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火曜日, 10月 23, 2012

カント: たんなる理性の限界内における宗教(「チョムスキーとカント」改題)

             (カント:インデックス、→リンク::::::
NAMs出版プロジェクト: アウグスティヌス『神の国』
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_42.html(参考)
宗教:インデックス(ネーション内のサブインデックス)
http://nam-students.blogspot.jp/2015/04/blog-post_88.html
『たんなる理性の限界内の宗教』:目次
"Die Religion innerhalb der Grenzen der bloβen Vernunft" (1793;1794)

第一編
 悪の原理が善の原理とならび住むことについて、あるいは人間本性のうちなる根元悪について
第二編
 人間の支配をめぐっての善の原理による悪の原理との戦いについて
第三編
 善の原理による悪の原理にたいする勝利、そしてこの世での神の国の建設
第四編
 善の原理の支配下における奉仕と偽奉仕について、あるいは宗教と聖職制について

岩波版全集付録:
宗教哲学序文準備原稿
たんなる理性の限界内の宗教のための準備原稿

     |  
     |  1(質)
_____|_____
     |  | 3
  2  |__|__
 (関係)| 神の国
     |4 |  

柄谷行人『世界共和国へ』で、チョムスキーの国家に関する講演☆が引用されていたが、チョムスキーはその元となる講演で、フンボルトに続いてカントを引用していた。

以下、その引用元である『たんなる理性の限界内の宗教』第4編第2部第4節原注(邦訳岩波版全集第10巻255頁)より

 (原注)賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、それは、ある民族(法的自

  由の取り扱いにはこの民族もふくまれている)がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、土地所有主の農奴がまだ自由
  の段階にまで成熟していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階にまで成熟していない、といった表現である。しか
  しこのような前提にしたがうなら自由が生じることはけっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなけ
  れば、自由の段階にまで成熟するなどということはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、ま
  ず自由でなければならないのである)。もちろん、はじめのうちはさまざまな試みも粗野であろうし、ふつうそうした試み
  にはいまだ他人の命令を受け、配慮をも受けていたときよりも困難で危険な状態も結びついていようが、しかしこと理性に
  関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのである(試みてもよいという点では、自由でなければならないので
  ある)。権力を掌握している人々がこれら三つのくびきを断ち切るのを、時勢のためにやむをえずさらに先へ、非常に先ヘ
  と延ぱすことがあるが、これには私も異存はない。しかしそうした人々が自分たちに隷従しているからには、彼らにはそも
  そも自由は適していないし、彼らをいつまでも自由から遠ざけておいてよいのだということ、これを原則とすることは神性
  の人権を、神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その人権を侵害することなのである。このような原則を実施で
  きれば、もちろんその方が国家や家や教会は支配しやすい。しかしはたしてその方が正しいのであろうか。


チョムスキーとカントはアプリオリな言語観以外は相性が悪いような気もするが、この生前発禁になった著作から自由主義に関して好意的な部分を選び取って引用したのはさすがだと思う。

☆:
Tangible Information: Noam Chomsky lecture from 1970 (!) -- full text transcript
http://tangibleinfo.blogspot.jp/2006/11/noam-chomsky-lecture-from-1970-full.html
Government in the Future - Noam Chomsky - Google ブックス
http://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=xAFOAfSO-EYC&q=kant   
_____________________

参考:

http://homepage2.nifty.com/ytyt/Kant1.html

『たんなる理性の限界内における宗教』の序文でカントは、伝統の宗教に対して、
純粋理性宗教の構想を明かにしている。啓示宗教は端的に聖書をさしているので
あるが、純粋理性宗教は聖書の史述によらずそれ自身で存立する一つの体系であ
るとされる…

純粋理性宗教と啓示宗教とは互いに無関係に存立している二つの宗教ではない。
理性と聖書のあいだには一致が見出されるのであって、両者はおなじ中心をもつ
二つの円にたとえられる。「…私は啓示を信仰のより広い範囲とみることができ
よう。それは、純粋理性宗教をより狭い範囲として自己のうちにふくんでいる。
哲学者は、後者の範囲内で純粋理性の教師としてふるまうのである」*と述べら
れている。

   _啓示宗教_
  /      \
 /   __   \
|   /  \   |
|  |理性宗教|  |
|  |    |  |
|   \__/   |
 \        /
  \______/

(「啓示宗教」が大きい円で、「理性宗教」が小さい円)

たしかに、啓示宗教は純粋理性宗教をふくむところの大きな全体である。それだけ
豊富な内容が聖書の記述に見出される。だが、このことは啓示宗教の優位をすこし
も意味してはいなかった。むしろ、中心からより一層遠い内容、宗教の本質に直接
かかわりをもたない経験的なものをそれだけ多くふくんでいるにすぎない。反対に、
中心に近ければ近いだけ、それは純粋理性宗教の内容に入ってくる。


