TOP☆
☆ 2b様態
/\
/無限\
/ \
悲しみ________/_2a属性__\________喜び
\ 憎しみ / /\ \ 愛 /
\ 悪/___1実体\___\善 /
\ /\ 知_/\_至福 /\ /
\/ \/ \ / \/ \/
/\ /\/_\/_\ /\ / \
所産的自然 \/ 神\__徳__自然(能産的) \
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体___\/___精神_____\観念
\ 4理性 /
\ /
\努力/
\/
欲望
3感情
幾何学的秩序に従って論証された
エ チ カ
五部に分たれ、その内容は左記の通り
1神について
2精神の本性および起源について
3感情の起源および本性について
4人間の隷属あるいは感情の力について
5知性の能力あるいは人間の自由について
第 一 部
定義、一、二、三、四、五、六、七、八
公理、一、二、三、四、五、六、七
定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、付録、第一部TOP、第二部TOP、TOP☆
神について
定義
一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられ
えないもの、と解する。
二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。
例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。
同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり
思想が物体によって限定されたりすることはない。
三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればそ
の概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられる
もの、と解する。
六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限 38
に多くの属性から成っている実体、と解する。
説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、
単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することがで
きる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉
が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆ
るものが属するからである。
七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは
自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決
定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のもから必然的に出てくると考えられる限り、存
在そのもののことと解する。
説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてその
ゆえに持続や時間によっては説明されないからである、たとえその持続を始めも終わりもないも
のと考えようとも。
公理
一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。
二 他のものによって考えられないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。
三 与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が
与えられなければ結果の生ずることは不可能である。
四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。
五 たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわ
ち一方の概念は他方の概念を含まない。
六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
七 存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない。
定理一 実体は本性上その変状に先立つ。
証明 定義三および五から明白である。 1d3,1d5
定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。
証明 これもまた定義三から明白である。なぜなら、おのおのの実体はそれ自身のうちに存在
しなければならずかつそれ自身によって考えられなければならぬから、すなわち、一の実体の概
念は他の実体の概念を含まないから、である。
定理三 相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。
証明 もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた(公理五により)相互に他か
ら認識されることができない、したがって(公理四により)その一が他の原因たることができない。
Q・E・D・
定理四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変
状の相違によってたがいに区別される。
証明 存在するすべてのものはそれ自身のうちに在るか、他のもののうちに在るかである(公
理一により)。すなわち(定義三および五により)知性の外には、実体およぴその変状のほか何も
のも存在しない。ゆえに知性の外には、実体、あるいは同じことだが(定義四により)その属性、
およびその変状のほかは、多くの物を相互に区別しうる何ものも存在しない。Q・E・D・
定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在し
えない。
証明 もし異なった多数の実体が存在するとしたら、それらは属性の相違によってかそうでな
ければ相違変状によって区別されなければならぬであろう(前定理により)。もし単に属性の相
違によって区別されるなら、そのことからすでに、同一属性を有する実体は一つしか存在しない
ことが容認される。これに反して、もし変状の相違によって区別されるなら、実体は本性上その
変状に先立つのだから(定理二により)、変状を考えに入れず実体をそれ自体で考察すれば、言い
かえれば(定義三および公理六により)実体を正しく考察すれば、それは他と異なるものと考えら
れることはできない。すなわち(前定理により)同一属性を有する実体は多数存在しえず、ただ一
つのみ存在しうる。Q・E・D・
定理六
一の実体は他の実体から産出されることができない。
証明 自然のうちには同一属性を有する二つの実体は存在しえない(前定理により)、言いかえ
れば(定理二により)相互に共通点を有する二つの実体は存在しえない。したがって(定理三によ
り)一の実体は他の実体の原因であることができない。あるいは一の実体は他の実体から産出さ
れることができない。Q・E・D・
系 この帰結として、実体は他の物から産出されることができないことになる。なぜなら、公
理一および定義三と五から明白なように、自然のうちには、実体とその変状とのほか何ものも存
在しない。ところが実体は実体から産出されることができない(前定理により)。ゆえに実体は絶
対に他の物から産出されることができない。Q・E・D・
別の証明 このことはまた反対の場合が不条理であるということからいっそう容易に証明され
る。すなわち、もし実体が他の物から産出されうるとしたら、実体の認識はその原因の認識に依
存しなければならなくなり(公理四により)、したがって(定義三により)それは実体ではなくなる
からである。
定理七 実体の本性には存在することが属する。
証明 実体は他の物から産出されることができない(前定理の系により)。ゆえにそれは自己原因
である。すなわち(定義一により)その本質は必然的に存在を含む。あるいはその本性には存在す
ることが属する。Q・E・D・
定理八 すべての実体は必然的に無限である。
証明 同一属性を有する実体は一つしか存在せず(定理五により)、そしてその本性には存在す
ることが属する(定理七により)。ゆえに実体は本性上有限なものとして存在するか無限なものと
して存在するかである。しかし有限なものとして存在することはできない。なぜなら、有限なも
のとして存在すればそれは同じ本性を有する他の実体によって限定されなければならず(定義二
により)、そしてこの実体もまた必然的に存在しなければならぬのであり(定理七により)、した
がって同一本性を有する二つの実体が存在することになるが、これは不条理だからである(定理
五により)。ゆえに実体は無限なものとして存在する。Q・E・D・
備考一 有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり、無限であるという
ことはその絶対的肯定であるから、この点から見れば、単に定理七だけからして、すべての実体
は無限でなければならないことが出てくる。〈なぜなら、もし実体を有限であると仮定すれば、
我々は実体の本性の存在を部分的に否定することになるが、これは前述の定理により不条理だか
らである。〉
備考二 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないす
べての人々にとって、定理七の証明を理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは
実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからであ
る。この結果として彼らは、自然の事物に始めがあるのを見て実体にも始めがあると思うように
なっているのである。
いったいに、事物の真の原因を知らない者はすべてのものを混同し、またなんら知性の反撥を
受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し、また人間が石や種子からできて
いたり、任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである。同様にまた、
神の本性を人間本性と混同する者は、人間的感情を容易に神に賦与する。特に感情がいかにして
精神の中に生ずるかを知らない間はそうである。
これに反して、もし人々が実体の本性に注意するならば、定理七の真理について決して疑わな
いであろう。そればかりでなくこの定理はすべての人々にとって公理でありそして共通概念の中 (公理、共通概念)
に数えられるであろう。なぜなら、そうした人々は実体をそれ自身のうちに在りかつそれ自身に
よって考えられるもの、すなわちその認識が他の物の認識を要しないもの、と解するであろうか
ら。それから様態的変状を、他の物のうちに在るもの、そして自らが含まれている物の概念によ
ってその概念が形成されるもの、と解するであろう。だから我々は存在していない様態的変状に
ついても真の観念をもつことができる。たとえそうした様態的変状が知性の外には現実に存在し
なくともその本質は他の物の中に含まれていて、この物によって考えられることができるように
なっているからである。これに反して実体はそれ自身によって考えられるのであるから、その真
理は知性の外にはただ実体自身のうちにのみ存する。ゆえにもしある人が、自分は実体に関して
明瞭かつ判然たる観念すなわち真の観念を持っているがそれにもかかわらずそうした実体が存在
するかどうかを疑うと言うならば、これは実に、「自分は真の観念を持っているがそれにもかか
わらずそれが誤った観念ではあるまいかと疑う」と言うのと同然である(これは十分注意する者
にとっては明白であろう)。あるいはもしある人が、「実体は創造される」と主張するなら、これ
は同時に「誤った観念が真の観念になった」と主張するものである。実にこれ以上不条理なこと
は考えられない。したがって実体の存在はその本質と同様に永遠の真理であることを我々は必然
的に容認しなくてはならないのである。
またこのことから、同じ本性を有する実体は一つしかないことを他の仕方で結論することがで
きる。これをここに示すことは徒労ではないと思う。しかしこれを秩序だててするためには次の
ことを注意しなくてはならぬ。
一、おのおのの物の真の定義は定義された物の本性のほかは何ものも含まずまた表現しない。
このことから次のことが出てくる。
二、定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義
もある一定数の個体(*)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを
表現し、決してある一定数の三角形を表現しない。
(* 個体とは一つの類に属する個物のことと解される。)
三、存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。
四、最後に注意すべき点は、ある物が存在するその原因は、存在する物の本性ないし定義自身
のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)、そうでなけ
ればその物の外部に存していなければならぬということである。
以上の前提から、もし自然の中にある一定数の個体が存在するとしたら、なぜそれだけの個体
が、そしてなぜそれより多くもなく少なくもない個体が存在するかの原因が、必然的に存しなけ
ればならぬことになる。例えば、もし自然の中に二〇人の人間が存在するとしたら(いっそう分
かりやすくするため私はこれらの人間が同時に存在しかつこれまで自然の中に他の人間が存在し
なかったと仮定する)、なぜ二〇人の人間が存在するかの理由を挙げるためには一般に人間本性
の原因を示すだけでは十分でないのであって、その上さらに、なぜ二〇人より多くもなく少なく
もない人間が存在するかの原因を示すことが必要であろう。各人にはなぜ存在するかの原因が必
然的に存しなければならぬのであるから(注意三により)。ところがこの原因は(注意二および三
)、人間の真の定義が二〇人という数を含まないゆえに、人間本性そのもののうちに含ま
れていることはできない。したがって(注意四により)なぜこれら二〇人の人間が存在するか、し
たがってまたなぜ彼らの一人ひとりが存在するかの原因は、必然的に各個人の外部に存しなけれ
ばならぬ。この理由からして我々は一般的にこう結論しなければならぬ、すべて本性を同じくす
る多数の個体が存在しうるような物は、その存在のために、必然的に外部の原因を持たなければ
ならぬのであると。
さて実体の本性には(すでにこの備考で示したところにより)存在することが属するのであるか
ら、その定義は必然的な存在を含まなければならず、したがって単にその定義だけからそれ自身
の存在が結論されなければならぬ。ところがその定義からは(すでに注意二および三で示したよ
うに)多数の実体の存在が導き出されえない。ゆえにそのことから、同一本性を有する実体はた
だ一つしか存在しないことが必然的に出てくる。そしてこれが我々の証明しようとしたことであ
った。
定理九 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物
に帰せられる。
証明 定義四から明白である。
定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。
証明 なぜなら、属性とは知性が実体についてその本質を構成していると知覚するものである
(定義四により)。したがってそれは(定義三により)それ自身によって考えられなければならぬ。
Q・E・D・
備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえ
れば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは
二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身
によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は
常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有
を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それど
ころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多
くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多
くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってま
た、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から
成っている実有(我々が定義六で述べたように)と定義しなければならぬことほど明瞭なこともな
いのである。
だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うな
らば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体
しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を
求めることは無用であることが判明するであろう。
定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成って
いる実体、は必然的に存在する。
証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七
により)その本質は存在を含まない。ところがこれは(定理七により)不条理である。ゆえに神は
必然的に存在する。Q・E・D・
別の証明 すべて物についてはなぜそれが存在するか、あるいはなぜそれが存在しないかの原
因ないし理由が指示されなくてはならぬ。例えば、三角形が存在するなら、なぜそれが存在する
かの理由ないし原因がなければならぬし、存在しないなら同様にそれの存在することを妨げたり
その存在を排除したりする理由ないし原因がなければならぬ。だがこの理由ないし原因は物の本
性のうちに含まれているかそれとも物の外部にあるかそのどちらかでなければならぬ。例えば、
なぜ四角の円が存在しないかの理由は四角の円なるものの本性自身がこれを物語る。つまりそう
したものの本性が矛盾を含むからである。これに反して、なぜ実体が存在するかということは、
やはり実体の本性のみから出てくる。すなわちその本性が存在を含むからである(定理七を見よ)。
しかしなぜ円あるいは三角形が存在するかまたはなぜ存在しないかの理由は、円や三角形の本性
からは出てこず、一般に物体的自然の秩序から出てくる。すなわち三角形が現に必然的に存在す
るか、それとも現に存在することが不可能であるかは、そうした秩序から出てこなければならぬ
のである。以上のことはそれ自体で明白である。この帰結として、存在することを妨げる何の理
由も原因もない物は必然的に存在することになる。だからもし神の存在することを妨げたり神の
存在を排除したりする何の理由も原因も有りえないとすれば、我々は神が必然的に存在すること
を絶対的に結論しなければならぬ。だがもしそうした理由ないし原因があるとすれば、それは神
の本性それ自身のうちに在るか、それともその外部にすなわち異なった本性を有する他の実体の
うちに在るかでなければならない。なぜなら、もしそれが同じ本性を有する実体であるとしたら、
すでにそのことによって、神の存在することが容認されるからである。ところが(神の本性とは
異なる)他の本性を有する実体は神とは何の共通点も有せず(定理二により)、したがってそれは
神の存在を定立することも排除することもできない。このようなわけで、神の存在を排除する理
由ないし原因が神の本性の外部には在りえないのだから、それは必然的に 〜 もし神が存在しな
いとするなら 〜 神の本性それ自身のうちになければならぬ。そうなればその本性は(我々の第
二の例により)矛盾を含むことになるであろう。しかし、そうしたことを絶対に無限で最高完全
である実有について主張することは不条理である。ゆえに神のうちにも神の外にも神の存在を排
除する何の原因ないし理由もない。したがって神は必然的に存在する。Q・E・D・
別の証明 存在しえないことは無能力であり、これに反して存在しうることは能力である(そ
れ自体で明らかなように)。だからもし今必然的に存在しているものが有限な実有だけであると
すれば、有限な実有は絶対的に無限な実有よりも有能であることになろう。しかしこれは(それ
自体で明らかなように)不条理である。ゆえに何物も存在しないか、それとも絶対に無限な実有
もまた必然的に存在するか、そのどちらかである。ところが我々は、我々のうちにかそうでなけ
れば必然的に存在する他の物のうちに存在している(公理一および定理七を見よ)。ゆえに絶対的
に無限な実有、言いかえれば(定義六により)神は必然的に存在する。Q・E・D・
備考 この最後の証明において私は神の存在をアポステリオリに示そうとした。これは証明が
容易に理解されるようにであって、同じ根底から神の存在がアプリオリに帰結しえない
ためではない。なぜなら、存在しうることが能力である以上は、ある物の本性により多くの実在
性が帰するに従ってその物はそれだけ多くの存在する力を自分自身に有することになり、したが
って絶対に無限な実有すなわち神は存在する絶対に無限な能力を自分自身に有することになり、
こうして神は絶対的に存在することになるからである。
しかし多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解しえないであろう。それというの
も彼らは外的諸原因から生ずる物のみを観想することに慣れているからである。そしてそれらの
物のうち早く生ずる物すなわち容易に存在する物はまた容易に滅びるのを見、これに反してより
多くの属性を有すると考えられる物はより生じ難い、すなわち存在するのがそう容易でないと判
断しているのである。しかし彼らをこうした偏見から解放するためには「早く生ずるものは早く
滅ぶ」という格言がどんな意味で真理であるか、また全自然を顧慮すれば、一切は等しく容易で
あるかそれともそうではないかということをここに示す必要はない。ただここでは外的諸原因か
ら生ずる物について語っているのではなく、どんな外的原因からも産出されえない実体(定理六
により)についてのみ語っているのであることを注意するだけで十分である。なぜなら、外的諸
原因から生ずる物は、多くの部分から成っていようと少ない部分から成っていようと、それが完
全性あるいは実在性に関して有する一切を外的原因のカに負っており、したがってその存在は外
的原因の完全性からのみ生じ、それ自身の完全性からは生じない。これに反して実体は、完全性
に関して有するすべてのものを外的原因にはまったく負っていない。ゆえにその存在もまたその
本性のみから帰結されなければならぬ。したがってその存在はその本質にほかならない。このよ
うにして、完全性は物の存在を排除しないばかりでなく、かえってこれを定立し、これに反して
不完全性は物の存在を排除する。したがって我々は、どのような物の存在についても、絶対的に
無限なあるいは完全な実有、すなわち神の存在についてほど確実ではありえない。なぜなら神の
本質は、一切の不完全性を除外し、絶対的完全性を含むがゆえに、まさにそのことによってその
存在を疑う一切の原因を排除し、その存在について最高の確実性を与えるからである。これは多
少でも注意する人にとってはきわめて明白であろうと私は信ずる。
定理一二 ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかな
る属性についてもあてはまらない。
証明 なぜなら、そのように考えられた実体の分割された部分は、実体の本性を保持するか保
持しないかであろう。第一の場合(すなわちそれが実体の本性を保持する場合)は、おのおのの部
分は無限であり(定理八により)、また(定理六により)自己原因でなければならぬ。そして(定理
五により)異なった属性から成らなければならぬ。したがって一の実体から多数の実体が構成さ
れうることになる。これは(定理六により)不条理である。これに加えて部分は(定理二により)そ
の全体と何の共通点ももたぬことになり、また全体は(定義四および定理一〇により)その部分な
しに在りかつ考えられうることになる。これが不条理なことは何びとも疑いがないであろう。こ
れに反して第二の場合すなわち部分が実体の本性を保持しない場合は、実体全体は同じような部
分に分割されて実体の本性を喪失し、存在することをやめるであろう。これも(定理七により)不
条理である。
定理一三 絶対に無限な実体は分割されない。
証明 なぜなら、もし分割されるとすれば、分割された部分に絶対に無限な実体の本性を保持
するか保持しないかであろう。第一の場合なら、同じ本性を有する多数の実体が存在することに
なるであろう。これは(定理五)不条理である。第二の場合には、絶対に無限な実体は(上
に述べたように)存在することをやめうることになり、これもまた(定理一一により)不条理である。
系 これらの帰結として、いかなる実体も、したがってまたいかなる物体的実体も、それが実
体である限り、分割されないことになる。
備考 実体が分割されないことは、次のことからだけでももっと単純に理解される、 〜 実体
の本性は無限としか考えられえない、ところが実体の部分とは有限なる実体のこととしか解する
ことができない、これは(定理八により)明白な矛盾を含んでいる。
定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。
証明 神は実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対に無限な実有であり(定義六
により)、そして必然的に存在する(定理一一により)。ゆえにもし神のほかに何らかの実体が存
するとすれば、その実体は神のある属性によって説明されなければならぬであろう。そうなれば、
同じ属性を有する二つの実体が存在することになり、これは(定理五により)不条理である。した
がって神のほかにはいかなる実体も存しえない。したがってまたいかなる実体も考えられえない。
なぜなら、もし考えられうるとすれば、必然的にそれは存在するものとして考えられなくてはな
らぬが、これは(この証明の始めの部分により)不条理である。ゆえに神のほかにはいかなる実体
も存しえずまた考えられえない。Q・E・D・
系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば
(定義六により)自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであること
になる。これは我々がすでに定理一〇の備考で暗示したことである。
系二 第二に、延長した物および息惟する物は神の属性であるか、そうでなければ(公理一に
より)神の属性の変状であるということになる。
定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられ
えない。
証明 神のほかにはいかなる実体も存せずまた考えられえない(定理一四により)。言いかえれ
ば(定義三により)神のほかにはそれ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられる物は何も
ない。一方、様態は(定義五により)実体なしには在りえずまた考えられえない。つまり様態は神
の本性のうちにのみ在りうるし、かつこれによってのみ考えられうる。ところが実体と様態のほ
かには何物も存しない(公理一により)。ゆえに何物も神なしには在りえずまた考えられえない。
Q・E・D・
備考 神が人間のように物体〔身体〕と精神とから成り・感情に支配される、と想像する人々が
ある。しかし彼らが神の真の認識からどんなに遠ざかっているかはすでに証明されたことどもか
ら十分明白である。私はこうした人々のことを問題にせずにおこう。神の本性についていやしく
