<MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略である......>
MMTによれば、現代の主流派マクロ経済学の大きな誤りの一つは、「政府の赤字財政支出は、希少な民間貯蓄を奪い、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」と論じている点にある。MMTはそれに対して、政府の赤字財政支出は、それ自身が民間にとっての資産(貯蓄)となるので、民間投資のクラウド・アウトは原理的に生じないと主張する。これは、赤字財政は原則的に許容されるべきというMMTの結論を支える一つの大きな論拠となっている。
本連載(4)で検討したように、正統派からみたこの議論の問題点は、MMTが政府の赤字財政支出を基本的に金融的な側面でのみ捉えており、財市場に与える影響を考慮していないところにある。というのは、民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、インフレの加速等は、金融的現象であると同時に、財市場がその供給制約に直面して初めて顕在化するような実物的現象だからである。MMTも資源の制約が存在することに一応は言及するが、それは分析上何の役割も果たしていない。その意味では、MMTはいわば「終点のない45度線モデル」のような、不完全雇用が永遠に続く経済を暗黙裏に前提しているのである。
実際、Macroeconomicsの第15章「総支出モデル」で展開されているのは、初期ケインジアンの基本モデルであったポール・サミュエルソン由来のケインズ型所得・支出決定モデル、いわゆる45度線モデルである。MMTにとってのサミュエルソンは、代表的なバスタード・ケインジアンの一人のはずである。にもかかわらず、IS-LMモデルやフィリップス曲線の扱いとは異なり、MMTはそのサミュエルソン的なモデルを自らの体系の一部として受け入れている。MMTは実際、「政府の赤字財政支出はその乗数倍の所得をもたらし、それはさらに政府赤字に見合うだけの貯蓄をもたらす」といった45度線モデルに特徴的な推論を、そのまま無批判に援用している。それに対して、正統派にとっての45度線モデルは、不完全雇用経済の考察においてのみ意味を持つ、その特質の一面を経済学の初学者に理解させるために長年用いられてきた教育上のツールにすぎない。
以上の点は、「家計とは異なり政府には予算の制約は原理的に存在しない」という、MMTの基本命題を理解する上で、きわめて重要である。MMTは常々、政府財政における本質的な制約は政府の資金にではなく、その時々の生産資源の存在量にあることを強調する。逆にいえば、MMTは「供給に制約がない経済では、政府はその赤字あるいは債務を無限大にまで拡大できる」と述べている。それは、政府の予算制約は原理的に存在しないというMMT命題から導き出される、必然的な含意である。
それに対して、正統派の多くは、「家計と政府はその制約の度合いが大きく異なるとはいえ、少なくとも時間的視野を無限大にまで引き延ばした時には、供給制約の有無にかかわらず、政府にも予算制約は存在する」と考える。確かに、政府の予算制約は家計や個人よりもはるかに緩やかである。例えば個人の場合には、寿命という生物的な制約が存在するため、債務を負う場合にも、残りの寿命の中で将来的に稼得かつ返済可能な金額がその上限となる。しかし、政府にはそのような生物的制約は存在しないので、それぞれの国がある時点でどれだけの債務を背負うことができるのかは、まさに千差万別である。
たとえそうではあっても、正統派はMMTのように政府に予算制約は存在しないとは考えない。というのは、それが存在しないとなれば、「政府の予算制約を満たすように物価水準が調整される」ことを想定する後述の「物価水準の財政理論」やヘリコプター・マネー論が成立しなくなってしまうからである。そこでの政府予算制約の役割は、財政再建必要論といったような立場とはまったく結びつかないことに注意する必要がある。
政府の財政運営に関するタカ派、ハト派、そしてフクロウ派
MMTは、財政に関する専門家のスタンスを、以下のように3分類する。
われわれは適切な財政戦略に関して、(a)赤字タカ派、(b)赤字ハト派、(c)赤字フクロウ派という三つの異なる視点を区別することができる。このカテゴリ(c)は、アメリカUMKCのMMT派エコノミスト、ステファニー・ケルトンによって追加された。
一般には1会計年で政府収入と支出を正確に一致させることは難しいと認識されているが、赤字タカ派は、政府が財政収支の均衡あるいは黒字さえ達成するよう努力することを求める。したがって、均衡財政からの逸脱が発生した場合、政府は常にそのような不均衡に対応する必要が生じる。それは、ある年に赤字が発生した場合、政府はその翌年に支出削減あるいは増税を行い、黒字を作ることでそれを補うよう努めるべきことを意味する。
