☆ 2b様態 /\
/無限\
/ \
悲しみ________/_
2a属性__\________喜び
\ 憎しみ / /\ \ 愛 /
\ 悪/___
1実体\___\善 /
\ /\ 知_/\_至福 /\ /
\/ \/ \ / \/ \/
/\ /\/_\/_\ /\ / \
所産的自然 \/ 神\__徳__自然(能産的) \
/ 延長\個体
5自由/ 認識/思惟 \
物体/_____身体___\/___精神_____\観念
\
4理性 /
\ /
\努力/
\/
欲望
3感情
第 四 部
序言、定義、一、二、三、四、五、六、七、八、公理
定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九、五〇、五一、五二、五三、五四、五五、五六、五七、五八、五九、六〇、六一、六二、六三、六四、六五、六六、六七、六八、六九、七〇、七一、七二、七三
付録、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、第四部TOP、TOP☆
人間の隷属あるいは感情の力について
序 言
感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人
間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、自らより善きものを見ながらより悪
しきものに従うようにしばしば強制されるほど運命の力に左右されるからである。私はこの部で
この原因を究め、さらに感情がいかなる善あるいは悪を有するかを説明することにした。しかし
これを始める前にあらかじめ完全性と不完全性、および善と悪について少しく語ってみたい。
ある物を製作しようと企てそしてそれを完成した人は誰でも、その物が完成された〔完全にな
った〕と言うであろう。これはその作品の製作者自身ばかりでなく、その製作者の精神ないし意
図を正しく知っている者、あるいは知っていると信ずる者はみなそう言うであろう。例えば、あ
る人がある作品(それがまだ仕上げられていないと仮定する)を見て、その作品の製作者の意図が
家を建てることにあると知るならば、その人はその家が完成されていない〔不完全である〕と言う 8
であろうし、これに反して、その作品に製作者の与えようと企てた目的が遂げられたのを見るや
否や、それは完成された〔完全になった〕と言うであろう。しかしある人がいまだかつて他に類例
を見たことのないようなある作品を見、かつその製作者の精神をも知らない場合には、その人は
もちろんその作品が完成されているか完成されていないかを知ることができないであろう。こう
いうのが完全および不完全という言葉の最初の意味であったように思われる。
しかし人間が一般的観念を形成して家、建築物、塔などの型を案出し、事物について他の型よ
りもある型を選択することを始めてからというものは、各人はあらかじめ同種の物について形成
した一般的観念と一致するように見える物を完全と呼び、これに反してあらかじめ把握した型と
あまり一致しないように見えるものを、たとえ製作者の意見によればまったく完成したものであ
っても、不完全と呼ぶようになった。
もろもろの自然物、すなわち人間の手で製作されたのでないものについても、人々が通常完全
とか不完全とか名づけるのはこれと同じ理由からであるように見える。すなわち人間は、自然物
についても、人工物についてと同様に一般的観念を形成し、これをいわばそれらの物の型と見な
し、しかも彼らの信ずるところでは、これを自然(自然は何ごとも目的なしにはしないと彼らは
思っている)が考慮し、型として自己の前に置くというのである。このようにして彼らはあらか
じめ同種の物について把握した型とあまり一致しないある物が自然の中に生ずるのを見る時に、
自然自身が失敗しあるいはあやまちを犯して、その物を不完全にしておいたと信ずるのである。
これで見ると、人間が自然物を完全だとか不完全だとか呼び慣れているのは、物の真の認識に
基づくよりも偏見に基づいていることが分かる。実際、我々は自然が目的のために働くものでな
いことを第一部の付録で明らかにした。つまり我々が神あるいは自然と呼ぶあの永遠・無限の実
有は、それが存在するのと同じ必然性をもって働きをなすのである。事実、神がその存在するの
と同じ本性の必然性によって働きをなすことは我々のすでに示したところである(第一部定理一
六)。したがって神あるいは自然が何ゆえに働きをなすかの理由ないし原因と、神あるいは自然
が何ゆえに存在するかの理由ないし原因とは同一である。ゆえに神は、何ら目的のために存在す
るのではないように、また何ら目的のために働くものでもない。すなわち、その存在と同様に、
その活動もまた何の原理ないし目的も有しないのである。
ところで目的原因と呼ばれている原因は、人間の衝動が何らかの物の原理ないし第一原因と見
られる限りにおいて人間の衝動そのものにほかならない。例えば「居住する」ということがこれ
これの家屋の目的原因であったと我々が言うなら、たしかにそれは、人間が屋内生活の快適さを
表象した結果、家屋を建築しようとする衝動を有した、という意味にほかならない。ゆえにここ
に目的原因として見られている「居住する」ということは、この特定の衝動にほかならないので
あり、そしてこの衝動は実際に起成原因なのである。この原因が同時にまた第一原因と見られる
のは、人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしば
しば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ず
るように決定する諸原因は知らないからである。
なおまた自然が時に失敗しあるいはあやまちを犯して不完全な物を産出するという世人の主張 10
を、私は、第一部の付録において論じたもろもろの虚構的な考えの一つに数える。
このようにして、完全および不完全とは実は単に思惟の様態にすぎない。すなわち我々が同じ
種あるいは同じ類に属する個体を相互に比較することによって作り出すのを常とする概念にすぎ
ない。私が先に(第二部定義六)実在性と完全性とを同一のものと解すると言ったのもこのためで
ある。すなわち我々は自然における一切の個体を最も普遍的と呼ばれる一つの類に、言いかえれ
ば自然におけるありとあらゆる個物に帰せられる有という概念に、還元するのを常とする、こう
して自然における個体をこの類に還元して相互に比較し、そしてある物が他の物よりも多くの有
性あるいは実在性を有することを認める限り、その限りにおいて我々はある物を他の物よりも完
全であると言い、またそれらの物に限界、終局、無能力などのような否定を含むあるものを帰す
る限りその限りにおいて我々はそれらの物を不完全と呼ぶのである。これを不完全と呼ぶのは、
それらの物は我々が完全と呼ぶ物と同じようには我々の精神を動かさないからであって、それら
の物自身に本来属すべき何かが欠けているとか、自然があやまちを犯したとかいうためではない。
なぜなら、物の本性には、その起成原因の本性の必然性から生ずるもの以外のいかなるものも属
さないし、また起成原因の本性の必然性から生ずるものはすべて必然的に生ずるからである。
善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何
の積極的なものも表示せず、思惟の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形
成する概念、にほかならない。なぜなら、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも
属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には慈し
く、聾者には善くも悪しくもない。事情はかくのごとくであるけれどもしかし、我々はこれらの
言葉を保存しなくてはならぬ。なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型として、人間の観念
を形成することを欲しているので、これらの言葉を前に述べたような意味において保存するのは
我々にとって有益であるからである。
そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段に
なることを我々が確知するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に
一致するようになるのに妨げとなることを我々が確知するものであると解するであろう。さらに
我々は、人間がこの型により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、その人間をより完全
あるいはより不完全と呼ぶであろう。というのは、私が「ある人がより小なる完全性からより大 (完全性)
なる完全性へ移る、あるいは反対により大なる完全性からより小なる完全性へ移る」と言う場合、
それは「彼が一つの本質ないし形相から他の本質ないし形相に変化する」という意味で言ってい
るのではなく(なぜなら例えば馬が人間に変化するならそれは昆虫に変化した場合と同様に馬で
なくなってしまうから)、単に「彼の活動能力 〜 彼の本性を活動能力と解する限りにおいて 〜
が増大しあるいは減少すると考えられる」という意味で言っているのであって、この点は特に注
意しなければならぬ。
最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。
言いかえれば、おのおのの物がある仕方で存在し作用する限りにおいて、その物の本質のことと
解するであろう。そしてこの際その物の持続ということは考慮に入れない。なぜなら、いかなる 12
個物も、それがより長い時間のあいだ存在に固執したゆえをもってより完全だとは言われえない
からである。事物の本質には何ら一定の存在時間が含まれていない以上、事物の持続はその本質
からは決定されえないのだから。むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく
完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるで
あろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。
定 義
一 善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。
二 これに反して、悪とは、我々がある善を所有するのに妨げとなることを我々が確知するも
の、と解する。
この二つについては前の序言の終りを見よ。
三 我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存
在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。
四 その個物が産出されなければならぬ原因に我々が注意する場合に、その原因がそれを産出
するように決定されているか否かを我々が知らぬ限り、私はその同じ個物を可能性と呼ぶ。
第一部定理三三の備考一においては可能的と偶然的との間に何の差異も設けなかった。これは
そこではこの二つを精密に区別する必要がなかったからである。
五 相反する感情ということを、私は以下において、人間を異なった方向へ引きずる感情のこ
とと解するであろう。これは共に愛の種類である美味欲と食欲のごとくたとえ同じ類に属するも
のであってもかまわない。この場合は本性上相反するのではなく偶然によって相反するのである。
六 未来・現在・および過去の物に対する感情ということを私がどう解するかは第三部定理一
八の備考一および二において説明した。そこを見よ。
しかしここになお注意しなければならぬことがある。それは我々は、時間的距離を、空間的距
離の場合と同様、ある一定の限界までしか判然と表象しえないことである。すなわち、我々から
二百フィート以上も離れているすべての対象、あるいはその距離が我々の判然と表象する距離以
上に我々の居る場所から隔たっているすべての対象を、我々は我々から等しい距離で隔たりかつ
同一の平面にあるかのように表象するのを常とするが、これと同様に、その出現の時間が我々の
通常判然と表象する間隔よりもいっそう長い間隔で現在から隔たっていると表象されるすべての
対象を、我々は現在から等しい時間的距離で隔たっているように表象し、これをいわば一時点に
帰するのである。
七 我々をしてあることをなさしめる目的なるものを私は衝動と解する。
八 徳と能力とを同一のものと私は解する。言いかえれば(第三部定理七により)、人間につい
て言われる徳とは、人間が自己の本性の法則のみによって理解されるようなあることをなす能力
を有する限りにおいて、人間の本質ないし本性そのもののことである。 14
公 理
自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もな
い。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在す
る。
定理一 誤った観念が有するいかなる積極的なものも、異なるものが真であるというだけでは、
真なるものの現在によって除去されはしない。
証明 誤謬〔虚偽〕は単に非妥当な観念が含む認識の欠乏のみに存する(第二部定理三五により)、
そしてそれらの観念はそれを誤りといわしめるような積極的なものは何も有しない(第二部定理
三三により)。むしろ反対にそれらの観念は神に関する限り真である(第二部定理三二により)。
だからもし誤った観念が有する積極的なものが、真なるものが真であるというだけで異なるもの
の現在によって除去されるとしたら、真なる観念が自分白身によって除去されることになろう。
これは(第三部定理四により)不条理である。ゆえに誤った観念が有するいかなる積極的なものも
云々。Q・E・D・
備考 この定理は第二部定理一六の系二からいっそう明瞭に理解される。すなわち表象は、外
部の物体の本性よりもより多く人間身体の現在的状態を 〜 しかも判然とではなく、混乱して
〜 表示する観念である。精神が誤ると言われるのはこれから起こる。例えば我々が太陽を観る
場合、それが我々から約二百フィート隔たっていると表象する。我々は太陽の真の距離を知らな
い間はこのことについて誤っている。しかし我々がその距離を知ったとすれば、誤謬は除去され
るが、表象は、言いかえれば太陽の観念 〜 身体が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の
本性を表示するような 〜 は除去されない。したがって我々は、たとえ太陽の真の距離を知って
も、太陽が依然として我々の近くにあるように表象するであろう。なぜなら、第二部定理三五の
備考で述べたように、我々が太陽をこれほど近いように表象するのは、太陽の真の距離を知らな
いからではなく、精神は身体が太陽から刺激される限りにおいて太陽の大きさを考えるからであ
る。同様に、太陽の光線が水面に落ちてそこから我々の目に反射して来る場合、我々は太陽の真
の場所を知っていながらも、それがあたかも水中にあるかのように表象する。精神を誤らしめる
その他の表象についても同じことが言われるのであって、それらの表象は、身体の自然的状態を
表示していようと身体の活動能力の増大ないし減少を表示していようと、真なるものに矛盾せず
また異なるものの現在によって消失しない。なるほど、我々が誤ってある害悪を恐れる場合に、
真の報告を聞いて恐怖が消失するということはありうる。しかし反対に、我々が確実に生起する
尊意を恐れる場合、誤った報告を聞いて恐怖が同様に消失する、ということも等しく起こりうる。
したがって表象は、異なるものが真であるというだけで異なるものの現在によって消失するので
はなく、むしろ、第二部定理一七で示したように、我々の表象する事物の現在する存在を排除す
るより強力な他の表象が現われることによって消失するのである。 16
定理二 我々は、他の物なしに自分自身だけで考えられることができないような自然の一部分
である限りにおいて働きを受ける。
証明 我々がその部分的原因にすぎないようなあることが我々の中に生ずる場合(第三部定義
二により)、言いかえれば(第三部定義一により)我々の本性の法則のみからは導き出されえない
ようなあることが我々の中に生ずる場合、我々は働きを受けると言われる。ゆえに我々は、他の
物なしに自分自身だけで考えられることができないような自然の一部である限りにおいて働きを
受ける。Q・E・D・
定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌駕され
る。
証明 この部の公理から明らかである。なぜなら、ある人間が存在するや否やそれよりもっと
有力な他のあるもの、例えばAが存在し、また A が存在するや否や A 自身よりもっと有力な他の
もの、例えば Bが存在する。このようにして無限に進む。したがって、人間の能力は他の物の能
力によって規定され、外部の原因の力によって無限に凌駕される。Q・E・D・
定理四 人間が自然の一部分でないということは、不可能であり、また人間が単に自己の本性
のみによって理解されうるような変化、自分がその妥当な原因であるような変化だけしか受けな
いということも不可能である。
証明 個物が、したがってまた人間が、自己の有を維持する能力は神あるいは自然の能力その
ものであるが(第一部定理二四の系により)、しかしそれは無限なる限りにおける神あるいは自然
の能力そのものではなく、人間の現実的本質によって説明されうる限りにおける神あるいは自然
の能力そのものである(第三部定理七により)。ゆえに人間の能力はそれが彼の現実的本質によっ
て説明される限り、神あるいは自然の無限なる能力の、言いかえれば(第一部定理三四により)神
あるいは自然の無限なる本質の、一部分である。これが第一の点であった。
次にもし人間が単に彼自身の本性のみによって理解されうるような変化だけしか受けないとい
うことが可能であるとしたら、人間は(第三部定理四および六により)滅びえずして必然的に常に
存在することになるであろう。そしてこのことは有限な能力を有する原因からかあるいは無限な
能力を有する原因から起こらなければならぬであろう。すなわち単なる人間の能力によるか 〜
この場合は人間は外部の原因から生じうる他の諸変化を退ける力を有することになろう 〜 ある
いは自然の無限なる能力によるか 〜 この場合は人間が自己の保存に有効な変化だけしか受けな
いようなふうに自然が一切の個物を導くことになろう 〜 そのどちらかでなければならぬであろ
う。ところが始めのことは不条理である(前定理による。その定理の証明は普遍的であってすべ
ての個物に適用されうるから)。ゆえに人間が単に彼自身の本性のみによって理解されうるよう
な変化だけしか受けず・したがってまた(すでに示したように)必然的に常に存在するということ
が可能だとしたら、それは神の無限なる能力から起こらなければならぬであろう。したがって
(第一部定理一六により)ある人間に発現したと見られる限りにおける神の本性の必然性からして、 18
延長および思惟の属性のもとに考えられた全自然の秩序が導き出されなければならぬであろう。
この帰結として(第一部定理二ーにより)人間は無限であることになろう。しかしこれは(この証
明の始めの部分により)不条理である。ゆえに自らがその妥当な原因であるような変化だけしか
人間が受けないということは不可能なのである。Q・E・D・
系 この帰結として、人間は必然的に常に受動に隷属し、また自然の共通の秩序に従い、これ
に服従し、かつこれに対して自然が要求するだけ順応する、ということになる。
定理五 おのおのの受動の力および発展、ならびにそれの存在への固執は、我々が存在に固執
しようと努める能力によっては規定されずに、我々の能力と比較された外部の原因のカによって
規定される。
証明 受動の本質は単に我々の本質のみによって説明されることができぬ(第三部定義一およ
び二により)。言いかえれば(第三部定理七により)受動の力は我々が存在に固執しようと努める
能力によっては規定されず、むしろ(第二部定理一六において示したように)必然的に、我々の能
力と比較された外部の原因の力によって規定されなければならぬ。Q・E・D・
定理六 ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、か
くてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。
証明 おのおのの受動の力および発展ならびにそれの存在への固執は我々の能力と比較された
外部の原因の力によって規定される(前定理により)。したがって(この部の定理三により)その力
は人間の能力を凌駕することができ、云々。Q・E・D・
定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも
除去されることもできない。
証明 感情とは、精神に関する限り、ある観念 〜 精神がそれによって自己の身体につき以前
より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である(第三部の終りにある感情
の総括的定義により)。したがって、精神がある感情に捉われる場合、それとともに身体は自己の
活動能力を増大しあるいは減少するある変状に移る。なおまた身体のこの変状は(この部の定理
五により)自己の有に固執する力をその原因から受ける。ゆえにこの変状は、それと反対の(第三
部定理五により)かつそれよりも強力な(この部の公理により)変状を身体に起こさせるある物体
的原因(第二部定理六により)によるのでなくては抑制されることも除去されることもできない。
そしてこれにつれて(第二部定理一二により)精神は前のよりも強力なかつ前のと反対のある変状
の観念に刺激されるであろう。言いかえれば(感情の総括的定義により)精神は前のよりも強力な
かつ前のと反対のある感情に、すなわち前の感情の存在を排除ないし除去する凍る感情に刺激さ
れるであろう。これで見ると感情はそれと反対のかつそれよりも強力なある感情によってでなく
ては除去されることも抑制されることもできない。Q・E・D・
系 感情は、精神に関する限り、我々に起こっている身体的変状と反対のかつそれよりも強力 20
なある変状の観念によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。なぜなら、
我々を支配している感情は、それよりも強力でかつそれと反対のある感情によってでなくては抑
制されることも除去されることもできないのであるが(前定理により)、それはつまり(感情の総
括的定義により)我々に起こっている身体的変状よりも強力でかつそれと反対のある変状の観念
によってでなくては抑制されることも除去されることもできないというのと同じことだからであ
る。
定理八 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほ
かならない。
証明 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるものを(この部の定義一および二によ
り)、言いかえれば(第三部定理七により)我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しある
いは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。我々はこうしてある物が我々を喜びあるいは悲
しみに刺激することを知る限りにおいてそのものを善あるいは悪と呼ぶのである(喜びおよび悲
しみの定義による。第三部定理一一の備考におけるその定義を見よ)。したがって善および悪の
認識は、喜びあるいは悲しみの感情そのものから必然的に生ずる喜びあるいは悲しみの観念にほ
かならない(第二部定理二二により)。ところでこの観念は、精神が身体と合一しているのと同じ
仕方で感情と合一している(第二部定理二一により)。言いかえれば(同定理の備考で示したよう
に)この観念は感情自身と、すなわち(感情の総括的定義により)身体的変状の観念と、実は単な
る概念によって区別されるのみである。ゆえに善および悪の認識は、我々に意識された限りにお
ける感情そのものにほかならない。Q・E・D・
定理九 感情は、その原因が現在我々の前にあると表象される場合には、それが我々の前にな
いと表象される場合よりも強力である。
証明 表象とはある観念 〜 精神がそれによって物を現在するとして観想するある観念である
(第二部定理一七の備考におけるその定義を見よ)。この観念はしかし外部の物の本性よりもより
多く人間身体の状態を表示する(第二部定理一六の系二により)。ゆえに感情は(感情の総括的定
義により)身体の状態を表示する限りにおける表象である。ところが表象は(第二部定理一七によ
り)外部の物の現在的存在を排除する何ものも我々が表象しない間はより清澄である。ゆえに感
情もまた、その原因が現在我々の前にあると表象される場合には、それが我々の前にないと表象
される場合に比べより清澄である。あるいはより強力である、。Q・E・D・
備考 私がさきに、第三部定理一八において、我々は未来あるいは過去の物の表象像によって、
あたかも、我々の表象する物が現在している場合と同じ感情に刺激されると言った時に、単にそ
の物の表象像を眼中に置く限りにおいてそのことが真であることを私は特に注意した。表象像は
我々がその物を現在するとして表象しようとしまいと、同一本性を有するからである。しかし未
来の物の現実的存在を排除する他の物が現在するとして観想される場合には、その表象像がより
弱くなることを私は否定したわけではなかった。そのことを私があの時注意することをしなかっ 22
たのは、感情の力についてはこの部に入ってから論ずることに決めていたからである。
系 未来あるいは過去の物の表象像、言いかえれば現在のことは度外視して未来あるいは過去
の時に関連させて観想する物の表象像は、その他の事情が等しければ、現在の物の表象像よりも
弱い。したがって未来あるいは過去の物に対する感情は、その他の事情が等しければ、現在の物
に対する感情よりも弱い。
定理一〇 我々は、速やかに出現するだろうと表象する未来の物に対しては、その出現の時が
現在からより遠く隔たっていると表象する場合よりもより強く刺激される。また我々は、まだ遠
く過ぎ去らないと表象する物の想起によっては、それがすでに遠く過ぎ去ったと表象する場合よ
りもより強く刺激される。
証明 なぜなら、物が速やかに出現するであろう、あるいはまだ遠く過ぎ去っていない、と表
象する限り、我々はまさにそのことによってその物の未来における出現の時間が現在からより遠
く隔たっている、あるいはその物がすでに遠く過ぎ去った、と表象する場合よりも、その物の現
在を排除することのより少ないあるものを表象する(それ自体で明らかなように)。したがって
(前定理により)我々はその限りにおいてその物に対してより強く刺激されるであろう。Q・E・
D・
備考 この部の定義六に対してなした注意からの帰結として、我々は、表象によって決定しえ
ないほど長い時間的間隔で現在から隔たっている対象に対しては、たとえそれらの対象が相互同
士長い時間的間隔で隔たっていることを知る場合でも、同程度の弱い感情に刺激される、という
ことになる。
