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木曜日, 10月 25, 2012

cogito ergo sum変奏:改訂版

        (デカルトリンク::::::::::
NAMs出版プロジェクト: cogito ergo sum変奏:改訂版
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/cogito-ergo-sum.html(本頁)


デカルトによる量の次元の統一(1637年):メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/10/blog-post_16.html
NAMs出版プロジェクト: 知覚、視覚、触覚。メルロ=ポンティ:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_30.html

Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る 
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/sartre-par-lui-meme-1976_24.html 

以下『方法序説』ちくま学芸文庫山田弘明訳より

《…「私は考える、ゆえに私はある」115…》56頁

《115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
(コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』[1641]では、Ego sum, ego existo (私はある、
私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
『[哲学]原理』[1644]ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『[方法]序説』[1637]のラテン語
訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
VI.558)となっている。『真理の探究』[la recherche de la verite 1684?,1701?]に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。》234~5頁脚注
山田は「厳密に言えばデカルト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない」と書くが、
むしろ厳密に言えばあるということになるのではないか?
特に『哲学原理』(1644)のego cogito,ergo sumにはcogito,ergo sumが含まれる。


Cogito ergo sum
https://fr.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
https://translate.google.com/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A%2F%2Ffr.wikipedia.org%2Fwiki%2FCogito_ergo_sum
我思う、故に我在り
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91%E6%80%9D%E3%81%86%E3%80%81%E3%
82%86%E3%81%88%E3%81%AB%E6%88%91%E3%81%82%E3%82%8A
我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、Je pense, donc je suisCogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)[1637]の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』(1637)の他、『省察』(1641)、『哲学原理』(1644)、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]

  1. ^ ルネ・デカルト著『方法序説』落合太郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1967、「解題」6-7頁
  2. ^ ルネ・デカルト著『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、2010、234-235頁
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる絶対確実なことを発見する。これが「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis フランス語である。ちなみに、有名な「我思う、ゆえに我ありコギト・エルゴ・スム cogito ergo sumラテン語とのラテン語表現は『真理の探究』でなされているが、これは第三者による訳で、デカルト自身がこのような表現をしたのは、後に彼がラテン語で執筆した『哲学原理』においてである[2]。方法序説はラテン語訳が出版され、「Ego cogito, ergo sum, sive existo 」との表現がとらえている[3]
  1. ^ ルネ・デカルト『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、234-235頁
  2. ^ ルネ・デカルト『方法序説』落合太郎訳、岩波文庫、訳者「解題」6-7頁によれば、幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Etienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲したとのことである。


「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
  デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)

「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
  ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
  http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
  ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
  http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
  スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

「私は思惟する事物である 」
  ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
  ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)

「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
  ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)

「我思う=我あり(同語反復)」?
  カント(『純粋理性批判』A355)

「〈私は考える〉とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない」
  カント(『純粋理性批判』B132、岩波文庫上 篠田訳P.175。B422-3の注に詳しい。B277をはじめ、B428、A347、A370にも関連した考察がある。)

「我思われる、故に我あり」
  フランツ・バーダー((Franz Xaver von Baader、1765-1841全集12,16)
  http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

「人間は自己のたんなる思惟のためにも、〈われ〉に対応する〈汝〉に憧れる。」
  ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Friedrich Wilhelm  von Humboldt、1767-1835。フンボルト『双数について』より(邦訳31頁別訳)。後年、マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878-1965)が「対話」(『我と汝』岩波文庫217頁)で引用。)

「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
  ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770-1831『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)

「我々が存在するということから我々が表象を有することを知るのではなくて、逆に我々が表象を有することによって始めて我々もまた存在することを知るのである」
  ボルツァーノ(Bernard Placidus Johann Nepomuk Bolzano、1781-1848、『知識学』§42、未邦訳より。創文社、藤田伊吉著『ボルツァーノの哲学』57頁より孫引き。)

「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
  ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、1788-1860、『続意志と表象〜』第4章)

「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
  フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach, 1775年11月14日 - 1833年5月29日。『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)

「わたしはある。わたしはあるという者だ」[『出エジプト記』三章十四節]
  プルードン(Pierre Joseph Proudhon;1809年1月15日-1865年1月19日)が『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)のプロローグで批判的に引用。
  http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
  http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf

「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる(Cogito cogito ergo cogito sum われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う)」
  アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)

「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える)」
  ニーチェ(『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)§276。文法的に逆転するだけでは意味がないという指摘も含めて、これはハイデガーに先行する認識である。ニーチェは『善悪の彼岸』§54でも主語重視のデカルト及び述語重視のカントを批判している。)

「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
  フッサール(1859-1938『デカルト的省察』§14)

「デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
 コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的クーデタである。」
  ヴァレリー(1871-1945「カイエ(ノート)」Cahiers,T.5,P.144)

「もしも〈コギト〉があれほど繰り返し彼の著作の中に、すなわち『方法序説』に、『省察』に、『哲学原理』に見いだされるとすれば、それは〈コギト〉がデカルトに対して彼の本質をなす〈エゴチスム〉に集合を命ずるラッパを吹き鳴らすからにほかならない。」
  ヴァレリー(1871-1945「デカルト考」『ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉』邦訳70頁)

「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
  ラッセル(1872-1970『西欧哲学史3』邦訳560頁)

「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
(he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
  ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
  http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

「思うということが我なのである」
  ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
  http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html#id_3f18de39

「〈sum cogito〉(われ存在す、われ思惟す)…最初の言明は〈sum〉であり、しかも、〈われ世界の内にあり〉という意味でのそれである。」
  ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976『存在と時間』§43。ちくま文庫上440頁。ニーチェと同じ言い換えをしつつ、さらに補足している。)

「…デカルト的カテゴリー錯誤…。結局、デカルトは問題の論理を誤ったのである。」
  ギルバート・ライル(Gilbert Ryle、1900-1976『心の概念』邦訳15〜19頁)

「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固としたものではない。」
  ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
  http://yokato41.exblog.jp/15189066/
  http://psychanalyse.jp/archives.html

「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
  ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14

「…《我れのみひとり絶対として存在する》と定式化するかわりに、《絶対的意識のみひとり絶対として存在する》と表明すべきであろうし、これはあきらかに自明の理なのだ。実際、私の《我れ》は、意識にとって、他の人々の《我れ》よりも一そう確実だということはない、ただ、一そう親密なだけである。」
  サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905 - 1980、「自我の超越」1937、邦訳「哲学論文集」241頁)

「…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。…有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。」
  レヴィナス(1906-1995『全体性と無限』3:B5、柄谷『探究2』単行本108-9頁参照)

「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
  メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳一、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉らしい。)
  http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
   メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)

「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」
  レヴィ=ストロース(1908-2009『野生の思考』邦訳300頁)
  http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html

「我思う、ゆえに、そこにすでに我なし」
  福岡正信(1913年2月2日 - 2008年8月16日『無2 無の哲学』1985,春秋社、22頁)

「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
  ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』第二章、邦訳142頁)

「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
  ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)

「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
  ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
  フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
  デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
  ゴダール(『映画史』1B)

「君あり、故に我あり」
  サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)

「無限のなかで疑いつつわれ在り」
  柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)

「コギトとは、そうしたシステム間の〈差異〉の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に〈在る〉ことである。」
  柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』文庫版94頁)
  http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html

「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…("I suffer, therefore I am" )」
  ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』邦訳71頁(Ticklish 281)) 


一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。


追記(番外編):

「…thinking is to be conscious that we exist... 」
  アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』1170a25 ff)
  http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors

「…また思考しているときには思考しているということを知覚するのであるとするならば、またもし、知覚していることを知覚し、思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならないとするならば、(なぜならわれわれ人間にとっては存在するということは知覚し思考することであったのだから、)…」
  アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『ニコマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)

「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
  アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁別訳)。パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際の指摘と関連する。引用は別箇所。アルノーも反駁で使用した。教文館版全集第13巻74頁の訳だと「もしわたしが欺かれるとすれば、わたしは存在する。」<si enim fallor, sum.>同300頁。 )

「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。」
  パスカル(1623-1662『パンセ Pensées』断章77、柄谷『探究2』単行本102頁参照)
  http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120629/1340917610

追記:

第4 八つの詩句の章 14.迅速
https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/buda/buda_4_14_tunoshiku.htm

「ブッダのことば」スッタニパータ  中村元 訳(岩波文庫)

915
[問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916
師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。…」

213 件のコメント:

  1. http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html



    More particularly, Flew’s paper tells a strange story of Wittgenstein’s being invited to reply to a paper by an undergraduate, Oscar Wood, at the Jowett Society in 1947, and saying nothing about the paper’s subject, "Cogito ergo sum", until Pritchard asked him about it directly: whereupon he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum". Flew, at the meeting, thought this "perverse but no doubt entirely characteristic", but in later years "realised that, by thus reminding his audience that the referents of the token-reflexive word ‘I’ are the flesh and blood people who utter it to refer to themselves, Wittgenstein might have been suggesting a radical and totally devastating objection to the position which Descartes had reached in the second paragraph of Part IV of his Discourse on the Method. For it is simply false to maintain that the referent of this word is an incorporeal and yet substantial subject of consciousnes. It is, on the contrary, a flesh and blood human being."



    より具体的には、のフルーペーパーでは、プリチャードは彼に尋ねたまで、 "コギト·エルゴ·スム"、1947年にジャウエットの学会で、学部、オスカー·ウッドによって紙に返信するには招待され、論文の主題について何も言っていないされているウィトゲンシュタインの奇妙な物語直接それが約:とすぐ彼は "コギトエルゴスムを非常に奇妙な文章だね。"と答えた言葉 "コギト"と "和"で、自分の頭を指差して。 会議で、飛んで、この "ひねくれたけど、間違いなく完全に特徴的な"と思ったが、後年に "トークン再帰語の指示対象は、" I "が全くの生身の人であることをこのように彼の聴衆を思い出させることによって、次のことを実現それは自分自身を参照するには、ウィトゲンシュタインは、デカルトは方法の彼の言説のパートIVの第2段落に達していた位置にラジカルと完全に壊滅的な異議を示唆されている場合がありますそれを維持するためだけに偽であるため、こののリファレント言葉はconsciousnesの実質まだ霊的れる可能性があります。それは、逆に、生身の人間人間の存在である。 "

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  2. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    ウィトゲンシュタイン(Antony Flewの回想より)

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  3. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    ウィトゲンシュタイン(Antony Flewの回想より)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

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  4. 心の概念
    移動: 案内、 検索

    『心の概念』(こころのがいねん、英: The Concept of Mind)は、1949年にイギリスの哲学者・ギルバート・ライルによって発表された心の哲学の書籍である。
    概要 [編集]

    20世紀初頭、論理実証主義者は、哲学を研究するためには、日常言語を排除して厳密な用語法を確立することを主張していた。ライルは日常言語の使用に関する誤りが哲学の多くの問題を引き起こしていると考え、心に関連する表現を含む文章がどのような論理構造を持っているかを研究することによって、伝統的な心身問題を解決することを試みた。本書は第1章デカルトの神話、第2章方法を知ることと内容を知ること、第3章意志、第4章情緒、第5章傾向性と事象、第6章自己認識、第7章感覚と観察、第8章想像力、第9章知性、第10章心理学、以上から構成されている。

    ライルはルネ・デカルトが「公式教義」を提起して以来、近代哲学が繰り返してきた議論では、心について誤った範疇が使用されてきたと判断し(カテゴリーミステイク)、観念論と唯物論の論争が擬似的な問題に過ぎないと考えた。ライルの見解によれば、人間には精神があることと身体があることはどちらも適切であるものの、精神と身体は異なる類型であるために対等に並べて比較することは適切ではない。また情緒の概念についてはあくまで傾向性を示すものであり、特定の場面において発生する出来事を表すとは限らない。さらに意思作用についても日常言語には存在しない人為的な概念を導入したものである。このような心の概念について検討した上でライルはデカルト以後の公式教義を批判し、心の哲学に関する新しい枠組みを提示している。
    書誌 [編集]

    坂本百大ほか訳『心の概念』みすず書房、1987年 ISBN 4622017709

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  5. 「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)
    なのであります。」
      デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

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  6. 「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
      ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)

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  7. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".
    ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

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  8. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".
    ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』には代入できない自己が考察される。)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

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  9. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)(he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
    ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』では代入できない自己が考察される。)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

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  10. 「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    (he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
    ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』では代入できない自己が考察される。)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

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  11. 「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
      デカルト(『方法序説』『哲学原理』他)

    「私は歩いているので、私は散歩だ(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
      ホッブズ(「省察 第三論駁」)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

    「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
      ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『反デカルト研究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
      スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
      ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)

    「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
      ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)

    「我思う=我あり(同語反復)」
      カント?(第一批判A355)

    「我思われる、故に我あり」
      フランツ・バーダー(全集12,16)
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
      ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)

    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
      ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)

    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
      フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)

    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」
      アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)

    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
      フッサール(『デカルト的省察』§14)

    「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
      ラッセル(『西欧哲学史3』邦訳560頁)

    「思うということが我なのである」
      ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
    http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html

    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」
      ハイデガー(『存在と時間』§43)

    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
      ラカン(セミナール14)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
      ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
      フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「私が狂人であろうとなかろうと、〈私は思う、私はある〉」
      デリダ(『エクリチュールと差異』上)

    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
      ゴダール(『映画史』1B)

    「君あり、故に我あり」
      サティッシュ・クマール(同名書名より)


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  12. 正方形である面abcをそれぞれ底辺に、
    正立方体は合同な3つの錐体に分割できる。

       _______
      /|  c  /|
     /_|____/ |
    | b|   |  |
    |  |___|__|
    | /  a | /
    |/_____|/



        ____
      /    /|
     /____/ |
    |   /|\ |
    |  / | \|
    | /  | /
    |/___|/ a


        ____
    b /\   /|
     /__\ / |
    |   /|  |
    |  / |  |
    | /  | /
    |/___|/


        c
        ____
      /\   /|
     /__\ / |
    |    |\ |
    |    | \|
    |    | /
    |____|/


    できればこれらの積み木を4セット計12個で遊ぶといい。
    これで錐は柱の3分の1であることが体感できる。

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  13. http://user.kkm.ne.jp/senna/flame.htm

    kennojijiさん

    底面の半径が r で高さが 2r の円柱に内接する球と,同じ円柱の上底面,下底面をそれぞれ底面とし内接球の中心を頂点とする 2 つの円錐を考えます。
    半球の体積は (2/3)πr^3,円柱の上半分の体積は πr^3 です。
    両者を中心からの高さが k であるような平面で切ったときの断面積を考えます。
    半球の方の断面の円の半径は図のMN で,√(r^2-k^2) だから断面積は
    π(r^2-k^2)
    円錐の方の断面の円の半径は図のML で k と等しいから断面積は πk^2
    これら 2 つの和が円柱の断面積の πr^2 と k の値によらずに等しくなっています。
    すると,半球と円錐の体積の和が半円柱の体積と等しく,円錐の体積は
    πr^3-(2/3)πr^3=(1/3)πr^3 となります。
    つまり半円柱の体積の 1/3 倍です。
    半円柱と言っても円錐から見れば高さが同じ円柱ですからこの場合には円柱の体積の 1/3 倍だとわかります。
    円柱と円錐の両方の高さを t 倍すれば体積もそれぞれ t 倍になるから 円錐が円柱の 1/3 倍であるという関係は保たれます。

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  14. http://user.kkm.ne.jp/senna/flame.htm

    なぜ円錐の体積は円柱の1/3なのか?

    中学校の時、数学の時間に「円錐の体積は円柱の1/3だ。」と習った

    記憶はありませんか?あまりにも有名な事実なので、何を今さらと思わ

    れるかもしれません。たしか先生が円錐と円柱の形をした容器を持って

    きて、それに水をいっぱいにしてその水の量を測ると、円錐の水の量が

    円柱の1/3になっていて・・・という説明があって、純粋な中学生は

    納得するわけです。この説明の仕方は教科書でも採用されるくらいで、

    かなり視覚的に理解できる説明といえます。しかし、これはあくまで実

    験の結果であって、数学的に証明されたか?と考えると、必ずしもそう

    ではないと思うんです。この章では数学的に納得してしまおうというわけ

    です。私の知っている限りでは、図を使う、回転体の積分、3重積分の3

    通りを知っています。3つのうち右から順に高度な知識を要します。ここ

    では一番平易な図を使って証明します。

    左の図(a)を見て下さい。円柱じゃないじゃないか、と思われるかもしれ

    ませんが、本質は「柱体の体積が錘体の体積の1/3である。」であれ

    ばいいわけで、なにも円柱にこだわる必要はありません。図(a)を図

    (b)、(c)、(d)の3つに分割できますね。わかりにくかったら、実際に

    作ってごらんなさい。きっと納得できるはずです。付け加えるならば、

    (b)、(c)、(d)は合同です。この結果から「円錐の体積は円柱の1/3

    だ。」と理解できました?

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  15. 展開図:
          ____
     ___/  /  |
     \    /   |1
     1\直角/    |直角  
       \/_____|__1__
       |      |   / |
       |      |ルート2 |
       |      | /   /
       |______|/   |ルート2×ルート2/1 ☆
          1    \   /
    (コンパスで合わせる→)\  |
                1\/

    ☆の部分の長さ:
        _______
       |     / |
       |ルート2x  |
       | ルート2/1| 
       |  /☆   |ルート2 
       | /     | 
       |/______|
         ルート2           

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  16. なぜ円錐の体積は円柱の1/3なのか?


       _______
      /|  c  /|
     /_|____/ |
    | b|   |  |
    |  |___|__|
    | /  a | /
    |/_____|/



        ____
      /    /|
     /____/ |
    |   /|\ |
    |  / | \|
    | /  | /
    |/___|/ a


        ____
    b /\   /|
     /__\ / |
    |   /|  |
    |  / |  |
    | /  | /
    |/___|/


        c
        ____
      /\   /|
     /__\ / |
    |    |\ |
    |    | \|
    |    | /
    |____|/


    図を見て下さい。円柱じゃないじゃないか、と思われるかもしれ
    ませんが、本質は「柱体の体積が錘体の体積の1/3である。」であれ
    ばいいわけで、なにも円柱にこだわる必要はありません。図を図
    (a)、(b)、(c)の3つに分割できますね。わかりにくかったら、実際に
    作ってみてください。きっと納得できるはずです。付け加えるならば、
    (a)、(b)、(c)は合同です。この結果から「円錐の体積は円柱の1/3
    だ。」と理解できました?

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  17. http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/simpson.shtml
    三角形は高さが同じなら頂点を変えても、赤い幅が変わらないし、全体の面積も変わらない。

    錐体も同じで、高さが同じなら頂点を変えても、青い部分の形も面積も変わらないし、全体の体積も変わらない。   【ガバリエリの原理】
    http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/kyuu.htm

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  18. さっきのアルキメデスの墓の円柱の側面積はどれだけ?
    S:高さが2rで、円周が2πrだから、あれ!4πr2だ。
    S:球の表面積と同じだよ。
    http://www.rd.mmtr.or.jp/~bunryu/kyuu.htm

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  19. ラッセル

    http://books.google.co.jp/books?id=mVAOOZbPiyEC&pg=PA338&dq=There+are+thoughts+russell+cogito&hl=ja&sa=X&ei=yGuJUI2aIoXBiQex-ICABA&ved=0CC4Q6AEwAA#v=onepage&q=There%20are%20thoughts%20russell%20cogito&f=false

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  20. 「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としてものではない。(ラカン「同一化」セミネール)

    http://yokato41.exblog.jp/15189066/

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  21. L'angoisse L'angoisse (S X), 1962-1963, Seuil, 2004Jacques LacanLa logique du fantasme (S XIV), Le Séminaire,


    L'angoisse L'angoisse (S X), 1962-1963, Seuil, 2004

    Jacques Lacan

    La logique du fantasme (S XIV), Le Séminaire,

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  22. ファンタスマの論理
    La logique du fantasme

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  23. Without fully answering this question, I will say I find Volkman's
    work the closest I can imagine to what a prototypical post-secular,
    post-metaphysical poetry might look like. Indeed, Volkman's "poetics
    statements" reveal her thinking in these systematic terms: "What is the
    relationship of a musical structure to other systems—natural, divine,
    physiological?" Jean-Luc Marion, perhaps the preeminent contemporary writer on
    philosophical and theological systems, has made claims that such a path for
    post-secular thinking lies in St. Augustine's conversion, his utter yielding of
    himself to the divine, and hence a preemptive strike against the Cartesian cogito
    ergo sum—instead we might say, "I speak what I am given to speak, and there is
    no claim made about my independent being."



