☆ 2b様態
/\
/無限\
/ \
悲しみ________/_2a属性__\________喜び
\ 憎しみ / /\ \ 愛 /
\ 悪/___1実体\___\善 /
\ /\ 知_/\_至福 /\ /
\/ \/ \ / \/ \/
/\ /\/_\/_\ /\ / \
所産的自然 \/ 神\__徳__自然(能産的) \
/ 延長\個体 5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体___\/___精神_____\観念
\ 4理性 /
\ /
\努力/
\/
欲望
3感情
第 三 部
序言、定義、一、二、三
要請、一、二
定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、備考1、2、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、備考、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九、五〇、五一、五二、五三、五四、五五、五六、五七、五八、五九
付録:感情の諸定義、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、感情の総括的定義、第三部TOP、TOP☆
感情の起源および本性について
序 言
感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物
について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。実に彼
らは自然の中の人間を国家の中の国家のごとく考えているように思われる。なぜなら彼らは、人
間が自然の秩序に従うよりもむしろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有
して自分自身以外の何ものからも決定されない、と信じているからである。それから彼らは、人
間の無能力および無常の原因を、共通の自然力には帰さないで、人間本性の欠陥 〜 どんな欠陥
のことか私は知らない 〜 に帰している。だから彼らは、こうした人間本性を泣き・笑い・侮蔑
し・あるいは 〜 これが最もしばしば起こることであるが 〜 呪詛(じゅそ)する。そして人間精神の無能
力をより雄弁にあるいはより尖鋭に非難することを心得ている人は神のように思われている。
とはいえまた、正しい生活法について多くのすぐれたことを書いて、思慮に充ちた勧告を人間
に与えた卓越せる人々もないではなかった(我々は彼らの労作と勤勉とに負うところが多いこと 166
を告白する)。しかし感情の本性と力について、また他面精神が感情の制御に関して何をなしう
るかについては、私の知る限り、まだ何びとも規定するところがなかった。もちろん私は有名な
デカルトのなしたことを知っている。デカルトはやはり精神がその活動に対して絶対の能力を有
すると信じていたものの、それでも人間の感情をその第一原因から説明しようとし、同時に、精
神が感情に対して絶対の支配権を有しうる道程を示そうとつとめたのであった。しかし彼は、少
なくとも私の判断によれば、彼の偉大な才能の鋭利さを示したにとどまっている。このことにつ
いては適当な場所で論証するであろう。なぜなら今私は前に戻って、人間の感情および行動を理
解するよりもむしろ呪詛し・嘲笑しようとする人々へ立ち向かおうと思うのであるから。これら
の人々にとっては、私が人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱おうと企てること、また理性
に反した空虚な、不条理な、厭(いと)うべきものとして彼らの罵る事柄を厳密な推論で証明しようと欲
することは、疑いもなく奇異に思えるであろう。しかし私の理由はこうである。自然の中には自
然の過誤のせいにされうるようないかなる事も起こらない。なぜなら自然は常に同じであり、自
然の力と活動能力はいたるところ同一であるからである。言いかえれば、万物が生起して一の形
相から他の形相へ変化するもととなる自然の法則および規則はいたるところ常に同一であるから
である。したがってすべての事物 〜 それがどんなものであっても 〜 の本性を認識する様式も
やはり同一でなければならぬ。すなわちそれは自然の普遍的な法則および規則による認識でなけ
ればならぬ。このようなわけで憎しみ、怒り、ねたみなどの感情も、それ自体で考察すれば、そ
の他の個物と同様に自然の必然性と力とから生ずるのである。したがってそれらの感情は、それ
が認識されるべき一定の原因を持ち、また他の事物 〜 単にそれを観想することそのことだけで
我々に喜びを与えてくれるようなそうした他の事物 〜 の諸特質と等しく我々の認識に値する一
定の特質を有しているのである。
そこで私は感情の本性と力、ならびに感情に対する精神の能力を、私がこれまでの部で神およ
び精神について論じたのと同一の方法で論じ、人間の行動と衝動とを線・面および立体を研究す
る場合と同様にして考察するであろう。
定 義
一 ある原因の結果がその原因だけで明瞭判然と知覚されうる場合、私はこの原因を妥当な
〔十全な〕原因と称する。これに反して、ある原因の結果がその原因だけでは理解されえない場合、
私はその原因を非妥当な〔非十全な〕原因あるいは部分的原因と呼ぶ。
二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こ
る時、言いかえれば(前定義により)我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなある
事が我々の本性から我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。
これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こりあ
るいは我々の本性から起こる時、私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の
変状〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動 168
と解し、そうでない場合は受動と解する。
要 請
一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アブイキ)されることが
できるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アブイキ)されることもできる。
この要請あるいは公理は第二部定理一三のあとにある要請一ならびに補助定理五と七に基づく。
二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を(これについては第
二部要請五を見よ)、したがってまた事物の表象像を保持することができる。表象像の定義につ
いては第二部定理一七の備考を見よ。
定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわ
ち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限り
において必然的に働きを受ける。
証明 おのおのの人間精神の中にある観念は一部は妥当なものであり一部は毀損し・混乱した
ものである(第二部定理四〇の備考により)。ところがある物の精神の中で妥当であるような観念
は、神がこの精神の本質を構成する限りにおいて神の中で妥当であり(第二部定理一一の系によ
り)、一方、精神の中で非妥当である観念も同様に神の中で(同じ系により)妥当であるが、この場
合は神が単にこの精神の本質だけではなく、同時に他の諸物の精神も自らの中に含む限りにおい
てである。さらにまた与えられたおのおのの観念から必然的にある結果が生じなければならぬの
であり(第一部定理三六により)、そしてこのような結果について神はその妥当な原因である(こ
の部の定義一を見よ)。しかもそれは神が無限である限りにおいてではなく、この与えられた観
念に変状したと見られる限りにおいてである(第二部定理九を見よ)。しかし神がある物の精神の
中で妥当であるような観念に変状している限りにおいてある結果の原因となっているとすれば、
同時にこの精神がまたこのような結果の妥当な原因である(第二部定理一一の系により)。ゆえに
我々の精神は(この部の定義二により)妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなす。こ
れが第一の点であった。次に単に一人の人間の精神だけではなくその人間の精神とともに他の諸
物の精神も自らの中に有する限りにおいての神の中で、妥当である観念から必然的に生ずるすべ
てのもの、そうしたものについては(再び第二部定理一一の系により)この人間の精神はその妥当
な原因ではなくて、単に部分的原因にすぎない。したがって(この部の定義二により)精神は非妥
当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。これが第二の点であった。ゆえに我々の
精神は云々。Q・E・D・
系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、
反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
定理二 身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ない
し静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することも 170
できない。
証明 思惟のすべての様態は、神が思惟する物である限りにおいて神を原因とし、神が他の属
性によって説明される限りにおいてはそうでない(第二部定理六により)。ゆえに精神を思惟に決
定するものは思惟の様態であって延長の様態ではない、言いかえれば(第二部定義一により)身体
ではない。これが第一の点であった。次に、身体の運動ないし静止は必ず他の物体から生じ、こ
の物体がまた他の物体から運動ないし静止に決定されなければならぬ。一般的に言えば、身体の
中に生ずるすべてのことは、思惟のある様態に変状したと見られる限りにおける神からではなく、
延長のある様態に変状したと見られる限りにおける神から生じなければならぬ(再び第二部定理
六により)。言いかえれば、それは思惟の様態である精神(第二部定理一一により)から生ずるこ
とができない。これが第二の点であった。ゆえに身体が精神を云々。Q・E・D・
備考 このことは第二部定理七の備考で述べたことからいっそう明瞭に理解される。それによ
れば、精神と身体とは同一物であってそれが時には思惟の属性のもとで、時には延長の属性のも
とで考えられるまでなのである。この結果として、物の秩序ないし連結は、自然がこの属性のも
とで考えられようとかの属性のもとで考えられようとただ一つだけであり、したがって我々の身
体の能動ならびに受動の秩序は、本性上、精神の能動ならびに受動の秩序と同時であるというこ
とになる。このことはまた我々が第二部定理一二を証明した仕方からも明らかになる。
事情はかくのごとくであってこれについてはもはや何ら疑う理由が残っていないにもかかわら
ず、もしこのことを私が経験によって確証しない限りは、人々にこれを冷静に熟慮するようにさ
せることはまずできない相談であろう。それほどまでに根強く彼らはこう思い込んでいる 〜 身
体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止し、そして彼らの行動の多くは単に精神の意
志と思考の技能にのみ依存している、と。これというのも、身体が何をなしうるかをこれまでま
だ誰も規定しなかったからである。言いかえれば、身体が、単に物体的と見られる限りにおける
自然の法則のみによって何をなしうるか、また精神から決定されなくては何をなしえないかを、
これまで誰も経験によって確定しなかったからである。
実際、今日まで、誰も身体の機能のすべてを説明しうるほど正確には身体の組織を知らなかっ
た。人間の知恵をはるかに凌駕する多くのことが動物において認められることや、夢遊病者が覚
醒時にはとてもしないような多くのことを睡眠中になしていること(これは、身体が単に自己の
本性の法則のみによって、自分の精神を驚かすような多くのことをなしうることを十分に示して
いる)について説明できないのは言うまでもない。次にどのような仕方、どのような媒介で精神
が身体を動かすか、またどのような程度の運動を身体に与えうるか、またどのような速度で身体
を動かしうるかを誰も知らない。こうした点から見れば、人々が身体のこのあるいはかの活動は
身体の支配者である精神から来ていると言う時、彼らは実は自らの言っていることを理解してい
ないのである。そして彼らがその活動の真の原因を知らず、しかもそれを何ら怪しんでいないと
いうことを体裁のよい言葉で告白しているのに異ならないのである。
しかし彼らは言うであろう。どのような媒介で精神が身体を動かすかを知っていようと知って
いまいと、人間精神が思考に適しない場合は身体が不活発であることを自分らは経験する、と。 172
また言うであろう。話すことや沈黙すること、その他多くのことが単に精神の力の中にのみある
ことを自分らは経験する、だからそうしたことは精神の決意に依存すると信ずる、と。
だが第一の点に関して私は彼らにこう尋ねる。経験はまた逆に、身体が不清澄な場合には同時
に精神が思惟に適しないことも教えはしないか、と。なぜなら、身体が眠って静止している間は
精神も同時に身体とともに無意識状態にとどまり、覚醒時のように思考する能力を有しないから
である。さらにまた精神が同一対象について常に等しく思惟するのに適当しているわけでなく、
むしろ身体がこのあるいはかの対象の表象像を自らの中に生み出すのに適当した度合に応じて精
神もこのあるいはかの対象を考察するのに適当するということは誰しもみな経験しているところ
と信ずる。
しかし彼らは言うであろう。建築・絵画・その他人間の技能のみから生ずるこの種の事柄の原
因を、単に物体的と見られる限りにおける自然の法則のみから導き出すことはできない、また人
間身体は精神から決定され導かれるのでなくては寺院のごときものを構築することはできまい、
と。しかし、私のすでに指摘したように、彼らは、身体が何をなしうるかまた身体の本性の単な
る考察だけから何が導き出されうるかを全然知らないのであるし、また彼らは、精神の導きなし
に起こりうるとは彼らの決して信じなかっただろうような多くのこと、例えば夢遊病者が睡眠中
にしてあとで覚醒してから自分で驚くようなことが、単なる自然の法則のみによって生ずること
を経験しているのである。なお私はここで、人間身体の構造そのものが人間の技能によって作り
出されるすべてのものを技巧上はるかに凌駕していることを付言する。私がさきに述べたこと、
すなわち自然がいかなる属性のもとで考察されようとも自然から無限に多くのものが生ずるとい
うことは、今は言わないとしても。
さらに第二の点に関しては、もし沈黙することも話すことも等しく人間の力の中にあるとした
ら、たしかに人事はもっとうまくいっていたことであろう。しかし、経験は、人間にとって舌ほ
ど抑えがたいものはなく、また自分の衝動を制御するほど困難なことはないことを十分以上に教
えている。この結果として大抵の人々は、我々はただ軽度に欲求する事だけを自由になすと信じ
ている。そうしたものへの衝動は我々の頭にしばしば浮かぶ他の事柄の想起によって容易に抑制
されうるからである。これに反して、激しい感情をもって欲求する描備に対してはそうはいかな
いと信じられている。このような感情は他の事柄の想起によっても鎮められえないからである。
実際もし彼らが、人間はあとで後悔するような多くのことをなすものであり、また相反する感情
に捉われる時は往々にしてより善きものを見ながらより悪しきものに従うものであるということ
を経験しなかったとしたら、彼らは人間が何もかも自由に行なうと信ずるのに躊躇しなかったで
あろう。
このようにして、幼児は自由に乳を欲求すると信じ、怒った小児は自由に復讐を欲すると信じ、
臆病者は自由に逃亡すると信ずる。次に酩酊者は、あとで酔いが醒めた時黙っていればよかった
と思うようなことをその時は精神の自由な決意に従って話すと信ずる。同様に、狂人・おしゃべ
り女・小児その他この種の多くの者は、実は自分のもつ話したいという本能を抑ええないで話す
のに、精神の自由決意から話すと信じている。これで見れば、経験そのものも理性に劣らす明瞭 174
に、人間は自分の行動を意識しているが自分をそれへ決定する原因は知らぬゆえに自分を自由だ
と信じているということを教えてくれる。それからまた精神の決意とは衝動そのものにほかなら
ず、したがって精神の決意は身体の状態の異なるのに従って異なるということを教えてくれる。
各人は自分の感情に基づいて一切を律し、さらに相反する感情に捉われる者は自分が何を欲した
らいいかを知らず、また何の感情にも捉われない者はわずかのはずみによってもこっちに動かさ
れあっちに動かされするからである。
以上すべてからきわめて明瞭に次のことが分かる。それは精神の決意ないし衝動と身体の決定
とは本性上同時に在り、あるいはむしろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性
のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意(デクレトウム)と呼び、延長の属性の
もとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定(デテルミナテイオ)と呼ぶということ
である。
このことはなお、これから述べることからいっそう明瞭になるであろう。というのは、ここで
私の特に注意したい別のことがある。それは、我々は想起しないことは決して精神の決意によっ
てなしえないということである。例えば我々は想起しない言葉を話すことはできない。なおある
ことを想起したり・忘れたりすることは精神の自由にはならない。そこで人々は想起することに
ついて任意に黙っていたり・話をしたりすることだけは精神の力の中に在ると信じている。しか
し我々が話をする夢を見る場合、我々はやはり精神の自由な決意によっで話をすると信じており、
しかも実は話をしていない、あるいは話をするとしてもそれは身体の自発的運動から生じている
のである。次に我々はいろいろなことを人に隠すという夢を見る。しかも覚醒時に我々が知って
いることを人に黙っているのと同じ精神の決意でそうしていると夢の中で思っている。最後に我
我は、覚醒時にはとてもしないようないろいろなことを精神の自由な決意によってやってのける
という夢を見る。そこで私はぜひ知りたい、精神の中には二種の決意、すなわち空想的な決意と
自由な決意とがあるのかどうかを。もしそんな無意味な結論に到達したくなければ、この自由で
あると信じられている精神の決意は、表象そのものあるいは想起そのものと区別されないのであ
って、それは観念が観念である限りにおいて必然的に含む肯定(第二部定理四九を見よ)にほかな
らないということを人々は必然的に承認しなくてはならぬ。
こんなわけで、精神のこうした決意は、現実に存在するもろもろの事物の観念が生ずるのと同
一の必然性をもって精神の中に生ずる。だから精神の自由な決意で話をしたり・黙っていたりそ
の他いろいろなことをなすと信ずる者は、目をあけながら夢を見ているのである。
定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存
する。
証明 精神の本質を構成する最初のものは、現実に存在する身体の観念にほかならない(第二
部定理一一および一三により)。そしてこの観念は(第二部定理一五により)多くの観念から組織 2p11&13,2p15
されていて、そのあるものは(第二部定理三八の系により)妥当であり、またあるものは非妥当で 2p38c 176
ある(第二部定理二九の系により)。ゆえにすべて精神の本性から生ずるもの、精神をその最近原 2p29c
因とし精神によって理解されなければならぬものは、必然的に妥当な観念あるいは非妥当な観念
から生じなければならぬ。ところが精神は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受
ける(この部の定理一により)。ゆえに精神の能動は妥当な観念のみから生じ、また精神は非妥当
な観念を有するゆえにのみ働きを受ける。Q・E・D・
備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が
他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限
りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰
せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえな
いことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにあ
る〔のだから今はそれに立ち入らない〕。
定理四 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。
証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、おのおのの物の定義はその物の本質を肯
定するが否定しない。あるいはその物の本質を定立するが除去しない。だから我々が単に物自身
だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼしうるような
いかなるものも我々は見いだしえないであろう。Q・E・D・
定理五 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした
物は同じ主体の中に在ることができない。
証明 なぜなら、もしそうした物が相互に一致しあるいは同じ主体の中に同時に在りうるとし
たら、同じ主体の中にその主体自身を滅ぼしうる物が在りうることになるであろう。これは(前
定理により)不条理である。ゆえに物は云々。Q・E・D・ 3p4
定理六 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。
証明 なぜなら、個物は神の属性をある一定の仕方で表現する様態である(第一部定理二五の 1p25c
系により)、言いかえればそれは(第一部定理二四により)神が存在し・活動する神の能力をある 1p24
一定の仕方で表現する物である。その上いかなる物も自分が滅ぼされうるようなあるものを、あ
るいは自分の存在を除去するようなあるものを、自らの中に有していない(この部の定理四によ
り)。むしろおのおのの物は自分の存在を除去しうるすべてのものに対抗する(前定理により)。 3p5
したがっておのおのの物はできるだけ、また自己の及ぶかぎり、自己の有に固執するように努力
する。Q・E・D・
定理七 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかなら
ない。
証明 おのおのの物の与えられた本質から必然的にいろいろなことが生ずる(第一部定理三六 1p36
により)。また物はその定まった本性から必然的に生ずること以外のいかなることをもなしえな 178
い(第一部定理二九により)。ゆえにおのおのの物が単独であるいは他の物とともにある事をなし
あるいはなそうと努める能力ないし努力、言いかえれば(この部の定理六により)おのおのの物が
自己の有に固執しようと努める能力ないし努力は、その物の与えられた本質すなわち現実的本質
にほかならない。Q・E・D・
定理八 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、限定された時間ではなく無限
定な時間を含んでいる。
証明 なぜなら、もしこの努力が物の持続を決定する限定された時間を含むとしたら、その物
が存在する能力そのものだけからして、その物がその限定された時間のあとには存在しえずして
滅びなければならぬということが帰結されるであろう。ところがこれは(この部の定理四により)
不条理である。ゆえに物を存在せしめる努力は何ら限定された時間を含まない。むしろ反対に、
おのおのの物は外部の原因によって滅ぼされなければそれが現に存在している同じ能力をもって
常に存在しつづけるのであるから(同じくこの部の定理四により)、したがってこの努力は無限定
な時間を含んでいる。Q・E・D・
定理九 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおい
ても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識してい
る。
証明 精神の本質は妥当な観念ならびに非妥当な観念から構成されている(この部の定理三で
証明したように)。したがって精神は(この部の定理七により)妥当な観念を有する限りにおいて
も非妥当な観念を有する限りにおいても自己の有に固執しようと努める。しかも(この部の定理
八により)ある無限定な持続の間自己の有に固執しようと努める。ところで精神は(第二部定理二
三により)身体の変状〔刺激状態〕の観念によって自己を意識するのであるから、したがって精神
は(この部の定理七により)自己の努力を意識している。Q・E・D・
備考 この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係
する時には衝動と呼ばれる。したがって衝動とは人間の本質そのもの、〜〜自己の維持に役立つ
すべてのことがそれから必然的に出て来て結局人間にそれを行なわせるようにさせる人間の本質
そのもの、にほかならない。次に衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識して
いる限りにおいてもっぱら人間について言われるというだけのことである。このゆえに欲望とは
意識を伴った衝動であると定義することができる。このようにして、以上すべてから次のことが
明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝
動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望する
がゆえにそのものを善と判断する、ということである。
定理一〇 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むし
ろそうした観念は我々の精神と相反するものである。 180
証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない(この部の定理
五により)。したがってそうした物の観念は神が我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中
に在ることができない(第二部定理九の系により)。言いかえれば(第二部定理一一および一三に
より)そうした物の観念は我々の精神の中に在ることができない。むしろ反対に、精神の本質を
構成する最初のものは現実に存在する身体の観念であるから(第二部定理一一および一三により)、
我々の精神の最初にして最主要なものは、我々の身体の存在を肯定する努力である(この部の
定理七により)。したがって我々の身体の存在を否定する観念は我々の精神と相反する、云々。
Q・E・D・
定理一一 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するも
のの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。
証明 この定理は第二部定理七から、あるいはまた第二部定理一四から明白である。
備考 そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また
時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情
を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と
解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。さらに私は精神
と身体とに同時に関係する喜びの感情を快感あるいは快活と呼び、これに反して同様な関係にお
ける悲しみの感情を苦痛あるいは憂鬱と呼ぶ。しかし注意しなければならないのは、快感および
苦痛ということが人間について言われるのは、その人間のある部分が他の部分より多く刺激され
ている場合であり、これに反して快活および憂鬱ということが言われるのは、その人間のすべて
の部分が一様に刺激されている場合であるということである。
次に欲望の何たるかはこの部の定理九の備考において説明した。
この三者〔喜び・悲しみ・欲望〕のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその
他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである。
だがさきへ進む前に、いかにして観念が観念と相反するかをいっそう明瞭に理解するために、
私はこの部の定理一〇をここでもっと詳しく説明したい。
第二部定理一七の備考において我々は、精神の本質を構成する観念は身体自身が存在する間だ
け身体の存在を含むということを示した。次に、第二部定理八の系ならびにその備考において示
したことから、我々の精神の現在的存在は精神が身体の現実的存在を含むことにのみ依存すると
いうことが分かる。最後に、精神が物を表象し・想起する能力も同様に精神が身体の現実的存在
を含むことに依存するということを我々は示した(第二部定理一七および一八ならびにその備考
を見よ)。以上の帰結として、精神の現在的存在およびその表象能力は、精神が身体の現在的存
在を肯定することをやめるや否や消滅するということになる。しかし精神が身体のこの存在を肯
定することをやめる原因は精神自身ではありえない(この部の定理四により)。だからといってこ
の原因は身体が存在することをやめることにも存しない。なぜなら(第二部定理六により)精神が
身体の存在を肯定する原因は身体が存在することを始めたことには存しないのである以上、同じ 182
理由からして、精神が身体の存在を肯定することをやめる原因もまた身体が存在することをやめ
ることには存しないからである。このことはむしろ(第二部定理八により)我々の身体の現在的存
在、したがってまた我々の精神の現在的存在、を排除するある他の観念から生ずるのである。だ
からそうした観念は我々の精神の本質を構成する観念と相反する。