も考察したほどの人なら誰でもみな神が物体的であることを否定するからである。このことを彼
らは、次のことから、 〜 物体とは長さ・幅・深さを有しある一定の形状に限定された量をいう
のであるが、神すなわち絶対に無限な実体についてそうしたことを言うほど不条理なことはあり
えないということから、最もよく証明している。
しかし一方彼らは、このことを証明するのに用いた他の諸理由によって、彼らが物体的実体そ
のものあるいは延長的実体そのものをも神の本性からまったく遠ざけていることを明らかにし、
そして物体的実体は神から創造されたものであると主張する。しかしそれがどんな神の能力によ
って創造されえたのかを彼らは全然知っていない。これは彼らが自分自らの言うところを理解し
ていない明白な証拠である。私はいかなる実体も他のものから産出ないし創造されえないことを、
少なくも自分の判断では、十分明瞭に証明した(定理六の系および定理八の備考二を見よ)。我々
はまた定理一四で、神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえないことを示し、この
ことから〈(この部の同定理の系二の中で)〉延長的実体が神の無限に多くの属性の一であることを
結論した。
しかしこれをもっと詳しく説明するため、私はここに反対者たちの論拠を反駁するであろう。
彼らの論拠はすべて次の点に帰着する。
第一に彼らは、物体的実体が実体として部分から成っていると思っている。そのゆえに彼らは
それが無限でありうることを、したがってまた神に属しうることを否定する。彼らはこれを多数
の例で説明する。その一、二を私は引用してみよう。彼らはこう言う。 〜 もし物体的実体が無
限であるなら、それが二つの部分に分割されると考えてみよ、そうすればその各部分は有限であ
るか無限であるかであろう、もし前の場合なら無限のものが二つの有限なる部分から成ることに
なるが、これは不条理である。もし後の場合(すなわち各部分が無限である)ならある無限のもの
より二倍の大きさの無限のものが存することになるがこれも不条理である。次に、もし無限の量
をフィート単位で測るならそれは無限に多くのフィートから成るに相違ない。またインチ単位で
測るなら同様に〔それは無限に多くのインチから成るに違いない〕、したがって一の無限なる数よ
り三倍大きいことになり(これも前のことに劣らず不条理である)、最後に、
もしある無限の量の中の一点から発するAB、ACのような二線が初めはある B
一定の距離をもって遠ざかりつつ無限に延長されると考えるならばBとCの間 /
の距離はたえず増大して、ついには限定された距離から限定されえぬものにな A/
るであろう。〜〜こうしたもろもろの不条理は、彼らの考えによれば、無限の \
量を仮定することから生ずるのであるから、彼らはこのことから、物体的実体 \C
は有限でなければならぬこと、したがってまたそれは神の本質には属さないこ
とを結論するのである。
B
/
A/
\
\C
第二の論拠を、彼らは同様に、神の最高完全性からとっている。彼らは言う。神は最高完全な
実有であるから働き受けることができぬ、ところが物体的実体は分割可能であるから働きを受
けることができる、ゆえに物体的実体は神の本質に属さないと。
このようなものが著作家たちの間に見られる論拠である。彼らはこれによって、物体的実体は
神の本性に価せずまた神の本性に属さないこと示そうと試みている。しかし正当に注意する者
は、私がこれにたいしてすでに答弁していること見いだすであろう。なぜなら、これらの論拠
は物体的実体が部分から成るという仮定の上にのみ立っているのであるが、そうした仮定が不条
理なことは私のすでに(定理三および定理一三の系)示したところであるから。さらにまた事態
を正常に熟考しようとする者は、次のことを、 〜 すなわち、延長的実体が有限であるという彼
らの結論の基礎となっているこれらすべての不条理(それについて今私は論争しないがもしそれ
がみな不条理なものとして)は決して無限なる量を仮定することから生ずるのではなく、むしろ
無限なる量が測定可能でありかつ有限な部分から成ると仮定することから生ずるということを、
認めるであろう。ゆえにこの仮定から生ずるもろもろの不条理から彼らの結論しうることば、
〜 無限なる量は測定可能ではなくかつ有限な部分から成りえない 〜 ということだけである。
そしてこれは我々が上に(定理三その他)すでに証明したことと同じである。だから、彼らが我
我を狙った投槍は、実は彼ら自身に向かって投げられているのである。
ゆえにもし彼らがそれにもかかわらず、彼らのこの不条理な仮定から、延長的実体は有限でな
ければならぬと結論しようと欲するなら、それはある人が、円は四角形の諸特質を有すると想像
して、それから、円は円周に向かって引かれたすべての直線の等しいような中点を有しない、と
結論するのとまったく異なるところがない。なぜなら、無限で唯一で不可分であるとしか考える
ことのできない物体的実体(定理八、五および一二を見よ)について、彼らは、それが有限である
ことを結論するために、それは有限な部分から成り、多様であり、可分的であると考えているの
だからである。同様にまた他の人々は、線が点から成ると想像した上で、線が無限に分割されえ
ないことを示す多くの論拠を発見することを心得ている。そして実に、物体的実体が物体あるい
は部分から成るという仮定は、物体が面から成り面が線から成り最後に線は点から成るという仮
定に劣らず不条理なのである。
このことは明噺な推理が誤りないものであることを知るすべての人々、ことに空虚の存在を否
定する人々が容認しなければならぬことである。なぜなら、もし物体的実体はその諸部分が実在
的に区別されうるようなふうに分割されうるものとしたら、その一部分が消滅して他の部分は依
然として前のように相互に結合しているということも不可能ではなくなるであろう。また空虚が
できないようなふうにすべての部分が接合しなければならぬという理由もなくなるであろう。ま
ったくのところ、相互に実在的に区別される物にあっては、一が他なしに在りうるしまたその状
態にとどまりうるのである。しかし自然の中には空虚なるものが存せず(これについては他の個
所で述べる)、すべての部分は空虚ができないようなふうにたがいに協力し合わなければならぬ
のであるから、このことからしてもまた、部分は実在的には区別されえぬこと、すなわち物体的
実体はそれが実体である限り分割されえぬことが帰結されるのである。
しかし今もし誰かが、なぜ我々は生まれつき量を分割する傾向を有するのかと尋ねるなら、私
はその人にこう答える。我々は量を二様の仕方で考える。一は抽象的にあるいは皮相的にであり、
これは量を(普通に)表象する場合である。他は量を実体として考える場合であり、これは単に知
性のみによって(表象の助けを借りずに)行なわれる。ゆえにもし我々が表象においてあるままの
量に心を留める(これはしばしばそしてより容易に我々のするところだが)なら、量は有限で可分
的で部分から成るものとして現われるであろう。これに反してもし知性においてあるままの量に
心を留め、そしてこれを実体である限りにおいて考える(これはきわめて困難なことだが)なら、
それは、我々がすでに十分示したように、無限で唯一で不可分なものとして現われるであろう。
このことは表象と知性とを区別することを知っているすべての人に十分明白であろう。ことに物
質はいたるところで同一であってその部分は物質がいろいろなふうに変状すると考えられる限り
においてのみ区別されるのであり、したがってその部分は様態的にのみ区別されて実在的には区
別されないということにも注意するならば、いっそう明らかであろう。例えば水は水である限り
において分割されまたその部分は相互に分離されると我々は考える。しかしそれが物体的実体た
る限りにおいてはそうでない。その限りにおいては水は分離されも分割されもしない。さらに水
は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。
これをもって私は第二の論拠にも答弁したと信ずる。なぜなら、それもまた、物質は実体とし
て可分的でありかつ部分から成っているということに基づいているからである。そして仮にこの
答弁でまだ十分でないとしても、なぜ物質が神の本性に価しないかは私の解しえないところであ
る。なぜなら(定理一四により)神のほかには神の本性が働きを受けるいかなる実体も有りえない
からである。あえて言うが、すべてのものは神のうちに在る。そして生起する一切のことは神の
無限なる本性の諸法則によってのみ生起しかつ神の本質の必然性から生ずる(私がまもなく示す
ように)。ゆえに神が他のものから働きを受けるとか延長的実体が神の本性に価しないとかいう
ことは、いかなる理由をもってしても言うことができない、〜〜たとえ延長的実体を可分的であ
ると仮定してもただそれが永遠かつ無限であることを容認しさえするならば。しかし今のところ
このことについてはこれで十分である。
定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限
の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。
証明 この定理は次のことに注意しさえすれば誰にも明白でなければならぬ。それはおよそ物
の定義が与えられると、そこから知性は多数の特質を〜〜実際にその定義(言いかえれば物の本
質そのもの)から必然的に生ずるもろもろの特質を〜〜結論すること、そして物の定義がより多
くの実在性を表現するにつれて、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むに
つれて、それだけ多くの特質を結論すること、これである。ところで神の本性は、おのおのが自
己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を有するから(定義六により)、このゆえ
に、神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性に
よって把握されうるすべてのものが)必然的に生じなければならぬ。Q・E・D・
系一 この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であるこ
とになる。
系二 第二に、神はそれ自身による原因であって偶然による原因ではないことになる。
系三 第三に、神は絶対に第一の原因であることになる。
定理一七 神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことが
ない。
証明 単に神の本性の必然性のみから、あるいは(同じことだが)単に神の本性の諸法則のみか
ら、無限に多くのものが絶対的に生ずることを私は今しがた定理一六で示した。また定理一五で
は、いかなるものも神なしには在りえずまた考えられえず、一切は神のうちに在ることを証明し
た。ゆえに神の外には神を働くように決定しあるいは強制するいかなるものも存しえない。した
がって神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。
Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、神の本性の完全性以外には神を外部あるいは内部から駆って働
かせるいかなる原因も存在しない、(むしろ神は自己の完全性の力のみによって起成原因であ
る、)ということになる。
系二 第二に、ひとり神のみが自由原因であることになる。なぜなら、ひとり神のみが、単に
自己の本性の必然性のみによって存在し(定理一一および定理一四の系一により)、かつ単に自己
の本性の必然性のみによって働く(前定理による)。したがって(定義七により)ひとり神のみが自
由原因である。Q・E・D・
備考 他の人々はこう思っている 〜 神は、神の本性から生ずると我々の言ったことがら、言
いかえれば神の力の中に在ることがら、そうしたことがらを生じないようにしたり、あるいはそ
れを神自身産出しないようにしたりすることができる(彼らはそう信ずる)がゆえに自由原因なの
である 〜 と。しかしこれは、 〜 神は、三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しい
ことが起こらないようにしたり、あるいは与えられた原因から何の結果も生じないようにしたり
することができる 〜 と言うのと同然であって、不条理である。
なお私は以下において、この定理の助けを借りずに、神の本性には知性も意志も属さないこと
を示すであろう。
たしかに私は、神の本性に最高の知性と自由な意志とが属することを証明しうると信じている
多くの人々がいることを知っている。なぜなら彼らは、我々のうちにおいて最高完全性を意味す
るもの以外には、神に帰しうるより完全な何ものをも知らないと言っているからである。しかし、
神を現実に最高の認識者と考えながらも、彼らは、神が現実に認識することをすべて存在するよ
ぅにさせることができるとは信じない。なぜならもしそうなれば、彼らは、神の能力を破壊する
と思うからである。彼らは言う、神がその知性のうちに存することをすべて創造したとすれば、
もうそれ以上何ものをも創造することができないであろうと。そしてこれは彼らの信念によれば
神の全能と矛盾するのである。ゆえに彼らは、神が一切のことにたいして無関心であってただあ
る絶対的な意志によって創造しようと決意したもの以外には何ものも創造しないという意見に傾
いたのである。
これに反して私は、神の最高能力あるいは神の無限の本性から無限に多くのものが無限に多く
の仕方で、すなわちあらゆるものが、必然的に流出したこと、あるいは常に同一の必然性をもっ
て生起すること、そしてこれは三角形の本性からその三つの角の和が二直角に等しいことが永遠
から永遠にわたって生起するのと同じ次第であること、そうしたことを十分明瞭に示したと信ず
る(定理一八を見よ)。ゆえに神の全能は現実に、永遠から存しかつ、永遠にわたって同一現実性にと
どまるであろう。そしてこの仕方で神の全能は、少なくとも私の判断によれば、はるかに完全に
確立される。そればかりでなく反対者たちは神の全能を否定するように見える(あからさまに言
ってよいならば)。というのは彼らは、神が無限に多くの創造可能なものを認識しながら、しか
もそれを決して創造しえないことを認めないわけにはいかないからである。なぜなら、もしそう
ではなくて、神がその認識するものをすべて創造したとしたら、神は、彼らの見解によれば、自
己の全能を使い果して不完全なものになるからである。ゆえに彼らは、神を完全な者として立て
るためには、同時に、神は自己の能力の及びうることをことごとくはなしえないと主張しなけれ
ばならぬ結果になるのであるが、およそいかなる仮定にしても、これ以上不条理なあるいはこれ
以上神の全能に矛盾するものを私は知らないのである。
さらに我々が一般に神に帰している知性および意志についてここでなお少しく語りたい。もし
この知性および意志が神の永遠なる本質に属するとしたら、この両属性はたしかに、人々が通常
解しているのとは異なって解されるべきである。すなわち神の本質を構成するような知性および
意志なら、我々の知性および意志とは天地の相違がなければならぬのであって、それはただ名前
において一致しうるのみで他のいかなる点においても一致しえないことは、あたかも星座の犬と
吠える動物の犬との相互の間におけるごとくであろう。このことを私は次のように証明するであ
ろう。もし知性が神の本性に属するとしたら、その知性は本性上、我々の知性のごとく、その対
象があってあとからこれを認識したり(大抵の人々が主張するように)、あるいはその対象と同時
にあったりすることができないであろう。神は原因として万物に先立つからである(定理一六の
系一による)。むしろ反対に、真理ならびに物の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)は、それが神の知性の中に想念
的(オブエクティヴエ)に〔すなわち観念として〕その通りに存在するがゆえにこそそのようにあるのである。だから
神の知性は、神の本質を構成すると考えられる限り、実際に物の原因 〜 物の本質ならびに存在
の原因 〜 なのである。このことは神の知性・意志および能力が同一であると主張した人々も認
めていたように思われる。このようにして神の知性は物の唯一の原因、すなわち(今言ったよう
に)物の本質ならびに存在の唯一の原因であるから、それ自身は、本質に関しても存在に関しても、
物とは必然的に異ならなければならぬ。なぜなら、ある原因から生ぜられたものは、まさに原因
から受けたものにおいてその原因と異なるのであり、(このゆえにこそそれはそうした原因の結
果と呼ばれるのである)から。例えば人間は他の人間の存在の原因ではあるがその本質の原因で
はない。この本質は永遠の真理だからである。そしてこのゆえに、人間は本質に関してはまった
く一致しうるが、存在においては異ならなければならぬ。したがって一人の人間の存在が滅びた 64
とてそのゆえに他の人間の存在が滅びるということはないであろう。しかしもし一人の人間の本
質が破壊されて虚偽のものになるということがありうるとしたら、他の人間の本質もまた破壊さ
れるであろう。このようなわけで、ある結果の本質ならびに存在の原因である物は、そうした結
果とは本質に関しても存在に関しても異ならなければならぬ。ところが今、神の知性は我々の知
性の本質ならびに存在の原因なのである。ゆえに神の知性は、神の本質を構成すると考えられる
限り、我々の知性とは本質に関しても存在に関しても異なり、我々が主張したごとく、それは人
間の知性とは名前において一致しうるだけで他のいかなる点においてもー致しないのである。
意志に関しても同じゃあいに議論を進めていけることは誰にも容易に分かるであろう。
定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。
証明 在るものはすべて神のうちに在りかつ神によって考えられなければならぬ(定理一五
より)。したがって(この部の定理一六の系一により)神はその中に在るものの原因である。これ
が第一の点である。次に神のほかにはいかなる実体も存在しえない(定理一四により)。言いかえ
れば(定義三により)神の外にあって自立するようないかなるものも存在しえない。これが第二の
点であった。ゆえに神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。Q・E・D・
定理一九 神あるいは神のすべての属性は永遠である。
証明 なぜなら、神は実体であり(定義六により)、そしてそれは(定理一一により)必然的に存
在する。言いかえれば(定理七により)その本性には存在することが属する。あるいは(同じこと
だが)その定義から存在することそのことが生起する。ゆえに神は(定義八により)永遠である。
次に、神の属性とは神的実体の本質を表現するもの(定義四により)、言いかえれば実体に属する
もの、と解されるべきである。したがって実体に属するすべてのものは属性の中に含まれていな
ければならぬ。ところが実体の本性には(すでに定理七で証明したように)永遠性が属する。ゆえ
におのおのの属性は永遠性を含んでいなければならぬ。したがってすべての属性は永遠である。
Q・E・D・
備考 この定理は私が神の存在を証明した仕方(定理一一)からもきわめて明瞭に分かる。つま
りその証明から、神の存在はその本質と同様に永遠の真理であることが確立されるのである。さ
らに私は神の永遠性を他の仕方でも証明した(『デカルトの哲学原理』定理一九)。しかしこれを
ここでくりかえすことは必要ないであろう。
定理二〇 神の存在とその本質とは同一である。
証明 神ならびに神のすべての属性は永遠である(前定理により)。言いかえれば(定義八によ
り)おのおのの属性は存在を表現する。ゆえに神の永遠なる本質を表わすその属性(定義四によ
り)が同時に神の永遠なる存在を表わしている。言いかえれば神の本質を構成するもの自体が同
時に神の存在を構成している。したがって神の存在とその本質とは同一である。Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、神の存在はその本質と同様に永遠の真理であることになる。
系二 第二に、神あるいは神のすべての属性は不変であることになる。なぜなら、もしそれが
存在に関して変化するなら、本質に関しても変化しなければならないであろう(前定理により)。
言いかえれば(それ自体で明らかなように)異なるものが偽なるものになることになるであろう。
これは不条理である。
定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなけれ
ばならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。
証明 この定理を否定しようとする者は、もしできるなら、神のある属性の絶対的本性からし
て、その属性の中に有限でかつ定まった存在ないし持続を有するあるものが生ずる、 〜 例えば
思惟の中に神の観念が生ずる、ど考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、
その本性上必然的に無限である(定理一一により)。しかし思惟は神の観念を有する限り有限であ
ると仮定されている。ところが(定義二により)思惟が有限と考えられるのはそれが思惟自身によ
って限定される場合のみである。だが思惟は神の観念を構成する限りにおいての思惟そのものに
ょっては限定されない、なぜならその限りにおいて思惟は有限であると仮定されているのだから。
ゆえにそれは神の観念を構成しない限りにおいての思惟によって限定されるのである、そしてそ
うした思惟もまた必然的に存在しなければならぬ(定理一一により)。これで見れば神の観念を構
成しない思惟が存在することになる。したがって神の観念は絶対的なものである限りにおいての
思惟の本性から必然的に生ずるのではないということになる(なぜなら神の観念を構成する思惟
と構成しない思惟とが考えられるのであるから)。このことは仮定に反する。ゆえにもし神の観
念が思惟の中に、またはあるものが神のある属性の中に(この証明は普遍的なものであるから何
をとろうとも同様である)その属性の絶対的本性の必然性から生ずるとしたら、それは必然的に
無限でなければならぬ。これが第一の点であった。
次に、ある属性の本性の必然性からこのようにして生起するものは定まった存在ないし持続を
有することができない。なぜというに、これを否定しようと思う者は、ある属性の本性の必然性
から生ずる物が神のある属性の中に在る、例えば神の観念が思惟の中に在ると仮定し、なおまた
この観念がかつて存在しなかったあるいは将来存在しなくなるであろうと仮定せよ。ところで思
惟は神の属性と仮定されているがゆえに必然的にかつ不変的に存在しなければならぬ(定理一一
および定理二〇の系二により)。ゆえに神の観念の持続する限界の外では(というのは神の観念は
かつて存在しなかった、あるいは将来存在しなくなるであろうと仮定されているのだから)思惟
は神の観念なしに存在しなければならないであろう。ところがこのことは仮定に反する。なぜな
ら、思惟が与えられればそれから必然的に神の観念が生ずると仮定されているのだから。このゆ
えに、思惟の中における神の観念、または、神のある属性の絶対的本性から必然的に生起するあ
る物は、定まった持続を有することができ、むしろその属性によって永遠である。これが(証明
すべき)第二の点であった。
神の絶対的本性から神のある属性の中に必然的に生起するすべてのものについても同じことが 67
あてはまることに注意されたい。
定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうし
た一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にか
つ無限に存在しなければならぬ。
証明 この定理の証明は前定理の証明と同様の仕方で進められる。
定理二三 必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本
性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属
性から生起するかでなければならぬ。
証明 なぜなら、様態は他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられなければならぬ
(定義五により)。言いかえれば(定理一五により)神のうちにのみ在りかつ神によってのみ考えら
れうる。ゆえにもし様態が必然的に存在しかつ無限であると考えられるなら、この二つのことは、
必然的に、無限性と存在の必然性 〜 すなわち(定義八により同じことだが)永遠性 〜 とを表現
すると考えられる限りにおいての、言いかえれば(定義六および定理一九により)絶対的に考察さ
れる限りにおいての、神のある属性によって結論ないし知覚されなければならぬ。ゆえに必然的
にかつ無限に存在する様態は、神のある属性の絶対的本性から生起しなければならぬ。そしてこ
のことは直接的に起こるか(これについては定理二一、それともその絶対的本性から生起するよ
うな、言いかえれば、(前定理により)必然的にかつ無限に存在するような、ある種の様態的変状
を媒介として起こるかでなければならぬ。Q・E・D・
定理二四 神から産出された物の本質は存在を含まない。
証明 定義一から明白である。なぜならその本性(それ自体で考察された)が存在を含むような
物は自己原因であって、単に自己の本性の必然性のみによって存在するからである。
系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固
執する原因でもあること、あるいは(スコラ学派の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」
でもあること、になる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に
注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、
その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯
一者たる神(定理一四の系一により)のみがこれをなしうるのである。
定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。
証明 これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになる。したがって(公理四によ
り)物の本質は神なしに考えられうることになる。しかしこれは(定理一五により)不条理である。
ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。Q・E・D・
備考 この定理は定理一六からいっそう明瞭に帰結される。というのは、神の本性が与えられ
ると、それから物の本質ならびに存在が必然的に結論されなければならぬということが定理一六
から帰結されるからである。一言で言えば、神が自己原因と言われるその意味において、神はま
たすペてのものの原因であると言われなければならぬ。このことはなお次の系からいっそう明白
になるであろう。
系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。
この証明は定理一五および定義五から明らかである。
定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そ
して神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。
証明 物がある作用をするように決定されていると言われるのは必然的に積極的なあるものの
ためである(それ自体で明らかなように)。したがって神は自己の本性の必然性からそうしたもの
の本質ならびに存在の起成原因である(定理二五および一六により)。これが第一の点であった。
これからまたこの定理の第二の部分がきわめて明瞭に帰結される。なぜなら、神から決定されな
い物が自己自身を決定しうるとしたら、この定理の第一の部分が誤りとなるであろう。しかしそ
れが不条理であることは我々の示した通りである。
定理二七 神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにするこ
とができない。
証明 この定理は公理三から明白である。
定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限
で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも
作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在
を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定され
ることもできない。このようにして無限に進む。
証明 存在または作用に決定されているすべてのものは神からそのように決定されたのである
(定理二六および定理二四の系により)。ところが有限で定まった存在を有する物は神のある属性
の絶対的本性から産出されることができない。神のある属性の絶対的本性から生起するすべての
ものは無限かつ永遠だからである(定理二一により)。ゆえにそれは神のある属性がある様態に変
状したと見られる限りにおいて神ないし神の属性から生起しなければならぬ。なぜなら実体と様
態のほかには何ものも存在せず(公理一ならびに定義三と五により)、そして様態は(定理二五の
系により)神の属性の変状にほかならないからである。しかしそれはまた神のある属性が永遠か
つ無限なる様態的変状(キディフィカティオ)に変状(アフユタトウス)した限りにおいては神ないし神の属性から生起することができない
(定理二二により)。ゆえにそれは神のある属性が定まった存在を有する有限な様態的変状に様態
化した限りにおいて神ないし神の属性から生起し、あるいは存在ないし作用に決定されなくては
ならない。これが第一の点であった。次にこの原因あるいはこの様態もまた(我々がこの定理の
第一の部分を証明したと同じ理由により)、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から決
定されなければならぬ、そしてこの後者もまた(同じ理由により)他の原因から決定され、このよ
うにして常に(同じ理由により)無限に進む。Q・E・D・
備考 ある種の物は神から直接的に産出されなければならぬ。神の絶対的本性から必然的に生
起するものがすなわちそれである。また他の種の物はこの前者の媒介によって生起しなければな
らぬ。しかしこれとても神なしには存在することも考えられることもできない。この帰結として
第一に、神は神自身が直接的に産出した物の絶対的な最近原因であることになる。私は(絶対的
な最近原因と言う、そして)いわゆる自己の類における最近原因とは言わない。なぜなら、神の
結果は原因としての神なしには存在することも考えられることもできないからである(定理一五
および定理二四の系により)。第二に、神を個物の遠隔原因と名づけるのは、神が直接的に産出
したもの・あるいはむしろ神の絶対的本性から生起するものと普通の個物とを区別するためにな
ら別だが、本来的意味においては適当でないということになる。なぜなら、遠隔原因とは結果と
何の関連もないものと我々は解するが、およそ存在する一切の物は神のうちに在り、かつ神なし
には存在することも考えられることもできないように神に依存しているからである。
定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用す
るように神の本性の必然性から決定されている。
証明 在るものはすべて神のうちに在る(定理一五により)。しかし神を偶然なものと呼ぶこと
はできない。なぜなら神は偶然的に存在するのではなく必然的に存在するからである(定理一一
により)。次に神の本性の様態は、やはり神の本性から偶然的にではなく必然的に生起している
(定理一六により)。そしてこれは神の本性が絶対的に働くように決定されたと見られる限りにお
いても(定理二ーにより)、あるいは神の本性が一定の仕方で働くように決定されたと見られる限
りにおいても(定理二七により)、同様である。さらに神はそれらの様態が単に存在する限りにお
いてばかりでなく(定理二四の系により)、その上またそれらが(定理二六により)ある作用をなす
ように決定されたと見られる限りにおいても、それらの原因なのである。もしそれらの様態が神
から決定されなかったとすれば、それが自己自身を決定するということは不可能であって、偶然
そうなるなどということはない(同定理により)。また反対に、神から決定されたとしたら、それ
が自己自身を決定されていないようにすることは不可能であって、やはり偶然そうなるなどいう
ことはない(定理二七により)。ゆえに一切は、単に存在するようにだけではなく、さらにまた一
定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されているのであり、そして一と
して偶然なものはないのである。Q・E・D・
備考 先へ進む前にここで、能産的自然(ナトウラ・ナトウランス)および所産的自然(ナトウラ・ナトウラタ)をどう解すべきかを説明しよう 〜
というよりはむしろ注意しよう。というのは、前に述べたことどもからすでに次のことが判明す
ると信ずるからである。すなわち我々は能産的自然を、それ自身のうちに在りかつそれ自身によ
って考えられるもの、あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性、言いかえれば(定理一
四の系一および定理一七の系二により)自由なる原因として見られる限りにおいての神、と解さ
なければならぬ。これにたいして所産的自然を私は、神の本性あるいは神の各属性の必然性から
生起する一切のもの、言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることも
できない物と見られる限りにおいての神の属性のすペての様態、と解する。
定理三〇 現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければ
ならぬ。そして他の何ものをも把握することがない。
証明 真の観念はその対象と一致しなければならぬ(公理六により)。言いかえれば(それ自体
で明らかなように)、知性のうちに想念的(オブエクテイヴエ)に〔すなわち観念として〕含まれているものは必然的
に自然のうちに存在しなければならぬ。ところが自然のうちには(定理一四の系一により)一つの
実体しか、すなわち神しか、存在しない。また神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えら
れることもできないもの(定理一五により)以外のいかなる変状も存在しない(同定理により)。ゆ
えに現実に有限な知性も、現実に無限な知性も、神の属性と神の変状を把握しなければならぬ。
そして他の何ものをも把握することがない。Q・E・D・
定理三一 現実的知性は、有限なものであろうと無限なものであろうと、意志・欲望・愛など
と同様に、能産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。
証明 なぜなら、我々は知性を (それ自体で明らかなように)絶対的思惟とは解せず、単に思惟
のある様態、 〜 欲望・愛などのごとき思惟の他の諸様態とは異なるある様態、と解する。した
がってそれは(定義五により)絶対的思惟によって考えられなけれ
ばならぬ。すなわち(定理一
五および定義六により)思惟の永遠・無限な本質を表現する神のある属性によって考えられ
なければならず、しかもその属性なしには在ることも考えられることもできないようなふうに考えられなければならぬ。このゆえにそれは(定理二九の備考により)思惟のその他の諸様態と同様に、能
産的自然にではなく所産的自然に数えられなければならぬ。Q・E・D・
備考 ここで私が現実的知性について語る理由は、何らかの可能的知性が存在することを認め
ているからではない。私はただ、一切の混乱を避けるため、我々のきわめて明瞭に知覚するもの、
すなわち知性作用それ自身についてのみ語ることを欲したからである。知性作用は我々が何もの
にもまして明瞭に知覚するものである。というのは我々が認識するすべてのものはみな知性作用
についての我々の認識をより完全なものにするのに役立っているからである。
定理三二
意志は自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。
証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意
志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。
そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であ
ると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは
神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現す
る一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、
つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する
原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的
なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということにな
る。
系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に
言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定
理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべて
の物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そ
してたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのた
めに意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために
(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働
くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さない
で、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによっ
て一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まっ
たく同様な関係に立っているのである。
定理三三 物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神
から産出されることができなかった。
証明 なぜなら、すべての物は与えられた神の本性から必然的に生起し(定理一六により)、か
つ神の本性の必然性によって一定の仕方で存在し・作用するように決定されている(定理二九に
より)。だからもし物が異なった本性をもちあるいは異なった仕方で作用するように決定されて、
その結果自然の秩序が今と異なったものになるということがありうるとしたら、神の本性もまた
現に在るのとは異なったものになりうるであろう。そこで(定理一一により)この異なった神の本
性もまた同様に存在しなければならぬであろう。したがって二つまたは多数の神が存在しうるこ
とになるであろう。これは(定理一四の系一により)不条理である。それゆえに物は他のいかなる
仕方、他のいかなる秩序においても云々。Q・E・D・
備考一 私はこれで、物白身の中にはその物を偶然であると言わしめるような何ものも絶対に
存在しないことを十二分に明白に示したから、ここに私は、偶然ということをどう解すべきかを
手短かに説明しよう。しかしその前に、必然および不可能ということをどう解すペきかを語ろう。
ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質に関してか、それとも原因に関してかである。何と
なれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必
然的に生起するからである。次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からであ
る。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決
定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、
我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すな
わち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含ま
ないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質につ 78
いて何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であると
も思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。
備考二 前述のことからして、物は与えられた最も完全な本性から必然的に生起したのだから
最高の完全性において神から産出されたのだということが明瞭に帰結される。このことは神に何
の不完全性をも負わせるものではない。なぜならまさに神の完全性がこのことを我々に主張する
ように迫るのだから。のみならずもし逆ならば、神が最高完全でないということが明瞭に帰結さ
れるであろう。なぜならもし物が他の仕方で産出されたとしたら我々が最高完全な実有の考察に
基づいて神に帰せざるをえなかった本性とは異なる他の本性を神に帰することになるからである
(先ほど示したように)。だが多くの人々がこの見解を不条理なものとして排斥しこれを熟考する
気にならないことを私は疑わない。それというのも彼らは我々が述べたもの(定義七)とはまるで
異なる他の自由を、〜〜すなわち絶対的意志を、神に帰するのに慣れているからにほかならない。
しかし彼らが事態を瞑想し・我々の諸証明の系列をよく熟慮しようとするならば、ついに彼らは、
いま神に帰しているような種類の自由を単に愚かしいものとしてだけではなく、さらにまた知識
の大きな障害としてまったく放棄するだろうこと、これまた私の疑わないところである。
ここに定理一七の備考で述べたことを再び繰りかえすことは必要ないであろう。しかし仮に意
志が神の本質に属することを認めたとしても、やはり神の完全性からして、物はいかなる他の仕
方、他の秩序においても神から創られることができなかったという帰結になることを私は彼らの
ために改めて示したい。これは我々が次のことを考察するなら容易に明らかになるであろう。そ
れはまず彼ら自身の容認していること、すなわちすべての物がその現に在るところのものである
のは神の決意および意志のみに依存する(そうでなければ神は万物の原因ではなくなるから)とい
うことである。次に神のすべての決意は永遠このかた神自身によって定められた(そうでなけれ
ば神に不完全性と不恒常性とを負わせることになるから)ということである。ところで永遠の中
にはいつということがなくまた以前ということも以後ということもないのであるから、このこと
から、すなわち神の完全性だけからして、神は決して他の決意をなしえないしまたなしえなかっ
たこと、あるいは神はその決意の以前には存在しなかったしまたその決意なしには存在しえない
ことが帰結されるのである。
ところが彼らは言うであろう、たとえ神が異なった自然を創造したと仮定しても、あるいは神
が永遠このかた自然ならびにその秩序に関して異なった決意をしたと仮定しても、そのために神
には何の不完全性も生じないであろうと。だがこういうならば彼らは同時に神が〔今なお〕その決
意を変更しうることを容認するものである。なぜなら、もし神が自然およびその秩序に関して決
意したのとは異なった決意をしたなら、すなわち自然に関して他のことを意志したり概念したり
するなら、必然的に神は現に有するのとは異なった知性・現に有するのとは異なった意志をもっ
たであろう。そしてもし神の本質と完全性とを少しも変更することなしに神に他の知性・他の意
志を帰しうるとすれば、神が被造物に関するその決意を今なお変更してしかも依然として等しく
完全にとどまることができない理由はないからである。被造物およびその秩序に関する神の知性
と意志がどんなふうに考えられようとも、それは神の本質および完全性に何の影響も及ぼさない 80
と言うのであるからには。
さらにまた私の知るすべての哲学者は、神の中には可能的知性は存在せずただ現実的知性のみ
が存在することを容認する。ところで神の知性と意志は神の本質と区別されないことと、これも
またすべての哲学者の容認するところであるから、このことからまた、もし神が他の現実的知性
および他の意志を持つとしたら、神の本質もまた必然的に異なるものであるべきこと、したがっ
て(私が始めから主張したように)もし物が現に在るのと異なったふうに神から産出されたとした
ら、神の知性および意志、言いかえれば(人々の容認するように)神の本質は異なったものでなけ
ればならぬこと、になる。これは不条理である。
このように、物はいかなる他の仕方・いかなる他の秩序においても神から産出されえなかった
のであり、そしてこの定理の真理は神の最高完全性からの帰結なのであるから、神が自己の知性
の中にあるすべてのものを認識したのと同一の完全性をもってそれを創造することを欲しなかっ
たと我々を信じさせるようないかなる根拠ある理由もまったく存在しえないのである。
しかし彼らは言うであろう、物それ自身の中には完全性も不完全性もなく、物の中にあってそ
のため物が完全とか不完全とか善とか悪とか呼ばれるところのものは神の意志にのみ依存する、
したがって神は、もし欲したなら、現に完全であるものをきわめて不完全なものであるようにす
ることができたろうし、また反対に(現に物の中にあって不完全性を意味するものをきわめて完
全なものであるようにすることが)できたであろうと。しかしこれは、その意志することを必然
的に認識する神が、自らの意志によって、物をその認識するのとは異なった仕方で認識するよう
にすることができると公然と主張するのに異ならない。これは(今しがた示したように)はなはだ
しい不条理である。ゆえに私は彼らの論証を彼ら自身に投げ返して次のように言うことができる。
一切は神のカに依存する、だから物が異なったようにありうるためには神の意志もまた必然的に
異なっていなければならぬ、ところが神の意志は異なったようにあることができない(我々が今
しがた神の完全性に基づいてきわめて明瞭に示したように)、ゆえに物は異なってあることがで
きないと。
一切を神の勝手な意志に従属させ、すべては神の裁量に依存すると主張するこの意見は、神が
すべてを善の考慮のもとになすと主張する人々の意見ほどは真理から遠ざかっていないと私も認
める。なぜなら後者は、神に依存しないある物、神が行動に際して理想と目し・あるいは一定の
目的としてそれに向かって努力するようなある物、そうしたある物を神の外に立てているように
見えるからである。これはまったく神を運命に従属させるのにほかならぬのであって、我々が示
したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理
な主張はありえない。ゆえに私はこうした不条理を反駁するのに時間を費やすことはないのであ
る。
定理三四 神の能力は神の本質そのものである。
証明 なぜなら、神の本性の単なる必然性からして、神は自己(
定理一一により)ならびに(
定
理一六およびその系により)すべての物の原因であるということが出てくる。ゆえに神自身なら
びにすべてのものがそれによって存在しかつ働きをなす神の能力は神の本質そのものである。
Q・E・D・
定理三五 神の力の中に在ると我々の考えるすべての物は必然的に存する。
証明 なぜなら、神のカの中に在るすべてのものは(前定理により)神の本質から必然的に生起
するようなふうに神の本質の中に含まれていなければならぬ。したがってそれは必然的に存する。
Q・E・D・
定理三六 その本性からある結果が生じないようなものは一として存在しない。
証明 存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する(定理二五の系に
より)。言いかえれば(定理三四により)存在するすべての物は神の能力を〜〜万物の原因である
神の能力を一定の仕方で表現する。したがって(定理二六により)存在するすべての物からある結
果が生起しなければならぬ。Q・E・D・
付 録
以上をもって私は神の本性を示し、その諸特質を説明した。すなわち神が必然的に存在するこ
と、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因
であること、ならびにいかなる意味で自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在り
かつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、
すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってでは
なく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力によること、そうした諸特質を説明した。さらに私
は、機会あるごとに、私の証明の理解を妨げるような諸偏見を取り除くことに努力してきた。し
かしまだ少なからぬ偏見が残っていて、人々が私の説明した仕方で物の連結を把握することを同
様に、いな、きわめてはなはだしく、妨げえたしまた現に妨げえているのであるから、それらを
ここで理性の検討にゆだねることはむだではないと思うのである。
ところで、ここに私が指摘しようとするすべての偏見は次の一偏見に由来している。その一偏
見というのは〜〜一般に人々はすべての自然物が自分たちと同じく目的のために働いていると想
定していること、のみならず人々は神自身がすべてをある一定の目的に従って導いていると確信
していること、これである(なぜなら彼らはこう言う、神はすべての物を人間のために造り、神
を尊敬させるために人間を造った、と)。だから私はまずこの偏見を考察しよう。それには第一
に、なぜ多くの人々がこの偏見に甘んじ、またなぜすべての人が生来この偏見をいだく傾向があ
るかの理由を探究する。次にそれが誤っていることを示し、最後にいかにしてこの偏見から善と
悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する
諸偏見が生じたかを示そう。
しかしこのことを人間精神の本性から導き出すことはこの場所では適当でない。ここでは何び 83
とも承認しなければならぬこと、すなわちすべての人間は生まれつき物の原因を知らないこと、
およびすべての人間は自己の利益を求めようとする衝動を有しかつこれを意識しているというこ
と、そうしたことを議論の根底とするので十分であろう。なぜなら、このことから次のことが出
てくるからである。それは第一に、人間は自分を自由であると思うということである。実際、彼
らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らないのでそ
れについては夢にも考えないからである。第二に、人間は万事を目的のために、すなわち彼らの
欲求する利益のために行なうということである。この結果として、彼らはできあがったものごと
について常に目的原因のみを知ろうとつとめ、これを聞けばそれで満足する。彼らにはそれ以上
疑念をいだく何の理由もないからである。これに反してもしそれを他人から聞くことができない
場合は、自分自身をふりかえって見て、自分が平素類似のことをするように決定されるのはどん
な目的からであるかを反省してみるよりほかない。このようにして彼らは必然的に、自分の性状
から他人の性状を判断することになる。さらに彼らは、自分の利益を獲得するのに少なからず役
立つ多数の手段を、例えば見るための目、咀嚼するための歯、栄養のための植物や動物、照らす
ための太陽、魚を養うための海のごときものを自分の内外に発見するから、(そして他のほとん
どすべてのものに関してもこれと同じ次第であって、彼らはそうしたものの自然的原因が何であ
るかについて疑念をいだく何の理由も持たないのであるから、)このことから彼らは、すべての自
然物を自分の利益のための手段と見るようになった。そして、それらの手段は彼らの発見したも
のではあるが彼らの供給したものではないことを知っているから、これが誘因になって彼らは、
そうした手段を彼らの使用のために供給した他のある者が存在することを信ずるようになった。
すなわち、一度物を手段と見てからは、彼らはそれがひとりでにできたと信ずるわけにはいかな
くて、彼らが平素自分自身に手段を供給する場合から推し量り、人間的な自由を賦与された一人
あるいは二、三の自然の支配者が存在していて、これが彼らのためにすべてを熟慮し、彼らの使
用のためにすべてを造ったと結論せざるをえなかった。彼らはまたこうした支配者の性情につい
ては少しも聞き知ることがなかったので、これを自分の性情に基づいて判断せざるをえなかった。
そしてこのことから彼らは、神々は人間に感謝の義務を負わせ、人間から最高の尊敬を受けるた
めにすべてのものを人間の使用に向けるのだと信じた。この結果として各人は、神が自分を他の
人々以上に寵愛し・全自然を自分の盲目的欲望と飽くことなき食欲の用に向けてくれるように、
敬神のいろいろの様式を自分の性情に基づいて案出した。こうしてこの偏見は迷信に堕し、人々
の心に深い根をおろした。そしてこれが原因となって各人は、すべてのものについて目的原因を
認識し・説明することに最大の努力を払うようになった。
しかし自然が何らむだなこと(言いかえれば人間の役に立たぬこと)をしないことを示そうと試
みながら、彼らは自然と神々とが人間と同様に狂っていることを示したにすぎないように思われ
る。見るがいい、事態はついにいかなる結末になったかを! 自然におけるかくも多くの有用物
の間にまじって少なからぬ有書物を、例えば暴風雨・地震・病気などなどを彼らは発見しなけれ
ばならなかった。そこでこうした事柄は神々<(彼らが自分たちと同種のものと判断しているよう
な)>が人間の加えた侮辱のゆえに、あるいは敬神に際して人間の犯した過失のゆえに怒ったから
起こったのだと信じた。そして日常の経験は、これに反して、有用物ならびに有害物が敬虔者に
も不敬虔者にも差別なく起こることを無数の例をもって示すのであるけれども、彼らはそのゆえ
に昔ながらの偏見から脱することをしなかった。なぜなら、彼らにとっては、これをもろもろの
不可知な事柄、何のためそれが生ずるか了解できぬ事柄の中に数え入れ、このようにして彼らの
現に在る生まれながらの無知状態を維持するほうが、前述の組織全体を破壊して新しい組織を案
出するよりも容易だったからである。このため彼らは、神々の判断が人間の把握力をはるかに凌
駕すると確信した。そしてもし数学が一目的には関係せずに単に図形の本質と諸特質とにのみ
関係する数学がー真理の他の規範を人間に示さなかったとしたら、この理由一つだけでも真理
は永遠に人類に秘められたであろう。なお、数学のほかにも、人々〈(といっても全人類から言え
ばごく少数の人であるが)〉にこの共通の偏見に気づかせて物の真の認識に進むことができるよう
にさせた他の諸原因が挙げられうる(しかしこれをここに数えたてることは無用である)。
これをもって私は第一に約束したことを十分説明した。だから今、自然は何の目的も立てずま
たすべての目的原因は人間の想像物以外の何ものでもないことを示すのに多言を要しない。なぜ
なら、私がこの偏見の源泉として示した根底および原因から、ならびに定理二八と定理三二の二
つの系とから、さらにまた私が自然における一切はある永遠なる必然性と最高の完全性とから生
ずることを示す際に用いた諸理由から、このことはすでに十分明白になったと私は信ずるからで
ある。 .