定理一一 我々が必然的として表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、可能
的あるいは偶然的なもの、すなわち必然的でないものに対する感情よりも強い。
証明 我々はある物を必然的であると表象する限り、その物の存在を肯定し、これに反してあ
る物を必然的でないと表象する限り、その物の存在を否定する(第一部定理三三の備考により)。
それゆえ(この部の定理九により)必然的な物に対する感情は、その他の事情が等しければ、必然
的でない物に対する感情よりも強い。Q・E・D・
定理一二 現在に存在しないことが知られているがなお可能的として表象される物に対する感
情は、その他の事情が等しければ、偶然的なものに対する感情よりも強い。
証明 我々は、ある物を偶然的として表象する限り、その物の存在を定立する他の物の表象像
に刺激されることがない(この部の定義三により)。むしろ反対に(仮定に従い)、その現在的存在
を排除するあるものを表象する。ところが我々は物を未来において可能的であると表象する限り、
その物の存在を定立するあるものを(この部の定義四により)、言いかえれば(第三部定理一八に
ょり)希望あるいは恐怖をあおるあるものを表象する。したがって可能的な物に対する感情の方
がより強いのである。Q・E・D・ 24
系 現在に存在しないことが知られているがなお偶然的として表象される物に対する感情は、
我々がその物を現在我々の前に在ると表象する場合よりもはるかに弱い。
証明 現在に存在すると我々の表象する物に対する感情は、我々がその物を未来的として表象
する場合よりも強いし(この部の定理九の系により)、また我々がその未来の時を現在からはるか
に遠く隔たっていると表象する場合よりはさらにいっそう強い(この部の定理一〇により)。この
ように、その存在する時が現在から遠く隔たっていると我々の表象する物に対する感情は我々が
その物を現在的として表象する場合よりもはるかに弱いのであるが、それにもかかわらずその感
情は(前定理により)我々がその物を偶然的として表象する場合よりも強い。したがって偶然的な
物に対する感情は、我々がその物を現在我々の前に在ると表象する場合よりもはるかに弱いので
ある。Q・E・D・
定理一三 現在に存在しないことが知られている偶然的な物に対する感情は、その他の事情が
等しければ、過去の物に対する感情よりも弱い。
証明 我々はある物を偶然的として表象する限り、その物の存在を定立する他の物の表象像に
刺激されることがない(この部の定義三により)。むしろ反対に(仮定に従い)、その物の現在的存
在を排除するあるものを表象する。ところが我々がその物を過去の時と関連させて表象する限り、
その限りにおいて我々は、その物を想起させるあるもの、すなわちその物の表象像を喚起するあ
るもの(第二部定理二八ならびにその備考を見よ)、を表象するものと想定される。したがってそ
の限りにおいて我々はその物をあたかも現在的であるかのごとく観想するようにさせられる(第
二部定理一七の系により)。ゆえに(この部の定理九により)現在に存在しないことが知られてい
る偶然的な物に対する感情は、その他の事情が等しければ、過去の物に対する感情よりも弱いで
あろう。Q・E・D・
定理一四 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制し
えない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。
証明 感情とはある観念 〜 精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以
前より小なる存在力を肯定するある観念である(感情の総括的定義により)。このゆえに(この部
の定理一により)感情は真なるものの現在によって除去されうるいかなる積極的なものも有しな
い。したがって善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制
しえない。しかしそれが感情である限り(この部の定理八を見よ)、その限りにおいてのみそれは
感情を抑制しうるであろう、もしそれが抑制されるべき感情よりも強力であるならば(この部の
定理七により)。Q・E・D・
定理一五 善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの
他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されることができる。
証明 善および悪の真の認識が感情である限り(この部の定理八により)それから必然的に欲望 26
が生ずる(感情の定義一により)。この欲望はそれを生ずる感情がより大なるに従ってそれだけ大
である(第三部定理三七により)。ところがこの欲望は(仮定により)我々がある事を真に認識する
ことから生ずるのであるから、それは、我々が働きをなす限りにおいて我々の中に起こるもので
ある(第三部定理三により)。ゆえにそれは単に我々の本質のみによって理解されなければならぬ
(第三部定義二により)。したがってまた(第三部定理七により)その力および発展は単に人間の能
力のみによって規定されなければならぬ。次に我々の捉われる諸感情から生ずる欲望も、同様に
それらの感情がより強烈であるに従ってそれだけ大である。ところでその欲望のカおよび発展は
(この部の定理五により)外部の原因のカによって規定されなければならぬ。この外部の原因の力
は、我々の能力と比較すれば、我々の能力を無限に凌駕する(この部の定理三により)。ゆえにこ
ぅした感情から生ずる欲望は、善および悪の真の認識から生ずる欲望よりも強烈であることがで
き、したがって(この部の定理七により)それを抑制しあるいは圧倒しうるであろう。Q・E・
D・
定理一六 善および悪の認識が未来に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在におい
て快を与える物に対する欲望によっていっそう容易に抑制あるいは圧倒されうる。
証明 我々が未来的として表象する物に対する感情は、現在の物に対する感情よりも弱い(こ
の部の定理九の系により)。ところが善および悪の真の認識から生ずる欲望は、たとえその認識
が現在善なる物に関する場合でさえも、何らかの激しい欲望によって圧倒あるいは抑制されうる
(前定理による。その定理の証明は普遍的なものであるから)。ゆえにこうした認識が未来に関す
る限り、その認識から生ずる欲望は、現在において快を与える物に対する欲望によっていっそう
容易に抑制あるいは圧倒されうるであろう。Q・E・D・
定理一七 善および悪の真の認識が偶然的な物に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、
現在の物に対する欲望によってさらにいっそう抑制されうる。
証明 この定理は前定理と同じ仕方でこの部の定理一二の系から証明される。
備考 これでもって私は、なぜ人間が真の理性によってよりもむしろ意見(オビニオ)によって動かされる
か、またなぜ善および悪の真の認識が心情の動揺を惹き起こしかつしばしばあらゆる種類の官能
欲に征服されるかの原因を示したと信ずる。かの詩人の言葉はここから来ている、「我はより善きものを見てこれを可とす、されど我はより悪しきものに従う」。伝道者〔ソロモン〕が「知識を (ソロモン)
増す者は憂患を増す」と言っているのも同じことを念頭に置いたものと思われる。
しかし私がこうしたことを言うのは、それから無知が知にまさるとか、感情の制御において愚
者と智者の間に差別がないとかいうようなことを結論しようと思ってではない。むしろ、理性が
感情の制御において何をなしえ、また何をなしえざるかを決定しうるには、我々の本性の能力と
ともにその無能力をも知ることが必要だからである。それに私はこの部では単に人間の無能力の
みについて論ずることにすると言っておいた。なぜなら、感情に対する理性の能力については、
別に論ずる予定なのであるから。 28
定理一八 喜びから生ずる欲望は、その他の事情が等しければ、悲しみから生ずる欲望よりも
強力である。
証明 欲望は人間の本質そのものである(感情の定義一により)。言いかえればそれは(第三部
定理七により)人間が自己の有に固執しようと努める努力である。ゆえに喜びから生ずる欲望は
喜びの感情自身によって促進されあるいは増大される(喜びの定義による。第三部定理一の備
考におけるその定義を見よ)。しかしこれに反して悲しみから生ずる欲望は悲しみの感情自身に
よって減少されあるいは阻害される(同じ備考により)。したがって喜びから生ずる欲望の力は人
間のカと同時に外部の原因のカによって規定され、これに反して悲しみから生ずる欲望のカは人
間の力のみによって規定されなければならぬ。このゆえに前者は後者よりも強力である。Q・
E・D・
備考 以上少数の命題をもって私は人間の無能力および無常の原因、ならびに人間が理性の命
令に従わないことの原因を説明した。今や残るのは、理性が我々に何を命ずるか、またいかなる
感情が人間理性の規則と一致し、いかなる感情がこれと反対するかを示すことである。しかしこ
れを詳細にわが幾何学的秩序に従って証明し始める前に、私は理性の指図そのものをここにあら
かじめ簡単に示しておきたい。私の考えるところをより容易に人々に理解してもらえるように。
理性は自然に反する何ごとをも要求せぬゆえ、したがって理性は、各人が自己自身を愛するこ
と、自己の利益・自己の真の利益を求めること、また人間をより大なる完全性へ真に導くすべて
のものを欲求すること 〜 一般的に言えば各人が自己の有をできる限り維持するように努める
こと、を要求する。これは実に全体がその部分よりも大であるというのと同様に必然的に真であ
る(第三部定理四を見よ)。
次に徳は(この部の定義八により)自己固有の本性の法則に従って行動することにほかならない
し、また各人は自己固有の本性の法則に従ってのみ自己の有を維持しようと努めるのであるから
(第三部定理七により)、この帰結として
第一に、徳の基礎は自己固有の有を維持しようとする努力そのものであり、また幸福は人間が (幸福)
自己の有を継持しうることに存する、ということになる。
第二に、徳はそれ自身のために求められるべきであって徳よりも価値あるもの、徳よりも我々
に有益なもの、それのために徳が追求されなければならぬようなもの、そうしたものは決して存
在しない、ということになる。
最後に第三に、自殺する人々は無力な精神の持ち主であって自己の本性と矛盾する外部の諸原
因にまったく征服されるものである、ということになる。
さらに第二部要請四から分かるとおり、我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何も
のも必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も
持たないで生活するというようなわけにもいかない。なおまた我々の精神を顧みると、もし精神
が単独で存在し自己自身以外の何ものも認識しないとしたら、我々の知性はたしかにより不完全
なものになっていたであろう。これで見ると、我々の外部には、我々に有益なもの、そのゆえに 30
我々の追求に値するものが沢山存するわけである。そのうちで我々の本性とまったく一致するも
のほど価値あるものは考えられることができない。なぜなら、例えばまったく本性を同じくする
二つの個体が相互に結合するなら、単独の個体よりも二倍の能力を有する一個体が構成されるか
らである。
このゆえに、人間にとっては人間ほど有益なものはない。あえて言うが、人間が自己の有を維
持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精
神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ
自己の有の推持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そ
うしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。
この結論として、理性に支配される人間、言いかえれば理性の導きに従って自己の利益を求め
る人間は、他の人々のためにも欲しないようないかなることも自分のために欲求することがなく、
したがって彼らは公平で誠実で端正な人間であるということになる。
以上は私がもっと詳細な秩序で証明し始める前にここに簡単に示そうとした理性の指図である。
これを私がここに示した理由は、「各人は自己の利益を求めるべきである」というこの原則が徳 (スミス)
および道義の基礎ではなくて不徳義の基礎であると信ずる人々の注意をできるだけ私に引きつけ
たいためである。今私は事態がこれと反対であることを簡単に示したのだから、ひきつづき私は
これをこれまでやってきたのと同じ方法で証明していくことにする。
定理一九 各人はその善あるいは悪と判断するものを自己の本性の法則に従って必然的に欲求
しあるいは忌避する。
証明 善および悪の認識は(この部の定理八により)我々に意識された限りにおける喜びあるい
は悲しみの感情そのものである。したがって(第三部定理二八により)各人はその善と判断するも
のを必然的に欲求し、反対に悪と判断するものを必然的に忌避する。ところがこの衝動〔欲求〕は
人間の本質ないし本性そのものにほかならない(衝動の定義による。それについては第三部定理
九の備考ならびに感情の定義一を見よ)。ゆえに各人はその善あるいは悪と判断するものを自己
の本性の法則のみに従って必然的に云々。Q・E・D・
定理二〇 各人は自己の利益を追求することに、言いかえれば自己の有を維持することに、よ
り多く努めかつより多くそれをなしうるに従ってそれだけ有徳である。また反対に、各人は自己
の利益を、言いかえれば自己の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。
証明 徳とは人間の能力そのものであり、そしてそれは人間の本質にほかならない(この部の
定義八により)、言いかえればそれは人間が自己の有に固執しようと努める努力にのみ存する(第
三部定理七により)。ゆえに各人は自己の有を維持することにより多く努めかつより多くこれを
なしうるに従ってそれだけ有徳であり、したがってまた(第三部定理四および六により)人は自己
の有を維持することを放棄する限りにおいて無力である。Q・E・D・
備考 それゆえに何びとも自己の本性に反する外部の原因に強制されるのでなくては自己の利 32
益の追求を、すなわち自己の有の維持を放棄しはしない。あえて言うが、何びとも自己の本性の
必然性によって食を拒否したり自殺したりするものでなく、そうするのは外部の原因に強制され
てするのである。この自殺は種々の仕方で起こりうる。例えばある人は、偶然剣を握ったその手
を、他人からねじ返されて自分自身の心臓にその剣を向けるように強制されて自殺する。あるい (自殺)
はセネカのように暴君の命令によって自らの血管を切開するように強制されて、すなわち、より
大なる害悪をより小なる害悪によって避けようと欲して自殺する。最後にあるいはまた、隠れた
外部の原因が彼の表象力を狂わせ彼の身体を変化させてその身体が前とは反対な別種の本性を
〜 それについて精神の中に何の観念も存しえないような(第三部定理一〇により)そうした本性
を 〜 帯びるようにさせられることによって自殺する。これに反して人間が自己の本性の必然性
によって自分が存在しないように努めたり、他の形相に変ずるように努めたりすることは、無か
ら有が生ずるのと同様に不可能である。これは誰でも少しく考えれば分かることである。
定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を
欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。
証明 この定理の証明、あるいはむしろこの事実そのものはそれ自体で明白であり、また欲望
の定義からも明らかである。なぜなら、幸福にあるいは善く生活し・行動しなどなどの欲望は
(感情の定義一により)人間の本質そのもの、言いかえれば(第二部定理七により)各人が自己の有
を維持しようと努める努力そのものだからである。ゆえに何びとも生存し行動し云々。Q・E・
D・
定理二二 いかなる徳もこれ(すなわち自己保存の努力)よりさきに考えられることができない。
証明 自己保存の努力は物の本質そのものである(第三部定理七により)。そこでもし何らかの
徳がこれ、すなわちこの努力よりさきに考えられうるとしたら、その結果(この部の定義八によ
り)、物の本質がその本質自身よりもさきに考えられることになるであろう。このことは(それ自
体で明らかなように)不条理である。ゆえにいかなる徳も云々。Q・E・D・
系 自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のい
かなる原理も考えられることができず(前定理により)、またこの原理なしには(この部の定理二
一により)いかなる徳も考えられえないからである。
定理二三 人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは、
有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決
定される限りにおいてのみそう言われる。
証明 人間が非妥当な観念を有することによって行動するように決定される限り、その限り彼
は働きを受ける(第三部定理一により)、言いかえれば、その限り彼は自己の本質のみによって知
覚されえないある事(第三部定義一および二により)、すなわち(この部の定義八により)自己の徳
から起こらないある事をなすのである。これに反して彼が認識〔妥当な認識〕することによって 34
行動するように決定される限りその限り彼は働きをなす(同じく第三部定理二により)、言いかえ
ればその限り彼は(第三部定義二により)自己の本質のみによって知覚されうるある事、すなわち
(この部の定義八により)自己の徳から妥当に起こるある事をなすのである。Q・E・D・
定理二四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自
己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理
に基づいてすること、にほかならない。
証明 真に有徳的に働くとは自己固有の本性の法則に従って働くことにほかならない(この部
の定義八により)。ところが我々は認識〔妥当な認識〕する限りにおいてのみ働きをなす(第三部定
理三により)。ゆえに有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、
自己の有を推持すること、しかもそれを(この部の定理二二の系により)自己の利益を求める原理
に基づいてすること、にほかならない。Q・E・D・
定理二五 何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めはしない。
証明 おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は単にその物自身の本質によって規
定される(第三部定理七により)。この本質が与えられただけでそれから各自が自己の有の維持に
努力するということが必然的に起こるのであり(第三部定理六により)、それは他の物の本質に促
されて起こるのではない。その上、この定理はこの部の定理三一の系からも明らかである。なぜ
なら、もし人間が他の物のために自己の有を維持しようと努めるとしたら、その他の物こそ徳の
第一の基礎となるであろう(それ自体で明白なように)。このことは(今引用した系により)不条理
である。ゆえに何びとも他の物のために云々。Q・E・D・
定理二六 我々が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。そして
精神は、理性を用いる限り、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない。
証明 自己保存の努力は物自身の本質にほかならない(第三部定理七により)。そして物はこの
ようなものとして存在する限り、存在に固執する力(第三部定理六により)、ならびにその与えら
れた本性から必然的に生ずることをなす力を有すると考えられる(第三部定理九の備考における
衝動の定義を見よ)。ところで理性の本質は明瞭判然と認識する限りにおける我々の精神にほか
ならない(第二部定理四〇備考二におけるその定義を見よ)。ゆえに(第二部定理四〇により)我々
が理性に基づいてなすすべての努力は認識することにのみ向けられる。次に精神のこの努力 〜
理性的に思惟する限りにおける精神が自己の有を維持しようと努めるこの努力は、認識すること
にのみ向けられるのであるからには(この定理の始めの部分により)、認識しようとするこの努力
は(この部の定理二二の系により)徳の第一かつ唯一の基礎である。そして我々は何か他の目的の
ために物を認識しようと努めはしないであろう(この部の定理二五により)。むしろ反対に、精神
は理性的に思惟する限り、認識に役立つものしか自己に善であると考えることができないであろ
う(この部の定義一により)。Q・E・D・ 36
定理二七 我々は、真に認識に役立つものあるいは我々の認識を妨害しうるもののみが善ある
いは悪であることを確知する。
証明 精神は理性的に思惟する限り認識以外のことを追求せずまた認識に役立つものしか自己
に有益であると判断しない(前定理により)。ところが精神は妥当な観念を有する限りにおいての
み、言いかえれば(第二部定理四〇の備考によって同じことだが)理性的に思惟する限りにおいて
のみ物について確実でありうる(第二部定理四一および四三による。なお後者の備考も見よ)。ゆ
えに我々は真に認識に役立つもののみが善であることを確知し、また反対に我々の認識を妨害し (確知)
うるもののみが悪であることを確知する。Q・E・D・
定理二八 精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。 (善、認識、徳)
証明 精神が認識しうる最高のものは神、言いかえればそれなしには何ものも在りえずまた考
えられえない(第一部定理一五により)絶対に無限なる実有(第一部定義六により)である。したが
って(この部の定理二六および二七により)精神の最高の利益すなわち(この部の定義一により)最
高の善は神の認識である。次に精神は認識する限りにおいてのみ働きをなし(第三部定理一およ
び三により)、また精神はもともと、その限りにおいてのみ(この部の定理二三により)有徳的に
働くと言われうる。したがって精神の本来の徳は認識することである。ところが精神が認識しう
る最高のものは神である(我々が今示したように)。ゆえに精神の最高の徳は神を理解することあ
るいは認識することである。Q・E・D・
定理二九 その本性が我々の本性とまったく異なる個物は我々の活動能力を促進することも阻
害することもできない。また一般に、いかなる物も、もしそれが我々とある共通点を有しなけれ
ば我々にとって善でも悪でもありえない。
証明 おのおのの個物の能力、したがって(第二部定理一〇の系により)人間が存在し・作用す
る人間の能力もまた、他の個物によってのみ決定されるのであるが(第一部定理二八により)、し
かしその個物の本性は人間の本性が考えられるのと同一の属性によって考えられるものでなけれ
ばならぬ(第二部定理六により)。ゆえに我々の活動能力は、これをどのように解しても、我々と
ある共通点を有する他の個物の力によって決定され、したがってまた促進あるいは阻害されうる
のであって、その本性が我々の本性とまったく異なるような物の力によっては促進あるいは阻害
されることができない。次に我々が善あるいは悪と呼ぶのは喜びあるいは悲しみの原因であるも
の(この部の定理八により)、言いかえれば(第三部定理一一の備考により)我々の活動能力を増大
あるいは減少し、促進あるいは阻害するもののことであるから、したがってその本性が我々の本
性とまったく異なるような物は我々にとって善でも悪でもありえないのである。Q・E・D・
定理三〇 いかなる物も、それが我々の本性と共通に有するものによって悪であることはでき
ない。それが我々にとって悪である限り、その限りにおいてそれは我々と対立的である。 38
証明 我々が悪と呼んでいるのは悲しみの原因であるもの(この部の定理八により)、言いかえ
れば我々の活動能力を減少ないし阻害するもの(悲しみの定義による。第三部定理二の備考に
おけるその定義を見よ)のことである。ゆえにもしある物が、我々と共通に有するものによって
我々にとって悪であるとしたら、その物はまさに我々と共通に有するものを減少ないし阻害しう
ることになろう。これは(第三部定理四により)不条理である。ゆえにいかなる物もそれが我々と
共通に有するものによって我々に悪であることはできない。むしろ逆に、それが悪である限り、
言いかえれば(いま我々が示したように)それが我々の活動能力を減少ないし阻害しうる限り、そ
の限りにおいてそれは(第三部定理五により)我々と対立的である。Q・E・D・
定理三一 物は我々の本性と一致する限り必然的に善である。
証明 何となれば、物は我々の本性と一致する限り悪でありえない(前定理により)。ゆえにそ
れは必然的に善であるか、それとも善悪いずれにも属さない中間物であるかであろう。後者すな
わち善でも悪でもない場合は、その物の本性から(この部の公理三により)我々の本性の維持に役
立つ何ものも、言いかえれば(仮定により)その物自身の本性の維持に役立つ何ものも生じないこ
とになろう。しかしこれは不条理である(第三部定理六により)。ゆえに物は我々の本性と一致す
る限り必然的に善であるであろう。Q・E・D・
系 この帰結として、物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ我々にとって有益
あるいは善であり、また逆に物は我々にとってより有益であるに従って我々の本性とそれだけ多
く一致する、ということになる。なぜなら、物は我々の本性と一致しない限り必然的に我々の本
性と異なり、あるいは我々の本性と対立的であるであろう。もし我々の本性と異なるなら、それ
は(この部の定理二九により)善でも悪でもありえないであろう。もし対立的であるなら、それは
我々の本性と一致するものにも対立的であり、言いかえれば(前定理により)善と対立的であり、
すなわち悪であるであろう。ゆえに何ものも我々の本性と一致する限りにおいてでなくては善で
あることができない。したがって物は我々の本性とより多く一致するに従ってそれだけ有益であ
る。そしてその逆も真である。Q・E・D・
定理三二 人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致すると言われえない。
証明 ある物が本性上たがいに一致すると言われる場合、それはそれらの物が能力の点で一致
するという意味であって(第三部定理七により)、無能力あるいは否定の点で、したがってまた
(第三部定理三の備考を見よ)受動の点で一致するという意味ではない。このゆえに人間は受動に
従属する限り本性上一致するとは言われえない。Q・E・D・
備考 このことはそれ自体においても明らかである。なぜなら、自と黒とはその両者とも赤で