定理一二 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものをできるだけ表象しようと努
める。
証明 人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されている間は、人間精神は
その物体を現在するものとして観想するであろう(第二部定理一七により)。したがってまた(第
二部定理七により)人間精神がある外部の物体を現在するものとして観想する間は、言いかえれ
ば(第二部定理一七の備考により)それを表象する間は、人間身体はその外部の物体の本性を含む
ような仕方で刺激される。だから精神が我々の身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを
表象する間は、身体はその活動能力を増大しあるいは促進するような仕方で刺激される(この部
の要請一を見よ)。したがってまた(この部の定理一一により)その間は、精神の思惟能力は増大
しあるいは促進される。そのゆえに(この部の定理六または九により)精神はできるだけそうした
ものを表象しようと努める。Q・E・D・
定理一三 精神は身体の活動能力を減少しあるいは阻害するものを表象する場合、そうした物
の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める。
証明 精神がそうしたものを表象する間は精神ならびに身体の能力は減少しあるいは阻害され
る(前定理において証明したように)。それにもかかわらず精神はそうしたものの現在的存在を排
除する他の物を表象するようになるまではそうしたものを表象するであろう(第二部定理一七に
より)。言いかえれば(今しがた示したように)精神ならびに身体の能力は精神がそうしたものの
存在を排除する他のものを表象するようになるまでは減少しあるいは阻害される。したがって精
神は(この部の定理九により)できるだけこのものを表象しあるいは想起しょうと努めるであろう。
Q・E・D・
系 この帰結として、精神は自己の能力ならびに身体の能力を減少しあるいは阻害するものを
表象することを厭うということになる。
備考 これらのことによって我々は愛および憎しみの何たるかを明瞭に理解する。すなわち愛
とは外部の原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外部の原因の観念を伴っ
た悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ
維持しょうと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ滅ぼそうと努めることを我
我は知る。しかしこれらすべてについては、以下においていっそう詳しく述べるであろう。
定理一四 もし精神がかつて同時に二つの感情に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の
一つに刺激される場合、他の一つにも刺激されるであろう。 184
証明 もし人間身体がかつて同時に二つの物体から刺激されたとしたら、精神はあとでその中
の三を表象する場合、ただちに他の一つをも想起するであろう(第二部定理一八により)。とこ
ろが精神の表象は、外部の物体の本性よりも我々の身体の感慨をより多く示している(第二部定
理一六の系二により)。ゆえにもし身体、したがってまた精神は(この部の定義三を見よ)かつて
二つの感情に刺激されたとしたら、あとでその中の一つに刺激される場合他の一つにも刺激され
るであろう。Q・E・D・
定理一五 おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。
証明 精神が同時に二つの感情に、すなわち一つは精神の活動能力を増大も減少もしないもの、
他の一つはそれを増大あるいは減少するものに刺激されると仮定しよう(この部の要請一見よ)。
前定理から次のことが明白である。すなわち精神があとでそれ自体では精神の思惟能力を増大も
減少もしない(仮定により)第一の感情の真の原因によってその第一の感情に刺激される場合、精
神はただちに、自己の思惟能力を増大しあるいは減少する第二の感情に、言いかえれば(この部
の定理一一の備考により)喜びあるいは悲しみに、刺激されるであろう。したがってかの〔第一の
感情の原因となった〕物はそれ自体によってではなく偶然によって喜びあるいは悲しみの原因と
なるであろう。またこの同じ経路でそうした物が偶然によって欲望の原因となりうることを容易
に示すことができる。Q・E・D・
系 我々は、ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして、
その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる。
証明 なぜなら、このことだけからして(この部の定理一四により)、精神はあとでこの物を表
象する時喜びあるいは悲しみの感情に刺激されるということになる、言いかえれば(この部の定
理一一の備考により)精神ならびに身体の能力が増大あるいは減少させられるなどなどのことに
なる。したがってまた(この部の定理一二により)精神がその物を表象することを好みあるいは
(この部の定理一三の系により)厭うことになる、言いかえれば(この部の定理一三の備考により)
精神はその物を愛し、あるいは憎むことになる。Q・E・D・
備考 これによって我々は、その原因を知らずにただいわゆる同感〔先入的好感〕および反感だ
けからある物を愛したり憎んだりするということがどうして起こりうるかを理解する。我々を喜
びあるいは悲しみの感情に刺激するのを常とする対象に多少類似しているという理由だけで、我
我を喜びあるいは悲しみに刺激するような対象(これについては次の定理で示すであろう)もまた
こうしたものの中に入れられる。
この同感および反感という語を最初に採用した著作家たちがそれでもって事物の中に隠れてい
るある性質を表わそうと欲したことは私ももちろん知っている。しかしそれにもかかわらず我々
はこれらの語をよく知られたあるいは明白な特質を表わすものと解して差しつかえないと信ずる。
定理一六 ある物が、精神を喜びあるいは悲しみに刺激するのを常とする対象に多少類似する
と我々が表象するというだけのことからして、その物がその対象と類似する点がそうした感情の 186
起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はその物を愛しあるいは憎むであろう。
証明 その物がその対象に類似する点を我々は対象自身において(仮定により)喜びあるいは悲
しみの感情をもって観想した。したがって(この部の定理一四により)精神はこの類似点の表象像
によって刺激される場合ただちに喜びあるいは悲しみの感情にも刺激されるであろう。したがっ
てまたこの類似点をもつと我々が知覚する物は、偶然によって喜びあるいは悲しみの原因となる
であろう(この部の定理一五により)。そこで(前の系により)その物が対象に類似する点がそうし
た感情の起成原因〔直接原因〕でなくても、我々はやはりその物を愛しあるいは憎むであろう。
Q・E・D・
定理一七 我々を悲しみの感情に刺激するのを常とする物が、等しい大いさの喜びの感情に我
我を刺激するのを常とする他の物と多少類似することを我々が表象する場合、我々はその物を憎
みかつ同時に愛するであろう。
証明 なぜなら(仮定により)この物はそれ自体によって悲しみの原因である。そして我々が
(この部の定理一三の備考により)この物を悲しみの感情をもって表象する限り我々はそれを憎む。
さらにまたそれが我々を等しい大いさの喜びの感情に刺激するのを常とする他の物に多少類似す
ることを我々が表象する限り、我々はそれを等しい大いさの喜びの緊張をもって愛するであろう
(前定理により)。したがって我々はそれを憎みかつ同時に愛するであろう。Q・E・D・
備考 二つの相反する感情から生ずるこの精神状態は心情の動揺と呼ばれる。したがってその
感情に対する関係は、疑惑の表象に対する関係と同様である(第二部定理四四の備考を見よ)。そ
して心情の動揺と疑惑との相違は、ただその度合の強弱という点にのみ存するのである。しかし
ここに注意しなければならぬのは 〜 私は前定理においてこの心情の動揺を、それ自身によって
ある感情の原因であり・偶然によって他の感情の原因であるような原因から導き出したが、それ
はそうした方がこの動揺をより容易に前の諸定理から導き出しうるからであって、何も心情の動
揺が、多くの場合、二つの感情の起成原因〔直接原因〕であるような一対象から生ずることを否定
しているわけではないということである。なぜなら、人間身体は(第二部要請一により)本性を異
にするきわめて多くの個体から組織されており、したがって(第二部定理一三のあとにある補助
定理三のあとの公理一により)人間身体は同一物体からきわめて多くの異なった仕方で刺激され
ることができる。また逆に、同一事物が多くの仕方で刺激されうるからには、同一事物がまた多
くの異なった仕方で人間身体の同一部分を刺激することができるであろう。すなわちこれらのこ
とからして我々は同一対象が多くのかつ相反する感情の原因となりうることを容易に理解するこ
とができるのである。
定理一八 人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様
の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。
証明 人間はある物の表象像に刺激されている間は、たとえその物が存在していなくとも、そ 188
れを現在するものとして観想するであろう(第二部定理一七およびその系により)、そしてその物
の表象像が過去あるいは未来の時間の表象像と結合する限りにおいてでなくては、それを過去あ
るいは未来のものとして表象しない(第二部定理四四の備考を見よ)。だから物の表象像は、単に
それ自体において見れば、それが未来ないし過去の時間に関係したものであろうと現在に関係し
たものであろうと同じである。言いかえれば(第二部定理一六の系二により)身体の状態(コンステイトウティオ)あ
るいは感情(アフエクトウス)は表象像が過去あるいは未来の物に関するものであろうと現在の物に関するもので
あろうと同じである。したがって喜びおよび悲しみの感情は表象像が過去あるいは未来の物に関
するものであろうと現在の物に関するものであろうと同じである。Q・E・D・
備考一 私がここで物を過去のものとか未来のものとか呼ぶのは、我々がその物によって刺激
されたかあるいは刺激されるであろう限りにおいてである。例えば我々がある物を見たかあるい
は見るであろう、ある物が我々を活気づけたかあるいは活気づけるであろう、ある物が我々を害
したかあるいは害するであろう……などなどの限りにおいて、私はその物を過去のものあるいは
未来のものと呼ぶのである。なぜなら、物をそのようなふうに表象する限りにおいて、我々はそ
の物の存在を肯定している。言いかえれば身体はその物の存在を排除するいかなる感情にも刺激
されない。したがって(第二部定理一七により)身体はその物の表象像によってあたかもその物自
身が現在したであろう場合と同じ仕方で刺激される。ではあるがしかし、数々の経験をもつ人々
は、物を未来あるいは過去のものとして観想する間は、大抵動揺して、その物の結果について多
くは疑惑を有するから(第二部定理四四の備考を見よ)、したがって事物のこの種の表象像から生
ずる感情はさほど確乎たるものでなく、人々がその物の結果について確実になるまでは、しばし
ば他の事物の表象像によって乱されることになる。
備考二 今しがた述べたことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何
たるかを理解する。すなわち希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の
表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象
像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安
堵となり、恐怖は絶望となる。すなわちそれは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から
生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表
象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。
定理一九 自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう。これ
に反して自分の愛するものが鮭持されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。
証明 精神は身体の活動能力を増大しあるいは促進するものを(この部の定理一二により)、言
いかえれば(この部の定理一三の備考により)自分の愛するものを、できるだけ表象しようと努め
る。ところが表象力は物の存在を定立するものによって促進され、また反対に物の存在を排除す
るものによって阻害される(第二部定理一七により)。ゆえに愛するものの存在を定立する事物の
表象像は、愛するものを表象しようと努める精神の努力を促進する、言いかえれば(この部の定
理一一の備考により)精神を喜びに刺激する。これに反して愛するものの存在を排除する事物の 190
表象像は、精神のこの努力を阻害する、言いかえれば(同じ備考により)精神を悲しみに刺激する。
ゆえに自分の愛するものが破壊されることを表象する人は悲しみを感ずるであろう、云々。Q・
E・D・
定理二〇 自分の憎むものが破壊されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。
証明 精神は(この部の定理一三により)身体の活動能力を減少しあるいは阻害する事物の存在
を排除するようなものを表象しようと努める、言いかえれば精神は(同じ定理の備考により)自分
の憎むものの存在を排除するようなものを表象しようと努める。したがって精神の憎むものの存
在を排除するような物の表象像は精神のこの努力を促進する、言いかえればそれは(この部の定
理一一の備考により)精神を喜びに刺激する。ゆえに自分の憎むものが破壊されることを表象す
る人は喜びを感ずるであろう。Q・E・D・
定理二一 自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に
喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより
大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあ
るいはより小であるであろう。
証明 愛されているものの存在を定立する事物の表象像は(この部の定理一九で証明したよう
に)、愛されているものを表象しようと努める精神の努力を促進する。ところが喜びは、喜ぶも
のの存在を定立し、しかも喜びの感情がより大なるに従ってそれだけ多く定立する。なぜなら喜
びは(この部の定理一一の備考により)より大なる完全性への移行だからである。ゆえに愛する当
人における愛されている対象の喜びの表象像は、愛する当人の精神の努力を促進する、言いかえ
れば(この部の定理一一の備考により)愛する当人を喜びに刺激する、しかも喜びの感情が愛され
ている対象においてより大であったのに従ってそれだけ大なる喜びに刺激する。これが第一の点
であった。次に物は何らかの悲しみに刺激される限り破壊される、しかもより大なる悲しみに刺
激されるに従ってそれだけ多く破壊される(同じくこの部の定理一一の備考)。したがって
(この部の定理一九により)自分の愛するものが悲しみに刺激されること表象する人は同様に悲
しみに刺激されるであろう、しかも悲しみの感情が愛されている対象においてより大であったの
に従ってそれだけ大なる悲しみに刺激されるであろう。Q・E・D・
定理二二 ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はそ
の人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺
激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう。
証明 我々の愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激する人は、我々がそのこと(我々の愛す
るものがその事びあるいは悲しみに刺激されたこと)裏象する限り、我々を喜びあるいは悲
しみに刺激する(前定理により)。ところがこの喜びあるいは悲しみは、仮定によれば、外部の原
因の観念を伴って我々の中に在る。ゆえに(この部の定理一三の備考により)もしある人が我々の 192
愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して
愛あるいは憎しみに刺激されるであろう。Q・E・D・
備考 定理二一は憐憫の何たるかを我々に説明してくれる。我々はこれを他人の不幸から生ず
る悲しみであると定義することができる。しかし他人の幸福から生ずる喜びがいかなる名前で呼
ばれるべきかを私は知らない。さらに我々は他人に善をなした人に対する愛を好意と呼び、これ
に反して他人に悪をなした人に対する憎しみを憤慨と呼ぶであろう。最後に注意すべきことは、
我々は我々の愛したものに憐憫を感ずる(定理二ーで示したように)だけでなく、また以前には我
我が何の感情もいだいていなかったものに対しても、ただそのものが我々に類似する〔同類であ
る〕と我々が判断すれば我々はこれに憐憫を感ずる(のちに示すだろうように)。したがって我々
は自分と同類のものに善をなした人に対しても好意を感じ、また反対に自分と同類のものに不幸
を与えた人に対しても憤慨を感ずるであろう。
定理二三 自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。
これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そ
してこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であ
るのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。
証明 憎まれたものは悲しみに刺激される限りにおいて破壊される、しかもより大なる悲しみ
に刺激されるに従ってそれだけ多く破壊される(この部の定理一一のの備考により)。ゆえに(この
部の定理二〇により)自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は反対に喜びに刺
激されるであろう、しかも憎まれたものがより大なる悲しみに刺激されたことを表象するに従っ
てそれだけ大なる喜びに刺激されるであろう。これが第一の点であった。次に喜びは喜ぶものの
存在を定立する(同じくこの部の定理一一の備考により)、しかもその喜びがより大であると考え
られるに従ってそれだけ多く定立する。もし自分の憎むものが喜びに刺激されることをある人が
表象するなら、この表象は(この部の定理一三により)その人良身の努力を阻害するであろう、言
いかえれば(この部の定理一一の備考により)憎む人は悲しみに刺激されるであろう、云々。Q・
E・D・
備考 この事びはあまり基礎の固いものでなく、また心情の葛藤を伴わないわけにはいかない。
なぜなら(まもなくこの部の定理二七で証明するだろうように)、人は自分と同類のものが悲しみ
の感情に刺激されることを表象する限り、悲しまざるをえないからである。また反対に自分と同
類のものが喜びに刺激されることを表象すれば、喜ばざるをえない。しかしここで我々は、人が
あるものを憎んでいる場合のみを念頭に置いて言っているのである。
定理二四 ある人が我々の憎むものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその
人に対しても憎しみに刺激されるであろう。反対にその人が我々の憎むものを悲しみに刺激する
ことを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。
証明 この定理はこの部の定理二二と同様の仕方で証明される。その個所を見よ。
備考 これらの感情ならびに憎しみから来るこれと類似の諸感情はねたみの中に入れられる。 194
したがってねたみとは人間をして他人の不幸を喜びまた反対に他人の幸福を悲しむようにさせる
ものと見られる限りにおける憎しみそのものにほかならない。
定理二五 我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべての
ものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身
あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。
証明 我々の愛するものを喜びあるいは悲しみに刺激すると我々が表象するものは、我々をも
喜びあるいは悲しみに刺激する(この部の定理二一により)。ところが精神は(この部の定理一二
により)我々を喜びに刺激するものをできるだけ表象しようと努める。言いかえれば(第二部定理
一七およびその系により)そうしたものを現在するものとして観想しようと努める。また反対に
(この部の定理一三により)我々を悲しみに刺激するものについてはその存在を排除しようと努め
る。ゆえに我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象すかすべてのも
のを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対の場合は反対の
ことに努める。Q・E・D・
定理二六 我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むも
のについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべて
のものを否定しようと努める。
証明 前定理がこの部の定理二ーから帰結されたように、この定理は定理二三から帰結される。
備考 これで我々は、人間が自分自身ならびに自分の愛するものについて正当以上に感じ・ま
た反対に自分の憎むものについて正当以下に感ずるということが起こりやすいことを知りうる。
こうした表象は自分について正当以上に感ずる人間自身に関係する時は高慢と呼ばれ、そしてこ
れは狂気の一種である。なぜならこのような人間は、単に表象においてのみ達成されることをす
べてなしうるものと目を開きながら夢み「そのためにそれらのことを実在するかのように観想し、
そしてそれらの存在を排除しかつその人間自身の活動能力を限定するものを表象しえない限りに
おいて、それらについて誇っているのだからである。ゆえに高慢とは人間が自分白身について正
当以上に感ずることから生ずる喜びである。次に人間が他のものについて正当以上に感ずること
から生ずる喜びは買いかぶりと呼ばれ、最後に人間が他のものについて正当以下に感ずることか
ら生ずる喜びは見くびりと呼ばれる。
定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがあ
る感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺
激される。
証明 事物の表象像とは人間身体の変状〔刺激状態〕のことであり、そしてその変状の観念は外
部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべさせる(第二部定理一七の備考により)。言いか 196
えれば(第二部定理一六により)その変状の観念は我々の身体の本性と同時に外部の物体の現在的
本性を含んでいる。ゆえにもし外部の物体の本性が我々の身体の本性に類似するならば、我々が
表象する外部の物体の観念は、外部の物体の変状に類似した我々の身体の変状を含むであろう。
したがってもし我々に類を同じくするあるものがある感情に刺激されたことを我々が表象するな
ら、この表象は、この感情に類似した我々の身体の変状を表現するであろう。だから我々と類を
同じくするあるものがある感情に刺激されることを表象することによって、孜々はそのものと類
似の感情に刺激される。しかしもし我々と類を同じくするものを我々が憎んでいるなら、その限
りにおいては、我々は(この部の定理二三により)そのものと反対の感情に刺激され、類似の感情
には刺激されないであろう。Q・E・D・
備考 感情のこの模倣が悲しみに関する場合には憐憫と呼ばれる(これについてはこの部の定
理二二の備考を見よ)。しかしそれが欲望に関する場合は出親争心と呼ばれる。ゆえに競争心とは
我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中
に生ずる同じ欲望にほかならない。
系一 その人に対して我々が何の感情もいだいていないある人が、我々と同類のものを喜びに
刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに
反してその人がそうしたものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々はその人に
対して憎しみに刺激されるであろう。
証明 この系は、この部の定理二二が定理二ーから証明されたのと同じ仕方で前定理から証明
される。
系二 我々の憐れむものの不幸が我々を悲しみに刺激するからといって、我々はそのものを憎
むことはできない。
証明 なぜなら、もしこのことのために我々がそうしたものを憎むことができるとしたら、我
我はそうしたものの悲しみを喜ぶことになるであろう(この部の定理二三により)。しかしこれは
仮定に反する。
系三 我々は我々の憐れむものできるだけその不幸から脱せしめようと努めるであろう。
証明 我々の憐れむものを悲しみに刺激するものは我々をも類似の悲しみに刺激する(前定理
により)。したがって我々はそうしたものの存在を除去するすべてのことを、あるいはそうした
ものを破壊するすべてのことを、想起しようと努めるであろう(この部の定理三により)。言い
かえれば我々は(この部の定理九の備考により)そうしたものを破壊しようとする衝動を感ずるで
あろう。あるいはそうしたもの姦壊するように決定されるであろう。ゆえに我々は我々の憐れ
むものをその不幸から脱せしめようと努めるであろう。Q・E・D・
備考 あるものを憐れむことから生ずる、そのものに親切をしてやろうとするこの意志ないし
衝動は慈悲心と呼ばれる。したがってこれは憐憫から生ずる欲望にほかならない。なお我々と同
類であると我々の表象する対象に善あるいは悪をなした人に対する愛あるいは憎しみについては、
この部の定理二二の備考を見よ。
定理二八 我々は、喜びをもたらすと我々の表象するすべてのものを実現しようと努める。反 198
対にそれに矛盾しあるいは悲しみをもたらすと我々の表象するすべてのものを遠ざけあるいは破
壊しょうと努める。
証明 我々は喜びをもたらすと我々の表象するものをできるだけ表象しようと努める(この部
の定理一二により)、言いかえれば我々は(第二部定理一七により)そうしたものを、できるだけ
現在するものあるいは現実の存在するものとして観想しょうと努めるであろう。ところが精神の
努力ないしその思惟能力は身体の努力ないしその行動能力と本性上相等しくかつ同時的である
(第二部定理一七の系および定理一一の系から明瞭に帰結されるように)。ゆえに我々はそうしたも
のが存在するように絶対的に努める、あるいは我々は(この部の定理九の備考により同じことだ
が)そうしたことに衝動を感じまたそうしたことへ力を尽す。これが第一の点であった。次にも
し悲しみの原因であると我々の信ずるもの、言いかえれば(この部の定理一三の備考により)我々
の憎むもの、が破壊されることを我々が表象するならば、我々は喜ぶであろう(この部の定理二
〇により)。したがって我々はそうしたものを現在するものとして観想しないようにそれを破壊
することに努め(この定理の最初の部分と同じ理由により)、あるいは(この部の定理一三により)
それを我々から遠ざけることに努めるであろう。これが第二の点であった。ゆえに喜びをもたら
すと我々の表象するすべてのものを云々。Q・E・D・
定理二九 我々は人々(*)が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努める
であろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすの嫌悪するであろう。
*注意。ここおよび以下において人々というのは、その人々に対して我々が何の感情もいだいて
いない場合と解してもらいたい。
証明 人々があるものを愛しあるいは憎むと我々が表象することによって、我々はそのものを
愛しあるいは憎むであろう(この部の定理二七により)。言いかえれば我々は(この部の定理一三
の備考により)そのことのためにそうしたものの現在を喜びあるいは悲しむであろう。したがっ
て我々は(前定理により)人々が愛しあるいは喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのこと
をなそうと努めるであろう、云々。Q・E・D・
備考 ただ人々の気に入ろうとする理由だけであること差したり控えたりするこの努力は名
誉欲と呼ばれる。ことに我々が、我々自身あるいは他人の損害になるのも構わずにあること差
したり控えたりするほど熱心に民衆の気に入ろうと努める場合にはそう呼ばれる。しかしそれほ
どまででない場合は鄭重と呼ばれるのが常である。次に我々を喜ばせようとする努力のもとにな
された他人の行為を表象する際に我々の感ずる喜びを私は賞讃と呼び、これに反してその人の行
為を嫌悪する際に感ずる悲しみを非難と呼ぶ。
定理三〇 もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をしたならば、その人
は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわ
ち自分自身喜びをもって観想するであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると
表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって観想するであろう。 200
証明 自分が他の人々を喜びあるいは悲しみに刺激すると表象する人は、そのことだけによっ