しかしまだ付け加えたいことがある。それは、目的に関するこの説は自然をまったく転倒する
ということである。なぜならこの説は、実は原因であるものを結果と見、また反対に(結果であ
るものを原因と)見る。次にこの説は本性上さきなるものをあとにする。また最後にこの説は最
高かつ最完全なものを最不完全なものにする。というのは、(前の二つは自明であるからこれを
略すとして、)定理二一、二二および二三から明らかなように、神から直接的に産出される結果は
最完全であり、そして物は産出されるためにより多くの中間原因を要するに従ってそれだけ不完
全である、ところがもし神から直接的に産出される物は神が自己の目的を達するために造ったの
だとすれば、最後のもの〜〜それのために始めのものが造られたところの〜〜はすべてのものの
うちで最も価値あるものになるからである。
次にこの説は神の完全性を没却する。なぜなら、もし神が目的のために働くとすれば、神は必
然的に何か欠けるものがあってそれを欲求していることになるからである。もっとも神学者なら
びに形而上学者たちは需要の目的と同化の目的を区別してはいるが、それでもやはり彼らは神が
一切を被造物のためにではなくて自己自らのためになしたことを承認する。なぜなら彼らは、創
造以前においては、神のほかには神がそのため働くような何ものも示すことができないからであ
る。したがって神がある物のために手段を用意しようとしたと言うなら、神はそのある物を欠い
ていてそれを欲求した、ということを必然的に彼らは承認せざるをえなくなる。これは自明の理
である。
なおここに見逃してならないのは、物の目的性を説明するにあたって自己の才能を示そうと欲
したこの説の信奉者たちが、この自説を確証するために、一つの新しい証明法を提起したことで
ある。それは帰謬法ではなくて帰無知法(人の無知に基づく証明法)とでも言うべきやりかたであ
る。このことはこの説にとって他の何の証明方法もなかったことを物語るものである。例えばも
しある屋根から石がある人間の頭上に落ちてその人間を殺したとするなら、彼らは石が人間を殺
すために落ちたのだとして次のように証明するであろう。もし石が神の意志によってそうした目
的のために落ちたのでなかったら、どうしてそのように多くの事情が偶然輻輳(ふくそう)しえた(というの
はしばしば多くの事情が同時に輻輳するから)のであるかと。これに対して、それは風が吹いた
から、そして人間がそこを通ったから起こったのだと答えでもすれば、彼らはなぜ風がその時吹
いたか、なぜ人間がちょうどその時刻にそこを通ったかと迫るであろう。これに対してまた、前
日まだ天候が穏かだったのに海が荒れ出したからその時になって風が起こったのだ、そしてその
人間は友人から招待されていたのだ、と答えるならば、彼らはさらに〜〜間いには際限がないか
ら〜〜迫るであろう、しかしなぜ海が荒れ出したのか、なぜその人間がその時刻に招待されてい
たのかと。このように次から次へと原因の原因を尋ねて、相手がついに神の意志すなわち無知の
避難所へ逃れるまではそれをやめないであろう。同様にまた彼らは、人間の身体の構造を見て驚
く。そしてそうした巧みな技術の原因を知らないので、それは機械的技術によってではなく神的
な、あるいは超自然的な技術によって作られ、一つの部分が他の部分を損なわないようなふうに
仕組まれていると結論する。このゆえに諸奇蹟の真因を探究する者、また自然物を愚者として驚
歎する代りに学者として理解しようと努める者は、一般から異端者、不敬虔者と見なされ、民衆
が自然ならびに神々の代弁者として崇める人々からはこのような者として罵倒されることになる。
なぜなら、神の代弁者と崇められる人々は、無知〈あるいはむしろ愚鈍〉がなくなれば、驚き、す 89
なわち自己の権威を証明し・維持するための唯一の手がかりもまたなくなることを知っているか
らである。(しかしここに述べたような証明法にどんな効力があるかの判断はこの証明法の提起
者自身にまかせる。)私はこれらのことどもを措(お)いて、ここで取り扱おうと定めた第三の事柄に
移る。
人々は生起する一切が自分のために生起すると思いこんでからは、すべての物について、彼ら
に最も有用な点を重要事と判断し、彼らを最も快く刺激するものをすべて最も価値あるものと評
価しなければならなかった。ここからして彼らは、物の本性を説明するために善、悪、秩序、混
乱、暖、寒、美、醜のような概念を形成しなければならなかった。また彼らは自分を自由である
と思うがゆえに、これから賞讃と非難、罪過と功績のような概念が生じた。後者についてはあと
で人間本性を論じた上で述べることにして、ここでは前者について簡単に説明しよう。すなわち
健康と敬神とに役立つ一切のことを人々は善と呼び、これに反することを悪と呼んだ。また物の
本性を認識せずに物を単に表象のみする人々は、物について何ら〔正しい〕肯定をすることなく、
表象力を知性と思っているから、そのゆえに彼らは、物ならびに自己の本性に無知であるままに、
秩序が物自体の中に存すると固く信じている。すなわち物が我々の感覚によって容易に表象され、
したがってまた容易に思い出せるようなふうにできていれば、我々はそれを〈善き秩序にある、
あるいは)善く秩序づけられていると呼び、その反対の場合は、悪しく秩序づけられている、あ
るいは混乱していると呼ぶのである。そして、我々が容易に表象しうる物は我々にとって他の物
より快いから、そのゆえに人々は混乱よりも秩序を選び取るのである。あたかも秩序が我々の表 90
象力との関係を離れて自然の中に実在するある物であるかのように。また彼らは神が一切を秩序
的に創造したと言う。このようにして彼らは知らず知らず神に表象力を帰している。もし神に表
象力を帰しているのでないとすれば、あるいは彼らは、神が人間の表象力を考えてすべての物を
我々が最も容易に表象しうるようなふうに按配したと思っているのかもしれぬ。だがその際彼ら
は、我々の表象力をはるかに凌駕する無限に多くのものが存在し、また我々の表象力が微弱であ
るゆえにそれを混乱させるきわめて多くのものが存在するということには何の顧慮も払わないら
しい。しかしこのことについてはもう十分である。
次にその他の諸概念も、同様に、表象力を種々なふうに刺激する表象の様式にほかならない。
けれどもそれは無知者たちからは事物の主要属性と見られている。なぜなら、すでに述べたよう
に、彼らはすべてのものが自分たちのために造られていると信じ、そしてある物から刺激される
やあいに応じてその物の本性を善あるいは悪、健全または頽廃および腐敗と言うからである。例
えば目に映る対象から神経が受ける刺激が健康に役立つなら、これを引き起こす対象は美と言わ
れ、反対の刺激を生ずるものは醜と言われる。次に鼻によって感覚を刺激するものを芳香あるい
は臭気と呼び、舌によるものを甘あるいは苦、美味あるいは不味などと呼ぶ。また触覚によるも
のを硬あるいは軟、粗あるいは滑などと言う。また最後に、耳を刺激するものを騒音、音響、ま
たは諧音を発すると言う。これらのうちで諧音は、神もまたこれを喜ぶと信じたほど人々の心を
奪った。そればかりでなく天体の運行が諧音をたてることを確信した哲学者たちもなくはない。
これらすべては、各人が事物を脳髄の状態に従って判断し、あるいはむしろ表象力の受けた刺激
を事物自体と見たことを十分に示すものである。このゆえに(ついでながら注意するが)人々の間
に、我々の見聞きするようなあんなに多くの論争が生じ、これからついに懐疑論が発生したこと
も怪しむに足りない。なぜなら、人々の身体は多くの点において一致するがもっと多くの点にお
いて異なり、そのゆえにある人に善く見えるものが他の人に悪しく見え、ある人に秩序正しく思
えるものが他の人には混乱して思え、ある人には快いものが他の人には不快だからである。そし
てその他のことについてもこれと同様であるが、それはここに述べない。ここはそうしたことを
詳しく論ずる個所でないし、それにまたそれはすべての人が十分に経験しているところだからで
ある。というのは「頭数だけの意見」「誰でも自分の意見で一杯になっている」「脳髄は味覚に劣
らず相違している」などいう諺はすべての人の口にするところである。これらの諺は、人間が物
を脳髄の状態に従って判断し、また物を知性的に認識するよりはむしろ感覚的に表現することを
十分物語っている。なぜなら、もし彼らが物を知性的に認識するとしたら、数学において見るよ
うに、それらの物は、彼らすべてを惹きつけないまでも、少なくとも彼らすべてを同じ確信に導
いたであろうからである。
このようにして、民衆が自然を説明するに用い慣れたすべての概念は単に表象の様式であって、
何ら物の本性を表示せずただ表象カの状態を示すのみであるということを我々は知る。そしてこ
れらの概念は、あたかも表象力の外部に存在する実有を意味するかのような名称を有するから、
私はこれを理性の有とではなく表象の有と呼ぶ。こうして我々はこれと類似の概念に基づいて、
我々に向けられるすべての論拠を容易に撃退することができる。すなわち、多くの人々は次のよ
うに論ずるのが常である。もし万物が神の最完全な本性の必然性から起こったとするなら自然に
おけるあれほど多くの不完全性は一体どこから生じたのか。例えば悪臭を発するにいたるまでの
物の腐敗、嘔吐を催させるような物の醜怪、混乱、害悪、罪過などなどはどうかと。しかし、今
も言ったように、これを反駁することは容易である。なぜなら、物の完全性は単に物の本性なら
びに能力によってのみ評価されるべきであり、したがって物は人間の感覚を喜ばせ、あるいは悩
ますからといって、また人間の本性に適合しあるいはそれと反撥するからといって、そのゆえに
完全性の度を増減しはしないからである。さらになぜ神はすペての人間を理性の導きのみによっ
て導かれるようなふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとす
るほかはない。すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創
造する資料が欠けていなかったからである、あるいは(もっと本源的な言いかたをすれば)、神の
本性の諸法則は、定理一六で示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのもの
を産出するに足るだけ包括的なものであったからである、と。
これが私のここで述べようと思った諸偏見である。もしこうした偏見の粉末がいくらかまだ残
っているとしても、誰でも少しく考察すれば、その誤りを正しうるであろう(ゆえに私はこうし
た事柄にこれ以上留まっている理由はない、云々)。
第一部 終り
付記:以下、『デカルトの哲学原理』(岩波文庫p79)より、抜粋
「
定理十九
神は永遠である。
証 明
神は最高完全な実有である(定義八により)。これからして(定理五により)、神は必然的に存在
することになる。今もし我々が神を限定された存在とするなら、神の存在の限界は、我々によっ
ては認識されないにしても少くとも神自身によっては必ず認識されねばならぬ。神は全知だから
である(定理九により)。従って神はその限界の外では、自己を、換言すれば(定義八により)最高
完全の実有を、存在しないものとして認識するであろう。これは不条理である(定理五により)。
故に神は限定された存在を持つものでなく、無限な存在を持つものである。この無限な存在を我
々は永遠と呼ぶのである(本書附録第二部一章参照)。このようにして神は永遠である。Q・E・
D・」
第 二 部
定義、一、二、三、四、五、六、七
公理、一、二、三、四、五
定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、備考、公理一、二(補助定理一、二、三)、公理一、二、(定義)、三(補助定理四、五、六、七)、(要請、一、二、三、四、五、六)、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九、第一部TOP、第二部TOP、TOP☆
精神の本性および起源について
今や私は神、すなわち永遠・無限な実有、の本質から必然的に生起しなければならぬことども 93
の説明に移る。しかしそのすべてについてではない。なぜなら、第一部定理二六で証明したよう
に、神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬからである。
ここではただ、人間精神とその最高の幸福との認識へ我々をいわば手を執って導きうるものだけ
にとどめる。
定 義
一 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現する
様態のことと解する。第一部定理二五の系を見よ。
二 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的
に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、
在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は
言う。
三 観念とは、精神が思惟する物であるがゆえに形成する精神の概念のことと解する。
説明 私は知覚というよりもむしろ概念という。その理由は知覚という言葉は精神が対象から
働きを受けることを示すように見えるが、概念はこれに反して精神の能動を表現するように見え
るからである。
四 妥当な観念〔十全な観念〕とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観
念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。
説明 私は内的特徴と言う。これは外的特徴すなわち観念とその対象との一致を除外するため
である。
五 持続とは存在の無限定な継続である。
説明 私は無限定な継続と言う。なぜなら、存在の継続は決して存在する物の本性自身によっ
ては限定されることができないし、また同様にその起成原因によっても限定されることができな
いからである。起成原因は物の存在を必然的に定立するがこれを除去することはないのだから。
六 実在性と完全性とは同一のものであると解する。
七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)
がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその
限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。
公 理
一 人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在するこ
とも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。
二 人間は思惟する(、あるいは他面から言えば、我々は我々が思惟することを知る)。
三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、
愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の
様態が存しなくとも存在することができる。
四 我々はある物体〔身体〕が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。
五 もろもろの物体およびもろもろの思惟の様態のほかには、いかなる個物も(あるいは所産
的自然に属するいかなる物も)我々は感覚ないし知覚しない。定理一三の後の要請を見よ。
定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。
説明 個々の思想、すなわちこのあるいはかの思想は、神の本性をある一定の仕方で表現する
様態である (第一部定理二五の系により) 。ゆえに神には(第一部定義五により)一属性、 〜 それ
の概念がすべての個々の思想の中に含まれており、またそれによってすべての個々の思想が考え
られもするそうした属性があることになる。したがって思惟は神の無限に多くの属性の一つであ
って、神の永遠・無限な本質を表現している(第一部定義六を見よ)。あるいは神は思惟する物で
ある。Q・E・D・
備考 この定理はまた、我々が思惟する無限の実有を考えうることからも明白である。なぜな
ら、思惟する実有がより多くのものを思惟しうるに従って、それほそれだけ多くの実在性あるい 96
は完全性を含むと我々は考える。ゆえに無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟しうる実有
は、必然的に、思惟する力において無限である。このように我々は、単に思惟だけを眼中に置く
ことによって無限の実有を考えうるのだから、思惟は、我々が主張したように、必然的に(第一
部定義四および六により)神の無限に多くの属性の一つである。
定理二 延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。
証明 この定理の証明は前定理の証明と同様の仕方でなされる。
定理三 神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆる
ものの、観念が存する。
証明 なぜなら、神は(この部の定理一により)無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟し
うる。あるいは(第一部定理一六によりこれと同じことだが)神は神の本質、ならびに神の本質か
ら必然的に生起するあらゆるもの、について観念を形成しうる。ところが神の力の中に在るすべ
てのものは必然的に在る(第一部定理三五により)。ゆえにそうした観念は必然的に在りかつ(第
一部定理一五により)神のうちにのみ在る。Q・E・D・
備考 民衆は、神の能力ということを、神の自由意志、ならびにありとあらゆるものにたいす
る神の権能、と解する。このゆえにあらゆるものは一般に偶然なものと見なされている。なぜな
ら彼らは神があらゆるものを破壊して無に帰する力を有すると言っているからである。さらに彼
らはしばしば神の能力を王侯の能力に比較する。しかし我々はこのことを第一部定理三二の系一
および二で反駁したし、また第一部定理一六では、神は自己自身を認識するのと同一の必然性を
もって活動することを示した。言いかえれば神が自己自身を認識することが神の本性の必然性か
ら起こるように(これはすべての人が一致して容認するところである)、神が無限に多くのことを
無限に多くの仕方でなすこともまたそれと同一の必然性をもって起こるのである。次に我々は第
一部定理三四において、神の能力は神の活動的本質にほかならないことを示した。したがって神
が活動しないと考えることは神が存在しないと考えるのと同様に不可能である。
なおもし私がこれらのことどもをいっそう深く追求してよいならば、私はここで、民衆が神に
帰しているあの能力は、人間的能力である(つまり民衆は神を人間としてあるいは人間に類似の
ものとして考えているのである)というばかりでなく、さらにまたそれは無能力をも含むもので
あることを示しうるであろう。しかし私は同じことについてそうたびたび語ることは好まない。
私はただ読者に、第一部において定理一六から終結に至るまでこれについて述べられてあること
を改めて熟慮されるよう幾重にもお厳いするのみである。なぜなら、何びとといえども、神の能
力を王侯の人間的能力あるいは権能と混同しないように極力用心しなくては、私の述べようとす
るところを正しく理解することができないであろうからである。
定理四 無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえ
ない。
証明 無限の知性は神の属性とその変状のほか何物も把握しない(第一部定理三〇により)。と
ころが神は唯一である(第一部定理一四の系一により)。ゆえに無限に多くのものが無限に多くの
仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。Q・E・D・
定理五 観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)は、神が思惟する物と見られる限りにおいてのみ神を原因と認め、
神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない。言いかえれば、神の属性の観念な
らびに個物の観念は観念された物自身あるいは知覚された物自身を起成原因と認めずに、神が思
惟する物である限りにおいて神自身を起成原因と認める。
証明 これはすでにこの部の定理三から明白である。なぜなら、我々はそこで、神がその本質
の観念およびその本質から必然的に生起するすべてのものの観念を形成しうることを、単に神が
思惟する物であるということに基づいて 〜 神が自己の観念の対象であるなどということに基づ
いてではなく 〜 結論した。ゆえに観念の形相的有は、神が思惟する物である限りにおいて神を
原因と認める。
しかしこのことは別に次のような仕方でも証明される。観念の形相的有は(それ自体で明白な
ように)思惟の様態である。言いかえれば(第一部定理二五の系により)思惟する物である限りに
おいての神の本性をある一定の仕方で表現する様態である。そこでそれは(第一部定理一〇によ
り)神の他のいかなる属性の概念も含まず、したがってまた(第一部公理四により)思惟以外のい
かなる他の属性の結果でもない。ゆえに観念の形相的有は、神が思惟する物と見られる限りにお
いてのみ神を原因と認め云々。Q・E・D・
定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限り
においてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。
証明 なぜなら、おのおのの属性は他の属性の助けを借りずにそれ自身によって考えられる
(第一部定理一〇により)。ゆえに各属性の様態はその属性の概念を含み他の属性の概念を含まな
い。したがって様態は(第一部公理四により)自らが様態となっている属性のもとで神が考察され
る限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうで
ない。Q・E・D・
系 この帰結として〜〜思惟の様態でない事物の形相的有(エッセ・フォルマーレ)は、神の本性がそれらの事物を前
もって認識したがために神の本性から起こるのではない、むしろ観念の対象たる事物は、観念が
思惟の属性から生ずる(我々が示したように)のと同一の仕方・同一の必然性をもって、それ自身
の属性から起こりあるいは導き出される〜〜ということになる。
定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
証明 第一部公理四から明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、
そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。
系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言い 100
かえれば、神の無限な本性から形相的(フォルマリテル)に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連
結をもって神のうちに想念的(オブエクティヴエ)に〔すなわち観念として〕起こるのである。
備考 先へ進む前に、ここで、我々が以前に示したことを記憶に呼びもどさなくてはならぬ。
それはすなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは
単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一
の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのである
ということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれ
が二つの仕方で表現されているまでである。(このことは二、三のヘブライ人たちもおぼろげにで
はあるが気づいていたらしい、なぜなら彼らは神と神の知性と神によって認識された物とが同一 (マイモニデス)
であることを主張しているのだから)。例えば自然の中に存在する円と、同様に神の中にあるこ
の存在する円の観念とは同一物であり、それが異なった属性によって説明されるのである。ゆえ
に我々が自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、ある
いは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、すなわち諸原因の同一の連結
を、言いかえれば同一物の相互的継起を、見いだすであろう。
私が(先に)、神はただ思惟する物である限りにおいてのみ、例えば円の観念の原因でありまた
延長した物である限りにおいてのみ円の原因である、と言ったのも、その理由とするところは次
のようなものにほかならない。すなわち、円の観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)はその最近原因としての思惟の
他の様態によってのみ知覚され、思惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され、このよう
にして無限に進み、こうして物が思惟の様態として見られる間は全自然の秩序あるいは原因の連
結は思惟の属性によってのみ説明されなければならぬし、物が延長の様態として見られる限りは
全自然の秩序もまた延長の属性のみにょって説明されなければならぬ、という理由からにほかな
らない。そして同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである。ゆえ
に、神が無限に多くの属性から成っている限りにおいては、神は真に、それ自体においてあるが
ままの事物の原因である。私はこのこと室現在のところこれ以上明瞭に説明することができない。
定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の
中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。
証明 この定理は前の定理から明白であるが、さらに前の備考からいっそう明瞭に理解される。
系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにお
いてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限
りにおいてのみ存在する。しがし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するば
かりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるように
なると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。
備考 もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語ってい
る事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであ
ろう。しかし私はできる限りこの事柄を(一つの例をもって)解説するこ
とに努めよう。
|D
(__|______)
| E
円は、その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相
互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には、相互に等しい無限 |D