ないという点においてのみ一致すると言う者があれば、それは自と黒とはいかなる点においても
ー致しないことを絶対に肯定する者である。同様にまた石と人間とはその両者とも有限で無力で
ある、あるいはその両者とも自己の本性の必然性によって存在するものでない、あるいは最後に
その両者とも外部の原因のカによって無限に凌駕される、という点においてのみ一致すると言う 40
者があるとしたら、それは石と人間とはいかなる点においても一致しないことをまったく肯定す
る者である。なぜなら、単に否定においてのみ、すなわち自らの有せざるものにおいてのみ一致
する物は、実はいかなる点においても一致していないのだから。
定理三三 人間は受動という感情に捉われる限りにおいて本性上たがいに相違しうるし、また
その限りにおいては同一の人間でさえ変りやすくかつ不安定である。
証明 感情の本性ないし本質は単に我々の本質ないし本性のみによっては説明されえない(第
三部定義一および二により)。むしろそれは我々の能力と比較された外部の原因のカ、言いかえ
ば(第三部定理七により)外部の原因の本性によって規定されなければならぬ。この結果として、
べて感情には我々を刺激する対象の種類だけ多くの種類があるということになるし(第三部定
五六を見よ)、また人間が同一の対象から異なった仕方で刺激され(第三部定理五一を見よ)、
の限りにおいて本性上たがいに相違する、ということにもなり、最後にまた同一の人間が同じ
象に対して異なった仕方で刺激され(同じく第三部の定理五一により)、その限りにおいて変り
すくかつ云々である、ということにもなるのである。Q・E・D・
定理三四 人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。
証明 ある人間例えばペテロはパウロが悲しむ原因となりうる。それはペテロがパウロの憎む
のと何らかの類似点を有するか(第三部定理一六により)、あるいはパウロ自身も愛するものを
ペテロが一人で所有しているためか(第三部定理三二およびその備考を見よ)、あるいはその他の
諸原因(その主なるものは第三部定理五五の備考について見よ)のためである。こうしてその結果
(感情の定義七により)パウロはペテロを憎むことになり、したがってまた容易に(第三部定理四
〇およびその備考により)ペテロがパウロを憎み返すことにもなって、ひいては(第二部定理三九
により)両者が相互に害悪を加えようと努めることになるであろう。言いかえれば(この部の定理
三〇により)両者が相互に対立的であることになるであろう。ところが悲しみの感情は常に受動
である(第三部定理五九により)。ゆえに人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的であ
りうる。Q・E・D・
備考 パウロは自分自身も愛するものをペテロが所有していると表象するためにペテロを憎む
と私は言った。このことからして一見、この両者は同じものを愛するがゆえに、したがってまた
本性上一致するがゆえに、相互に有害であるということになるように見える。そしてこのことが
異なら、この部の定理三〇および三一は虚偽であることになろう。しかし、事態を公平に検討す
るならば、これらすべてがまったく調和することを我々は見いだすであろう。なぜなら、この両
者は本性上一致する限りにおいて、すなわち両者のおのおのが同じものを愛する限りにおいて相
互に不快の種になるのではなくて、両者がたがいに相違する限りにおいて不快の種になるのだか
らである。というのは、両者のおのおのが同じものを愛する限りまさにそのことによって両者お
のおのの愛は強められるから(第三部定理三一により)、言いかえれば(感情の定義六により)まさ
にこのことによって両者のおのおのの喜びは強められるからである。だから両者が同じ物を愛し 42
かつ本性上一致するという限りにおいて相互に不快の種になるというようなことは決してないの
である。むしろこのことの原因は、今言ったように、両者が本性上たがいに相違しているという
ことが仮定されているためにほかならない。なぜなら、ペテロは愛するものの現実的所有の観念
を有し、これに反してパウロは愛するものの現実的喪失の観念を有していることを我々は仮定し
ているのだから。この結果としてパウロは悲しみに、またペテロは喜びに刺激されるごとになり、
そしてその限りにおいて両者は相互に対立的であることになるのである。この仕方で我々は、憎
しみを引き起こす他の諸原因も、人間が本性上たがいに相違するということにのみ由来し、その
一致する点に由来しないことを容易に示すことができる。
定理三五 人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必
然的に一致する。
証明 人間は受動という感情に捉われる限り本性上異なりうるし(この部の定理三三により)、
またたがいに対立的でありうる(前定理により)。しかし人間は理性の導きに従って生活する限り、
ただその限りにおいて働きをなすと言われる(第三部定理三により)。したがって理性によって規
定される限りにおける人間本性から生ずる一切は、その最近原因としての人間本性のみによって
理解されなければならぬ(第三部定義二により)。ところで各人は自己の本性の法則に従って自分
が善と判断するものを欲求し、自分が悪と判断するものを遠ざけようと努めるのであるから(こ
の部の定理一九により)、なおまた我々が理性の指図に従って善あるいは悪と判断するものは必
然的に善あるいは悪なのであるから(第二部定理四一により)、この結果として、人間は、理性の
導きに従って生活する限り、ただその限り、人間本性にとって必然的に善なることを、したがっ
てまた、おのおのの人間にとって必然的に善なることを、言いかえれば(この部の定理三一の系
により)おのおのの人間の本性と一致することを、必然的になすことになる。したがって人間は
理性の導きに従って生活する限り相互間においても必然的に常に一致する。Q・E・D・
系一 人間にとっては、理性の導きに従って生活する人間ほど有益ないかなる個物も自然の中
に存しない。なぜなら、人間にとっては、自己の本性と最も多く一致するもの(この部の定理三
一の系により)、言いかえれば(それ自体で明らかなように)人間、が最も有益である。ところが
人間は理性の導きに従って生活する時に真に自己の本性の法則に従って行動し(第三部定義二に
より)、またその限りにおいてのみ他の人間の本性と必然的に常に一致する(前定理により)。ゆ
えに人間にとっては、個物の中で、理性の導きに従って生活する人間ほど有益なものはない。
Q・E・D・
系二 おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益で
ある。なぜなら、各人が、自己の利益をより多く求め・自己の維持により多く努力するにつれて、
彼はそれだけ有徳であり(この部の定理二〇により)、あるいは同じことだが(この部の定義八に
より)、自己の本性の法則に従って行動する能力、言いかえれば(第三部定理三により)、理性の
導きに従って生活する能力がそれだけ大である。ところが人間は理性の導きに従って生活する時
に本性上最も多く一致する(前定理により)。ゆえに(前の系により)各人が自己に有益なものを最 44
も多く求める時に、人間は相互に最も有益であるであろう。Q・E・D・
備考 我々が今しがた示した事柄は、経験自身も毎日多数のかつきわめて明白な証拠によって
立証しているものであって、その結果、「人間は人間にとって神である」という諺がほとんどす
べての人のロにのぼっているほどである。しかし人間が理性の導きに従って生活するということ
は稀である。むしろ彼らはおおむねねたみ深く、相互に不快の種になっているというのがその実
情である。しかしそれにもかかわらず彼らは孤独の生活にほとんど耐えきることができない。こ
うして「人間は社交的動物である」というあの定義が多くの人々から多大の賛成をかち得たので
ある。そしてまた実際、人間の共同社会からは損害よりもはるかに多くの利益が生ずるような事
情になっている。だから諷刺家は欲するままに人事を嘲笑するがよい。神学者はそれを呪詛する
がよい。また憂鬱家は未開な、野蛮な生活をできるだけ謳歌し、人間を軽蔑して野獣を讃美する
がよい。しかも彼らは、人間がその必需品を相互扶助によってはるかに容易に調達しうること、 (相互扶助)
また諸方から迫ってくる危険を避けるには結合した力によるほかないことを経験するであろう。
人間の行為を考察するのが野獣の行動を考察するよりもはるかに価値ありかつ我々の認識にいっ
そう多く価することは今は言わないとしても。しかしこれらのことどもについては他のところで
もっと詳しく述べるであろう。
定理三六 徳に従う人々の最高の善はすべての人に共通であって、すべての人が等しくこれを
楽しむことができる。
証明 有徳的に働くとは理性の導きに従って行動することである(この部の定理二四により)。
そして理性に従って我々のなすすべての努力は認識ということに向けられる(この部の定理二六
により)。それゆえ(この部の定理二八により)徳に従う人々の最高の善は神を認識することであ
る。そしてこれは(第二部定理四七およびその備考により)すべての人々に共通である善、かつす
べての人間が本性を同じくする限り等しく所有しうる善である。Q・E・D・
備考 だがあるいは次のように尋ねる人があるかもしれない。徳に従う人々の最高の善がもし
すべての人に共通でなかったとしたらどうであろう。その場合にはそれから、前の場合のように
(この部の定理三四を見よ)、理性の導きに従って生活する人間、言いかえれば(この部の定理三
五により)本性上一致する限りにおける人間が、相互に対立的であるというようなことが起こり
はしないだろうかと。こうした人に対しては次のことが答えとなるであろう。人間の最高の善が
すべての人に共通であるということは偶然によるのではなくて、理性の本性そのものから生ずる
のである。なぜなら、この最高の善は理性によって規定される限りにおける人間の本質そのもの
から導き出されるからである。そして人間は、この最高の善を楽しむ力を有しないとしたら、存
在することも考えられることもできないであろう。神の永遠・無限なる本質について妥当な認識
を有することは人間精神の本質に属するのであるから(第二部定理四七により)。
定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろ
う。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。 46
証明 人間は理性の導きに従って生活する限り、人間にとって最も有益である(この部の定理
三五の系一により)。それゆえ(この部の定理二九により)、我々は理性の導きに従う場合、必然
的に、人間をして理性の導きに従って生宿させるように努めるであろう。ところが理性の指図に
従って生活するおのおのの人、言いかえれば(この部の定理二四により)、徳に従うおのおのの人
が自己のために欲求する善とは認識することにほかならない(この部の定理二六により)。ゆえに
徳に従うおのおのの人は自己のために欲求する善を他の人々のためにも欲するであろう。次に欲
望は、精神に関係する限り、精神の本質そのものである(感情の定義一により)。ところが精神の
本質は認識に存する(第二部定理一一により)。そしてこの認識は神の認識を含み(第二部定理四
七により)、また神の認識なしには存在することも考えられることもできない(第一部定理一五
により)。このゆえに、精神の本質が含む神の認識がより大なるに従って、徳に従う人が自分の
ために欲求する善を同時に他人のために欲する欲望もまたそれだけ大であるであろう。Q・E・
D・
別の証明 人間は自分のために欲求しかつ愛する何らかの善を他人もまた愛するのを見るとし
たらいっそう強くそれを愛するであろう(第三部定理三一により)。だから彼は(同定理の系によ
り)他人もそれを愛するように努めるであろう。ところで今問題となっている善は(前定理によ
り)すべての人に共通であり、すべての人が等しくこれを楽しみうるのであるから、したがって
彼は(同じ理由により)すべての人がそれを楽しむように努めるであろう。そして(第三部定理三
七により)彼がこの善をより多く享楽するに従ってそれだけ多くそのことに努めるであろう。
Q・E・D・
備考一 自分の愛するものを他の人々が愛することを、また自分の意向通りに他の人々が生活
することを、単に感情に基づいて努める人は、本能的にのみ行動するものであって、そのゆえに
人から憎まれる。ことに別の好みを有してそのために同様の努力をなし、やはり自分の意向通り
に他の人々を生活させようと等しく本能的に努めるような人々から憎まれる。次に人間が感情によって欲求する最高の善は、しばしば一人だけしか享受しえないような種類のものであるから、
この結果、愛する当人はその心中に不安を蔵し、自分の愛するものに対する賞讃を語ることを喜
びながらも同時にそれが人から信じられるのを恐れるというようなことになる。
ところが他の人々を理性によって導こうと努める人は本能的に行動するのでなく、友愛的かつ (友愛的)
善意的に行動するのであってその心中きわめて確固たるものがある。
さらに、神の観念を有する限りにおける我々、すなわち神を認識する限りにおける我々から起
こるすべての欲望および行動を私は宗教心に帰する。しかし我々が理性の導きに従って生活する
ことから生ずる、善行をなそうとする欲望を私は道義心と呼ぶ。次に理性の導きに従って生活す
る人間が他の人々と友情を結ぶにあたっての根底となる欲望を私は端正心と呼び、また理性の導
きに従って生活する人々が賞讃するようなことを端正と呼び、これに反して友情を結ぶのに妨げ
となるようなことを非礼と呼ぶ。このほかに私は国家の基礎の何たるかをも示した。
次に、真の徳と無能力との差別は上に述べたことから容易に知られる。すなわち真の徳とは理
性の導きのみに従って生活することにほかならない。したがって無能力とは人間が自己の外部に 48
ある事物から受動的に導かれ、かつ外界の一般状態が要求する事柄 〜 それ自身だけで見られた
彼の本性そのものが要求する事柄ではなく 〜 をなすように外部の事物から決定されることにの
み存する。
さて以上は私がこの部の定理二八の備考において証明を約束した事柄である。これからして動
物の屠殺を禁ずるあの掟が健全な理性によりはむしろ虚妄な迷信と女性的同情とに基づいている
ことが明らかである。我々の利益を求める理性は、人間と結合するようにこそ教えはするが、動
物、あるいは人間本性とその本性を異にする物、と結合するようには教えはしない。むしろ理性
は、動物が我々に対して有するのと同一の権利を我々が動物に対して有することを教える。否、 (動物)
各自の権利は各自の徳ないし能力によって規定されるのだから、人間は動物が人間に対して有す
る権利よりはるかに大なる権利を動物に対して有するのである。
しかし私は動物が感覚を有することを否定するのではない。ただ、我々がそのため、我々の利
益を計ったり、動物を意のままに利用したり、我々に最も都合がいいように彼らを取り扱ったり
することは許されない、ということを私は否定するのである。実に彼らは本性上我々と一致しな
いし、また彼らの感情は人間の感情と本性上異なるからである(第三部定理五七の備考を見よ)。
なお正義とは何であるか、不正義とは何であるか、罪過とは何であるか、また最後に功績とは
何であるかを説明することが残っている。しかしこれについては次の備考を見よ。
備考二 第一部の付録において私は賞讃および非難とは何か、功績および罪過とは何か、正義
および不正義とは何かを説明することを約束した。賞讃および非難についてはすでに第三部定理
二九の備考において説明した。しかし他の概念について述べるにはここが適当な場所であろう。
だがその前に人間の自然状態および国家状態について少しく述べなくてはならぬ。
人はみな最高の自然権によって存在し、したがってまた各人は自己の本性の必然性から生ずる
ことを最高の自然権によってなすのである。それゆえ各人は、最高の自然権によって、何が善で
あり何が悪であるかを判断し、自己の意のままに自己の利益を計り(この部の定理一九および二
〇を見よ)、復讐をなし(第三部定理四〇の系二を見よ)、また自分の愛するものを練持し、自分
の憎むものを破壊しようと努める(第三部定理二八を見よ)。
もし人間が理性の導きに従って生活するのだとしたら、各人は他人を何ら害することなしに自
己のこの権利を享受しえたであろう(この部の定理三五の系一により)。ところが人間は諸感情に
隷属しており(この部の定理四の系により)しかもそれらの感情は人間の能力ないし徳をはるかに
凌駕するのであるから(この部の定理六により)、そのゆえに彼らはしばしば異なった方向に引き
ずられ(この部の定理三三により)、また相互扶助を必要とするにもかかわらず(この部の定理三
五の備考により)相互に対立的であることになる(この部の定理三四により)。それゆえ人間が和
合的に生活しかつ相互に援助をなしうるためには、彼らが自己の自然権を断念して、他人の害悪 (相互援助)
となりうるような何ごともなさないであろうという保証をたがいに与えることが必要である。し
かしこのこと、すなわち諸感情に必然的に隷属し(この部の定理四の系により)かつ不安定で変り
やすい(この部の定理三三により)人間が、相互に保証を与え相互に信頼しうるということがいか
にして可能であろうかといえば、それはこの部の定理七および第三部の定理三九から明らかであ 50
る。そこで述べたところによれば、どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によっ
てでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に善悪を加えたくてももしそれによ
ってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。そこでこの
法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利お
よび善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律
の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性(この部の定
理一七の備考により)によってではなく、刑罰の威嚇によって確保するようにしなければならぬ。
さて法律および自己保存の力によって確立されたこの社会を国家と呼び、国家の権能によって保
護される者を国民と名づけるのである。
これからして、自然状態においては、すべての人の同意に基づいて善あるいは悪であるような
いかなることも存在しないことを我々は容易に知りうる。なぜなら、自然状態における各人はも
っばら自己の利益のみを計り、自分の意のままにかつ自分の利益のみを考慮して何が善であり何
が悪であるかを決定し、またいかなる法律によっても自分以外の他人に服従するように義務づけ
られないからである。したがってまた自然状態においては罪過というものは考えられない。しか
し一般の同意に基づいて何が善であり何が悪であるかが決定されて各人が国家に服従するように
義務づけられる国家状態においてはそれが考えられる。すなわち罪過とは不服従にほかならず、
それはこのゆえに国家の権能によってのみ罰せられる。これに反して服従は国民の功績とされる。
まさにそのことによって国民は国家の諸便益を享受するのに価すると判断されるからである。
次に、自然状態においては、何びとも一般的同意によってある物の所有主であることはない。 (自然状態)
また自然の中にはこの人に属してかの人に属さないといわれうるような何ものも存しない。むし
ろすべての物がすべての人のものである。したがって自然状態においては各人に対し各人の物を
認めようとかある人からその所有のものを奪おうとかする意志は考えられえない。言いかえれば
自然状態においては正義とか不正義といわれうる何ごとも起こらない。しかし一般の同意に基づ
いて何がこの人のものであり何がかの人のものであるかが決定される国家状態においてはこのこ
とが起こる。以上のことから正義ならびに不正義、罪過および功績は外面的概念であって、精神
の本性を説明する属性でないことが判明する。しかしこれらのことについてはこれで十分である。
定理三八 人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、みるいは人間身体
をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益で
ある。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより
適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させ
るものは有害である。
証明 身体がそうしたことにより適するようにされるに従って精神は知覚に対してそれだけ適
するようになる(第二部定理一四により)。したがって身体をこのような状態にしてそうしたこと
に適するようにさせるものは必然的に善すなわち有益である(この部の定理二六および二七によ
り)。そしてそれは身体をそうしたことにより適するようにさせうるに従ってそれだけ有益であ 52
る。また反対に(第二部の同じ定理一四の裏ならびにこの部の定理二六および二七により)身体の
そうした適性を減少させるものは有害である。Q・E・D・
定理三九 人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせる
ものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとる
ようにさせるものは悪である。
証明 人間身体はその維持のためにきわめて多くの他の物体を要する(第二部要請四により)。
しかし人間身体の形相を構成するものは、身体の諸部分がその運動をある一定の割合で相互に伝
達することに存する(第二部定理一三のあとの補助定理四の前にある定義により)。ゆえに人間身
体の諸部分が相互に有する運動および静止の割合が維持されるようにさせるものは人間身体の形
相を維持するものであり、したがってまた(第二部要請三および六により)人間身体が多くの仕方
で刺激されうるようにさせ、また人間身体が外部の物体を多くの仕方で刺激しうるようにさせる
ものである。ゆえにそれは(前定理により)善である。次に人間身体の諸部分が運動および静止の
異なった割合を取るようにさせるものは人間身体が異なった形相を取るようにさせるものであり
(第二部の同じ定義により)、言いかえれば(それ自体で明らかでありまたこの部の序言の終りに
注意したように)人間身体が破壊されるようにさせ、したがってまたそれが多くの仕方で刺激ぎ
れるのに全然適しないようにさせるも切である。ゆえにそれは(前定理により)悪である。Q・
E・D・
備考 このことが精神にとってどれだけ害になりあるいは益になりうるかは第五部で説明され
るであろう。しかしここで注意しなければならぬのは、身体はその諸部分が相互に運動および静
止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解していることである。
つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお
間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能でないと私は信ずるので
ある。なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいか
なる理由も存しないからである。かえって経験そのものは反対のことを教えるように見える。と
いうのは、人間がほとんど同一人であると言えぬほどの大きな変化を受けることがしばしば起こ
るからである。私はあるスペインの詩人について次のような話を聞いた。彼は病気にかかり、そ
してそれは回復したものの、彼は自分の過去の生活をすっかり忘れきって、自分が以前作った物
語や悲劇を自分の作と信じなかったというのである。それでもし彼が母国語も忘れたとしたら、
彼はたしかに大きな小児と見なされえたであろう。もしこうした話が信じがたいように思えるな
ら、小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のこと
を推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小
児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである。しかし迷信的な人々に新しい疑問をひ
き起こすような材料を与えないために、私はむしろこの問題をこのくらいでやめておこうと思う。
定理四〇 人間の共同社会に役立つもの、あるいは人間を和合して生活するようにさせるもの 54
は有益である。これに反して国家の中に不和をもたらすものは悪である。 (国家)
証明 なぜなら、人間を和合して生活するようにさせるものは、同時に人間を理性の導きに従
って生活するようにさせるものである(この部の定理三五により)。したがってそれは(この部の
定理二六および二七により)善である。これに反して、不和をひき起こすようなものは悪である
(同じ理由により)。Q・E・D・
定理四一 喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。
証明 喜びは(第三部定理一一およびその備考により)身体の活動能力を増大あるいは促進する
感情である。これに反して悲しみは身体の活動能力を減少しあるいは阻害する感情である。ゆえ
に(この部の定理三八により)喜びは直接的には善であり云々。Q・E・D・
定理四二 快活は過度になりえず、常に善である。反対に憂鬱は常に悪である。
証明 快活は(第三部定理一一の備考におけるその定義を見よ)喜びの一種であって、この喜び
は身体に関する限り、身体のすべての部分が均等に刺激されることに存する。言いかえれば(第
三部定理一一により)身体のすべての部分が相互に運動および静止の同じ割合を維持するような
仕方で身体の活動能力が増大しあるいは促進されることに存する。したがって(この部の定理三
九により)快活は常に善であって過度になりえない。ところが憂鬱は(同様に第三部定理一一の備
考におけるその定義を見よ)悲しみの一種であって、この悲しみは、身体に関する限り、身体の
活動能力がすべての点において減少しあるいは阻害されることに存する。ゆえに(この部の定理
三八により)憂鬱は常に悪である。Q・E・D・
定理四三 快感は過度になりうるしまた悪でありうる。しかし苦痛は快感あるいは喜びが悪で
ある限りにおいて善でありうる。
証明 快感は喜びの一種であって、この喜びは、身体に関する限り、身体の一部分あるいは若
干部分がその他の部分以上に刺激されることに存する(第三部定理一一の備考におけるその定義
を見よ)。そうした感情の力は身体のその他の働きを凌駕して身体に執拗につきまとい(この部の
定理六により)、こうして身体がきわめて多くの他の仕方で刺激されるのに適しないようにする
ほど、それほど大なるものでありうる。ゆえに快感は(この部の定理三八により)悪でありうる。
次に、これと反対に、悲しみの一種である苦痛は、それ自体で見れば善でありえない(この部の
定理四一により)。しかしそのカと発展とは我々の能力と比較された外部の原因のカによって規