て(この部の定理二七により)喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。ところが人間は(第二
部定理一九および二三により)自らを行動に決定する刺激〔変状〕によって自分自身を意識する。
だから他の人々を喜びに刺激すると自ら表象するようなある事をなした人は、喜びに刺激されか
っそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう。すなわち自分自身を喜びを
もつて観想するであろう。また反対の場合にはこれと反対のことが起こる。Q・E・D・
備考 愛とは(この部の定理一三の備考により)外部の原因の観念を伴った喜びであり、憎しみ
とは同じく外部の原因の観念を伴った悲しみであるから、ここに述べた喜びおよび悲しみは愛お
よび憎しみの一種である。しかし愛および憎しみは外部の対象に関連するものであるから、我々
は今述べた感情を他の名称で表示するであろう。すなわち我々は内部の原因の観念を伴ったこの
喜びを名誉と呼び、これと反対する悲しみを恥辱と呼ぶであろう。しかしこれは人間が他から賞
讃されあるいは非難されると信ずるために喜びあるいは悲しみを感じる場合のことである。そう
でない場合は、内部の原因の親念を伴ったこの喜びを自己満足と呼び、これに反対する悲しみを
後悔と呼ぶであろう。
なお、自分は他の人々を喜びに刺激しているとある人の表象するその喜びが、単に表象的なも
のにすぎないこともありうるし(第二部定理一七の系により)、また(この部の定理二五により)各
人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのである
から、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表
象する、というようなことが容易に起こりうるのである。
定理三一 もし我々が自分の愛し、欲し、あるいは憎むものをある人が愛し、欲し、あるいは
憎むことを表象するならば、まさにそのことによって我々はそのものをいっそう強く愛し、欲し、
あるいは憎むであろう。これに反し、もし我々が自分の愛するものをある人が嫌うことを、ある
いはその反対を、(すなわち我々の憎むものをある人が愛することを表象するならば、我々は心
情の動揺を感ずるであろう。
証明 ある人があるものを愛することを我々が表象するなら、単にそのことだけによって我々
はそのものを愛するであろう(この部の定理二七により)。ところが、もともと初めから我々はそ
のものを愛していることが仮定されている。だからもとの愛に対して、さらにその愛をはぐくむ
新しい原因が加わることになる。したがって我々は自分の愛するものを、まさにそのことのため
に、いっそう強く愛するであろう。次に、ある人があるものを嫌うことを我々が表象することに
ょって我々はそのものを嫌うようになるであろう(同じ定理により)。ところでもし我々が同時に
それを愛していると仮定するならば、我々はその同じものを同時に愛しかつ嫌うであろう。すな
わち我々は(この部の定理一七の備考を見よ)心情の動揺を感ずるであろう。Q・E・D・
系 このことおよびこの部の定理二八の帰結として、各人は自分の愛するものを人々も愛する
ように、また自分の憎むものを人々も憎むようにできるだけ努めるということになる。こんなと 202
ころから詩人のあの言葉も出ている 〜
我ら愛する者はかつ望みかつ恐れようよ、
他人の捨てるものを愛するなんて野暮なことだ、 (オヴィディウス)
備考 自分の愛するものや自分の憎むものを人々に是認させようとするこの努力は実は名誉欲
である(この部の定理二九の備考を見よ)。このようにして各人は生来他の人々を自分の意向に従
って生活するようにしたがるものであるということが分かる。ところで、このことをすべての人
が等しく欲するゆえに、すべての人が等しくたがいに障害になり、またすべての人がすべての人
から賞讃されよう愛されようと欲するゆえに、すべての人が相互に憎み合うことになるのである。
定理三二 ただ一人だけしか所有しえぬようなものをある人が享受するのを我々が表象するな
ら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。
証明 ある人があるものを享受することを我々が表象するなら、そのことだけによって我々は
(この部の定理二七およびその系一により)そのものを愛するであろうし、また享受しようと欲す
るであろう。ところが仮定によれば、他の人がその同じものを享受することは自分がこの喜びを
達するのに妨げになることを我々は表象する。ゆえに我々は(この部の定理二六により)その人に
それを所有させぬように努めるであろう。Q・E・D・
備考 このようにして、人間の本性は一般に、不幸な者を憐れみ幸福な者をねたむようにでき
ていること、しかも(前定理により)他人の所有していると彼らの表象するものを彼らがより多く
愛するに従ってそれだけ大なる憎しみをもってねたむということが分かる。次に人間が同情心を
起こすようになるその同じ人間本性の特質からして、また人間がねたみ心をいだき、あるいは名
誉欲に支配されるということが起こってくることが分かる。最後に、もし我々がこれを経験に聴
こうと欲するならば、経験そのものもすべてこの通り教えることを我々は見いだすであろう。こ
とに我々が自分の幼少時代に思いを至すならなおさらのことである。というのは、小児はその身
体がいわば絶えざる動揺状態にあるがゆえに、他の人々の笑いあるいは泣くのを見ただけで笑い
あるいは泣くのを我々は経験している。さらにまた小児は他の人々がなすのを見て何でもすやに
模倣したがるし、最後にまた他の人々が楽しんでいると表象するすべてのことを自分に欲求する。
これというのも事物の表象像は、すでに述べたとおり、人間身体の変状そのもの、〜 すなわち
外部の原因によって人間身体にもたらされて人間をこのあるいはかの行動に決定する刺激の様式
そのもの、にほかならないからである。
定理三三 我々は我々と同類のものを愛する場合、できるだけそのものが我々を愛し返すよう
に努める。
証明 我々は自分の愛するものをできるだけ他のものよりも多く表象しようと努める(この部
の定理一二により)。ゆえにもしそのものが我々と同類のものならば、我々はそのものを他のも
のよりも多く喜びに刺激することに努めるであろう(この部の定理二九により)。つまり我々は、
我々の愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激されるように、言いかえれば(この部の定理
一三この備考により)そのものが我々を愛し返すようにできるだけ努めるであろう。Q・E・D・ 204
定理三四 我々の愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されていると我々が表象す
るに従って、我々はそれだけ大なる名誉〔誇り〕を感ずるであろう。
証明 我々は(前定理により)できるだけ、愛するものが我々を愛し返すように努める。言いか
えれば我々は(この部の定理一三の備考により)愛するものが我々の観念を伴った喜びに刺激され
るように努める。そこで、愛するものが我々のためにより大なる喜びに刺激されていると我々が
表象するに従って、この努力はそれだけ多く促進される。言いかえれば(この部の定理一一およ
びその備考により)、我々はそれだけ大なる喜びに刺激される。ところが我々は我々と同類の他
のものを喜びに刺激したことによって喜びを感ずるたびごとに、我々自身を喜びをもって観想す
る(この部の定理三〇により)。ゆえに愛するものが我々に対してより大なる感情に刺激されてい
ると我々が表象するに従って、我々はそれだけ大なる喜びをもって我々自身を観想するであろう。
すなわち我々は(この部の定理三〇の備考により)それだけ大なる名誉〔誇り〕を感ずるであろう。
Q・E・D・
定理三五 人はもし自分の愛するものが自分のこれまで独り占めにしていたと同じの、あるい
はより緊密な愛情の絆によって他人と結合することを表象するならば、愛するもの自身に対して
は憎しみを感じ、またその他人をねたむであろう。
証明 人は自分の愛するものが自分に対してより大なる愛を感じていると表象するに従ってそ
れだけ大なる名誉を感ずるであろう(前定理により)。言いかえれば(この部の定理三〇の備考に
より)それだけ大なる喜びを覚えるであろう。したがってその人は(この部の定理二八により)愛
するものが自分と最も緊密に結びついていることを表象するようにできるだけ努めるであろう。
そしてこの努力ないし衝動は、他人もその同じものを欲していると表象される場合なお強められ
るものである(この部の定理三一により)。ところが仮定によれば、この努力ないし衝動は、愛す
るもの自身の表象像が愛するものの結合している他人の表象像を伴っていることによって阻害さ
れることになっている。ゆえにその人は(この部の定理一一の備考により)そのことによって悲し
みに、〜 愛するものをその原因として意識し、同時にかの他人の表象像を伴った悲しみに、刺
激されるであろう。言いかえればその人は(この部の定理一三の備考により)愛するものに対して、
また同時にその他人に対して(この部の定理一五の系により)、憎しみに刺激されるであろう。し
たがってまたその他人を 〜 その他人は愛するものを享楽しているのであるから 〜 ねたむであ
ろう(この部の定理二三により)。Q・E・D・
備考 ねたみと結合した、愛するものに対するこの憎しみは、嫉妬と呼ばれる。したがって嫉
妬とは、同時的な愛と憎しみから生じかつそれにねたまれる第三者の観念を伴った心情の動揺に
ほかならない。なおまた愛するものに対するこの憎しみの大いさは、嫉妬する者がそれまで愛す
るものの愛し返しによって感ずるのを常としていた喜びの度合に比例し、さらにまた愛するもの
の結合する相手として表象される人に対して彼が前にいだいていた感情の度合に比例するであろ 206
う。というのは、もし彼がその第三者を憎んでいるとしたら、すでにそのことだけで彼は愛する
ものを憎むであろう(この部の定理二四により)。なぜなら彼は愛するものが彼の憎むものを喜び
に刺激することを表象するからである。その上また彼は(この部の定理一五の系により)愛するも
のの表象像を彼の憎むものの表象像と結合せざるをえないということからも愛するものを憎むで
あろう。この関係は一般に女に対する愛の場合に見られる。すなわち愛する女が他人に身を要せ
ることを表象する人は、自分の衝動が阻害されるゆえに悲しむばかりでなく、また愛するものの
表象像を他人の恥部および分泌物と結合せざるをえないがゆえに愛するものを厭(いと)うであろう。こ
れに加えてまた嫉妬する者は、愛するものが与えるのを常としたと同じ顔つきをもって愛するも
のから迎えられないということになる。そしてこの理由からも愛する当人は悲しみを感ずる。私
がやがて示すであろうように。
定理三六 かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそ
れを所有しようと欲する。
証明 人間が自分を楽しませたものと同時に見たすべてのものは、彼にとって偶然による喜び
の原因となるであろう(この部の定理一五により)。したがって(この部の定理二八により)彼は、
これらすべてを、自分を楽しませたものと同時に所有しょうと欲するであろう。すなわち彼が最
初にそれを楽しんだと同一のすべての事情のもとにそれを所有しようと欲するであろう。Q・
E・D・
系 それでもし、愛する当人は、これらの事情の一つでも欠けていることに気づけば、悲しむ
であろう。
証明 なぜなら、何らかの事情が欠けていることに気づく限り、彼はそのものの存在を排除す
るある物を表象する。ところが彼は、そのものあるいはその事情を(前定理により)愛ゆえに欲し
ているのであるから、したがって(この部の定理一九により)それが欠けていることを表象する限
り、悲しみを感ずるであろう。Q・E・D・
備考 我々の愛する物の不在に関するこの悲しみは思慕と呼ばれる。 思慕
定理三七 悲しみや喜び、憎しみや愛から生ずる欲望は、それらの感情がより大であるに従っ
てそれだけ大である。
証明 悲しみは人間の活動能力を減少しあるいは阻害する(この部の定理一一の備考により)。
言いかえれば(この部の定理七により)人間が自己の有に固執しようと努める努力を減少しあるい
は阻害する。したがって悲しみは(この部の定理五により)この努力に相反するものである。そし
て悲しみを感じている人間のすべての努力は悲しみを除去することに向けられる。ところが(悲
しみの定義により)悲しみがより大であるに従ってそれは必然的に人間の活動能力のそれだけ大
なる部分を阻害する。ゆえに悲しみがより大であるに従って人間は反対にそれだけ大なる活動能
力をもって悲しみを除去しようと努めるであろう。言いかえれば(この部の定理九の備考により)
それだけ大なる欲望ないし衝動をもって悲しみを除去しようと努めるであろう。次に喜びは(再 208
びこの部の定理一一の備考により)人間の活動能力を増大しあるいは促進するから、喜びを感じ
ている人間が喜びを維持することを何よりも欲すること、しかも喜びがより大なるに経ってそれ
だけ大なる欲望をもってそれを欲することは同じ方法で容易に証明される。最後に、憎しみや愛
は悲しみや喜びの感情そのものであるから、憎しみや愛から生ずる努力・衝動ないし欲望の大い
さが憎しみや愛の大いさに比例するだろうことも同じ仕方で導き出される。Q・E・D・
定理三八 ある人がその愛するものを憎み始めてついに愛がまったく消滅するに至る場合、彼
は、それを全然愛していなかった場合よりも 〜 もしその憎む原因が両方の場合相等しいとした
ら 〜 より大なる憎しみに捉われるであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに
従ってそれだけ大であるであろう。
証明 なぜなら、もしある人がその愛するものを憎み始めるなら、それを愛さなかった場合に
比し、彼における衝動はより多く阻害される。というのは、愛は喜びであるから(この部の定理
一三の備考により)、人間はこれをできるだけ維持しようと努め(この部の定理二八により)、そ
のため(同じ備考により)愛するものを現在するものとして観想するようにし、また愛するものを
(この部の定理二一により)できるだけ喜びに刺激するようにする。この努力は(前定理により)愛
がより大なるに従ってそれだけ大である。そして愛するものに自分自身を愛し返させるようにす
る努力もまた同様である(この部の定理三三を見よ)。ところがこれらの努力は愛するものに対す
る憎しみによって阻害される(この部の定理一三の系および定理二三により)。ゆえに愛する当人
は(この部の定理一一の備考により)この理由のためにも悲しみに刺激されるであろう。そしてそ
の悲しみは愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。言いかえれば、憎しみの原
因であった悲しみのほかに、なお他の悲しみが、そのものを愛したことから生ずるのである。し
たがって彼はそのものを愛さなかった場合に比べ、より大なる悲しみの感情をもって愛するもの
を観想するであろう。言いかえれば(この部の定理一三の備考により)より大なる憎しみに捉われ
るであろう。そしてこの憎しみは以前の愛がより大であったに従ってそれだけ大であるであろう。
Q・E・D・
定理三九 ある人を憎む者はその人に対して悪〔害悪〕を加えようと努めるであろう。ただしそ
のために自分自身により大なる悪の生ずることを恐れる場合はこの限りでない。また反対に、あ
る人を愛する者は同じ条件のもとに、その人に対して善〔親切〕をなそうと努めるであろう。
証明 ある人を憎むとは(この部の定理一三の備考により)ある人を悲しみの原因として表象す
ることである。したがって(この部の定理二八により)ある人を憎む者はその人を遠ざけあるいは
破壊しようと努めるであろう。だがもし彼がそのため自分自身により大なる悲しみあるいは(同
じことだが)より大なる悪の生ずることを恐れるなら、そして企てた悪を、憎む人に加えないこと
によってそれを避けうると信ずるなら、彼はその悪を加える企てを断念しょうと欲するであろう
(再びこの部の定理二八により)、しかも(この部の定理三七により)この努力〔欲求〕は他人に悪を
加えるように彼を促した努力〔欲求〕に比べより大であるであろう。したがってこの努力の方が、 210
我々の主張したように、優勢を占めるであろう。この定理の第二の部分の証明も同じ仕方でなさ
れる。ゆえにある人を憎む者は云々。Q・E・D・
備考 私はここで、善をあらゆる種類の喜びならびに喜びをもたらすすべてのもの、また特に
願望 〜 それがどんな種類のものであっても 〜 を満足させるもの、と解する。これに反して悪
をあらゆる種類の悲しみ、また特に願望の満足を妨げるもの、と解する。なぜなら、前に(この
部の定理九の備考において)示したように、我々は物を善と判断するがゆえに欲するのでなく、
かえって反対に我々の欲するものを善と呼ぶのだからである。したがってまた我々は我々の嫌悪
するものを悪と呼ぶ。ゆえに各人は、何が善で何が悪であるか、何がより善く何がより悪くある
か、最後に何が最も善く何が最も悪くあるかを自己の感情に基づいて判断しあるいは評価する。
こうして食欲者は金の集積を最も善いものと判断し、その欠乏を最も悪いものと判断する。しか
し名誉欲者は何にもまして名誉を欲し、反対に何にもまして恥辱を恐れる。最後に、ねたみ屋に
とっては他人の不幸ほど愉快なものはなく、また他人の幸福ほど不快なものはない。このように
して各人は、自己の感情に基づいて、あるものが善か悪か、有用か無用かを判断するのである。
なおまた、人間をしてその欲するものを欲せずあるいはその欲せざるものを欲するように仕向
けるこの感情は臆病と呼ばれる。したがって臆病とは人間をしてその予見する悪をより小なる悪
によって避けるように仕向ける限りにおける恐怖にほかならない(この部の定理二八を見よ)。し
かしもしその恐れる悪が恥辱である場合にはその臆病は蓋恥と呼ばれる。最後にもし予見される
悪を避けようとする欲望が他の悪への怯(おび)えによって阻害されていずれを選ぶべきかを知らない場
合には 〜 特にその恐れる二つの音感がきわめて大なる場合には 〜 その恐怖は恐慌と呼ばれる。
定理四〇 自分が他人から憎まれていると表象し、しかも自分は憎まれる何の原因もその人に
与えなかったと信ずる者は、その人を憎み返すであろう。
証明 人が憎しみに刺激されていることを表象する者はそのことによって自分も同様に憎しみ
に刺激されるであろう(この部の定理二七により)。言いかえれば彼は(この部の定理一三の備考
により)外部の原因の観念を伴った悲しみに刺激されるであろう。ところが彼自身は(仮定によ
り)自分を憎んでいる人以外にこの悲しみの何の原因も表象しない。すえに彼は、自分がある人
から憎まれていると表象することによって、自分を憎む人の観念を伴った悲しみに刺激されるで
あろう。すなわち(同じ備考により)その人を憎むであろう。Q・E・D・
備考 もし彼が憎しみに対する正当な原因を与えたことを表象するならば、彼は(この部の定
理三〇およびその備考により)恥辱に刺激されるであろう。だがこうしたことは(この部の定理二
五により)稀にしか起こらない。
なおこの憎み返しは、憎しみにはその憎む柏手に害悪を加えようとする努力がつきものだとい
うことからも生じうる(この部の定理三九により)。すなわち、他人から憎まれることを表象する
者は、その人をある害悪または悲しみの原因として表象するであろう。したがって彼は自分を憎
む人をその原因として意識した悲しみまたは恐怖に刺激されるであろう。言いかえれば、上述の
ごとく、その人を憎み返すであろう。Q・E・D・
系一 自分の愛する人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者は、同時に憎しみと愛 212
とに捉われるであろう。なぜなら、自分がその人から憎まれると表象する限り彼はその人を憎み
返すように決定される(前定理により)。ところが彼は(仮定により)その人をそれにもかかわらず
愛している。ゆえに彼は同時に憎しみと愛とに捉われるであろう。
系二 もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえに
ぁる害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ尊意をその他人に報いようと努め
るであろう。
証明 他人が自分に対して憎しみを感じていると表象する者はその人を憎み返すであろう(前
定理により)。そして(この部の定理二八により)その人を悲しみに刺激しうるあらゆることを案
出しようと努め、かつそれをその人に(この部の定理三九により)加えようと励むであろう。とこ
ろが(仮定により)この種のことに関して彼の表象に浮かぶ第一のことは、彼自身に加えられた害
悪である。ゆえに彼は同じものをただちにその人に加えようと努めるであろう。Q・E・D・
備考 我々の憎む者に対して害悪を加えようとする努力は怒りと呼ばれる。また我々に対して
加えられた害悪に報いようとする努力は復讐と称される。
定理四一 もしある人が他人から愛されると表象し、しかも自分は愛される何の原因も与えな
かったと信ずる場合は(こうしたことはこの部の定理一五の系および定理一六によって可能であ
る)、彼はその人を愛し返すであろう。
証明 この定理は前定理と同様の仕方で証明される。なお前定理の備考を見よ。
備考 もし自分が愛に対する正当な原因を与えたと信ずるならば彼は名誉を感ずるであろう
(この部の定理三〇およびその備考により)。こうしたことは(この部の定理二五により)かなりし
ばしば起こる。これに対してある人が他人から憎まれることを表象する場合は、前に述べたよう
に、そうしたこと〔正当な原因を与えたと信ずること〕は稀にしか起こらない(前定理の備考を見
よ)。なおこの愛し返し、したがってまた(この部の定理三九により)我々を愛し・かつ(同じくこ
の部の定理二九により)我々に親切をなそうと努める人に対して親切をなそうとする努力、は感
謝または謝恩と呼ばれる。これからして、人間は親切に報いるよりもはるかに復讐に傾いている
ということが明らかになる。
系 自分の憎む者から愛されていることを表象する人は、同時に憎しみと愛とに捉われるであ
ろう。このことは前定理の系一と同じ仕方で証明される。
備考 この場合憎しみの方が優勢を占めるならば、彼は自分を愛してくれる者に害悪を加えよ
うと努めるであろう。この感情は残忍と称される。特に、愛してくれる者が憎しみを受ける何の
一般的原因も与えなかったと見られる場合にはそうである。
定理四二 愛に基づいて、あるいは名誉を期待して、ある人に親切をなした人は、その親切が
感謝をもって受け取られないことを見るなら悲しみを感ずるであろう。
証明 自分と同類のものを愛する人はできるだけそのものから愛し返されるように努める(こ 214
の部の定理三三により)。だから、愛に基づいてある人に親切をなした人は、愛し返されるよう
にとの願望をもって、言いかえれば(この部の定理三四により)名誉すなわち(この部の定理三〇
の備考により)喜びを期待して、それをなすのである。したがって彼は(この部の定理三によ
り)名誉のこの原因を表象することに、あるいはこの原因を現実に存在するものとして観想する
ことに、できるだけ努めるであろう。ところが(仮定により)彼はこの原因の存在を排除する他の
あるものを表象する。ゆえに彼は(この部の定理二九により)まさにそのために悲しみを感ずるで
あろう。Q・E・D・
定理四三 憎しみは憎み返しによって増大され、また反対に愛によって除去されることができ
る。
証明 自分の憎む者が自分を憎み返していることを表象する人は、そのことによって(この部
の定理四〇により)新しい憎しみが生ずる〔のを感ずる〕。しかも最初の憎しみは(仮定により)な
お依然として存続しているのである。しかしもし反対に、自分の憎む者が自分に対して愛を感じ
ていることを表象するなら、彼は、そのことを表象する限りにおいて(この部の定理三〇により)
自分自身を喜びをもって観想する。またその限りにおいて(この部の定理二九により)その人の気
に入ろうと努めるであろう。言いかえれば(この部の定理四二により)彼はその限りにおいてその
人を憎まないように、またその人を悲しみに刺激しないように、努める。この努力は(この部の
定理三七により)それを生ぜしめる感情の度合に比例してより大でありあるいはより小であるで
あろう。したがってもしこの努力が、憎しみから生ずるあの努力、自分の憎むものを悲しみに刺
激しようと努めるあの努力(この部の定理二六により)よりもより大であるならば、それは優勢を
占めて憎しみを心から除去するであろう。Q・E・D・
定理四四 愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先
立たなかった場合よりもより大である。
証明 この定理の証明はこの部の定理三八のそれと同一の仕方でなされる。すなわち自分の憎
むものあるいは自分が悲しみをもって観想するのを常としたものを愛し始める人は、愛するとい
うことそのことによってすでに喜びを感ずる。そして愛が含むこの喜び(この部の定理一三の備
考におけるその定義を見よ)の上に、憎しみが含む悲しみを除去しょうとする努力(この部の定理
三七で示したように)が完全に促進されることから生ずる喜び 〜 自分の憎んだ者をその原因と
して意識したような 〜 が加わる。
備考 事情はかくのごとくであるけれども、何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽
しようとしてあるものを憎んだり・悲しみを感じたりするように努めはしないであろう。すなわ
ち何びとも損害賠償の希望に促されて害悪をわが身に受けることを欲したり、全快の希望に促さ
れて病気にかかることを願ったりはしないであろう。なぜなら各人は自己の有を維持し・悲しみ
をできるだけ遠ざけることに常に努めるだろうからである。これに反して、もし人間はあとでよ
り大なる愛をもってある人に対しょうとするためにその人を憎むことを欲しうるということが考 216
えられるものとしたら、彼はその人を常に憎むことを願うであろう。なぜなら、憎しみがより大
であったに従って愛はそれだけ大となるのであり、こうして彼ほ憎しみがますます増大すること
を常に願うであろうからである。また同じ理由から、人間はあとで健康回復によってより大なる
喜びを享楽しようとするためにますます多く病むことに努めるであろう、したがってまた常に病
むことに努めるであろう。しかしこのようなことは(この部の定理六により)不条理である。
定理四五 ある人がもし自分と同類の他人が同じく自分と同類である自分の愛するものに対し
て憎しみを感じていることを表象するなら、彼はその他人を憎むであろう。
証明 なぜなら、自分の愛するものは己(おの)れを憎む人を憎み返す(この部の定理四〇により)。そ
れゆえ愛する当人は、自分の愛するものを他人が憎むことを表象する場合、まさにそのことによ
って、自分の愛するものが憎しみを、言いかえれば(この部の定理一三の備考により)悲しみを、
感じていることを表象する。したがってまた彼自身(この部の定理二一により)悲しみを感ずる、
しかも自分の愛するものを憎む人をその原因として意識した悲しみを感ずる。言いかえれば彼は
(この部の定理一三の備考により)その人を憎むであろう。Q・E・D・
定理四六 もしある人が自分と異なった階級ないし民族に属するある者から、その階級ないし
民族の一般的名称のもとにあるその者を原因として意識した喜びまたは悲しみに刺激されたなら、
彼は単にその者だけでなく、さらにその同じ階級ないし民族に属するすべての者を愛しあるいは
憎むであろう。
証明 この定理の証明はこの部の定理一六から明白である。
定理四七 我々の憎むものが滅ぼされたりあるいは他の何らかの害悪を受けたりすることを我
我が表象することによって生ずる喜びは、同時にある悲しみを伴うものである。
証明 この部の定理二七から明白である。なぜなら、我々は自分と同類のものが悲しみに刺激
されることを表象する限り自分も悲しみを感ずるからである。
備考 この定理は第二部定理一七の系からも証明されうる。すなわち我々はある物を想起する
ごとに、その物がもはや現実に存在しない場合でもやはりそれを現在するもののように観想し、
そして身体は〔その物が現実に存在していた時と〕同じ仕方で刺激される。ゆえにその物への記憶
が我々に残っている限り、その限りにおいて人間はそれを悲しみをもって観想するように決定さ
れる。この決定は、その物の表象像がなお存する間は、その物の存在を排除する事物への想起に
よって阻害されはするがまったく除去されることはない。したがって人間はこの決定が阻害され
る限りにおいてのみ喜びを感ずるのである。これで見てもわかるように、我々の憎む物に加えら
れた害悪から生ずる喜びは、我々がその物を想起するごとに繰り返されるのである。すなわちす
でに述べたように、その物の表象像が喚起される場合、この表象像はその物の存在を含むがゆえ
に、人間はそのものがなお存在していた時にそれを観想するのを常としたと同じ悲しみをもって
それを観想するように決定される。だが彼はこのものの存在を排除する他の表象像をこの物の表 218
象像と結合したがゆえに、悲しみに対するこの決定はただちにさえぎられそして人間は新たに喜
びを感ずるのである。しかもこのことが繰り返されるごとに喜びを感ずるのである。
そしてこのことは、なぜ人間がある過去の害悪を想起するごとに喜びを感ずるか、またなぜ自
分のまぬがれた危難について物語るのを楽しむかの理由でもある。すなわち、彼らはある危難を
表象する場合、それをあたかもなおこれから起こるもののように観想し、かつこれを恐れるよう
に決定される。しかしこの決定は、彼らがこの危難をまぬがれた時にこの危難の観念と結合した
救助の観念によって新たにさえぎられる。この救助の観念が彼らに新たに安全感を与え、したが
って彼らは新たに喜びを感ずるのである。
定理四八 愛および憎しみ 〜 例えばペテロに対する 〜 は、憎しみが含む悲しみおよび愛が
含む喜びが他の原因の観念と結合する場合には満城する。また両者〔愛および憎しみ〕は、ペテロ
がそのどちらかの感情〔喜びあるいは悲しみ〕の唯一の原因でなかったことを我々が表象する限り
において減少する。
証明 単に愛および憎しみの定義から明白である。この部の定理一三の備考におけるその定義
を見よ。というのは、喜びがペテロに対する愛と呼ばれ・悲しみがペテロに対する憎しみと呼ば
れるわけは、ただペテロが喜びあるいは悲しみの感情の原因であると見られるからにほかならぬ。
だからこの前提が全部あるいは一部除去されれば、ペテロに対する感情もまた全部あるいは一部
終熄(そく)する。Q・E・D・
定理四九 自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは、原因が等しい場合には、