に多くの矩形が含まれていることになる。しかしこういう炬形は、どれ (__|______)
も、円の存在する限りにおいてでなくては存在すると言われえない。同 | E
様にまたこれらの矩形の観念は、どれも、円の観念の中に包容されてい
る限りにおいてでなくては存在すると言われえない。今、かの無限に多くの矩形の中でただ二つ
だけ、すなわちEおよびDの線分から成る矩形だけが〔現実に〕存在すると仮定しよう。そうすれ
ばたしかに、それらの矩形の観念もまた、単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在
するだけでなく、さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれに
よってそれらの矩形の観念は、他の矩形の観念と区別されるのである。
定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在
する他の個物の観念に変状(アフエクトウス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もま
た神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。
証明 現実に存在する個物の観念は、思惟のある特定の様態であって、他の諸様態とは区別さ
れるものである(この部の定理八の系および備考により)。したがってそれは(この部の定理六に
より)神が思惟する物である限りにおいてのみ神を原因とするが、しかし(第一部定理二八によ
り)神が絶対的に思惟する物である限りにおいてではなく、神が他の〈有限な〉思惟の様態に変状
したと見られる限りにおいてである。そしてこの思惟の様態もまた神が他〈の有限な思惟の様態〉
に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。ところで、観念の秩序お
よび連結は(この部の定理七により)原因の秩序および連結と同一である。ゆえに各個の観念は他
の観念を、あるいは他の観念に変状したと見られる限りにおける神を、原因とし、この観念もま
た他の観念に変状した限りにおける神を原因とする、このようにして無限に進む。Q・E・D・
系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念を
もつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。
証明 おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神の中にその観念が存する(この
部の定理三により)、しかしそれは神が無限なる限りにおいてではなく神が他の個物の観念に変
状したと見られる限りにおいてである(前定理により)。だが(この部の定理七により)観念の秩序
および連結は物の秩序および連結と同一である。ゆえに個々の対象の中に起こる事柄についての
認識は、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ神の中に在るであろう。Q・E・
D・
定理一〇 人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しない。
証明 なぜなら、実体の有は必然的存在を含んでいる(第一部定理七により)。ゆえにもし人間
の本質に実体の有が属するとすれば、その場合、実体が存するとともに人間も必然的に存するこ 104
とになるであろう (この部の定義二により)。したがって人間は必然的に存在することになるであ
ろう。これは(この部の公理一により)不条理である。ゆえに云々。Q・E・D・
備考 この定理はまた第一部の定理五からも証明される。すなわち第一部の定理五によれば、
同じ本性を有する二つの実体は存しえない。ところが多くの人間が存在しうる。ゆえに人間の形
相を構成するものは実体の有ではない。
さらにこの定理は実体のその他の諸特質からも、すなわち実体はその本性上無限・不変・不可
分などなどであることからも、明白である。これは何びとにも容易に解しうるところであろう。
系 この帰結として、人間の本質は神の属性のある様態的変状(モデイフイカテイオ)から構成されていることになる。
証明 なぜなら、実体の有は(前定理により)人間の本質に属さない。ゆえに人間は(第一部定
理一五により)、神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないあるもので
ある。言いかえれば(第一部定理二五の系により)神の本性をある一定の仕方で表現する変状
あるいは様態(モードス)である。
備考 神なしには何ものも在りえずまた考えられえないということはたしかにすべての人の容
認するところに違いない。なぜなら、神は万物にとってその本質ならびに存在の唯一の原因であ
ること、言いかえれば神は、単にいわゆる「生成に関して」だけではなく「有に関して」も物の
原因であることをすべての人が認めているのであるから。しかしそれでいて大抵の人々は、ある
物の本質にはそれがなければそのある物が在ることも考えられることもできないようなものが属
すると言っており、これで見れば彼らは、神の本性が被造物の本質に属すると信じているか、そ
れとも被造物が神なしにも在りあるいは考えられうると信じているか、それともまた 〜そして
これがもっともありそうなことであるが 〜これについて何ら首尾一貫した意見を持ちえないで
いるか、そのどれかであることになる。こんなことになる原因は、私の見るところでは、彼らが
哲学的思索の順序を守らなかったことに在るのである。なぜなら、神の本性は認識上から言って
も本性上から言っても最初のものであるから何ものよりも先に観想されなければならなかったの
に、彼らはこれを認識の秩序の上で最後のものと信じ、そして感覚の対象と呼ばれる物をすべて
のものに先立っていると信じたからである。この結果として彼らは、自然物を観想するに際して
は神の本性については少しも思惟せず、またあとで、神の本性の観想に心を向けた時には、彼ら
が初め自然物の認識を築くに際して根底としたもろもろの勝手な想像については少しも思惟しえ
なくなったのである。そうした想像は神の本性の認識に何ら役立ちえなかったのであるから。だ
から彼らがいたるところで自己矛盾に陥ったのも何ら怪しむに足りない。
しかし私はこのことには深く触れないでおこう。というのは、私のここでの意図は、(彼らを
攻撃することにあるのではなく、)ただなぜ私が「ある物の本質には、それがなければそのある物
が存することも考えられることもできないものが属する」と言わなかったかの理由を、 〜すな
わち私がそう言わなかったのは個物は神なしに在ることも考えられることもできないがそれにも
かかわらず神は個物の本質には属さないからだということを、示そうとすることにのみあったか
らである。それで私は先に、ある物の本質は、それが与えられればそのある物が定立され、また
それが除去されればそのある物が滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆 106
にそのある物がなければそれが在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたもの
から必然的に構成されていると言ったのであった。
定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念には
かならない。
証明 人間の本質は(前定理の系により)神の属性のある様態から、すなわち(この部の公理二
により)思惟の諸様態から構成されている。そしてこれらすべての様態にあっては(この部の公理
三により)観念が本性上さきであって、観念が与えられればその他の諸様態(すなわち本性上観念
のあとになるもの)が同じ個体の中に存しなければならぬ(この部の公理三により)。したがって
観念は人間精神の有を構成する最初のものである。
しかしそれは存在しない物の観念ではない。なぜなら、その場合は(この部の定理八の系によ
り)観念自身が存在すると言われえないからである。ゆえにそれは現実に存在する物の観念でな
ければならぬであろう。
しかしまたそれは無限な物の観念ではない。なぜなら、無限な物は(第一部定理二一および二
二により)常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは(この部の公
理一により)不条理である。
ゆえに人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在する借物の観念である。Q・
E・D・
系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがっ
て我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限で
ある限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が
人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかな
らない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と
同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、
それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。
備考 ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。そして躊躇を促す多くのことが心に浮かぶであ
ろう。この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこの
ことについて判断を下さないようにお願いする。
定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知
覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言い
かえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって
知覚されないような(あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起
こりえないであろう。
証明 なぜなら、おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神がその対象の観念に
変状したと見られる限りにおいて必然的に神の中にその認識がある(この部の定理九の系により) 108
言いかえれば(この部の定理一一により)神がある物の精神を構成する限りにおいて、必然的に神
の中にその認識がある。ゆえに人間精神を構成する親念の対象の中に起こるすべてのことは、神
が人間精神の本性を構成している限りにおいて必然的に神の中にその認識が存する、言いかえれ
ば(この部の定理一一の系により)そのものについての認識は必然的に精神の中に在るであろう、
すなわち精神はそれを知覚する。Q・E・D・
備考 この定理はこの部の定理七の備考からも明白であり、しかもいっそう明瞭に理解される。
その個所を見よ。
定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の
様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。
証明 なぜなら、もし身体が人間精神の対象でないとしたら身体の変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕の観念
は(この部の定理九の系により)神が我々の精神を構成する限りにおいて神のうちになく、神が他
の物の精神を構成する限りにおいて神のうちにあるであろう、言いかえれば(この部の定理二
の系により)、身体の変状(アフエクテイオ)の観念は我々の精神の中にはないであろう。ところが(この部の公理
により)我々は身体の変状(アフエクテイオ)の観念を有する。ゆえに人間精神を構成する観念の対象は身体で
あり、しかも(この部の定理二により)現実に存在する身体である。次にもし身体のほかにも精
神の対象が他にあるとすれば、およそ何らかの結果の生じないようなものは一つとして存在しな
いのであるから(第一部定理三六により)、その対象から生ずる何らかの結果についての観念が必
然的に我々の精神の中に存しなければならぬ(この部の定理一二により)を。ところが(この部の公
理五により)何らそうした観念が存しない。ゆえに我々の精神の対象は存在する身体であって他
の何ものでもない。Q・E・D・
系 この帰結として、人間は精神と身体とから成りそして人間身体は我々がそれを感ずるとお
りに存在する、ということになる。
備考 これにより我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身
体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認 (ネグリ)
識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。なぜな
ら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間にあてはまると同様その
他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。
なぜならあらゆる物について必然的に神の中に観念があって、その観念は、人間身体の観念と同
様に神を原因とするのであり、したがって我々が人間身体の観念について述べたことはあらゆる
物の観念についても必然的に言われうるからである。しかし私は同時に次のことも否定しえない。
すなわちもろもろの観念はその対象自身と同様に相互に異なっているということ、そしてある観
念の対象が他の観念の対象よりもより優秀でより多くの実在性を含むにつれてその観念も他の観
念よりもより優秀でより多くの実在性を含むということである。このゆえにいかなる点で人間精
神が他の精神と異なるか、またいかなる点で人間精神が他の精神より優秀であるかを決定するた
めには、すでに述べたように、その対象の本性を、言いかえれば人間身体の本性を認識するこ 110
とが必要である。しかしこうしたことをここで十分詳しく説くことはできないし、またそれは
我々が証明しようと欲する事柄にとって必要でもない。私はただ一般論として次のことを言って
おく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して
他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対
して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することが
より多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然
たる認識に対してそれだけ有能である。そしてこのことから我々は、二つの精神が他の精神に対
して有する優秀性を認識しうるし、さらにまたなぜ我々が我々の身体についてきわめて混乱した
認識しかもたないかの理由ならびに私が以下においてそれから導こうとする他の多くのことども
を知りうる。このゆえに私はこれらのことをある程度詳しく説明し証明することを徒労ではない
と考えた。しかしそれには諸物体の本性についていくつかの注意を前提とすることが必要であ
る。
公理一 すべての物体は運動しているか静止しているかである。
公理二 おのおのの物体はある時は緩(ゆる)やかに、ある時は速(すみ)やかに運動する。
補助定理一 物体は運動および静止、迅速および遅緩に関して相互に区別され、実体に関して
は区別されない。
証明 この補助定理の始めの部分はそれ自体で明白であると考える。次に物体が実体に関して
は区別されないということは、第一部の定理五ならびに定理八から明らかである。しかし第一部の定理一五の備考の中で述べたことから、なおいっそう明瞭である。
補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。
証明 なぜなら、すべての物体は同一属性の概念を含むという点で一致する(この部の定義一により)。次にそれらは、ある時は緩やかに、ある時は速やかに運動しうるという点で〜〜一般
的に言えばある時は運動しある時は静止しうるという点で一致する。
補助定理三 運動あるいは静止している物体は、他の物体から運動あるいは静止するように決
定されなければならなかった、この後者も同様に他の物体から運動あるいは静止するように決定
されている、そしてこれもまたさらに他の物体から決定され、このようにして無限に進む。
証明 物体は、運動および静止に関して相互に区別される(補助定理一により)個物である(こ
の部の定義一により)。したがって(第一部定理二八により)おのおのの物体は必然的に他の個物
から、すなわち同様に運動もしくは静止している(公理一により)他の物体から(この部の定理六
により)運動あるいは静止に決定されなければならなかった。ところがこの後者もまた(同じ理由
により)他の物体から運動あるいは静止に決定されなかったならば運動あるいは静止することが 112
できなかった。そしてこのものもまたさらに(同じ理由により)他の物体から決定され、このよう
にして無限に進む。Q・E・D・
系 この帰結として、運動している物体は他の物体から静止するように決定されるまでは運動
し、また同様に、静止している物体は他の物体から運動に決定されるまでは静止している、とい
うことになる。これはすでにそれ自体で明白である。なぜなら、ある物体例えばAが静止すると
仮定し、そして運動する他の諸物体を眼中に置かないならば、私は物体Aについてそれが静止し
ているということ以外には何ごとをも言いえないであろう。もしそのあとで、物体Aが運動する
ということが起こるなら、それはたしかに、Aが静止していたということからは起こりえなかっ
たのである。なぜならそのことからは物体Aが静止していたということ以外の何ごとも生じえな
かったからである。これに反してもしAが運動していると仮定するなら、我々がAだけを眼中に
置く間は、我々はそれについて、それが運動しているということ以外の何ごとをも主張しえない
であろう。もしそのあとで、Aが静止するということが起こるとしたら、それはまたたしかに、
Aが有していた運動からは起こりえなかったのである。なぜなら、その運動からは、Aが運動し
ていたということ以外のいかなることも生じえなかったからである。ゆえにそれは、Aの中にな
かった物から、すなわち(運動している物体Aを)静止するように決定した外的原因から生じたの
である。
公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時
に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれ
てさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で
動かされることになる。
公理二 運動している物体が静止している他の物体に衝突してこれを動かすことができない場
合には、それは酔ね返って自己の運動を継続する。そして弾ね返る運動の線がその衝突した静止
物体の面となす角度は、打ち当る運動の線が同じ面となす角度に等しいであろう。
以上は最も単純な物体について、すなわち単に運動および静止、迅速および遅緩によって相互
に区別される物体についてである。これから我々は複合した物体に移ろう。
\ /
__\__/___
/ \/ /
/________/
定義 同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧
力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらい \ /
くつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動 __\__/___
をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体 / \/ /
がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一 /________/
個体を組織していると言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこ
うした合一によって他の諸物体と区別される。
公理三 個体の、あるいは複合した物体の、各部分がより大なるあるいはより小なる表面をも 114
って相互に接合するにつれて、それらの部分は自己の位置を変えるように強制されることがそれ
だけ困難にあるいはそれだけ容易になる。したがってまたその個体自身も他の形状をとるように
されることがそれだけ困難にあるいはそれだけ容易になる。そこで私は、その部分が大なる表面
をもって相互に接合する物体を硬、その部分が小なる表面をもって接合する物体を軟、最後にま
たその部分が相互に運動する物体を流動的と呼ぶであろう。
補助定理四 もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分
離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相
を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。
証明 なぜなら、物体は(補助定理一により)実体に関しては区別されない。一方、個体の形相
を構成するものは(前定義により)(単に)構成物体の合一に存する。ところがこの合一は(仮定に
より)、構成物体の絶えざる変化にもかかわらず保持されることになっている。ゆえにこの個体
は実体ならびに様態に関して以前のままの本性を保持するであろう。Q・E・D・
補助定理五 もし個体を組織する各部分が、すべてその相互間の運動および静止の割合を以前
のままに保つような関係において、より大きくあるいはより小さくなるならば、その個体もまた
何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。
証明 この補助定理の証明は前の補助定理のそれと同一である。
補助定理六 もし個体を組織するいくつかの物体がある方向に対して有する運動を他の方向に
転ずるように強いられ、しかもその運動を継続しかつその運動を以前と同じ割合において相互間
に伝えることができるようにされるならば、その個体はやはり何ら形相を変ずることなくその本
性を保持するであろう。
証明 それ自体で明らかである。なぜなら、仮定によれば、この個体は我々が先に個体の定義
の中で個体の形相を構成すると言ったすべてのものを保持しているからである。(補助定理四の
前にある定義を見よ。)
補助定理七 そのほか、このように複合した個体は、全体として運動ないし静止していようと
も、あるいはこのないしかの方向に運動していようとも、もしただその各部分が自己の運動を保
持してそれを以前と同じように他の部分に伝えてさえいれば、その本性を保持する。
証明 これ(もまた)その定義から明白である。補助定理四の前にある定義を見よ。
備考 このようにして我々は、これから、複合した個体が多様の仕方で動かされかつそれにも
かかわらずその本性を保ちうることの理由を解しうる。
これまで我々は単に運動および静止、迅速および遅緩によって相互に区別される諸物体からの
み組織されている個体、言いかえれば最も単純な諸物体からのみ組織されている個体を考えた。 116
しかし今もし本性を異にする多くの個体から組織されている他の個体を考えるなら、その個体は
他のいっそう多くの仕方で動かされかつそれにもかかわらずその本性を保ちうることを我々は見
いだすであろう。なぜなら、その個体の各部分が種々の物体から組織されているのだから、その
各部分は(前の補助定理により)個体の本性を少しも変えることなしに、ある時は緩やかにある時
は速やかに運動し、したがってまたその運動を他の部分へ速やかにあるいは緩やかに伝えること
ができるだろうからである。
もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、
我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを
見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一
つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすこと
なしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろう。
もし私の意図が(物質についてあるいは)物体について専門に(かつ特別に)論ずることにあった
としたら、私はこれらのことをもっと詳しく説明し証明しなければならなかったであろう。しか
し、すでに述べたように、私の意図するところは別のものであり、私がこうした事柄をここに問
題としたのは、私が本来証明しようと企てたことをそれから容易に引き出しうるためにほかなら
なかったのである。
要請
一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体 〜 そのおのおのがまたきわめて複雑な
組織の 〜 から組織されている。
二 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあ
るものは硬い。
三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様
の仕方で刺激される。
四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわ
ば絶えず更生される。
五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定
されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源で
ある外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。
六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で
影響することができる。
定理一四 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身
体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。
証明 なぜなら人間身体は(要請三および六により)きわめて多くの仕方で外部の物体から 118
刺激(アフイキトウル)されるし、またきわめて多くの仕方で外部の物体を刺激するような状態にされる。ところが
人間身体の中に起こるすべてのことを人間精神は知覚しなければならぬ(この部の定理一二によ
り)。ゆえに人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適し、そしてこの適性は(人間身体の
適性がより大なるに従ってそれだけ大である。)Q・E・D・
定理一五 人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から
組織されている。
証明 人間精神の形相的有を構成する観念は身体の観念であり(この部の定理一三により)、そ