赤字ハト派は、政府は財政収支均衡を景気循環過程の中で達成することを目指すべきであり、景気後退期は赤字を創出し、拡大期の余剰を相殺すべきだと考えている。つまり、政府は民間部門の支出の変動を相殺するために、自らの財政能力を反循環的な政策手段として積極的に使用すべきということになる。たとえば、赤字ハト派は世界大不況期において、主要な西側諸国の低迷した経済を刺激するために赤字が必要だと主張した。彼らの見解によれば、均衡財政に向かうべき時は、回復が堅調に進行し、税収が増加し始めた後においてのみ訪れる。
赤字フクロウ派は、機能的財政の原理に基づいており、これらとはまったく異なる立場にある。 彼らにとっては、主権政府の財政的成果は、政策立案の有用な目標ではない。それは、 政策指針という意味では機能的ではない。そうではなく、政策は、完全雇用、物価の安定、貧困の緩和、所得不平等の減少、財政の安定、環境の持続可能性、全体的な生活水準などの、経済的に重要な課題の達成を目標とすべきなのである。(Macroeconomics, pp.333-4)
このタカ派、ハト派、フクロウ派というMMTの3分類は、財政に対する専門家たちの立場を区別するのに確かに有用である。赤字タカ派の歴史的な代表例は、政府財政赤字は単に民間投資のクラウド・アウトをもたらすにすぎないという、ケインズがかつて批判した大蔵省見解であろう。反ケインズ派の財政学者、ジェームズ・ブキャナンなどに代表されるように、こうした考え方は、ケインズ経済学が一般的に受け入れられて以降も根強く受け継がれていた。ちなみに、ケインズが大蔵省見解を批判したのは、民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用経済では必ずしも成立しないからである。
それに対して、赤字ハト派とは、財政均衡は景気循環の過程で達成されればそれで十分であり、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという立場である。それはまた、「縮小させる必要がある財政赤字とは、不況期に必然的に生じる循環的赤字ではなく、好況期においても残っている構造的赤字である」という、財政運営の基本的指針を導き出す。この意味での循環的な赤字財政主義を最初に提起したのは、ヴィクセルを引き継ぐストックホルム学派を代表するグンナー・ミュルダールであったとされている。この赤字ハト派のカテゴリには、おそらく過去から現在に至る新旧ケインジアンの大部分が含まれる。
MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と考えているのである。MMT派が常々強調しているように、彼らのこうした考え方は、アバ・ラーナーの機能的財政論に発している。確かに、ラーナーは『統制の経済学』(1944年)第24章で、「政府財政に均衡させられるべき何らかの理由があるとすれば、それは、財政赤字は悪いことだという人々が持つ偏見あるいはイデオロギーの存在のみである」と述べていた。
政府財政をめぐるリカーディアンと非リカーディアン
この赤字ハト派の循環的赤字財政主義が典型であるが、初期のケインジアンたちは、景気循環の全体を通じた財政収支均衡を漠然と想定してはいたが、政府の通時的予算制約を明示的に考慮はしていなかった。それは、IS-LM分析が示しているように、ケインズ『一般理論』で用いられていた手法が、経済をある特定の時点で切り取った静学的分析だったからである。そこでは、フローとしての政府赤字財政支出の役割は考察できても、ストックとしての政府債務の役割は考察できない。
旧ケインジアンが政府の通時的予算制約に配慮する必要に迫られるようになったのは、新しい古典派マクロ経済学の創始者の一人であったロバート・バローによる1974年の論文「政府国債は純資産なのか?」によってであろう。そのタイトルが示唆しているように、バロー論文は、「政府の赤字財政支出の結果としての国債は、民間の資産のように扱われているが、民間に対する将来の増税によって返済されるべきものである以上、必ずしも資産とは見なされない」ことを論じている。それは、「民間の資産は政府の債務によって生み出される」というMMTの視角とは、まさに対極にある。
このバローの推論は、「政府の債務は家計の債務と同様に、将来のある時点では必ず返済される」という前提に基づく。これは、政府の予算制約が通時的には必ず満たされることを意味する。この場合、政府支出を増税で賄うことと国債を発行して賄うことには、国民全体からすれば差はまったくない。というのは、経済学的には、ある金額の支払いを今行っても100年後に行っても、割引現在価値で引き戻せば同じだからである。
つまり、政府の通時的予算制約が満たされるという前提の下では、赤字財政の効果は増税と同じになる可能性がある。上述のブキャナンは、このバロー論文へのコメントの中で、同様な主張をリカードウが150年以上も前に展開していたことを指摘した。それ以降、この赤字財政政策の無効命題は「リカード=バローの等価定理」あるいは「リカード=バローの中立命題」と呼ばれるようになった。