必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ。
証明 自由であると我々の表象する物は、他のものなしにそれ自身によって知覚されなければ
ならぬ(第一部定義七により)。ゆえにもし我々がこうした物を喜びあるいは悲しみの原因である
と表象するなら、まさにそのことによって我々は(この部の定理一三の備考により)それを愛しあ
るいは憎むであろう。しかも(前定理により)与えられた感情から生じうる最大の愛あるいは憎し
みをもって愛しあるいは憎むであろう。これに反してもしこの感情の原因たる物を必然的なもの
として表象するなら、我々はそれが(同じく第一部の定義七により)単独にでなく他の物と合同し
てこの感情の原因であることを表象するであろう。したがって(前定理により)その物に対する愛
および憎しみはより小であろう。Q・E・D・
備考 この帰結として出てくるのは、人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対して
よりも相互に対してより大なる愛あるいは憎しみをいだき合う、ということである。なおこれに
感情の模倣ということが加わる。感情の模倣についてはこの部の定理二七、三四、四〇、および
四三を見よ。
定理五〇 おのおのの物は偶然によって希望あるいは恐怖の原因であることができる。
証明 この定理はこの部の定理一五と同じ方法で証明される。同定理をこの部の定理一八の備
考二と併(あわ)せ見よ。 220
備考 偶然によって希望あるいは恐怖の原因たる物は善い前兆あるいは悪い前兆と呼ばれる。
ところでこれらの前兆は、希望あるいは恐怖の原因である限りにおいて喜びあるいは悲しみの原
因である(希望および恐怖の定義による。この部の定理一八の備考二にあるその定義を見よ)。し
たがって我々は(この部の定理一五の系により)その限りにおいてそれを愛しあるいは憎み、また
(この部の定理二八により)それを我々の希望するものへの手段として近づけあるいはその障害な
いし恐怖の原因として遠ざけるように努める。その上この部の定理二五から分かる通り、我々は
希望するものを容易に信じ・恐怖するものを容易に信じないようなふうに、また前者については
正当以上に・後者については正当以下に感ずるようなふうに生来できあがっている。そしてこれ
からして、人間がいたるところで捉われているもろもろの迷信が生じたのである。
なおまた希望および恐怖から生ずる心情のさまざまの動揺をここに説明することは無用である
と私は信ずる。なぜなら、単にこの両感情の定義だけからして、恐怖なき希望というものはあり
えずまた希望なき恐怖というものもありえないことが明らかであり(これは適当な場所でいっそ
う詳しく説明するであろう)、その上また我々は、あるものを希望しあるいは恐怖する限りその
ものを愛しあるいは憎み、したがって我々が愛および憎しみについて述べたことを各人は容易に
希望および恐怖に適用しうるからである。
定理五一 異なった人間が同一の対象から異なった仕方で刺激されることができるし、また同
一の人間が同一の対象から異なった時に異なった仕方で刺激されることができる。
証明 人間身体は(第二部要請三により)外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。
ゆえに同一の時に二人の人間が異なった仕方で刺激されることができ、したがって(第二部定理一
三のあとの補助定理三のあとにある公理により)二人の人間は同一の対象から異なった仕方で
刺激されることができる。次に(同じ要請により)人間身体はある時はこの仕方で、ある時は他の
仕方で刺激されることができる。したがってまた(同じ公理により)同一の対象から異なった時に
異なった仕方で刺激されることができる。Q・E・D・
備考 これからして、ある人の愛するものを他の人が憎み、ある人の恐れるものを他の人が恐
れないということや、同一の人間が以前に憎んだものを今愛し、以前に恐れたことを今あえてす
るなどということの起こりうることが分かる。さらに各人は何が善く何が悪く何がより善く何が
より悪いかを自己の感情に基づいて判断するから(この部の定理三九の備考を見よ)、人間はその
感情において異なるのと同様、その判断においてもたがいに異なりうることになる(*)。またこの結
果、我々は人間を相互に比較する場合に、彼らと我々の感情の相違のみによって彼らを区別し、
ある者を果敢、ある者を臆病、最後に他の者を他の名称で呼ぶことになる。例えば私が恐怖する
のを常とする害悪を軽視する人を私は果敢と呼ぶであろう。その上憎む者に害悪を加え・愛する
者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬ
ことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐
れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐 222
れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何び
ともこのようにして判断するであろう。
*人間の精神は神の知性の一部であるとはいえ、こうしたことが起こりうることを我々は第二部定理三
の備考で明らかにした。
最後に、人間の本性がこうしたものであること、その判断が不安定なものであること、さらに
人間はしばしば自己の感情のみによって物ごとを判断すること、また喜びあるいは悲しみをもた
らすものと信じてそのゆえに(この部の定理二八により)それを実現しあるいは排除しようと努め
る事物が、往々にして単なる想像にすぎないこと(第二部で事物は確実に認識しがたいものであ
ることについて述べたことどもは今は言わないとして)、そうしたことどもを思う時、我々は人
間が自らしばしば自己の喜びあるいは悲しみの原因でありうることを、言いかえれば人間は喜び
あるいは悲しみに刺激される場合しばしば自己自身をその原因として意識することを、容易に考
えうる。こうして我々は後悔とは何か、また自己満足とは何かを容易に理解する。すなわち後悔
とは原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは原因としての自己自身の
観念を伴った喜びである。そしてこれらの感情は人間が自らを自由であると信ずるがゆえにきわ
めて強烈である(この部の定理四九を見よ)。
定理五二 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有し
ないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する
対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。
証明 我々が他のものと一緒に見た対象を表象するや否や、我々はただちにその、他のものを
想起する(第二部定理一八による。なおその備考も見よ)、こうして我々は一つの対象の観想から
ただちに他のものの観想に移る。多くのものに共通な点しか有しないことを我々が表象する対象
についても同じことがあてはまる。なぜなら、まさにそのことによって我々は、以前に他のもの
と一緒に見なかったような点をその対象の中に発見しないことを仮定しているからである。これ
に反して我々が以前に決して見なかったような特殊な点をある対象の中に表象することを仮定す
るなら、それは精神がその対象を観想する間にその対象の観想から気をそらされうるような他の
ものを何ら自らの中に有しないというのにほかならぬ。したがって精神は単にその対象のみを観
想するように決定される。ゆえに我々が以前に云々。Q・E・D・
備考 精神のこうした変状〔刺激状態〕すなわちある個物についてのこうした表象は、それが単
独で精神の中に在る限り、驚異と呼ばれる。もしそれが我々の恐怖する対象によって喚起される
なら恐慌と言われる。なぜなら害悪への驚異は人間がその事悪を避けうるための他のことを思惟
することができないまでに人間をもっぱらその〔害悪の〕観想の虜にするからである。だがもし我
我の驚異するものがある人間の聡明、勤勉その他これに類する事柄であるとしたら、それによっ
て我々はこの人間が我々をはるかに凌駕することを観想しているのだから、その驚異は尊敬と呼
ばれる。そうでなくてもし我々が、ある人間の怒り、ねたみなどを驚異するのであれば、それは
戦慄と呼ばれる。次に我々が我々の愛する人間の聡明、勤勉などを驚異する場合は、愛はまさに 224
それによって(この部の定理一二により)いっそう大になるであろう。そして驚異あるいは尊敬と
結合したこの愛を我々は帰依と呼ぶ。またこのようにして我々は憎しみ、希望、安堵およびその
他の感情を驚異と結合して考えることができる。こうして我々は常用の語彙によって表示するの
を常とするよりもっと多くの感情を導き出すことができるであろう。これから明白なのは、感情
の名称は、感情に関する正確な認識に基づくというよりも、日常の用途に基づいて作られている
ということである。
驚異に対立するものは軽蔑である。軽蔑のよって生ずるところはおおむね次のごときものであ 軽蔑
る。すなわちある人がある物を驚異し、愛し、恐怖しなどするのを我々が見ることによって、ま
たある物が一瞥(べつ)して我々の驚異し、愛し、恐怖しなどする物に類似して見えることによって、我
我は一応そのものを驚異し、愛し、恐怖しなどするように決定される(この部の定理一五および
その系ならびに定理二七により)。ところが我々がその物自身の現在によって、あるいはその物
をもっと正確に観想することによって、驚異、愛、恐怖などの原因となりうる一切の点をその物
について否定せざるをえないようになれば、精神は、その物の現在によって、対象の中に存する
ものよりも対象の中に存しないものについてより多く思惟するように決定されることになるので
ある。本来ならこれと反対に、精神は、対象の現在によって、もっぱらその対象の中に存するも
のについて思惟するのが常であるのに。 〜 さらに帰依が我々の愛するものへの驚異から生ずる
ように、嘲弄は我々の憎みあるいは恐怖するものへの軽蔑から生ずる。また尊敬が聡明への驚異
から生ずるように、侮蔑は愚鈍への軽蔑から生ずる。最後に我々は愛、希望、名誉およびその他
の感情を軽蔑と結合して考えてそれからさらに他の諸感情を導き出すことができる。しかしこれ
らの感情を我々は何ら特別な語彙によって他と区別しないのが常である。
定理五三 精神は自己自身ならびに自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる。そして自己
自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象するに従ってそれだけ大なる喜びを感ずる。
証明 人間は自己の身体の変状ならびにその変状の観念を通してのみ自己自身を認識する(第
二部定理一九および二三により)。ゆえに精神が自己自身を観想しうるということが起こるなら
ば、まさにそのことによって精神はより大なる完全性に移行するものと想定される。言いかえれ
ば(この部の定理一一の備考により)喜びに刺激されるものと想定される。そしてこの喜びは、精
神が自己自身ならびに自己の活動能力をより判然と表象しうるに従ってそれだけ大なのである。
Q・E・D・
系 この事びは人間がより多く他人から賞讃されることを表象するに従ってますます強められ
る。なぜなら彼がより多く他人から賞讃されることを表象するに従って、彼は他人が彼からそれ
だけ大なる喜びに 〜 しかも彼自身の観念を伴った喜びに 〜 刺激されることを表象する(この
部の定理二九の備考により)。したがって(この部の定理二七により)彼自身は彼自身の観念を伴
ったそれだけ大なる喜びに刺激される。Q・E・D・
定理五四 精神は自己の活動能力を定立することのみを表象しようと努める。
証明 精神の努力ないし能力は精神の本質そのものである(この部の定理七により)。ところが 226
精神の本質は(それ自体で明らかなように)精神が有るところのもの、できるところのもののみを
肯定し、精神が有らぬところのもの、できぬところのものを肯定しはしない。したがって精神は
自己の活動能力を肯定ないし定立することのみを表象しようと努める。Q・E・D・
定理五五 精神は自己の無能力を表象する時、まさにそのことによって悲しみを感ずる。
証明 精神の本質は精神が有るところのもの・できるところのもののみを肯定する。あるいは
自らの活動能力を定立することのみを表象することは精神の本性に属する(前定理により)。だか
ら「精神が自己自身を観想する際にその無能力を表象する」と我々が言う時それは「精神がその
活動能力を定立するある物を表象しようと努める際に精神のそうした努力が阻害される 〜 すな
わち(この部の定理一一の備考により)精神が悲しみを感ずる」と言っているのにほかならないの
である。Q・E・D・
系 この悲しみは人間が他人から非難されることを表象する場合にますます強められる。この
ことはこの部の定理五三の系と同様の仕方で証明される。
備考 我々の弱小の観念を伴ったこの悲しみは謙遜〔自劣感〕と呼ばれる。これに反して、我々
自身を観想することから生ずる喜びは自己愛または自己満足と称される。そしてこの喜びは人間
が自己の徳あるいは自分の活動能力を観想するたびに繰り返されるから、したがってまた各人は、
好んで自分の業績を語ったり、自分の身体や精神のカを誇示したりすることになり、また人間は、
このため、相互に不快を感じ合うことになる。さらにまたこの結果として、人間は本性上ねたみ
深いということ(この部の定理二四の備考および定理三二の備考を見よ)、すなわち自分と同等の
者の弱小を喜び、反対に自分と同等の者の徳を悲しむということになる。なぜなら、各人は自分
の活動を表象するたびに喜びを感じ(この部の定理五三により)、しかもその活動がより多くの完
全性を表現するのを表象するに従って、またその活動をより判然と表象するに従って、言いかえ
れば(第二部定理四〇の備考一で述べたことにより)、その活動をより多く他から区別して特殊な
物として観想しうるに従って、それだけ大なる喜びを感ずる。ゆえに各人は自己自身を観想する
にあたって、他人に認めないあることを自己の中に観想する時に最も多く喜ぶであろう。だが自
分について認めることを人間あるいは動物の一般的観念に属するものとして見る時にはそれほど
には喜ばないであろう。また反対に自分の活動が他人の活動と比較してより弱小であることを表
象する時には悲しむであろう。そして彼はこの悲しみを(この部の定理二八により)除去しようと
努めるであろう、しかも自分と同等の者の活動を曲げて解釈し、あるいは自分の活動をできるだ
け修飾することによってそうしようとするであろう。
こんな次第で、人間は本性上憎しみおよびねたみに傾いていることが明らかである。さらにこ
の傾向を助長するものに教育がある。なぜなら、親はその子を単に名誉およびねたみの拍車によ
って徳へ駆るのを常とするからである。
しかしおそらくこうした疑念が残るかもしれない、〜 我々は人間の徳を驚嘆してその人間を
尊敬するということも稀でないではないかと。ゆえにこの疑念を除くため、私は次の系を付加す 228
るであろう。
系 何びとも自分と同等でない者をその徳のゆえにねたみはしない。
証明 ねたみは憎しみそのものである(この部の定理二四の備考を見よ)、あるいは(この部の
定理一三の備考により)悲しみである。言いかえれば(この部の定理一一の備考により)人間の活
動能力あるいは努力を阻書する感情である。ところが人間は(この部の定理九の備考により)与え
られた自己の本性から生じうることのみをなそうと努めかつ欲する。ゆえに人間は他人の本性に
特有であって自己の本性に無関係なような活動能力、あるいは(同じことだが)徳を自分に与えら
れることを欲しないであろう。ゆえに自分と同等でない者の中にある徳を観想することによって
彼の欲望は阻害されえない。言いかえれば(この部の定理一一の備考により)そのことによって彼
自身悲しみを感じえない。したがってまた彼はその者をねたみえないであろう。これに反して自
分と同じ本性を有すると認められる同等の者に対してはねたむであろう。Q・E・D・
備考 それでさきにこの部の定理五二の備考において、我々はある人の聡明、強さなどを驚嘆
するためにその人を尊敬すると言った場合、そのことは(その定理自身によって明らかなように)
それらの徳がその人に特有であって我々の本性に共通したものでないことを我々が表象するゆえ
に起こるのである。したがって我々はその人をそれらの徳のゆえにねたみはしないであろう。あ
たかも樹木をその高きがゆえに、また獅子をその強きがゆえにねたまないと同様に。
定理五六 喜び、悲しみ、および欲望には、したがってまたそれらから合成されたすペての感
情(例えば心情の動揺のごとき)、あるいはそれらから導き出されたすべての感情(例えば愛、憎し
み、希望、恐怖など)には、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類がある。
証明 喜びと悲しみ、したがってまたこれから合成されあるいはこれから導き出された感情は
受動である(この部の定理一一の備考により)。ところで我々は非妥当な観念を有する限りにおい
て必然的に働きを受け(この部の定理一により)、またそうした観念を有する限りにおいてのみ働
きを受ける(この部の定理三により)。言いかえれば我々は(第二部定理四〇の備考を見よ)表象す
る限りにおいてのみ、すなわち(第二部定理一七ならびにその備考を見よ)我々の身体の本性およ
び外部の物体の本性を含む刺激を受ける限りにおいてのみ必然的に働きを受ける。ゆえにおのお
のの受動の本性は必然的に、我々を刺激する対象の本性を表現するような仕方で説明されなけれ
ばならぬ。例えばAという対象から生ずる喜びはまさにこのAという対象の本性を含み、またB
という対象から生ずる喜びはまさにこのBという対象の本性を含む。こうしてこれら二つの喜び
の感情は、異なった本性を有する原因から生ずるゆえに、その本性を異にしている。同様にある
対象から生ずる悲しみの感情もまた、他の原因から生ずる悲しみとはその本性を異にしている。
このことは愛、憎しみ、希望、恐怖、心情の動掃、などについてもあてはまる。したがって喜び、
悲しみ、愛、憎しみなどには、我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類が必然的に存する。
さてまた欲望は、各人の本質ないし本性がその与えられたおのおのの状態においてあることを
なすように決定されたと考えられる限り、その本質ないし本性そのものである(この部の定理九
の備考を見よ)。ゆえに各人が外部の原因によってこのあるいはかの種類の喜び、悲しみ、愛、 230
憎しみなどに刺激されるに応じて、言いかえれば彼の本性がこのあるいはかの状態に置かれるに
応じて、彼の欲望もそれぞれ異なったものでなければならぬ。そして一つの欲望の本性は他の欲
望の本性と、ちょうどそれぞれの欲望の生ずる源である諸感情が相互に異なっているだけ異なら
ねばならぬ。だから欲望には喜び、悲しみ、愛などの種類だけ多くの、したがってまた(すでに
示したところにより)我々を刺激する対象の種類だけ多くの、種類が存する。Q・E・D・
備考 きわめて多様であるべき感情の種類(前定理により)の中でも特に著しいのは美味欲、飲
酒欲、情欲、食欲および名誉欲である。これらは愛もしくは欲望の感情の本性をその関係する対
象によって説明する概念にほかならない。なぜなら、我々は美味欲、飲酒欲、情欲、食欲および
名誉欲を美食、飲漕、性交、富および名誉への過度の愛もしくは欲望としか解しないからである。
なおこれらの感情は、単にその関係する対象のみによって相互に区別される限り、反対感情を有
しない。なぜなら、通常我々が美味欲に対立させる節制、飲酒欲に対立させる禁酒、最後に情欲
に対立させる貞操は、感情あるいは受動ではなくて、それらの感情を制御する精神の能力を表示
するものだからである。
なおまた私は感情のその他の種類を一々ここに説明することはできない(なぜならその種類は
対象の種類だけ多くあるから)。またたとえできたとしてもそれは必要でない。というのは我々
の目標のためには、すなわち感情の力と感情に対する精神の能力を決定するためには、我々にと
って、おのおのの感情に関する一般的定義をもつだけで十分だからである。たしかに、感情を制
御し、抑圧する精神の能力がどのような種類のものであり、またどのように大きいものであるか
を決定しうるためには、我々にとって、感情および精神の共通の諸特質を理解することで十分で
ある。そこで、例えば子に対する愛と妻に対する愛との間に相違があるように、愛、憎しみ、欲
望におけるこのおよびかの感情の間には大きな相違があるけれども、我々にとってはしかし、こ
れらの相違を認識して諸感情の本性と起源をこれ以上深く究めることは必要でないのである。
定理五七 各個人の各感情は他の個人の感情と、ちょうど一方の人間の本質が他方の人間の本 (ラカン)
質と異なるだけ異なっている。
証明 この定理は第二部定理一三の備考につづく補助定理三のあとの公理一から明白である。
その公理を見よ。しかしそれにもかかわらず我々はこれを三つの根本的感情の定義から証明する
であろう。
すべての感情は我々の与えたその定義から分かるように欲望、喜び、もしくは悲しみに関係す
る。ところで欲望は各人の本性ないし本質そのものである(この部の定理九の備考におけるその
定義を見よ)。ゆえに各個人の欲望は他の個人の欲望と、ちょうど一方の人間の本性ないし本質
が他方の人間の本質と異なるだけ相違している。
次に喜びと悲しみは各人が自己の有に固執しようとする能力ないし努力が増大しあるいは減少
し、促進されあるいは阻害される受動である(この部の定理一一およびその備考により)。ところ
が我々は、自己の有に固執しようとする努力を、それが精神と身体に同時に関係する限り、衝動
ないし欲望と解する(この部の定理九の備考を見よ)。ゆえに喜びおよび悲しみは外部の原因によ 232
って増大されあるいは減少され、促進されあるいは阻害される限りにおける欲望ないし衝動その
もの、言いかえれば(同じ備考により)各人の本性そのもの、である。したがって各人の喜びある
いは悲しみは他人の喜びあるいは悲しみと、やはりちょうど一方の人間の本性ないし本質が他方
の人間の本質と異なるだけ相違する。
ゆえに各個人の各感情は他の個人の感情とちょうど云々。Q・E・D・
備考 この帰結として、いわゆる非理性的動物の感情(というのは我々は精神の起源を識った
以上は動物が感覚を有することを決して疑いえない)は人間の感情と、ちょうど動物の本性が人
間の本性と異なるだけ異なっているということになる。もちろん馬も人間も生殖への情欲に駆ら
れるけれども、馬は馬らしい情欲に駆られ、人間は人間らしい情欲に駆られる。また同様に昆虫、
魚、鳥の情欲および衝動はそれぞれ異なったものでなければならぬ。こうしておのおのの個体は
自己の具有する本性に満足して生き、そしてそれを楽しんでいるのであるが、各自が満足してい
るこの生およびこの楽しみはその個体の観念あるいは精神にほかならない。したがってある個体
の楽しみは他の個体の楽しみと、ちょうど一方の本質が他方の本質と異なるだけ本性上相違して
いる。
最後に、前定理からの帰結として、例えば酔漢の捉われている楽しみと、哲学者の享受してい
る楽しみとの間には、同様に少なからぬ相違があることになる。これもここでついでながら注意
しておきたい。
働きを受ける限りにおける人間に関係する感情についてはこれだけにする。残るのは、働きを
なす限りにおける人間に関係する感情について若干をつけ加えることだけである。
定理五八 受動である喜びおよび欲望のほかに、働きをなす〔能動的である〕限りにおける我々
に関係する他の喜びおよび欲望の感情が存する。
証明 精神は自己自身および自己の活動能力を観想する時に喜びを感ずる(この部の定理五三
により)。ところで精神は真のあるいは妥当な観念を有する時に必然的に自己自身を観想する(第
二部定理四三により)。ところが精神は妥当な観念を有する(第二部定理四〇の備考二により)。
ゆえに精神は妥当な観念を有する限りにおいても、言いかえれば(この部の定理一により)働きを
なす限りにおいても、喜びを感ずる。
次に精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、また混乱した観念を有する限りにおい
ても、自己の有に固執しようと努める(この部の定理九により)。ところが我々はこの努力を欲望
と解する(同じ定理の備考により)。ゆえに欲望は妥当な認識をなす限りにおいての我々、すなわ
ち(この部の定理一により)働きをなす限りにおいての我々、にも関係する。Q・E・D・
定理五九 すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に
関する感情があるだけである。
証明 すべての感情は、我々が与えたその定義から分かるように、いずれも欲望、喜びあるい
は悲しみに関係している。ところで悲しみとは精神の思惟能力を減少しあるいは阻害するもので 234
あると我々は解する(この部の定理一一およびその備考により)。したがって精神が悲しみを感ず
る限り、精神の認識能力すなわち(この部の定理一により)その活動能力は減少されあるいは阻害
される。したがって働く限りにおける精神にはいかなる悲しみの感情も帰せられえない。帰せら
れうるのはただ、働く限りにおける精神にも関係する(前定理により)喜びおよび欲望の感情のみ
である。Q・E・D・
備考 妥当に認識する限りにおける精神に関係する諸感情から生ずるすべての活動を、私は精
神の強さに帰する。そしてこの精神の強さを勇気と寛仁とに分かつ。勇気とは各人が単に理性の
指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望であると私は解する。これに対して寛仁とは各
人が単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望であると
解する。かくのごとく私は、行為者の利益のみを意図する行革を勇気に帰し、他人の利益をも意
図する行為を寛仁に帰する。ゆえに節制、禁酒、危難の際の沈着などは勇気の種類であり、これ
に反して礼譲、温和などは寛仁の種類である。
これでもって私は三つの根本的感情 〜 すなわち欲望、喜び、悲しみ 〜 の合成から生ずる主
要な感情および心情の動揺を説明し、これをその第扁因によって示したと信ずる。これからし
て、我々は外部の諸原因から多くの仕方で動かされること、また我々は旋風に翻弄される海浪の
ごとく自らの行末や運命を知らずに動揺することが明白になる。
しかし私は単に主要な〈感情〉を示したとは言ったが、存在しうる心情の葛藤のすペてを示した
とは言わなかった。というのは、我々は上と同じ方法を継続して、愛が後悔、侮蔑、恥辱などと
結合することを容易に示しうるからである。のみならずまた、上に述べたことからして、もろも
ろの感情がこのように種々の仕方で相互に組み合わせられて、それから数えきれないほど多くの
変種が生じうることは誰にも明瞭であると信ずる。しかし私の計画にとっては、単に主要な感情
のみを数え上げただけで十分である。なぜなら、私が省略したその他の感情は、実用的価値とい
うよりは好奇的価値を有するにすぎぬからである。
だがしかし、愛についてまだ注意することが残っている。それは次のようなことがしばしば起
こることである。すなわち、我々が我々の衝動の対象物を享受する間に、身体はこの享受によっ
て新しい状態に達し、この状態が身体を別様に決定し、事物に関する別な表象像が身体の中に喚
起され、それと同時に精神は異なったことを表象し、異なったことを欲し始める、ということで
ある。例えば、その味が我々を楽しませるのを常とするある物を我々が表象する時、我々はそれ
を享受すること、すなわち食うことを欲する。ところがそれ亨1うして享受する間に胃は充実し
て、身体は別様な状態に置かれる。だからもし身体がすでに別様な状態になっている際、同じ食
物がなお現在するためにその表象像がまだ保存されており、したがってそれを食おうとする努力
ないし欲望も保存されているとすれば、あの新しい身体の状態はこの欲望ないし努力と矛盾する
であろう。したがってさきに我々の衝動の対象であった食物の現存が今は厭わしくなるであろう。
これは我々が飽満および厭悪と呼ぶところのものである。
そのほかもろもろの感情において見られる身体の外的諸変状、例えば震え、青ざめ、すすり泣
き、笑いなどは割愛した。それらは単に身体のみに関係し、精神とは何の関係も持たぬからであ
る。
最後に、もろもろの感情の定義について若干の注意すべきことがある。だから私はここでそれ 236
らの定義を秩序だてて繰り返し、おのおのについて注意すべき事柄をその間に挿入していくであ
ろう。
諸感情の定義
付録:感情の諸定義、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、感情の総括的定義、第三部TOP、TOP☆
一 欲望とは、人間の本質が、与えられたそのおのおのの変状によってあることをなすように
決定されると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである。
説明 我々はさきに、この部の定理九の備考において、欲望とは意識を伴った衝動であり、ま
た衝動とは人間の本質が自己の維持に役立つことをなすように決定される限りにおいて人間の本
質そのものであると言った。しかし私はまた同じ備考で、人間の衝動と欲望との間には実際には
何の相違も認めないことを注意した。なぜなら、人間が自己の衝動を意識しようとしまいと衝動
は同一にとどまるからである。そこで私は同語反復(タウトロギア)を犯すと見られないように、欲望を衝動によ
って説明することを好まなかった。むしろ欲望を、我々が衝動、意志、欲望または本能という名
称をもって表示する人間本性の一切の努力をその中に包括するような仕方で定義しようとつとめ
た。もちろん私は「欲望とは人間の本質があることをなすように決定されると考えられる限りに
おいて人間の本質そのものである」とだけも言いえたであろう。だがこの定義からは(第二部定
理二三により)精神が自己の欲望ないし衝動を意識しうるということは出てこないであろう。ゆ
えにこの意識の原因を含めるために「与えられたそのおのおのの変状によって決定されると考え
られる限りにおいて」と付加することが必要であったのである(同じ定理により)。なぜなら人間
の本質の変状ということを我々はその本質のおのおのの状態と解するからである。その状態が生
得的のものであろうと、(外部から得られたものであろうと、〉またそれが思惟の属性のみによっ
て考えられようと、延長の属性のみによって考えられようと、最後にまたそれが両属性に同時に
関係しようと、変りはないのである。ゆえに私はここでこの欲望という名称を人間のあらゆる努