    ///////

    http://fr.wikipedia.org/wiki/S%C3%A9minaires_de_Jacques_Lacan



    「我思う」というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした「私は嘘をつく」以上に確固としてものではない。(ラカン「同一化」セミネール)

    ――ここでの「我思う」は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」 ego cogito, ergo sumを吟味する文脈から来ており、彼はむしろデカルトへのシンパシーを露にしながら語っている。

    そもそもこのcogotoの凝縮された形は『方法序説』の中にいくつか見出されるのみであり、《偉大な哲学者達は、彼らがはっきりと公表していることはまったく考えていないし、また、たとえばデカルトについても、彼はほとんど神を信じていなかったが云々》、と。

    《マラルメがどこかでほのめかしている、使い古されて表面が磨り減ってしまっている硬貨のような記号、(……)その記号の機能に磨きをかけてみよう》、というのがラカンの「同一化」セミネールの取っ掛りなのだ。

    さて論理学者を困らせた「私は嘘をつく」というのは、もちろん「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という《回転して止まることのない論理》から来る。
    http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:6NhwC5-VeTkJ:yokato41.exblog.jp/15189066/+&cd=4&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-a

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  24. Cogito ironique' Lecture de Mallarmé (Paris: Corti, 1985), p. 26

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  25. 検索
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    ステファヌ・マラルメ - Wikipedia
    ja.wikipedia.org/wiki/ステファヌ・マラルメ - キャッシュ
    ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842年3月18日 - 1898年9月9日)は、19世紀フランスの象徴派の系譜に入る、アル ... この世の一切が虚無であることに遭遇し、キリスト教における神の死を悟り、ロゴスとコギトが解体され、存在の根拠を失う。
    [PDF]
    Kwansei Gakuin University Repository
    kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/6197/1/532-8.pdf
    ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
    T Okubo 著 - 2003
    いる。マラルメの使う「フィクション」fiction という言葉は,デカルトの用. いる動詞「仮定する」feindre と同じく「形作る」fingere の派生語である。 それは,あらゆる不確かな外的現実(世界や身体)を捨て去ると仮定すること. で,理想の存在に満ちた自己(コギト)を形 ...
    [PDF]
    マラルメにおける詩的フィクションと科学的方法
    kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/9489/1/035-10.pdf
    ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
    したがって、 生涯の詩学の探求をささえる「フィクション」の概念(~)を、 まず、 デカルトの. 自然学の「寓話」のもつ抽象作用によって、 つぎに、 その存在論的証明のもつ創造. 性によって検討したうえで、 最後に、 抽象的 「方法」 と創造的コギトとがマラルメの 「デ ...
    [PDF]
    Page 1 Page 2 マラルメの60年代の危機と市場社会の成立 黒木 月月興 ...
    repository.cc.sophia.ac.jp/.../1/200000020567_000115000_69.pdf
    ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat
    黒木朋興 著 - 2006
    外側に広がる世界、 あるいはその向こうにある神の世界を表象することだ. ったのに対 し、 マラルメの詩学とはそのような 「外部」 ではなく 、 言葉の. 内部にある美を追究していく ことだとされる。 以上は、 コギトという理論. ー Bertrand Marchaー' LG reZZgZ。
    マラルメの箱
    www3.ocn.ne.jp/~greenbox/mallarme.htm - キャッシュ
    それらの波動、冪乗化された波動として自己の上に回帰するマラルメ的螺旋は、その振り幅の裡に「室内/室外」、「過去/ ... このような自我の純粋性は、同時に時間の垂直的な厚みでもあり、それはバシュラールが『持続の弁証法』で言及する「Cogitoの冪数」、 ...
    【「私」という超難題】(11) 「コギト」とモーリス・ブランショ - Gooブログ
    blog.goo.ne.jp/.../e/eda0134f1383c1858304dc05571a36ab - キャッシュ
    2012年8月18日 – ... 考えている私」を主張しました。 「cogito ergo sum(コギト・エルゴ・スム)=我思う、ゆえに我あり」 とこ... ... 詩人マラルメが言った「私たちは空しい物質の反映に過ぎないのか」という問いに似ていますね。そして、この延長には「人間というもの ...

    返信削除
  26. イジチュールの純粋自我は、思考の波が様々な次元(オブジェクト/メタレベルという階型)の巡歴を経て回帰し干渉し合う場所に成立する。このような自我の純粋性は、同時に時間の垂直的な厚みでもあり、それはバシュラールが『持続の弁証法』で言及する「Cogitoの冪数」、瞬間の垂直的時間の軸に沿って、重ね合わされるほどその純粋性を増す「Cogitoの冪数」と考えられる。バシュラールのいう「知的因果性」は「Cogitoの一乗」(何ものかを考える)から「Cogitoの二乗」(何ものかを考えている自分を考える)を経て「Cogitoの3乗」(自分自身を考えている誰かを考える)に到ってその最高の純粋性を獲得する。

    http://www3.ocn.ne.jp/~greenbox/mallarme.htm

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  27. Record: Prev Next
    タイトル 持続の弁証法 / ガストン・バシュラール 著 ; 掛下栄一郎 訳
    ジゾク ノ ベンショウホウ
    jizoku no benshōhō
    出版事項 東京 : 国文社, 1976.8
    トウキョウ : コクブンシャ
    tōkyō : kokubunsha

    配架場所 請求記号 現況
    中央 B1研究書庫 ロ04 03766 利用可能
    中央 B1研究書庫 ロ04 03726 利用可能
    高田記念図書館 135.5 0003 利用可能
    戸山 B1研究図書 J135.5 0002 利用可能
    形態 215p ; 20cm
    原著 La dialectique de la durée. 2. rev. éd.
    分類 135.5 njb/8
    NDL=HD135
    別著者等 Bachelard, Gaston, 1884-1962
    掛下 栄一郎, 1923-
    カケシタ, エイイチロウ, 1923-
    kakeshita, eiichirō, 1923-
    件名 時間・空間
    ジカンクウカン
    jikankūkan

    http://wine.wul.waseda.ac.jp/search*jpn/t?SEARCH=%E6%8C%81%E7%B6%9A%E3%81%AE%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

    返信削除
  28. http://fr.wikipedia.org/wiki/S%C3%A9minaires_de_Jacques_Lacan


    L'identification

    L'identification (S IX), 1961-1962

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  29. 「我考えない、または、我存在しない」(ラカン)
    http://yokato41.exblog.jp/15189066/

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  30. Cogito and the Unconscious - 2 ページ
    books.google.co.jp/books?isbn=0822320975
    Slavoj Žižek - 1998 - プレビュー - 他の版
    Slavoj Žižek. accomplishes without knowing it, its own grounding gesture, which philosophy has to disavow if it is to ... compulsion to think — "if I stop thinking, I will cease to exist" — as the truth of the Cartesian cogito ergo sum), etc., etc.
    Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism
    books.google.co.jp/books?isbn=1844679020
    Slavoj Zizek - 2012 - プレビュー - 他の版
    Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism Slavoj Zizek. This triangle of ... In his Histoire de la folie, Foucault dedicated three or four pages to the passage in the Meditations in which Descartes arrives at cogito ergo sum. Searching for ...
    Jacques Lacan: Critical Evaluations in Cultural Theory
    books.google.co.jp/books?isbn=0415278627
    Slavoj Zizek - 2002 - プレビュー
    The texts selected here present the entire scope of the Lacan debate, from the late 1970s through the present.
    Staging pain, 1580-1800: violence and trauma in British theater - 4 ページ
    books.google.co.jp/books?isbn=0754667588
    James Robert Allard, Mathew R. Martin - 2009 - プレビュー
    In Slavoj Zizek's formulation, "I suffer, therefore I am" (Ticklish 281). ... Pain is used to bridge modernity's Cartesian Grand Canyon, and it is interesting that Zizek's rephrasing of Descartes' cogito ergo sum is sanctioned by Descartes himself.


    In Slavoj Zizek's formulation, "I suffer, therefore I am" (Ticklish 281).

    The Ticklish Subject: the Absent Centre of Political Ontology, (Verso, 1999). 鈴木俊弘・増田久美子訳『厄介なる主体――政治的存在論の空虚な中心(1・2)』(青土社, 2005年-2007年)

    返信削除
  31. 「我苦しむ、ゆえに我あり("I suffer, therefore I am" )」(Ticklish 281).
      ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』)

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  32. 神の証明についてはゲーデルのそれと比較するといいだろう。

    http://yojiseki.exblog.jp/4689989

    http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/1272/


    「証明」とはいっぱんに、「ある前提(群)にある推論規則(群)を適用してある結論を導くこと」を言う。このように言われた証明について、そもそもの議論の出発点、つまり「証明抜き」でただしい、あるいは妥当であると認められるものを「公理」と言う。また、推論規則はいろいろなものがあるのだが、「三段論法」(ある前提P と「P ならばQ 」からQ という結論を導く。ゲーデルの存在証明の全体構造がこの論法に依存していることは明らかであろう)や「背理法」(ある前提P を仮定して議論を進め、その議論が矛盾におちいることを示し、前提P の否定、つまり「P ではない」という結論を導く)といったところが有名どころだろう。なお、推論規則が適用される前提は、公理だけではなく、それまでに証明された結論も含むことに注意。

    「証明」というものがいっぱんに上で言われたものであるからして、ゲーデルも当然「証明抜きでただしい、あるいは妥当だと思われる前提」からその証明を始める。そのような公理としてゲーデルがまず出してくるのが、つぎの「実在性positiveness の公理」だ。

    公理1
    ある性質、もしくはその補性質its complement のどちらか1つのみが、実在的である。

    (はやし註:ある性質P について、「P ではない」と言われる性質を、その性質の補性質と言う。たとえば、性質P を「赤い」という性質だとすると、その補性質は「赤ではない」というものになる)

    ここでさっそく、「何らかの性質property が実在的positive であるとはどういうことか?」という疑問が浮かぶ。そもそも、上の註で出した性質「赤い」とその補性質「赤ではない」のように、どちらか一方だけを「実在的」と呼ぶのはいかにも無理があるように思える。ただ、最大限ゲーデルに好意的に解釈すれば、たとえば「赤い」という性質について考えれば、「赤い」には「赤さ」が「実在」し、「赤ではない」には「赤さ」は「実在」しない、ということなのかもしれない。ともあれ、最初の公理からして「証明抜きでただしい、あるいは妥当であると認められる」どころの話ではないが、このエントリでなしたいことは、ゲーデルの証明の「内実を検討すること」ではなく、あくまでその紹介にあるので、先に進もう。

    さて、上の公理で言われた「実在的」の反対、つまりそのcomplementは「非在的negative 」と言われる。そして、このような性質は、何かある実在的(あるいは非在的)性質に、それとはべつの性質が必然的に伴うとき、その伴う性質もまた実在的(あるいは非在的)であるとされる。それがつぎの「実在性の随伴公理」である。

    公理2
    ある実在的性質に必然的に伴う性質もまた実在的である。

    つまり、「赤い」という性質には「色がある」という性質が必然的に伴うが、そうした場合、この「色がある」という性質もまた(「赤い」という性質が実在的だとすれば)実在的である、とされる。

    これら2つの公理より、つぎの命題が証明される。

    命題1
    どんな実在的性質であれ、それは具体化instantiate されうる。つまり、ある性質P が実在的であれば、その性質P を持つ何かが存在しうる。

    この命題を証明するために、まず性質P が実在的であることと、そして、この命題の否定、つまり「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ことを仮定しよう。さて、「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ということは、「すべてのものについて、それらが性質P を持たない、ということは必然的である」、つまりは「性質P を持つものがないことは必然的である」ということである。ところで、「何かが存在しない」ということは、そういう「存在しないもの」を「存在する」と仮定すると何かおかしなことになる、ということである。ここで、そういう「何かおかしなこと」を「x ≠ x 」(x に入るのは何だっていい。要は、時間を考えないセッティングで、何かがそれ自身と等しくないのはおかしい、ということ)としよう。すると、ここで「存在しない」と言われているものは「性質P を持つ何か」であるのだから、「性質P を持つものがあるとすると、x ≠ x 」ということになる。ところで、「何かおかしなこと」の反対は「しごくもっともなこと」であり、それはたとえば「x = x 」ということである(時間を考えないセッティングのもと、何かがそれ自身と等しい)。さらに、「しごくもっともなこと」、この場合で言う「x = x 」は、どういう状況下であれ成り立つ。つまり、「〜であるとすると、x = x 」の「〜」に何が入ろうが、この「〜であるとすると、x = x 」という言明はつねにただしい。「〜」は何でもよろしい、ということなので、「性質P を持つものがある」を入れることにしよう。すると、実在性の随伴公理から、「x = x 」と「x ≠ x 」とは両方とも実在的であるか、もしくは両方とも非在的であるか、のどちらかである。しかし、「x = x 」と「x ≠ x 」とはたがいにcomplementな関係なので(「x = x ではない」ということが「x ≠ x である」ということであり、「x ≠ x ではない」ということは「x = x である」ということである)、実在性の公理により、このようなことはありえない。したがって、(背理法により)前提としておいた「性質P を持つ何かが存在することはありえない」ということはありえない。ゆえに、性質P を持つ何かが存在することはありうる。そして、これが証明すべきことであった。



    というわけで、ゲーデルの存在証明の、だいたい最初の4分の1程度を見てみた。次回は最初の山にして、じつは最大の問題含みなポイントである「神が存在することはありうる」という証明までを見てみよう。
    http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/1271/

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  33. http://books.google.co.jp/books?id=TQKg6bV8QksC&pg=PA281&dq=subject+suffer+Slavoj+%C5%BDi%C5%BEek&hl=ja&sa=X&ei=8JWKUJnJB-XXmAWsvYGgBg&ved=0CE0Q6AEwBQ#v=onepage&q=subject%20suffer%20Slavoj%20%C5%BDi%C5%BEek&f=false


    The Ticklish Subject: The Absent Centre of Political Ontology
    著者: Slavoj Žižek

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  34. 「デカルトのコギトは自らをシステムに外在させる作用であり、
    デカルトのスムは自らがシステムに内在するという事実である。」
    柄谷行人(『ヒューモアとしての唯物論』「非デカルト的コギト」)
    http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html

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  35. 「無限のなかで疑いつつわれ在り」
    柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)

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  36. 「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…」
    ジジェク(『厄介なる主体2』邦訳71頁)

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  37. 「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
      デカルト(『方法序説』『哲学原理』他)

    「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
      ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
    http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

    「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
      ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
    http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
      スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
      ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)

    「私たちはどのような原因が私たちをして物体の信念へと誘うのかと問うてもよい。しかし物体が存在するのかどうかを問うことは無駄である。これは私たちのすべての推論において認められものとしなければならない点である。」
      ヒューム(『人間本性論』1.4.2、中公世界の名著27,461頁)

    「我思う=我あり(同語反復)」?
      カント(第一批判A355)

    「我思われる、故に我あり」
      フランツ・バーダー(全集12,16)
    http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

    「かれはおおもとにさかのぼって、思考そのものから出発する、これは絶対的なはじまりです。…かれの哲学精神は知と思考であり、思考と存在の統一です。」
      ヘーゲル(『哲学史講義』下邦訳214ー5頁)

    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
      ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)

    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
      フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)

    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる」
      アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)

    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
      フッサール(『デカルト的省察』§14)

    「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
      ラッセル(『西欧哲学史3』邦訳560頁) 

    「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    (he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
      ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
    http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

    「思うということが我なのである」
      ウィトゲンシュタイン(出典不明。下記サイトには出典なし)
    http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/118.html#id_3f18de39

    「我あり、故に我思う…(sum cogito…)」
      ハイデガー(『存在と時間』§43)

    「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固としたものではない。」
      ラカン(「同一化」セミネール9)
    http://yokato41.exblog.jp/15189066/
    http://psychanalyse.jp/archives.html

    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
      ラカン(セミネール14)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
      ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

    「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉であり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
      フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
      デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
      ゴダール(『映画史』1B)

    「君あり、故に我あり」
      サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)

    「無限のなかで疑いつつわれ在り」
      柄谷行人(『探究2』第二章単行本110頁)

    「デカルトのコギトは自らをシステムに外在させる作用であり、デカルトのスムは自らがシステムに内在するという事実である。」
      柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』)
    http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html

    「我苦しむ、ゆえに我あり("I suffer, therefore I am" )」
      ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』(Ticklish 281)) 




    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。

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  38. ジジェクのそれはマゾヒストのリビドー充足の源泉である苦痛を揶揄している。

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  39.  かくして〈私〉の存在を可能にしているのは言表可能性である。そしてわれわれにとって思考することが可能になるためにも、〈私〉の存在が必要であり、〈私〉が、言表可能なある一定の強度を我有化し、〈私の〉諸状態として把握していることが必要である。「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える」(18)。このことでニーチェが言おうとしているのは、この言表の影に隠れている〈ego(私)〉の存在が、思考の不可欠の要件をなしている、ということである。

    (18) 『歓ばしい知識』二七六。
    http://www2.biglobe.ne.jp/~naxos/nietzsche/jewigewk.htm

    フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月 15日 - 1900年8月25日)

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  40. ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ - Wikipedia

    生涯-参考文献-脚註-関連項目
    ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804年7 月28日 バイエルン州ランツフート Landshut - 1872年9月13日 ニュルンベルク)は、 ドイツの哲学者。青年ヘーゲ...
    ja.wikipedia.org/.../ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッ...