岩波版全集では以下、

「…私は啓示を、信仰のより狭い領域としての理性宗教をふくんだ、より広い信仰
領域だと(二つのたがいに離れて存在する円ではなく同心円だと)見なせようし、
哲学者は、この狭い方の領域内で(アプリオリな原理にのみもとづく)純粋な理性
教師として身を持さねばならず、したがってその際、あらゆる経験を度外視しなく
てはならないのである。」
(『たんなる理性の限界内の宗教』第二版序文、邦訳岩波版全集第10巻19頁)

____________

 デカルト
    スピノザ
プルードン    ヘーゲル
 マルクス 空海 カント
 坂本龍馬    ハイデガー
     柄谷 フロイト
ドゥルーズ    老子
 アドルノ    パーソンズ
 カレツキ ゲゼル
    ライプニッツ
 スポーツ    文学
     ガンジー
     ラカン
     ニーチェ ショーペンハウアー 
      孔子 
          インド哲学

21 件のコメント:

  1. ゲーデル
    音楽
    栄養学

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  2. http://homepage2.nifty.com/ytyt/Kant1.html

    カントの宗教論


     『たんなる理性の限界内における宗教』の序文でカントは、伝統の宗教に対して、純粋理性宗教の構想を明かにしている。啓示宗教は端的に聖書をさしているのであるが、純粋理性宗教は聖書の史述によらずそれ自身で存立する一つの体系であるとされる。すなわち、理性それ自らに根ざした宗教である。そして、その内容をカントは純粋に道徳的なものとみていた。もちろん、道徳がそのまま宗教なのではない。「道徳はそれ自身のためにはけっして宗教を必要としない」(1)といわれ、また「地上の生で一切が終り、この生において幸福と道徳的尊厳とがおそらくはすこしも合致しないとしても、義務を行っているということで十分なのだ」とさえいわれる。(2)けれども、他方われわれの行為についてそれの結果を求めることはわれわれの重大な関心事であり、人間の意志にとってさけることのできない制約である。
     「この世でわれわれのなす正しい行為から一体何がでてくるのか?」という問いに理性は無関心でいることはできない(3)。道徳が宗教へとみちびかれる必然性がここに説かれる。このかぎりで、宗教は道徳を越えたところにこそ成り立つのである。しかし、それは道徳が宗教によって制限されることではない。むしろ、宗教は道徳の拡張であり、カントは両者のあいだに本質的な相違をみとめていなかった。
     「道徳はそれゆえ宗教へと通じる。それによって、道徳は人間以外の威力を有する道徳的立法者の理念へと拡張されるのであり、世界創造の究極目的はこの立法者の意志のうちにある。それは同時に人間の究極目的でありうるし、またそうあらねばならない(4)」とこのように、道徳の拡張としてでてくる宗教がカントの構想する純粋理性宗教であった。
     さて、純粋理性宗教と啓示宗教とは互いに無関係に存立している二つの宗教ではない。理性と聖書のあいだには一致が見出されるのであって、両者はおなじ中心をもつ二つの円にたとえられる。「-----私は啓示を信仰のより広い範囲とみることができよう。それは、純粋理性宗教をより狭い範囲として自己のうちにふくんでいる。哲学者は、後者の範囲内で純粋理性の教師としてふるまうのである」(5)と述べられている。
     哲学者は理性の限界内で宗教について語ることが許される。しかし、それが宗教のすべてではない。たんなる理性の限界内にとどまらない啓示宗教が、純粋理性宗教をもふくむある全体として存在している。だから、哲学者の仕事は宗教の一部分に関与するだけで、「たんなる理性の限界内」という制約を越えた広大な領分に立ち入ることを禁じられているのである。そのかぎりでは、カントは啓示宗教にたずさわるものに敬意を払っている。「宗教」について語るのはかれらであり、哲学者はただ「たんなる理性の限界内における宗教」についてのみ語りうるわけである。しかしながら、一見敬意を表するととみられるこの態度が、じつは、必ずしもそうではない。たしかに、啓示宗教は純粋理性宗教をふくむところの大きな全体である。それだけ豊富な内容が聖書の記述に見出される。だが、このことは啓示宗教の優位をすこしも意味してはいなかった。むしろ、中心からより一層遠い内容、宗教の本質に直接かかわりをもたない経験的なものをそれだけ多くふくんでいるにすぎない。反対に、中心に近ければ近いだけ、それは純粋理性宗教の内容に入ってくる。