力、あらゆる本能、あらゆる衝動、あらゆる意志作用と解する。こうしたものは同じ人間にあっ
てもその人間の異なった状態に応じて異なり、また時には相反的でさえあり、この結果人間はそ
うしたものによってあちこちと引きずりまわされて自らどこへ向かうべきかを知らないというよ
うなことにもなるのである。
二 喜びとは人間がより小なる完全性からより大なる完全性へ移行することである。 3doe2
三 悲しみとは人間がより大なる完全性からより小なる完全性へ移行することである。
説明 私は移行と言う。なぜなら喜びは完全性そのものではないからである。すなわちもし人
間がその移行する完全性を生まれながら持っていたとしたら、彼は喜びの感情なしにそれを所有
したであろう。このことは喜びの感情と対立する悲しみの感情からいっそう明瞭になる。なぜな
ら、悲しみがより小なる完全性への移行に存し、より小なる完全性そのものではないことは誰し
も否定しえない。人間はある程度の完全性を分有する限りにおいては悲しみを感じえないからで
ある。また悲しみはより大なる完全性の欠乏に存するとも言えない。というのは欠乏は無である 238
が悲しみの感情は一個の積極的な状態だからである。ゆえに悲しみの感情はより小なる完全性へ
移行する状態、言いかえれば人間の活動能力が減少しあるいは阻害される状態(この部の定理一 3p11n
一の備考を見よ)以外のものではありえない。
そのほか快活、快感、憂鬱、および苦痛の定義は省略する。これらは主として身体に関係し、
また喜びもしくは悲しみの種類にすぎないからである。
四 驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しな
いために、精神がその表象に縛られたままでいる状態である。定理五二およびその備考を見よ。
説明 我々は第二部定理八の備考で、いかなる原因によって精神は一つの物の観想からただ
ちに他の物の思惟に移るかを示した。それはすなわちそれらの物の表象像が相互に結合して一が
他に継いで起こるように秩序づけられているからである。こうしたことは物の表象像が新奇なも
のである場合には考えられない。こういう場合、精神はむしろ他の原因によって他のものを思惟
するように決定されるまではその物の観想に引きとどめられているであろう。こうして新奇な物
の表象も、それ自体において見れば、その他の諸表象と同じ本性のものである。この理由によっ
て私は驚異を感情の中に数えないし、また数える理由も認めない。なぜなら、精神がこのように
他のものから離されて〔その物にだけとどまって〕いるのは、精神を他のものから引き離す積極的
な原因から生ずるのではなくて、単に、ある物の観想をやめて他のものを思惟するように精神を
決定するような原因が欠けているという事実からのみ生ずるのだからである。
このようにして私は(この部の定理一一の備考で注意したように)単に三つの根本的ないし基本
的な感情を、すなわち喜び、悲しみ、欲望の三つの根本的感情を、認めるのみである。そして私
が驚異について言及したのは、この三つの根本的感情から導き出されるある種の感情が我々の驚
異する対象に関係する場合には別な名称をもって呼ばれるのが習いとなっているためにほかなら
ない。私が軽蔑の定義をもここに付加することにしたのも、また同じ理由からである。
五 軽蔑とは精神が、ある事物の現在によって、その事物自身の中に在るものよりもむしろそ
の事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど、それほどわずかしか精神をとらえ
るところのない事物の表象である。この部の定理五二の備考を見よ。
尊敬および侮蔑の定義はここには割愛する。なぜなら、私の知る限り、いかなる名称の感情も
この二者から導き出されていないからである。
六 愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。
説明 この定義は愛の本質を十分明瞭に説明する。これに反して著作家たちのあの定義、愛と
は愛する対象と結合しようとする愛する者の意志であるという定義は、愛の本質ではなくその一
特質を表現するにすぎない。そしてこれらの著作家たちは、愛の本質を十分に洞察しなかったか
ら、愛の特質に関しても明瞭な概念を持つことができなかったのであり、その結果として彼らの
定義はいたって曖昧なものと人々から批判されている。しかしここに次のことを注意してもらわ
なければならぬ。意志によって愛する対象と結合しようとするのが愛する者における一特質であ
ると私が言う場合、私は意志ということを精神の同意ないし考慮、あるいは自由決意と解せず
(なぜなら第二部定理四八で証明したようにそうしたものは想像の産物にすぎないから)、また愛 240
する対象が不在ならばこれと結合しようとし、それが存在するならばその現在に固執しようとす
る欲望であるとも解しない。なぜなら愛はこのあるいはかの欲望なしにも考えられうるからであ
る。むしろ私は意志ということを愛する対象の現在のゆえに愛する当人が感ずる満足、それによ
って愛する当人の喜びが強化されあるいは少なくともはやくまれるその満足と解する。
七 憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみである。
説明 ここで注意すべきことは前の定義の説明の中で述べたことから容易に看取される。その
ほかこの部の定理一三の備考を見よ。
八 好感とは偶然によって喜びの原因となるようなある物の観念を伴った喜びである。
九 反撥とは偶然によって悲しみの原因となるようなある物の観念を伴った悲しみである。
この二つについてはこの部の定理一五の備考を見よ。
一〇 帰依とは我々の驚異する人に対する愛である。
説明 驚異は物の新奇性から生ずることを我々はこの部の定理五二で示した。だからもし我々
が驚異するものをしばしば表象するということが起こるなら、我々はそれを驚異することをやめ
るであろう。したがって我々は帰依の感情が容易に単純な愛に変ることを知る。
一一 嘲弄とは我々の軽蔑するあることが我々の憎む物の中に存することを表象することから
生ずる喜びである。
説明 我々が憎む物を軽蔑する限りにおいて我々はその物の存在を否定する(この部の定理五
二の備考を見よ)、そしてその限りにおいて我々は(この部の定理二〇により)喜ぶ。しかし人が
その嘲弄するものを憎んでもいるということを我々は仮定しているのであるから、その帰結とし
て、この喜びは基礎の固いものではないということになる。この部の定理四七の備考を見よ。
一二 希望とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ず
る不確かな喜びである。
一三 恐怖とは我々がその結果について幾分疑っている未来あるいは過去の物の観念から生ず
る不確かな悲しみである。
この二つについてはこの部の定理一八の備考二を見よ。
説明 これらの定義からして、恐怖なき希望もないし希望なき恐怖もないということになる。
なぜなら、希望に頼ってある物の結果につき疑っている人は、その未来の物の存在を排除するあ
ることを表象し、かくてその限りにおいて悲しみ(この部の定理一九により)、したがって希望に
頼っている間はその物が出現しないことを恐れもしている、と認められるからである。これに反
して恐怖の中に在る人すなわち憎むある物の結果について疑う人は、同様にその物の存在を排除
するあることを表象し、かくて喜び(この部の定理二〇により)、したがってその限りにおいてい
まだその物の出現しないことを希望してもいるのである。
一四 安堵とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる喜びである。
一五 絶望とは疑いの原因が除去された未来あるいは過去の物の観念から生ずる悲しみである。
説明 こうして物の出現に対する疑いの原因が除去される時に希望から安堵が生じ、恐怖から
絶望が生ずる。この原因の除去は、人間が過去あるいは未来の物をあたかもそこにあるかのよう 242
に表象してこれを現在するものとして観想することによっても起こるし、あるいは人間が彼に疑
いを惹き起こさせた事物の存在を排除するような他のことを表象することによっても起こるので
ある。というのは、たとえ我々は個々の物の結果について決して確実でありえないとしても(第
二部定理三一の系により)、しかし我々がそれらの物の結果について疑わないということは起こ
りうる。我々の示したように、ある物について疑わないということとその物について確実性を有
するということは別問題だからである(第二部定理四九の備考を見よ)。したがって我々は過去あ
るいは未来の物の表象像によってあたかも現在の物の表象像によるのと同じ喜びあるいは悲しみ
の感情に刺激されることが起こりうる。これはこの部の定理一八で証明したところである。その
定理ならびにその二つの備考を見よ。
一六 歓喜とは恐怖に反して起こった過去の物の観念を伴った喜びである。
一七 落胆とは希望に反して起こった過去の物の観念を伴った悲しみである。
一八 憐憫とは我々が自分と同類であると表象する他人の上に起こった害悪の観念を伴った悲
しみである。この部の定理二二の備考および定理二七の備考を見よ。
説明 憐憫と同情との間には、おそらく、憐憫は個々の感情を眼中に置いたものであり同情は
憐憫の習性を眼中に置いたものであるという以外には何の相違もないように思われる。
一九 好意とは他人に親切をなした人に対する愛である。
二〇 憤慨とは他人に害悪を加えた人に対する憎しみである。
説明 この二つの名称が通常の用法では別の意味を有することを私は知っている。しかし私の
意図するところは、言葉の意味を説明することではなくて、事物の本性を説明しかつ事物を一定
の言葉で 〜 その通常の意味が私の用いたいと思う意味とひどくはくい違わないような言葉で表
示することにある。このことは一度注意しておけば十分であろう。なおこの二つの感情の原因に
ついてはこの部の定理二七の系一および定理二二の備考を見よ。
二ー 買いかぶりとはある人について、愛のゆえに、正当以上に感ずることである。
二二 見くびりとはある人について、憎しみのゆえに、正当以下に感ずることである。
説明 こうして買いかぶりは愛の一結果もしくは一特質であり、見くびりは憎しみの一結果あ
るいは一特質である。したがって買いかぶりとは愛するものについて正当以上に感ずるように人
間を動かす限りにおける愛であると定義し、また反対に、見くびりとは憎むものを正当以下に感
ずるように人間を動かす限りにおける憎しみであると定義することもできる。この二つについて
はこの部の定理二六の備考を見よ。
二三 ねたみとは他人の幸福を悲しみまた反対に他人の不幸を喜ぶように人間を動かす限りに
おける憎しみである。
説明 ねたみには通常同情が対立させられる。したがって同情を言葉のもともとの意味から離
れて次のように定義することができる。
二四 同情とは他人の幸福を喜びまた反対に他人の不幸を悲しむように人間を動かす限りにお
ける愛である。
説明 なお、ねたみについてはこの部の定理二四の備考および定理三二の備考を見よ。 244
以上は外部の原因(それ自身による原因たると偶然による原因たるとを問わない)の観念を伴っ
た喜びおよび悲しみの感情である。これから私は内部の原因の観念を伴った他の喜びおよび悲し
みの感情に移る。
二五 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びであ
る。
二六 謙遜〔自劣感〕とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみで
ある。
説明 自己満足は、我々が自分の活動能力を観想することから生ずる喜びであると解される限
りにおいて謙遜と対置される。しかしそれは、我々が精神の自由な決意によってなしたと借ずる
ある行為の観念を伴った喜びであると解される限りにおいては、次のように定義される後悔と対
置される。
二七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲し
みである。
説明 我々はこの三つの感情の原因をこの部の定理五一の備考および定理五三、五四、五五な
らびにその備考において示した。また精神の自由な決意については第二部定理三五の備考を見よ。
しかしなおここに注意すべきことがある。それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての
行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではない
ということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育
に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのために
しばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲
しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経
験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一では
ない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって涜神的であり、またある人に
とぅて端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたと
ころに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。
二八 高慢とは自己への愛のため自分について正当以上に感ずることである。
説明 だから高慢と買いかぶりとの相違は、後者は外部の対象に関係するが高慢は自己を正当
以上に感ずる当人に関係するという点にある。なおまた買いかぶりが愛の一結果あるいは一特質
であるように、高慢は自己愛の一結果あるいは一特質である。このゆえに高慢とは自分について
正当以上に感ずるように人間を動かす限りにおける自己愛あるいは自己満足であると定義するこ
ともできる(この部の定理二六の備考を見よ)。この感情には反対感情が存しない。なぜなら、何
びとも自分への憎しみのため自分について正当以下に感ずることはないからである。実に人間は、
自分がこのことあるいはかのことができないと表象する限りにおいても自分について正当以下に
感じているのではない。というのは、人間が自分にできないと表象する事柄はすペてそう表象せ
ざるをえないのであって、この表象によって彼は自分ができないと表象することを実際になしえ
ないようなある状態に置かれる。すなわち自分はこのことあるいはかのことができないと表象す 246
る間は彼はそれをなすように決定されないのであり、したがってまたその間はそれをなすことが
彼には不可能でもあるのである。
しかし単に他人の意見のみに関する事柄を眼中に置くなら、我々は、人間が自分自身について
正当以下に感ずるということもありうることを考えうるであろう。例えばある人が悲しみをもっ
て自己の弱小を観想し、他の人々が少しも彼を軽蔑しようと思わないのに自分がすべての人から
軽蔑されるように表象するということはありうるのである。そのほか人間は不確実な未来に関し
て現在の瞬間にある事を自分自身について否定する場合に、自分について正当以下に感ずること
ができる。例えば自分は何も確実なことを考ええないし、また悪いこと賎(いや)しむべきことしか欲し
あるいはなすことができないなどという場合のごときである。最後にある人が自分と同等の他の
人々のあえてなすようなことも、恥辱に対する過度の恐れからあえてしないのを我々が見る時に、
その人が自分自身について正当以下に感じていると我々は言うことができる。そこで我々はこう
した感情を高慢と対置させることができる。この感情を私は自卑と名づけるであろう。すなわち
自己満足から高慢が生ずるように、謙遜から自卑が生ずるのである。したがって我々はこれを次
のように定義する。
二九 自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである。
説明 しかし我々はしばしば高慢に謙遜を対置させるのが慣(なら)いである。けれどもその場合には
両感情の本性よりもむしろ結果を眼中に置いているのである。すなわち過度に自らを誇り(この
部の定理三〇の備考を見よ)、自分の美点と他人の欠点のみを語り、すべての人の上に立とうと
欲し、また最後に、自分よりはるかに地位の高い人々に見るような威儀と服装とをもって立ち現
われる人、そうした人を我々は高慢な人と呼ぶのが常である。これと反対に、しばしば赤面し、
自分の欠点を告白して他人の美点を語り、すべての人に譲歩し、最後にまた、頭を垂れて歩み、
かつ身を飾ることを嫌う人、そうした人を我々は謙遜な人と呼んでいる。
なおこれらの感情、すなわち謙遜と自卑とはきわめて稀である。なぜなら人間本性は、それ自
体で見れば、できるだけそうした感情に反抗するからである(この部の定理一三および五四を見
よ)。こんなわけできわめて自卑的でありきわめて謙遜であると見られる人々は大抵の場合きわ
めて名誉欲が強くきわめてねたみ深いものである。
三〇 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びであ
る。
三一 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみで
ある。
説明 この二つについてはこの部の定理三〇の備考を見よ。
だが恥辱と羞恥との相違をここに注意しなくてはならぬ。すなわち恥辱とは我々の恥じる行為
に伴う悲しみである。これに対して羞恥とは恥辱に対する恐怖ないし臆病であって、醜い行ない
を犯さぬように人間を抑制させるものである。羞恥には通常無恥が対置されるが、無恥は、適当
な場所で示すだろうように、実は感情ではない。しかし一般に感情の諸名称は(すでに注意した
ように)その本性を表わすよれもその日常の慣用に関係しているのである。 248
これでもって喜びおよび悲しみの感情に関する予定の説明を終えた。だからこれから欲望に関
係する感情へ移る。
三二 思慕とは、その物を想起することによってそれを所有しようとする欲望があおられ、ま
た同時にその物の存在を排除する他の事物を想起することによってその欲望が阻まれる、そうし
たある物への欲望ないし衝動である。
説明 我々がある物を想起するなら、すでにしばしば述べたように、我々はそのために、その
物が現在した場合と同様の感情をもってその物を観想するように促される。しかしこの傾向ない
し努力は、我々の精神がはっきり醒めている間は、大抵、我々の想起する物の存在を排除するよ
うな事物の表象像によって阻まれる。だから我々が自分をある種類の喜びに刺激する物を思い出
す時、そのために我々は同じ喜びの感情をもってそれを現在するものとして観想するように努め
る。だがこの努力はその物の存在を排除する事物の想起によってただちに阻まれる。ゆえに思慕
は実際は我々の憎む物の不在から生ずるあの喜び(これについてはこの部の定理四七の備考を見
よ)に対立するある種の悲しみなのである。しかし思慕なる名称は欲望に関係するように見える
ので、そのゆえに私はこの感情を欲望の感情に数える。
三三 競争心とは、他の人がある物に対する欲望を有することを我々が表象することによって
我々の中に生ずる同じ物に対する欲望である。
説明 他人が逃げるのを見て逃げ、あるいは他人が恐れるのを見て恐れ、あるいはまたある人
がその手を焼いたのを見てそのため自分の手を引っこめて、あたかも自分の手が焼かれたかのよ
うな動作をする人、そうした人を目して我々は、他人の感情を模倣するとは言うが他人と競争す
るとは言わないであろう。これは競争には模倣の場合と異なった原因があることを我々が指摘し
うるためではない。ただ端正であり、有益であり、あるいは愉快であると判断される事柄を模倣
する人だけを競争すると呼ぶ慣わしになっているためである。
なお競争心の原因についてはこの部の定理二七およびその備考を見よ。だがねたみがなぜ多く
の場合この感情と結びつくかについてはこの部の定理三二およびその備考を見よ。
三四 感謝あるいは謝恩とは我々に対して愛の感情から親切をなした人に対して親切を報いよ
うと努める欲望あるいは同様な愛の情熱である。
この部の定理三九および定理四一の備考を見よ。
三五 慈悲心とは我々の憐む人に対して親切をなそうとする欲望である。
この部の定理二七の備考を見よ。
三六 怒りとは我々の憎む人に対して、憎み心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望であ
る。この部の定理三九を見よ。
三七 復讐心とは我々に対して、憎しみの感情から害悪を加えた人に対して、同じ憎み返しの
心から、害悪を加えるように我々を駆る欲望である。
この部の定理四〇の系二ならびにその備考を見よ。
三八 残忍あるいは苛酷とは我々の愛する者あるいは憐む者に対して、害悪を加えるように我
我を駆る欲望である。 250
〔この部の定理四一の系の備考を見よ〕
説明 残忍には温和が対置される。しかし温和は受動ではなく、人間が怒りおよび復讐を抑制
するような精神の能力である。
三九 臆病とは我々の恐れるより大なる書悪をより小なる害悪によって避けようとする欲望で
ある。
この部の定理三九の備考を見よ。
四〇 大胆とは同輩が立ち向かうことを恐れるような危険を冒してある事をなすようにある人
を駆る欲望である。
四一 小心とは同輩があえて立ち向かうこと辞さないような危険を恐れて、自己の欲望を阻
まれる人間について言われる。
説明 そこで小心とは大抵の人が通常恐れないようなある書悪に対する恐怖にほかならない。
だから私は小心を欲望の感情に数えない。それにもかかわらず私がここで説明しようとしたのは、
欲望を眼中に置く限り、小心は大胆の感情と事実対立するからである。
四二 恐慌とはある害悪を避けようとする欲望がその恐れる害悪に対する驚きのため阻まれる
人間について言われる。
説明 そこで恐慌とは小心の一種である。しかし恐慌は二重の恐れから生ずるゆえに、我々は
これをもっと適切に次のように定義することができる。すなわち恐慌とは人間をして迫っ
ている
害悪を排除することができないようなふうに驚愕させあるいは動揺させる恐怖であると。「驚愕
させる」と私が言うのは、その事惑を排除しょうとする彼の欲望が驚きのため阻止されると解さ
れる限りにおいてである。また「動揺させる」というのは、この欲望が、同様にその人を悩まし
ている他の尊意に対する恐れのため阻止され、その結果彼は二つの害悪のいずれを避けるペきか
を知らないと考えられる限りにおいてである。
こうしたことについてはこの部の定理三九の備考および定理五二の備考を見よ。なお小心およ
び大胆についてはこの部の定理五一の備考を見よ。
四三 鄭重あるいは礼譲とは人々に気に入ることをなし・人々に気に入らぬことを控えようと
する欲望である。
四四 名誉欲とは名誉に対する過度の欲望である。
説明 名誉欲はすべての感情をはぐくみかつ強化する欲望である(この部の定理二七および三
一により)。したがってこの感情は、ほとんど征服できないものである。なぜなら、人間は何ら
かの感情に囚われている間は必ず同時に名誉欲に囚われているからである。キケロは言う、「最
もすやれた人々も特に名誉欲には支配される。哲学者は名誉の軽蔑すべきことを記した書物にす
ら自己の名を著する云々」。
四五 美味欲とは美味に対する過度の欲望あるいは愛である。
四六 飲酒欲とは飲酒に対する過度の欲望および愛である。
四七 食欲とは富に対する過度の欲望および愛である。
四八 情欲とは性交に対する欲望および愛である。 252
説明 性交に対するこの欲望は適度であっても適度でなくても情欲と呼ばれるのが常である。
なおこれら五つの感情は(この部の定理五六の備考で注意したように)反対感情を有しない。な
ぜなら礼譲〔鄭重〕は名誉欲の一種であるし(これについてはこの部の定義二九の備考を見よ)、ま
た節制、禁酒および貞操が精神の能力を示すものであって受動を示すものでないことはこれまた
すでに注意したところである。もちろん貪欲な人間、名誉欲の強い人間、あるいは臆病な人間が、
食事、飲酒および性交の過度を供しむということは有りうるにしても、それだからといって食欲、
名誉欲および臆病が美味欲、飲酒欲、もしくは情欲の反対ではない。なぜなら食欲者は一般に、
他人のところでなら飲食をむさぼることを願っている。また名誉欲の強い者〔すなわち人々に賞
讃されようとのみしている者〕は露見しないという望みさえあればどんなことにも節制を守らな
いであろうし、またもし彼が飲酒家たちや好色家たちの間に生活するならば、まさに人の気に入
ろうとのみするその性情のゆえに、ますます多くこの同じ悪行に傾くであろう。最後に臆病者は、
もともと自らの欲しないことをなすものである。たとえ彼が死を逃れるために自己の財宝を海中
に投じようとも、彼の食欲家たることには変りがないし、また好色家〔としての彼〕がその情欲を
ほしいままにすることができないのを悲しむとしても、彼はそのゆえに好色家たることを失いは
しないのである。一般的に言えば、これらの感情は美味、飲酒などに対する個々の行為に関係す
るよりはそれへの衝動そのもの、それへの愛そのものに関係する。したがってこれらの感情に対
置されうるものは、我々がのちに述べるであろう寛仁と勇気のみである。
嫉妬およびその他の心情の動揺の定義はここでは省略する。なぜならそれらの感情は、これま
で定義した諸感情の合成から生ずるものであるし、またその多くは特に名称をもっていないから
である。このことは、実生活のためにはこれらのものをただ種類として知るだけで十分であるこ
とを物語っている。
なおまた我々が説明した諸感情の定義からして、そのすべての感情は欲望、喜びあるいは悲し
みから生ずること、あるいはむしろすべての感情はこの三者以外の何ものでもないこと、そして
これら主著のおのおのはその異なった関係およびその異なった外的特徴に応じて、それぞれ異な
った名称で呼ばれる償いになっていることが明らかになる。
今もし我々がこれら三つの根本的感情およびさきに精神の本性について述べた事柄に注意する
なら、我々は、もっぱら精神に関係する限りにおける諸感情を次のように定義しうるであろう。
感情の総括的定義
精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念 〜 精神がそれによって自己の身体ある
いはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、ま
た精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定され
るような、ある混乱した観念である。
説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、す
でに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ
働きを受けるからである(この部の定理三を見よ)。 254
次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるい
は以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観
念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが(第二部
定理一六の系二により)、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能
力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるい
はその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。
しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言ってい
るのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形
相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むよ
うなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体
の現実的存在を肯定する点に存するし(第二部定理一一および一三により)、また我々は完全性と
いうことを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分に
ついて、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、
精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の
思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分に
ついて、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形
成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能
力は、対象の価値によって評価されるからである。
最後に私が「精神白身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するよ
うに決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性
のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。
第三部 終り
1神について
一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。
七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。
定理一 実体は本性上その変状に先立つ。
証明 定義三および五から明白である。
定理七 実体の本性には存在することが属する。
証明 実体は他の物から産出されることができない(前定理の系により)。ゆえにそれは自己原因
である。すなわち(定義一により)その本質は必然的に存在を含む。あるいはその本性には存在す
ることが属する。Q・E・D・
定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成って
いる実体、は必然的に存在する。
証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七
により)その本質は存在を含まない。ところがこれは(定理七により)不条理である。ゆえに神は
必然的に存在する。Q・E・D.