定されるのであるから(この部の定理五により)、そのゆえに我々は、この感情について、無限に
多くの強度と様式とを考えることができる(この部の定理三により)。したがって我々は、快感が
過度になるのを防ぎうるような、そしてその限りにおいて(この定理の始めの部分により)身体の
能力を減少しないようにさせうるような、そうした苦痛も考えることができる。ゆえに苦痛はそ
の限りにおいて善であるであろう。Q・E・D・ 56
定理四四 愛および欲望は過度になりうる。
証明 愛は外部の原因の観念を伴った喜びである(感情の定義六により)。ゆえに(第三部定理
一一の備考により)外部の原因の観念を伴った快感も愛の一種である。したがって愛は(前定理に
より)過度になりうる。次に欲望はそれを生ずる感情がより大なるに従ってそれだけ大である(第
三部定理三七により)。ゆえに感情が(この部の定理六により)人間のその他の働きを凌駕しうる
のと同様に、その感情から生ずる欲望もまたその他の欲望を凌駕しうるのであり、したがってま
たそれは前定理において快感について示したのと同様に過度になりうるであろう。Q・E・D・
備考 善であると私の言った快活については単に観察するよりも概念的に考える方がいっそう
容易にわかる。すなわち我々が日々捉われる諸感情は、もっぱら身体の何らかの部分がその他の
部分以上に刺激されるのに関係するのであり、したがってそうした感情は一般に過度になり、精
神をただ一つの対象の考察に引きとどめて精神が他のことについて思惟しえないようにするので
ある。人間ほ数多くの感情に従属するものであって、常に同一の感情に捉われている人間は稀に
しか見られないけれども、それにしても同一の感情に執拗にまといつかれている人間もないでは
ない。すなわち人間がただ一つの対象から強く刺激されて、その結果それが現在していない場合
にもそれを自分の前にあるように借ずるのを我々はしばしば見かける。もしこうしたことが眠っ
ていない人間に起こるならば、この人間を我々は狂っているとか気違い沙汰だとか言うのである。
また恋に焦れて夜も昼もただ恋人あるいは情婦のみを夢みる者も同様に気違い沙汰と思われる。
こうした者は通常我々の笑いをさそうからである。ところが食欲者が利得や金銭のほか何ものも
えない場合、また名誉欲者が名誉のほか何ものも考えない場合などにはそうした人々は狂って
いるとは信じられない。それは彼らは通常我々の不快の種であり、憎悪に価すると思われるから
である。しかし食欲、名誉欲、情欲などは、一般には〔精神〕病に数えられていないにしても、実
際はやはり狂気の一種である。
定理四五 憎しみは決して善ではありえない。
証明 我々は我々の憎む相手を滅ぼそうと努める(第三部定理三九により)。言いかえれば我々
はそれによって(この部の定理三七により)悪であるようなあることをしようと努める。ゆえに云
云。Q・E・D・
備考 私がここならびに以下において、憎しみを人間に対する憎しみとのみ解することに注意
されたい。
系一 ねたみ、嘲弄、軽蔑、怒り、復讐その他憎しみに属しあるいは憎しみから生ずる諸感情
は、悪である。このことは第三部定理三九およびこの部の定理三七からも明らかである。
系二 我々が憎しみに刺激される結果として欲求するすべてのことは非礼であり、また国家に
おいては不正義である。このことは第三部定理三九からおよび非礼と不正義との定義からも明ら (国家)
かである。この部の定理三七の備考におけるその定義を見よ。
備考 嘲弄(系一で言ったようにそれは悪である)と笑いとの間に私は大きな差異を認める。な
ぜなら、笑いは諧謔と同様に純然たる喜びであり、したがって過度になりさえしなければそれ自 58
体では善である(この部の定理四一により)。実際、楽しむことを禁ずるものは厭世的で悲しげな
迷信のみである。いったい憂鬱を追い払うことが何で飢渇をいやすことよりも不適当であろうか。
私の原則は次のごとくであって私はこの信念を固くとる着である。すなわちいかなる神霊も、ま
たねたみ屋以外のいかなる人間も、私の無能力や苦悩を喜びはしないし、また落涙、すすり泣き、
恐怖、その他精神の無能力の標識であるこの種の事柄を我々の徳に数えはしない。むしろ反対に、
我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行するのである。言いか
えれば我々はそれだけ多くの神の本性を必然的に分有するのである。だからもろもろの物を利用
してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむこ
とでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料
によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人 (美)
を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、
賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織
されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であ
るために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種
種の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一
般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨される
べき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。そしてこれについてはこ
れ以上明瞭にも詳細にも論ずる必要はない。
定理四六 理性の導きに従って生活する人は、できるだけ、自分に対する他人の憎しみ、怒り、
軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報いるように努める。
証明 すべて憎しみの感情は悪である(前定理の系一により)。ゆえに理性の導きに従って生活
する人は、できるだけ憎しみの感情に捉われぬように努めるであろうし(この部の定理一九によ
り)、したがってまた(この部の定理三七により)他人にもそうした感情に悩ませないように努め
るであろう。ところが憎しみは憎み返しによって増大し、反対に愛によって消滅されうるのであ
り(第三部定理四三により)、こうして憎しみは愛に移行する(第三部定理四四により)。ゆえに理
性の導きに従って生活する人は他人の憎しみその他を逆に愛で、言いかえれば寛仁(第三部定理
五九の備考におけるその定義を見よ)で報いることに努めるであろう。Q・E・D・
備考 自分の受けた不法を憎み返しによって復讐しようと思う人はたしかに惨めな生活をする
ものである。これに反して憎しみを愛で克服しようとつとめる人は、実に喜びと確信とをもって
戦い、多くの人に対しても一人に対するのと同様にやすやすと対抗し、運命の援助をほとんどま
ったく要しない。一方、彼に征服された人々は喜んで彼に服従するが、しかもそれは力の欠乏の
ためではなくて力の増大のためである。これらすべては単に愛および知性の定義のみからきわめ
て明瞭に帰結されるのであって、これを一々証明することは必要でない。
定理四七 希望および恐怖の感情はそれ自体では善でありえない。 60
証明 希望および恐怖の感情は悲しみを伴うことなしに存しえない。なぜなら恐怖は(感情の
定義一三により)悲しみであるし、また希望は(感情の定義一二および一三の説明を見よ)恐怖を
伴うことなしには存しえないからである。したがつて(この部の定理四二により)、これらの感情
はそれ自体では善でありえず、ただ喜びの過度になるものを抑制しうる限りにおいてのみ善であ
る(この部の定理四三により)。Q・E・D・
備考 これに加えて、これらの感情は認識の欠乏および精神の無能力を表示するものである。
そしてこの理由から安堵、絶望、歓喜および落胆もまた無能な精神の標識である。なぜなら安堵
および歓喜は喜びの感情であるとはいえ、それは悲しみ 〜 すなわち希望および恐怖 〜 の先行
を前提としているからである。だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめ
るにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできる
だけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く努める。
定理四八 買いかぶりおよび見くびりの感情は常に悪である。
証明 なぜならこれらの感情は(感情の定義二一および二二により)理性に矛盾する。したが
って(この部の定理二六および二七により)それは悪である。Q・E・D・
定理四九 買いかぶりは買いかぶられる人間を容易に高慢にする。
証明 もしある人が愛のため我々について正当以上に感ずるのを我々が見るなら、我々は容易
に名誉を感ずるであろう(第三部定理四一の備考により)。すなわち喜びに刺激されるであろう
(感情の定義三〇により)。そして我々は自分について言われている善を容易に信ずるであろう
(第三部定理二五により)。したがって我々は自分に対する愛のため自分について正当以上に感ず
るであろう。言いかえれば(感情の定義二八により)我々は容易に高慢になるであろう。Q・E・
D・
定理五〇 憐憫は理性の導きに従って生活する人間においてはそれ自体では悪でありかつ無用
である。
証明 なぜなら憐憫は(感情の定義一八により)悲しみである。したがって(この部の定理四一
により)それ自体では悪であを。ところで憐憫から生ずる善、すなわち我々が憐憫を感ずる人間
を不幸から救おうと努めること(第三部定理二七の系三により)に関して言えば、我々は単に理性
の指図のみによってこれをなそうと欲する(この部の定理三七により)、また我々は善であると我
我の確知することを単に理性の指図のみによってなしうる(この部の定理二七により)。ゆえに憐
慣は理性の導きに従って生活する人においてはそれ自体では悪でありかつ無用である。Q・E・
D・
系 この帰結として、理性の指図に従って生活する人は、できるだけ憐憫に動かされないよう
に努めるということになる。
備考 一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずるこ 62
とを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであ
ろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる
正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。これに加えて、容易に憐偶の感情を催し他人
の不幸や涙に動かされる者は、のちにいたって自ら悔いるような行ないをしばしばなしているの
である。なぜなら我々は、感情に基づいては、善であると我々の確知するような何ごとをもなす
ものでなく、また我々は偽わりの涙に容易に欺かれるからである。
しかし私はここで明らかに、理性の導きに従って生活する人について語っているのである。と
いうのは、理性によっても憐偶によっても他人を援助するように動かされない者は非人間と呼ば
れてしかるべきである。なぜなら、そうした者は(第三部定理二七により)まったく人間らしいと
ころがない(あるいはあらゆる人間性を欠いている)ように見えるからである。
定理五一 好意は理性と矛盾せず、むしろそれと一致することができ、またそれから生ずるこ
とができる。
証明 なぜなら、好意は他人に親切をなした人に対する愛である(感情の定義一九により)。し
たがってそれは働きをなすと言われる限りにおける精神に関係ずることができる(第三部定理五
九により)。言いかえれば(第三部定理三により)認識する限りにおける精神に関係することがで
る。ゆえに好意は理性と一致し云々。Q・E・D・
別の証明 理性の導きに従って生活する人は自分のために欲求する善を他人のためにも欲する
(この部の定理三七により)。だから親切をなそうとする彼の努力は、ある人が他人に親切をなす
のを彼が見ることによって促進される。言いかえれば(第三部定理二の備考により)彼はそれに
よって喜ぶであろう。しかも(仮定により)その喜びは他人に親切をなした人の観念を伴ったもの
である。ゆえに(感情の定義一九により)彼はその人に対して好意を感ずる。Q・E・D・
備考 我々が定義したような憤慨(感情の定義二〇を見よ)は必然的に悪である(この部の定理
四五により)。しかし注意しなければならぬのは、最高権力〔国家〕が平和を確保する願望に促さ (国家)
れて、他人に不法を加えたある国民を罰する場合、私は最高権力がその国民に対して憤慨すると
は言わないということである。なぜなら、最高権力は憎しみに駆られてその国民を害するために
罰するのでなく、道義の念によって罰するのだからである。
定理五二 自己満足は理性から生ずることができる。そして理性から生ずるこの満足のみが、
存在しうる最高の満足である。
証明 自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである
(感情の定義二五により)。ところが人間の真の活動能力ないし徳は理性〔妥当な観念〕そのもので
あり(第三部定理三により)、そして人間はこの理性〔妥当な観念〕を明瞭判然と観想しうる(第二
部定理四〇および四三により)。ゆえに自己満足は理性から生じうる。次に人間は自己自身を観
想するにあたり、自己の活動能力から生ずることのみを明瞭判然と、すなわち妥当に、知覚する
(第三部定義二により)。言いかえれば(第三部定理三により)自己の認識能力から生ずることのみ 64
を妥当に知覚する。それゆえにこうした観想のみから、存在しうる最高の満足が生ずるのである
Q・E・D・
備考 まことに自己満足は我々の望みうる最高のものである。なぜなら(この部の定理二五に
おいて我々が示したように)何びとも自己の有を何らかの他の目的のために維持しようとは努め
ないからである。そしてこの満足は賞讃によってますます養われ強められ(第三部定理五三の系
により)、また反対に(第三部定理五五の系により)非難によってますますかき乱されるから、こ
のゆえに我々は、名誉に最も多く支配され、そして恥辱の生活はほとんど耐えることができない
のである。
定理五三 謙遜〔自劣感〕は徳ではない。すなわち理性からは生じない。
証明 謙遜は人間が自己の無能力を観想することから生ずる悲しみである(感情の定義二六に
より)。しかし人間が自己自身を真の理性によって認識する限り、彼は自己の本質を、言いかえ
れば(第三部定理七により)自己の能力を認識するものと想定される。だからもし人間が自己自身
を観想するにあたり自己のある無能力を知覚するとしたら、それは彼が自己を真に認識すること
から来るのではなくて、むしろ(第三部定理五五において示したように)彼の活動能力が阻害され
ることから来るのである。しかしもし、人間が自分より有力なある物を認識しその認識から自己
の活動能力を正しく限定しこれによって自己の無能力を考えるという場合を我々が仮定するとし
たら、それは人間が自己自身を明瞭に認識する場合、すなわち(この部の定理二六により)彼の活
動能力が促進される場合を考えているのにほかならない。このゆえに謙遜すなわち人間が自己の
無能力を観想することから生ずる悲しみは、真の観想あるいは理性からは生じない。それは徳で
はなくて受動である。Q・E・D・
定理五四 後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。むしろある行為を後悔する者は
二重に不幸あるいは無能力である。
証明 この定理の始めの部分は前定理と同様にして証明される。あとの部分は単にこの感情の
定義(感情の定義二七を見よ)のみから明らかである。なぜなら、後悔する人間は最初に悪しき欲
望によって、次には悲しみによって、征服される者だからである。
備考 人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後
悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつ
かあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし
精神の無能な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれ
ば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時 (民衆、
に恐るぺきものである。ゆえに少数者の利益ではなく社会全体の利益を考慮した予言者たちが謙 恐るべきもの)
遜、後悔および恭順をいたく推奨したのは怪しむに足りない。また実際に、これらの感情に支配
される人々は他の人々よりもはるかに容易に、ついには理性の導きに従って生活するように、言
いかえれば自由になって幸福な生活を享受するように導かれることができるのである。 66
定理五五 最大の高慢あるいは最大の自卑は自己に関する最大の無知である。
証明 感僧の定義二八および二九から明らかである。
定理五六 最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。
証明 徳の第一の基礎は、自己の有を維持すること(この部の定理二二の系により)、しかもそ
れを理性の導きに従ってなすこと(この部の定理二四により)、である。だから自分自身を知らな
い者は一切の徳の基礎を知らない着であり、したがってまた一切の徳を知らない者である。次に
有徳的に働くとは理性の導きによって行動することにほかならず(この部の定理二四により)、そ
して理性の導きに従って行動する者は自分が理性の導きに従って行動していることを必ず知って
いなければならぬ(第二部定理四三により)。これで見れば自分自身を、したがってまた(今しが
た示したように)一切の徳を知ることの最も少ない者は有徳的に働くことの最も少ない者、言い
かえれば(この部の定義八から明らかなように)精神的に最も無能力な者である。それゆえに(前
定理により)最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。Q・E・D・
系 これからきわめて明瞭に帰結されるのは、高慢な人間および自卑的な人間はもろもろの感
情に最も多く従属するということである。
備考 しかし自卑は高慢よりも容易に矯正されうる。なぜなら、高慢は喜びの感情で自卑は悲
しみの感情であり、したがって(この部の定理一八により)高慢は自卑よりも強力だからである。
定理五七 高慢な人間は追従の徒あるいは阿訣(あゆ)の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の
現在することを憎む。
証明 高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである(感情の定義二
八および六により)。この謬見を高慢な人間はできるだけはやくむことに努めるであろう(第三部
定理一三の備考を見よ)。したがって彼らは追従の徒あるいは阿訣の徒(これらについての定義は
略した、それはきわめて明白だから)の現在することを愛するであろう。そして彼らをその正当
の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。Q・E・D・
備考 ここで高慢の弊害のすべてを列挙するとしたらあまりに長くなるであろう。なぜなら高
慢な人間はあらゆる感情に支配され、ただ愛および同情の感情から最も縁遠いだけだからである。
しかしここに言わずにいられないのは、他人について正当以下に感ずる者もまた高慢と呼ばれ
るということである。したがってこの意味において高慢は、人間が自己を他の人々よりすぐれて
いると思う謬見から生ずる喜びであると定義される。そしてこの高慢の反対である自卑は、人間
が自己を他の人々よりも劣ると信ずる謬見から生ずる悲しみとして定義されるであろう。このこ
とが明らかにされた上は、高慢な人間が必然的にねたみ深いこと(第三部定理五五の備考を見よ)、
そして彼は、徳について最も多く賞讃されるような人々を最も多く憎み、これらの人々に対する
彼の憎しみは愛や親切によって容易に征服されないこと(第三部定理四一の備考を見よ)、また彼
の無能な精神に迎合して彼を愚者から狂者たらしめるような人々の現在することのみを彼は喜ぶ 68
こと、そうしたことを我々は容易に了解しうるのである。
自卑は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間にもっとも近い。実際彼の悲し
みは自己の無能力を他の人々の能力ないし徳に照して判断することから生ずるのであるから、彼
の表象力が他人の欠点の観想に専心する時に彼の悲しみは軽減するであろう。言いかえれば彼は
喜びを感ずるであろう。「不幸な者にとっては不幸な仲間を持ったことが慰安である」というあ
の諺はここから来ている。反対に彼は自分が他の人々に劣ると信ずれば信ずるだけますます多く
悲しみを感ずるであろう。この結果として、自卑者ほど多くねたみに傾く者はないこと、彼らは
是正してやるためによりも、とがめだてをするために熱心に人々の行為を観察することに努める
こと、最後にまた彼らは自卑のみを賞讃し、己れの目卑を誇り、しかも自卑の外観を失わないよ
うにしてそれをやるということになる。こうしたことどもはこの感情から必然的に起こるのであ
って、それはあたかも三角形の本性からその三角の和が二直角に等しいということが起こるのと
同様である。
私がこれらの感情ならびにこれと類似の諸感情を悪と呼ぶのは、ただ人間の利益を念頭に置く
限りにおいてであるということはすでに述べたところである。これに反して自然の諸法則は、人
間がその一部分にすぎない自然の共通の秩序に関係している。このことを私はここでついでに注
意したいと思う。なぜなら、私はここで人間の欠点や不条理な行為を語ることを欲して、諸物の
本性およびその諸特質を証明しようとは欲していなかったなどと人に誤解されないようにである。
事実私は、第三部の序言で述べたように、人間の諸感情およびその諸特質をその他の自然物と同
様に考察する者である。そしてたしかに人間の諸感情は、人間の能力を表示するものでないにし
ても、少なくとも自然の能力および技巧を表示するものであって、その点は、我々が驚嘆しかつ
その観想を楽しむ他の多くのものと何ら異なるところがないのである。
しかし私はひきつづき、諸感情について、いかなる点が人間に利益をもたらし、いかなる点が
人間に害悪を与えるかを注意することにする。
定理五八 名誉は理性に矛盾せず、理性から生ずることができる。
証明 感情の定義三〇および端正の定義から明らかである。端正の定義についてはこの部の
理三七の備考一を見よ。
備考 いわゆる虚名〔虚しき名誉〕とは単に民衆の意見によってはぐくまれる自己満足であって、
この意見が終熄すれば満足そのもの、言いかえれば(この部の定理五二の備考により)各人の愛す
る最高の善も終熄する。それで、民衆の意見の裡に名誉を求める者は、名声を維持するために日
日心配と不安の中に努力し、行動し、企てることになる。実に民衆は移り気で無定見であって、 (民衆)
名声はうまく維持しなければたちまち消失するからである。のみならずすべての人間が民衆の喝
采を博そうと欲するがゆえに、各人は好んで他人の名声を阻止する。そこで、最高と評価される
善を得ようと争うのであるから、あらゆる方法で仲間を圧倒しょうとする激しい情熱が生ずる。
そして最後に勝利者となる者は、自己を益したことによりも他人を害したことにより多く名誉を
見いだす。このようにしてこの名誉ないし満足は何の満足でもないのだから、実は空虚なものな 70
のである。
恥辱について注意すべきことは同情および後悔について述べたことから容易に推知される。た
だここに付け加えたいのは、恥辱もまた、憐情と同様に、徳ではないけれども、それは、恥辱を
感ずる人間には端正な生活を営もうとする欲望が存している証拠である限りにおいて善であると
いうことである。あたかも苦痛が身体の損傷部分のまだ腐敗しない証拠である限りにおいて善と
言われるのと同様に。ゆえにある行為を恥じる人間は実際は悲しみを感ずるけれども、端正な生
活を営もうとする欲望を有しない無恥の人よりも完全なのである。
以上が喜びおよび悲しみの感情について私の注意しょうと思ったことである。ところで欲望に
関して言えば、それはたしかに善き感情あるいは悪しき感情から生ずるに従って善きものあるい
は悪しきものである。しかし欲望は受動という感情から我々の中に生ずる限り実はすべて盲目的
である(この部の定理四四の備考で述べたことから容易に推知されるように)。そしてもし人間が
単に理性の指図のみに従って生活するようにたやすく導かれうるとしたら、そうした欲望はまっ
たく無用なものであろう。私が次に簡単に示すだろうように。
定理五九 我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性
によって決定されることができる。
証明 理性に従って働くとは(第三部定理三および定義二により)、我々の本性、単にそれ自体
で観られた我々の本性、の必然性に由来する活動をなすことにほかならない。
ところでまず悲しみはこの活動能力を減少しあるいは阻害する限りにおいて悪なのである(こ
の部の定理四一により)。ゆえに我々は悲しみの感情からは、理性によって導かれる場合になし
えないようないかなる活動へも決定されることができない。
次に喜びは人間の活動能力を妨げる限りにおいて悪である(この部の定理四一および四三によ
り)。したがって我々はそうした喜びからもまた、理性によって導かれる場合になしえないよう
ないかなる活動へも決定されることができない。
最後に、善である限りにおける喜びは理性と一致する(なぜならそれは人間の活動能力が増大
されあるいは促進される点に存するのだから)。そしてこういう喜びは人間が自己および自己の
活動を妥当に認識するに足るまでに人間の活動能力を増大しえない限りにおいてのみ受動なので
ある(第三部定理三およびその備考により)。ゆえにもし喜びを感じている人間が自己および自己
の活動を妥当に認識するほどの完全性にまで達しえたとしたら、彼は、いま受動という感情によ
って決定されるのと同一の活動をなすことができるであろう。否いっそう多くできるであろう。
ところがすべての感情は喜び、悲しみあるいは欲望に還元されるのであり(感情の定義四の説
明を見よ)、そして欲望は(感情の定義一により)活動をなそうとする努力そのものにほかならな
い。このゆえに我々は、受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも
単に理性のみによって導かれることができる。Q・E・D・
別の証明 おのおのの活動は、我々が憎しみその他の悪しき感情に刺激されたという事実から
発する限りにおいて悪と言われる(この部の定理四五の系一を見よ)。しかしそれ自体だけで観れ 72
ばいかなる活動も善でも悪でもない(この部の序言で示したように)。むしろ同表動が時には善
であり時には悪である。ゆえに現充着であるような活動、すなわちある悪しき感情から生じてい
る活動、その同じ活動へ我々は理性によって導かれることができる(この部の定理一九により)。
