えば「財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」である。あるいは「政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである」、「財政黒字は一国の貯蓄を増加させる」、「政府支出はインフレを生む」などもそこに含まれるかもしれない。これらは正統派にとっては必ずしも誤謬ではない。
新旧ケインジアンを含む正統派も確かに、「赤字財政支出による民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用下ではそれほど起きない」と考えている。しかし他方で、「経済がいったん完全雇用に達した時には、赤字財政支出はほぼ確実に民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、さらにはインフレを引き起こす」とも考えている。したがって、正統派の多くは、「赤字財政が明確に許容されるのは基本的には不完全雇用時である」と考える。
それに対して、MMTは「赤字財政支出によるクラウド・アウトは原理的に起きない」と主張しているのである。それは、「赤字財政は完全雇用であってもなくてもインフレでない限り許容されるべきである」、そして「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」という、きわめてMMT的な結論を生み出す。以下では、そのMMTの結論がどのような推論から導き出されるのかを検討する。
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