    アンブローズ・ビアス(1892年撮影)
    誕生 1842年6月24日
    アメリカ合衆国
    オハイオ州メグズ郡ホースケイブ・クリーク
    死没 1913年12月26日以降消息不明[1]

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  41. この『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft) 276のアフォリズムからもうひとつ引いておこう。

    > 新しき年に---私はまだ生きている。私はまだ考える。私はまだ生きなければならぬ、なぜなら、私はまだ考えなければならないから。われあり、ゆえにわれ考う、われ考う、ゆえにわれわりだ(Sum, ergo cogito : cogito, ero sum)。今日では誰も彼もが自分の願望や最も愛好する思想をあえて言表する。だから私もまた言おう、---自分が今日みずからに何を望んでいるか、また、どんな思想が今年早々にわが心をかすえmたか、---どんな思想が私の将来一切の生活の土台となり、保証となり、醍醐味となるべきか、を! (氷上英廣訳、1980。強調はニーチェ)

    >  Z u m N e u e n J a h r e. --- Noch lebe ich, noch denke ich: ich muss noch leben, denn ich muss noch denken. Sum, ergo cogito, cogito, ergo sum. Heute erlaubt sich Jedermann seinen Wunsch und liebsten Dedanken auszusprechen: nun, so will auch ich sagen, was ich mir heute von mir selber wünschte und welcher Gedanke mir dieses Jahr zuerst über das Herz liefe, --- wehcher Gedanke mir Grund, Bürgschaft und Süssigkeit alles weiteren Lebens sein soll! (FW276)

    http://25237720.at.webry.info/201204/article_25.html



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  42. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%93%B2%E5%AD%A6#.E3.83.87.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88

    デカルト [編集]

    その後、近世哲学の創始者ルネ・デカルト (Rene Descartes, Renatus Cartesius 1596-1650) らは言語を軽視した(彼のすべてを疑う方法的懐疑において 'je suis, je existe'(「わたしはある、わたしは存在する」)、 'je pense, donc je suis'[23]といった表現が、彼の直観を正しく表現しているか否かについてさえ全く疑いを持たないところに、その時代の状況が明白に現れている。ただし彼の論理思想はポール・ロワイヤル学派において展開され、当時のフランス・カトリック思想界で基本的教科書として使用された[24]。

    同様の言語軽視はイギリス経験論者にも見られる。彼等は、アウグスティヌスの名辞と名辞の連接としての命題観を受け継ぐ。ただその意味対象(指示)として、対象物それ自体にかえて、彼等の認識論に従って観念に置き換えたのみである。このパタンはジョン・スチュアート・ミルを通じて中後期のラッセルまで続く英国言語哲学の欠陥であり続けることになる。
    ライプニッツ [編集]

    ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leipniz, 1646-1716, 関連主著『論理学』[25])の普遍数学 (mathesis universalis) の構想はきわめて先駆的なものであった。少数の無定義概念と定義により諸科学の諸概念を、それらからなる少数の無証明公理と論理とのみから全知識命題を導出することを試みた。そして、普遍記号学と推論計算との二分野からなる基本普遍学の構築を企てた。とはいえ、無神論者・異端者としての誹謗をおそれた彼は、一般書『弁神論』の他は、哲学関係の著作を一切発表しなかったため、長らく言語哲学への影響はきわめて限定されたものであった。遺稿からの評価では、可能世界論を存在論と意味論との並行において論じている。その構想は、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』、クリプ

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  43.  《QNo.4250027 :デカルト曰く「私以外の全ては無根拠」なのに何故皆平然と生きているのですか? =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4250027.html》そのANo.6に わたしは コギトが アウグスティヌスの《あやまつならば(あざむかれるならば) われあり》の焼き直しだという点を指摘しています。

     ここでは そのアウグスティヌスの文章で 同じような趣旨を書いた箇所を 別の著書から 引いてみます。

       *

     すなわち わたしたちは存在し その存在を知り かつその存在とその知識とを愛する。わたしたちはここにあげた三つの実在(存在・知識・愛)に関して 真理の仮面をかぶった虚偽によって惑わされることはない。・・・
     これらの真なる実在に関して アカデミア派の議論を少しも恐れない。彼らは言う。《もしきみが欺かれているとしたらどうか》と。しかし もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在する。なぜなら 存在しない者が欺かれることは まったくありえないのだから。
     それゆえ もしわたしが欺かれるとすれば わたしは存在するのである。・・・
    http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:5STN2CTdmkEJ:okwave.jp/qa/q4338886.html+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&client=firefox-a

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  44. http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20120629/1340917610

    http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/13_pensee/index.html#box04

    どうでもいい、じじぃの日記。

    6/27、NHK Eテレ 『名著13 パスカル パンセ』で 「第4回 人間は考える葦である」を観た。

    大体、こんなことを言っていた。 (手抜きしている)

    原発事故に金融危機。今世界のあらゆる場所で現代文明の脆さが明らかになっています。人間は決して驕(おご)ってはならない。そう語ったパスカルの思想には、今こそ噛みしめる価値があります。

    100分で名著・パンセ。最終回は生物学者の福岡伸一さんをゲストに迎え、先の見えない時代を生き抜ける術を考えていきます。

    <人間は考える葦である>

    この一節に込められたパスカルの熱い思いに迫ります。

    島津、「福岡さんは最先端の科学を研究していますが、パンセの思想というものをどのように受けとめていますか?」

    福岡先生、「今、科学万能の時代ですが、だからこそ、パスカルの世界観、思想をもう一度、再評価すべきではないかと思っています。17世紀パスカルともう一人、キーになる人物がいました。それはデカルトという人です」


    パスカルのことば ~『パンセ』 断章77より~

    <私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。>

    島津、「こちらにどこが違うのか、簡単にまとめてみました」

    デカルトとパスカルの違い

                 デカルト           パスカル

    ----------------------------------------------------

    人間の理性は・・・   万能である          限界がある

    世の中は・・・     全てに原因と結果がある  偶然によって左右される

    迷ったら・・・      あくまでデータ重視      時には直観を信じる


    じじぃの感想

    「我思う、ゆえに我あり」

    力強い言葉だ。

    「人間は一本の考える葦にすぎない。自然のなかで最も弱いもののひとつである。しかし、それは考える葦なのだ」

    ちょっと、力強さに欠ける言葉だ。

    「自然も社会も人間も偶然に左右されるから、変わり続ける。すべてを知ることはできない。未来のことも誰にも分からない。だからこそ、人間は驕ってはいけない」

    これが一番真実に近いのかもしれない。

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  45. 島津、「こうしたパスカルの思想が、なぜ今大事だと思われるのですか?」

    福岡先生、「17世紀に、こういう思想が出てきた上に、私たちの近代社会、現代社会が成り立っている。私たちはデカルトの考え方を採用して、パスカルを捨てたんです。デカルトの考え方はこの世界は全部因果関係で成り立っていて、メカニズムとして理解できる。それは私たち生命体でも、精密な機械のようなものだと見なすことができる。だから、因果関係を解き明かせば、すべてが分かり、制御ができると考えた。その考え方には自然とか、生命に対する謙虚さが欠けている」

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  46. 探究2単行本102頁
    パスカル

    パスカルのことば ~『パンセ』 断章77より~

    <私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。>

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  47. してではなく、あらゆる経験の「普遍地平」として規定されている 11 。経験には「絶え

    ず流れる地平性」が属しているというフッサールの洞察は、同様に志向分析的に与えられ

    ている。それは、あらゆる対象志向には地平志向性の領野が属しているという観察に基づ

    いている。この思想は、
    『デカルト的省察』においては特に明確に定式化されている。
    「志

    向的な分析は、あらゆるコギトは意識として確かに最も広い意味では思念されたものの思

    念であるが、この思念されたものはどの瞬間においてもそのつどの瞬間において明瞭に思

    念されたものとしてそこにあるもの以上のもの(より以上をもって思念されたもの)であ

    「いずれの意
    る、という根本認識によって導かれている」12。彼はこう付け加えている。

    識にも含まれているこの自らを越えて思念することは、意識の本質契機と見なされねばな

    「地平志向性」は、この「より多くを思念すること」に対する別名にすぎな
    らない」13 。

    9  E. Husserl, Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie, in:

    Husserliana, Bd. VI, a. a. O., S. 121.

    10  Ebd., S. 380.

    11  Ebd., S. 147.

    12  E. Husserl, Cartesianische Meditationen , hrsg. von E. Ströker, Hamburg: Meiner, 1987, S. 48.

    13  A. a. O., S. 49.

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  48. 識にも含まれているこの自らを越えて思念することは、意識の本質契機と見なされねばならない」13 。

    「地平志向性」は、この「より多くを思念すること」に対する別名にすぎな

    い 14。

    14  Ebd.

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  49. 探究2、108頁

    デカルトのコギトは、…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。
    レヴィナス『全体性と無限』


    デカルトは無限を構成しえないものとして考えた。このことによって、コギトが「他なるもの」へと開かれる余地が残されたのである。有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。


    レヴィナス『全体性と無限』

    109頁

    エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas、1906年1月12日 - 1995年12月25日)は フランスのユダヤ人哲学者・タルムード学者。リトアニアのカウナス出身。

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  50. 「デカルトのコギトは、…この(無限なる)神との関係において、コギトの有限性あるいは懐疑がたてられ、認識されるのである。…有限なるコギトが無限なる神に依拠するとしても、この依拠は神の単なる主題化ではない。いかなる対象をも私は自力で解明し内包する。が、無限の観念は私にとって対象ではない。」
     レヴィナス(1906-1995『全体性と無限』、柄谷『探究2』単行本108−9頁参照)

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  51. Shisōshi
    前表紙
    Yūjirō Nakamura
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    1977 - 304 ページ
    この書籍内から


    ... あり、そこではコギトは「我思う」ではなくて、「我能う」でなければならない。メルロ 4
    ポンティがもっぱらフッサ—ル後期に傾倒したのは、ここからであった。自己の身体は
    たんなる物でもないし観念でもない。このことを如実に示しているのは、いわゆる身体
    図式、 ...

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    Memoirs of the Institute of Cultural Sciences, Meiji University - 第 37~38 巻 - 61 ページ
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    Meiji Daigaku. Jinbun Kagaku Kenkyūjo - 1995 - スニペット表示 - 他の版
    メルロ二ポンティは,間主観性の問題を,我思うというコギトの次元ではなく,身体性の次元において捉え直そうとする。他者を知宽する場合,他者が何を考えているか,ということではなく,身体的行動としてまず他者は知覚される。そして,自分の知覚野における他者の ...
    総特集メルロ: 身体論の深化と拡張 - 93 ページ
    books.google.co.jp/books?isbn=4791711904
    2008 - スニペット表示
    ... (ォ)〉とは言えない」「時間の流れによって解体されたり再形成されたりする」コギトの「推定上の統一」に還元される? )。ここで表明されているのは、エゴ 1 コギトぎ 8 も。〔我思う〕)の解体である。私が自我殺し( ^ ^を)と呼ぶこのような行ないは、メルロ"ポンティだけ ...
    大阪大学人間科学部紀要 - 第 7~8 巻 - 12 ページ
    books.google.co.jp/books?id=kVA3AAAAIAAJ
    大阪大学. 人間科学部 - 1981 - スニペット表示 - 他の版
    ノートへの注釈メルロ=ポンティの自己批判の意味は,今や,ほぼ明らかだろう。 ... ノート八とノート 8 および 0 :をへだてた時日に,メルロ-ポンティは当初の見解を変更したのだろう力んそうではない,とわれわれは思う。 ... 言われているように,問題の概念が解決ではなくかえつて問題を立てる羽目になったという反省は,そもそもく暗黙のコギト〉という概念 ...
    現代思想 - 第 32 巻、第 11~15 号 - 160 ページ
    books.google.co.jp/books?id=R9YyAQAAIAAJ
    2004 - スニペット表示 - 他の版
    そこで問題になるのが、近代哲学が原理とした、「我思う、ゆえに我在り」である。 ... メルロ"ポンティは、まずコギトを思考が自分を越えていく運動だととらえ直した上で、コギトにおける「自「しの自己自身との直接的接触」を、個々の判断の前提となる根源的な明証 ...
    Shisōshi - 249 ページ
    books.google.co.jp/books?id=pKpFAAAAMAAJ
    Yūjirō Nakamura - 1977 - スニペット表示
    ... あり、そこではコギトは「我思う」ではなくて、「我能う」でなければならない。メルロ 4 ポンティがもっぱらフッサ—ル後期に傾倒したのは、ここからであった。自己の身体はたんなる物でもないし観念でもない。このことを如実に示しているのは、いわゆる身体図式、 ...

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  53. コギトは哲学的になった共通感覚である

    ドゥルーズ『差異と反復』原著174頁

    Title ドゥルーズ『差異と反復』におけるコギト論 ... - Osaka University
    ir.library.osaka-u.ac.jp/metadb/up/LIBAHSK/ahs31_31.pdf
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    山森裕毅 著
    Osaka University. Title. ドゥルーズ『差異と反復』におけるコギト論. Author(s). 山森, 裕毅. Citation. 年報人間科学. 31 P.31-P.48. Issue Date 2010. Text Version publisher. URL http://hdl.handle.net/123456789/8756. DOI. Rights ...

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  54. 超越論的意識とは、カントが《『私は考える』とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない》(『純粋理性批判』岩波文庫上 篠田訳P.175)



    《意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。》(『知覚の現象学』p.p.p.160)

     一方、身体についても、即自存在と見なされる客体としてではなく、《私が住み着いているもの》(P.p.p.404)、《身体の意識が身体全体に浸透しており、身体のどの部分にも精神が拡散している》(P.p.p.90)、いわば、《主体的客体subjective Object》(“哲学者とその影”『シーニュ2』木田訳p.15  この語はフッサールによって用いられたものであるという)として概念せねばならないことになる。

    http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

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  55. モーリス・メルロー=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908年3月14日 - 1961年5月4日)は、フランスの哲学者。現象学を学び、その発展に尽くした。ロシュフォールに生まれた。パリの自宅で執筆中、心臓麻痺のため死去。

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  56. 「〈私は考える〉とは、私の一切の現象に伴い得るのでなければならない」  カント(『純粋理性批判』岩波文庫上 篠田訳P.175)

    「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
      メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160)

    「コギトは哲学的になった共通感覚である」
    ドゥルーズ(『差異と反復』原著174頁)

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  57. http://www.u-ryukyu.ac.jp/univ_info/kouhou/gakuhou/data/403/6-1.htm

     卒業する皆さんは、17世紀フランスの哲学者デカルトのいう、「世間という大きな書物」、すなわち「世の中」で、引き続き学び自らを鍛えることになります。デカルトは当時ヨーロッパでよく知られた学院を卒業したとき、その学院に残って将来教師になる資格のある優秀な学生の一人でありましたが、自ら軍隊に志願してヨーロッパ諸国を遍歴します。学校という温室から出て、「世間という大きな書物(フランス語でLe grand livre du monde)」といいますが,この「世間という大きな書物」の中で自分を鍛えることが若きデカルトの目的だったのです。当時ヨーロッパの町角には数学の難問が高札の形で掲げられていて、この問題を解けるものはどこそこに参られよ、と書かれていたのですが、数学が大変よくできたデカルトはこれらの難問を次々と解いていくという、いわば、道場破りの若者としてその名が知られるようになります。

     しかしながら、若きデカルトは疑いうるものはすべて疑うという、その自らの「方法的懐疑」によって苦しみ、 すべてが信じられないとしても、ものを考えているこの自分は確かに存在しているのだという、かの有名な原則「私は考える、故に私は存在する」という原則に到達します。このフランス語の”Je pense, donc je suis”は、デカルト自身によってラテン語では”Cogito ergo sum”と訳され、哲学史上コギトの問題として様々の議論のあることは人の良く知るところでありますが、私はポール・ヴァレリイの一見奇怪に見える解釈に組するものであります。即ち、若きデカルトが考えに考え抜いた後でもなお自分の考え、自分の生き方に自信がもてない時、「私は考える、ゆえに私は存在する」”Je pense, donc je suis”と口ずさんだのであり、デカルトのこのコギトは自分自身を励ますための一種の呪文であったのではないかというのがヴァレリイの解釈であります。

     デカルトのこのコギトから私たちは容易にパスカルのいう「人間は考える葦である」という、これまたたいへん有名な言葉を思い起こします。

     若きパスカルは、空気の重さについて、パリの町角でデカルトと議論したとのエピソードが残されていますが、パスカルはキリスト教弁証論を構想していましたので、デカルトの合理主義的哲学を役に立たないと批判したと伝えられていますが、そのパスカルも人間の偉大さは考える力にあると言っています。パンセの次の文はあまりにも有名です。─「人間は一茎の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。彼を押しつぶすために、宇宙全体が武装するにはおよばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼を押しつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

     だから、我々の尊厳のすべては考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」

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  58. 「コギトに推論は
    ない。それが文字どうりの意味をもつということさえないσあるのは力のひと突きであり,
    知性の反射行動であり,生きそして考え,次のように叫ぶ存在である。もうたくさんだ。あ
    なたがたのいう疑いは私自身の中には何の根も持っていない。私は何の役にもたたないもう
    一つの疑いを自分用に作り出し,それを方法的懐疑と名付けよう。それを先ず最:初あなたが
    たの命題に適用することを許して欲しい。あなたがたの問題は私にとっては無意味である。
    ある哲学によると私は存在し,他の哲学によると私は存在しないことになるが,いずれの場
    合にも,事物において,私において,私の能力において,私の情念において,何ら変りはな
    いのである…。」(L806-807)



    「コギトはデカルトが自らの自
    我意識の浮力に集合を命じるラッパの響きのように私には感じられる。デカルトはそれを彼
    の自我のテーマ,精神の自負と勇気に呼びかけるラッパの響きとして,彼の作品の多くの箇
    所で何度も繰り返し取り上げている。この表現の魅カー魔術的な意味での一はこの点に
    ある。その表現は様々に注釈されているが,私はそれを感じとるだけで充分だと考える次第
    である。」(1,807)

    ヴァレリー『デカルト』


    デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推
     論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
      コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的ク
     ーデタである。
      コギトは人間と哲学者との接ぎ目,模倣する青春から自分でものを考える大人への移行
     期を印しづけている。(26)

    デカルトの思想そのものではなく,思索したデカルトの生活,懐疑にみちた青春期を自我の
    高らかな叫びでもって乗りきり,沈着かつ大胆な思索活動を持続した,行動の人デカルトに
    ヴァレリーは彼の知的な偶像テスト氏を認めるのである。
     青年期にはテスト氏という形でヴァレリーの文学的,思想的理

     Va16ry, Cahiers, T.10, P.359.
    e6 lbid., T.5, P.144.



    [PDF]
    Shinshu University Institutional Repository SOAR-IR
    https://soar-ir.shinshu-u.ac.jp/dspace/.../4349/.../Liberal_arts14-07.pd...
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    山本省 著 - 1980
    かの有名な「コギト」に関してヴァレリーはきわめて特異な解釈を試みる。『方法叙説』の. 中でデカルトが主張し,また後世の多くの人々が喧伝してきた方法にではなく,ヴァレリー. は,『叙説』中の「私」の多用が伝えてくるデカルト自身の肉声の響きに魅力を感じる ...


    アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(Ambroise-Paul-Toussaint-Jules Valéry, 1871年10月30日 - 1945年7月20日)

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  59. 「デカルトのコギトそれ自体を分析すべきではない。それはそれだけで完結するような推論ではない。それ自体は何の意味も持っていない。
     コギトは壮麗な叫び,劇的な文句,文学的動作,つまり,決定的行為ないしは心理的クーデタである。」
      ヴァレリー(1871-1945「カイエ(ノート)」Cahiers,T.5,P.144)

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  60. ポール・ヴァレリー

    ドニ・ベルトレ 著 | 松田浩則 訳 

     ヴァレリー(1871~1945)は、戦前のフランスを代表する詩人・思想家であった。つまり、デカルトの衣鉢を継ぐ者であった。1930年代には、フランスの「知性」を代表し、ジュネーブの国際連盟に属する「知的協力委員会」の議長として、和平のために活動した。むろん、この活動はむなしく敗北に終わり、フランスはナチス・ドイツによって占領されるにいたったのである。フランスが占領から解放された翌年に、ヴァレリーは死去した。
     奇妙なことに、ドイツから解放された戦後フランスは、逆に、ドイツ哲学によって占領された。占領はサルトルからラカン、デリダにいたるまで続いた。それが標的としたのは、まさにデカルト=ヴァレリーであった。近年において、ドイツ哲学の占領はようやく終わったようだ。だが、ただちに、ヴァレリーの復権、フランス的知性の回復、というわけにはいかない。それがいかなる歴史的文脈にあったかを見なければならない。
     この大部の伝記は、抽象的な「知性」の人、ヴァレリーが本来、政治的には国家主義者であり、反ユダヤ主義者でもあったこと、また、ドイツの占領に協力したペタン元帥と友人であったことなどを、数々の恋愛や社交界の出来事とともに、淡々と記している。

    柄谷行人 |2009.1.18 |朝日新聞 書評欄掲載
    http://www.kojinkaratani.com/jp/bookrv/post-33.html

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  61. パスカルの宗教哲学

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    ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉

    ポール・ヴァレリー 著 , 山田 広昭 編訳
    精神の極限を照射する
    〈哲学〉論考
    精神の限界に果敢に挑んだ人間への頌歌〈デカルト論〉、パスカル、ヴォルテール、ニーチェらの肖像、さらに〈神秘主義〉、〈身体論〉をめぐる論考を収める。
    ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉

    シリーズ:シリーズ・全集
    定価:6,720円(税込)
    Cコード:0398
    整理番号:
    刊行日: 2011/11/24
    判型:A5判
    ページ数:320
    ISBN:978-4-480-77064-6
    JANコード:9784480770646

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    著者について1
    著者について2

    ポール・ヴァレリー
    ポール・ヴァレリー

    ヴァレリー,ポール

    著者に関する情報
    筑摩叢書 60 私の見るところ 筑摩叢書 60 私の見るところ
    ヴァレリー全集(増補版)10 ヴァレリー全集(増補版)10

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    この本の内容

    20世紀最大の知性の輝かしい精神の軌跡を斬新なテーマ別に編集、すべて新訳で集成。永遠に斬新なデカルト論から神秘主義、身体論へ―精神の極限を照射する“哲学”論考。デカルト、パスカル、ヴォルテール、さらにカントやニーチェについての思考を集成、スヴェーデンボリなどの神秘主義をめぐる論考や身体論をも収める。
    この本の目次

    第1部 ヴァレリーと“哲学者”たち(デカルト断章
    オランダからの帰り道
    デカルト ほか)
    第2部 神秘主義(スヴェーデンボリ
    霊的讃歌
    『ユリイカ』について ほか)
    第3部 身体論(外科学会での演説
    身体についての素朴な考察
    『カイエ』より(抜粋))


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  62. パスカルのことば ~『パンセ』 断章77より~

    <私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。>

    島津、「こちらにどこが違うのか、簡単にまとめてみました」

    デカルトとパスカルの違い

                 デカルト           パスカル

    ----------------------------------------------------

    人間の理性は・・・   万能である          限界がある

    世の中は・・・     全てに原因と結果がある  偶然によって左右される

    迷ったら・・・      あくまでデータ重視      時には直観を信じる


    じじぃの感想

    「我思う、ゆえに我あり」

    力強い言葉だ。

    「人間は一本の考える葦にすぎない。自然のなかで最も弱いもののひとつである。しかし、それは考える葦なのだ」

    ちょっと、力強さに欠ける言葉だ。

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  63. 探究2単行本102頁
    パスカル

    パスカルのことば ~『パンセ』 断章77より~

    <私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。>

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  64. 探究2単行本102頁
    パスカル


    「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学の中で、できるなら神なしですませたいと思っただろう。」
      パスカル(『パンセ』断章77、柄谷『探究2』単行本102頁参照)

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  65. 「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
      メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳1、232頁。フッサールの未刊書でしばしば使用される言葉。)
    http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

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  66. 「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
      メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳1、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉。)
    http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

    「このコギトの真の法式は、〈ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する〉(On pense, on est)ということになろう。」
      メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳2、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなくてひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)

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  67. 「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
       メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)

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  68. 『野生の思考』(1962、みすず書房1976)第9章「歴史と弁証法」(296頁)には驚かされた。
     「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」(300頁)

    http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html

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  69. 「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」
      レヴィ=ストロース(1908-2009『野生の思考』邦訳300頁)
    http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html

    クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - 2009年10月30日)



    『野生の思考』(1962、みすず書房1976)第9章「歴史と弁証法」(296頁)には驚かされた。
     「サルトルは、自分のコギトの虜囚になっている。」(300頁)

    http://homepage2.nifty.com/teiyu/idea/in_1206.html

    クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - 2009年10月30日)

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  70. http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4250027.html
    No.6
    0件
    回答者:noname#80116回答日時:2008/08/14 10:25
     認識の主体について こういう議論が出来るかと思います。

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
     ▲ ______________________
      わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
    (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
    __________________________
     パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしています。
     アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
     ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
     ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

      * 念のために この点についてのデカルトの文章です。
       ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
     がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
     うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
     いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
     きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
     る と仮想しようと決心した。
        (方法序説 4)
       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

     それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

     さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

      * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
       を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

     だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
     さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
      (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
     ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
      そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
      (方法序説 2)
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    と書いたことは よく知られているところである。

     これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
      ▲ ________________________________________________
     デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
     (パスカル:幾何学の精神について 2)
    ____________________________________________________
     パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしていますが 大目に見ておきましょう。
     《わたし》は どこへも行きません。いま ここに あります。

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  71. 《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354年 - 430年)


    アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354年11月13日 - 430年8月28 日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者 たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語...

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  72. http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors

    Although the idea expressed in Cogito ergo sum is widely attributed to Descartes, he was not the first to mention it. Plato spoke about the "knowledge of knowledge" (Greek νόησις νοήσεως - nóesis noéseos) and Aristotle explains the idea in full length:
    But if life itself is good and pleasant (...) and if one who sees is conscious that he sees, one who hears that he hears, one who walks that he walks and similarly for all the other human activities there is a faculty that is conscious of their exercise, so that whenever we perceive, we are conscious that we perceive, and whenever we think, we are conscious that we think, and to be conscious that we are perceiving or thinking is to be conscious that we exist... (Nicomachean Ethics, 1170a25 ff.)
    Augustine of Hippo in De Civitate Dei writes Si […] fallor, sum ("If I am mistaken, I am") (book XI, 26), and also anticipates modern refutations of the concept. Furthermore, in the Enchiridion Augustine attempts to refute skepticism by stating, "[B]y not positively affirming that they are alive, the skeptics ward off the appearance of error in themselves, yet they do make errors simply by showing themselves alive; one cannot err who is not alive. That we live is therefore not only true, but it is altogether certain as well" (Chapter 7 section 20). Another predecessor was Avicenna's "Floating Man" thought experiment on human self-awareness and self-consciousness.[4]



    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26。パスカルが「幾何学の精神について」2.1657で比較引用。)


    アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354年11月13日 - 430年8月28 日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者 たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語...

    9:45 午後

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  73. 「…thinking is to be conscious that we exist... 」
    アリストテレス(『二コマコス倫理学』1170a25 ff)

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  74. 「…thinking is to be conscious that we exist... 」
      アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』1170a25 ff)
      http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors


    Although the idea expressed in Cogito ergo sum is widely attributed to Descartes, he was not the first to mention it. Plato spoke about the "knowledge of knowledge" (Greek νόησις νοήσεως - nóesis noéseos) and Aristotle explains the idea in full length:
    But if life itself is good and pleasant (...) and if one who sees is conscious that he sees, one who hears that he hears, one who walks that he walks and similarly for all the other human activities there is a faculty that is conscious of their exercise, so that whenever we perceive, we are conscious that we perceive, and whenever we think, we are conscious that we think, and to be conscious that we are perceiving or thinking is to be conscious that we exist... (Nicomachean Ethics, 1170a25 ff.)
    Augustine of Hippo in De Civitate Dei writes Si […] fallor, sum ("If I am mistaken, I am") (book XI, 26), and also anticipates modern refutations of the concept. Furthermore, in the Enchiridion Augustine attempts to refute skepticism by stating, "[B]y not positively affirming that they are alive, the skeptics ward off the appearance of error in themselves, yet they do make errors simply by showing themselves alive; one cannot err who is not alive. That we live is therefore not only true, but it is altogether certain as well" (Chapter 7 section 20). Another predecessor was Avicenna's "Floating Man" thought experiment on human self-awareness and self-consciousness.[4]



    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26。パスカルが「幾何学の精神について」2.1657で比較引用。)


    アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354年11月13日 - 430年8月28 日)は、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者 たちの一人。古代キリスト教世界のラテン語...

    9:45 午後

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  75. デカルト、幾何学の精神、二元論
    パスカル、繊細の精神、身体を含む

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  76. http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/library/evangelical.html

     
     大木英夫氏はその著『組織神学序説』2003.p185~7.において、次のような発言をしておられる。「ブーバーが<我と汝><我とそれ>という二つの根源語を提示したのは二十世紀になってからであります。デカルト的我は<我と汝>関係の<我>ではなく、<我とそれ>関係の<我>であります。ブーバーの発見は、デカルトのコギトの自己を発見したことに匹敵するような哲学的発見であります。デカルトの認識する主観と認識される客観との関係の中には<汝>という<他者>の存在の余地はありません。……ブーバーは、ユダヤ人哲学者であります。あの発見は、ユダヤ的伝統の中での可能性でありました。聖書はまさに<我と汝>関係の世界であります。」8
    8 大木英夫、『組織神学序説』、教文館、2003年、185-187頁。
    「福音派の聖書観と説教観の特質と傾向」


    ―聖書の真理についての説教学的考察―
     
    市川北バプテスト教会牧師 藤原導夫 
    経歴-思想-本稿の参考文献-関連書籍
    マルティン・ブーバー(ヘブライ語: מרטין בובר‎, ラテン文字転写;Martin Buber, 1878年2 月8日 - 1965年6月13日)はオーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者。 息子 ラファエル・ブーバー (Ra...







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  77. http://himatubusinoheya.blog89.fc2.com/blog-entry-322.html

    この本は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉について
    疑問を唱えている。つまり、ここにおける“我”とは何かということについて。

    Resource Of Yead 「孤独と愛 ―我と汝の問題―」

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  78. http://ameblo.jp/enomotosenjyutsu/entry-10980597059.html

    2011年08月09日(火) 
    テーマ:呪術
    仁田丸久先生は、少年時代に少しばかり哲学に凝った時期がありまして

    認識論なるモノに異様に魅せられたとのことでありまする。

    その時知った言葉には、

     デカルトの「我思う故に我在り」(COGITO、ERGO SUM)

    であったとのことで、これは哲学入門者は、一度は腹に入れる言葉であり

    まする。

    ところが、現代になって今は、デカルトのそれに代わり、

    マルティン・ブーバーの、






















    (マルティン・ブーバー 1878年2月8日~1965年6月13日、オーストリア
    出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者)

    「我と汝(われとなんじ)」(Ich und Du)が世界中の哲学青年の入門語となった

    のでありまする。

    マルティン・ブーバー(MARTIN BURBER)の略歴は結構面白いのでありまする。

    1878年 ウィーンに生まれる。
    1896年 ベルリン大学でディルタイ、ジンメルに師事。その頃より神秘主義の
          研究に入る。

    リスト

    http://homepage1.nifty.com/ta/sfb/buber.htm#sobun01

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  79. ブーバーは「対話」でフンボルトの『双数」を引用する
    岩波文庫217頁

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  80. 「人間は自己のたんなる思惟のためにも、〈われ〉に対応する〈汝〉に憧れる。」
    フンボルト『双数』

    ブーバーが「対話」217頁で引用

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  81. 218頁に訂正


    「思惟の成立は独り言やつぶやきの中からは生まれない。」同
    217

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  82. Logique de Port-Royal: suivie des trois fragments de Pascal sur ... - 377 ページ
    books.google.co.jp/books?id=XRwJAAAAQAAJ
    Antoine Arnauld, Pierre Nicole, Blaise Pascal - 1861 - 読む - 他の版
    suivie des trois fragments de Pascal sur L'Autorité en matière de philosophie, L'Esprit géométrique et L'Art de persuader Antoine Arnauld, ... Quid si falleris? Si enim fallor, sum. Nam qui non est, utique nec falli potest, ac per hoc sum, si fallor.
    Capital Times: Tales from the Conquest of Time
    books.google.co.jp/books?isbn=0816622604
    Eric Alliez - 1996 - プレビュー - 他の版
    Cf. also De civitate Dei XI, 26 ("Si enim fallor, sum . ... reference is to Descartes, of course] from the word in others who have written it in passing, as is a man full of life and strength from a dead one" (Blaise Pascal, De l' esprit geometrique, ed.

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  83. フンボルトの発言は直接的にはデカルトに関係しない

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  84. cogito ergo sum変奏:厳選版

    「我思う、故に我あり(cogito ergo sum. 正確には、ego cogito , ergo sum .)」
      デカルト(1596-1650『方法序説』『哲学原理』他)

    「〈私は歩行しつつある〉、ゆえに〈私は歩行である〉(je suis promenant, donc je suis une promenade)」
      ホッブズ(「省察 第3反論」邦訳『デカルト著作集』209頁)
      http://www.gutenberg.org/files/13846/13846-h/13846-h.htm#footnotetag56

    「我歩く、故に我あり(ego ambulo, ergo sum)」
      ガッサンディ(上記のホッブズと混同されがち。発言のある『形而上学探究 Disquisitiones anticartesianne』1643年は未邦訳。)
      http://books.google.co.jp/books/about/Disquisitio_metaphysica.html?id=6uMUAAAAQAAJ&redir_esc=y

    「疑いつつ在る(我は思惟しつつ存在する Ego sum cogitans)」
      スピノザ( 『デカルトの哲学原理』)

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

    「存在することは知覚されることである(Esse is percipi エッセ・イス・ペルキピ)」
      ジョージ・バークリー(『人間原理論』§3)

    「我思う=我あり(同語反復)」?
      カント(『純粋理性批判』A355。B132、B277をはじめ、B422、B428、A347、A370にも関連した考察がある。)

    「我思われる、故に我あり」
      フランツ・バーダー((Franz Xaver von Baader、1765-1841全集12,16)
      http://www.members.shaw.ca/jgfriesen/Mainheadings/Baader.html

    「わたしは考える、それゆえそれは存在する(コギト・エルゴ・エスト)」
      ショーペンハウアー(続意志と表象、第4章)

    「我思惟す、ゆえに我万人なり(Cogito, ergo omnes sum homines)」
      フォイエルバッハ(『理性論』IV§17、邦訳『理性と認識衝動下』)

    「我思う、ゆえに我ありと思う我がいる(Cogito cogito ergo cogito sum われ思うとわれ思うがゆえにわれありとわれ思う)」
      アンブローズ・ビアス(『悪魔の辞典』)

    「Sum, ergo cogito(私が存在する、ゆえに私が考える)」
      ニーチェ(『悦ばしい知識』(Die Fröliche Wissenschaft)§276。文法的に逆転するだけでは意味がないという指摘も含めて、これはハイデガーに先行する認識である。ニーチェは『善悪の彼岸』§54でも主語重視のデカルト及び述語重視のカントを批判している。) 

    「我思う(エゴ・コギト)という超越論的な言い方には、もう一つの項が追加されねばならない。すべての思うこと(コギト)、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたもの(コギタートゥム)を伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」
      フッサール(1859-1938『デカルト的省察』§14)

    「もしも〈コギト〉があれほど繰り返し彼の著作の中に、すなわち『方法序説』に、『省察』に、『哲学原理』に見いだされるとすれば、それは〈コギト〉がデカルトに対して彼の本質をなす〈エゴチスム〉に集合を命ずるラッパを吹き鳴らすからにほかならない。」
      ヴァレリー(1871-1945「デカルト考」『ヴァレリー集成4 精神の〈哲学〉』邦訳70頁) 

    「考えがある( "There are thoughts" (or "Thinking is occurring"))」
      ラッセル(1872-1970『西欧哲学史3』邦訳560頁)

    「コギト エルゴ スム、非常に奇妙な文章だね」(自分の頭を指差して)
    (he replied "Cogito ergo sum. That’s a very peculiar sentence", pointing to his own head at the words "cogito" and "sum".)
      ウィトゲンシュタイン(アントニー・フリューの回想より。意味不明だが行為の重要性を強調したものとも考えられる。『青色本』(ちくま文庫160頁)では代入できない自己が考察される。)
      http://www.wittgenstein.internet-today.co.uk/flew.html

    「〈sum cogito〉(われ存在す、われ思惟す)…最初の言明は〈sum〉であり、しかも、〈われ世界の内にあり〉という意味でのそれである。」
      ハイデガー(Martin Heidegger、1889-1976『存在と時間』§43。ちくま文庫上440頁。ニーチェと同じ言い換えをしつつ、さらに補足している。)

    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
      ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14)

    「意識とは原初的には〈われ惟うje pense que〉ではなく、〈われ能うje peux〉である。」
      メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.160、邦訳一、232頁。フッサールの未刊書「還元の問題性」等?でしばしば使用される言葉らしい。)
      http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/private_0504.htm

    「ひとが思惟する、ゆえにひとが存在する(On pense, on est)」
       メルロ=ポンティ(1908-1961『知覚の現象学』p.459、邦訳二、292頁。黙せるコギトと語られたコギト、意識は言語を構成するのではなく てひき受けるのだ、ということらしい。黙せるコギトが〈On〉ということだろう。フッサールとともにフロイトに近い認識だ。)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考するもの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
      ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

    「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なのであります。」
      デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

    「われ思う ゆえに われ見る(コギト エルゴ ヴィデオ Cogito ergo video)」
      ゴダール(『映画史』1B)

    「君あり、故に我あり」
      サティッシュ・クマール(1936- 同名書名より)

    「コギトとは、そうしたシステム間の〈差異〉の意識であり、スムとは、そうしたシステムにの間に〈在る〉ことである。」
      柄谷行人(「非デカルト的コギト」『ヒューモアとしての唯物論』文庫版94頁)
      http://blogs.yahoo.co.jp/jkrt8888/34586313.html 

    「…ボク苦しいよ、だからボクは生きている、あぁ存在しているよ…("I suffer, therefore I am" )」
      ジジェク(1949- 『厄介なる主体 2』邦訳71頁(Ticklish 281))  


    一見言葉遊びに見えても、各思想家の本を読んでいればそれぞれの哲学体系に即したことばだということがわかる。
    特にスピノザの平行論、ライプニッツの分析主義をあらわす言い換えは見事だと思う。



    追記(番外編):

    「…thinking is to be conscious that we exist... 」
      アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』1170a25 ff)
      http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors 

    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
      アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26。パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際の指摘と関連する。引用は別箇所。アルノーも反駁で使用した。)

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  85. 思考でさえも、社会的存在への出向を本質的にと
    もなっており、人間は、すべての身体的・感覚的な関係は別にしても、みずからのたんなる思考のためだけにでも、
    〈私〉に対応する〈君〉を切望する。人間にとって概念は、なんらかの他者の思考力からの反射によってはじめて、
    その明確さと確実さに到達するらしいのである。概念は、動きの激しい一群の表象からもぎ離され、主観に対峙
    する客観にまで形成されることによって生みだされる。だが客観住は、そうした緊張関係が主観のうちに生じる
    だけではなく、表象するひとが思想をみすからのそとにじっさいに見るばあいにいっそう完全なかたちであらわ
    れるが、それは、自分と同じように表象し思考するある他者においてのみ可能である。ところが、思考力どうし
    のあいだには、言語以外の媒介者は存在しない。

    フンボルト『双数について』邦訳31頁

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  86. わたしは、アカデミア
      派の「あなたが欺かれるなら、どうか」という反論をおそれない。わたしが欺かれるなら、わた
      しは存在するからである。すなわち、存在しないものは、欺かれることさえもでぎないにちが
      いないのであって、わたしは欺かれるならまさしくそのことによって存在するわけである。そ
      れゆえ、わたしは欺かれるなら、存在するのであるから、わたしが欺かれるなら、わたしが存
      在するということが確実である以上、どうしてわたしは、わたしが存在するということを信じ
      て欺かれることがあろうか。したがって、たとえ、わたしが欺かれても、その欺かれるわたし
      は存在するはずであるから、わたしは、わたしが存在するということを知ることに関して欺か
      れないことは疑いない。したがって、わたしは、わたしが知るということを、知ることに関し
      ても欺かれないといわねばならない。わたしは、わたしが存在するということを知るように、
    わたしが知るということを知るからである。


    アウグスティヌス『神の国』11:26、邦訳岩波文庫3巻70頁

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  87. 明晰判明の規則は存在証明によって絶対確実な信念をもって適用され、更に物体の本質と存在が説明された後で、明晰判明に知られる数学的・力学的知識はそのまま外部に実在を持つことが保証される。結果、数学的・力学的世界として、自然は理解されることになる。コギトを梃子に、世界はその実在を明らかにされるのである。
    wikiデカルト
    なお、このような「神」は、デカルトの思想にとってとりわけ都合のよいものである。ブレーズ・パスカルはこの事実を指摘し、『パンセ』の中で「アブラハム、イサク、ヤコブの神。哲学者、科学者の神にあらず」とデカルトを批判した。すなわち、デカルトの神は単に科学上の条件の一部であって、主体的に出会う信仰対象ではない、というのである。

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  88. Philosophical Essays、ウィトゲンシュタイン関連

    Philosophical Essays
    著者: Antony Flew,John Shosky
    p192

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  89. http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
    省察

    MEDITATIONES

    神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての

    DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.