Q・E・D・
備考 このことは例を挙げることによっていっそう明瞭に説明される。すなわち殴打という行
動は、我々がこれを物理的に見て、人間が腕を上げ、拳を固め、力をこめて全腕を振り下すとい
ぅことのみを眼中に置く限り、人間身体の機構から考えられる一個の徳である。そこでもしある
人間が怒りもしくは憎しみから挙を固め、あるいは腕を振り下すように決定されるとしたら、そ
ぅしたことは、我々が第二部で示したように、同一の行動がありとあらゆる物の表象像と結合さ
れうるがゆえに起こるのである。したがって我々は混乱して認識する物の表象像によっても、ま
た明瞭判然と認識する物の表象像によっても、同一の行動へ決定されうるのである。だからもし
人間が理性によって導かれうるとしたら、受動という感情から生ずるすべての欲望はまったく無
用であることは明白である。今や我々は受動という感情から生ずる欲望がなぜ我々によって盲目
的と呼ばれるかの理由を見ることにしよう。
定理六〇 身体のすべての部分にでなくその一部分あるいは若干部分にのみ関係する喜びある
いは悲しみから生ずる欲望は人間全体の利益を顧慮しない。
証明 例えば身体のAという部分がある外部の原因の力によって強められて他の諸部分より優
勢になると仮定すると(この部の定理六により)、この部分は、それだからといって、身体のその
他の部分にその機能を果させるために自分の力を失おうと努めるようなことはしないであろう。
なぜなら、そうしたことをするには、その部分は自己の力を失う力ないし能力を持たなければな
らぬであろうが、そうしたことは(第三部定理六により)不条理だからである。ゆえにその部分、
したがって(第三部定理七および一二により)精神もまた、その状態を維持することに努めるであ
ろう。このゆえに、そうした喜びの感情から生ずる欲望は全体を顧慮しない。また反対に、Aと
いう部分の働きが阻害されて他の部分がそれより優勢になる場合を仮定すれば、こういう悲しみ
から生ずる欲望もまた全体を顧慮しないということが同じ仕方で証明される。Q・E・D・
備考 ところで喜びは大抵身体の一部分のみに関係するのだから(この部の定理四四の備考に
より)、このゆえに、我々は多くの場合、我々の有の推持を欲しながら全身の健康を顧慮してい
ないことになる。これに加えて我々を最も強く拘束する諸欲望は(この部の定理九の系により)現
在のみを顧慮して未来を考慮しないのである。
定理六一 理性から生ずる欲望は過度になることができない。
証明 欲望は、一般的に見れば、人間の本質が何らかの仕方であることをなすように決定され
ると考えられる限りにおいて、人間の本質そのものである(感情の定義一により)。ゆえに理性か
ら生ずる欲望、言いかえれば(第三部定理三により)働きをなす限りにおいて我々の中に生ずる欲
望は、人間の本質が単に人間の本質のみから妥当に考えられる事柄をなすように決定されると考
えられる限りにおいて人間の本質ないし本性そのものである(第三部定義二により)。だからもし 74
こういう欲望が過度になりうるとしたら、それ自体で見られた人間本性が自己自身を超脱しうる
ことになるであろう。すなわち人間本性がその能力にあることよりももっと多くのことをなしう
ることになるであろう。これは明白な矛盾である。したがってこういう欲望は過度になることが
できない。Q・E・D・
定理六二 精神は、理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に閲し
ようとも現在の物に関しようとも同様の刺激を受ける。
証明 精神は理性の導きのもとに考えるすべてのものを同じく永遠ないし必然の相のもとに考
え(第二部定理四四の系二により)、かつそれについて同じ確実性を有する(第二部定理四三およ
びその備考により)。ゆえに観念が未来あるいは過去の物に閲しようとも現在の物に閲しようと
も、精神は同じく必然的なものとしてその物を考えかつそれについて同じ確実性を有する。そし
てその観念は、未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に関しようともそのいずれの場合
でも同等に真であろう( 第二部定理四一により)。言いかえればその観念は( 第二部定義四により)
そのいずれの場合でも常に妥当な観念の持つ同一の特質を有するであろう。したがって精神は、
理性の指図に従って物を考える限り、観念が未来あるいは過去の物に関しようとも現在の物に閲
しょうとも、同様の刺激を受ける。Q・E・D・
備考 もし我々が物の持続について妥当な認識を有し、物の存在の時を理性によって決定しう
るとしたら、我々は未来の物を現在の物と同一の感情で観想したであろう。そして精神は未来の
ものとして考える善を現在の善と同様に欲求したであろう。したがってまた精神はより小なる現
在の善をより大なる未来の善のために必ずや断念し、また現在において善であるが未来の悪の原
因となるような物を決して欲求しなかったであろう。我々が間もなく証明するであろうように。
ところが我々は物の持続についてきわめて非妥当な認識しか持つことができぬし( 第二部定理三一
により)、また物の存在の時を単に表象力のみによって決定する( 第二部定理四四の備考によ
り)。そしてこの表象力なるものは現在の物の表象像と未来の物の表象像とからでは同様な刺激
は受けない。この結果として、我々の有する善および悪の真の認識は抽象的ないし一般的なもの
にすぎず、また現在我々にとって、何が善であり悪であるかを決定しうるために物の秩序および
原因の連結について我々の下す判断は、実際に合致したものであるよりもむしろ表象的なものに
すぎぬということになる。ゆえに、善および悪の認識が未来に関する限り、その認識から生ずる
欲望が、現在において快を与える物への欲望によって容易に抑制されうることも怪しむに足りな
い。これについてはこの部の定理一六を見よ。
定理六三 恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。
証明 働きをなす限りにおいての精神に関係する感情、言いかえれば(第三部定理三により)理
性に関係する感情は、すべて喜びの感情と欲望の感情だけである(第三部定理五九により)。した
がって(感情の定義一三により)恐怖に導かれて悪に対する危惧(きぐ)から善をなす者は理性に導かれて 76
いないわけである。Q・E・D・
備考 徳を教えるよりも欠点を非難することを心得、また人々を理性によって導く代りに恐怖
によって抑えつけて徳を愛するよりも悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは、他の人々を自分
たちと同様に不幸にしようとしているのにほかならない。それで彼らが多くの場合人々の不快の
種となり、人々に憎まれるというのも怪しむに足りないのである。
系 理性から生ずる欲望によって我々は直接に善に就き、間接に悪を逃れる。
証明 なぜなら、理性から生ずる欲望は受動でない喜びの感情のみから生じうる(第三部定理
五九により)。言いかえれば過度になりえない喜びから生じうる(この部の定理六一により)。そ
して悲しみからは生じない。ゆえにこの欲望は(この部の定理八により)善の認識から生じ、悪の
認識からは生じない。それゆえ我々は理性の導きに従って直接に善を欲求しまたその限りにおい
てのみ悪を逃れる。Q・E・D・
備考 この系は病人と健康者の例によって説明される。病人は自分の嫌いなものを死に対する
恐れのゆえに食べる。これに反して健康者は食物を楽しみ、そして死を恐れて死を直接に避けよ
うと欲する場合よりもいっそうよく生を享受する。同様に、憎しみや怒りなどからでなく単に公
共の安寧を愛するために罪人に死を宣告する裁判官は、理性のみによって導かれる者である。
定理六四 悪の認識は非妥当な認識である。
証明 悪の認識は(この部の定理八により)我々に意識された限りにおける悲しみそのものであ
る。ところが悲しみはより小なる完全性への移行であり(感情の定義三により)、したがって悲し
みは人間の本質自身によっては理解されえない(第三部定理六および七により)。ゆえに悲しみは
(第三部定義二により)受動であって非妥当な観念に依存するものである(第三部定理三により)。
したがって(第二部定理二九により)悲しみの認識、ひいては悪の認識は非妥当な認識である。
Q・E・D・
系 この帰結として、人間の精神は、もし妥当な観念しか有しないとしたら、悪に関するいか
なる概念も形成しないであろうということになる。
定理六五 理性の導きに従って我々は、二つの善のうちより大なるものに、また二つの悪のう
ちより小なるものに就くであろう。
証明 我々がより大なる善を享受することを妨げるような善は、実は悪である。なぜなら(こ
の部の序言で示したように)物は我々がそれを相互に比較する限りにおいてのみ悪あるいは善と
言われるからである。また(同じ理由により)より小なる悪は実は善である。ゆえに理性の導きに
従って我々は(この部の定理六三の系により)より大なる善およびより小なる恵のみを欲求するで
あろケ、あるいはそれのみに就くであろう。Q・E・D・
系 理性の導きに従って我々は、より大なる善のためにより小なる悪に就き、またより大なる
悪の原因たるより小なる善を断念するであろう。なぜなら、ここでより小と言われる悪は実は善
であり、これに反してより小と言われる善は実は悪である。ゆえに我々は(この部の定理六三の
系により)前者を欲求し後者を断念するであろう。Q・E・D・ 78
定理六六 理性の導きに従って我々は、より小なる現在の善よりはより大なる未来の善を、ま
たより大なる未来の悪よりはより小なる現在の悪を欲求するであろう。
証明 もし精神が未来の物に関して妥当な認識を有しうるとしたら、精神は未来の物に対して
も現在の物に対するのと同じ感情に刺激されるであろう(この部の定理六二により)。ゆえに我々
が理性そのものを念頭に置く限り 〜 この定理で我々はそうした場合を仮定しているのである
〜 より大なる善ないし悪が未来のものと仮定されようと現在のものと仮定されようとそれは同
じことである。このゆえに(この部の定理六五により)我々はより小なる現在の善よりはより大な
る未来の善を、またより大なる未来の悪よりは云々。Q・E・D・
系 理性の導きに従って我々は、より大なる未来の善の原因たるより小なる現在の悪を欲求し、
またより大なる未来の悪の原因たるより小なる現在の善を断念するであろう。この系は前定理に
対して、定理六五の系が定理六五に対するのと同一の関係にある。
備考 そこでもしこれらのことをこの部の定理一八までに感情の力について述べたことどもと
比較するなら、感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違が
あるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすとこ
ろをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、
また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみ
なすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。なお自由人の心境およ
び生活法について以下に若干の注意をしてみたい。
定理六七 自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知
恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
証明 自由の人すなわち理性の指図のみに従って生活する人は、死に対する恐怖に支配されな
い(この部の定理六三により)。むしろ彼は直接に善を欲する(同定理の系により)。言いかえれば
彼は(この部の定理二四により)自己自身の利益を求める原則に基づいて、行動し、生活し、自己
の有を維持しようと欲する。したがって彼は何についてよりも死について思惟することが最も少
なく、彼の知恵は生についての省察である。Q・E・D・
定理六八 もし人々が自由なものとして生まれたとしたら、彼らは自由である間は善悪の概念
を形成しなかったであろう。
証明 私は理性のみに導かれる人を自由であると言った。そこで自由なものとして生まれかつ
自由なものにとどまる人は妥当な観念しか有しない。またそのゆえに何ら悪の概念を有しない
(この部の定理六四の系により)。したがってまた善の概念をも有しない(善と悪とは相関的概念
であるから)。Q・E・D・
備考 この定理の仮定が誤りであること、そしてそれは人間本性だけを眼中に置く限りにおい 80
てのみ、あるいはむしろ、無限なものとしての神ではなく、単に人間の存在の原因にすぎない神
を眼中に置く限りにおいてのみ、考えられるのだということは、この部の定理四明らかであ
る。
このことや我々のすでに証明したその他のことどもは、モーゼが最初の人間に関するあの物語 (モーゼ)
の中で暗示しているように見える。すなわちその物語の中では、人間を創造したあの能力、言い
かえれば人間の利益のみを考慮したあの能力、以外のいかなる神の能力も考えられていない。そ
してこの考え方にそって次のことが物語られている。すなわち神は自由な人間に対して善悪の認
識の木の実を食うことを禁じた、そして人間はそれを食うや否や生を欲するよりもむしろ死を恐
れた、それから人間は自己の本性とまったく一致する女性を発見した時、自然の中に自分にとっ
て彼女より有益な何ものも存しえないことを認めた、しかし彼は動物が自分と同類であると思っ
てからはただちに動物の感情を模倣(第三部定理二七を見よ)して自分の自由を失い始めた。この
失われた自由を、族長たちが、そのあとでキリストの精神、すなわち神の観念 〜 神の観念は人
間が自由になるための、また前に証明したように(この部の定理三七により)人間が自分に欲する
善を他の人々のためにも欲するようになるための、唯一の基礎である 〜 に導かれて再び回復し
たのであった。
定理六九 自由の人の徳は危難を回避するにあたっても危艶を克脱するにあたってと同様にそ
の偉大さが示される。
証明 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除
去されることもできない(この部の定理七により)。ところが盲目的大胆と〔盲目的〕恐怖とは等し
い大いさのものと考えられうる感情である(この部の定理五および三により)。ゆえに大胆を抑制
するには恐怖を抑制するのと等しい大いさの精神の徳すなわち精神の強さ(その定義は第三部定
理五九の備考について見よ)を必要とする。言いかえれば(感情の定義四〇および四一により)自
由の人は危難を克服しようと試みる時と同じ精神の徳をもって危難を回避する。Q・E・D・
系 このゆえに、自由の人にあっては、適時における逃避は戦闘と同様に大なる勇気の証明で
ある。すなわち自由の人は戦闘を選ぶ時と同じ勇気ないし沈着をもって逃避を選ぶ。
備考 勇気とは何か、あるいは勇気ということを私がいかに解するかは第三部定理五九の備考
において説明した。これに対して危難とは何らかの害悪すなわち悲しみ、憎しみ、不和などなど
の原因となりうる一切のものと私は解する。
定理七〇 無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる。
証明 各人は自己の意向に従って何が善であるかを判断する(第三部定理三九の備考を見よ)。
ゆえに誰かに親切をなした無知の人はそれを自己の意向に従って評価するであろう。そして彼は
それを受けた人からそれがより小さく評価されるのを見るとしたら悲しみを感ずるであろう(第
三部定理四二により)。ところが自由の人は他の人々と交友を結ぶことにはつとめるが(この部の
定理三七により)、しかし彼らに対して彼らの感情から判断して同等とされるような親切を報い 82
ることにはつとめないでむしろ自己ならびに他の人々を自由な理性の判断によって導こうとし、
彼自身が最も重要として認識する事柄のみをなそうとつとめる。ゆえに自由の人は、無知の人々
から憎しみを受けぬために、そしてまた彼らの衝動にでなく単に理性のみに従うために、彼らの
親切をできるだけ避けようと努めるであろう。Q・E・D・
備考 私は「できるだけ」という。なぜなら彼らは無知な人間であってもやはり人間であって
危急な場合には、何より貴重な人間的援助をなしうる。このゆえに彼らから親切を受け、したが
ってまた彼らに対し彼らの意向に従って感謝を示すことの必要な場合がしばしば起こるのである
これに加えて、親切を避けるにあたっても、我々が彼らを軽蔑するかに見えぬように、あるいは
我々が貧欲のゆえに報酬を恐れるかに見えぬように、慎重にしなくてはならぬ。すなわち彼らの
憎しみを逃れようとしてかえって彼らを憤らせるようなことがあってはならぬ。ゆえに親切を避
けるにあたっては、何が利益であるか何が端正であるかを考慮しなければならぬ。
定理七一 自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。
証明 自由の人々のみが相互に最も有益であり、かつ最も固い友情の絆をもって相互に結合す
る(この部の定理三五およびその系一により)。そして同様な愛の欲求をもって相互に親切をなそ
うと努める(この部の定理三七により)。したがって(感情の定義三四により)自由の人々のみが相
互に最も多く感謝しあう。Q・E・D・
備考 盲目的な欲望に支配される人々が相互に示すような感謝は、多くは感謝というよりもむ
しろ取引あるいは計略(アウクビウム)である。
次に忘恩は感情でない。しかし忘恩は非礼なことである。なぜなら、それは多くは人間が過度
の憎しみ、怒り、高慢、食欲などに据われていることを示すものだからである。というのは愚か
であるために贈与に報いることを知らない者は忘恩的と言われない。ましてや情婦の贈物によっ
て彼女の情欲(または色情)に奉仕するように動かされない人、あるいは盗賊の贈物によって盗賊
の盗品を隠匿(いんとく)するように動かされない人、その他この種の人間の贈物によって動かされない人は
なおさら忘恩的とは言われない。いかなる贈物によっても自己あるいは社会の破滅になるような
行ないへ誘惑されない人は、確固たる精神の所有者であることを示しているからである。
定理七二 自由の人は決して詐(いつわ)りの行動をせず常に信義をもって行動する。
証明 もし自由の人が自由である限りにおいて何らかの詐りの行動をするとしたら、彼はそれ
を理性の指図に従ってなしたであろう(なぜなら理性の指図に従って行動する限りにおいてのみ
人は自由であると呼ばれるのだから)。ゆえに詐りの行動をなすことが徳であることになろう(こ
の部の定理二四により)。したがってまた(同定理により)各人にとって、自己の有を維持するた
めには詐りの行動をすることがより得策であることになろう。言いかえれば(それ自体で明らか
なように)人々にとっては単に言葉においてのみ一致して事実においては相互に対立的であるこ
とがより得策であることになろう。これは(この部の定理三一の系により)不条理である。ゆえに
自由の人は云々。Q・E・D・ 84
備考 ここに次のような問いがなされるかもしれぬ。もし人間が背信によって現在の死の危難
から救われうるとしたらどうであろう。その場合、自己の有の維持をたてまえとする理性は無条
件で人間に背信的であるように教えるのではないかと。これに対しては上にならって次のような
答えがなされるであろう。もし理性がそうしたことを教えるとしたら理性はそれをすべての人々
に教えることになる。したがって理性は一般に人々に、相互の協力および共通の法律の遵守への
約束を、常に詐(いつわ)って結ぶように教えることになる。言いかえれば結局共通の法律を有しないよう
に教えることになる。しかしこれは不条理である。
定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定
に従って生活する国家においていっそう自由である。 (国家)
証明 理性に導かれる人間は恐怖によって服従に導かれることがない(この部の定理六三によ
り)。むしろ彼は、理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める限りにおいて、言いかえ
れば(この部の定理六六の備考により)自由に生活しようと努める限りにおいて、共同の生活およ
び共同の利益を考慮し(この部の定理三七により)、したがってまた(この部の定理三七の備考二
で示したように)国家の共同の決定に従って生活することを欲するのである。ゆえに理性に導か
れる人間は、より自由に生活するために、国家の共通の法律を守ることを欲する。Q・E・D・
備考 このことおよび我々が人間の其の自由について示したこれと類似のことどもは精神の強
さに、言いかえれば(第三部定理五九の備考により)勇気と寛仁とに帰せられる。しかし私は精神
の強さのすべての特質をここで一々証明することを必要とは思わない。ましてや毅然とした精神
の人間が何びとをも憎まず、何びとをも怒らず、ねたまず、憤慨せず、何びとをも軽蔑せずまた
決して高慢でないことを証明するのはなおさら必要であるまい。なぜならこのことおよび真の生
活や宗教に関するすべてのことは、この部の定理三七および四六から容易に理解されうるからで
ある。すなわち憎しみは愛によって征服されなければならぬということ、および理性に導かれる
各人は自分のために欲求する善を他の人々のためにも欲するということから容易に理解されるの
である。これに加えて、我々がこの部の定理五〇の備考およびその他の諸個所で注意したことが
ある。それによれば、毅然とした精神の人間は、一切が神の本性の必然性から生ずることを特に
念頭に置き、したがってすべて不快に、邪悪に思われるもの、さらにすべて不敬に、嫌悪的に、
不正に、非礼に見えるものは、事物をまったく顛倒し、毀損し、混乱して考えることから起こる
ことを知っている。そこで彼は事物をそのあるがままに把握しょうとし、また真の認識の障害に
なるもの 〜 例えば憎しみ、怒り、ねたみ、嘲笑、高慢その他我々が前に注意したこの種のこと
ども 〜 を除去することに最も努める。それゆえまた彼は、すでに述べたように、できるだけ
「正しく行ないて自ら楽しむ」ことに努めるのである。
しかしこれを達成するにあたって人間の徳はどの程度まで及び、そしてまた何をなしうるかは
次の部で証明するであろう。
86
付 録
この部で正しい生活法について述べたことは一覧して見通せるようなふうには配列されていな
い。私は、一を他からより容易に導き出しえたところに従って分散的にこれを証明しているので
ある。だから私はここでそれを総括して主要項目に還元してみることにした。
第一項 我々のすべての努力ないし欲望は我々の本性の必然性から生ずるのであるが、それは、
その最近原因としての我々の本性のみによって理解されるような仕方で生ずるか、それとも我々
が他の個体なしに白身だけでは妥当に考えられないような自然の一部分である限りにおいて生ず
るか、そのどちらかである。
第二項 我々の本性のみによって理解されるような仕方で我々の本性から生ずる欲望は、妥当
な観念から成ると考えられる限りにおける精神に帰せられる欲望である。これに反してその他の
欲望は、物を非妥当に考える限りにおける精神にのみ帰せられる。そして後者のような欲望のカ
および発展は、人間の能力によってではなく、我々の外部にある諸物の力によって規定されなけ
ればならぬ。ゆえに前者のごとき欲望は能動と呼ばれ、後者のごとき欲望は受動と呼ばれるべき
である。なぜなら、前者は常に我々の能力を表示し、反対に後者は我々の無能力および毀損した
認識を表示するからである。
第三項 我々の能動 〜 言いかえれば人間の能力ないし理性によって規定されるような欲望
〜 は、常に善であり、これに反してその他の欲望は、善でも悪でもありうる。
第四項 だから人生において何よりも有益なのは知性ないし理性をできるだけ完成することで
あり、そしてこの点にのみ人間の最高の幸福すなわち至福は存する。なぜなら、至福とは神の直 (至福)
観的認識から生ずる精神の満足そのものにほかならないのであり、他方、知性を完成するとはこ
れまた神、神の諸属性、および神の本性の必然性から生ずる諸活動を認識することにほかならな
いからである。ゆえに理性に導かれる人間の究極目的、言いかえれば、彼が他のすべての欲望を
統御するにあたって規準となる最高欲望は、彼自身ならびに彼の認識の対象となりうる一切の物
を妥当に理解するように彼を駆る欲望である。
第五項 だから妥当な認識なしには理性的な生活というものはありえない。そして物は、妥当
な認識作用を本領とする精神生活を享受することにおいて人間を促進する限り、その限りにおい
てのみ善である。これに反して人間が理性を完成して理性的な生活を享受するのに妨げとなるも
の、そうしたもののみを我々は悪と呼ぶのである。
第六項 しかし人間自身を起成原因として生ずるすべてのものは必然的に善なのであるから、
したがって悪は人間にとってただ外部の原因からのみ起こりうる。すなわち人間が全自然の一部
分であってその諸法則に人間本性は服従するように迫られ、ほとんど無限に多くの仕方で人間本
性は全自然に順応するように強いられる、ということからのみ悪は人間に起こりうるのである。
第七項 しかも人間が自然の一部分でないということ、また人間が自然の共通の秩序に従わな
いということは不可能である。だがもし人間が自己自身の本性と一致するような個体の間に生活 88
するなら、まさにそのことによって人間の活動能力は促され、養われるであろう。これに反して
もし自己の本性と全然一致しないような個体の間に在るなら、彼は自己自身を大いに変化させる
ことなしには彼らに順応することがほとんど不可能であろう。
第八項 自然の中に存在するもので我々がそれを悪である、あるいは我々の存在ならびに理性
的な生活の享受に妨害となりうる、と判断するもの、そうしたすべてのものを我々は最も確実と
思える方法で我々から遠ざけてよい。これに反してそれは善である、あるいは我々の有の維持な
らびに理性的な生活の享受に有益である、と我々の判断するものが存するなら、我々はそうした
すべてのものを我々の用に供し、あらゆる仕方でこれを利用してよい。一般的に言えば、各人は
自己の利益に寄与すると判断する事柄を最高の自然権によって遂行することが許されるのである。
第九項 ある物の本性と最もよく一致しうるものはそれと同じ種類に属する個体である。した
がって(第七項により)人間にとってその有の維持ならびに理性的な生活の享受のためには、理性
に導かれる人間ほど有益なものはありえない。ところで、個物の中で理性に導かれる人間ほど価
値あるものを我々が知らないのであるからには、すべて我々は人々を教育してついに人々を各自
の理性の指図に従って生活するようにさせてやることによって、最もよく自分の技倆と才能を証
明することができる。
第一〇項 人間は相互に対してねたみあるいは何らかの憎しみの感情に駆られる限りその限り
において相互に対立的である。したがってまた、人間は自然の他の個体よりいっそう有能である
だけにそれだけ相互にいっそう恐るべき敵なのである。 (人間、恐るべき敵)
第一一項 しかし人間の心は武器によってでなく愛と寛仁とによって征服される。
第一二項 人間にとっては、たがいに交わりを結び、そして自分たちすべてを一体となすのに
最も適するような紐帯によって相互に結束すること、一般的に言えば、友情の強化に役立つよう