してこの身体は(要請一により)きわめて複雑な組織のきわめて多くの個体から組織されている。
ところが身体を組織するおのおのの個体について必然的に神の中に観念が存する(この部の定理
八の系により)。ゆえに(この部の定理七により)人間身体の観念は、身体を組縮する部分につい
てのきわめて多くのこうした観念から組織されている。Q・E・D・
定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフイキトウル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と
同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。
証明 なぜなら、ある物体が刺激される一切の様式は、刺激される物体の本性からと同時に刺
激する物体の本性から生ずる(補助定理三の系のあとにある公理二により)。ゆえにこれらの様式
の観念は(第一部公理四により)必然的に両方の物体の本性を含む。したがって人間身体が外部の
物体から刺激される一切の様式の観念は、人間身体の本性ならびに外部の物体の本性を含む。
Q・E・D・
系一 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体
の本性を知覚するということになる。
系二 第二に、我々が外部の物体について有する観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の
状態をより多く示すということになる。これは私が第一部の付録の中で多くの例を挙げて説明し
たところである。
定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間
精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を
現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。
証明 明白である。なぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されて(アフエクトウス)いる間は、人間精神は
(この部の定理三により)身体のこの刺激(アフエクテイオ)を観想するであろう。言いかえれば、精神は(前定
理により)現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外
部の物体の本性の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。
したがって精神は(前定理の系一により)、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激
を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想す
るであろう。Q・E・D・
系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しな 120
くても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。
証明 人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定さ
れると、軟かい部分の表面は(要請五により)変化する。この結果として、流動的な部分は、軟か
い部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部
分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分は前に外部の物体か
ら軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる(補助定理三の系
のあとにある公理二を見よ)。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以
前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神
は(この部の定理一二により)ふたたび認識するであろう。言いかえれば精神は(この部の定理一
七により)ふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人
間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるで
あろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体の
こうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう。
Q・E・D・
備考 このようにして我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在
するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。そしてこのことは他の原
因からも起こることが可能である。しかしここでは真の原因によってそれを説明したと同様の効
果のある一つの原因を示しただけで私にとっては十分である。それにまた私は真の原因からそれ
ほど遠ざかっているとは信じない。なぜなら、私が採用したあのすべての要請は経験によって裏
付けられないことをほとんど含んでいないのであり、そして人間身体が我々の感ずるとおりに存
在していることを示した今では、経験について疑うことは我々にとって許されないからである
(この部の定理一三のあとにある系を見よ)。
その上我々は(前の系ならびにこの部の定理一六の系二から)例えばペテロ自身の精神の本質を
構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差
異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテ
ロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの
身体の状態をより多く示しており〈この部の定理一六の系二を見よ〉、したがって。パウロの身体の
この状態が持続する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとっ
て現在するものとして観想するであろう。
なお普通に用いられている言葉を保存するために、人間身体の変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕 〜 我々はこ
の変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである 〜 は物の
形状を再現しないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕
方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。
それから私はここに誤謬とは何であるかを示す手始めとして、次のことを注意したい。それは、
精神の表象はそれ自体において見れば何の誤謬も食んでいないということ、言いかえれば精神 122
は物を表象するからといってただちに誤りを犯しているのではなく、ただ精神が自己に現在する
ものとして表象する事物についてその存在を排除する観念を欠いていると見られる限りにおいて
のみ誤りを犯しているのであるということである。なぜなら、もし精神が存在しない物を自己に
現在するものとして表象するのに際し、それと同時にその物が現実に存在しないことを知ってい
たとしたら、精神はたしかに、表象するこの能力を、自己の本性の欠点とは認めず、かえって長
所と認めたことであろう。特にもしこの表象能力が精神の本性にのみ依存しているとしたら、言
いかえれば(第一部定義七により)もし精神のこの表象能力が自由であったとしたら、なおさらそ
うであろう。
定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精
神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。
証明 精神がある物体を表象するのは(前の系により)人間身体のいくつかの部分がかつて外部
の物体自身から刺激されたのと同様の刺激・同様の影響を人間身体が外部の物体の残した痕跡か
ら受けることに基づくのである。ところが(仮定によれば)身体はかつて、精神が同時に二つの物
体を表象するようなそうした状態に置かれていた。ゆえに精神は、今もまた、同時に二つのもの
を表象するであろう。そしてその一つを表象する場合、ただちに他のものを想起するであろう。
Q・E・D・
備考 このことから我々は、記憶の何たるかを明瞭に理解する。すなわちそれは、人間身体の
外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。そしてこの連結は精神の中に、人間
身体の変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕の秩序および連結に相応して生ずる。
私は第一に、それは単に人間身体の外部に在る物の本性を含む観念の連結であって、それらの
物の本性を説明する観念の連結ではないと言う。なぜなら、それは実は人間身体の変状〔刺激状
態〕の観念にほかならぬのであり、そしてこの観念は人間身体の本性と外部の物体の本性とを含
んでいるからである(この部の定理一六により)。私は第二に、この連結は人間身体の変状〔刺激
状態〕の秩序および連結に相応して生ずると言う。そのわけはこれを知性の秩序に相応して生ず
る観念の連結と区別するためである。この知性の観念の連結においては精神はその第一原因によ
って知覚する、そしてこの知性の観念の連結はすべての人間にあって同一なのである。
さらにこれから我々は、なにゆえに精神が一つの物の思いからただちにそれとは少しも類似性
のない他の物の思いへ移るかを明瞭に理解する。例えばローマ人はポームム〔くだもの〕という言 (ボームム)
葉の思いからただちにある果実の思いへ移るであろう。この果実はあの発音された音声とは何の
類似性もなくまた何の共通点もない。ただ同じ人間の身体がこの両者からしばしば刺激されただ
けにすぎない。言いかえれば、人間がその果実自体を目にしながら同時に幾度もポームムという
言葉を聞いたというにすぎない。このようにして各人は、自分の習慣が事物の表象像を身体の中
で秩序づけているのに応じて一つの思いから他の息いへ移るであろう。例えば軍人は、砂の中に
残された馬の足跡を見て、ただちに馬の思いから騎士の思いへ、また騎士の思いから戦争その他
の思いへ移るであろう。ところが農夫は、馬の思いから鋤や畑その他の思いへ移るであろう。こ 124
のようにして各人は、自分が事物の表象像をこのあるいはかの仕方で結合し、連結するように習
慣づけられているのに応じて一つの思いからこのあるいはかの思いへ移るであろう。
定理一九 人間精神は身体が受ける刺激(アフエクテイオ)〔変状〕の観念によってのみ人間身体自身を認識し、
またそれの存在することを知る。
証明 なぜなら、人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない(この部の定理一三
により)。そしてこの観念あるいは認識は、神が他の個物の観念に変状(アフエクトウス)したと見られる限りにおい
て神の中に在る(この部の定理九により)。言いかえれば、人間身体はいわば絶えず更生されるた
めにきわめて多くの物体を要するから(要請四により)、そして観念の秩序および連結は原因の秩
序および連結と同一であるから(この部の定理七により)、この観念〔人間身体の観念〕は、神がき
わめて多くの個物の観念に変状(アフエクトゥス)したと見られる限りにおいて神のうちに在るであろう。こうして
神は、人間精神の本性を構成する限りにおいてではなく、きわめて多くの他の観念に変状した限
りにおいて、人間身体の観念を有し、あるいは人間身体を認識する。言いかえれば(この部の定
理一一の系により)人間精神は人間身体を認識しないのである。 〜 これに反して、身体の変状
〔刺激状態〕の観念は、神が人間精神の本性を構成する限りにおいて神の中に在る。すなわち人間
精神はそうした変状〔刺激状態〕を知覚する(この部の定理一二により)。したがって人間精神は
(この部の定理一六により)人間身体自身を知覚し、しかもそれを(この部の定理一七により)現実
に存在するものとして知覚する。ゆえにこの限りにおいてのみ人間精神は人間身体自身を知覚す
る。Q・E・D・
定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認
識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せら
れる。
証明 思惟は神の属性である(この部の定理一により)。ゆえに思惟ならびに思惟のすべての変
状について(この部の定理三により)、したがってまた人間精神についても(この部の定理一一に
より)、必然的に神の中に観念がなければならぬ。次に精神のこの観念あるいは認識は、神が無
限である限りにおいて神の中にあるのではなく、神が他の個物の観念に変状した限りにおいて神
の中にある(この部の定理九により)。ところが観念の秩序および連結は原因の秩序および連結と
同一である(この部の定理七により)。ゆえに精神のこの観念あるいは認識は、身体の観念あるい
は認識と同様の仕方で神の中に生じ、また神に帰せられる。Q・E・D・
定理二ー 精神のこの観念は、精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一し
ている。
証明 精神が身体と合一していることを我々は身体が精神の対象であることから明らかにした
(この部の定理一二および一三を見よ)。したがってこれと同じ理由により、精神の観念も、精神
自身が身体と合一しているのと同様の仕方でその対象と、言いかえれば精神自身と、合一してい 126
なければならぬ。Q・E・D・
備考 この定理はこの部の定理七の備考の中で述べたことからはるかに明瞭に理解される。な
ぜなら、我々はそこで、身体の観念と身体とは、言いかえれば(この部の定理一三により)精神と
身体とは同一個体であって、それがある時は思惟の属性のもとである時は延長の属性のもとで考
えられるのであることを明らかにした。同様に、精神の観念と精神自身ともまた同一物であって、
それが今度は同一の属性すなわち思惟の属性のもとで考えられるのである。つまり、精神の観念
と精神自身とは同一の必然性をもって同一の思惟能力から神の中に生ずるのである。なぜなら、
精神の観念すなわち観念の観念というものは実は観念 〜 その対象との関係を離れて思惟の様態
として見られる限りにおいて 〜 の形相〔本質〕にほかならないからである。これは、ある人があ
ることを知ればその人はそれによって同時に自分がそれを知ることを知り、また同時に自分は自
分がそれを知ることを知ることを知り、このようにして無限に進む、ということから明らかであ
る。しかしこれについてはあとにゆずる。
定理二二 人間精神は、身体の変状〔刺激状態〕のみならずこの変状の観念をも知覚する。
証明 変状の観念の観念は、変状の観念そのものと同様の仕方において神の中に生じ、また同
様の仕方において神に帰せられる。これはこの部の定理二〇と同様の方法で証明される。ところ
が身体の変状の観念は人間精神の中にある(この部の定理一二により)。言いかえればそれは神が
人間精神の本質を構成する限りにおいて神の中にある(この部の定理一一の系により)。ゆえにこ
れらの観念の観念は、神が人間精神の認識あるいは観念を有する限りにおいて神の中にあるであ
ろう。言いかえればそれは(この部の定理二一により)人間精神自身の中にあるであろう。それゆ
え人間精神は、身体の変状のみならず、その観念をも知覚する。Q・E・D・
定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識す
る。
証明 精神の観念あるいは認識は(この部の定理二〇により)身体の観念あるいは認識と同様の
仕方で神の中に生じ、かつ同一の仕方で神に帰せられる。ところが(この部の定理一九により)人
間精神は人間身体自身を認識しないから、言いかえれば(この部の定理一一の系により)人間身体
の認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神に帰せられないから、したがって精神
の認識もまた、神が人間精神の本質を構成する限りにおいては神に帰せられない。それゆえ(同
じくこの部の定理一一の系により)人間精神はその限りにおいては自分自身を認識しない。次に
身体が受ける刺激〔変状〕の観念は人間身体自身の本性を含む(この部の定理一六により)、言いか
えればそれは(この部の定理一三により)精神の本性と一致する。それゆえにこれらの観念の認識
は必然的に精神の認識を含む。ところが(前定理により)これらの観念の認識は人間精神自身の中
に在る。ゆえに人間精神はその限りにおいてのみ自分自身を認識するのである。Q・E・D・
定理二四 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。
証明 人間身体を組織する部分は、それが自己の運動をある一定の割合で相互間に伝達する限 128
りにおいてのみ身体自身の本質に属し(補助定理三の系のあとにある定義を見よ)、それが個体と
して人間身体と関係なしに考察されうる限りにおいては身体の本質に属さない。事実、人間身体
の部分はきわめて複雑な組織の個体であり(要請一により)、それらの部分は、身体の本性および
形相を少しも変えることなしに、身体から分離することもできるし(補助定理四により)また自己
の運動を他の諸物体へ異なる仕方で伝達することもできる(補助定理三のあとにある公理一を見
よ)のである。こうして(この部の定理三により)おのおののこうした部分の観念あるいは認識は
神の中に在るであろうが、しかしそれは神が他の個物自然の秩序から言ってそうした部分に
先立っているような(この部の定理七により)の観念に変状したと見られる限りにおいてであ
る(この部の定理九により)。さらに人間身体を組織する個体自身のそのまたおのおのの部分につ
いても同じことが言われうる。したがって人間身体を組織するおのおのの部分の認識は、神が単
に人間身体の観念、言いかえれば(この部の定理一三により)人間精神の本性を構成する観念を有
する限りにおいてではなく、神がきわめて多くの事物の観念に変状した限りにおいて、神の中に
在る。したがって(この部の定理二の系により)人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認
識を含んでいない。Q・E・D・
定理二五 人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでい
ない。
証明 外部の物体が人間身体をある一定の仕方で刺激する限りその限りにおいて人間身体の
変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕の観念はその外部の物体の本性を含んでいることを我々は示した(この部の定
理一六を見よ)。しかし外部の物体がもともと人間身体と関係のない個体である限りにおいては、
それの観念あるいは認識は、神が他の事物 〜 本性上外部の物体自身に先立っているような(こ
の部の定理七により) 〜 の観念に変状(アフエクトウス)したと見られる限りにおいてのみ神の中に在る(この部の
定理九により)。ゆえに外部の物体の妥当な認識は、神が人間身体の変状の観念を有する限りに
おいては神の中にない。すなわち人間身体の変状の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいな
い。Q・E・D・
定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフエクトウス)〔刺激状態〕の観念によってのみ外部の物体を現実に存
在するものとして知覚する。
証明 もし人間身体がある外部の物体からいかなる仕方でも刺激(アフエクトウス)ぎれないなら、人間身体の観
念もまた(この部の定理七により)、言いかえれば(この部の定理一三により)人間精神もまた、い
かなる仕方でもそうした物体の存在の観念に刺激されない。すなわち人間精神はそうした外部
の物体の存在をいかなる仕方でも知覚しない。これに反して人間身体がある外部の物体からある
仕方で刺激される限り、人間精神は(この部の定理一六およびその系一により)外部の物体を知覚
する。Q・E・D・
系 人間精神は、外部の物体を表象する限り、それの妥当な認識を有しない。
証明 人間精神がその身体の変状の観念によって外部の物体を観想する時、我々は精神が物を 130
表象すると言う(この部の定理二七の備考を見よ)。しかも精神は他の仕方では(前定理により)外
部の物体を現実に存在するものとして表象しえない。したがって(この部の定理二五により)精神
は外部の物体を表象する限りそれの妥当な認識を有しない。Q・E・D・
定理二七 人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含
んでいない。
証明 人間身体のおのおのの変状の観念は、すべて、人間身体自身がある一定の仕方で刺激さ
れると見られる限りにおいて人間身件の本性を含んでいる(この部の定理二六を見よ)。しかし人
間身体がなお多くの他の仕方で刺激されうる個体である限りにおいてはそれの観念は云々。この
部の定理二五の証明を見よ。
定理二八 人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるもので
はなく、混乱したものである。
証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は外部の物体ならびに人間身体自身の本性を含んでい
る(この部の定理二六により)。しかもそれは人間身体の本性のみならずその部分の本性も含んで
いなければならない。なぜなら変状とは人間身体の部分、したがってまた身体全体が刺激される
様式だからである(要請三により)。ところが(この部の定理二四および二五により)外部の物体の
妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は神が人間精神に変状したと見られる
限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に
在る、<言いかえれば(この部の定理一三により)この認識は神が人間精神の本性を構成する限り
においては神の中にない>。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、い
わば前提のない結論のようなものである。言いかえればそれは(それ自体で明白なように)混乱し
た観念である。Q・E・D・
備考 人間精神の本性を構成する観念は単にそれ自体のみにおいて考察すれば明瞭判然たるも
のでないということは同様の仕方で証明される。人間精神の観念および人間身体の変状の観念の
観念も、それが単に精神にのみ関連している限りそうである。〈すなわち混乱したものである。〉
これは各人の容易に知りうるところである。
定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。
証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は(この部の定理二七により)身体自身の妥当な認識を
含んでいない。あるいはその本性を妥当に表現しない。言いかえればそれは(この部の定理一三
により)精神の本性と妥当に一致しない。したがって(第一部公理六により)その観念の観念もま
た人間精神の本性を妥当に表現しない。あるいはその妥当な認識を含んでいない。Q・E・D・
系 この帰結として、人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自
身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損(きそん) 132
した認識のみを有する、ということになる。なぜなら、精神は、身体の変状の観念を知覚する限
りにおいてのみ自分自身を認識する(この部の定理二三により)、また精神は身体の変状の観念自
身によってのみ自分の身体を知覚し(この部の定理一九により)、さらに同じくこの変状の観念自
身によってのみ外部の物体を知覚する(この部の定理二六により)。したがって精神は、そうした
観念を有する限りは、自分自身についても(この部の定理二九により)、自分の身体についても
(この部の定理二七により)、外部の物体についても(この部の定理二五により)、妥当な認識を有
せず、単に(この部の定理二八ならびにその備考により)毀損し・混乱した認識を有するのみであ
る。Q・E・D・
備考 私ははっきり言う 〜 精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いか
えれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのもの
を観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当
な認識を有せず、単に混乱し(殴損し)た認識を有するのみである。これに反して内部から決定さ
れて、すなわち多くの物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識す
る場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいほかの仕方で内部から決定される場合には、
精神は常に物を明瞭判然と観想するからである。このことについてはのちに示すであろう。
定理三〇 我々は我々の身体の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。
証明 我々の身体の持続は身体の本質に依存しないし (この部の公理一により)、また神の絶対
的本性にも依存しない(第一部定理二一により)。むしろ身体は(他の)原因から存在し・作用する
ように決定され、この原因がまた他の原因からある一定の仕方で存在し・作用するように決定さ
れ、さらにこの後者も他から決定され、このようにして無限に進む。したがって我々の身体の持
続は自然の共通の秩序および諸物の排列状態に依存する。しかし諸物がいかなる仕方で排列され
ているかについての妥当な認識は、神がすべての物の観念を有する限りにおいて神の中に在り、
神が単に人間身体の観念を有する限りにおいては神の中にはない(この部の定理九の系により)。
ゆえに我々の身体の持続の認識は、神が単に我々の精神の本性を構成すると見られる限りにおい
ては神の中においてきわめて非妥当なものである。言いかえれば(この部の定理一一の系により)
この認識は我々の精神の中においてはきわめて非妥当なものである。Q・E・D・
定理三一 我々は我々の外部に在る個物の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつこと
ができない。
証明 なぜなら、おのおのの個物は人間身体と同様に他の個物からある一定の仕方で存在し・
作用するように決定されなければならぬ、そしてこの後者もまた他の物から決定され、このよう
にして無限に進む(第一部定理二八により)。ところが我々は前定理において、我々が我々の身体
の持続についてきわめて非妥当な認識しか有しないことを個物のこの共通の特質から証明した。