別の証明 すべて物についてはなぜそれが存在するか、あるいはなぜそれが存在しないかの原
因ないし理由が指示されなくてはならぬ。例えば、三角形が存在するなら、なぜそれが存在する
かの理由ないし原因がなければならぬし、存在しないなら同様にそれの存在することを妨げたり
その存在を排除したりする理由ないし原因がなければならぬ。だがこの理由ないし原因は物の本
性のうちに含まれているかそれとも物の外部にあるかそのどちらかでなければならぬ。例えば、
なぜ四角の円が存在しないかの理由は四角の円なるものの本性自身がこれを物語る。つまりそう
したものの本性が矛盾を含むからである。これに反して、なぜ実体が存在するかということは、
やはり実体の本性のみから出てくる。すなわちその本性が存在を含むからである(定理七を見よ)。
しかしなぜ円あるいは三角形が存在するかまたはなぜ存在しないかの理由は、円や三角形の本性
からは出てこず、一般に物体的自然の秩序から出てくる。すなわち三角形が現に必然的に存在す
るか、それとも現に存在することが不可能であるかほ、そうした秩序から出てこなければならぬ
のである。以上のことはそれ自体で明白である。この帰結として、存在することを妨げる何の理
由も原因もない物は必然的に存在することになる。だからもし神の存在するこセを妨げたり神の
存在を排除したりする何の理由も原因も有りえないとすれば、我々は神が必然的に存在すること
を絶対的に結論しなければならぬ。だがもしそうした理由ないし原因があるとすれば、それは神
の本性それ自身のうちに在るか、それともその外部にすなわち異なった本性を有する他の実体の
うちに在るかでなければならない。なぜなら、もしそれが同じ本性を有する実体であるとしたら、
すでにそのことによって、神の存在することが容認されるからである。ところが(神の本性とは
異なる)他の本性を有する実体は神とは何の共通点も有せず(定理二により)、したがってそれは
神の存在を定立することも排除することもできない。このようなわけで、神の存在を排除する理
由ないし原因が神の本性の外部には在りえないのだから、それは必然的に 〜 もし神が存在しな
いとするなら 〜 神の本性それ自身のうちになければならぬ。そうなればその本性は(我々の第
二の例により)矛盾を含むことになるであろう。しかし、そうしたことを絶対に無限で最高完全
である実有について主張することは不条理である。ゆえに神のうちにも神の外にも神の存在を排
除する何の原因ないし理由もない。したがって神は必然的に存在する。Q・E・D・
別の証明 存在しえないこと昧鉱能力であり、これに反して存在しうることは能力である(そ
れ自体で明らかなように)。だからもし今必然的に存在しているものが有限な実有だけであると
すれば、有限な実有は絶対的に無限な実有よりも有能であることになろう。しかしこれは(それ
自体で明らかなように)不条理である。ゆえに何物も存在しないか、それとも絶対に無限な実有
もまた必然的に存在するか、そのどちらかである。ところが我々は、我々のうちにかそうでなけ
れば必然的に存在する他の物のうちに存在している(公理一および定理七を見よ)。ゆえに絶対的
に無限な実有、言いかえれば(定義六により)神は必然的に存在する。Q・E・D・
備考 この最後の証明において私は神の存在をアポステリオリに示そうとした。これは証明が
容易に理解されるようにであって、同じ根底から神の存在がアプリオリに帰結しえない
ためではない。なぜなら、存在しうることが能力である以上は、ある物の本性により多くの実在
性が帰するに従ってその物はそれだけ多くの存在する力を自分自身に有することになり、したが
って絶対に無限な実有すなわち神は存在する絶対に無限な能力を自分自身に有することになり、
こうして神は絶対的に存在することになるからである。
しかし多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解しえないであろう。それというの
も彼らは外的諸原因から生ずる物のみを観想することに慣れているからである。そしてそれらの
物のうち早く生ずる物すなわち容易に存在する物はまた容易に滅びるのを見、これに反してより
多くの属性を有すると考えられる物はより生じ難い、すなわち存在するのがそう容易でないと判
断しているのである。しかし彼らをこうした偏見から解放するためには「早く生ずるものは早く
滅ぶ」という格言がどんな意味で真理であるか、また全自然を顧慮すれば、一切は等しく容易で
あるかそれともそうではないかということをここに示す必要はない。ただここでは外的諸原因か
ら生ずる物について語っているのではなく、どんな外的原因からも産出されえない実体(定理六
により)についてのみ語っているのであることを注意するだけで十分である。なぜなら、外的諸
原因から生ずる物は、多くの部分から成っていようと少ない部分から成っていようと、それが完
全性あるいは実在性に関して有する一切を外的原因のカに負っており、したがってその存在は外
的原因の完全性からのみ生じ、それ自身の完全性からは生じない。これに反して実体は、完全性
に関して有するすべてのものを外的原因にはまったく負っていない。ゆえにその存在もまたその
本性のみから帰結されなければならぬ。したがってその存在はその本質にほかならない。このよ
うにして、完全性は物の存在を排除しないばかりでなく、かえってこれを定立し、これに反して
不完全性は物の存在を排除する。したがって我々は、どのような物の存在についても、絶対的に
無限なあるいは完全な実有、すなわち神の存在についてほど確実ではありえない。なぜなら神の
本質は、一切の不完全性を除外し、絶対的完全性を含むがゆえに、まさにそのことによってその
存在を疑う一切の原因を排除し、その存在について最高の確実性を与えるからである。これは多
少でも注意する人にとってはきわめて明白であろうと私は信ずる。
定理二四 神から産出された物の本質は存在を含まない。
証明 定義一から明白である。なぜならその本性(それ自体で考察された)が存在を含むような
物は自己原因であって、単に自己の本性の必然性のみによって存在するからである。
系 この帰結として、神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固
執する原因でもあること、あるいは(スコラ学派の用語を用いれば)神は物の「有ることの原因」
でもあること、になる。なぜなら、物が存在していても存在していなくても、我々はその本質に
注目するごとに、それが存在も持続も含まないことを発見する。したがってそれらの物の本質は、
その存在なりその持続なりの原因であることができず、ただ存在することがその本性に属する唯
一者たる神(定理一四の系一により)のみがこれをなしうるのである。
定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。
証明 これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになる。したがって(公理四によ
り)物の本質は神なしに考えられうることになる。しかしこれは(定理一五により)不条理である。
ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。Q・E・D.
備考 この定理は定理一六からいっそう明瞭に帰結される。というのは、神の本性が与えられ
ると、それから物の本質ならびに存在が必然的に結論されなければならぬということが定理一六
から帰結されるからである。一言で言えば、神が自己原因と言われるその意味において、神はま
たすペてのものの原因であると言われなければならぬ。このことはなお次の系からいっそう明白
になるであろう。
系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)、にほかならぬ。
この証明は定理一五および定義五から明らかである。
定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用す
るように神の本性の必然性から決定されている。
証明 在るものはすべて神のうちに在る(定理一五により)。しかし神を偶然なものと呼ぶこと
はできない。なぜなら神は偶然的に存在するのではなく必然的に存在するからである(定理一一
により)。次に神の本性の様態は、やはり神の本性から偶然的にではなく必然的に生起している
(定理一六により)。そしてこれは神の本性が絶対的に働くように決定されたと見られる限りにお
いても(定理ニーにより)、あるいは神の本性が一定の仕方で働くように決定されたと見られる限
りにおいても(定理二七により)、同様である。さらに神ほそれらの様態が単に存在する限りにお
いてばかりでなく(定理二四の系により)、その上またそれらが(定理二六により)ある作用をなす
ように決定されたと見られる限りにおいても、それらの原因なのである。もしそれらの様態が神
から決定されなかったとすれば、それが自己自身を決定するということは不可能であって、偶然
そうなるなどということはない(同定理により)。また反対に、神から決定されたとしたら、それ
が自己自身を決定されていないようにすることは不可能であって、やはり偶然そうなるなどいう
ことはない(定理二七により)。ゆえに一切は、単に存在するようにだけでほなく、さらにまた一
定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されているのであり、そして一と
して偶然なものはないのである。Q・E・D・
備考 先へ進む前にここで、能産的自然(ナトウラ・ナトウランス)および所産的自然(ナトウラ・ナトウラタ)をどう解すべきかを説明しよう〜〜
というよりはむしろ注意しよう。というのは、前に述べたことどもからすでに次のことが判明す
ると信ずるからである。すなわち我々は能産的自然を、それ自身のうちに在りかつそれ自身によ
って考えられるもの、あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性、言いかえれば(定理一
四の系一および定理一七の系二により)自由なる原因として見られる限りにおいての神、と解さ
なければならぬ。これにたいして所産的自然を私は、神の本性あるいは神の各属性の必然性から
生起する一切のもの、言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることも
できない物と見られる限りにおいての神の属性のすペての様態、と解する。
定理三六 その本性からある結果が生じないようなものは一として存在しない。
証明 存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する(定理二五の系に
より)。言いかえれば(定理三四により)存在するすべての物は神の能力を〜〜万物の原因である
神の能力を一定の仕方で表現する。したがって(定理二六により)存在するすべての物からある結
果が生起しなければならぬ。Q・E・D・
2精神の本性および起源について
定理一 思惟は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。
説明 個々の思想、すなわちこのあるいはかの思想は、神の本性をある一定の仕方で表現する
様態である (第一部定理二五の系により) 。ゆえに神には(第一部定義五により)一属性、〜〜それ
の概念がすべての個々の思想の中に含まれており、またそれによってすべての個々の思想が考え
られもするそうした属性があることになる。したがって思惟は神の無限に多くの属性の一つであ
って、神の永遠・無限な本質を表現している(第一部定義六を見よ)。あるいは神は思惟する物で
ある。Q・E・D・
備考 この定理はまた、我々が思惟する無限の実有を考えうることからも明白である。なぜな
ら、思惟する実有がより多くのものを思惟しうるに従って、それほそれだけ多くの実在性あるい 96
ほ完全性を含むと我々は考える。ゆえに無限に多くのものを無限に多くの仕方で思惟しうる実有
は、必然的に、思惟する力において無限である。このように我々は、単に思惟だけを眼中に置く
ことによって無限の実有を考えうるのだから、思惟は、我々が主張したように、必然的に(第一
部定義四および六により)神の無限に多くの属性の一つである。
定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限り
においてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。
証明 なぜなら、おのおのの属性は他の属性の助けを借りずにそれ自身によって考えられる
(第一部定理一〇により)。ゆえに各属性の様態はその属性の概念を含み他の属性の概念を含まな
い。したがって様態は(第一部公理四により)自らが様態となっている属性のもとで神が考察され
る限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうで
ない。Q・E・D・
系 この帰結として〜〜思惟の様態でない事物の形相的有(エッセ・フォルマーレ)は、神の本性がそれらの事物を前
もって認識したがために神の本性から起こるのではない、むしろ観念の対象たる事物は、観念が
思惟の属性から生ずる(我々が示したように)のと同一の仕方・同一の必然性をもって、それ自身
の属性から起こりあるいは導き出される〜〜ということになる。
定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。
証明 第一部公理四から明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、
そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。
系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言い 100
かえれば、神の無限な本性から形相的(フォルマリテル)に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連
結をもって神のうちに想念的(オブエクティヴエ)に〔すなわち観念として〕起こるのである。
備考 先へ進む前に、ここで、我々が以前に示したことを記憶に呼びもどさなくてはならぬ。
それはすなわち、無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは
単に唯一の実体に属しているということ、したがってまた思惟する実体と延長した実体とは同一
の実体であって、それが時にはこの属性のもとにまた時にはかの属性のもとに解されるのである
ということ、これである。同様に、延長の様態とその様態の観念とは同一物であって、ただそれ
が二つの仕方で表現されているまでである。(このことは二、三のヘブライ人たちもおぼろげにで
はあるが気づいていたらしい、なぜなら彼らは神と神の知性と神によって認識された物とが同一 (マイモニデス)
であることを主張しているのだから)。例えば自然の中に存在する円と、同様に神の中にあるこ
の存在する円の観念とは同一物であり、それが異なった属性によって説明されるのである。ゆえ
に我々が自然を延長の属性のもとで考えようと、あるいは思惟の属性のもとで考えようと、ある
いは他の何らかの属性のもとで考えようと、我々は同一の秩序を、すなわち諸原因の同一の連結
を、言いかえれば同一物の相互的継起を、見いだすであろう。
私が(先に)、神はただ思惟する物である限りにおいてのみ、例えば円の観念の原因でありまた
延長した物である限りにおいてのみ円の原因である、と言ったのも、その理由とするところは次
のようなものにほかならない。すなわち、円の観念の形相的有(エッセ・フォルマーレ)はその最近原因としての思惟の
他の様態によってのみ知覚され、思惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され、このよう
にして無限に進み、こうして物が思惟の様態として見られる間は全自然の秩序あるいは原因の連
結は思惟の属性によってのみ説明されなければならぬし、物が延長の様態として見られる限りは
全自然の秩序もまた延長の属性のみにょって説明されなければならぬ、という理由からにほかな
らない。そして同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである。ゆえ
に、神が無限に多くの属性から成っている限りにおいては、神は真に、それ自体においてあるが
ままの事物の原因である。私はこのこと室現在のところこれ以上明瞭に説明することができない。
定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の
中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。
証明 この定理は前の定理から明白であるが、さらに前の備考からいっそう明瞭に理解される。
系 この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにお
いてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限
りにおいてのみ存在する。しがし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するば
かりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるように
なると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。
備考 もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語ってい
る事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであ
ろう。しかし私はできる限りこの事柄を(一つの例をもって)解説するこ
とに努めよう。
|D
(__|______)
| E
円は、その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相
互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には、相互に等しい無限 |D
に多くの矩形が含まれていることになる。しかしこういう炬形は、どれ (__|______)
も、円の存在する限りにおいてでなくては存在すると言われえない。同 | E
様にまたこれらの矩形の観念は、どれも、円の観念の中に包容されてい
る限りにおいてでなくては存在すると言われえない。今、かの無限に多くの矩形の中でただ二つ
だけ、すなわちEおよびDの線分から成る矩形だけが〔現実に〕存在すると仮定しよう。そうすれ
ばたしかに、それらの矩形の観念もまた、単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在
するだけでなく、さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれに
よってそれらの矩形の観念は、他の矩形の観念と区別されるのである。
定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在
する他の個物の観念に変状(アフエクトウス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もま
た神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。
証明 現実に存在する個物の観念は、思惟のある特定の様態であって、他の諸様態とは区別さ
れるものである(この部の定理八の系および備考により)。したがってそれは(この部の定理六に
より)神が思惟する物である限りにおいてのみ神を原因とするが、しかし(第一部定理二八によ
り)神が絶対的に思惟する物である限りにおいてではなく、神が他の〈有限な〉思惟の様態に変状
したと見られる限りにおいてである。そしてこの思惟の様態もまた神が他〈の有限な思惟の様態〉
に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。ところで、観念の秩序お
よび連結は(この部の定理七により)原因の秩序および連結と同一である。ゆえに各個の観念は他
の観念を、あるいは他の観念に変状したと見られる限りにおける神を、原因とし、この観念もま
た他の観念に変状した限りにおける神を原因とする、このようにして無限に進む。Q・E・D・
系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念を
もつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。
証明 おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことは、神の中にその観念が存する(この
部の定理三により)、しかしそれは神が無限なる限りにおいてではなく神が他の個物の観念に変
状したと見られる限りにおいてである(前定理により)。だが(この部の定理七により)観念の秩序
および連結は物の秩序および連結と同一である。ゆえに個々の対象の中に起こる事柄についての
認識は、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ神の中に在るであろう。Q・E・
D・
定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほ
かならない。
証明 人間の本質は(前定理の系により)神の属性のある様態から、すなわち(この部の公理二
により)思惟の諸様態から構成されている。そしてこれらすべての様態にあっては(この部の公理
三により)観念が本性上さきであって、観念が与えられればその他の諸様態(すなわち本性上観念
のあとになるもの)が同じ個体の中に存しなければならぬ(この部の公理三により)。したがって
観念は人間精神の有を構成する最初のものである。
しかしそれは存在しない物の観念ではない。なぜなら、その場合は(この部の定理八の系によ
り)観念自身が存在すると言われえないからである。ゆえにそれは現実に存在する物の観念でな
ければならぬであろう。
しかしまたそれは無限な物の観念ではない。なぜなら、無限な物は(第一部定理二一および二
二により)常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは(この部の公
理一により)不条理である。
ゆえに人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在する借物の観念である。Q・
E・D・
系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがっ
て我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限で
ある限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が
人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかな
らない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と
同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、
それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。
備考 ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。そして躊躇を促す多くのことが心に浮かぶであ
ろう。この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこの
ことについて判断を下さないようにお願いする。
定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知
覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言い
かえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって
知覚されないような(あるいはそれについてある観念が精神の中にないような〉いかなることも起
こりえないであろう。
証明 なぜなら、おのおのの観念の対象の中に起こるすべてのことほ、神がその対象の観念に
変状したと見られる限りにおいて必然的に神の中にその認識がある(この部の定理九の系により) 108
言いかえれば(この部の定理一一により)神がある物の精神を構成する限りにおいて、必然的に神
の中にその認識がある。ゆえに人間精神を構成する親念の対象の中に起こるすべてのことは、神
が人間精神の本性を構成している限りにおいて必然的に神の中にその認識が存する、青いかえれ
ば(この部の定理一一の系により)そのものについての認識は必然的に精神の中に在るであろう、
すなわち精神はそれを知覚する。Q・E・D・
備考 この定理はこの部の定理七の備考からも明白であり、しかもいっそう明瞭に理解される。
その個所を見よ。
定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の
様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。
証明 なぜなら、もし身体が人間精神の対象でないとしたら身体の変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕の観念
は(この部の定理九の系により)神が我々の精神を構成する限りにおいて神のうちになく、神が他
の物の精神を構成する限りにおいて神のうちにあるであろう、言いかえれば(この部の定理二
の系により)、身体の変状(アフエクテイオ)の観念は我々の精神の中にはないであろう。ところが(この部の公理
により)我々は身体の変状(アフエクテイオ)の観念を有する。ゆえに人間精神を構成する観念の対象は身体で
あり、しかも(この部の定理二により)現実に存在する身体である。次にもし身体のほかにも精
神の対象が他にあるとすれば、およそ何らかの結果の生じないようなものは一つとして存在しな
いのであるから(第一部定理三六により)、その対象から生ずる何らかの結果についての観念が必
然的に我々の精神の中に存しなければならぬ(この部の定理一二により)を。ところが(この部の公
理五により)何らそうした観念が存しない。ゆえに我々の精神の対象は存在する身体であって他
の何ものでもない。Q・E・D・
系 この帰結として、人間は精神と身体とから成りそして人間身体は我々がそれを感ずるとお
りに存在する、ということになる。
備考 これにより我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身
体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認 (ネグリ)
識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。なぜな
ら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間にあてはまると同様その
他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。
なぜならあらゆる物について必然的に神の中に観念があって、その観念は、人間身体の観念と同
様に神を原因とするのであり、したがって我々が人間身体の観念について述べたことはあらゆる
物の観念についても必然的に言われうるからである。しかし私は同時に次のことも否定しえない。
すなわちもろもろの観念はその対象自身と同様に相互に異なっているということ、そしてある観
念の対象が他の観念の対象よりもより優秀でより多くの実在性を含むにつれてその観念も他の観
念よりもより優秀でより多くの実在性を含むということである。このゆえにいかなる点で人間精
神が他の精神と異なるか、またいかなる点で人間精神が他の精神より優秀であるかを決定するた
めには、すでに述べたように、その対象の本性を、言いかえれば人間身体の本性を認識するこ 110
とが必要である。しかしこうしたことをここで十分詳しく説くことはできないし、またそれは
我々が証明しようと欲する事柄にとって必要でもない。私はただ一般論として次のことを言って
おく。すなわちある身体が同時に多くの働きをなし・あるいは多くの働きを受けることに対して
他の身体よりもより有能であるに従って、その精神もまた多くのものを同時に知覚することに対
して他の精神よりそれだけ有能である。またある身体の活動がその身体のみに依存することが
より多く・他の物体に共同して働いてもらうことがより少ないのに従って、その精神もまた判然
たる認識に対してそれだけ有能である。そしてこのことから我々は、二つの精神が他の精神に対
して有する優秀性を認識しうるし、さらにまたなぜ我々が我々の身体についてきわめて混乱した
認識しかもたないかの理由ならびに私が以下においてそれから導こうとする他の多くのことども
を知りうる。このゆえに私はこれらのことをある程度詳しく説明し証明することを徒労ではない
と考えた。しかしそれには諸物体の本性についていくつかの注意を前提とすることが必要であ
る。
公理一 すべての物体は運動しているか静止しているかである。
公理二 おのおのの物体はある時は緩(ゆる)やかに、ある時は速(すみ)やかに運動する。
補助定理一 物体は運動および静止、迅速および遅緩に関して相互に区別され、実体に関して
ほ区別されない。
証明 この補助定理の始めの部分はそれ自体で明白であると考える。次に物体が実体に関して
ほ区別されないということは、第一部の定理五ならびに定理八から明らかである。しかし第一部の定理一五の備考の中で述べたことから、なおいっそう明瞭である。
補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。
証明 なぜなら、すべての物体は同一属性の概念を含むという点で一致する(この部の定義一により)。次にそれらは、ある時は緩やかに、ある時は速やかに運動しうるという点で〜〜一般
的に言えばある時は運動しある時は静止しうるという点で一致する。
補助定理三 運動あるいは静止している物体は、他の物体から運動あるいは静止するように決
定されなければならなかった、この後者も同様に他の物体から運動あるいは静止するように決定