な事柄を行なうこと、これが何より有益である。
第一三項 しかしこれをなすには技倆と注意が必要である。なぜなら、人間というものは種々
多様であり(理性の指図に従って生活する者は稀であるから)、しかも一般にねたみ深く、同情に
よりも復讐に傾いている。ゆえに彼らすべての意向に順応し、それでいて彼らの感情の模倣に陥
らないように自制するには、特別な精神の能力を要する。一方、人間を非難し、徳を教えるより
は欠点をとがめ、人間の心を強固にするよりはこれを打ち砕くことしか知らない人は、自分でも
不快であり他人にも不快を与える。このような次第で多くの人は、過度の性急さと誤った宗教熱
とのゆえに、人間の間に生活するよりも野獣の間に生活することを欲した。これは親の叱責を平
気で堪えることができない少年もしくは青年が家を捨てて軍隊に走り、家庭の安楽と父の訓戒と (軍隊)
の代りに戦争の労苦と暴君の命令とを選び、ただ親に復讐しようとするためにありとあらゆる負
担を身に引受けるのにも似ている。
第一四項 このように人間は大抵自己の欲望に従って一切を処理するものであるけれども、人
間の共同社会からは損害よりも便利がはるかに多く生ずる。ゆえに彼らの不法を平気で堪え、和
合および友情をもたらすのに役立つことに力を至すのがより得策である。
第一五項 この和合を生むものは正義、公平、端正心に属する事柄である。なぜなら人間は不 90
正義なこと、不公平なことばかりでなく非礼と思われること、すなわち国家で認められている風
習が何びとかに犯されるようなことも堪えがたく感ずるからである。
さらに進んで愛を得るには宗教心および道義心に属することが最も必要である。
これらのことについては第四部の定理三七の備考一と二、定理四六の備考および定理七三の備
考を見よ。
第一六項 そのほかに和合はしばしば恐怖から生まれるのが常である。しかしこれは信義の蓑
つけのない和合である。これに加えて、恐怖は精神の無能力から生ずるものであり、したがって
理性にとっては無用である。あたかも憐憫が道義心の外観を帯びているにもかかわらず理性にと
って無用であるのと同様に。
第一七項 なおまた人間は施与によっても征服される。特に生活を支える必需品を調達するす
べを持たない人々はそうである。しかしすべての困窮者に援助を与えることは一私人の力と利害
をはるかに凌駕する。一私人の富はこれをなすのに到底及ばないからである。それにまたただ一
人の人間の能力はすべての人と友情を結びうるにはあまりに制限されている。ゆえに貧者に対す
る配慮は社会全体の義務であり、もっぱら公共の福祉の問題である。 (福祉)
第一八項 親切を受け容れまた感謝を表わすにあたってはこれとまったく異なった配慮がなさ
れなくてはならぬ。これについては第四部定理七〇の備考および定理七一の備考を見よ。
第一九項 なおまた肉的愛、言いかえれば外的美から生ずる生殖欲、また一般的には精神の自
由以外の他の原因を持つすべての愛は容易に憎しみに移行する(ただしその愛が狂気の一種にま
でなっている 〜 これはもっとしまつの悪い場合であるが 〜 ならこの限りでない)。こうした
場合には和合よりも不和がいっそう多くはやくまれる。第三部定理三一の備考を見よ。
第二〇項 結婚に関して一言えば、もし性交への欲望が外的美からのみでなく、子を生んで賢明 (結婚)
に教育しようとする愛からも生ずるとしたら、その上もし両者 〜 男と女 〜 の愛が外的実のみ
でなく特に精神の自由にも基づくとしたら、それは理性と一致することが確実である。
第二一項 阿訣(あゆ)もまた和合を生ずるがそれは醜悪な屈従もしくは背信によってである。だが阿
訣に最も多く捉えられるのは、第一人者たらんと欲してそうではない高慢な人間である。
第ニニ項 自卑には道義心および宗教心という虚偽の外観がつきまとっている。そして、自卑
は高慢の反対であるけれども、自卑的な人間は高慢な人間に最も近い。第四部定理五七の備考を
見よ。
第二三項 恥辱もまた和合に寄与するところがある。しかしこれは匿(かく)すことのできぬ事柄につ
いてだけである。それに、恥辱そのものは悲しみの一種だから理性にとっては無用である。
第二四項 他人に対して向けられたその他の悲しみの感情は正義、公平、端正心、道義心およ
び宗教心の正反対である。憤慨のごときは公平の外観を帯びているけれども、もし他人の行為に
ついて審判して自己もしくは他人の権利を擁護することが各人に許されるとしたら、人間は無法
律で生活することになる。
第二五項 礼譲、言いかえれば人々の気に入ろうとする欲望は、それが理性によって決定され
る場合は道義心に属し(第四部定理三七の備考一で述べたように)、これに反してそれが感情から 92
生ずる場合は名誉欲、すなわち人間が道義心の仮面のもとにしばしば不和と争闘をひき起こす欲
望となる。なぜなら〔理性によって決定される人すなわち〕、他の人々が自分とともに最高の善を
享受するように助言ないし実践をもって彼らを助けようと欲する人は、特に彼らの愛をかち得よ
うとつとめはするであろうが、彼らに驚嘆されて自分の教えが自分の名前によって呼ばれるよう
にしようとは努めないであろうし、また一般に、ねたみを招くようないかなる機縁をも作らない
ようにするであろう。また普通の会話においても人の短所を挙げることを慎み、人の無能力につ
いてはわずかしか語らないように注意し、これと反対に、人間の徳ないし能力について、またそ
れを完成する方法については大いに語るようにするであろう。このようにして彼は、人々が恐怖
や嫌悪からでなく、ただ喜びの感情のみに動かされてできるだけ理性の指図による生活をしよう
と努めるようにさせるであろう。
第二六項 自然の中で我々は人間のほかに、その物の精神を我々が楽しみうるような、また、
我々がその物と友情あるいはその他の種類の交際を結びうるような、そうしたいかなる個物も知
らない。ゆえに我々の利益というものを顧慮すれば、人間以外に自然に存するものをすべて保存
するようなことは必要でない。むしろそれらをその種々多様な用途に従って保存したり、破壊し
たり、あるいはあらゆる方法でこれを我々の用に順応させたりするように我々の利益への顧慮は
要求するのである。
第二七項 我々が我々以外の物から引き出す利益は、まず我々がそれらの物を観察したり、そ
れらの物の形相をさまざまに変化させたりすることによって得られる経験と認識とであるが、そ
のほかには何といっても身体の維持ということである。この点から見れば、身体のすべての部分
がその機能を正しく果しうるようなふうに身体を養いはぐくみうるものが何より有益である。な
ぜなら、身体が多くの仕方で刺激されうることに、また多くの仕方で外部の物体を刺激しうるこ
とにより適するのに従って、精神は思惟することにそれだけ適するからである(第四部定理三八
および三九を見よ)。しかしそうした種類のものは自然の中にきわめてわずかしかないように見
える。ゆえに身体を必要なだけ養うためには、本性を異にする多様の養分を取らなければならぬ。
実際、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されていて、これらの部分は、全
身がその本性上なしうるすべてのことに対して等しく適するためには、したがってまた精神が多
くの事柄を把握することに等しく適するためには、たえず種々の養分を必要とするからである。
第二八項 しかしこれを調達するには、人間が相互に助け合わない限り、個々人の力だけでは
ほとんど十分でないであろう。ところですべての物が簡単に貨幣で代表されるようになった。こ
の結果として通常貨幣の表象像が大衆の精神を最も多く占めるようになっている。人々は、金銭
がその原因と見られないような喜びの種類をほとんど表象することができないからである。
第二九項 しかしこうしたことは、欠乏や生活の必要から金銭を求める人々についてではなく、
貨殖の術を学んでこれを誇りとするがゆえに金銭を求めるような人々についてのみ非難されるべ
きである。もともとこうした人々は習慣上身体を養ってはいるが身体の維持についやすものを財
産の損失と信ずるがゆえに出し吝(お)しみしながら身体を養っている。これに反して金銭の真の用途
を知り富の程度を必要によってのみ量る人々は、わずかなもので満足して生活する。 94
第三〇項 このように、身体の諸部分をその機能の遂行に関して促進するものが善であり、ま
た喜びは人間の精神的および身体的能力が促進され増大されることに存するのだから、このゆえ
に、すべて喜びをもたらすものは善である。しかし一方、物は我々を喜びに刺激する目的ではた
らいているのでなく、また物の活動能力は我々の利益に従って調整されるものでなく、最後にま
た喜びは大抵の場合主として身体の一部分にのみ関係するのであるから、このゆえにおおむね喜
びの感情は(もし理性と用心とを欠くならば)過度になり、したがってそれから生ずる欲望もまた
過度になる。これに加えて、我々は現在において快適なものを感情に基づいて最も重要なものと
思い、そして未来のものを精神の等しい感情をもって評価することができない。第四部定理四四
の備考および定理六〇の備考を見よ。
第三一項 迷信はこれと反対に悲しみをもたらすものを善、喜びをもたらすものを悪と認めて
いるように見える。だが、すでに述べたように(第四部定理四五の備考を見よ)、ねたみ屋以外の
いかなる人間も私の無能力や苦悩を喜びはしない。なぜなら、我々はより大なる喜びに刺激され
るに従ってそれだけ大なる完全性に移行し、したがってまたそれだけ多く神の本性を分有するか
らである。その上喜びは、我々の利益への正当な顧慮によって統御される限り、決して悪であり
えない。これに反して、恐怖に導かれて悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない
のである。
第三二項 しかし人間の能力はきわめて制限されていて、外部の原因の力によって無限に凌駕
される。したがって我々は、我々の外に在る物を我々の使用に適合させる絶対的な力を持ってい
ない。だがたとえ我々の利益への考慮の要求するものと反するようなできごとに遇っても、我々
は自分の義務を果したこと、我々の有する能力はそれを避けうるところまで至りえなかったこと、
我々は単に全自然の一部分であってその秩序に従わなければならぬこと、そうしたことを意識す
る限り、平気でそれに耐えるであろう。もし我々がこのことを明瞭判然と認識するなら、妥当な
認識作用を本領とする我々自身のかの部分、すなわち我々自身のよりよき部分はそれにまったく
満足し、かつその満足を固執することに努めるであろう。なぜなら、我々は妥当に認識する限り
において、必然的なもの以外の何ものも欲求しえず、また一般に、異なるもの以外の何ものにも
満足しえないからである。それゆえに、我々がこのことを正しく認識する限り、その限りにおい
て、我々自身のよりよき部分の努力〔欲望〕は全自然の秩序と一致する。
第四部 終り
第 五 部
序言、公理、一、二、
定理、一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、第四部TOP、第五部TOP、TOP☆
知性の能力あるいは人間の自由について
序 言
最後に私は自由に達する方法ないし道程に関する倫理学(エチカ)の他の部分に移る。私はこの部で理性
の能力について論ずるであろう。すなわち理性そのものが感情に対して何をなしうるかを示し、
次に精神の自由ないし至福とは何であるかを示すであろう。これによって我々は賢者が無知者よ
りどれだけ有能であるかを見るであろう。しかし知性はいかなる方法、いかなる道程で完成され
なければならぬか、さらにまた身体はその機能を正しく果しうるためにはいかなる技術で養護さ
れなければならぬかはここには関係しない。なぜなら後者は医学に属し、前者は論理学(ロギカ)に属する
からである。ゆえにここでは、今も言ったように、精神ないし理性の能力だけについて論ずるで
あろう。特に、それが感情を抑制し統御するために、感情に対してどれだけ大きなまたどのよう
な種類の権力を有するかを示すであろう。なぜなら、我々が感情に対して絶対的権力を有しない
ことはすでに前に証明したからである。
ストア学派では感情が絶対に我々の意志に依存して我々は感情を絶対に支配しうると信じてい
た。けれども彼らは、経験の抗議により、彼ら自身の原理に反して、「感情を抑制し統御するに 98
は少なからぬ訓練と労力を要する」ということを容認せざるをえなくなった。ある人はこれを
(私の記憶に誤りがなければ)二匹の犬、一は家犬、他は猟犬、の例によって示そうと試みた。す
なわちその人は訓練によってついに、家犬が猟をするように、また反対に猟犬が野兎を追うこと
を止めるように、慣らすことができたというのである。
デカルトも少なからずこの意見に傾いている。なぜなら彼は、魂つまり精神は松臭腺と呼ばれ
る脳の一定部分と特別に結合していること、この腺を介して精神は身体内に起こるすべての運動
ならびに外部の対象を感覚すること、そして精神は単に意志するだけでこの腺を種々さまざまに
動かしうること、そうしたことを主張しているからである。
彼の主張によれば、この腺は脳の中央に懸(かか)っていて動物精気のごく微細な運動によっても動か
されうるようになっている。なお、動物精気が多くの異なった仕方でこの腺を衝くのに応じてこ
の腺は脳の中央においてそれだけ多くの異なった状態を呈すること、さらにまた動物精気をこの
腺に向かって推進せしめる外部の対象が種々異なるのに応じてそれだけ多くの異なった痕跡がこ
の腺に刻印されることを彼は主張している。したがって、もし松果腺があとで、これを多種多様
に動かしうる精神の意志によって、かつてさまざまに刺激された精気の活動のもとに呈したこと
のあるこのあるいはかの状態を呈すると、今度はこの腺自身が、以前にこれと類似の腺状態にお
いて動物精気を体内に押し戻したのと同じ仕方で、精気を推進せしめかつ指導するようになる。
なおまた彼は精神のそれぞれの意志が自然的に一定の腺運動と結合していると主張する。例え
ばある人が遠方の対象を見ようとする意志を持つなら、この意志は瞳孔の拡大をひき起こすであ
ろう。しかし単に瞳孔を拡大しようと思う場合、その意志を持っても瞳孔は拡大しないであろう
なぜなら自然は、瞳孔の拡大ないし縮小をきたすように精気を視神経へ推進せしめる役目をなす
腺運動を、瞳孔を拡大ないし縮小しようとする意志とは連結しないで、遠くのあるいは近くの対
象を見ようとする意志にのみ連結したからである。
最後に彼は、この腺のそれぞれの運動は我々が生まれた時以来自然的に我々のそれぞれの思想
と連絡されているように見えるけれども、それにもかかわらずこの運動を習慣によって他の思想
と連結することもできると主張し、これを彼は『感情論』第一部第五〇節で証明しようと試みて (『感情論』)
いる。
これによって彼は、いかなる精神も、適当に指導されるならば、自己の感情〔受動感情〕に対し
て絶対権を得られないほど薄弱なものではないと結論する。なぜなら、感情は彼の定義に従えば
「知覚あるいは感覚あるいは精神の動きであって、これらはもっばら精神の領域に属し、そして
これらは(ここに注意!)精気のある運動によって産出され、維持され、強化される」のである
(『感情論』第一部第二七節を見よ)。ところが我々は松果腺の各運動を、したがってまた動物精 (デカルト)
気の各運動を、任意の意志と結合することができるのであり、また意志の決定は我々の力にのみ
依存するのであるから、このゆえにもし我々が自分の生活活動の規準としている一定の確実な判
断によって自分の意志を決定し、そして自分の持とうと欲する感情の動きをこれらの判断と結合
するならば、我々は自分の感情に対して絶対的権力をかち得ることになるであろう。
これがかの有名な人の見解である(私が彼の言葉から推知する限り)。もしこの見解がこれほど 100
尖鋭なものでなかったとしたら、私はそれがこのように偉大な人から出たとはほとんど信じなか
ったであろう。それ自体で明白な諸原理からでなくては何ごとも導出せぬことを、また明瞭判然
と知覚したことがら以外の何ごとも肯定しないことを断乎と主張し、スコラ学派が不明瞭な物を
隠れた性質によって説明しようと欲したことをあれほどしばしば非難した哲学者その人が、あら
ゆる隠れた性質よりもいっそう隠微な仮説を立てるとは実に不思議にたえないのである。
いったい彼は、精神と身体との結合をいかに解しているのか。またいったい彼は、延長のある
小部分〔松果腺〕と最も密接に結合した思惟についていかなる明瞭判然たる概念を有しているのか。
実に私は彼がこの結合をその最近原因によって説明して欲しかったのである。ところが彼は精神
を身体から截然(せつぜん)と区別して考えていたので、この結合についても、また精神自身についても、何
ら特別な原因を示すことができないで、全宇宙の原因へ、すなわち神へ、避難所を求めざるをえ
なかったのである。それから私は、精神がいかなる程度の動きをかの松臭腺に与えうるのか、ま
たどれだけの力で精神は松果腺をある状態に保ちうるのかを知りたい。なぜならこの腺は、精神
によって動かされる場合、動物精気によって動かされる場合よりもより遅く動くのかそれともよ
り速く動くのか、また我々が確実な判断と密接に結合させた感情の動きが物体的原因によって再
びこれらの判断から分離するということがありえないかどうか、そうしたことについて私は何も
聞いていないからである。もしそういうことがありうるとしたら、たとえ精神が断乎と危難に赴
こうと企て、この決意に大胆という心の動きを結合するとしても、危難を目撃するや否や松臭腺
がある状態を呈してそのため精神が逃亡しか思惟しないというようなことにもなるであろう。し
かし実際のところは、意志と運動との間には何の関係もないのだから、精神の能力ないし力と身
体の能力ないし力との間には何の比較もありえないのである。したがってまた身体の力は決して
精神の力によって決定されえないのである。その上に、この腺が脳の中央に懸っていて、そのよ
うに容易にまたそのように多くの仕方で動かされうるということはないのであり、またすべての
神経がみな脳窩(のうか)にまで続いているわけではないのである。
最後に彼が意志およびその自由について主張したすべての事柄はこれを省略する。なぜなら、
それらが誤りであることは私の十二分に明らかにしたところであるから。
ところで、精神の能力は、さきに私の示したように、もっぱら妥当な認識作用にのみあるので
あるから、感情に対する療法 〜 私の信ずるところではそうしたものを誰でもみな経験して知っ
ているのであって、ただそれを正確に観察したり判然と識別したりしていないだけなのである
〜 を我々はただ精神の認識によって決定し、精神の至福に関するすべてのことをこの認識から
導き出すであろう。
公 理
一 もし同じ主体の中に二つの相反する活動が喚起されるならば、両者が相反することを止め
るまでは、両者の中にか両者の一方の中にか必ずある変化が起こらざるをえないであろう。
二 結果の本質がその原因の本質によって説明され・規定される限り、結果の力はその原因の
力によって規定される。
この公理は第三部定理七から明らかである。 102
定理一 思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのにまったく相応して、
身体の変状あるいは物の表象像は新体の中で秩序づけられ・連結される。
証明 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であり(第二部定理七により)、また
逆に物の秩序および連結は観念の秩序および連結と同一である(第二部定理六および七の系によ
り)。ゆえに観念の秩序および連結が精神の中で身体の変状の秩序および連結に相応して行なわ
れるように(第二部定理一八により)、逆に(第三部定理二により)身体の変状の秩序および連結は
思想および物の観念が精神の中で秩序づけられ・連結されるのに相応して行なわれる。Q・E・
D・
定理二 もし我々が精神の動きあるいは感情を外部の原因の思想から分離して他の思想と結合
するならば、外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、ならびにそうした感情から生ずる精神の動
揺は破壊されるであろう。
証明 なぜなら、愛あるいは憎しみの形相を構成するものは外部の原因の観念を伴った喜びあ
るいは悲しみである(感情の定義六および七により)。ゆえにこの観念が除去されれば愛あるいは
憎しみの形相も同時に除去される。したがってそうした感情ならびにそれから生ずる諸感情は破
壊される。Q・E・D・
定理三 受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動で
あることを止める。
証明 受動という感情は混乱した観念である(感情の総括的定義により)。ゆえにもし我々がそ
の感情について明瞭判然たる観念を形成するならば、この観念と、精神のみに関係する限りにお
いての感情そのものとの間には、ただ見方の相違以外のいかなる柑違もないであろう(第二部定
理一二およびその備考により)。したがって(第三部定理三により)感情は受動であることを止め
るであろう。Q・E・D・
系 ゆえに我々が感情をよりよく認識するに従って感情はそれだけ多く我々の力の中に在り、
また精神は感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。
定理四 我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しな
い。
証明 すべての物に共通したものは妥当にしか考えられ〔概念され〕えない(第二部定理三八に
より)。したがって(第二部定理一二、および定理一三の備考のあとにある補助定理二により)
我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない。Q・
E・D・
系 この帰結として、我々が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる感情も 104
存しないことになる。なぜなら、感情は身体の変状の観念であり(感情の総括的定義により)、し
たがって(前定理により)その中には何らかの明瞭判然たる概念が含まれていなければならぬから
である。
備考 存在するすべてのものは必ず何らかの結果を生ずるのであり(第一部定理三六により)、
また我々は我々の中における妥当な観念から生ずるすべてのものを明瞭判然と認識するのである
から(第二部定理四〇により)、この帰結として、各人は自己ならびに自己の諸感情を、たとえ絶
対的にでないまでも、少なくとも部分的には、明瞭判然と認識する力を、したがってまたそれら
の感情から働きを受けることをより少なくするカを有するということになる。ゆえに我々が特に
つとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精
神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに
思惟を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の思想から分離して真の
思想と結合させるようにすることである。
これによってただ愛・憎しみなどが破壊されるばかりでなく(この部の定理二により)、さらに
またそうした感情から生ずるのを常とする衝動ないし欲望も過度になりえないことになろう(第
四部定理六一により)。というのは、人間が働きをなす〔能動する〕と言われるのも働きを受ける
〔受動する〕と言われるのも同一の衝動によるのであることを我々は何よりも注意しなくてはなら
ない。例えば、前に示したように、人間はその本性上他の人々が己れの意向通りに生活すること
を欲求〔衝動〕するものであるが(第三部定理三一の備考を見よ)、この衝動は、理性によって導か
れない人間にあっては受動であって、この受動は名誉欲と呼ばれ、高慢とあまり違わないのであ
り、これに反して理性の指図によって生活する人間にあってはそれは能動ないし徳であって、こ
れは道義心と呼ばれる(第四部定理三七の備考一およびその定理の第二の証明を見よ)。このよう
にしてすべての衝動ないし欲望は非妥当な観念から生ずる限りにおいてのみ受動であり、その同
じ衝動ないし欲望が妥当な観念によって喚起されあるいは生じさせられる時には徳に数えられる
のである。なぜなら、我々をある行動に決定するすべての欲望は、妥当な観念からも非妥当な観
念からも生じうるからである(第四部定理五九を見よ)。
さて(再び出発点に立ちもどって)感情に対しては、感情を真に認識することに存するこの療法
を措(お)いては我々の力の中に存するこれよりいっそうすぐれた他の療法は考えられえないのである。
実に精神の能力と言っても、上に示したように(第三部定理三により)、思惟しかつ妥当な観念を
形成する以外のいかなる能力も存しないのであるから。
定理五 我々が単純に表象するのみで必然的とも可能的とも偶然的とも表象しない物に対する
感情は、その他の事情が等しければ、すべての感情のうちで最大のものである。
証明 我々が自由なものとして表象する物に対する感情は、必然的な物に対する感情よりも大
であり(第三部定理四九により)、したがって我々が可能的あるいは偶然的と表象する物に対する
感情よりもさらにいっそう大である(第四部定理二一により)。ところが何らかの物を自由なもの
として表象するとは、その物が行動に決定された原因を我々が知らないで、その物をただ単純に 106
表象するということにほかならない(第二部定理三五の備考において示したところにより)。ゆえ
に我々が単純にのみ表象する物に対する感情は、その他の事情が等しければ、必然的・可能的あ
るいは偶然的な物に対する感情よりも大であり、したがってまたそれは最大のものである。Q・
E・D・
定理六 精神はすべての物を必然的として認識する限り、感情に対してより大なる能力を有し
あるいは感情から働きを受けることがより少い。
証明 精神はすべてのものが必然的であること(第一部定理二九により)、また原因の無限な連
結によって存在および作用へ決定されること(第一部定理二八により)を認識する。したがって
(前定理により)そのことによって精神は、そうした物から生ずる感情から働きを受けることがよ
り少ないように、また(第三部定理四八により)そうした物に対して刺激を感ずることがより少な
いようにすることができる。Q・E・D・
備考 物が必然的であるというこの認識が、我々のより判然とまたより生き生きと表象する個
物の上により多く及ぶに従って、感情に対する精神のこの能力はそれだけ大である。このことは
経験によっても実証される。なぜなら、失われた善に対する悲しみは、その善を失った人間がい
かなる仕方でもその善を保持することができなかったと考える場合、ただちに軽減されるのを
我々は知っているからである。同様にまた、幼児が話すことも散歩することも推理することもで
きず、その上に幾年間も自己意識を欠いたような生活をするからといって、誰も幼児を憐まない
ことを我々は知っている。しかしもし多くの人が成人として生まれ、一、二の者が幼児として生
まれるのだとしたら、誰しも幼児を憐むであろう。なぜならこの場合は、人は幼児の状態を自然
的あるいは必然的なものとは見ないで、自然の欠陥あるいは過失として見るからである。こうし
たことについて我々は、なお他に多くの例を挙げることができる。
定理七 理性から生じあるいは理性によって喚起される感情は、時間〔持続〕という点から見れ