ゆえに個物の持続についても同じことが結論されるであろう。すなわち我々は個物の持続につい
てはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。Q・E・D・
系 この帰結として、すべての個物は偶然的でかつ可滅的であるということになる。というの (可滅性)134
は、我々は個物の持続について何ら妥当な認識をもつことができないのであり(前定理により)、
そして我々が物の偶然性とか可滅性とか言っているのは結局そうしたことを指しているのだから
である(第一部定理三三の備考一を見よ)。実際この意味以外ではおよそ偶然的な物は一つとして
存在しないのであるから(第一部定理二九により)。
定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。
証明 なぜなら、神の中に在るすべての観念は、その(対象すなわち)観念されたものとまっ
たく一致する(この部の定理七の系により)。したがって(第一部公理六により)すべて真である。
Q・E・D・
定理三三 観念の中にはそれを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存しない。
証明 これを否定しようとする者は、もしできるなら、誤謬または虚偽の形相を構成するある
積極的な思惟の様態が存在すると考えてみよ。この思惟の様態は神の中に在ることができない
(前定理により)。しかしそれは神の外にも在りまたは考えられることができない(第一部定理一
五により)。それゆえ、観念の中には、それを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存し
えない。Q・E・D・
定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。
証明 我々の中に妥当で完全な観念が存すると我々が言う時、それは(この部の定理一一の系
により)、我々の精神の本質を構成する限りにおいての神の中に妥当で完全な観念が存すると言
っているのにほかならぬのであり、したがってまた(この部の定理三二により)そうした観念が真
であると言っているのにほかならないのである。Q・E・D・
定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。
証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部の定理三三に
より)。しかし虚偽は(認識の)絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言
われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも
存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。
それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏
に存する。Q・E・D・
備考 この部の定理一七の備考の中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明
した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもって
あることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした
誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らな 136
いということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原
因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると
育ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないので
ある。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らな
いのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪を
ひき起こすのが常である。
同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬
はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距
離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球
の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり
太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとし
て表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕
は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。
定理三六 非妥当で混乱した観念は、妥当なあるいは明瞭判然たる観念と同一の必然性をもっ
て生ずる。
証明 すべての観念は神の中に在る(第一部定理一五により)、そしてそれは神に関する限りに
おいて真であり(この部の定理三二により)、また(この部の定理七の系により)妥当である。した
がっていかなる観念も、それがある人間の単独の精神に関する限りにおいてでなくては、非妥当
でもなければ混乱してもいない(これについてはこの部の定理二四および二八を見よ)。それゆえ
に観念は、妥当なものでも非妥当なものでも、すべて同一の必然性をもって生ずるのである(こ
の部の定理六の系により)。Q・E・D・
定理三七 すべての物に共通であり(これについては先の補助定理二を見よ)、そして等しく部
分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない。
証明 これを否定しょうとする者は、もしできるなら、そうしたものがある個物の本質を、例
えばBの本質を構成すると考えてみよ。この場合(この部の定義二により)そうしたものはBなし
には存在することも考えられることもできないであろう。ところがこれは仮定に反する。ゆえに
そうしたものはBの本質に属さないしまた他の個物の本質も構成しない。Q・E・D・
定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥
当にしか考えられることができない。
証明 Aがすべての物体に共通でありそして等しく各物体の部分の中にも全体の中にも在るも
のであるとしよう。私はAが妥当にしか考えられることができないと主張するのである。なぜな
ら、Aの観念は(この部の定理七の系により)神が人間身体の観念を有する限りにおいても、また
神が人間身体の変状〔刺激状態〕の観念 〜 人間身体の本性ならびに外部の物体の本性を部分的に 138
含むような(この部の定理一六、二五および二七により)〜 を有する限りにおいても、必然的に
神の中で妥当であるであろう。言いかえれば(この部の定理一二および一三により)Aの観念は神
が人間精神を構成する限りにおいて、あるいは神が人間精神の中に在る観念を有する限りにおい
て、必然的に神の中で妥当であるであろう。ゆえに精神は(この部の定理一一の系により)Aを必
然的に妥当に知覚する。しかもそれは精神が自分自身を知覚する限りにおいても、自分の身体あ
るいは外部の物体を知覚する限りにおいてもそうである。そしてAは他の仕方では考えられるこ
とができないのである。Q・E・D・
系 この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。
なぜなら(補助定理二により)すべての物体はいくつかの点において一致し、そしてこれらの点は
(前定理により)すべての人から妥当にあるいは明瞭判然と知覚されなければならぬからである。
定理三九 人間身体および人間身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体に共通で
かつ特有であるもの、そして等しくこれら各物体の部分の中にも全体の中にも在るもの、そうし
たものの観念もまた精神の中において妥当であるであろう。
証明 Aが人間身体およびいくつかの外部の物体に共通でかつ特有であるもの、等しく人間身
体の中にもこれらの外部の物体の中にも在るもの、そして最後に等しくこれら外部の各物体の部
分の中にも全体の中にも在るもの、としよう。そうすればA自身については、神が人間身体の観
念を有する限りにおいても、また神が前述の外部の諸物体の観念を有する限りにおいても、神の
中に妥当な観念が在るであろう(この部の定理七の系により)。いま人間身体が、外部の物体から、
外部の物体と共通に有するところのものによって、すなわちAによって刺激されると仮定しょう。
そうすればこの刺激〔変状〕の観念はAという特質を含むであろう(この部の定理一六により)。ま
たそれゆえに(再びこの部の定理七の系により)この刺激〔変状〕の観念は、Aという特質を含む限
りにおいて、神の中で妥当であるであろう〜〜神が人間身体の観念に変状した限りにおいて、言
いかえれば(この部の定理一三により)神が人間精神の本性を構成する限りにおいて。したがって
また(この部の定理一一の系により)この観念は人間精神の中でも妥当である。Q・E・D・
系 この帰結として、身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多く
のものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになる。
定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当で
ある。
証明 明白である。なぜなら、「人間の精神のうちの妥当な観念から精神のうちにある観念が
生ずる、」と我々が言う場合、それは(この部の定理一一の系により)、「神が無限である限りにお
いてではなく、また神がきわめて多くの個物の観念に変状した限りにおいてでもなく、神が単に
人間精神の本質を構成する限りにおいて、神の知性自身の中に神を原因とするある観念が在る、」
と言っているのにほかならない〈、そしてこのゆえにそれは妥当なものでなければならぬ〉。
備考一 これをもって私は共通概念と呼ばれていて我々の推論の基礎となっている概念の原因 140
を説明した。しかしある種の公理あるいは概念には他の原因があるのであり、これを我々のこう
した方法で説明することは有益で為るであろう。なぜならそれによって、いかなる概念が他の概
念より有用であるか、またこれに反していかなる概念がほとんど無用であるかが判明するだろう
し、さらにまたいかなる概念が〔すべての人々に〕共通であり、そしていかなる概念が偏見に煩(わずら)わ
されない人々にのみ明瞭判然であるか、最後にまたいかなる概念が悪しき基礎の上に立っている
かが判明するであろうから。なおまた第二次概念と呼ばれる概念が、したがってまたその概念を
基礎としている公理が、どこにその起因を有しているかも明らかになるだろうし、また私が今ま
でこれについて考察してきた他の多くのこともはっきりするであろうから。しかし私はこのこと
を他の論文に譲ったし、それにまたこの事項についてあまり長くなって嫌気を起こさせてはと思
ったので、ここではそれを省くことにした。
けれども知る必要のあることは決して洩らさないために、私は「有」「物」「ある物」のような
いわゆる超絶的名辞が起こった原因をついでに簡単に示すであろう。これらの名辞は、人間身体
は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(表象像が何であるかはこの部の定理
一七の備考の中で説明した)しか同時に判然と形成することができないということから生ずる。
もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。そしてもし身体が自らのうちに同時
に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱
するであろう。こんな次第であるから、この部の定理一七の系ならびに定理一八からして、人間
精神は、その身体の中で同時に形成されうる表象像の数だけの物体しか同時に判然と表象しえな
いということが明らかである。これに反して表象像が身体の中でまったく混乱するような場合に
は、精神もまたすペての物体を混乱してまったく差別なしに表象するであろう、そしてそれをい
わば一つの属性すなわち「有」「物」などの属性のもとに包括するであろう。なおこのことは表
象像が常に等しく清澄でないということからも導き出されるし、またこれと類似の他の諸原因か
らも導き出される。しかしそれをここに説明することは必要でない。我々の目指す目的のために
はただ一つの原因を考察するだけで十分である。なぜなら、どの原因を持ってきてみても、それ
は結局、超絶的名辞はきわめて混乱した観念を表示するということを示すことに落ちつくからで
ある。
次に「人間」「馬」「犬」などのような一般的概念と呼ばれる概念が生じたのも同様の原因から
である。すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数
が表象力を徹底的には超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の
些細な相違(例えばおのおのの人間の色、大いさなど)ならびにそれらの人間の定数をもはや表象
することができずただそれらの人間全体の一致点 〜 身体がそれらの人間から刺激される限りに
おいて生ずる一致点 〜 のみを判然と表象しうる(なぜならその点において身体は最も多くそれ
ら個々の人間から刺激されたのだから)ような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点
を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。今も言ったように精神
はそれらの個々の人間の定数を表象しえないのであるから。しかし注意しなければならぬのは、
これらの概念はすべての人から同じ仕方で形成されはしないこと、身体がよりしばしば刺激され 142
たもの、したがってまた精神がよりしばしば表象しまたは想起するものに応じてそれは各人にお
いて異なっていることである。例えばよりしばしば人間の姿を驚歎して観想した者は人間という
名前を直立した姿の動物と解するであろう。これに反して人間を別なふうに観想するのに慣れた
者は人間に関して他の共通の表象像を形成するであろう。すなわち人間を笑う動物、羽のない二
足動物、理性的動物などとするであろう。このようにしてその他のことについても各人は自分の
身体の状態に応じて物の一般的表象像を形成するであろう。だから自然の事物を事物の単なる表
象像によって説明しようとした哲学者たちの間にあれほど多くの論争が起こったのも不思議はな
いのである。
備考二 上に述べたすべてのことからして、我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的
概念を形成することが明白に分かる。すなわち次の手段で〜〜
一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろ
の個物から(この部の定理二九の系を見よ)。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験に
よる認識と呼び慣れている。
二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それ
について物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部の定理二八の備考
を見よ)。
事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナテイオ)と呼ぶであろう。
三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この
部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。そしてこれを私は理性(ラティオ)あ
るいは第二種の認識と呼ぶであろう。
これら二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれ
を直観知(スキエンティア・イントウイテイヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本
質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。
これらすべてを私は一つの例で説明しよう。例えばここに三つの数が与えられていて第二数が
第一数に対するのと等しい関係を第三数に対して有する第四数を得ようとする。商人は躊躇なく
第二数に第三数を乗じ、その結果を第一数で除する。これは彼が先生から何の証明もなしに聞い
たことをまだ忘れずにいたためであるか、あるいは彼がごく簡単な数でそれをしばしば経験した
ためか、あるいはまたユークリッド第七巻の定理一九の証明すなわち比例数の共通の特質に基づ (ユークリッド)
いたかである。しかしごく簡単な数ではこうしたことは必要でない。例えば一、二、三の数が与
えられた場合第四の比例数が六であることは誰にも分かるであろう。そしてこの場合は、第一数
が第二数に対して有する関係そのものを直観の一瞥(べつ)をもって見てとってそれから第四数自身を帰
結するのであるから、はるかに明瞭である。
定理四一 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種
の認識は必然的に真である。
証明 我々は前の備考において、第一種の認識には非妥当で混乱したすべての観念が属すると 144
言った。したがって(この部の定理三五により)この認識は虚偽の唯一の原因である。次に我々は、
第二種および第三種の認識には妥当な諸観念が属すると言った。したがって(この部の定理三四
により)これらの認識は必然的に真である。Q・E・D・
定理四二 我々に真なるものと偽なるものとを区別することを教えるのは、第一種の認識でな
くて第二種および第三種の認識である。
証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、異なるものと偽なるものとを区別するこ
とを知っている者は、異なるものと偽なるものとについて妥当な観念を有しなければならぬから
である。言いかえれば(この部の定理四〇の系二(×→○備考二)により)真なるものと偽なるものとを第二種また
は第三種の認識によって認識しなければならぬからである。
定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのこ
との真理を疑うことができない。
証明 我々の中の真の観念は、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中で
妥当な観念である(この部の定理一一の系により)。そこで今、神が人間精神の本性によって説明
される限りにおいて神の中に妥当な観念Aが存在すると仮定しよう。この観念についてはまた、
この観念と同様の仕方で神に帰せられるある観念が神の中に必然的に存在しなければならぬ(こ
の部の定理二〇による。その証明は普遍的である(そしてすべての観念にあてはめられうる)か
ら)。ところが、仮定によれば、観念Aは神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて
神に帰せられている。ゆえに観念Aの観念もまた同様の仕方で神に帰せられなければならぬ。言
いかえれば(再びこの部の定理一一の系により)観念Aについての妥当なこの観念は、妥当な観念
Aを有する同じ精神の中に在るであろう。したがって、妥当な観念を有する者、あるいは(この
部の定理三四により)物を真に認識する者は、同時に、自分の認識について妥当な観念あるいは
真の認識を有しなければならぬ。言いかえれば(それ自体で明らかなように)彼は同時にそれにつ
いて確実でなければならぬ。Q・E・D・
備考 この部の定理二一の備考の中で私は、観念の観念とは何であるかを説明した。しかし前
定理はそれ自体で十分明白であることをここに注意しなくてはならぬ。なぜなら、真の観念を有
する者は誰でも、真の観念が最高の確実性を含んでいることを知っているからである。というの
は、真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。
実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言のものであ
って思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは。あえて問うが、前もって物
を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって
物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。次に真理
の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、
光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
これで私は次の諸問に答えたと信ずる。
それはすなわち、もし真の観念が(思惟の様態である限りにおいてではなく)単にその対象と一 146
致すると言われる限りにおいてのみ偽の観念と区別されるのなら、真の観念は実在性あるいは完
全性において偽の観念以上のものを何ら有しないのかどうか(なぜなら両者は単に外的特徴によ
ってのみ区別される〈内的特徴によっては区別されない〉のだから)、 〜 したがってまた真の観
念を有する〈人間あるいは人間精神〉も単に偽の観念のみを有する人間より実在性あるいは完全性
において優れていないのかどうか、という問いである。
次に、人間が偽の観念を有するのは何に由来するのか、という問いである。
最後にまた、人は自らがその〈客体あるいは〉対象と一致する観念を有することを何によって確
如しうるか、という問いである。
これらの問いに私は、今も言ったように、すでに答えたと信ずる。
なぜなら、真の観念と偽の観念との相違に関して言えば、前者は後者に対して有が非有に対す
るような関係にあることがこの部の定理三五によって明らかになっている。
次に、虚偽の原因については、私は定理一九から定理三五およびその備考に至るまでの間に十 (虚偽の原因)
分明瞭に示した。これによってまた、真の観念を有する人間と偽の観念しか有しない人間との相
違も明白になっている。
最後の点、すなわち人間は自らが〈その客体または〉その対象と一致する観念を有することを何
によって知りうるかということについて言えば、それは、今しがた十二分に示したように、単に、
彼が〈その客体あるいは〉その対象と一致する観念を有するということ、あるいは真理が真理自身
の規範であるということ、そのことだけから出てくる。これに加えて、我々の精神は物を真実に
知覚する限りにおいて神の無限な知性の一部分である(この部の定理一一の系により)。したがっ
て精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。
定理四四 事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する。
証明 事物を真実に知覚すること(この部の定理四一により)、すなわち(第一部公理六により)
事物をそれ自身あるとおりに知覚すること、は理性の本性に属する。言いかえれば(第一部定理
二九により)事物を偶然としてでなく必然として知覚することは理性の本性に属する。Q・E・
D・
系一 この帰結として、我々が物を過去ならびに未来に関して偶然として観想するのはもっば
ら表象力にのみ依存するということになる。
備考 だがこのことがどのようなふうにして起こるかを私は簡単に説明しよう。
我々はさきに(この部の定理一七およびその系)、精神は物の現在する存在を排除する原因が現
われぬ限り、たとえ物が存在していなくとも、常にその物を自己に現在するものとして表象する
ことを明らかにした。次に(この部の定理一八)もし人間身体がかつて外部の二物体から同時に刺
激されたなら、精神はあとになってそのどちらか一つを表象する場合ただちに他の一つを想起す
るであろうということ、言いかえれば両者の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り両者を
現在するものとして観想するであろうということを我々は示した。なおまた我々が時間をも表象 148
することは何びとも疑わぬところである。すなわち我々は、ある物体が他の物体と比べてより緩
やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象す
るのである。
ところでここに一人の小児があって、昨日はじめて朝にペテロを、昼にパウロを、夕にシモン
を見、そして今日また朝にべテロを見たと仮定しよう。この部の定理一八から明らかなように、
彼は暁の光を見るや、ただちに太陽が前日と同じ天域を運行することを表象するであろう。言い
かえれば彼は一日全体の経過を表象するであろう。そして朝の時間とともにペテロを、昼の時間
とともにパウロを、夕の時間とともにシモンを表象するであろう。それで今彼はパウロとシモン
の存在を未来の時間に関連させて表象するであろう、これに反して彼が夕方シモンを見るとした
ら、彼はパウロとペテロを過去の時間とともに表象してこの二人を過去の時間に関連させるであ
ろう。そしてこうした表象結合は彼がこれらの人間をこの同じ順序において見る度合が重なるに
つれてますます確乎たるものになるであろう。
だが彼がある夕シモンの代りにヤコブを見るということが一度起こるとしたら、翌朝彼は夕の
時間を思う際にあるいはシモンをあるいはヤコブを表象するが両者を同時に表象することはない
であろう。なぜなら、仮定によれば、彼は夕の時間常に両者の一人だけを見て両者を同時に見る
ことはなかったからである。ここにおいて彼の表象は動揺し、来るべき夕の時間を思う際にある
いはこの人をあるいはかの人を表象するであろう。言いかえれば彼は両者のいずれの出現をも確
実とは考えず両者いずれかの出現を偶然なものとして表象するであろう。そしてこうした表象の
動揺は、我々が同様の仕方で過去あるいは現在に関して観想する物について表象がなされる場合
に常に現われるであろう。こうして我々は物を現在に関してもあるいは過去ないし未来に関して
も偶然なものとして表象するであろう。
系二 物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する。
証明 なぜなら物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する(前定理
により)。ところで理性は物のこの必然性を(この部の定理四一により)真実に、言いかえれば(第
一部公理六により)それ自身においてあるとおりに、知覚する。ところが(第一部定理一六によ
り)物のこの必然性は神の永遠なる本性の必然性そのものである。ゆえに物をこの永遠の相のも
とに観想することは理性の本性に属する。その上、理性の基礎は概念であって(この部の定理三
八により)、そうした概念はすべての物に共通なものを説明しそして(この部の定理三七により)