されている、そしてこれもまたさらに他の物体から決定され、このようにして無限に進む。
証明 物体は、運動および静止に関して相互に区別される(補助定理一により)個物である(こ
の部の定義一により)。したがって(第一部定理二八により)おのおのの物体は必然的に他の個物
から、すなわち同様に運動もしくは静止している(公理一により)他の物体から(この部の定理六
により)運動あるいは静止に決定されなければならなかった。ところがこの後者もまた(同じ理由
により)他の物体から運動あるいは静止に決定されなかったならば運動あるいは静止することが 112
できなかった。そしてこのものもまたさらに(同じ理由により)他の物体から決定され、このよう
にして無限に進む。Q・E・D・
系 この帰結として、運動している物体は他の物体から静止するように決定されるまでは運動
し、また同様に、静止している物体は他の物体から運動に決定されるまでは静止している、とい
うことになる。これはすでにそれ自体で明白である。なぜなら、ある物体例えばAが静止すると
仮定し、そして運動する他の諸物体を眼中に置かないならば、私ほ物体Aについてそれが静止し
ているということ以外には何ごとをも言いえないであろう。もしそのあとで、物体Aが運動する
ということが起こるなら、それほたしかに、Aが静止していたということからは起こりえなかっ
たのである。なぜならそのことからは物体Aが静止していたということ以外の何ごとも生じえな
かったからである。これに反してもしAが運動していると仮定するなら、我々がAだけを眼中に
置く間は、我々ほそれについて、それが運動しているということ以外の何ごとをも主張しえない
であろう。もしそのあとで、Aが静止するということが起こるとしたら、それはまたたしかに、
Aが有していた運動からは起こりえなかったのである。なぜなら、その運動からは、Aが運動し
ていたということ以外のいかなることも生じえなかったからである。ゆえにそれは、Aの中にな
かった物から、すなわち(運動している物体Aを)静止するように決定した外的原因から生じたの
である。
公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時
に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれ
てさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で
動かされることになる。
要請
一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体〜〜そのおのおのがまたきわめて複雑な
組織の〜〜から組織されている。
二 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあ
るものは硬い。
三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様
の仕方で刺激される。
四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわ
ば絶えず更生される。
五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当るように外部の物体から決定
されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源で
ある外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。
六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で
影響することができる。
定理一四 人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適する。そしてこの適性は、その身
体がより多くの仕方で影響されうるに従ってそれだけ大である。
証明 なぜなら人間身体は(要請三および六により)きわめて多くの仕方で外部の物体から 118
刺激(アフイキトウル)されるし、またきわめて多くの仕方で外部の物体を刺激するような状態にされる。ところが
人間身体の中に起こるすべてのことを人間精神は知覚しなければならぬ(この部の定理一二によ
り)。ゆえに人間精神はきわめて多くのものを知覚するのに適し、そしてこの適性は(人間身体の
適性がより大なるに従ってそれだけ大である。)Q・E・D・
定理一五 人間精神の形相的有(エッセ・フォルマーレ)を構成する観念は単純ではなくて、きわめて多くの観念から
組織されている。
証明 人間精神の形相的有を構成する観念は身体の観念であり(この部の定理一三により)、そ
してこの身体は(要請一により)きわめて複雑な組織のきわめて多くの個体から組織されている。
ところが身体を組織するおのおのの個体について必然的に神の中に観念が存する(この部の定理
八の系により)。ゆえに(この部の定理七により)人間身体の観念は、身体を組縮する部分につい
てのきわめて多くのこうした観念から組織されている。Q・E・D・
定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間
精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を
現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。
証明 明白である。なぜなら人間身体がそのような仕方で刺激されて(アフエクトウス)いる間は、人間精神は
(この部の定理三により)身体のこの刺激(アフエクテイオ)を観想するであろう。言いかえれば、精神は(前定
理により)現実に存在する刺激状態について、外部の物体の本性を含む観念を、言いかえれば外
部の物体の本性の存在あるいは現在を排除せずにかえってこれを定立する観念を有するであろう。
したがって精神は(前定理の系一により)、身体が外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激
を受けるまでは、外部の物体を現実に存在するものとして、あるいは現在するものとして観想す
るであろう。Q・E・D・
系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しな 120
くても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。
証明 人間身体の流動的な部分が軟かい部分にしばしば衝き当るように外部の物体から決定さ
れると、軟かい部分の表面は(要請五により)変化する。この結果として、流動的な部分は、軟か
い部分の表面から、以前とは異なる仕方で弾ね返ることになる。そしてあとになって流動的な部
分がこの変化した表面に自発的な運動をもって突き当たると、流動的な部分ほ前に外部の物体か
ら軟かい部分の表面を衝くように促された時と同じ仕方で弾ね返ることになる(補助定理三の系
のあとにある公理二を見よ)。したがってまたそれはこのように弾ね返る運動を継続する間は〔以
前外部の物体に促されてした時と〕同じ仕方で人間身体を刺激することになる。この刺激を精神
は(この部の定理一二により)ふたたび認識するであろう。言いかえれば精神は(この部の定理一
七により)ふたたび外部の物体を現在するものとして観想するであろう。そしてこのことは、人
間身体の流動的な部分がその自発的な運動をもって軟かい部分の表面を衝くたびごとに起こるで
あろう。ゆえに人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、精神は、身体の
こうした活動がくり返されるたびごとに、外部の物体を現在するものとして観想するであろう。
Q・E・D・
備考 このようにして我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在
するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る。そしてこのことは他の原
因からも起こることが可能である。しかしここでは真の原因によってそれを説明したと同様の効
果のある一つの原因を示しただけで私にとっては十分である。それにまた私は真の原因からそれ
ほど遠ざかっているとは信じない。なぜなら、私が採用したあのすべての要請は経験によって裏
付けられないことをほとんど含んでいないのであり、そして人間身体が我々の感ずるとおりに存
在していることを示した今では、経験について疑うことは我々にとって許されないからである
(この部の定理一三のあとにある系を見よ)。
その上我々は(前の系ならびにこの部の定理一六の系二から)例えばペテロ自身の精神の本質を
構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差
異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテ
ロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの
身体の状態をより多く示しており〈この部の定理一六の系二を見よ〉、したがって。パウロの身体の
この状態が持続する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとっ
て現在するものとして観想するであろう。
なお普通に用いられている言葉を保存するために、人間身体の変状(アフエクテイオ)〔刺激状態〕〜〜我々はこ
の変状の観念によって外部の物体を我々に現在するものとして思い浮かべるのである〜〜は物の
形状を再現しないけれども我々はこれを物の表象像(イマゴ)と呼ぶであろう。そして精神がこのような仕
方で物体を観想する時に我々は精神が物を表象(イマギナリ)すると言うであろう。
それから私はここに誤謬とは何であるかを示す手始めとして、次のことを注意したい。それは、
精神の表象はそれ自体において見れば何の誤謬も食んでいないということ、言いかえれば精神 122
は物を表象するからといってただちに誤りを犯しているのではなく、ただ精神が自己に現在する
ものとして表象する事物についてその存在を排除する観念を欠いていると見られる限りにおいて
のみ誤りを犯しているのであるということである。なぜなら、もし精神が存在しない物を自己に
現在するものとして表象するのに際し、それと同時にその物が現実に存在しないことを知ってい
たとしたら、精神はたしかに、表象するこの能力を、自己の本性の欠点とは認めず、かえって長
所と認めたことであろう。特にもしこの表象能力が精神の本性にのみ依存しているとしたら、言
いかえれば(第一部定義七により)もし精神のこの表象能力が自由であったとしたら、なおさらそ
うであろう。
定理二三 精神は身体の変状〔刺激状態〕の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識す
る。
証明 精神の観念あるいは認識は(この部の定理二〇により)身体の観念あるいは認識と同様の
仕方で神の中に生じ、かつ同一の仕方で神に帰せられる。ところが(この部の定理一九により)人
間精神は人間身体自身を認識しないから、言いかえれば(この部の定理一一の系により)人間身体
の認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神に帰せられないから、したがって精神
の認識もまた、神が人間精神の本質を構成する限りにおいては神に帰せられない。それゆえ(同
じくこの部の定理一一の系により)人間精神はその限りにおいては自分自身を認識しない。次に
身体が受ける刺激〔変状〕の観念は人間身体自身の本性を含む(この部の定理一六により)、言いか
えればそれは(この部の定理一三により)精神の本性と一致する。それゆえにこれらの観念の認識
は必然的に精神の認識を含む。ところが(前定理により)これらの観念の認識は人間精神自身の中
に在る。ゆえに人間精神はその限りにおいてのみ自分自身を認識するのである。Q・E・D・
定理二四 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。
証明 人間身体を組織する部分は、それが自己の運動をある一定の割合で相互間に伝達する限 128
りにおいてのみ身体自身の本質に属し(補助定理三の系のあとにある定義を見よ)、それが個体と
して人間身体と関係なしに考察されうる限りにおいては身体の本質に属さない。事実、人間身体
の部分はきわめて複雑な組織の個体であり(要請一により)、それらの部分は、身体の本性および
形相を少しも変えることなしに、身体から分離することもできるし(補助定理四により)また自己
の運動を他の諸物体へ異なる仕方で伝達することもできる(補助定理三のあとにある公理一を見
よ)のである。こうして(この部の定理三により)おのおののこうした部分の観念あるいは認識は
神の中に在るであろうが、しかしそれは神が他の個物自然の秩序から言ってそうした部分に
先立っているような(この部の定理七により)の観念に変状したと見られる限りにおいてであ
る(この部の定理九により)。さらに人間身体を組織する個体自身のそのまたおのおのの部分につ
いても同じことが言われうる。したがって人間身体を組織するおのおのの部分の認識は、神が単
に人間身体の観念、言いかえれば(この部の定理一三により)人間精神の本性を構成する観念を有
する限りにおいてではなく、神がきわめて多くの事物の観念に変状した限りにおいて、神の中に
在る。したがって(この部の定理二の系により)人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認
識を含んでいない。Q・E・D・
定理二七 人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含
んでいない。
証明 人間身体のおのおのの変状の観念は、すべて、人間身体自身がある一定の仕方で刺激さ
れると見られる限りにおいて人間身件の本性を含んでいる(この部の定理二六を見よ)。しかし人
間身体がなお多くの他の仕方で刺激されうる個体である限りにおいてほそれの観念は云々。この
部の定理二五の証明を見よ。
定理二八 人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるもので
はなく、混乱したものである。
証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は外部の物体ならびに人間身体自身の本性を含んでい
る(この部の定理二六により)。しかもそれは人間身体の本性のみならずその部分の本性も含んで
いなければならない。なぜなら変状とは人間身体の部分、したがってまた身体全体が刺激される
様式だからである(要請三により)。ところが(この部の定理二四および二五により)外部の物体の
妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は神が人間精神に変状したと見られる
限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に
在る、<言いかえれば(この部の定理一三により)この認識は神が人間精神の本性を構成する限り
においては神の中にない>。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、い
わば前提のない結論のようなものである。言いかえればそれは(それ自体で明白なように)混乱し
た観念である。Q・E・D・
備考 人間精神の本性を構成する観念は単にそれ自体のみにおいて考察すれば明瞭判然たるも
のでないということは同様の仕方で証明される。人間精神の観念および人間身体の変状の観念の
観念も、それが単に精神にのみ関連している限りそうである。〈すなわち混乱したものである。〉
これは各人の容易に知りうるところである。
定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。
証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は(この部の定理二七により)身体自身の妥当な認識を
含んでいない。あるいはその本性を妥当に表現しない。言いかえればそれは(この部の定理一三
により)精神の本性と妥当に一致しない。したがって(第一部公理六により)その観念の観念もま
た人間精神の本性を妥当に表現しない。あるいはその妥当な認識を含んでいない。Q・E・D・
系 この帰結として、人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自
身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損(きそん) 132
した認識のみを有する、ということになる。なぜなら、精神は、身体の変状の観念を知覚する限
りにおいてのみ自分自身を認識する(この部の定理二三により)、また精神は身体の変状の観念自
身によってのみ自分の身体を知覚し(この部の定理一九により)、さらに同じくこの変状の観念自
身によってのみ外部の物体を知覚する(この部の定理二六により)。したがって精神は、そうした
観念を有する限りは、自分自身についても(この部の定理二九により)、自分の身体についても
(この部の定理二七により)、外部の物体についても(この部の定理二五により)、妥当な認識を有
せず、単に(この部の定理二八ならびにその備考により)毀損し・混乱した認識を有するのみであ
る。Q・E・D・
備考 私ははっきり言う〜〜精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いか
えれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのもの
を観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当
な認識を有せず、単に混乱し(殴損し)た認識を有するのみである。これに反して内部から決定さ
れて、すなわち多くの物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識す
る場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいほかの仕方で内部から決定される場合には、
精神は常に物を明瞭判然と観想するからである。このことについてはのちに示すであろう。
定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。
証明 なぜなら、神の中に在るすべての観念は、その(対象すなわち)観念されたものとまっ
たく一致する(この部の定理七の系により)。したがって(第一部公理六により)すべて真である。
Q・E・D・
定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。
証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部の定理三三に
より)。しかし虚偽は(認識の)絶対的な欠乏には存しえない(なぜなら、誤るとか錯誤するとか言
われるものは精神であって身体などではないのだから)。だからといってそれは絶対的無知にも
存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。
それゆえ虚偽〔誤謬〕とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏
に存する。Q・E・D・
備考 この部の定理一七の備考の中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明
した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。
例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもって
あることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした
誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らな 136
いということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原
因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると
育ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないので
ある。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らな
いのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪を
ひき起こすのが常である。
同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬
はそうした表象自体の中にほ存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距
離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球
の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり
太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとし
て表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状〔刺激状態〕
は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。
定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥
当にしか考えられることができない。
証明 Aがすべての物体に共通でありそして等しく各物体の部分の中にも全体の中にも在るも
のであるとしよう。私はAが妥当にしか考えられることができないと主張するのである。なぜな
ら、Aの観念は(この部の定理七の系により)神が人間身体の観念を有する限りにおいても、また
神が人間身体の変状〔刺激状態〕の観念〜〜人間身体の本性ならびに外部の物体の本性を部分的に 138
含むような(この部の定理一六、二五および二七により)〜〜を有する限りにおいても、必然的に
神の中で妥当であるであろう。言いかえれば(この部の定理一二および一三により)Aの観念は神
が人間精神を構成する限りにおいて、あるいは神が人間精神の中に在る観念を有する限りにおい
て、必然的に神の中で妥当であるであろう。ゆえに精神は(この部の定理一一の系により)Aを必
然的に妥当に知覚する。しかもそれは精神が自分自身を知覚する限りにおいても、自分の身体あ
るいは外部の物体を知覚する限りにおいてもそうである。そしてAほ他の仕方では考えられるこ
とができないのである。Q・E・D・
系 この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。
なぜなら(補助定理二により)すべての物体はいくつかの点において一致し、そしてこれらの点は
(前定理により)すべての人から妥当にあるいは明瞭判然と知覚されなければならぬからである。
定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当で
ある。
証明 明白である。なぜなら、「人間の精神のうちの妥当な観念から精神のうちにある観念が
生ずる、」と我々が言う場合、それは(この部の定理一一の系により)、「神が無限である限りにお
いてではなく、また神がきわめて多くの個物の観念に変状した限りにおいてでもなく、神が単に
人間精神の本質を構成する限りにおいて、神の知性自身の中に神を原因とするある観念が在る、」
と言っているのにほかならない〈、そしてこのゆえにそれは妥当なものでなければならぬ〉。
備考一 これをもって私は共通概念と呼ばれていて我々の推論の基礎となっている概念の原因 140
を説明した。しかしある種の公理あるいは概念には他の原因があるのであり、これを我々のこう
した方法で説明することは有益で為るであろう。なぜならそれによって、いかなる概念が他の概
念より有用であるか、またこれに反していかなる概念がほとんど無用であるかが判明するだろう
し、さらにまたいかなる概念が〔すべての人々に〕共通であり、そしていかなる概念が偏見に煩(わずら)わ
されない人々にのみ明瞭判然であるか、最後にまたいかなる概念が悪しき基礎の上に立っている
かが判明するであろうから。なおまた第二次概念と呼ばれる概念が、したがってまたその概念を
基礎としている公理が、どこにその起因を有しているかも明らかになるだろうし、また私が今ま
でこれについて考察してきた他の多くのこともはっきりするであろうから。しかし私はこのこと
を他の論文に譲ったし、それにまたこの事項についてあまり長くなって嫌気を起こさせてはと思
ったので、ここではそれを省くことにした。
けれども知る必要のあることは決して洩らさないために、私は「有」「物」「ある物」のような
いわゆる超絶的名辞が起こった原因をついでに簡単に示すであろう。これらの名辞は、人間身体
は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(表象像が何であるかはこの部の定理
一七の備考の中で説明した)しか同時に判然と形成することができないということから生ずる。
もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。そしてもし身体が自らのうちに同時
に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱
するであろう。こんな次第であるから、この部の定理一七の系ならびに定理一八からして、人間
精神は、その身体の中で同時に形成されうる表象像の数だけの物体しか同時に判然と表象しえな
いということが明らかである。これに反して表象像が身体の中でまったく混乱するような場合に
ほ、精神もまたすペての物体を混乱してまったく差別なしに表象するであろう、そしてそれをい
わば一つの属性すなわち「有」「物」などの属性のもとに包括するであろう。なおこのことは表
象像が常に等しく清澄でないということからも導き出されるし、またこれと類似の他の諸原因か
らも導き出される。しかしそれをここに説明することは必要でない。我々の目指す目的のために
はただ一つの原因を考察するだけで十分である。なぜなら、どの原因を持ってきてみても、それ
ほ結局、超絶的名辞はきわめて混乱した観念を表示するということを示すことに落ちつくからで
ある。
次に「人間」「馬」「犬」などのような一般的概念と呼ばれる概念が生じたのも同様の原因から
である。すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数
が表象力を徹底的には超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の
些細な相違(例えばおのおのの人間の色、大いさなど)ならびにそれらの人間の定数をもはや表象
することができずただそれらの人間全体の一致点〜〜身体がそれらの人間から刺激される限りに
おいて生ずる一致点〜〜のみを判然と表象しうる(なぜならその点において身体は最も多くそれ
ら個々の人間から刺激されたのだから)ような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点
を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。今も言ったように精神
はそれらの個々の人間の定数を表象しえないのであるから。しかし注意しなければならぬのは、
これらの概念はすべての人から同じ仕方で形成されはしないこと、身体がよりしばしば刺激され 142
たもの、したがってまた精神がよりしばしば表象しまたは想起するものに応じてそれは各人にお
いて異なっていることである。例えばよりしばしば人間の姿を驚歎して観想した者は人間という
名前を直立した姿の動物と解するであろう。これに反して人間を別なふうに観想するのに慣れた
者は人間に関して他の共通の表象像を形成するであろう。すなわち人間を笑う動物、羽のない二
足動物、理性的動物などとするであろう。このようにしてその他のことについても各人は自分の
身体の状態に応じて物の一般的表象像を形成するであろう。だから自然の事物を事物の単なる表
象像によって説明しようとした哲学者たちの間にあれほど多くの論争が起こったのも不思議はな
いのである。
備考二 上に述べたすべてのことからして、我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的
概念を形成することが明白に分かる。すなわち次の手段で〜〜
一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろ
の個物から(この部の定理二九の系を見よ)。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験に
よる認識と呼び慣れている。
二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それ
について物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部の定理二八の備考
を見よ)。
事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見(オピニオ)もしくは表象(イマギナテイオ)と呼ぶであろう。
三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この
部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。そしてこれを私は理性(ラティオ)あ
るいは第二種の認識と呼ぶであろう。
これら二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれ
を直観知(スキエンティア・イントウイテイヴァ)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本
質(エッセンティア・フォルマリス)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。