ば、不在として観想される個物に関する感情よりも強力である。
証明 我々が物を不在として観想するのはその物自身から受ける刺激によってではなく、その
物の存在を排除する他の刺激を身体が受けることによるのである(第二部定理一七により)。ゆえ
に我々が不在として観想する物に関する感情は、その本性上人間のその他の活動や能力を凌駕す
るようなものではなく(これについては第四部定理六を見よ)、むしろ反対にその外部の原因の存
在を排除する諸刺激によって多かれ少なかれ阻害されうるようなものである(第四部定理九によ
り)。ところが理性から生ずる感情は必然的に物の共通の諸特質に関係し(第二部定理四〇の備考
二における理性の定義を見よ)、この共通の諸特質を我々は常に現在するものとして観想し(なぜ (理性)
ならそうしたものの現在的存在を排除する何ものも存しえないから)、そして我々はこれを常に
同じ仕方で表象する(第二部定理三八により)。ゆえにこうした感情は常に同一にとどまる。した
がってまた(この部の公理一により)そうした感情に相反するしかも外部の原因から支えられない
感情は、しだいしだいにそうした感情に順応して、ついにはそれと相反しなくなるところまで来 108
ざるをえないであろう。こうした限りにおいて、理性から生ずる感情の方がより強力である。
Q・E・D・
定理八 感情は共にはたらくよ少多くの原因から同時に喚起されるに従ってそれだけ大である。
証明 同時に存在する多くの原因は少数の原因よりも多くの能力を有する(第三部定理七によ
り)。したがって(第四部定理五により)感情はより多くの原因から喚起されるに従ってそれだけ
強力である。Q・E・D・
備考 この定理はこの部の公理二からも明らかである。
定理九 精神が同時に観想する多くの異なった原因に関係する感情は、ただ一つの原因あるい
は少数の原因に関係する等しい大いさの他の感情の場合に比し、害がより少なく、我々はそれか
ら働きを受けることがより少なく、また我々はその原因のおのおのに対して刺激を感ずることが
より少ない。
証明 感情は精神の思惟する能力を妨げる限りにおいてのみ悪あるいは有害である(第四部定
理二六および二七により)。したがって精神を同時に多くの対象を観想するように決定する感情
は、精神をただ一つだけのあるいは少数の対象のみの観想に拘束しておいて他のことを思惟しえ
ないようにさせる等しい大いさの他の感情よりも害がより少ない。これが第一の点であった。次
に精神の本質すなわち(第三部定理七により)精神の能力はただ思惟にのみ存するのであるから
(第二部定理一一により)、このゆえに精神は、多くの物を同時に観想するように自分を決定する
感情からは、ただ一つあるいは少数の対象のみの観想に自分を拘束しておく等しい大いさの他の
感情からよりも働きを受けることがより少ない。これが第二の点であった。最後にこうした感情
は(第三部定理四八により)、外部の多数の原因に関係する限り、その原因のおのおのに対しても
より小さい。Q・E・D・
定理一〇 我々は、我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従
って身体の変状〔刺激状態〕を秩序づけ・連結する力を有する。
証明 我々の本性と相反する感情、言いかえれば(第四部定理三〇により)悪しき感情は、精神
の認識する働きを妨げる限りにおいて悪なのである(第四部定理二七により)。したがって我々が
我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、物を認識しようと努める精神の能力(第四部定
理二六により)は妨げられないのである。ゆえにその間は、精神は明瞭かつ判然たる観念を形成
し・一の観念を他の観念から導出する力を有する(第二部定理四〇の備考二および定理四七の備
考を見よ)。したがってまた(この部の定理一により)その間は、我々は知性に一致した秩序に従
って身体の変状を秩序づけ・連結する力を有するのである。Q・E・D・
備考 身体の変状を正しく秩序づけ・連結するこの力によって我々は、容易に悪しき感情に刺
激されないようにすることができる。なぜなら(この部の定理七により)知性と一致した秩序に従
って秩序づけられ・連結された感情を阻止するには、不確実で漠然たる感情を阻止するよりもい 110
っそう大なる力を要するからである。ゆえに、我々の感情について完全な認識を有しない間に我
我のなしうる最善のことは、正しい生活法あるいは一定の生活待を立て、これを我々の記憶に留
め、人生においてしばしば起こる個々の場合にたえずそれを適用することである。このようにし
て我々の表象力はそうした生活律から広汎な影響を受け、その生活律は常に我々の眼前にあるこ
とになるであろう。
例えば我々は憎しみを愛もしくは寛仁によって征服すべきであって憎み返しによって報いては
ならぬことを生活律の中にとり入れた(第四部定理四六およびその備考を見よ)。しかし理性のこ
の指図が必要ある場合に常に我々の眼前にあるためには、人間が通常加えるもろもろの不法を思
い浮かべ、これを再三熟慮し、かつ寛仁によってそれが最もよく除去されうる方法と経路とを考
ぇておかなくてはならぬ。このようにすれば我々は不法の表象像をこの生活律の表象と結合する
ことになり、そして(第二部定理一八により)我々に不法が加えられた場合に、この生活律は常に
我々の眼前にあることになるであろう。その上我々が我々の真の利益について、また相互の友情
と共同社会から生ずる善について、たえず考慮するならば、そしてさらに、正しい生活法から精
神の最高の満足が生ずること(第四部定理五二により)、また人間は存在する他のすべてのものと
同様に自然の必然性によってしか行動しえないものであることをたえず念頭に置くならば、不法
あるいは不法から生ずるのを常とする憎しみは、単に我々の表象力の極小部分のみを占め、容易
に征服されるであろう。たとえきわめて大なる不法から生ずるのを常とする怒りはそう容易には
征服されないとしても、それはしかし 〜 たとえ心情の動揺を経てではあっても 〜 こうしたこ
とをあらかじめ熟慮しなかった場合よりもはるかに短期間に征服されるであろう。これはこの部
の定理六、七および八から明らかである。
同様に我々は、恐怖を脱するためには勇気について思惟しなくてはならぬ。すなわち人生にお
いて普通に起こるもろもろの危難を数え上げ、再三これを表象し、そして沈着と精神の強さとに
よってそれを最もよく回避し・征服しうる方法を考えておかなくてはならぬ。
しかしここに注意しなければならぬのは、我々の思想および表象像を秩序づけるにあたっては、
常におのおのの物における善い点を眼中に置くようにし、こうして我々がいつも喜びの感情から
行動へ決定されるようにしなければならぬことである(第四部定理六三の系および第三部定理五
九により)。例えばある人が、自分はあまりに名誉に熱中しすぎることに気づいたなら、彼は名
誉の正しい利用について思惟し、なぜ人は名誉を求めなければならぬかまたいかなる手段で人は
それを獲得しうるかを思惟しなければならぬ。だが名誉の悪用〔弊害〕とか、その虚妄とか、人間
の無定見とか、その他そうした種類のことは思わないほうがよい。そうしたことは病的な精神か
らでなくては何びとも思惟しない事柄である。というのは、最も多く名誉欲に囚われた者は、自
分の求める名誉を獲得することについて絶望する時に、そうした思想をもって最も多く自らを苦
しめるものである。そして彼は、怒りを吐き出しつつもなお自分が賢明であるように見られよう
と欲するのである。これで見ても名誉の悪用やこの世の虚妄について最も多く呼号する者は、最
も多く名誉に飢えているのであることが確かである。
しかしこれは名誉欲に囚われている者にだけ特有なことでなく、すべて恵まれぬ運命をにない 112
かつ無力な精神を有する者に共通な現象である。なぜなら、貧乏でしかも食欲な者もまた金銭の
悪用や富者の罪悪を口にすることを止めないが、これによって彼は自分自身を苦しめ、かつ自分
の真のみならず他人の富もが彼の忿懣(ふんまん)の種であることを人に示す結果にしかなっていない。これ
と同様に、愛する女からひどく取り扱われた者もまた、女の移り気や、その不実な心や、その他
歌の文句にある女の欠点などのことしか考えない。しかも愛する女から再び迎えられると、これ
らすべてのことをただちに忘れてしまうのである。
ゆえに自己の感情および衝動を自由に対する愛のみによって統御しようとする者は、できるだ
け徳および徳の原因を認識し、徳の真の認識から生ずる歓喜をもって心を充たすように努力する
であろう。だが彼は人間の欠点を観想して人間を罵倒したり偽わりの自由の外観を喜んだりする
ようなことは決してしないであろう。そしてこれらのことを注意深く観察し(なぜならそれは困
難なことではないから)かつそれについて修練を積む者は、たしかに短期間のうちに自己の活動
を大部分理性の命令に従って導くことができるようになるであろう。
定理一一 表象像はより多くの物に関係するに従ってそれだけ頻繁である。言いかえればそれ
だけ繁く現われる。そしてそれだけ多く精神を占有する。
証明 なぜなら表象像あるいは感情がより多くの物に関係するに従ってそれを喚起し養いうる
原因がそれだけ多くなり、この原因のすべてを精神は(仮定により)その感情と同時に観想する。
したがってその感情はそれだけ頻繁である。言いかえればそれだけ繁く現われる。そして(この
部の定理八により)それだけ多く精神を占有する。Q・E・D・
定理一二 物の表象像は、他の表象像とよりも、我々が明瞭判然と認識する物に関する表象像
と、より容易に結合する。
証明 我々が明瞭判然と認識する物は、物の共通の特質であるか、それとも、共通の特質から
導き出されたものである(第二部定理四〇の備考二における理性の定義を見よ)。したがってそれ
はよりしばしば(前定理により)我々の中に喚起される。このゆえに、我々が物を表象する時、そ
れと同時に今言ったような物を観想することの方が他の物を観想することよりもより容易に起こ
りうる。したがってまた(第二部定理一八により)物の表象像は、他の表象像とよりも、今言った
ような物の表象像と、より容易に結合することになる。Q・E・D・
定理一三 表象像はより多くの他の表象像と結合するに従ってそれだけ繁く現われる。
証明 なぜなら、表象像がより多くの他の表象像と結合するに従って、それむ喚起する原因が
それだけ多くなるからである(第二部定理一八により)。Q・E・D・
定理一四 精神は身体のすべての変状あるいは物の表象像を神の観念に関係させることができ
る。
証明 精神が何らかの明瞭判然たる概念を形成しえないようないかなる身体的変状も存しない 114
(この部の定理四により)。したがって精神はすべての身体的変状を神の観念に関係させることが
できる(第一部定理一五により)。Q・E・D・
定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己な
らぴに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。
証明 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は喜びを感ずる(第三部定理五三によ
り)。しかもその喜びは神の観念を伴っている(前定理により)。したがって彼は(感情の定義六に
より)神を愛する。そして(同じ理由により)彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより
多いに従ってそれだけ多く神を愛する。Q・E・D・
定理一六 神に対するこの愛は精神を最も多く占有しなければならぬ。
証明 なぜなら、この愛は身体のすべての変状と結合している(この部の定理一四により)。そ
してそれらすべてによって養われる(この部の定理一五により)。したがってこの愛は(この部の
定理一一により)精神を最も多く占有しなければならぬ。Q・E・D・
定理一七 神はいかなる受動にもあずからず、またいかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動
かされない。
証明 すべての観念は神に関係する限り真である(第二部定理三二により)。言いかえれば(第
二部定義四により)妥当である。ゆえに(感情の総括的定義により)神はいかなる受動にもあずか
らない。次に神はより大なる完全性へ移行することも、またより小なる完全性へ移行することも
ありえない(第一部定理二〇の系二により)。したがって神は(感情の定義二および三により)いか
なる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされない。Q・E・D・
系 神は本来的な意味では何びとをも愛さずまた何びとをも憎まない。なぜなら、神は(前定
理により)いかなる喜びあるいは悲しみの感情にも動かされず、したがって神は(感情の定義六お
よび七により)何びとをも愛さずまた何びとをも憎まないのである。
定理一八 何びとも神を憎むことができない。
証明 我々の中における神の観念は妥当かつ完全である(第二部定理四六および四七により)。
ゆえに我々は神を観想する限り、その限りにおいて働きをなすものである(第三部定理三により)。
したがってまた(第三部定理五九により)神の観念を伴ったいかなる悲しみもありえない。言いか
えれば(感情の定義七により)何びとも神を憎むことができない。Q・E・D・
系 神に対する愛は憎しみに変ずることができない。
備考 しかし次のような駁論がなされるかもしれぬ。我々は神をすべての物の原因として認識
するのだから、まさにそのことによって我々はまた神を悲しみの原因と見るものである、と。だ
がこれに対して私は次のごとく答える、我々が悲しみの原因を認識する限り、その限りにおいて
悲しみは受動であることをやめる(この部の定理三により)。言いかえればその限りにおいてそれ 116
は悲しみであることをやめる(第三部定理五九により)。したがって我々が神を悲しみの原因とし
て認識する限り、我々は喜びを感ずるのである、と。
定理一九 神を愛する者は、神が自分を愛し返すように努めることができない。 (ゲーテ)
証明 もし人間がこのことに努めるとしたら、彼は(この部の定理一七の系により)自分の愛す
る神が神でないことを欲することになるであろう。したがってまた彼は(第三部定理一九により)
悲しみを感ずることを欲することになるであろう。これは(第三部定理二八により)不条理である。
ゆえに神を愛する者は云々。Q・E・D・
定理二〇 神に対するこの愛はねたみや嫉妬の感情に汚されることができない。むしろより多
くの人間が同じ愛の紐帯によって神と結合することを我々が表象するに従って、この愛はそれだ
け多くはぐくまれる。
証明 神に対するこの愛は我々が理性の指図に従って徴求しうる最高の善である(第四部定理
二八により)、そしてこの最高の善はすべての人に共通であって(第四部定理三六により)、我々
はすべての人がそれを楽しむことを欲する(第四部定理三七により)。したがってこの愛はねたみ
の感情に汚されることができないし(感情の定義二三により)、また嫉妬の感情に汚されることも
できない(この部の定理一八および嫉妬の定義による。嫉妬の定義は第三部定理三五の備考につ
いて見よ)。むしろ反対にこの愛は(第三部定理三一により)より多くの人間がこれを楽しむこと
を我々が表象するに従って、それだけ多くはぐくまれざるをえない。Q・E・D・
備考 この愛に直接的に相反していてこの愛を破壊させうるようないかなる感情も存しないこ
とは同様の仕方で明らかにすることができる。したがって我々は神に対するこの愛がすべての感
情のうちで最も恒久的なものであること、またこの愛が身体と結合する限りにおいては身体自身
とともにでなくては破壊されえないことを結論することができる。しかしそれが単に精神のみと
結合する限りにおいていかなる本性を有するかはあとで見るであろう。
これをもって私は感情に対するすべての療法を、あるいはそれ自体のみで見られた精神が感情
に対してなしうる一切のことを、総括した。これからして感情に対する精神の能力は次の点に存 (プルードン)
することが明白である。
一 感情の認識そのものに(この部の定理四の備考を見よ)。
二 我々が混乱して表象する外部の原因の思想から感情を分離することに(この部の定理二な
らびに今引用した定理四の備考を見よ)。
三 我々が妥当に認識する物に関係する感情は我々が混乱し毀損して把握する物に関係する感
情よりも時間〔持続〕という点でまさっているその時間〔持続〕という点に(この部の定理七を見よ)。
四 物の共通の特質ないし神に関係する感情はこれを養う原因が多数であるということに(こ
の部の定理九および一一を見よ)。
五 最後に、精神が自己の感情を秩序づけ・相互に連結しうるその秩序に(この部の定理一〇
の備考を、さらにまた定理一二、一三および一四を見よ)。 118
しかしながら感情に対する精神のこの能力をいっそう明瞭に理解するためにはまず第一に次の
ことを注意しなくてはならぬ。我々が一人の人間の感情を他の人間の感情と比較して同じ感情に
一人が他の人よりも多く捉われるのを見る時、あるいは我々が同一の人間の諸感情を相互に比較
してその人間が他の感情によりもある一つの感情に多く刺激され、動かされるのを知る時、我々
はその感情を大と呼ぶ。なぜなら(第四部定理五により)おのおのの感情の力は、我々の能力と比
較された外部の原因の力によって規定されるからである。ところが精神の能力は認識のみによっ
て規定され、これに反して精神の無能力ないし受動は単に認識の欠乏によって、言いかえれば非
妥当な観念を非妥当と呼ばしめるものによって、測られる。この帰結として、その最大部分が非
妥当な観念から成っている精神、すなわちその能動性においてよりもその受動性においていっそ
う多く識別される精神は、最も受動的な精神であることになり、これに反してその最大部分が妥
当な観念から成っている精神、すなわちたとえ他の精神と同様に多くの非妥当な観念を含んでい
てもなおかつ人間の無能力を表わす非妥当な観念によってよりも人間の徳に属する妥当な観念に
よっていっそう多く識別される精神は、最も能動的な精神であるということになるのである。
第二に次のことを注意しなければならぬ。心の病気や不幸は、主として、多くの変転に従属す
る物、我々の決して確実に所有しえない物に対する過度の愛から起こるのである。なぜなら、何
びとも自分の愛さない物のためには不安や心配に悩まされることがないし、また、もろもろの不
法・疑惑・敵意などは何びとも真に確実に所有しえない物に対する愛からのみ生ずるからである。
我々は以上から、明瞭判然たる認識、特に、神の認識そのものを基礎とするあの第三種の認識
(これについては第二部定理四七の備考を見よ)が感情に対して何をなしうるかを容易に理解する。
すなわちこの認識は、受動である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも(この部
の定理三と定理四の備考とを見よ)、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するよう
にさせうる(この部の定理一四を見よ)。次にこの認識は、不変にして永遠なる物(この部の定理
一五を見よ)、我々が真に確実に所有しうる物(第二部定理四五を見よ)に対する愛を生ずる。そ
のゆえにこの愛は通常の愛に潜(ひそ)むもろもろの欠点に汚されえずして、かえって常にますます大と
なることができ(この部の定理一五により)、そして精神の最大部分を占有して(この部の定理一
六により)、広汎な影響を精神に与えうるのである。
これで私はこの現在の生活に関する一切の事柄を終了した。なぜなら、私がこの備考の冒頭に
述べたように、これら若干の定理の中に感情に対するすべての療法が総括されていることは、こ
の備考の内容に、同時にまた、精神およびその諸感情の定義に、そして最後に第三部定理一およ
び三に、注意する者には誰にも容易に分かるであろう。
ゆえに今や身体に対する関係を離れた精神の持続に関する問題に移る時である。
定理二一 精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり・過去の事柄を想起したりするこ
とができない。
証明 精神は身体の持続する間だけしかその身体の現実的存在を表現しないし、またその間だ
けしか身体の変状を現実的なものとして把握しない(第二部定理八の系により)。したがって精神 120
は(第二部定理二六により)その身体の持続する間だけしかいかなる物体をも現実に存在するもの (表象)
として把握することがない。このゆえに精神は身体の持続する間だけしか物を表象したり(第二
部定理一七の備考における表象の定義を見よ)、過去の事柄を想起したり(第二部定理一八の備考
における記憶〔想起〕の定義を見よ)することができない。Q・E・D・
定理二二 しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念
が必然的に存する。
証明 神はこのまたはかの人間身体の存在の原因であるばかりでなく、またその本質でもある
(第一部定理二五により)。ゆえにその本質は必然的に神の本質そのものを通して考えられなけれ
ばならぬ(第一部公理四により)。しかもある永遠なる必然性によって考えられなければならぬ
(第一部定理一六により)。こうしてその概念は必然的に神の中に存しなければならぬ(第二部定
理三により)。Q・E・D・
定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残
存する。
証明 神の中には人間身体の本質を表現する概念ないし観念が必然的に存する(前定理により)。
この概念ないし観念は、それゆえ必然的に、人間精神の本質に属するあるものである(第二部定
理一三により)。ところが我々は人間精神に対して、人間精神が身体の現実的存在(それは持続に
よって説明され、時間によって規定されうるものである)を表現する限りにおいてしか持続 〜
時間によって規定されうるような 〜 を賦与しない。言いかえれば我々は人間精神に対して(第
二部定理八の系により)身体の持続する間だけしか持続を賦与しない。しかしそれにもかかわら
ず今言ったあるものは神の本質そのものを通してある永遠なる必然性によって考えられるものな
のであるから(前定理により)、精神の本質に属するこのあるものは必然的に永遠であるであろう。
Q・E・D・
備考 身体の本質を永遠の相のもとに表現するこの観念は、今言ったように、精神の本質に属
する必然的に永遠なる一定の思惟様態である。しかし我々は、我々が身体以前にすでに存在して
いたことを想起することはできない。というのは身体の中にそれについての痕跡は何も存しえな
いし、また永遠性は時間によって規定されえず、時間とは何の関係も有しえないからである。し
かしそれにもかかわらず我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知
性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察
する精神の眼がとりもなおさず〔我々が永遠であることの〕証明なのである。 (精神の眼)
このように、我々が身体以前に存在したということを我々は想起しないけれども、しかし我々
の精神が身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいてそれ〔我々の精神〕は永遠であるという
こと、そして精神のこの存在は時間によって規定されえず持続によって説明されえないというこ
と、そうしたことを我々は感ずる。ゆえに我々の精神は、身体の現実的存在を含む限りにおいて
のみ持続すると言われうるし、またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によっ 122
て規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決
定する能力、物を持続のもとに把握する能力を有するのである。
定理二四 我々は個物をより多く認識するに従ってそれだけ多く神を認識する(あるいはそれ
だけ多くの理解を神について有する)。
証明 第一部定理二五の系から明白である。
定理二五 精神の最高の努力および最高の徳は、物を第三種の認識において認識することにあ
る。
証明 第三種の認識は神のいくつかの属性の妥当な観念から物の本質の妥当な認識へ進む(第
二部定理四〇の備考二におけるその定義を見よ)。そして我々はこの仕方で物をより多く認識す
るに従ってそれだけ多く(前定理により)神を認識する。このゆえに(第四部定理二八により)精神
の最高の徳、言いかえれば(第四部定義八により)精神の能力ないし本性、すなわち(第三部定理
七により)精神の最高の努力は、物を第三種の認識において認識することにある。Q・E・D・
定理二六 精神は、物を第三種の認識において認識することにより多く適するに従って、まさ
にこの種の認識において物を認識することをそれだけ多く欲する。
証明 明白である。なぜなら我々は、精神をこの種の認識において物を認識するのに適すると
考える限り、その精神をまさにこの種の認識において物を認識するように決定されていると考え
ているのである。したがって(感情の定義一により)精神はこのことにより多く適するに従ってそ
れだけ多くこのことを欲する。Q・E・D・
定理二七 この第三種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる。
証明 精神の最高の徳は神を認識することにある(第四部定理二八により)。すなわち物を第三
種の認識において認識することにある(この部の定理二五により)。そしてこの徳は精神が物をこ
の種の認識においてより多く認識するに従ってそれだけ大である(この部の定理二四により)。ゆ
えに物をこの種の認識において認識する者は人間の最高の完全性に達し、したがってまた(感情
の定義二により)最高の喜びに刺激される。しかもこの喜びは(第二部定理四三により)自己およ
び自己の徳の観念を伴ったものである。したがって(感情の定義二五により)この種の認識から、
存在しうる限りの最高の満足が生ずる。Q・E・D・
定理二八 物を第三種の認識において認識しようとする努力ないし欲望は、第一種の認識から
生ずることはできないが、第二種の認識からは生ずることができる。
証明 この定理はそれ自体で明らかである。なぜなら、明瞭判然と我々が認識するすべてのも
のを、我々はそれ自体によって認識するか、それともそれ自体で明らかな他の物によって認識す
るかである。言いかえれば、我々の中に在る明瞭判然たる観念、あるいは第三種の認識に属する 124
観念(第二部定理四〇の備考二を見よ)は、第一種の認識に属する毀損し混乱した観念(同じ備考
により)から生じえずに、妥当な観念から、すなわち(同じ備考により)第二種および第三種の認
識からのみ生じうる。したがって(感情の定義により)物を第三種の認識において認識しようと
する欲望は、第一種の認識からは生じえないが、第二種の認識からは生ずることができる。Q・
E・D・
定理二九 精神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを、身体の現在の現実的存在を考え
かことによって認識するのではなくて、身体の本質を、永遠の相のもとに考えることによって認識
する。
証明 精神は、その身体の現在的存在を考える限り、時間によって決定されうる持続を考え、 (ベルグソン?)