    デカルト Renati Descartes

    三木清訳




    神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を
    論証する、第一哲学についての省察

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  90. 第二省察
    かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

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  91. http://www.aozora.gr.jp/cards/001029/files/43291_21543.html
    省察せいさつ

    MEDITATIONES

    神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を論証する、第一哲学についての

    DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.

    デカルト Renati Descartes

    三木清訳




    神の存在、及び人間の霊魂と肉体との区別を
    論証する、第一哲学についての省察


    第二省察
    かようにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなわち、私は有る、私は存在する、という命題は、私がこれを言表するたびごとに、あるいはこれを精神によって把握するたびごとに、必然的に真である、として立てられねばならぬ。

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  92. 『差異と反復』邦訳単行本410頁

    で、デカルトのコギトには思考の可能性があるだけだとドゥルーズはいう。

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  93. 「ライプニッツは、欺かない神についてのデカルトの推論をかなり警戒
    し、これに不共可能性の水準で新しい根拠を与えている。神は戯れる
    が、戯れの規則を与えるのだ(略)。この規則とは可能世界は神が選んだ世
    界と不共可能的ならば、存在にたどりつくことがないということだ。ラ
    イプニッツによれば*『アストレー』のような小説だけが、われわれにこ
    のような不共可能的**なものの理念を与えるのである。」(ドゥルーズ
    『襞 ライプニッツとバロック』邦訳p110)

    *(Lettre a Bourguet,decembre 1714)
    **または「共不可能的(incompossible)」
    ≪compossible-incompossible≫
    『差異と反復』:共可能-非共可能
    『意味の論理学』(宇波):共通可能-共通不可能 および両立可能-両
    立不可能
    小沢訳:共存可能-非共存可能

    オノレ・デュルフェ作の『アストレ(ー)』は17世紀パリの貴婦人に流行
    ったロマン小説で、日本では無名だが、今度エリック・ロメールによっ
    て(小説の一部が)映画化され2009年に公開された。

    『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』予告編
    http://youtu.be/Zspvw8LOLn4

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  94. 「…思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚
    することにほかならないとするならば…」
    アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)

    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁)

    返信削除


  95. 「…思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚
    することにほかならないとするならば…」
    アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)

    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁、
    パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際に言及)

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  96. 「…思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならな
    いとするならば…」
    アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』第9巻第9章、岩波文庫下140頁)

    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁、
    パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際に言及)

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  97. 765 :610,620 :sage :2013/01/20(日) 18:12:14.22 P






































    「われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )」
    アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354- 430、『神の国』11:26(邦訳岩波文庫第三巻70頁、
    パスカルが「幾何学の精神について De l'esprit géométrique」1657でデカルトと比較した際に言及)

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  98. 「…思考していることを知覚するということはわれわれの存在していること知覚することにほかならな
    いとするならば…」
    アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』1170a25 ff第9巻第9章、岩波文庫下140頁)


    編):

    「…thinking is to be conscious that we exist... 」
      アリストテレス(Aristotles 前384 - 前322、『二コマコス倫理学』1170a25 ff)
      http://en.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum#Predecessors

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  99. ドゥルーズは出来事を形成する3or4つのJeを
    アーチのように図解している

    返信削除
  100. 疑う、考える、存在する、私

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  101. さて、人間はやがて、神の力を制限するだけでは満足せず、神をなきものにしようとの思い をつのらせながら、神の領分の割譲を求める。

    神学者はこう考えるようになる。「私はものを感じ、考える一個の精神、一個の自我である から、やはり絶対的な存在のはしくれなのだ。私も神と対等に自由であり、創造者であり、不 滅である」。 まさしく「我思うゆえに我あり」だ。その派生命題が「我思うゆえに我不滅なり」で、これ は神がモーセに名前を問われて答えた「わたしはある。わたしはあるという者だ」[『出エジプ ト記』三章十四節]の翻訳にほかならない。こうして哲学は聖書と和合する。 神の存在と魂の不滅は、考え方としては同じこと。人間は、自我を宇宙の中心に置いて宇宙 の名で語り、あるいは自分自身の名で語る。このように宇宙と自我を行き来し、自覚しないま ま同じ話をくりかえしているのだ。


    プルードン『貧困の哲学――経済における矛盾の体系』(1846年)の
    プロローグ6頁
    http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.html
    http://www.kagomma.net/saito/travaux/prologue.pdf

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  102. http://www.seibutsushi.net/blog/2013/05/001383.html#more
     
    脳の中でも特異な存在である『松果体』ですが、特殊な能力を持つシャーマンとの接点は、脳内麻薬物質といわれる『ジメチルトリプタミン』にありました。ジメチルトリプタミンは、南米シャーマンが儀式に使う「アヤワスカ」に含まれる幻覚物質であり、人の松果体にこのジメチルトリプタミンが存在し、生死に関わる危機に陥った際に放出されると考えられているのです。
     
    人の松果体は、脳の中心付近の脳幹や小脳の上部に位置し、2つの視床体が結合する溝にはさみ込まれたグリーンピースほど(約8mm)の赤灰色をした内分泌器官で、視床後部の一部を構成しています。

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  103. 「絶対的意識のみひとり絶対としとして存在する」
    サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905年6月21日 - 1980年4月15日、「自我の超越」邦訳「哲学論文集」241頁)

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  104. 「絶対的意識のみひとり絶対としとして存在する」
      サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre, 1905 - 1980、「自我の超越」邦訳「哲学論文集」241頁)

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  105. サルトル情緒論粗描はジャネがジェームズへの反論につかわれる

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  106. デカルト的な精神と身体の縦のヒエラルキーをスピノザ流に横に並べ直すのが
    一般的なドゥルジアンだろうが、
    柄谷がいうようにデカルトを悪者にして成り立つ哲学史は不毛だと思う。

    参考:
    「〈差異〉は…〈規定作用ソノモノ[私は思考する]〉と〈それが規定するもの[私の
    存在]〉とのあいだの先験的な〈差異〉として発見される…」
      ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925年1月18日 - 1995年11月4日『差異と反復』
    第二章、邦訳142頁)

    「コギトは哲学的になった共通感覚(サンス・コマン)である」
      ドゥルーズ(『差異と反復』第三章、p.170、邦訳210頁)

    「…より完全には、〈疑う自己たる、私は思考する、私は存在する、私は思考する
    もの(レース)である〉である。これは、デカルトが理解していたように、つねに
    更新されてゆく〈思考の出来事〉である。」
      ドゥルーズ(『哲学とは何か』第1章、邦訳37頁)

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  107. 哲学者の墓
    http://kajipon.sakura.ne.jp/haka/h-tetugaku.htm#descartes
    ★デカルト/Rene Descartes 1596.3.31-1650.2.11(フランス、パリ 53歳)2005
    Saint-Germain-des-Pres, Paris, France


    「我思う、故に我あり!」
      

    パリ最古の教会に眠っている。3枚の黒石版の真ん中がデカルトだ!
    当初はスウェーデンに埋葬され、後にパリへ改葬された。



    ★ショーペンハウアー/Arthur Schopenhauer 1788.2.22-1860.9.21 (ドイツ、フランクフルト 72歳)
    Hauptfreidhof, Frankfurt-on-Main, Germany



    27歳のショーペンハウアー 衝撃の髪型
    「紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は
    見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない」

    返信削除
  108. http://blog.goo.ne.jp/64110/e/82cac79c9566680ba3cb0cb804f0ecf2

     メルロ・ポンティは、サルトルと同様に、ベルクソンを厳しく批判して書いている。いずれも、基本的なところでは社会的な観点から出生証明のある主体に依拠していると看做せよう。
     「ベルクソンの歩み始めた路線の上では、すべての『ある』(esse)はすでに『知覚されてある』(percipi)のである。だが、ベルクソンはこの道を行きつくところまでたどりはしなかった。彼は、科学者の実在論の代わりに、全体的存在がまずあるという考えにもとづく別の実在論を置き換えようとする」(滝浦・中村・砂原訳『心身の合一』ちくま学芸文庫142頁)
     「ベルクソンは、コギトの問題に目を向けないし、そうした問題を立てもしない。彼は、全体的存在を定立し、そこから私のパースペクティブを切り取るのである」(同書142頁)
     「いったい、どこに『私』(le Je)が見出せるのか、『私』は、三角錐の頂点(この頂点は即自、物理的世界の即自に対応している)にも、その基底(純粋記憶)にも存在しない。精神生活は、即時的な二つの平面の間の往還という様相を呈するのである」(同書147頁)
     たが、すでにドゥルーズに見たように、「私」の不在こそ、ベルクソンの一つの可能性と捉える途も残されている。

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  109. 我思う、ゆえに我蹴る。―アンドレア・ピルロ自伝
    アンドレア・ピルロ
    単行本
    ¥ 1,680

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  110. http://blog.foxydog.pepper.jp/?eid=980381
    スピノザ入門第4回『デカルトの哲学定理』を読む(その3)
    2012.07.14 Saturday 13:50
    5,結論

    スピノザの指摘によれば、コギトの存在証明(Cogito ergo sum)は、コギトの状態描写( Ego sum cogitans)から導き出されるもの。

    →デカルトもEgo sum cogitansの真理にふれているが、これをCogito ergo sumに書き換えてしまっている、とスピノザはみる。

    →だから、スピノザ自身によれば、彼ががやったことは、コギト命題の「原ー論理」への復元である。

    ではなぜ、デカルトは、Cogito ergo sumの弱点を知りつつも、この形にこだわったのか?
    →説得のため。

    では、この原ー論理Ego sum cogitansはいったい誰の思想であり、どこに位置づけられる思想なのか、が問題となる。

    デカルト哲学から導き出されるという意味では、「デカルトの思想」に属する。しかし、「デカルトはこれを記し得た」とか「デカルトがこのようにコギトを定式化することも可能であった」ということはできない。
    デカルトの哲学体系は、あくまでCogito ergo sumの形でコギト命題を要求するだろう。
    →なぜなら、この形でなければ懐疑論者を説得できない。
    (その「懐疑論者」は半ばはデカルト自身なのではないか、というのが國分センセの指摘、でもあります)

    それに対して、スピノザがコギト命題を書き換えることができたのは、説得はどうでもいいと思っているから。

    Ego sum cogitansは、という観点からは絶対に位置づけられない。
    →それは「デカルトの思想」とも「スピノザの思想」ともいえない。
    →デカルトが書き得たという意味での可能的命題でもない。
    →デカルト哲学に潜在している命題、潜在的命題である。

    潜在的命題は、顕在化している哲学提携(我々の知るデカルト哲学)を破壊する力を持っている!

    スピノザにとってことは、静謐な構築物に見える哲学大系の中に、それを破壊するような論理を見いだすこと。

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  111. >>44
    メルロ=ポンティは、「垂直の間主観性」で以下の様に記している。
    「身体は世界の前にまっすぐに立っており、世界は私の身体の前にまっすぐに立っていて、
    両者の間にあるのは、抱擁の関係である。
    そして、それら垂直的な二つの存在の間にあるのは、境界ではなく接触面なのである。(VI 401)」と
    記述している。

    上記の「垂直の間主観性」の論理から、自分と他者との会話は、身体を介して「接触」していることになる。
    そして、「自己の身体が、他者の前兆であり、自己移入がわたしの受肉の反響だからであり、感覚の閃光が根源の
    絶対的な現前においてそれらを置換可能なものにしているからである。(S2 29)」とメルロ=ポンティは
    記述している。

    48 :考える名無しさん:2014/03/12(水) 17:49:13.51 0
    メルロポンティ的には、「会話する相手」や「知覚する対象」と、「私」との関係は、抱擁(包み合い)の関係なのか

    それはつまり、老人の杖のように、私が他の存在まで拡張されてるとも言えるのではないかな

    49 :考える名無しさん:2014/03/12(水) 18:51:03.27 0
    もっと深いよ。私は他人であることしかできない、くらい。

    50 :考える名無しさん:2014/03/12(水) 20:07:51.74 0
    我々の身体は他の一切の表出的空間の源泉であり、表出の運動そのもの
    なのである。すなわち、諸々の意義に場所を与えることによってそれらを
    外部に投射し、それらが我々の手、我々の眼のもとで、物として
    存在するようになる、その原因をなすものなのである。『知覚の現象学』

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  112. http://www006.upp.so-net.ne.jp/leekantoku/z0706diary/070618.html
    デリダは「ラカンは、主体はシニフィアンしか捉えないが故に、文字を
    単なる想像界的なものとしている」と批判する。ラカンは基地外として
    反論(というより単に反応)する「文字はシニフィアンの周縁(終焉)である
    (より正確には「欠落の周縁」)」と。

    返信削除
  113. http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2010/03/post_62.html
    「ラカンの愛に叶わんとして」では、デリダがラカンの精神分析を批判せざるをえない八つの理由を、
    めずらしく明確に列挙している。

     第一は、ラカンは分析が円環状の正しい道筋をたどるべきであり、たどることができると考えて
    いることである。これはデリダにとっては目的論を分析のうちに持ち込んでいるようにみえるのだ。

    返信削除
  114. 「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固とし
    たものではない。」
      ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
      http://yokato41.exblog.jp/15189066/
      http://psychanalyse.jp/archives.html

    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
      ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14)

    返信削除
  115. 「〈我思う〉というのは、論理的には幾人かの論理学者を困らした〈私は嘘をつく〉以上に確固とし
    たものではない。」
      ラカン(Jacques-Marie-Émile Lacan、1901-1981「同一化」セミネール9)
      http://yokato41.exblog.jp/15189066/ http://psychanalyse.jp/archives.html

    「我思うゆえに他者あり(コギト エルゴ エス)」
      ラカン(「ファンタスマの論理」セミネール14)

    http://www006.upp.so-net.ne.jp/leekantoku/z0706diary/070618.html
    デリダは「ラカンは、主体はシニフィアンしか捉えないが故に、文字を
    単なる想像界的なものとしている」と批判する。ラカンは基地外として
    反論(というより単に反応)する「文字はシニフィアンの周縁(終焉)である
    (より正確には「欠落の周縁」)」と。

    http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2010/03/post_62.html
    「ラカンの愛に叶わんとして」では、デリダがラカンの精神分析を批判せ
    ざるをえない八つの理由を、めずらしく明確に列挙している。

     第一は、ラカンは分析が円環状の正しい道筋をたどるべきであり、たどる
    ことができると考えていることである。これはデリダにとっては目的論を分析
    のうちに持ち込んでいるようにみえるのだ。…

    返信削除

  116. http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2010/03/post_62.html


    『精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー』デリダ,ジャック(青土社)
    →bookwebで購入

    「フロイトへの思い」

     デリダのフロイトへの思いは強いものがあり、『エクリチュールと差異』に収録されたフロイト論「フロイトとエクリチュールの舞台」以来、長い取り組みがある。この書物に収録された三つの講演の記録は、これまでのすべてのフロイト論を前提として語られるものであるために、デリダはときに早口になり、ときに説明を諦めたりする。しかしどれもそれなりに読者を納得させるところは、さすがデリダだ。

     最初の講演は「抵抗」というテーマを取り上げている。精神分析の世界では抵抗とは「精神分析治療の期間において、無意識への到達を妨げるような、被分析者自身のすべての言動」(ラプランス/ポンタリス『精神分析用語辞典』)である。フロイトの精神分析はある意味ではこの患者の抵抗と対処することで発展してきたのだった。
     そもそも暗示や催眠術をやめて精神分析に進んだのも、患者の抵抗のためであり、フロイトが患者が催眠術にかかるのに抵抗するのが正当なものと考えたからだった。精神分析のさまざまな技術は、患者の抵抗を克服して、患者に自分の無意識を意識させるために作りあげられたのだった。

     しかし抵抗が分析の別の場面で現れることもある。たとえば夢の分析であり、そこからどうしても分析を進めることができない箇所が登場する。フロイトはそれを「夢の臍」と呼んだ。「どんな夢にも、少なくとも一箇所、どうしてもわからない部分がある。それは、それによってその夢が未知なるものにつながっている臍のごときものである」(フロイト『夢判断』人文書院版全集二巻九六ページ)。

     そう、臍とは、「ある切断の記憶を、誕生時に断ち切られたある糸の記憶までも保持する結び目=傷痕である」(p.28)。未知なるものにつながる痕跡、このいかにもデリダ的な比喩を手掛かりに、デリダは精神分析において直面する抵抗の三つの意味をとりだす。一つは患者の抵抗であり、これは症状であり、克服すべきものである。第二は夢の臍であり、それは未知への扉が閉じていることを示すものである。第三は分析の臍であり、それは分析の道が途絶しているところ、絶対的な限界というべきものである。フロイトは「夢の臍」という語をもう一度語り、「われわれの観念世界の網の目のごとき迷宮」(同、四三二ページ)で、分析を断念すべきことを指摘する。そこは「どうしても解けない夢思想の結び目」だからである。

     この「夢の臍」という痕跡は、デリダに脱構築の方法そのものを想起させる。一つには、分析を要求しながら、分析を禁じるものとしての「ダブル・バインド」(p.53)の性格をもつからである。もう一つは、それが起源へとさかのぼることを誘惑しながら、それを禁じることによって、「起源的なものの再把握の可能性ばかりかその欲望をも、それがいかなるものであれいつかは単純なものに再開したいという欲望ないし幻想をも問いに付す」(p.55)からである。この「夢の臍」は、「パルマコン、代補、ハイメン、差延、その他多くの、おのれのうちに相互の間で矛盾した、あるいは両立不可能な述語」(p.61)の仲間であり、抵抗しながら誘うもの、誘いながら拒むものであるからだ。

     二番目の論文「ラカンの愛に叶わんとして」では、デリダがラカンの精神分析を批判せざるをえない八つの理由を、めずらしく明確に列挙している。

     第一は、ラカンは分析が円環状の正しい道筋をたどるべきであり、たどることができると考えていることである。これはデリダにとっては目的論を分析のうちに持ち込んでいるようにみえるのだ。

     第二は、ラカンのうちには、「円環状の回帰および固有の行程において、起源が目的へと、シニフィアンの離脱の場がその再結合の場へと適合し、再適合すること」(p.110)としての真理のモチーフがあることである。ラカンが真理という語をきわめて無造作に使うことにデリダは苛立つ。

     第三は、現前するパロールあるいは充実したパロールというモチーフがあることである。語る言葉の現前性とその優越性の批判は、デリダの最初期からの重要なモチーフである。

     第四は、記録技術を拒否し、音声・ロゴス中心主義を採用していることにある。これもデリダにとっては許しがたいところだろう。

     第五は、真実を去勢に結びつけるために、ファロスが「超越論的な位置」(p.111)を占めることである。ファロス中心主義と超越論的な立場にたいするデリダの批判もよく知られているだろう。

     第六は、これらのモチーフによって生まれるラカンの「戦闘的な音声中心主義」(同)である。

     第七は、「語りの文学的構造の否認ないし非・考慮」(p.112)、そして署名の「パレルゴン的な効果の枠組みや働きの言い落とし」である。ただしこれはラカンに要求するには少し無理があり、デリダも「性急さ」をとがめるだけである。

     第八は、「ポーの物語における分身の諸効果の隠蔽」(同)である。ポーの「盗まれた手紙」の分析のうちで分身を考慮にいれていれば、想像界と象徴界の境界線がカクンされただろうとデリダは指摘する。

     最後の論文は、フーコーのデリダ批判にたいしての遅れてからの反論である。フーコーは『狂気の歴史』のおいて、フロイトをあるときはニーチェと同じ側に立たせ、あるときは対立する立場に立たせる。フロイトを扉の蝶番のように使うフーコーのまなざしの揺れを描き出していて、あとだし批判ではあるが、なかなか読ませる。

    Posted by 中山元 at 2010年03月11日 12:44 | Category : 哲学/思想/宗教

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  117. ラカン曰く「精神 分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」



    鵜飼哲『応答する力――来るべき言葉たちへ』 : simply 2 complicated
    http://hirokis2c.exblog.jp/6231146
    「最悪の文学」とは愚かさをもっぱら他者に投影し、愚言集を編み上げて嘲笑し自足する文学である。「最良の文学」とは愚かさの問いに取り憑かれ、それに「宇宙的、百科全書的、認識形而上学的次元を付与し」、「哲学の戸口まで導くことのできた』文学である。哲学はこの問いを、真偽の二項対立の権威にそれを従属させることなく、言い換えれば、愚かさを誤謬と混同することなく、受け取ることができなくてはならない。(ドゥルーズ『差異と反復』)・・・「最悪の文学」の嘲笑と「最良の文学」の透明な笑いを聞き分ける耳、それが必要なのだ、かつてなく、おそらく、まず、「私」の中で。(9-10)

    カントの手
    悪の可能性なくしては、人間の自由も、責任もありえない。(14)

    ニーチェ明日?
    自称「自由な精神」たちは実は「奴隷」であり「不自由」である、「彼ら」は「近代的」であることを誇っているが「われわれ」来るべき者はいっそう未来に属している、そして「彼ら」の「おそらくは対極にいる」「われわれ」の他者性がそれと認められない民主主義、「権利の平等」の名のもとに計算する以外に能のない現行民主主義はその名に値しない・・・・・。それ以上のことは、友以外の者には語りえない。そして、友の間では語るにおよばない。そのような「秘密」なくして友愛はない。ニーチェ的な友愛は語らないこと、ある種の沈黙の経験と不可分である。(36)

    Nietzsche aujourd'hui?
    ジャック・デリダ「これから私はただひとりさまよわなければなるまい」『現代思想』1996年1月号
    ハイデガー『ニーチェ』
    大津留直「ニーチェとハイデッガーの「ディケー」解釈――両者によるアナクシマンドロスの翻訳・解釈の比較を出発点として」『ニーチェ解読』(中原・新田編)早稲田大学出版部、1993年

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  118. http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-188.html
     「亡霊は精神的な何かであり、精神の特性を共有し、幽霊的な分身のようにそれにつきしたがっているときでさえそれに属している。」(J・デリダ『マルクスの亡霊たち』p264) 



    亡霊とは、何か?
    「Page Not Found」とは、何か?