決して個物の本質を説明しない。このゆえにそれらの概念は何ら時間との関係なしにある永遠の
相のもとに考えられなければならぬ。Q・E・D・
定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質
を必然的に含んでいる。
証明 現実に存在する個物の観念はその個物の本質ならびに存在を必然的に含んでいる(この
部の定理八の系により)。ところが個物は(第一部定理一五により)神なしには考えられることが
できない。そして(この部の定理六により)個物はそれ自身が様態となっている属性のもとで神が 150
考察される限りにおいて神を原因とするから、個物の観念もまた(第一部公理四により)自己の属
する属性の概念を、言いかえれば(第一部定義六により)神の永遠・無限なる本質を、必然的に含
んでいなければならぬ。Q・E・D・
備考 私がここで存在というのは持続のことではない。すなわち、抽象的に考えられる限りの
存在、いわば一種の量として考えられる限りの存在のことではない。なぜなら私は、存在の本性
そのものについて〜〜神の本性の永遠なる必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生
ずる(第一部定理一六を見よ)がゆえに個物に付与される存在の本性そのものについて語っている
のだから。つまり私は、神の中に存する限りにおける個物の存在そのものについて語っているの
である。というのは、おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されてい
るとはいえ、各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからであ
る。これについては第一部定理二四の系を見よ。
定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。
証明 前定理の証明は普遍的なものであり、我々が物を部分として考察しようと全体として考
察しようと、その物の観念は、神の永遠・無限なる本質を含んでいるのであって、その観念が全
体に関するものであろうと部分に関するものであろうと変りはない(前定理により)。ゆえに神の
永遠・無限なる本質の認識を与えるようなものはすべての物に共通なのであって、部分の中にも
全体の中にも等しく存するのであり、したがって(この部の定理三八により)この認識は妥当であ
るであろう。Q・E・D・
定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。
証明 人間精神はもろもろの観念を 〜 それによって精神が自分自身(この部の定理二三によ
り)、および自分の身体(この部の定理一九により)、ならびに外部の物体(この部の定理一六の系
および定理一七により)を現実に存在するものとして知覚するもろもろの観念を有する(この部の
定理二二により)したがって人間精神は(この部の定理四五および四六により)神の永遠・無限な
る本質の妥当な認識を有する。Q・E・D・
備考 これによって神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分
かる。ところで、ありとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、
この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにし
てかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。第三種の認識について我々はこの部の定
理四〇の備考二の中で述べたが、その価値と効用についてはさらに第五部で述べるであろう。
しかし人間が神については共通概念によってほど明瞭な認識を有しないのはなぜかといえば、
それは人間が神を物体のように表象することができないということ、また人間が神という名前を
自分らの通常見慣れている諸物の表象像に結合してきたということによる。これは人間が絶えず
外部の物体から刺激されている関係上ほとんど避けがたい事柄である。
実際大抵の誤謬は、単に次の点にのみ、すなわち我々が物を正しい名前で呼ばないという点に 152
のみ存する。例えばある人が、円の中心から円周に向かって引かれた諸線は等しくないと言うな
ら、たしかにその人は、少なくともその瞬間には、円を数学家たちと異なって解しているのであ
る。同様に、人々が計算において誤る場合も、彼らは精神の中においては紙上におけるのと異な
った数を有しているのである。だからもし彼らの精神を見ることができるとしたら、彼らは誤っ
ているとは言えない。それにもかかわらず彼らが誤っているように見えるのは、彼らが精神の中
においても紙上におけるのと同じ数を有すると我々が思うからである。もしそう思わなかったと
したら、我々は彼らが誤っているとは信じないであろう。現に私はこのあいだある人が「うちの
座敷が隣りの鶏へ飛び込んだ」と叫ぶのを聞いたが、〈(彼の言葉は不条理であったけれども)、〉
彼の精神が私には十分よくのみこめたので、彼が誤っているとは信じなかった。世の大抵の論争
も、人々が自分の精神を正しく表現しないか、それとも相手の精神を誤って解釈しているかから・
起こる。というのは、彼らは最も激しく対立している場合でも、実はまったく同じことを考えて
いるか、そうでなければまるで異なる主題について考えているかであり、したがってたがいに相
手のせいにしている誤謬あるいは不条理が本当は存在していないことが多いのである。
定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのこ
とまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって
決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。
証明 精神は思惟のある一定の様態であり(この部の定理一一により)、したがって(第一部定
理一七の系二により)自己の活動の自由原因でありえない、あるいは意志したり意志しなかった
りする絶対的な能力を有しえない。むしろ精神はこのことあるいはかのことを意志するように原
因によって決定されなければならぬ。そしてこの原因も同様に他の原因によって決定され、さら
にこの後者もまた他の原因によって決定され云々(第一部定理二八により)。Q・E・D・
備考 精神の中に認識し・欲求し・愛しなどする絶対的な能力が存しないこともこれと同一の
仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物である
か、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的
概念にほかならないということになる。したがって、知性がこのあるいはかの観念に対し・意志
がこのあるいはかの意志作用に対する関係は、石なるもの一般がこのあるいはかの石に対し・人
間なるもの一般がペテロあるいはパウロに対する関係と同様である。なお、何ゆえに人間が自分
を自由であると思うかの理由は第一部の付録の中で説明した。
だが先へ進む前に、ここで注意しなければならないのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定
し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し・偽なるものを
否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいは忌避させる欲望とは解しないのであ
る。しかし我々が、これらの能力は一般的概念であってそれは個々のものから形成され実は個々
のものと区別されないものであるということを証明したので、今度は、その個々の意志作用が事
物の観念そのもの以外のある物であるかどうかを探求しなければならぬ。つまり精神の中には観
念が観念である限りにおいて含む肯定ないし否定以外になお他の肯定ないし否定が存するかどう 154
かを探求しなければならぬ。観念が観念である限りにおいて肯定ないし否定を含むことについて
は次の定理ならびにこの部の定義三を参照して欲しい、そして思惟を絵画に堕さしめないように
してもらいたい。なぜなら私は、観念を、眼底に形成される〜〜脳の中央に形成される、と言い
たければ言ってもよい〜〜表象像とは解せずに、思惟の概念(あるいは単に思惟の中に存する限
りにおける事物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム))と解するからである。
定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すな
わちいかなる肯定ないし否定も存しない。
証明 精神の中には(前定理により)意志したり意志しなかったりする絶対的能力がなく、単に
個々の意志作用、すなわちこのあるいはかの肯定、ないしこのあるいはかの否定、があるのみで
ある。そこで今ここにある一個の意志作用を、 〜 例えば三角形の三つの角の和が二直角に等し
いことを精神に肯定させる思惟様態を、考えよう。この肯定は三角形の概念あるいは観念を含ん
でいる。言いかえればそれは三角形の観念なしには考えられることができない。なぜならAはB
の概念を含まなければならぬというのとAはBなしに考えられることができないというのとは同
じことだからである。次にこの肯定は(この部の公理三により)三角形の観念なしには在ることも
できない。ゆえにこの肯定は三角形の観念なしには在ることも考えられることもできないのであ
る。さらにまた三角形のこの観念はこの同じ肯定を、すなわちその三つの角の和は二直角に等し
いということを、含まなければならぬ。ゆえにまた逆に三角形のこの観念は、この肯定なしには
在ることも考えられることもできないのである。したがって(この部の定義二により)この肯定は
三角形の観念の本質に属し、結局三角形の観念そのものにほかならない。そして我々がこの意志
作用について述べたことは(我々はそれを任意に選び採ったのであるから)すべての意志作用につ
いても言われうる。すなわちすべてめ意志作用は観念そのものにほかならない。Q・E・D・
系 意志と知性とは同一である。
証明 意志は個々の意志作用そのものにほかならぬし、知性は個々の観念そのものにほかなら
ぬ(この部の定理四八およぴその備考により)。ところが個々の意志作用と個々の観念とは(前定
理により)同一である。ゆえに意志と知性とは同一である。Q・E・D・
備考 これでもって我々は通常誤謬の原因とされているものを取り除いた。ところでさきに我
我の示したところによれば、虚偽〔誤謬〕とは単に毀損(きそん)し混乱した観念の含む欠乏にのみ存するの
である。ゆえに偽なる観念は偽である限りにおいて確実性を含まない。だからある人間が偽なる
観念に安んじて少しもそれについて疑わぬと我々が言う場合、それは彼がそれについて確実であ
るというのではなくて、単にそれについて疑わぬというだけのことである。あるいは彼の表象を
動揺させる原因(言いかえれば彼にそれを疑わせる原因)が少しも存在しないから彼はその偽なる
観念に安んじているというだけのことである。これについてはこの部の定理四四の備考を見よ。
したがってある人間が偽なる観念にどこまでも固執する(そして誰も彼にそれを疑わせることが
できない)と仮定しても、我々は彼がそれについて確実であるとは決して言わぬであろう。なぜ
なら我々は確実性をある積極的なものと解し(この部の定理四三およぴその備考を見よ)、疑惑の 156
欠乏とは解しないからである。これに反して我々は確実性の欠乏を虚偽と解する。
しかし前定理をいっそう詳しく説明するために二、三の注意すべきことが残っている。なおま
た、我々のこの説に対してなされうるもろもろの反対論に答えることが残っている。最後に、す
べての疑惑を除去するため、この説の二、三の効用を指摘することを徒労ではないと私は考えた。
二、三の、と私は言う。なぜなら、主要な効用は、第五部で述べることからいっそうよく理解さ
れるであろうからである。
そこで第ーの点から始めるとして、私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表象する
事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する
言葉とを、区別することが必要である。なぜなら、この三者すなわち表象像、言葉、観念を多く
の人々がまったく混同しているか、そうでなければ十分正確に区別していないか、あるいはまた
十分慎重に区別していないかのために、意志に関するこの説は、思索のためにも、(学問のため
にも、)賢明な生活法樹立のためにも、ぜひ知らなくてはならぬことであるにもかかわらず、まる
で彼らに知られていなかったのである。実に彼らは、観念を、物体との接触によって我々の中に
形成される表象像であると思っているがゆえに、(我々の脳髄に何の痕跡も印しえない事物、す
なわち)我々がそれについて何ら類似の表象像を形成しえない事物、の観念は、実は観念でなく、
我々が自由意志によって勝手に造り出す想像物にすぎないと信じ込んでいる。だから彼らは観念
をあたかも画板の上の無言の絵のごとくに見ているのである。そしてこの偏見に捉われて彼らは、
観念は観念である限りにおいて肯定ないし否定を含んでいるということに気づかないのである。
次に言葉を、観念あるいは観念が含む肯定と混同する人々は、自分が感覚するのと反対のことを
単なる言葉だけで肯定ないし否定するたびに自分は自分の感覚するのと反対のことを意志するこ
とができると信ずるのである。
しかし延長の概念を全然含まない思惟の本性に注意する人は、これらの偏見から容易に脱する
ことができるであろう。そして彼はこのようにして、観念が(観念は思惟の様態であるがゆえに)
物の表象像や言葉に存しないことを明瞭に理解するであろう。なぜなら、言葉および表象像の本
質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだからである。
これらのことについては以上二、三の注意で十分であろう。だから私は前に予告したもろもろ
の反対論に移る。
反対論の第一は、人々が、意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっている
ことを確定事項と思っていることにある。ところで彼らが意志を知性よりも広きにわたると思っ
ている理由は次のごときものである。彼らはこう主張する。経験によれば、我々が今知覚してい
ない無限に多くの事物に同意するためには我々が現に有するよりもより大なる同意能力あるいは
より大なる肯定ないし否定の能力を要しないがより大なる認識能力を要する。ゆえに知性は有限
であり意志は無限であってその点において意志と知性とは区別される、と。
第二に我々に対して次のような反対がなされうる。我々が我々の判断を控えて・我々の知覚す
る事物に同意しないようにすることができることは、経験の最も明瞭に教えるところであるよう
に見える、このことは、何びとも物を知覚する限りにおいては誤ると言われないで、ただ彼がそ 158
れに同意しあるいは反対する限りにおいてのみ誤ると言われることからも確かめられる、例えば、
翼ある馬を想像する人はだからといってまだ翼ある馬が存在することを容認するわけではない、
言いかえれば彼はだからといってまだ誤っているわけではない、ただ彼が同時に、翼ある馬が存
在することを容認する場合にはじめて誤るのである、ゆえに意志すなわち同意能力が自由であっ
て認識能力と異なるということは経験の最も明瞭に教えるところであるように見える、と。
第三に次のような反対がなされうる。一の肯定が他の肯定よりもよりぞの実在性を含むとは
思われない、言いかえれば我々は異なるものを真として肯定するにも偽なるものを真として肯定
するより以上の能力を要するとは思われない、ところが(観念にあってはこれと事情が異なる、
なぜなら〉我々は一の観念が他の観念よりもより多くの実在性ないし完全性を有することを認識
する、すなわち一の対象が他の対象よりすやれていればいるほどその対象の観念もまた他の対象
の観念よりそれだけ多く完全である、このことからもまた意志と知性との相違が明らかになるよ
うに見える、と。
第四に次のような反対がなされうる。もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、
彼がプリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうか、彼は餓えと
渇きのために死ぬであろうか、もしこのことを容認するなら、私は驢馬、もしくは人間の彫像を
考えて現実の人間を考えていないように見えるであろう、これに反してもしこのことを否定する
なら彼は自分自身を決定するであろう、したがって彼は自分の欲する所へ行き自分の欲すること
をなす能力を有することになる、と。
このほかおそらくなお他の反対がなされうるであろう。しかし私は各人の夢想しうるすべての
場合を持ち出す義務がないから、ただ以上挙げた反対論にのみ答えることにしよう。しかもでき
るだけ簡単に。
第一の反対論に対して私はこう答える。もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら
意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私は意志が知覚一般あるいは思惟能力
一般より広きにわたることはこれを否定する。また何ゆえに意志する能力が感覚する能力に比し
て無限であると言われるべきかは私のまったく了解しえぬところである。なぜなら、我々が無限
に多くのものを(と言っても一つずつ順次にである。無限に多くのものを同時に肯定することは
できないから)同一の意志能力で肯定しうるように、我々はまた無限に多くの物体を(もちろん一
つずつ順次に〈、そして同時にではなく、それは不可能だから〉)同一の感覚能力で感覚ないし知
覚しうるからである。もし彼らが「我々の知覚しえない無限に多くのものが存在する」と主張す
るなら、私はそうしたものはいかなる思惟をもってしても、したがってまたいかなる意志能力を
もってしても把握しえないと答えるであろう。しかし彼らは言う、「もし神が我々にそれらのも
のをも知覚させようと欲したとしたら、神は我々に、現に与えたよりもより大なる知覚能力を与
えなければならなかったであろうが、より大なる意志能力は与える必要がなかったであろう」と。
これはあたかも「もし神が我々に無限に多くの他のものを認識させようと欲したとしたら、その
無限に多くのものを把握するには、神が現に与えたよりもより大なる知性を我々に与えることが
必要であったろうが、実在に関するより一般的な〔より広汎な〕観念を与える必要はなかったであ 160
ろう」と言うに等しい。なぜなら、我々の示したように、意志とはある一般的な有、あるいはす
べての個々の意志作用(言いかえればすべての個々の意志作用に共通のもの)を説明するためのあ
る観念、であるからである。だからもし彼らがすべての意志作用に共通的ないし一般的なこの観
念を〈我々の精神の〉能力であると信じているのなら、この能力が知性の限界を越えて無限にわた
ることを彼らが主張するとしても、何の不思議もないのである。なぜなら、一般的なものは、一
の個体にも、多数の個体にも、また無限に多くの個体にも、等しくあてはまるのであるから。
第二の反対論に対して私は、判断を控える自由な力が我々にあることを否定することをもって
答えとする。なぜなら、「ある人が判断を控える」と我々が言う時、それは「彼が物を妥当に知
覚しないことに自ら気づいている」と言うのにほかならないからである。ゆえに判断の差控えは
実は知覚であって自由意志ではない。このことを明瞭に理解するため、我々は、ここに翼ある馬
を表象してそのほか何ものも知覚しない一人の小児を考えよう。この表象は馬の存在を含んでい
るし(この部の定理一七の系により)、また小児は馬の存在を排除する何ものも知覚しないのであ
るから、彼は必然的にその馬を現在するものとして観想するであろう。そして彼はその馬の存在
について確実でないにしてもその存在について疑うことができないであろう。こうしたことを我
我は日常夢の中で経験する。しかし夢見ている間自分の夢見ているものについて判断を控えたり
自分が夢みているものを夢見ていないようにしたりする自由な力が自分にあると思う人はないで
あろうと私は信ずる。もっとも夢の中でも我々が判断を控えることは起こる。それはすなわち我
我が夢見ていることを夢見る場合である。なおまた私は、何びとも知覚する限りにおいては誤っ
ていないということを容認する、言いかえれば精神の表象はそれ自体で見れば何の誤謬も含まな
いということを容認する(この部の定理一七の備考を見よ)。しかし私は、人間が知覚する限りに
おいて何ものも肯定していないということはこれを否定する。なぜなら、翼ある馬を知覚すると
は馬について翼を肯定するというのと何の異なるところがあろうか。すなわちもし精神が翼ある
馬のほか何ものも知覚しないとしたら精神はその馬を現在するものとして観想するであろう。そ
してその馬の存在を疑う何の原因も、またそれについて不同意を表明する何の能力も有しないで
あろう。ただし翼ある馬の表象がその馬の存在を排除する観念と結合しているか、あるいは精神
が自らの有する翼ある馬の観念は妥当でないことを知覚する場合はこの限りでない。その場合に
は精神はその馬の存在を必然的に否定するか、そうでなければその馬について必然的に疑うであ
ろう。
これでもって私は第三の反対論にも答えたと信ずる。すなわち意志とはすべての観念に適用さ
れるある一般的なもの、単にすべての観念における共通物 〜 肯定 〜 のみを表示するある一般
的なもの、である。ゆえに、意志がこのように抽象的に考えられる限りにおいては、意志の妥当
な本質は、すべての観念の中になければならず、かつこの点においてのみ意志の本質はすべての
観念において同一である。(それはちょうど人間の定義がまったく同様に各個の人間に適用され
なければならぬのと同じである。このようにして我々は意志が常にすべての観念において同一で
あることを認めうるのである。)しかし意志が観念の本質を構成すると見られる限りにおいては
そうでない。なぜならその限りにおいては個々の肯定は観念自身と同様相互に異なっているから 162
である。例えば円の観念が含む肯定と三角形の観念が含む肯定とはあたかも円の観念と三角形の
観念とが異なるのと同様に異なっているのである。さらにまた我々が真なるものを真として肯定
するのに偽なるものを真として肯定するのと同等の思惟能力を要するということを私は絶対に否
定する。なぜならこの二つの肯定は(その言葉をでなく)その精神を(のみ)見るならば、相互に、
有が非有に対するのと同様の関係にあるからである。というのは観念の中には虚偽の形相を構成
する積極的なものは何も存しないのだから(この部の定理三五とその備考およびこの部の定理四
七の備考を見よ)。
ゆえに、一般的なものと個々のものとを混同したり理性の有ないし抽象的有と実在的有とを混
同したりする時に我々はいかに誤謬に陥りやすいかをここで特に注意しておかなければならぬ。
最後に第四の反対論に関しては、そのような平衡状態に置かれた人間(すなわち餓えと渇き、
ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間)が餓えと渇
きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間よ
りもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら溢死する人間を何と見るべきか、ま
た小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。
終りに、この説の知識が実生活のためにいかに有用であるかを指摘することが残っている。こ
のことは次のことどもから容易に看取しうるであろう、すなわち 〜
一 この説は、我々が神の命令のみによって行動し・神の本性を分有する者であること、そし
て我々の行動がより完全でありかつ我々がより多く神を認識するにつれていっそうそうなのであ
ることを教えてくれる。ゆえにこの説は、心情をまったく安らかにしてくれることのほか、さら
に、我々の最高の幸福ないし至福がどこに存するかを我々に教えてくれるという効果をもつ。す
なわち我々の最高の幸福ないし至福は神に対する認識にのみ存するのであり、我々はこの認識に
よって、愛と道義心の命ずることのみをなすように導かれる。これからして 〜 徳そのもの、神
への奉仕そのものがとりもなおさず幸福であり・最高の自由であることを知らずに、徳と善行を
最も困難な奉仕とし、これに対して神から最高の報酬をもって表彰されようと期待する人々は、
徳の真の評価からどんなに遠ざかっているかを、我々は明瞭に理解するのである。
二 この説は、運命に関する事柄あるいは我々の力の中にない事柄に対して、言いかえれば、
我々の本性から生じない事柄に対して、どんな態度を我々がとらなければならぬかを教えてくれ
る。すなわち我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに耐えなければならぬのである。
三角形の本質からその三つの角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、
一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。
三 この説は共同生活のために寄与する。なぜならこの説は、何びとをも憎まず、蔑(さげす)まず、嘲
らず、何びとをも怒らず、嫉(ねた)まぬことを教えてくれるし、その上また、各人が自分の有するもの
で満足すべきこと、そして隣人に対しては女性的同情、偏頗心ないし迷信からでなく、理性の導
きのみによって、すなわち私が第四部で示すだろうように時と事情が要求するところに従って、
援助すべきことを教えてくれるからである。
四 最後にこの説は国家社会のためにも少なからず貢献する。なぜならこの説は、人民をいか (国家) 164
なる仕方で統治し指導すべきかを、すなわち人民を奴隷的に服従させるようにでなく自由な動機
から最善を行なわせるように統治し指導すべきことを教えてくれるからである。
以上をもって私はこの備考で取り扱おうと企てたことを果した。これで私はこの第二部を終え
ることにする。私の信ずるところによれば、私は、この第二部で、人間精神の本性とその諸特質
とを十分詳細にかつ事情の困難が許す限り明瞭に説明し、そしてもろもろの事柄を、 〜 それか
ら多くのすやれたこと・きわめて有用なこと・ぜひ知らなければならぬことが導き出されうる
(そのことは一部分は次の部から明らかになるであろう)ようなもろもろの事柄を、述べたのであ
った。
第二部 終り
第一部TOP、第二部TOP、TOP☆
全編をまとめたサイトは以下です。
返信削除http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/
第二部定理8は、
返信削除http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p8
ユークリッド原論第3巻命題35を参考にしている。
http://mis.edu.yamaguchi-u.ac.jp/kyoukan/watanabe/elements/book3/proposition/proposition3-35.htm
また第二部定理40ではユークリッド原論第7巻定理(命題)19が参照されている。
http://mis.edu.yamaguchi-u.ac.jp/kyoukan/watanabe/elements/book7/proposition/proposition7-19.htm