これらすべてを私は一つの例で説明しよう。例えばここに三つの数が与えられていて第二数が
第一数に対するのと等しい関係を第三数に対して有する第四数を得ようとする。商人は躊躇なく
第二数に第三数を乗じ、その結果を第一数で除する。これは彼が先生から何の証明もなしに聞い
たことをまだ忘れずにいたためであるか、あるいは彼がごく簡単な数でそれをしばしば経験した
ためか、あるいはまたユークリッド第七巻の定理一九の証明すなわち比例数の共通の特質に基づ (ユークリッド)
いたかである。しかしごく簡単な数ではこうしたことは必要でない。例えば一、二、三の数が与
えられた場合第四の比例数が六であることは誰にも分かるであろう。そしてこの場合は、第一数
が第二数に対して有する関係そのものを直観の一瞥(べつ)をもって見てとってそれから第四数自身を帰
結するのであるから、はるかに明瞭である。
定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのこ
との真理を疑うことができない。
証明 我々の中の真の観念は、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中で
妥当な観念である(この部の定理一一の系により)。そこで今、神が人間精神の本性によって説明
される限りにおいて神の中に妥当な観念Aが存在すると仮定しよう。この観念についてはまた、
この観念と同様の仕方で神に帰せられるある観念が神の中に必然的に存在しなければならぬ(こ
の部の定理二〇による。その証明は普遍的である(そしてすべての観念にあてはめられうる)か
ら)。ところが、仮定によれば、観念Aは神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて
神に帰せられている。ゆえに観念Aの観念もまた同様の仕方で神に帰せられなければならぬ。言
いかえれば(再びこの部の定理一一の系により)観念Aについての妥当なこの観念は、妥当な観念
Aを有する同じ精神の中に在るであろう。したがって、妥当な観念を有する者、あるいは(この
部の定理三四により)物を真に認識する者は、同時に、自分の認識について妥当な観念あるいは
真の認識を有しなければならぬ。言いかえれば(それ自体で明らかなように)彼は同時にそれにつ
いて確実でなければならぬ。Q・E・D・
備考 この部の定理二一の備考の中で私は、観念の観念とは何であるかを説明した。しかし前
定理はそれ自体で十分明白であることをここに注意しなくてはならぬ。なぜなら、真の観念を有
する者は誰でも、真の観念が最高の確実性を含んでいることを知っているからである。というの
は、真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。
実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言のものであ
って思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは。あえて問うが、前もって物
を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって
物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。次に真理
の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、
光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。
これで私は次の諸問に答えたと信ずる。
それはすなわち、もし真の観念が(思惟の様態である限りにおいてではなく)単にその対象と一 146
致すると言われる限りにおいてのみ偽の観念と区別されるのなら、真の観念は実在性あるいは完
全性において偽の観念以上のものを何ら有しないのかどうか(なぜなら両者は単に外的特徴によ
ってのみ区別される〈内的特徴によっては区別されない〉のだから)、〜〜したがってまた真の観
念を有する〈人間あるいは人間精神〉も単に偽の観念のみを有する人間より実在性あるいは完全性
において優れていないのかどうか、という問いである。
次に、人間が偽の観念を有するのは何に由来するのか、という問いである。
最後にまた、人ほ自らがその〈客体あるいは〉対象と一致する観念を有することを何によって確
如しうるか、という問いである。
これらの問いに私は、今も言ったように、すでに答えたと信ずる。
なぜなら、真の観念と偽の観念との相違に関して言えば、前者は後者に対して有が非有に対す
るような関係にあることがこの部の定理三五によって明らかになっている。
次に、虚偽の原因については、私は定理一九から定理三五およびその備考に至るまでの間に十 (虚偽の原因)
分明瞭に示した。これによってまた、真の観念を有する人間と偽の観念しか有しない人間との相
違も明白になっている。
最後の点、すなわち人間ほ自らが〈その客体または〉その対象と一致する観念を有することを何
によって知りうるかということについて言えば、それは、今しがた十二分に示したように、単に、
彼が〈その客体あるいは〉その対象と一致する観念を有するということ、あるいは真理が真理自身
の規範であるということ、そのことだけから出てくる。これに加えて、我々の精神は物を真実に
知覚する限りにおいて神の無限な知性の一部分である(この部の定理一一の系により)。したがっ
て精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。
定理四四 事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する。
証明事物を真実に知覚すること(この部の定理四一により)、すなわち(第一部公理六により)
事物をそれ自身あるとおりに知覚すること、は理性の本性に属する。言いかえれば(第一部定理
二九により)事物を偶然としてでなく必然として知覚することは理性の本性に属する。Q・E・
D・
系一 この帰結として、我々が物を過去ならびに未来に関して偶然として観想するのはもっば
ら表象力にのみ依存するということになる。
備考 だがこのことがどのようなふうにして起こるかを私は簡単に説明しよう。
我々はさきに(この部の定理一七およびその系)、精神は物の現在する存在を排除する原因が現
われぬ限り、たとえ物が存在していなくとも、常にその物を自己に現在するものとして表象する
ことを明らかにした。次に(この部の定理一八)もし人間身体がかつて外部の二物体から同時に刺
激されたなら、精神はあとになってそのどちらか一つを表象する場合ただちに他の一つを想起す
るであろうということ、言いかえれば両者の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り両者を
現在するものとして観想するであろうということを我々は示した。なおまた我々が時間をも表象 148
することは何びとも疑わぬところである。すなわち我々は、ある物体が他の物体と比べてより緩
やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象す
るのである。
ところでここに一人の小児があって、昨日はじめて朝にペテロを、昼にパウロを、夕にシモン
を見、そして今日また朝にべテロを見たと仮定しよう。この部の定理一八から明らかなように、
彼は暁の光を見るや、ただちに太陽が前日と同じ天域を運行することを表象するであろう。言い
かえれば彼は一日全体の経過を表象するであろう。そして朝の時間とともにペテロを、昼の時間
とともにパウロを、夕の時間とともにシモンを表象するであろう。それで今彼はパウロとシモン
の存在を未来の時間に関連させて表象するであろう、これに反して彼が夕方シモンを見るとした
ら、彼はパウロとペテロを過去の時間とともに表象してこの二人を過去の時間に関連させるであ
ろう。そしてこうした表象結合は彼がこれらの人間をこの同じ順序において見る度合が重なるに
つれてますます確乎たるものになるであろう。
だが彼がある夕シモンの代りにヤコブを見るということが一度起こるとしたら、翌朝彼は夕の
時間を思う際にあるいはシモンをあるいはヤコブを表象するが両者を同時に表象することほない
であろう。なぜなら、仮定によれば、彼は夕の時間常に両者の一人だけを見て両者を同時に見る
ことはなかったからである。ここにおいて彼の表象は動揺し、来るべき夕の時間を思う際にある
いはこの人をあるいはかの人を表象するであろう。言いかえれば彼は両者のいずれの出現をも確
実とは考えず両者いずれかの出現を偶然なものとして表象するであろう。そしてこうした表象の
動揺は、我々が同様の仕方で過去あるいは現在に関して観想する物について表象がなされる場合
に常に現われるであろう。こうして我々は物を現在に関してもあるいは過去ないし未来に関して
も偶然なものとして表象するであろう。
系二 物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する。
証明 なぜなら物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する(前定理
により)。ところで理性は物のこの必然性を(この部の定理四一により)真実に、言いかえれば(第
一部公理六により)それ自身においてあるとおりに、知覚する。ところが(第一部定理一六によ
り)物のこの必然性は神の永遠なる本性の必然性そのものである。ゆえに物をこの永遠の相のも
とに観想することは理性の本性に属する。その上、理性の基礎ほ概念であって(この部の定理三
八により)、そうした概念はすべての物に共通なものを説明しそして(この部の定理三七により)
決して個物の本質を説明しない。このゆえにそれらの概念は何ら時間との関係なしにある永遠の
相のもとに考えられなければならぬ。Q・E・D・
定理四八 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのこ
とまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって
決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。
証明 精神は思惟のある一定の様態であり(この部の定理一一により)、したがって(第一部定
理一七の系二により)自己の活動の自由原因でありえない、あるいは意志したり意志しなかった
りする絶対的な能力を有しえない。むしろ精神はこのことあるいはかのことを意志するように原
因によって決定されなければならぬ。そしてこの原因も同様に他の原因によって決定され、さら
にこの後者もまた他の原因によって決定され云々(第一部定理二八により)。Q・E・D・
備考 精神の中に認識し・欲求し・愛しなどする絶対的な能力が存しないこともこれと同一の
仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物である
か、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的
概念にほかならないということになる。したがって、知性がこのあるいはかの観念に対し・意志
がこのあるいはかの意志作用に対する関係は、石なるもの一般がこのあるいはかの石に対し・人
間なるもの一般がペテロあるいはパウロに対する関係と同様である。なお、何ゆえに人間が自分
を自由であると思うかの理由は第一部の付録の中で説明した。
だが先へ進む前に、ここで注意しなければならないのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定
し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し・偽なるものを
否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいほ忌避させる欲望とは解しないのであ
る。しかし我々が、これらの能力は一般的概念であってそれは個々のものから形成され実は個々
のものと区別されないものであるということを証明したので、今度は、その個々の意志作用が事
物の観念そのもの以外のある物であるかどうかを探求しなければならぬ。つまり精神の中には観
念が観念である限りにおいて含む肯定ないし否定以外になお他の肯定ないし否定が存するかどう 154
かを探求しなければならぬ。観念が観念である限りにおいて肯定ないし否定を含むことについて
は次の定理ならびにこの部の定義三を参照して欲しい、そして思惟を絵画に堕さしめないように
してもらいたい。なぜなら私は、観念を、眼底に形成される〜〜脳の中央に形成される、と言い
たければ言ってもよい〜〜表象像とは解せずに、思惟の概念(あるいは単に思惟の中に存する限
りにおける事物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム))と解するからである。
定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すな
わちいかなる肯定ないし否定も存しない。
証明 精神の中には(前定理により)意志したり意志しなかったりする絶対的能力がなく、単に
個々の意志作用、すなわちこのあるいはかの肯定、ないしこのあるいはかの否定、があるのみで
ある。そこで今ここにある一個の意志作用を、〜〜例えば三角形の三つの角の和が二直角に等し
いことを精神に肯定させる思惟様態を、考えよう。この肯定は三角形の概念あるいは観念を含ん
でいる。言いかえればそれは三角形の観念なしには考えられることができない。なぜならAはB
の概念を含まなければならぬというのとAはBなしに考えられることができないというのとは同
じことだからである。次にこの肯定は(この部の公理三により)三角形の観念なしには在ることも
できない。ゆえにこの肯定は三角形の観念なしには在ることも考えられることもできないのであ
る。さらにまた三角形のこの観念ほこの同じ肯定を、すなわちその三つの角の和は二直角に等し
いということを、含まなければならぬ。ゆえにまた逆に三角形のこの観念は、この肯定なしには
在ることも考えられることもできないのである。したがって(この部の定義二により)この肯定は
三角形の観念の本質に属し、結局三角形の観念そのものにほかならない。そして我々がこの意志
作用について述べたことは(我々はそれを任意に選び採ったのであるから)すべての意志作用につ
いても言われうる。すなわちすべてめ意志作用は観念そのものにほかならない。Q・E・D・
系 意志と知性とは同一である。
証明 意志は個々の意志作用そのものにほかならぬし、知性は個々の観念そのものにほかなら
ぬ(この部の定理四八およぴその備考により)。ところが個々の意志作用と個々の観念とは(前定
理により)同一である。ゆえに意志と知性とは同一である。Q・E・D・
備考 これでもって我々は通常誤謬の原因とされているものを取り除いた。ところでさきに我
我の示したところによれば、虚偽〔誤謬〕とは単に毀損(きそん)し混乱した観念の含む欠乏にのみ存するの
である。ゆえに偽なる観念は偽である限りにおいて確実性を含まない。だからある人間が偽なる
観念に安んじて少しもそれについて疑わぬと我々が言う場合、それは彼がそれについて確実であ
るというのではなくて、単にそれについて疑わぬというだけのことである。あるいは彼の表象を
動揺させる原因(言いかえれば彼にそれを疑わせる原因)が少しも存在しないから彼はその偽なる
観念に安んじているというだけのことである。これについてはこの部の定理四四の備考を見よ。
したがってある人間が偽なる観念にどこまでも固執する(そして誰も彼にそれを疑わせることが
できない)と仮定しても、我々は彼がそれについて確実であるとは決して言わぬであろう。なぜ
なら我々は確実性をある積極的なものと解し(この部の定理四三およぴその備考を見よ)、疑惑の 156
欠乏とは解しないからである。これに反して我々は確実性の欠乏を虚偽と解する。
しかし前定理をいっそう詳しく説明するために二、三の注意すべきことが残っている。なおま
た、我々のこの説に対してなされうるもろもろの反対論に答えることが残っている。最後に、す
べての疑惑を除去するため、この説の二、三の効用を指摘することを徒労ではないと私は考えた。
二、三の、と私は言う。なぜなら、主要な効用は、第五部で述べることからいっそうよく理解さ
れるであろうからである。
そこで第ーの点から始めるとして、私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表象する
事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する
言葉とを、区別することが必要である。なぜなら、この三者すなわち表象像、言葉、観念を多く
の人々がまったく混同しているか、そうでなければ十分正確に区別していないか、あるいはまた
十分慎重に区別していないかのために、意志に関するこの説は、思索のためにも、(学問のため
にも、)賢明な生活法樹立のためにも、ぜひ知らなくてはならぬことであるにもかかわらず、まる
で彼らに知られていなかったのである。実に彼らは、観念を、物体との接触によって我々の中に
形成される表象像であると思っているがゆえに、(我々の脳髄に何の痕跡も印しえない事物、す
なわち)我々がそれについて何ら類似の表象像を形成しえない事物、の観念は、実は観念でなく、
我々が自由意志によって勝手に造り出す想像物にすぎないと信じ込んでいる。だから彼らほ観念
をあたかも画板の上の無言の絵のごとくに見ているのである。そしてこの偏見に捉われて彼らは、
観念は観念である限りにおいて肯定ないし否定を含んでいるということに気づかないのである。
次に言葉を、観念あるいは観念が含む肯定と混同する人々は、自分が感覚するのと反対のことを
単なる言葉だけで肯定ないし否定するたびに自分は自分の感覚するのと反対のことを意志するこ
とができると信ずるのである。
しかし延長の概念を全然含まない思惟の本性に注意する人は、これらの偏見から容易に脱する
ことができるであろう。そして彼はこのようにして、観念が(観念は思惟の様態であるがゆえに)
物の表象像や言葉に存しないことを明瞭に理解するであろう。なぜなら、言葉および表象像の本
質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだからである。
これらのことについては以上二、三の注意で十分であろう。だから私は前に予告したもろもろ
の反対論に移る。
反対論の第一は、人々が、意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっている
ことを確定事項と思っていることにある。ところで彼らが意志を知性よりも広きにわたると思っ
ている理由は次のごときものである。彼らはこう主張する。経験によれば、我々が今知覚してい
ない無限に多くの事物に同意するためには我々が現に有するよりもより大なる同意能力あるいは
より大なる肯定ないし否定の能力を要しないがより大なる認識能力を要する。ゆえに知性は有限
であり意志は無限であってその点において意志と知性とは区別される、と。
第二に我々に対して次のような反対がなされうる。我々が我々の判断を控えて・我々の知覚す
る事物に同意しないようにすることができることは、経験の最も明瞭に教えるところであるよう
に見える、このことは、何びとも物を知覚する限りにおいては誤ると言われないで、ただ彼がそ 158
れに同意しあるいは反対する限りにおいてのみ誤ると言われることからも確かめられる、例えば、
巽ある馬を想像する人ほだからといってまだ巽ある馬が存在することを容認するわけではない、
青いかえれば彼はだからといってまだ誤っているわけではない、ただ彼が同時に、巽ある馬が存
在することを容認する璧毘ほじめて誤るのである、ゆえに意志すなわち同意能力が自由であっ
て認識能力と異なるということは経験の最も明瞭に教えるところであるように見える、と。
第三に次のような反対がなされうる。一の肯定が他の肯定よりもよりぞの実在性を含むとは
思われない、言いかえれば我々は異なるものを真として肯定するにも偽なるものを真として肯定
するより以上の能力を要するとは思われない、ところが(観念にあってはこれと事情が異なる、
なぜなら〉我々は一の観念が他の観念よりもより多くの実在性ないし完全性を有することを認識
する、すなわち一の対象が他の対象よりすやれていればいるほどその対象の観念もまた他の対象
の観念よりそれだけ多く完全である、このことからもまた意志と知性との相違が明らかになるよ
うに見える、と。
第四に次のような反対がなされうる。もし人間が自由意志によって行動するのでないとしたら、
彼がプリダンの驢馬のように平衡状態にある場合にはどんなことになるであろうか、彼は餓えと
渇きのために死ぬであろうか、もしこのことを容認するなら、私は驢馬、もしくは人間の彫像を
考えて現実の人間を考えていないように見えるであろう、これに反してもしこのことを否定する
なら彼ほ自分自身を決定するであろう、したがって彼は自分の欲する所へ行き自分の欲すること
をなす能力を有することになる、と。
このほかおそらくなお他の反対がなされうるであろう。しかし私は各人の夢想しうるすべての
場合を持ち出す義務がないから、ただ以上挙げた反対論にのみ答えることにしよう。しかもでき
るだけ簡単に。
第一の反対論に対して私はこう答える。もし彼らが知性を明瞭判然たる観念とのみ解するなら
意志が知性より広きにわたることは私も容認する。しかし私ほ意志が知覚一般あるいは思惟能力
一般より広きにわたることはこれを否定する。また何ゆえに意志する能力が感覚する能力に比し
て無限であると言われるべきかは私のまったく了解しえぬところである。なぜなら、我々が無限
に多くのものを(と言っても一つずつ順次にである。無限に多くのものを同時に肯定することは
できないから)同一の意志能力で肯定しうるように、我々はまた無限に多くの物体を(もちろん一
つずつ順次に〈、そして同時にではなく、それは不可能だから〉)同一の感覚能力で感覚ないし知
覚しうるからである。もし彼らが「我々の知覚しえない無限に多くのものが存在する」と主張す
るなら、私はそうしたものはいかなる思惟をもってしても、したがってまたいかなる意志能力を
もってしても把握しえないと答えるであろう。しかし彼らは言う、「もし神が我々にそれらのも
のをも知覚させようと欲したとしたら、神は我々に、現に与えたよりもより大なる知覚能力を与
えなければならなかったであろうが、より大なる意志能力は与える必要がなかったであろう」と。
これはあたかも「もし神が我々に無限に多くの他のものを認識させようと欲したとしたら、その
無限に多くのものを把握するには、神が現に与えたよりもより大なる知性を我々に与えることが
必要であったろうが、実在に関するより一般的な〔より広汎な〕観念を与える必要はなかったであ 160
ろう」と言うに等しい。なぜなら、我々の示したように、意志とはある一般的な有、あるいはす
べての個々の意志作用(言いかえればすべての個々の意志作用に共通のもの)を説明するためのあ
る観念、であるからである。だからもし彼らがすべての意志作用に共通的ないし一般的なこの観
念を〈我々の精神の〉能力であると信じているのなら、この能力が知性の限界を越えて無限にわた
ることを彼らが主張するとしても、何の不思議もないのである。なぜなら、一般的なものは、一
の個体にも、多数の個体にも、また無限に多くの個体にも、等しくあてはまるのであるから。
第二の反対論に対して私は、判断を控える自由な力が我々にあることを否定することをもって
答えとする。なぜなら、「ある人が判断を控える」と我々が言う時、それは「彼が物を妥当に知
覚しないことに自ら気づいている」と言うのにほかならないからである。ゆえに判断の差控えは
実は知覚であって自由意志ではない。このことを明瞭に理解するため、我々は、ここに翼ある馬
を表象してそのほか何ものも知覚しない一人の小児を考えよう。この表象は馬の存在を含んでい
るし(この部の定理一七の系により)、また小児は馬の存在を排除する何ものも知覚しないのであ
るから、彼は必然的にその馬を現在するものとして観想するであろう。そして彼はその馬の存在
について確実でないにしてもその存在について疑うことができないであろう。こうしたことを我
我は日常夢の中で経験する。しかし夢見ている間自分の夢見ているものについて判断を控えたり
自分が夢みているものを夢見ていないようにしたりする自由な力が自分にあると思う人はないで
あろうと私は信ずる。もっとも夢の中でも我々が判断を控えることは起こる。それはすなわち我
我が夢見ていることを夢見る場合である。なおまた私は、何びとも知覚する限りにおいては誤っ
ていないということを容認する、言いかえれば精神の表象はそれ自体で見れば何の誤謬も含まな
いということを容認する(この部の定理一七の備考を見よ)。しかし私は、人間が知覚する限りに
おいて何ものも肯定していないということはこれを否定する。なぜなら、翼ある馬を知覚すると
は馬について翼を肯定するというのと何の異なるところがあろうか。すなわちもし精神が翼ある
馬のほか何ものも知覚しないとしたら精神はその馬を現在するものとして観想するであろう。そ
してその馬の存在を疑う何の原因も、またそれについて不同意を表明する何の能力も有しないで
あろう。ただし翼ある馬の表象がその馬の存在を排除する観念と結合しているか、あるいは精神
が自らの有する翼ある馬の観念ほ妥当でないことを知覚する場合ほこの限りでない。その場合に
ほ精神はその馬の存在を必然的に否定するか、そうでなければその馬について必然的に疑うであ
ろう。
これでもって私は第三の反対論にも答えたと信ずる。すなわち意志とはすべての観念に適用さ
れるある一般的なもの、単にすべての観念における共通物 〜 肯定 〜 のみを表示するある一般
的なもの、である。ゆえに、意志がこのように抽象的に考えられる限りにおいては、意志の妥当
な本質は、すべての観念の中になければならず、かつこの点においてのみ意志の本質はすべての
観念において同一である。(それはちょうど人間の定義がまったく同様に各個の人間に適用され
なければならぬのと同じである。このようにして我々は意志が常にすべての観念において同一で
あることを認めうるのである。)しかし意志が観念の本質を構成すると見られる限りにおいては
そうでない。なぜならその限りにおいては個々の肯定は観念自身と同様相互に異なっているから 162
である。例えば円の観念が含む肯定と三角形の観念が含む肯定とはあたかも円の観念と三角形の
観念とが異なるのと同様に異なっているのである。さらにまた我々が真なるものを真として肯定
するのに偽なるものを真として肯定するのと同等の思惟能力を要するということを私ほ絶対に否
定する。なぜならこの二つの肯定は(その言葉をでなく)その精神を(のみ)見るならば、相互に、
有が非有に対するのと同様の関係にあるからである。というのは観念の中には虚偽の形相を構成
する積極的なものは何も存しないのだから(この部の定理三五とその備考およびこの部の定理四
七の備考を見よ)。
ゆえに、一般的なものと個々のものとを混同したり理性の有ないし抽象的有と実在的有とを混
同したりする時に我々はいかに誤謬に陥りやすいかをここで特に注意しておかなければならぬ。
最後に第四の反対論に関しては、そのような平衡状態に置かれた人間(すなわち餓えと渇き、
ならびに自分から等距離にあるそうした食物と飲料のほか何ものも知覚しない人間)が餓えと渇
きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する。もし反対者たちが、そうした人間は人間よ
りもむしろ驢馬と見るべきではないかと私に問うなら、自ら溢死する人間を何と見るべきか、ま
た小児、愚者、狂人などを何と見るべきかを知らぬようにそれを知らぬと私は答える。
終りに、この説の知識が実生活のためにいかに有用であるかを指摘することが残っている。こ
のことは次のことどもから容易に看取しうるであろう、すなわち〜〜
一 この説は、我々が神の命令のみによって行動し・神の本性を分有する者であること、そし
て我々の行動がより完全でありかつ我々がより多く神を認識するにつれていっそうそうなのであ
ることを教えてくれる。ゆえにこの説は、心情をまったく安らかにしてくれることのほか、さら
に、我々の最高の幸福ないし至福がどこに存するかを我々に教えてくれるという効果をもつ。す
なわち我々の最高の幸福ないし至福は神に対する認識にのみ存するのであり、我々はこの認識に
よって、愛と道義心の命ずることのみをなすように導かれる。これからして〜〜徳そのもの、神
への奉仕そのものがとりもなおさず幸福であり・最高の自由であることを知らずに、徳と善行を
最も困難な奉仕とし、これに対して神から最高の報酬をもって表彰されようと期待する人々は、
徳の真の評価からどんなに遠ざかっているかを、我々は明瞭に理解するのである。
二 この説は、運命に関する事柄あるいは我々の力の中にない事柄に対して、言いかえれば、
我々の本性から生じない事柄に対して、どんな態度を我々がとらなければならぬかを教えてくれ
る。すなわち我々は運命の両面を平然と待ちもうけ、かつこれに耐えなければならぬのである。
三角形の本質からその三つの角の和が二直角に等しいことが生ずるのと同一の必然性をもって、
一切のことは神の永遠なる決定から生ずるからである。
三 この説は共同生活のために寄与する。なぜならこの説は、何びとをも憎まず、蔑(さげす)まず、嘲
らず、何びとをも怒らず、嫉(ねた)まぬことを教えてくれるし、その上また、各人が自分の有するもの
で満足すべきこと、そして隣人に対しては女性的同情、偏頗心ないし迷信からでなく、理性の導
きのみによって、すなわち私が第四部で示すだろうように時と事情が要求するところに従って、
援助すべきことを教えてくれるからである。
四 最後にこの説は国家社会のためにも少なからず貢献する。なぜならこの説は、人民をいか (国家) 164
なる仕方で統治し指導すべきかを、すなわち人民を奴隷的に服従させるようにでなく自由な動機
から最善を行なわせるように統治し指導すべきことを教えてくれるからである。
以上をもって私はこの備考で取り扱おうと企てたことを果した。これで私はこの第二部を終え
ることにする。私の信ずるところによれば、私は、この第二部で、人間精神の本性とその諸特質
とを十分詳細にかつ事情の困難が許す限り明瞭に説明し、そしてもろもろの事柄を、〜〜それか
ら多くのすやれたこと・きわめて有用なこと・ぜひ知らなければならぬことが導き出されうる
(そのことは一部分は次の部から明らかになるであろう)ようなもろもろの事柄を、述べたのであ
った。
第二部 終り
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