     「観念や思惟は生きた身体から引き剥がされたわけだが、そこに戻ることによってではなく、観念や思惟を別の人工的な身体に、代替器官的な身体に、精神の幽霊を受肉させることによって、である。」(同書p266) 



    これは、Web2・0期の「精神」が、全て、亡霊化したことを宣告した、現象学者の天才的なディスクールである。

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  119. ラカン
    「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」

    デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れない…最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異を考慮するだけで十分なのです。」「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」(「現代思想」2009年7月70頁)

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  120. ラカン
    「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」

    デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れない…最小限の条件として、どのような
    ものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異を考慮するだけで十分なのです。」
    (「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
    参考:
    ジャック・デリダ──ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化
    http://www.youtube.com/watch?v=HGnXcI3oCpc

    返信削除

  121. デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされません。最小限の条件として、どのような
    ものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異を考慮するだけで十分なのです。」
    (「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
    参考:
    ジャック・デリダ──ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変

    1:30:44

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  122. デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無
    意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理
    想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされま
    せん。最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異
    を考慮するだけで十分なのです。」
    (「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
    参考:
    "The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze "
    (in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)
    http://youtu.be/HGnXcI3oCpc?t=1h30m40s

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  123. ラカン
    「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」

    デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無
    意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理
    想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされま
    せん。最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異
    を考慮するだけで十分なのです。」
    (「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
    参考:
    "The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze "
    (in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)
    http://youtu.be/HGnXcI3oCpc?t=1h30m40s

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  124. ラカン
    「精神分析はバカを利口にすること以外ならなんでもできる」1967

    デリダ
    「愚かさ([Bêtise]) の哲学はそうした無意識への参照とは相容れないと考えます。その点において、「無
    意識」という語、理論的ないしメタ心理学的な構築は必要とされません——「私」、イド、超自我、理
    想自我、自我理想、またラカンにおける「私」の現実界、象徴界、想像界といったものは必要とされま
    せん。最小限の条件として、どのようなものであれ生きものにおける分割可能性、多様性、諸力の差異
    を考慮するだけで十分なのです。」
    (「ドゥルーズにおける人間の超越論的「愚かさ」と動物への生成変化」「現代思想」2009年7月70頁)
    参考:
    "The Transcendental "Stupidity" [Bêtise] of Man and the Becoming-Animal According to Deleuze "
    (in Derrida, Deleuze, Psychoanalysis, ed. Gabriele Schwab, Columbia University Press, 2007)
    http://youtu.be/HGnXcI3oCpc?t=1h30m40s

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  125. Penso quindi gioco di Andrea Pirlo e Alessandro Alciato (30 apr. 2013)

    ピルロ自伝「我思う、ゆえに我蹴る。」

    Amazon.co.jp: Andrea Pirlo: I Think Therefore I Play: Andrea Pirlo: 洋書...
    価格:1,376円 (2014年8月25日現在)

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  126. No.284 jeu, gioco, juego, joke - ロマンス諸語の語彙 - 学校、教育 ...
    textream.yahoo.co.jp>...>学校、教育>英語、外国語、語学
    2014年6月10日 ... 冗談」を意味するラテン語 iocus は「遊び、競技」を意味するフランス語 jeu、イタリア語 gioco、スペイン語 juego、になっていますが、英語は「冗談」を意味する joke になってい ます。 このエントリーをはてなブックマークに追加 · ツイート. 返信数.

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  127. 「ばかな人間を利口にすること以外なら、精神分析は何でもできる」ラカン
    《La psychanalyse peut tout sauf rendre intelligent quelqu'un d'idiot.》
    http://network.architexturez.net/pst/az-cf-56379-817742161

    (ドゥルーズ「思い出すこと」批評空間1996Ⅱ-9より)
    "Le 'Je me souviens' de Gilles Deleuze" (interview by Didier Eribon)
    in Le Nouvel Observateur 1619 (16-22 November 1995), 50-51.

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  128. http://www.amazon.it/Penso-quindi-gioco-Andrea-Pirlo/dp/8804628693/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1409195482&sr=8-1&keywords=pirlo


    Penso quindi gioco

    Copertina rigida – 30 apr 2013
    di Andrea Pirlo (Autore), Alessandro Alciato (Autore)
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  129. Cogito ergo sum - Wikipedia
    it.wikipedia.org/wiki/Cogito_ergo_sum
    La locuzione cogito ergo sum, che significa letteralmente

    «penso dunque sono»,

    è la formula con cui Cartesio esprime la ... un pensare: l'atto di supporre che io possa ingannarmi coincide infatti con l'io che verrebbe ingannato, c'è quindi una ...

    返信削除
  130. http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/5769/racucin/20010422.html
    概して言うと、この「dunque」は、話の結論や要点を後に導く意味を持つ接続詞とい
    えます。日本語では「だから、それゆえに、それでは、さて」等々となります。
    イタリア語の同義語では、「quindi」(=だから)、「percio`」(=そのために)、
    「allora」(=それでは、じゃあ、さあ)等々に言いかえることが出来ます。

    まずは、この単語を使った最も有名なセリフが、デカルトのこの一言でしょう:

    Penso, dunque sono.
    ペンソ、ドゥンクエ ソーノ。
    我思う、故に我あり。

    この有名な言葉をパロって、様々な“一言”が作れるのは日本語の場合と一緒で、
    例えばこういうのがあります:

    Mangio, dunque sono.
    我食う、故に我あり。 → まさにイタリア人!

    Canto, dunque sono.
    我歌う、故に我あり。 → アンドレア・ボチェッリが言いそうな言葉ですね。

    Amo, dunque sono.
    我愛す、故に我あり。 → これもかなりイタリア的!

    Mi diverto, dunque imparo.
    我楽しむ、故に我習得す。 → これはragioneあり(正しい)ですね。

    Penso, dunque iMac.
    我思う、故にiマック。 → iMacのイタリアでのキャッチコピーでした、かっこいい!

    また、日常会話の中でもよく使われます、例えばこんな風に:

    Dunque, tutto chiaro?
    ドゥンクエ、トゥット キアーろ?
    さあ、よく分かりましたか? → 話をまとめる時の、さあ、それでは、という感じ。

    Dunque, domani ti aspetto a casa mia.
    ドゥンクエ、ドマーニ ティ アスペット ア カーザ ミーア。
    それじゃあ、明日俺んちで君を待ってるよ。 → これも同様。

    Dunque, come dicevo prima...
    ドゥンクエ、コメ ディチェーヴォ プりーマ...
    さて、さっき私が言っていたように... → それた話を本題に戻す時にも使います。

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  131. 動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある
    ジャック・デリダ 著 鵜飼 哲 翻訳 マリ=ルイーズ・マレ 編集
    単行本 四六判 336頁 刊行 11/05 ISBN 9784480847430 JANコード 9784480847430
    ※発売日は地域・書店によって前後する場合があります
    本体 3,200 円+税

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  132.     我
        思
        う
    疑いつつ↓→ある スピノザ
        我
        あ
        り
       デカルト

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  133. 帝劇10月公演 Yuming sings...『あなたがいたから私がいた』
    www.tohostage.com/yuming/
    今奏でる、純愛物語。Yuming sings...『あなたがいたから私がいた』2014年10月8日~ 10月31日 帝国劇場にて上演!

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  134.     我
        思
        う
    疑いつつ+ある スピノザ
        我
        あ
        り
       デカルト

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  135.     我
        思
        う
    疑いつつ+ある スピノザ
        我
        あ   「私は思惟する事物である 」
        り    ライプニッツ
       デカルト

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

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  136.      我
         思
         う
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我
         あ   「私は思惟する事物である 」
         り    ライプニッツ
        デカルト

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

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  137.      我
         思
         う
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「私は思惟する事物である 」
         り    ライプニッツ
        デカルト

    「私は思惟する事物である 」
      ライプニッツ(『人間知性新論』4:2 みすず368頁 )

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  138.      我
         思
         う
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「私は思惟する事物である 」
         り   ライプニッツ
        デカルト

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  139.      我
         思
         う
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「私は思惟する事物である 」
         り  \ライプニッツ
        デカルト

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  140.      我  /「私は思惟する事物である 」
         思 /  ライプニッツ
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「同語反復」
         り  \カント
        デカルト

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  141.      我  /カント
         思 /「同語反復」
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「私は思惟する事物である 」
         り  \ライプニッツ
        デカルト

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  142.      我  /「同語反復」カント
         思 /
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \「私は思惟する事物である 」
         り  \ライプニッツ
        デカルト

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  143.      我  /「同語反復」カント
         思 /
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」ライプニッツ
        デカルト

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  144.      我  /「同語反復」カント
         思 /
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」
        デカルト       ライプニッツ

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  145.      へ
         我  /「同語反復」カント
         思 /
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」
         v         ライプニッツ
        デカルト

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  146.      我--「同語反復」カント
         思  l
         う  l
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」ライプニッツ
        デカルト

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  147.      我--「同語反復」カント
         思 l
         う l
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」ライプニッツ
        デカルト

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  148.      我--「同語反復」カント
         思 l
         う l
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」
        デカルト       ライプニッツ

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  149.      我--「同語反復」カント
         思  l
         う  l
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  \「私は思惟する事物である 」
        デカルト       ライプニッツ

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  150.      我--「同語反復」カント
         思  l
         う  l
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我\
         あ \
         り  「私は思惟する事物である 」
        デカルト      ライプニッツ

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  151.      我  「私は思惟する事物である 」
         思 /       ライプニッツ
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我  l
         あ  l
         り--「同語反復」カント
        デカルト      


         我  「私は思惟する事物
         思 / である 」ライプニッツ
         う/
    「疑いつつ+ある」スピノザ
         我  l
         あ  l
         り--「同語反復」カント
        デカルト      

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  152. 「私は死んでいる, ゆえに, 私はある (Je suis mort , donc je suis).」

    超越論的主観性と意義作用 : デリダのフッサール批判から
    La Subjectivite Transcendantale et Le Vouloir-Dire : A partir de La Critique de Husserl par Derrida
    永井 均
    http://ci.nii.ac.jp/naid/110007409029

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  153. デカルトにおいては、わたしたちが見ているがままの光についてではなく、「外からわたしたちの眼に入ってきて視覚を支配する光」が扱われることになる。そのために、デカルト的見方では、媒質として、ないし、照明として働く光ではなく、もっぱら接触作用によって影響を及ぼす光が問題となる。科学的思考において

    《一番うまいやり方は、光を接触作用としてつまり盲人の杖の先に物が触れる場合のような作用として考えることである。盲人は「手で見る」とデカルトはいう。デカルトの考えている視覚のモデルは〈触ること〉なのである》
    (メルロ゠ポンティ『眼と精神』1966: 269/1964: 37)。

    デカルト『屈折光学』参照。


    世界内存在としての意識:志向性の哲学と現象学 (Adobe PDF) -htmlで見る
    www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/.../vol.../1_Murata_J.pdf
    の「意識の世界内存在」という見方をブレンターノ、フッサール、メルロ゠ポンティ .... 現象 、他者と規範をめぐる諸現象、あるいは精神病理現象などなど)を(志向的に) ...... 作で ある『眼と精神』のなかの議論である。 ..... 盲人は「手で見る」とデカルトはいう。デカルト ...

    世界のボリュームとしての奥行メルロ=ポンティと ... - 京都市立芸術大学(Adobe PDF) -htmlで見る
    w3.kcua.ac.jp/~uozumi/profondeur.pdf
    魚住洋一. 1. モーリス ・ メルロ = ポンティは、その最後の著作となった『眼と精神』の 冒頭に、 ... des sensations)とは、メルロ = ポンティがその生涯を通じて見究めようと したもので .... デカルトは『屈折光学』5 のなかで、盲人は「手で見る」と語ったが、彼は、 視覚.

    デカルトの『屈折光学』への彼の批判を見ていくことにしよう。
     デカルトは『屈折光学』5のなかで、盲人は「手で見る」と語ったが、彼は、視覚を接触作用として、つまり、盲人の杖の先に物が触れる場合のような作用として考える。彼にとって視覚のモデルは、「触ること」なのである。さらに彼によれば、「見ること」は、光線がボールのように眼に飛び込んできて網膜上に生じた何らかの結果を「思考」によって解読することにすぎない。つまり、デカルトにとって、見ることは眼における一種の接触作用とそれを機縁として起こる精神の思考作用に還元されてしまうのである[OE 36–41:269–272]。メルロ=ポンティは、デカルトは見ることを「見ているという考え」(la pensée de voir)に還元してしまったと述べている[OE 54:279]。 デカルトとは違って、私たちに見えるがままのものに即して考えようとするメルロ=ポンティは、接触作用ならざる視覚の「遠隔作用」(l’action à distance)、その「遍在性」(ubiquité)について語る。─「視覚によって私たちは太陽や星に触れ、私たちは至るところに、手近なもののもとにも遠いもののもとにも同時に居るのだ」[OE 83:296]。
    「奥行にはどこか逆説的なところがある。相互に重なり合い、し

    1Joachim Gasque, Cézanne, Les Éditions Bernheim-Jeune, 1921, p.82(『セザンヌ』與謝野文子訳、岩波文庫、2009年、p.220)
    2メルロ=ポンティの著作からの引用は、以下の略号を用い、本文中の[ ]内に、原著と邦訳のページ数をコロンで区切って表示する。ただし、翻訳については一部変更を加えた箇所がある。
    SC:La structure du comportement, Presses universitaire de France, 1942.(『行動の構造』滝浦静雄他訳、みすず書房、1964年)
    PP:La phénoménologie de la perception, Éditions Gallimard, 1945.(『知覚の現象学』全2冊、竹内芳郎他訳、みすず書房、1967年、1974年)
    OE:L’œil et l’esprit, Éditions Gallimard, 1961.(「眼と精神」、『眼と精神』滝浦静雄他訳、みすず書房、1966年)VI:Le visible et l’invisible, Éditions Gallimard, 1964.(『見えるものと見えないもの』滝浦静雄他訳、みすず書房、1989年)
    DC:“Le doute de Cézanne,” in: Sense et Non-sense, Éditions Gallimard, 1996.(「セザンヌの疑惑」、『意味と無意味』滝浦静雄他訳、みすず書房、1983年)
    3三島由紀夫『假面の告白』初版、河出書房、1949年、pp.3–5。
    4メルロ=ポンティの遺稿『見えるものと見えないもの』で用いられた「肉」という概念は、発芽した胚が双葉(feuillets)に分かれていくように、見るもの/見えるもの、感じるもの/感じられるものが二重化されてそこから現われてくるその母胎を表そうとするものである。彼は「感覚的なるもの」が出現するこうした事態を胞子嚢のうの裂開に喩え、肉の「裂開」(déhiscence)とも呼んでいる[VI 192:202]。しかし、これは現象学的に記述しうる事態ではない。

    5 René Descartes, La dioptrique (Six premiers discourse), in: Œuvres et lettres, Textes présentés par André Bridoux, Éditions Gallimard, 1953, pp.180–229.
    (「屈折光学」青木靖三・水野和久訳、『デカルト著作集』第1巻、白水社、1973年、pp.113–222)
    6「横から見た幅」という言葉は、『知覚の現象学』のバークレー批判の箇所から採った[PP 29

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  154. 「狂人にたいする医師の関係は、夢と幻想と狂気とがもつ時間にたいする、〈われ考う(コギト)〉の
    時の関係を再現している。思考作用(コジタシヨン)じたいと無縁な、まったく外的な〈われ考う〉で
    あり、侵入という形でしか押しつけられえない〈われ考う〉である。」
      フーコー(『狂気の歴史』第四章邦訳348頁)

    「わたしが気狂いであろうがなかろうが、Cogito,sum(わたしは考える、わたしは存在する)なので
    あります。」
      デリダ(「コギトと『狂気の歴史』」『エクリチュールと差異』上邦訳108頁)

    参考:
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%
    E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80#.E8.AB.96.E4.BA.89.E3.83.BB.E6.89.B9.E5.88.A4
    …デリダの批判に激怒したフーコーは以後、絶交し、デリダの論文掲載を編集者として
    拒否したこともあった。またデリダの論敵であったサールとの対談ではデリダの方法
    を「テロリスト的な蒙昧主義」と評した。しかしフーコーはデリダがのちにチェ
    コスロバキアで収監されたときには救援活動を行った。


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%
    E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80#.E8.AB.96.E4.BA.89.E3.83.BB.E6.89.B9.E5.88.A4

    『狂気の歴史』にたいしてデリダが1963年コレージュ・ドゥ・フィロゾフィックにおける書評講演『コギトと「狂気の歴史」』[27]を行った。フーコーは「狂気の歴史」第二章の冒頭において、デカルトのコギトが狂気や異常さ、錯乱、不条理などを哲学の領域の圏外へと排除された旨の記述をしているが、このフーコーのデカルトの言及についてデリダは、まず、「デカルトの意図に関してそこに提出されている解釈は正当化されるか?という、いわば偏見の問題」を提起し、この偏見について、「ひとはシーニュ(兆候・記号)を理解しているだろうか?デカルトがいい、またいおうとしたことを理解しているだろうか」としながら、兆候を理解するには、たとえば精神分析家は患者のことばをしゃべらなくてはならないとする[28]。また「デカルトの意図が兆候として理解されれば、それの属する歴史的構造とそく関係を持つことになるだろうか?つまり、ひとが付与しようとする歴史的意味を持つだろうか?」と問いを出す。次にデリダは、「フーコーの企図はあまりに豊かであり、ひとつの方法とか、語の伝統的な意味でのひとつの哲学によってさえ先立たれるにはあまりに多方面にわたる兆候を示している」[29]として「デカルト的な型のコギトがコギトの最初にして最後の形ではない」という。またフーコーが「近づきえない原初的な純粋さ」として狂気を語り、理性がロゴス的絶対者に依拠することのない(頼るべきもののない)相対性に自身を位置づけることについて、しかし誰がその依拠不可能性を語るのか?誰がそのような言表不可能な狂気について語りうるのか?」と問いかける。フーコーはこのような語りの困難について鋭敏ではあるが、この問題については方法論的・哲学的な前提条件としての特徴を認めようとしていないなどとデリダは批判した[30]。フーコーはこうしたデリダに批判に対して「私の身体、この紙、この炉[31]」を執筆し、また「デリダへの回答[32](1971)」を日本の雑誌「パイデイア」に寄稿した。デリダの批判に激怒したフーコーは以後、絶交し、デリダの論文掲載を編集者として拒否したこともあった[33]。またデリダの論敵であったサールとの対談ではデリダの方法を「テロリスト的な蒙昧主義」と評した[34]。しかしフーコーはデリダがのちにチェコスロバキアで収監されたときには救援活動を行った。


    ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
    ^ デリダはフロイトの『夢判断』第三章二節を注で参照している
    ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
    ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店、p96
    ^ 『狂気の歴史』1972年の増補版に収録
    ^ 野村英夫訳、パイデイア1972春号、竹内書店
    ^ エリボン『ミシェル・フーコー伝』
    ^ a b “Reality Principles: An Interview with John R. Searle.” Reason.com February 2000 12 May 2008 [1]

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  155. http://ilovekasi.com/氣志團-我ら思う、故に我ら在り
    氣志團 我ら思う、故に我ら在り


    涙が溢れるのは

    君が傍で微笑むから

    抱きしめたくなるのは

    君が側に居るから

    何故生まれて来たかなんて

    考えても解らないんだ

    だから生きる

    魂燃やし生き抜いて

    見つけ出す、何時か

    同じ時代に

    今、出逢えた仲間達よ

    我ら思う、故に我ら在り

    新しい歴史に

    漕ぎ出せ仲間達よ

    我ら思う、故に我ら在り

    人生は誰も皆一度きりさ

    思いのままに

    返信削除
  156. http://ilovekasi.com/氣志團-我ら思う、故に我ら在り

    涙が溢れるのは
    君が傍で微笑むから
    抱きしめたくなるのは
    君が側に居るから
    何故生まれて来たかなんて
    考えても解らないんだ
    だから生きる
    魂燃やし生き抜いて
    見つけ出す、何時か
    同じ時代に
    今、出逢えた仲間達よ
    我ら思う、故に我ら在り
    新しい歴史に
    漕ぎ出せ仲間達よ
    我ら思う、故に我ら在り
    人生は誰も皆一度きりさ
    思いのままに

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  157. サルトル
    存在と無
    第二部1

    「コギトはどこへでも連れていってくれるが、ただしそうなると、コギトから離れる」と言うことができよう。

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  158. Sartre par lui même (1976) サルトル―自身を語る 
    サルトル―自身を語る Sartre par lui même (1976)
    カメラ万年筆論で有名なアストリュックが撮ったサルトルのインタビュー映画。

    Sartre par lui même (1976)

    1:50:35でサルトルはデカルトの言葉を言い間違える。
    https://youtu.be/AAEEBW70GXw?t=1h50m35s
    サルトル ...デカルトの「我在る、ゆえに我思う」、いや間違った、「我思う、ゆえに我在り」は本当にわたしの主要な哲学思想だったし、いぜんとしてそうだし......。
    ブイヨン 今の言い間違いはやはり意味深ですよ(笑い)。
    サルトル そう意味深だな。...
    『サルトル―自身を語る』 (人文書院、1977年) 海老坂 武 (翻訳) 91頁


    http://www.amazon.fr/Grands-auteurs-realis%C3%A9-alexandre-astruc/
    dp/2744116386/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1448415504&sr=1-1&
    keywords=9782744116384

    http://www.livre-rare-book.ru/v4/book/12910609/1203/fr

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  159. サルトル―自身を語る Sartre par lui même (1976)
    https://www.youtube.com/watch?v=AAEEBW70GXw (スペイン語字幕)
    カメラ万年筆論で有名なアストリュックが撮ったサルトルのインタビュー映画。

    1:50:35でサルトルはデカルトの言葉を言い間違える。
    https://youtu.be/AAEEBW70GXw?t=1h50m35s

    サルトル ...デカルトの「我在る、ゆえに我思う」、いや間違った、「我思う、ゆえに我在り」は
    本当にわたしの主要な哲学思想だったし、いぜんとしてそうだし......。
    ブイヨン 今の言い間違いはやはり意味深ですよ(笑い)。
    サルトル そう意味深だな。...

    『サルトル―自身を語る』 (人文書院、1977年) 海老坂 武 (翻訳) 91頁

    'Le "je suis done je pense", non, "je pense done je suis", de Descartes a ete vraiment et est toujours ma pensee philosophique essentiele... '(Sartre.p.8)

    (ハイデッガーが引用した)ニーチェによる言い換えが念頭にあったかも知れない。



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  160. ニーチェ (悦ばしき知識 第276番)より:
    http://www.ni-club.net/panietzsche/ahorizm/inf18/inf6.cgi

    新しい年にのぞんで。──なお私は生きており、なお私は考える。私はなお生きなければならない、私はなお考えなければいけないのだから。われ在り、ゆえにわれ思う(Sum,ergo cogito)、われ思う、ゆえにわれ在り(cogito,ergo sum)。

    今 日では誰もが思い思いに自分の願望や最愛の思想を表明している。さればこそ、私もまた、私が自分自身に今日何を望むかを、また、どんな思想がこの年いち早 く彼の心をかすめ去ったかを、語るとしよう、──どんな思想が私の今後の全生活の根拠、保証また甘味であるべきなのかを、語るとしよう!私は、いよいよ もって、事物における必然的なものを美と見ることを、学ぼうと思う、──こうして私は、事物を美しくする者たちの一人となるであろう。

    運 命愛──これが今よりの私の愛であれかし!私は、醜いものに対し戦いをしかけようなどとは思いもしない。私は非難しようとは思わぬし、非難者をすら非難し ようとは思わない。眼をそむけること、それが唯一の否認であれかし!そして、これを要するに、私はいつかはきっとただひたむきな一個の肯定者であろうと願 うのだ!(悦ばしき知識 第276番)

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  161. われわれは完全な懐疑から始めることは不可能である。

    パース

    パース「四つの能力の否定から導かれる諸々の帰結」、植木豊編訳、『プラグマティズム古典集成』第五章、作品社、二〇一四年、九四頁。

    伊藤プラグマティズム入門より孫引き

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  162. チャールズ・パース(一八三九~一九一四)



    チャールズ・サンダース・パース(英: Charles Sanders Peirce、1839年9月10日 - 1914年4月19日)は、アメリカの論理学者、数学者、 ... パースは自分をまず論理学者と みなし、さらに論理学を記号論(sem...

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  163. そして「私は考える、ゆえに私はある」Je pense, donc je suis. というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。

    方法序説#4

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  164. 哲学の原理#1:7中公

    …考えるものが、考えているまさしくそのときに存在しない、と解するのは矛盾しているからである。したがって、「私は考える、ゆえに私はある」という認識は、あらゆる認識のうち、順序正しく哲学する者が出会うところの、最初の最も確実な認識である。

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  165. http://www.iwanami.co.jp/tosho/back.html
    図書/バックナンバー
    「思想の散策」201509~
    [2015年]
    9月(第799号) 思うわ、ゆえに、あるわ 柄谷行人


    私は
    一人称代名詞

    関西

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  166. レヴィナス
    http://www.ne.jp/asahi/village/good/Levinas.htm
     「意識や定位、現在、<私>は、はじめから実存者なのではない。それらは、<存在する>という名づけえぬ動詞が実詞に変容するその出来事なのである。それらすべてが実詞化なのだ。」(同上)

     「私たちの求めてきたのは、実詞の出現そのものなのだ。そしてこの実詞の出現を指示するために私たちは、哲学史において、動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<イポスターゼ=実詞化>という言葉を再び採用することにした。<イポスターゼ>、実詞の出現、それは単に新しい文法的カテゴリーの出現というだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の基底の上に存在者が立ち現れる。実詞化によって、無名の存在は<ある>としての性格を失う。存在者―<存在するもの>―は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属辞とし、その運命に支配を及ぼす。存在を引き受けるだれかがいる。そしてその存在は今やそのだれかの存在なのだ。」(同上)

    眠り(→死)の方向と目覚め(→意識)の方向。その目覚めの本質をレヴィナスは、『全体性と無限』で、「分離」として記述している。
    「意識」は「意識されているもの」という「他者」を持つ。しかしその「他者」とは「意識にとっての他者」でしかない。例えば見られているものは、私の視覚の対象として与えられる限り、私の意識の一部でしかない。「絶対的な他者」があるなら、それは、その相対的な「他者」の向こう側にあり(=「超越」)、相対的な他者のなかで痕跡を示すようなものであるだろう。
    そのような「他者」の現われとは「顔」である。(「顔」とは「人格」であり、カントの言う「物自体」である。)

    3)他者

    主体から他者へ
    「主体=主語」として、他のすべてを「対象=述語」とする自我は、ある意味では自由であるが、すべてをその支配下におき、自己の外部を欠いているという意味では孤独である。私、意識、理性は、あらゆるところで自己の影のみを見出す。私が見ているのは「私の目」が見ているもの、つまり「私の感覚」でしかない。レヴィナスはこれを端的に<同>特徴づける。
    一方で、「他者」が絶対的な他者であるなら、それは私による理解を常に超え出て、逃れ去るようなものである。それは真に「無限なもの」であり、<同>の「外部」である。そのような「他者」が姿を見せるのは、ただ他の「人」、「他人」において、である。無限なものである「他者」は私に語りかけ、真の自由へと呼び覚ます。そうした他者をレヴィナスは「顔」と呼ぶ。

    「理性は独りである。その意味で、認識は世界のなかでは真に他なるものとは決して遭遇しないのだ。」(「時間と他なるもの」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』)

    「絶対的に他なるものは、関係を結びつつも他なるものでありつづけ、「私のもの」と化すことがない。」(「多元論と超越」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』)

    「私の内なる<他人>の観念をはみ出しつつ<他人>が現前する仕方、この仕方をわれわれはここで顔と呼称する。」(『全体性と無限』合田正人訳)

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  167. 我間違えるゆえに我あり 悪手を打ってもえ-じゃないか /マイナビ出版/王銘えん
    我間違えるゆえに我あり 悪手を打ってもえ-じゃないか /マイナビ出版/王銘えん
    電子書籍 1,028円

    電子書籍(1) 1,028円~
    メーカー: 毎日コミュニケーションズ 発売日: 2005年02月 ISBN: 9784839916138
    著者名:王銘えん 出版社:マイナビ

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  168. 我思うゆえに我思う

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  169. 〈私ハ思考スル〉(コギト)は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。

    ドゥルーズ
    差異と反復結論

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  170. シェストフは、ドストエフスキーに、『純粋理性批判』の結末を、すなわちその完了と出口を見ていた。しばしわたしたちには、〔フローベールにおける〕ブヴァールとペキュシェに、『方法序説』の結末を見させていただきたい。で、コギトは、ひとつの愚劣なのだろうか。〈私ハ思考スル〉は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。しかし、コギトはまた、《私》は思考するという規定作用が、《私》は存在するという未規定な存在を直接的に対象としながらも、同時にそうした未規定なものが規定されうるものになるための形式を指定しないかぎりにおいて、反意味でもある(それは、カントが指摘していたことである)。デカルト的コギトの主体は、思考しているのではなく、ただ、思考する可能性をもっているだけであり、その可能性のただなかで依然として愚鈍であり続けるのだ。コギトには、規定されうるものの形式が欠けているのである。規定されうるものの形式といっても、それは、質料に形相を与える種的な特性、種的な形式ではなく、また現在に形式を与える記憶でもなく、それは、時間の純粋で空虚な形式なのである。思考がそれから出発して思考するようになる当の《差異》を、すなわち未規定なものと規定作用との差異としての《差異》を、思考に持ち込み

    思考において構成するのは、まさに時間の空虚な形式である。まさにその差異こそが、おのれ自身の両側に、抽象的な線によってひび割れた《私》と、その《私》が観照する征¨ 廊から生まれた受動的自我とを割りふるのである。まさにその差異こそが、思考のなかに思考するという作用を産出するのである。なぜなら、思考は、あの脱根拠化の点のまわりにおいては差異によってはじめて思考するようになるからである。まさに差異こそが、あるいは、規定されうるものの形式こそが、思考を、すなわち、未規定なもの〔私は存在する〕と規定作用〔私は思考する〕との機械の全体を機能させるのだ。思考に関する理論は、言わば絵画であって、この理論は、おのれを表象=再現前化から抽象芸術へ移行させるような転回を必要としているのである。それこそ、イマージュなき思考に関する理論の対象なのである。

    非人称的な個体化と前個体的な特異性  

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  171. 〈私ハ思考スル〉(コギト)は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。

    ドゥルーズ
    差異と反復結論

    シェストフは、ドストエフスキーに、『純粋理性批判』の結末を、すなわちその完了と出口を見ていた。しばしわたしたちには、〔フローベールにおける〕ブヴァールとペキュシェに、『方法序説』の結末を見させていただきたい。で、コギトは、ひとつの愚劣なのだろうか。〈私ハ思考スル〉は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。しかし、コギトはまた、《私》は思考するという規定作用が、《私》は存在するという未規定な存在を直接的に対象としながらも、同時にそうした未規定なものが規定されうるものになるための形式を指定しないかぎりにおいて、反意味でもある(それは、カントが指摘していたことである)。デカルト的コギトの主体は、思考しているのではなく、ただ、思考する可能性をもっているだけであり、その可能性のただなかで依然として愚鈍であり続けるのだ。コギトには、規定されうるものの形式が欠けているのである。規定されうるものの形式といっても、それは、質料に形相を与える種的な特性、種的な形式ではなく、また現在に形式を与える記憶でもなく、それは、時間の純粋で空虚な形式なのである。思考がそれから出発して思考するようになる当の《差異》を、すなわち未規定なものと規定作用との差異としての《差異》を、思考に持ち込み思考において構成するのは、まさに時間の空虚な形式である。まさにその差異こそが、おのれ自身の両側に、抽象的な線によってひび割れた《私》と、その《私》が観照する無底(サン・フォン)から生まれた受動的自我とを割りふるのである。まさにその差異こそが、思考のなかに思考するという作用を産出するのである。なぜなら、思考は、あの脱根拠化の点のまわりにおいては差異によってはじめて思考するようになるからである。まさに差異こそが、あるいは、規定されうるものの形式こそが、思考を、すなわち、未規定なもの〔私は存在する〕と規定作用〔私は思考する〕との機械の全体を機能させるのだ。思考に関する理論は、言わば絵画であって、この理論は、おのれを表象=再現前化から抽象芸術へ移行させるような転回を必要としているのである。それこそ、イマージュなき思考に関する理論の対象なのである。

    非人称的な個体化と前個体的な特異性  

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  172. 純粋経験の哲学: マーレルソサエティの読書日記
    http://mahlersociety.cocolog-nifty.com/dokusyo/2008/11/post-4ff0.html
     ウィリアム・ジェイムズの「純粋経験の哲学」は、読んでみて思ったのだが、簡単に理解できるものではなかった。西田幾多郎記念館の思索のメディアライブラリーでのジェイムズの思想の予備知識はあったが、それでも書いてある文章は難しかった。抽象概念を言葉で語ることの難しさを再認識した。
     難しいながらも、悩む前に行動あるべきと言わんとしていると思ったところを下記に引用してみる。

     『他の人の場合がどうであれ、わたしは他のいかなる確実なことにも劣らず、次のことに確信をもっている。すなわち、わたしの内なる思考の流れ(わたしはそれを現象としては最大限に認める)とは、よく吟味してみれば、主にわたしの呼吸の流れから成ることが判明するものにたいしてつけられた、不注意な名前なのである。

                                 カントは、わたしのすべての対象には「わたしは思考する」が伴いうるのでなければならない、といったが、この「わたしは思考する」とは、まさしくすべての対象に実際に伴っている「わたしは呼吸する」のことである。』(第一章 「意識」は存在するか より44ページ)

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  173. Does Consciousness Exist? (1904). By William James in ESSAYS IN RADICAL EMPIRICISM (1904) // Fair Use Repository
    http://fair-use.org/william-james/essays-in-radical-empiricism/does-consciousness-exist

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  174. 純粋経験の哲学: マーレルソサエティの読書日記
    http://mahlersociety.cocolog-nifty.com/dokusyo/2008/11/post-4ff0.html
     ウィリアム・ジェイムズの「純粋経験の哲学」は、読んでみて思ったのだが、簡単に理解できるものではなかった。西田幾多郎記念館の思索のメディアライブラリーでのジェイムズの思想の予備知識はあったが、それでも書いてある文章は難しかった。抽象概念を言葉で語ることの難しさを再認識した。
     難しいながらも、悩む前に行動あるべきと言わんとしていると思ったところを下記に引用してみる。

     『他の人の場合がどうであれ、わたしは他のいかなる確実なことにも劣らず、次のことに確信をもっている。すなわち、わたしの内なる思考の流れ(わたしはそれを現象としては最大限に認める)とは、よく吟味してみれば、主にわたしの呼吸の流れから成ることが判明するものにたいしてつけられた、不注意な名前なのである。

                                 
    カントは、わたしのすべての対象には「わたしは思考する」が伴いうるのでなければならない、といったが、この「わたしは思考する」とは、まさしくすべての対象に実際に伴っている「わたしは呼吸する」のことである。』(第一章 「意識」は存在するか より44ページ)



    Does Consciousness Exist? (1904). By William James in ESSAYS IN RADICAL EMPIRICISM (1904) // Fair Use Repository
    http://fair-use.org/william-james/essays-in-radical-empiricism/does-consciousness-exist

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  175. 純粋経験の哲学:
    http://mahlersociety.cocolog-nifty.com/dokusyo/2008/11/post-4ff0.html
                                 
    カントは、わたしのすべての対象には「わたしは思考する」が伴いうるのでなければならない、といったが、この「わたしは思考する」とは、まさしくすべての対象に実際に伴っている「わたしは呼吸する」のことである。』(第一章 「意識」は存在するか より44ページ)

    ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)の「純粋経験の哲学」(伊藤邦武編訳、岩波文庫)

    Does Consciousness Exist? (1904). By William James in ESSAYS IN RADICAL EMPIRICISM (1904) // Fair Use Repository
    http://fair-use.org/william-james/essays-in-radical-empiricism/does-consciousness-exist

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  176. 純粋経験の哲学:
    http://mahlersociety.cocolog-nifty.com/dokusyo/2008/11/post-4ff0.html
                                 
    カントは、わたしのすべての対象には「わたしは思考する」が伴いうるのでなければならない、といったが、この「わたしは思考する」とは、まさしくすべての対象に実際に伴っている「わたしは呼吸する」のことである。』(第一章 「意識」は存在するか より44ページ)

    ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)の「純粋経験の哲学」(伊藤邦武編訳、岩波文庫)

    Does Consciousness Exist? (1904). By William James in ESSAYS IN RADICAL EMPIRICISM (1904) // Fair Use Repository
    http://fair-use.org/william-james/essays-in-radical-empiricism/does-consciousness-exist

    VIII
    …The I thinkwhich Kant said must be able to accompany all my objects, is the I breathe which actually does accompany them.

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  177. 純粋経験の哲学:
    http://mahlersociety.cocolog-nifty.com/dokusyo/2008/11/post-4ff0.html
                                 
    カントは、わたしのすべての対象には「わたしは思考する」が伴いうるのでなければならない、といったが、この「わたしは思考する」とは、まさしくすべての対象に実際に伴っている「わたしは呼吸する」のことである。』(第一章 「意識」は存在するか より44ページ)

    ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)の「純粋経験の哲学」(伊藤邦武編訳、岩波文庫)

    別訳 根本的経験論 白水社

    Does Consciousness Exist? (1904). By William James in ESSAYS IN RADICAL EMPIRICISM (1904,1912) // Fair Use Repository
    http://fair-use.org/william-james/essays-in-radical-empiricism/does-consciousness-exist

    VIII
    …The I thinkwhich Kant said must be able to accompany all my objects, is the I breathe which actually does accompany them.