またその限りにおいてのみ物を時間と関係して考える能力を有する(この部の定理二一および第
二部定理二六により)。ところが永遠性は持続によって説明されることができない(第一部定義八
およびその説明により)。ゆえに精神はその限りにおいては物を永遠の相のもとに考える力を有
しない。しかし物を永遠の相のもとに考えることが理性の本性に属し(第二部定理四四の系二に
より)、また身体の本質を永遠の相のもとに考えることも精神の本性に属するから(この部の定理
二三により)、そして以上二様の〔身体の考え方の〕ほかには何ものも精神の本質に属さないので
あるから(第二部定理一三により)、このゆえに物を永遠の相のもとに考えるこの能力は、精神が
身体の本質を永遠の相のもとに考える限りに食いてのみ精神に属する。Q・E・D・
備考 物は我々によって二様の仕方で現実として考えられる。すなわち我々は物を一定の時間
および場所に関係して存在するとして考えるか、それとも物を神の中に含まれ、神の本性の必然
性から生するとして考えるかそのどちらかである。ところでこの第二の仕方で真あるいは実在と
して考えられるすべての物を我々は永遠の相のもとに考えているのであり、そしてそうした物の
観念の中には、第二部定理四五で示したように(なおその備考も見よ)、神の永遠・無限なる本質
が含まれているのである。
定理三〇 我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに認識する限り、必然的に神の
認識を有し、また自らが神の中に在り神によって考えられることを知る。
証明 永遠性とは神の本質が必然的存在を含む限り神の本質そのものである(第一部定義八に
より)。ゆえに物を永遠の相のもとに考えるとは、物を神の本質を通して実在的有として考える
こと、すなわち物をその存在が神の本質の中に含まれているとして考えることである。したがっ
て我々の精神はそれ自らおよび身体を永遠の相のもとに考える限り必然的に神の認識を有し、ま
た自らが神の中に在り云々。Q・E・D・
定理三一 第三種の認識は、永遠である限りにおいての精神をその形相的原因とする。
証明 精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもと
に老える(この部の定理二九により)。言いかえれば精神は(この部の定理二一および二三により) 126
永遠である限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える。したがって精神は(前定理により)永
遠である限り神の認識を有する。そしてこの認識は必然的に妥当である(第二部定理四六により)。
ゆえに精神は永遠である限り、与えられた神のこの認識から生じうる一切のことを認識すること
ができる(第二部定理四〇により)。言いかえれば物を第三種の認識において認識することができ
る(第二部定理四〇の備考二におけるその定義を見よ)。したがって精神は永遠である限りこの種
の認識の妥当な原因(第三部定義一により)、すなわち形相的原因である。Q・E・D・
備考 このようにして各人はこの種の認識においてよりすぐれているに従ってそれだけ良く自
己および神を意識する。言いかえればその人はそれだけ完全でありそれだけ幸福である。このこ
とは以下のことからさらにいっそう明瞭になるであろう。しかしここで注意しなければならぬこ
とがある。それは 〜 精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることは我々のすでに確
如しているところであるけれども、しかし我々の叙述したい事柄がいっそう容易に説明され、い
っそうよく理解されるために、我々はこれまでしてきた通り、精神をあたかも今存在し始めたか
のように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、と
いうことである。我々は何ごともきわめて明白な諸前提からでなくては結論しないように用心し
さえすれば、このことを何ら誤謬の危険なしにやっていける。
定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみは
その原因としての神の観念を伴っている。
証明 この種の認識から、存在しうる限りの最高の精神の満足が生ずる(この部の定理二七に
より)。言いかえれば(感情の定義二五により)最高の喜び、〜 しかもその原因としての精神自
身の観念を伴った最高の喜びが生ずる。したがってこの喜びは(この部の定理三〇により)その原
因としての神の観念をも伴っている。Q・E・D・
系 第三種の認識から必然的に神に対する知的愛が生ずる。なぜならこの認識からは(前定理
により)原因としての神の観念を伴った喜び、言いかえれば(感情の定義六により)神に対する愛
が生ずる。しかも現在するものとして表象される限りにおける神に対する愛ではなくて(この部 (知的愛)
の定理二九により)、永遠であると認識される限りにおける神に対する愛である。そして、これ
こそ私が神に対する知的愛と呼ぶところのものである。
定理三三 第三種の認識から生ずる神に対する知的愛は永遠である。
証明 なぜなら、第三種の認識は永遠である(この部の定理三一および第一部公理三により)。
したがって(第一部の同じ公理により)それから生ずる愛もまた必然的に永遠である。Q・E・
D・
備考 神に対するこの愛は始まりを有しないけれども(前定理により)、しかしそれは、あたか
もそれが生じた場合 〜 我々が前定理の系で仮定したように 〜 とまったく同様に、愛のあらゆ
る完全性を有している。ただ一つの相違点は、精神は、今はじめて獲得すると我々の仮定したそ
の完全性を永遠この方所有しており、しかもそれは永遠なる原因としての神の観念を伴っている、 128
ということだけである。そしてもし喜びがより大なる完全性への移行に存するとしたら、至福は
実に精神が完全性そのものを所有することに存しなければならぬ。
定理三四 精神は身体が持続する間だけしか受動に属する感情に従属しない。
証明 表象はある観念 〜 精神がそれによって物を現在するとして観想するある観念である
(第二部定理一七の備考におけるその定義を見よ)。しかしこの観念は外部の物の本性よりも人間
身体の現在的状態をより多く表示する(第二部定理一六の系二により)。ゆえに感情は(感情の総
括的定義により)身体の現在的状態を表示する限りにおいての表象である。したがって(この部の
定理二一により)精神は身体が持続する間だけしか受動に属する感情に従属しない。Q・E・
D・
系 この帰結として、知的愛以外のいかなる愛も永遠でないということになる。
備考 もし我々が人々の共通の意見に注意するなら、彼らは自己の精神の永遠性を意識しては
いるが永遠性を持続と混同し、表象ないし記憶に永遠性を賦与し、表象ないし記憶が死後も存続
すると信じているのを我々は見いだすであろう。
定理三五 神は無限の知的愛をもって自己自身を愛する。 (知的愛)
証明 神は絶対に無限である(第一部定義六により)。言いかえれば(第二部定義六により)神の
本性は無限の完全性を楽しんでいる。しかもそれは(第二部定理三により)自己自身の観念を伴っ
ている、言いかえれば(第一部定理一一および定義一により)原因としての自己自身の観念を伴っ
ている。そしてこれが、この部の定理三二の系において知的愛であると我々が述べたものである。
定理三六 神に対する精神の知的愛は、神が無限である限りにおいてではなく、神が永遠の相
のもとに見られた人間精神の本質によって説明されうる限りにおいて、神が自己自身を愛する神
の愛そのものである。言いかえれば、神に対する精神の知的愛は、神が自己自身を愛する無限の
愛の一部分である。
証明 精神のこの愛は精神の働きに数えられなければならぬ(この部の定理三二の系および第
三部定理三により)。つまりこの愛は精神が原因としての神の観念を伴いながら自己自身を観想
する働きである(この部の定理三二およびその系により)。言いかえればこの愛は(第一部定理二
五の系および第二部定理一一の系により)人間精神によって説明されうる限りにおける神が〔原因
としての〕自己の観念を伴いながら自己自身を観想する働きである。ゆえに(前定理により)精神
のこの愛は神が自己自身を愛する無限の愛の一部分である。Q・E・D・
系 この帰結として、神は自分自身を愛する限りにおいて人間を愛し、したがってまた人間に
対する神の愛と神に対する精神の知的愛とは同一である、ということになる。
備考 以上によって我々の幸福あるいは至福または自由が何に存するかを我々は明瞭に理解す
る。すなわちそれは神に対する恒常・永遠の愛に、あるいは人間に対する神の愛に存するのであ
る。この愛ないし至福は聖書においては名誉(グロリア)と呼ばれているがそれは不当ではない。なぜなら、 130
この愛は、神に関すると人間に関するとを問わず、まさしく心の満足(アニミ・アクイエスケンティア)と呼ばれうるのであ
り、そして心の満足は実際には(感情の定義二五および三〇により)名誉と異ならないからである。
なぜ心の満足と呼ばれうるかと言えば、この愛は、神に関する限り、神自身の親念を伴った喜び
〜 神について今なお喜びという言葉を用いることが許されるならば〜 であって(この部の定
理三五により)、その点この愛が精神に関する場合(この部の定理二七により)と同じだからであ
る。次に我々の精神の本質は認識のみに存し、そして神はこの認識の始源であり基礎であるから
(第一部定理二五および第二部定理四七の備考により)、前に述べたことから、我々の精神は本質
ならびに存在に関していかなる仕方、いかなる様式で神の本性から起こり、そしてたえず神に依
存するかが我々にきわめて明瞭になる。このことを私はここで注意した方がよいと思った。これ
によって私は直観的認識あるいは第三種の認識と名づけた個物の認識(第二部定理四〇の備考二
を見よ)がいかに多くのことをなしうるかまたそれが第二種の認識と名づけた普遍的認識よりど
れだけ有力であるかを明らかにしようとしたのである。というのは私は、第一部において、一切
が(したがって人間精神もまた)本質ならびに存在に関して神に依存することを一般的に示したけ
れども、その証明は、たとえ正当であって何ら疑惑の余地がないとはいえ、神に依存すると我々
が言った個物各自の本質そのものからこのことが結論される場合のようには我々の精神を感銘さ
せないからである。
定理三七 自然の中にはこの知的愛に対立的であったりあるいはこれを消滅させたりしうるよ
うないかなる物も存しない。
証明 この知的愛は、精神が神の本性を通して永遠の真理として見られる限りにおいて、精神
の本性から必然的に生ずる(この部の定理三三および二九により)。ゆえにもしこの愛に対立する
ある物が存するとしたら、それは異なるものに対立することになるであろう。したがってまたこ
の愛を消滅させうるものは真なるものを偽なるものとならしめることになるであろう。これは
(それ自体で明らかなように)不条理である。ゆえに自然の中には云々。Q・E・D・
備考 第四部の公理は、一定の時間と場所に関係して考察される限りにおける個物を念頭に置
いたものであって、そのことは誰にも明瞭なことと信ずる。
定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだ
け悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。
証明 精神の本質は認識に存する(第二部定理一一により)。ゆえに精神がより多くの物を第二
種および第三種の認識において認識するにつれて精神のそれだけ大なる部分が残存し(この部の
定理二三および二九により)、したがってまた(前定理により)精神のそれだけ大なる部分が我々
の本性と相反する感情から、言いかえれば(第四部定理三〇により)悪しき感情から冒(おか)されなくな
る。ゆえに精神がより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するにつれて精神のそ
れだけ大なる部分が害されずに残り、したがって精神はそれだけ感情から働きを受けることが少
ない、云々。Q・E・D・
備考 このことから、第四部定理三九の備考において触れ、この部において説明すると約束し 132
た事柄が明らかになる。それはすなわち、精神のもつ明瞭判然たる認識が大になればなるほど、
したがってまた精神が神を愛することの多ければ多いほど、それだけ死が有事でなくなるという
ことである。さらに、第三種の認識からおよそ存在しうる最高の満足が生ずるのだから(この部
の定理二七により)、この帰結として 〜 人間精神は、その中で身体とともに滅びることを我々
が示した部分が(この部の定理二一を見よ)その残存する部分と比べてまるで取るに足りぬといっ
たような本性を有しうるものである〜 ということになる。しかしこれについては今にもっと詳
しく述べる。
定理三九 きわめて多くのことに有能な身体を有する者は、その最大部分が永遠であるような
精神を有する。
証明 きわめて多くのことをなすのに適する身体を有する者は、悪しき感情に捉われることが
きわめて少ない(第四部定理三八により)。言いかえれば(第四部定理三〇により)我々の本性と相
反する感情に捉われることがきわめて少ない。ゆえに彼は(この部の定理二〇により)身体の諸変
状を知性に相応した秩序において秩序づけ・連結する力を、したがってまた(この部の定理二四
により)身体のすべての変状を神の観念に関係させる力を有する。この結果として彼は(この部の
定理一五により)神に対して愛に刺激される。そしてこの愛は(この部の定理一六により)精神の
最大部分を占有ないし構成しなければならぬ。このゆえに彼は(この部の定理三三により)、その
最大部分が永遠であるような精神を有する。Q・E・D・
備考 人間身体はきわめて多くのことに有能である。だから人間身体は、きわめてすやれた精
神に関係するような 〜 自己および神について大なる認識を有し、その最大部分あるいは主要部
分が永遠であり、したがって死をほとんど恐れないそうした精神に関係するような本性を有しう
るものであることは疑いない。
しかしこれをいっそう明瞭に理解するためにここで注意しなければならぬのは、我々はたえざ
る変化の中に生きており、そして我々はより善きものあるいはより悪しきものに変化するに従っ
て幸福あるいは不幸と言われるということである。例えば、幼児あるいは少年のままで死骸に化
する者は不幸と言われ、これに反して健全な身体に健全な精神を宿して全生涯を過しうるのは幸
福とされる。実際また、幼児や少年のように、きわめてわずかなことにしか有能でない身体、外
部の原因に最も多く依存する身体、を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見られる限
り、自己・神および物についてほとんど意識しない。これに反してきわめて多くのことに有能な
身体を有する者は、その精神もまた、それ自身だけで見て、自己・神および物について多くを意
識している。ゆえにこの人生において、我々は特に、幼児期の身体を、その本性の許す限りまた
その本性に役立つ限り、他の身体に変化させるように努める。すなわちきわめて多くのことに有
能な身体、そして自己・神および物について最も多くを意識するような精神に関係する身体、に
変化させるように努める。そのように変化すれば、私がすでに前定理の備考において言ったよう
に、精神における記憶ないし表象力に属する一切は、知性に比べてほとんど取るに足りぬものに 134
なるであろう。
定理四〇 おのおのの物はより多くの完全性を有するに従って働きをなすことがそれだけ多く、
働きを受けることがそれだけ少ない。反対におのおのの物は働きをなすことがより多いに従って
それだけ完全である。
証明 おのおのの物はより多く完全であるに従ってそれだけ多くの実在性を有し(第二部定義
六により)、したがって(第三部定理三ならびにその備考により)働きをなすことがそれだけ多く、
働きを受けることがそれだけ少ない。この証明は順序を逆にしてやってもあてはまるのであり、
その結果として逆に、物は働きをなすことがより多いに従ってそれだけ完全であることになる。
Q・E・D・
系 この帰結として、精神の残存する部分は、それがどの程度の大いさのものであるにしても、
その他の部分よりも完全であることになる。なぜなら、精神の永遠の部分は知性であり(この部
の定理二三および二九により)、そして我々が働きをなすと言われるのはもっばらこの知性によ
るのである(第三部定理三により)。これに反してその消滅することを我々が示した部分は表象力
そのものであり(この部の定理二一により)、そして我々が働きを受けると言われるのはもっばら
この表象力によるのである(第三部定理三および感情の総括的定義により)。したがって(前定理
により)前者はそれがどの程度の大いさのものであっても後者よりも完全である。Q・E・D・
備考 以上は身体の存在に対する関係を離れて考察される限りにおける精神について、私の示
そうと企てた事柄である。このことから、また同時に第一部定理二一およびその他の諸定理から、
我々の精神は物を知性的に認識する限り思惟の永遠なる様態であり、これは思惟の他の永遠なる
様態によって決定され、後者はさらに他のものによって決定され、こうして無限に進み、このよ
うにしてこれらすべての様感は合して神の永遠・無限なる知性を構成するということが分かるの
である。
定理四一 たとえ我々が我々の精神の永遠であることを知らないとしても、我々はやはり道義
心および宗教心を、一般的に言えば我々が第四部において勇気および寛仁に属するものとして示
したすべての事柄を、何より重要なものと見なすであろう。
証明 徳の、あるいは正しい生活法の、第一にして唯一の基礎は自己の利益を求めることであ
る(第四部定理二二の系および定理二四により)。しかし理性が何を有益として命ずるかを決定す
るのに我々は精神の永遠性ということには何の考慮も払わなかった。精神の永遠性ということを、
我々はこの第五部においてはじめて識ったのである。このようにして、あの当時はまだ精神の永
遠であることを知らなかったけれども、我々はそれでも、勇気と寛仁に属するものとして示した
事柄を何よりも重要なものと見なした。だからたとえ我々が今なおそのことを知らないとしても、
我々はやはり、理性のそうした命令を重要なものと見なすであろう。Q・E・D・
備考 民衆の一般の信念はこれと異なるように見える。なぜなら大抵の人々は快楽に耽りうる
限りにおいて自由であると思い、神の法則の命令に従って生活するように拘束される限りにおい 136
て自己の権利を放棄するものと信じているように見えるからである。そこで彼らは道義心と宗教
心を、一般的に言えば精神の強さに帰せられるすべての事柄を、負担であると信じ、死後にはこ
の負担から逃れて、彼らの隷属 〜 つまり彼らの道義心と宗教心 〜 に対して報酬を受けること
を希望している。だがこの希望によるばかりでなく、特にまた死後に恐るべき責苦をもって罰せ
られるという恐怖によって、彼らは、その微力とその無能な精神との許す限り、神の法則の命令
に従って生活するように導かれている。もしこの希望と恐怖とが人間にそなわらなかったら、そ
して反対に、精神は身体とともに消滅し、道義心の負担のもとに仆(たお)れた不幸な人々にとって未来
の生活が存しないと借ぜられるのであったら、彼らはその本来の考え方に立ちもどってすべてを
官能欲によって律し、自分自身によりもむしろ運命に服従しようと欲するであろう。こうしたこ
とは、人が良い食料によっても身体を永遠に保ちうるとは信じないがゆえに、むしろ毒や致命的
な食物を飽食しようと欲したり、精神を永遠ないし不死でないと見るがゆえに、むしろ正気を失
い理性なしに生活しようと欲したりする(これらのことはほとんど検討に価しないほど不条理な
ことである)のにも劣らない不条理なことであると私には思われる。
定理四二 至福は徳の報酬ではなくて徳それ自身である。そして我々は快楽を抑制するがゆえ
に至福を享受するのではなくて、反対に、至福を享受するがゆえに快楽を抑制しうるのである。
証明 至福は神に対する愛に存する(この部の定理三六およびその備考により)。そしてこの愛
は第三種の認識から生ずる(この部の定理三二の系により)。したがってこの愛は(第三部定理五
九および三により)働きをなす限りにおける精神に帰せられなければならぬ。ゆえにそれは(第四
部定義八により)徳それ自身である。これが第一の点であった。次に精神はこの神の愛すなわち
至福をより多く享受するに従ってそれだけ多く認識する(この部の定理三二により)。言いかえれ
ば(この部の定理三の系により)感情に対してそれだけ大なる能力を有しまた(この部の定理二八
により)悪しき感情から働きを受けることがそれだけ少なくなる。ゆえに精神はこの神の愛すな
わち至福を享受することによって快楽を抑制する力を有するのである。そして感情を抑制する人
間の能力は知性にのみ存するのであるから、したがって何びとも感情を抑制したがゆえに至福を
享受するのでなく、かえって反対に、快楽を抑制する力は至福それ自身から生ずるのである。
Q・E・D・
備考 以上をもって私は、感情に対する精神の能力について、ならびに精神の自由について示
そうと欲したすべてのことを終えた。これによって、賢者はいかに多くをなしうるか、また賢者
は快楽にのみ駆られる無知者よりもいかに優れているかが明らかになる。すなわち無知者は、外
部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて決して精神の真の満足を享有しないばかりでな
く、その上自己・神および物をほとんど意識せずに生活し、そして彼は働きを受けることをやめ
るや否や同時にまた存在することをもやめる。これに反して賢者は、賢者として見られる限り、
ほとんど心を乱されることがなく、自己・神および物をある永遠の必然性によって意識し、決し
て存在することをやめず、常に精神の真の満足を享有している。
さてこれに到達するものとして私の示した道はきわめて峻険であるように見えるけれども、な 138
お発見されることはできる。また実際、このように稀にしか見つからないものは困難なものであ
るに違いない。なぜなら、もし幸福がすぐ手近かにあって大した労苦なしに見つかるとしたら、
それがほとんどすべての人から閑却されているということがどうしてありえよう。
たしかに、すべて高貴なものは稀であるとともに困難である。
終 り
*
*3附録ニ七 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲し
みである。
説明 我々はこの三つの感情の原因をこの部の定理五一の備考および定理五三、五四、五五な
らびにその備考において示した。また精神の自由な決意については第二部定理三五の備考を見よ。
しかしなおここに注意すべきことがある。それは習慣上から「悪い」と呼ばれているすべての
行為に悲しみが伴い、「正しい」と言われているすべての行為に喜びが伴うのは不思議ではない
ということである。実際このことは、前に述べた事柄から容易に理解される通り、主として教育
に由来しているのである。すなわち親は「悪い」と呼ばれている行為を非難し、子をそのために
しばしば叱責し、また反対に「正しい」と言われている行為を推奨し、賞讃し、これによって悲
しみの感情が前者と結合し喜びの感情が後者と結合するようにしたのである。このことはまた経
験そのものによっても確かめられる。何となれば習慣および宗教はすべての人において同一では
ない。むしろ反対に、ある人にとって神聖なことが他の人にとって涜神的であり、またある人に
とぅて端正なことが他の人にとって非礼だからである。このようにして各人はその教育されたと
ころに従ってある行為を悔いもしまた誇りもする。
*3定理三 精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存
する。
証明 精神の本質を構成する最初のものは、現実に存在する身体の観念にほかならない(第二
部定理一一および一三により)。そしてこの観念は(第二部定理一五により)多くの観念から組織 2p11&13,2p15
されていて、そのあるものは(第二部定理三八の系により)妥当であり、またあるものは非妥当で 2p38c 176
ある(第二部定理二九の系により)。ゆえにすべて精神の本性から生ずるもの、精神をその最近原 2p29c
因とし精神によって理解されなければならぬものは、必然的に妥当な観念あるいは非妥当な観念
から生じなければならぬ。ところが精神は非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受
ける(この部の定理一により)。ゆえに精神の能動は妥当な観念のみから生じ、また精神は非妥当
な観念を有するゆえにのみ働きを受ける。Q・E・D・
備考 そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が
他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限
りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。なおこの仕方で私は、受動が精神に帰
せられると同様他の個物にも帰せられること、また受動はこれ以外の他の仕方では説明されえな
いことを示しうるであろう。しかし私の意図するところは単に人間精神について論ずることにあ
る〔のだから今はそれに立ち入らない〕。
以下、デカルト『感情論』第一部二七節(『情念論』岩波文庫p27より)
「
二七 精神の情念〔受動〕の定義。
精神の情念が他の思考すべてと異なる点を考察したので、情念を一般的に次のように
定義できると思われる。すなわち、精神の知覚、感覚、情動であり、それらは、特に精
神に関係づけられ、そして精気の何らかの運動によって引き起こされ、維持され、強め
られる。」
以下、デカルト『感情論』第一部五〇節(『情念論』岩波文庫p49-50より)
「
五〇 いかに弱い精神でも、良く導かれれば、情念に対して絶対的な力を獲得できるこ
と。
そして、ここで次の点をわかっていると有益だ。すでに述べたように、腺の各運動は、
わたしたちの生の最初から、自然によって各々一つひとつの思考に結びつけられたと思
われるが、しかし、習性によって、腺の運動を別の思考に結びつけることができるのだ。
たとえば言葉について経験が示しているように、言葉は腺にある運動を引き起こすが、
この運動は自然の設定に従って、言葉が声で出されたときは音を、書かれたときは文字
の形を精神にー表象するだけである。だが、その音を聞きその字を見て言葉の意味を思考
することで身につける習性によって、文字の形や音節の発音よりも、意味を思考させる
習わしとなる。また次の点をわかっておくのも有益だ。腺の運動であれ精気や脳の運動
であれ、精神に一定の対象を表象する運動は、自然的に、精神のうちに一定の情念を引
き起こす運動と結びつけられているが、それにもかかわらず、習性によって、その運動
から分離して、まったく違った別の運動と結びつけることができる。しかも、この習性
はただ一度の行為によって獲得することができ、長期の馴れを要しない。たとえば、お
いしそうに食べている食物のなかに思いがけず何かひどくいやなものにぶつかったとき
だ。その出来事の驚きが脳の状態を大きく変えてしまい、以前は喜んで食べていたのに、
以後は嫌悪感をもってしか、その食物を見ることができなくなる。そして同じことは動
物においても認められる。動物は理性を持たないし、おそらく何の思考も持たない。し
かし、わたしたちのうちに情念を引き起こす精気や腺の運動すべてを、やはり具えてい
るのである。これらの運動は動物では、わたしたちの場合のように情念を維持し強める
役をすることはないが、通例わたしたちの情念にともなう神経や筋肉の運動を維持し強
める役を果たしている。たとえば犬は生来、ヤマウズラを見るとそれを追って走りたが
り、銃声を聞くと逃げたがる。にもかかわらず通常、猟犬を訓練してヤマウズラを見る
ととどまるようにし、次にヤマウズラを撃つとその音をきいて鳥のほうへ駆けるように
するのである。さて以上のことは、各人にみずからの情念を統御することを学ぶ勇気を
与えるために、知っておくのが有益である。理性を欠いた動物を、わずかの工夫で脳の
運動を変えることができるのだから、人間ではそれをさらに良くできるのは明らかだ。
そして、最も弱い精神の持ち主でも、精神を訓練し導くのに十分な工夫の積み重ねを用
いるなら、あらゆる情念に対してまさに絶対的な支配を獲得できるのは明らかである。」
☆リンク→:諸感情の定義TOP☆
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