このバローの議論は、赤字財政主義を信奉するケインジアンたちに大きな難題を突きつけた。というのは、もしこの議論が正しければ、民間資産と見なされている国債は同時に民間債務でもあるということになり、減税政策などによって政府が財政赤字を作ることそれ自体には何のマクロ的効果もないことになるからである。
ケインジアンにとっては幸いなことに、このバローの議論は、確かに一つの可能性ではあったが、必ずしも現実的ではなかった。まず、存命中に返済することが前提である個人の債務とは異なり、増税による債務の返済は「先延ばし」が可能である。それは、現世代の資産である国債の少なくとも一部は、現世代にとっては必ずしも返済する必要のない「純資産」であることを意味する。バローの議論の意義は、そのことも含めて、経済学者たちが政府の通時的予算制約の持つ政策的意味を考察する一大契機となった点にある。
このバローの指摘以降、経済学においては、財政政策のあり方に関して「リカーディアン」と「非リカーディアン」という区分が用いられるようになった。赤字国債を将来の増税で賄おうとする政府はリカーディアン政府、それをしない政府は非リカーディアン政府と呼ばれる。また、政府がリカーディアンであると考え、将来必ず増税が行われるので保有する国債を純資産の増加と見なすことはなく、消費計画も変更しない家計は、リカーディアン家計と呼ばれる。逆に、将来必ずしも増税が行われることはなく、国債を純資産の増加と見なして消費支出を増やす家計は、非リカーディアン家計と呼ばれる。
3/4ページ
無制限な政府債務拡大は何をもたらすのか
上述のように、MMTは、家計とは異なり政府には予算制約は本来的に存在しないと考える。MMTはまた、政府債務は民間にとっては純資産であると考える。つまりMMTにおいては、政府と民間は常に非リカーディアンである。それは、MMTが、「政府は債務拡大を通じて民間の純資産を無制限に拡大させることができる」と想定していることを意味する。
正統派は、そのような政府債務および民間純資産の無制限拡大が「そのままの形で」続くことは不可能と考える。とはいえ、それは必ずしも政府の通時的予算制約の不在を意味しない。正統派はむしろ、政府の予算制約が存在するからこそ、「政府が非リカーディアンな財政運営を続けていけば必ず何らかの物価調整が生じる」と考えるのである。
MMTによれば、政府は資源制約に直面しない限りその債務を拡大させ続けることができる。例えば、45度線モデルが永遠に続くような、生産の制約がもっぱら需要側にのみ存在する経済を考えよう。それは、ケインズが『わが孫たちの経済的可能性』(1930年)で描き出したような、社会が必要とする財貨が、近年でいえばITCやAIなどの技術革新によって、ごくわずかの労働資源の投入により供給可能になった経済である。それは、ケインズの楽観的展望とは異なり、大失業経済になる可能性もある。MMによれば、そのような経済状況下では、政府はその債務を極限まで拡大すべきであるし、そうしたとしても、資源制約に達していない以上、インフレも何も起こらない。
それに対して、正統派の推論では、仮に経済が不完全雇用であっても、政府が永遠に債務を拡大させ続けていけば、必ずある時点でインフレ圧力が生じる。というのは、政府と家計が非リカーディアンであり、政府債務の増加が民間の純資産の増加を意味するとすれば、それが物価に何の調整ももたらさずに永遠に拡大し続けることは不可能だからである。民間の純資産とは、実物的な財貨サービスに対する将来的に行使可能な請求権を意味する。その請求権が拡大していけば、財貨サービスに対する支出も当然拡大する。その支出拡大が財貨の供給拡大を上回れば、それはやがてインフレを発生させる大きな圧力になる。
そのことを最も簡潔に描写したのは、クリストファー・シムズの問題提起を浜田宏一・内閣参与が紹介したことで有名になった物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level: FTPL)である。それは、「現在の物価水準は将来の実質財政余剰を現在の名目債務残高と等しくさせるように決まる」という考え方である。それを式で表せば、「物価水準=名目債務残高/将来の実質財政余剰」となる。これは要するに、「物価水準は過去から将来にわたる政府の予算を均衡させるように決まる」ということである。
ここで「名目債務残高」は過去から現在の財政赤字の累積として既に決まっているから、「将来の実質財政余剰」が大きくなれば物価水準は下落し、それが小さくなれば物価水準は上昇する。ただし、この名目債務をすべて将来の財政余剰すなわち増税で返済しようとするリカーディアン政府下では、こうした財政主導の物価変動は生じない。つまりFTPLでは、政府も家計も常に非リカーディアンが仮定されているのである。
同じことは、ミルトン・フリードマンに始まりベン・バーナンキによって引き継がれたヘリコプター・マネー論についても言える。これは、財政拡張と金融緩和を同時に実行することで、あたかも紙幣をヘリコプターでばらまくかのように民間経済主体が保有する資産としての貨幣を増やそうとする政策である。上述のように、それによって人々が保有する資産が拡大すれば、財貨サービスに対する支出も拡大し、やがてインフレがもたらされる。この政策はFTPLと同様に、必ず非リカーディアンな政府と家計を前提とする。というのは、仮に人々が「政府はヘリコプターからばらまいた貨幣と同額を必ず増税によって回収するだろう」と考えれば、人々が支出を増やすはずもないからである。