    1「意識は存在するか」1904
    1912年まとめられて刊行

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  178. 人間デカルト : アンリ・ガストン・グイエ | ローチケHMV - 9784560048535
    www.hmv.co.jp>トップ>本・雑誌・コミック>哲学・歴史・宗教
    哲学・歴史・宗教 に関連する商品・チケット情報. 面白くてわかりやすい「最速で身につく 世界史」 TBS「ゴロウデラックス」で紹介。読者にわかりやすく「なぜその事件が起きた のか」「現代社会に例えるとどんなイメージなのか」などにフォーカスした、世界史の入門 書の入門書。 ローチケHMV|2016年2月12日(金). 田中正人『哲学用語図鑑』 ピタゴラスからサンデルまで主要哲学者70人!学生の副読本として、教養として、学び 直しのきっかけとして、楽しみながら知識が身に付く大人の図鑑。 ローチケHMV|2015 年10月22日(木).
    現代デカルト論集 I - 株式会社 勁草書房
    www.keisoshobo.co.jp/book/b26614.html?=...
    まえがき凡例 序文――フランスにおけるデカルト研究の歴史[山田弘明] 1 いわゆる「 デカルトの循環」について[アンリ・グイエ/佐々木周訳] 解題・解説[佐々木周] 2 デカルト形而上学と理由の順序[マルシャル・ゲルー/小泉義之訳] 3 神の実在証明 における知識の真理と事物の真理[マルシャル・ゲルー/小泉義之訳] 解題・解説[小泉 義之] 4 デカルト形而上学の構成における存在論的経験と体系的演繹[フェルディナン・ アルキエ/香川知晶訳] 解題・解説[香川知晶] 5 デカルトにおける永遠真理の創造― ―極端な ...


    ヤスパース
    デカルトと哲学

    アントワーヌアダン

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  179. 1958 Les Premières Pensées de Descartes, Contribution à l’histoire de l’Anti-Renaissance (Vrin)

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  180. ヤスパース選集 6 デカルトと哲学
    出版者   理想社
    出版年   1961.12
    大きさ等  19cm 197p
    注記    Descartes und die Philosophie./の翻訳
    NDC分類 134.9
    件名    デカルト ルネ
    件名    Descartes Rene´.
    書誌番号  3-0190191295

    所蔵情報 ( 資料情報 | 予約情報 )

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  181. 人間デカルト
    著者名等  アンリ・グイエ/〔著〕  ≪再検索≫
    著者名等  中村雄二郎,原田佳彦/訳  ≪再検索≫
    出版者   白水社
    出版年   1988.3
    大きさ等  20cm 287p
    注記    新装版
    NDC分類 135.2
    件名    デカルト ルネ
    件名    Descartes Rene´.
    要旨    中世から近代への激動期に生き、一つの文化=教養の破産に立ち会い、新たな時代を切り
    開いた思想の冒険者、デカルトの人間ドラマをいきいきと描く本書は、同じように大きな
    転換期に生きるわれわれに多大の示唆を与えてくれよう。
    目次    第1章 デカルトはどのようにしてその哲学を形づくったか;第2章 『方法序説』の打
    ち明け話;第3章 デカルトの存在論の道程;第4章 悪しき霊と善なる神;第5章 デ
    カルトの道徳的行程;第6章 具体的人間の哲学
    ISBN等 4-560-01867-7
    書誌番号  3-0190272657

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  182. 人間デカルト
    叢書名   白水叢書  ≪再検索≫
    著者名等  アンリ・グイエ/〔著〕  ≪再検索≫
    著者名等  中村雄二郎,原田佳彦/訳  ≪再検索≫
    出版者   白水社
    出版年   1981.2
    大きさ等  19cm 287p
    注記    Descartes,essais./の翻訳
    NDC分類 135.2
    件名    デカルト ルネ
    件名    Descartes Rene´.
    書誌番号  3-0190083517

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  183. Descartes und die Philosophie
    https://books.google.co.jp/books?isbn...

    Karl Jaspers - 1966 - ‎プレビュー - ‎他の版

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  184. 「デカルト著作集」収録作品リスト
    Home 参考資料まとめ
    目次
    デカルト著作集


    白水社の「デカルト著作集」全4巻の収録作を一覧にまとめました。1993年に刊行されました。

    デカルトは近代哲学の創始者として一般に認められていますが、決して多作だったわけではありません。デカルトを見ると、思想が時代を超えて生き残る本質的な条件は著述の多寡にあるのではなく、考え方の普遍性にあることが分かります。

    デカルトの概要を解説しました → デカルト・哲学早わかり


    デカルト著作集

    デカルト著作集 第1巻
    方法序説(三宅徳嘉・小池健男訳)
    屈折光学(青木靖三・水野和久訳)
    気象学(赤木昭三訳)
    幾何学(原亨吉訳)

    デカルト著作集 第2巻
    省察および反論と答弁(所徳嘉ほか訳)

    デカルト著作集 第3巻
    哲学原理(三輪正・本多英太郎訳)
    情念論(花田圭介訳)
    書簡集(竹田篤司訳)

    デカルト著作集 第4巻
    精神指導の規則(大出晁・有働勤吉訳)
    宇宙論(野沢恊・中野重伸訳)
    人間論(伊藤俊太郎・塩川徹也訳)
    真理の探求(井上庄七訳)
    平和の訪れ(川俣晃自訳)
    思索私記(森有正訳・所雄章編)
    音楽提要(平松希伊子訳)
    掲貼文章への覚え書(村上勝三訳)



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    全集
    デカルト


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  185. QR code for デカルト著作集 1
    書籍名 デカルト著作集
    著者 デカルト
    翻訳 三宅徳嘉, 小池健男, 青木靖三, 水野和久, 赤木昭三, 原亨吉
    版 改訂
    出版社 白水社, 2007
    ISBN 4560025258, 9784560025253
    ページ数 376 ページ

    引用のエクスポート BiBTeX EndNote RefMan

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  186. cogito ergo digital ラテン語

    指の

    我思うゆえにデジタル化せし

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  187. デカルトとブッダ

    “我思う、ゆえに我あり”
    ― デカルト 『方法序説』

    “〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
    ― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 (中村元訳『ブッダのことば』)

    九一六 師(ブッダ)は答えた、「〈われは考えて、有る*〉という〈迷わせる不当な思惟*〉の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
    九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心*を起してはならない。それが安らい*であるとは真理に達した人々は説かないからである。


    九一六 われは考えて、有るmūlaṃ papañcasaṃkhāyā, ti Bhagavā mantā asmīti sabbam uparundhe. yā kāci taṇhā ajjhattaṃ, tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
     この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(mantā)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると、〈mantā asmī ti〉を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andersen and Helmer Smith)もそのように区切っている。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeln hier im Sondern, Unterscheiden, Ich bin's, der denkt muss gänzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantāを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantāを gerund と解する)」という訳が成立する。
    〔わたくしは、後者のように gerund に解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所(Sn. 1040)で mantā na lippati を paññāya na lippati と解されているからである(Pj. p.588)。〕
     どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。
     しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。

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  188. 一〇四〇 両極端を知りつくして

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  189. 一〇四二 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは〈偉大な人〉と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」

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  190. https://ameblo.jp/tta33cc/entry-11603780209.html
    「我思う、ゆえに我あり」(cogito, ergo sum)ということばは、すべて仮構的権威を排したあとで、絶対に疑うことのできない確実な真理として考える「我」という主体性の存在を提起したからです。その「我」は、神のもとに存在する「我」でした。神は絶対ですから、これを絶対真理と受けとめたわけです。先の仏教のいう解脱のなかにある絶対的要素とは、まぎれもなく違います。
    しかしぼくは、絶対真理などはない、そう思うようになりました。よしんばあっても、人びとがそれを信じないかぎり、ないも同然なのです。
    デカルトのいう絶対真理は、神において成り立つものだったので、デカルトのコギト定立の対象は、あくまで神をのぞくものでした。
    ラテン語の「cogito」は、「思う、考える、疑う」という意味を合わせ持っていることばです。したがって、ほんとうは「我疑う、ゆえに我あり」なのです。

      師(ブッダ)は答えた。《われは考えて、有る》という《迷わせる不当な思惟》の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

      これはすでに以前のページで述べたもので、繰り返しになりますが、あらためて吟味してみることにします。
    これは、パーリ語で書かれた仏典「スッタニパータ」の第916詩に出てくる釈迦のことばです。
    この釈迦のことばはひじょうにむずかしい。邦訳は中村元氏なので、氏の注釈をそのまま下に掲げます。

    《一つの解釈は、「考えて(manta)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし、語順を考えると、(manta asmi ti)を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andeersen Helmer Smith)も区切っている。
    そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeeln hier im sondern,Untersheiden,゛Ich bin’s, der denkt” muss ganzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantaを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantaをgerundと解する)」という訳が成立する。(略)
    わたくしは、後者のようにgerundに解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所で、manta na lippatiをpannaya na lippatiと註釈されているからである。
    どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito,ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。
    しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代インド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。迷わせる不当な思惟――第八七四詩に対する註記参照。
    「迷わせる不当な思惟(papancasamkha)」は、ひろがりの意識――原語は(おなじ)papancasamkhaであるが、註によると妄執(tanha)と悪しき見解(ditthi)と慢心(mana)とのひろがりの意識をいう。~後代の仏典の漢訳ではpapancaを「劇論」と訳す。ここではインド一般の用例と同じであると考えられる。ただし第916詩では、仏教的な意味で用いられている。》

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  191. 874
    (MahN.) によると、「ありのままに想う者」とは凡人であり、「誤って想う者」とは狂人であり、「想いなき者」とは滅尽定に入った人であり、「想いを消滅した者」とは四無色定を得ている者だというが、…

    返信削除
  192. ここの根は単数形で、
    それをはっきりと区別するためには、完全に徹底的に取り上げなければならないと思うのは私です。

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  193. 「我思う、故に我在り」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)は、デカルトが仏語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム、cogito =我思う、ergo = 故に、sum = 我在り)との標題が有名だが、これは第三者の訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]、Ego cogito, ergo sum, sive existo との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]。

    1^ ルネ・デカルト著『方法序説』落合太郎訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1967、「解題」6-7頁
    2^ ルネ・デカルト著『方法序説』、山田弘明訳、ちくま書房〈ちくま学芸文庫〉、2010、234-235頁

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  194. 235訳注
    べきである。それゆえ、われわれがいったん疑わしいと認識したものが,二度と確実なものとならない
    わけではない」(「第七答弁」AT.V-1.473)。

    以下『方法序説』ちくま学芸文庫山田弘明訳
    234~5頁脚注より
    115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
    (コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
    ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』では、Ego sum, ego existo (私はある、
    私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
    『原理』ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『序説』のラテン語
    訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
    VI.558)となっている。『真理の探究』に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
    は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
    の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。

    1.6
    デカルトはこれほで
    「哲学において原理を確立するよう努め」
    (本書四11ページ)、
    「通常の哲学より
    もより確実である-基礎を探し」(本書五三ページ)てきた。その原理がここに見いだされたことにな
    る。ここで第1原理(le premier principe)とは、他の事物の存在をそれによって証明する公理のよう
    なものではなく、他のどんな事物よりもよりよく知られ、他を知るのに役立つ原理のことである(クレ
    ルスリエ宛\六四六年六月または七月AT. IV. 444)。実際この原理は「最初に知られる最も確実な認
    識」(T原理-第1部七節)であり、そこから他のあらゆる真理が引き出されてくる源泉なのである。



    17この仮定は常識的には不合理であろう。しかし、前のパラグラフで述べられたように、現にたしかに
    「夢のなかの幻想」
    あると思われるものでも、
    と同様に偽であると仮定できる。
    実は夢であったということがありうるのだから、
    それは
    ということから、私の存在が帰結している。この意味でcogito, ergo sumは
    (私は琴、ゆえに私はある)に等しい(「真理の探求』AT. x. 523)。前のパラグラ
    18
    疑う
    (douter)
    dubito, ergo sum

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  195. 以下『方法序説』ちくま学芸文庫山田弘明訳

    《…「私は考える、ゆえに私はある」115…》56頁


    《115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
    (コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
    ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』では、Ego sum, ego existo (私はある、
    私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
    『原理』ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『序説』のラテン語
    訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
    VI.558)となっている。『真理の探究』に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
    は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
    の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。》234~5頁脚注より

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  196. 以下『方法序説』ちくま学芸文庫山田弘明訳

    《…「私は考える、ゆえに私はある」115…》56頁


    《115 原文はJe pense, donc je suisである。この命題は解釈者たちによってラテン語でcogito, ergo sum
    (コギト·エルゴ·スム)と表記され、デカルト哲学の標語とされてきた。だが、厳密に言えばデカル
    ト自身がこのラテン語表記をしたことは一度もない。『省察』では、Ego sum, ego existo (私はある、
    私は存在する。AT. VII. 25)となっていて、ergoがなくegoやexisto という語が付加されている。
    『原理』ではego cogito, ergo sum (私は考える、ゆえに私はある。第一部七節)、『序説』のラテン語
    訳でもEgo cogito, ergo sum, sive existo (私は考える,ゆえに私はある、あるいは存在する。AT.
    VI.558)となっている。『真理の探究』[la recherche de la verite]に一箇所だけcogito, ergo sum(AT. X.523)とあるが、これ
    は第三者による翻訳である。こうした表記の相違を根拠として、『序説』と『省察』とではコギト命題
    の意味が異なるとする解釈(アルキエやマリオン)が出てきている。》234~5頁脚注より

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  197. http://polylogos.org/philosophy/descartes-bib.html
    デカルト著作集
    ■デカルト著作集 第1巻
    方法序説(三宅徳嘉・小池健男訳)
    屈折光学(青木靖三・水野和久訳)
    気象学(赤木昭三訳)
    幾何学(原亨吉訳)
    ■デカルト著作集 第2巻
    省察および反論と答弁(所徳嘉ほか訳)
    ■デカルト著作集 第3巻
    哲学原理(三輪正・本多英太郎訳)
    情念論(花田圭介訳)
    書簡集(竹田篤司訳)
    ■デカルト著作集 第4巻
    精神指導の規則(大出晁・有働勤吉訳)
    宇宙論(野沢恊・中野重伸訳)
    人間論(伊藤俊太郎・塩川徹也訳)
    真理の探求(井上庄七訳)
    平和の訪れ(川俣晃自訳)
    思索私記(森有正訳・所雄章編)
    音楽提要(平松希伊子訳)
    掲貼文章への覚え書(村上勝三訳)

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  198. フランス語の著作
    Rene Descartes

    Principia philosophiae, 1685
    Extraits du Journal de Isaac Beeckman (1618-19)
    Varia AT X, 41-66
    Physico-Mathematica AT X, 67-78
    Compendium musicae (date du 31 decembre 1618) AT X, 89-141
    Extraits de la Vie de M.. Descartes de Adrien Baillet (1691)
    Olympica AT X, 179-188
    Experimenta AT X, 189-190
    Studium bonae mentis AT X, 191-204
    Ms. de Leibniz (dans Louis-Alexandre Foucher de Careil (ed.), ?uvres inedites de Descartes, precedees d'une introduction sur la methode 2 vols., Paris: 1859-60)
    Cogitationes Privatae AT X 213-248
    De Solidorum elementis AT X 265-276
    Excerpta ex Ms. Descartes (dans Opuscula posthuma, physica & mathematica, Amsterdam: 1701)
    Excerpta mathematica (dont Ovales opticae quatuor) AT X 285-324
    Extraits du Journal de Isaac Beeckman (1628-29)
    (Treize textes) AT X 331-348
    Traite d'escrime: ?uvre perdue, probablement uniquement manuscrite, ecrite vers 1618, citee par Adrien Baillet AT X 537-538
    Regles pour la direction de l'esprit, (Regulae ad directionem ingenii), inachevee, publication posthume en traduction neerlandaise de Jan Glazemaker 1684, texte latin dans les Opuscula posthuma, 1701 AT X
    Traite du monde et de la lumiere, 1632-1633, publication posthume en 1664 AT XI
    Explication des engins par l'aide desquels on peut avec une petite force lever un fardeau fort pesant, 1637 AT I 435-447
    Le Discours de la methode pour bien conduire sa raison et chercher la verite dans les sciences, 1637, AT VI, preface a:
    la Dioptrique
    les Meteores
    la La Geometrie
    Meditationes de prima philosophia (Meditations metaphysiques) 1641, avec six series d'Objections; (deuxieme edition avec les septiemes Objections et l'epitre a Dinet: 1642) AT VII; traduction francaise par le Duc de Luynes 1647 AT IX-1
    Principia philosophiae 1644, edition latine AT VIII-1; traduction francaise par Paul Picot, revue par Descartes, Les Principes de la philosophie, 1647 avec une Lettre-Preface AT IX-2
    Epistola ad Voetium. Lettre apologetique. Notae in programma AT VIII-2
    Entretien avec Burman, 1648 AT V 146-179
    Les Passions de l'ame, 1649 AT XI
    Recherche de la verite par la lumiere naturelle, texte inacheve, publie pour la premiere fois en traduction neerlandaise 1684, texte latin dans les Opuscula posthuma, 1701 ; puis dans le volume XI, p. 330-376, des ?uvres de Descartes publiees a Paris, 1826 par Victor Cousin, AT X.
    Correspondance avec Elisabeth, 1643 a 1649

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  199. フランス語の著作
    ルネデカルト

    Principia philosophiae、1685
    Isaac Beeckman(1618-19)著 『Extraits du Journal』
    Varia AT X、41〜66
    Physico-Mathematica AT X、67-78
    大要音楽(1618年12月31日)AT X、89-141
    デ・ヴィル・ド・ド・ヴィエールのエキストラ…Desrartes by Adrien Baillet(1691)
    オリンピックAT X、179-188
    エクスペリエンスAT X、189-190
    スタジオは忠実にAT X、191-204にあります
    さんLeibnizの(ルイ - アレクサンドルフーチャードカレイユ(編)、 『序曲より前の2つの方法』、パリ:1859年 - 60年)
    Cogitationes Privatae AT X 213-248
    Solidorum elementisのAT X 265-276から
    抜粋元さんデカルト(Opuscula posthuma、physica&mathematica、アムステルダム:1701)
    Excerpta mathematica(Ovales opticae quatuorはいけません)AT X 285-324
    イサクBeeckman(1628年-29)著日記duits
    (テキスト処理)AT X 331-348
    戯れの痕跡:ペルーのuvre、おそらく原稿のみ、ecritus対1618、Adrien Bailletの引用文献X 537-538
    エスプリの方向性の規則、(in規則)、inachevee、Jan Glazemaker 1684によるオランダ語訳のポストヒューム発行、Opuscle posthumousのラテン語テキスト、1701 AT X
    Traite du monde et de la lumiere、1632年 - 1633年、ポストヒューム出版1664年AT XI
    補佐官によるEnginsの説明はPeut Avec Un Petite Forceが重いバンドルを生み出す、1637 AT I 435-447
    1637、AT VI、序文aの序文を読む。
    屈折
    流星
    ラジオメトリ
    細い哲学の瞑想(Meditations metaphysiques)1641、6つの一連の異議あり。 (Diete:1642の中隔Objectionsらの編集版)AT VII。 Duc de Luynes 1647 AT IX-1による翻訳フランセーズ
    Principia philosophiae 1644、edition latine AT VIII-1; Paul Picotによる翻訳のフランカイズ、Descartesによるレビュー、The Principles of Philosophy、1647年(英文)レター - 序文AT IX-2
    エピストラ広告Voetium。 Lettre apologetique AT VIII-2プログラムに注意
    BurmanとのEntretien、1648 AT V 146-179
    愛の情熱、1649 AT XIーー
    ラルミエール自然史、短編小説、演説1684、ラテン語の文章、Les Opuscula posthumatum、1701;次に、巻XIでは、p。 1826年にパリで出版されたDescartes desからの330-376。
    1643年から1649年までの対応Avec Elisabeth

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