根本的に異なる政府債務と予算制約に関するMMTと正統派の把握
新旧ケインジアンの多くが含まれる赤字ハト派と、ラーナーからMMTに至る赤字フクロウ派は、少なくとも不況下あるいは不完全雇用下では、政府による積極的な赤字財政という政策戦略を共有できる。しかし、対立はやはり完全雇用が達成されたあとに生じる。赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである。
MMTと正統派の間には、不況対策という面でも一つの大きな相違がある。上述のように、正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、「財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する」という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない。その意味で、MMTとヘリコプター・マネー論は、しばしば混同されるものの、基本的に似て非なる政策戦略なのである。
(以下、MMTの批判的検討(6完)に続く
4/4ページ
<MMTは「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と結論しているが、それがどのような推論から導き出されるのかを検討する......>
その主唱者たちによれば、MMTの目的は、主流派マクロ経済学という「歪んだメガネ」によって生み出された財政と金融に関する誤った観念を排し、それをMMTから得られる正しい把握に置き換えていき、それを通じてマクロ経済政策を正しい方向に導いていくことにある。MMT派の教科書Macroeconomicsの第8章では、そのMMTによって駆逐されるべき主流派の誤謬(Mainstream Fallacy)として、以下の9つの命題が掲げられている。
誤謬その1:政府は家計と同様な「予算」の制約に直面している。
誤謬その2:財政赤字(黒字)は悪(善)である。
誤謬その3:財政黒字は一国の貯蓄を増加させる。
誤謬その4:政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである。
誤謬その5:財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウト(締め出し)する。
誤謬その6:財政赤字は将来の増税を意味する。
誤謬その7:政府の浪費は財源の喪失を意味する。
誤謬その8:政府支出はインフレを生む。
誤謬その9:財政赤字は大きな政府につながる。
新旧ケインジアンを含む反緊縮正統派はおそらく、これらが「主流派の誤謬」だと言われれば、その誤謬を信じている主流派とはいったい誰のことなのか、よくメディアに出てきては赤字赤字と大騒ぎする緊縮保守派のことだろうか、などといぶかしく思うであろう。というのは、「政府の赤字は家計のそれとは違う」とか「政府の財政赤字は別に悪いことでない」というのは、まさしく反緊縮正統派がこれまで口を酸っぱくして言い続けてきたことだからである。実際、不況期の財政赤字は積極的に許容されるべきだという赤字財政主義は、ケインズ主義が誕生して以来の基本的な政策指針の一つであった。
しかしながら他方で、この中には確かに正統派とは明確に異なるものもある。それは例えば「財政赤字は、希少な民間貯蓄を奪い合うことになるため、利子率を引き上げ、民間投資をクラウド・アウトする」である。あるいは「政府財政は景気循環を通じて均衡されるべきである」、「財政黒字は一国の貯蓄を増加させる」、「政府支出はインフレを生む」などもそこに含まれるかもしれない。これらは正統派にとっては必ずしも誤謬ではない。
新旧ケインジアンを含む正統派も確かに、「赤字財政支出による民間投資のクラウド・アウトは不完全雇用下ではそれほど起きない」と考えている。しかし他方で、「経済がいったん完全雇用に達した時には、赤字財政支出はほぼ確実に民間投資のクラウド・アウト、金利上昇、さらにはインフレを引き起こす」とも考えている。したがって、正統派の多くは、「赤字財政が明確に許容されるのは基本的には不完全雇用時である」と考える。
それに対して、MMTは「赤字財政支出によるクラウド・アウトは原理的に起きない」と主張しているのである。それは、「赤字財政は完全雇用であってもなくてもインフレでない限り許容されるべきである」、そして「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」という、きわめてMMT的な結論を生み出す。以下では、そのMMTの結論がどのような推論から導き出されるのかを検討する。
0 Comments:
コメントを投稿
<< Home