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  3. デリダ邦訳文献
    http://www.geocities.jp/agrippa0510/


    27.    「哲学を教えること―教師、芸術家、国家―カントとシェリングから―」 「思想」8404(→『他者の言語』に収録)

    たんたる理性〜への言及あり

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  4. フーコーとチョムスキー 人間本性について(日本語字幕)1/2
    http://www.youtube.com/watch?v=iWaTtRvH7LA&feature=youtube_gdata_player

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  5. フーコーとチョムスキー 人間本性について(日本語字幕)2/2
    http://www.youtube.com/watch?v=RbXCgZVzBKI&feature=youtube_gdata_player

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  6. 理性の限界内 カント 同心円 - Yahoo!検索

    I・カントの宗教哲学(iii) - 哲学・思想学系 (Adobe PDF) -htmlで見る
    は『単なる理性の限界内における宗教』の要約が中心で、これを理解する上で必要な 基本的情報がうまく整理してあ. げられている。 ... Ⅰ プロフィール. Ⅱ シェーラーや プフライデラーのあげる条件とカント哲学(KRV 序文に見られる事柄) .... 両宗教は、二 つの同心円の関係(「理性宗教」が小さい円で、「啓示宗教」が大きい円。 「宗教哲学」 ハンド ...
    www.logos.tsukuba.ac.jp/~horoatsu/handoutphr7kant3.pdf
    根本悪とその諸問題 ―哲学的神学・理性宗教にとっての障壁― (Adobe PDF)-htmlで見る
    カントは理性神学の講義を通して宗教上の諸問題の合理的解明に寄与しようと欲しま. した。 .... 領域と(二つの互いに離れて存在するものとしてではなく、同心円と)みなすこと がで ...カントの「たんなる理性の限界内における宗教」という試みの是非が問われねば ...
    repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/.../1/Minami2009.pdf

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  7. 『たんなる理性の限界内における宗教』の序文でカントは、伝統の宗教に対して、
    純粋理性宗教の構想を明かにしている。啓示宗教は端的に聖書をさしているので
    あるが、純粋理性宗教は聖書の史述によらずそれ自身で存立する一つの体系であ
    るとされる。…

    純粋理性宗教と啓示宗教とは互いに無関係に存立している二つの宗教ではない。
    理性と聖書のあいだには一致が見出されるのであって、両者はおなじ中心をもつ
    二つの円にたとえられる。「…私は啓示を信仰のより広い範囲とみることができ
    よう。それは、純粋理性宗教をより狭い範囲として自己のうちにふくんでいる。
    哲学者は、後者の範囲内で純粋理性の教師としてふるまうのである」と述べられ
    ている。
       ______
      /      \
     /   __   \
    |   /  \   |
    |  |理性宗教|  |
    |  |    |  |
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     \        /
      \_啓示宗教_/

    (「啓示宗教」が大きい円で、「理性宗教」が小さい円)

    たしかに、啓示宗教は純粋理性宗教をふくむところの大きな全体である。それだけ
    豊富な内容が聖書の記述に見出される。だが、このことは啓示宗教の優位をすこし
    も意味してはいなかった。むしろ、中心からより一層遠い内容、宗教の本質に直接
    かかわりをもたない経験的なものをそれだけ多くふくんでいるにすぎない。反対に、
    中心に近ければ近いだけ、それは純粋理性宗教の内容に入ってくる。

    返信削除
  8. 柄谷行人『世界共和国へ』で、チョムスキーの国家に関する講演が引用されていたが、チョムスキーはその元となる講演で、
    フンボルトに続いてカントを引用していた。

    以下、該当箇所である、カント『たんなる理性の限界内の宗教』第4編第2部第4節原注(邦訳岩波版全集第10巻255頁)より

     (原注)賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、それは、ある民族(法的自
      由の取り扱いにはこの民族もふくまれている)がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、土地所有主の農奴がまだ自由
      の段階にまで成然していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階にまで成熟していない、といった表現である。しか
      しこのような前提にしたがうなら自由が生じることはけっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなけ
      れば、自由の段階にまで成熟するなどということはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、ま
      ず自由でなければならないのである)。もちろん、はじめのうちはさまざまな試みも粗野であろうし、ふつうそうした試み
      にはいまだ他人の命令を受け、配慮をも受けていたときよりも困難で危険な状態も結びついていようが、しかしこと理性に
      関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのである(試みてもよいという点では、自由でなければならないので
      ある)。権力を掌握している人々がこれら三つのくぴきを断ち切るのを、時勢のためにやむをえずさらに先へ、非常に先ヘ
      と延ぱすことがあるが、これには私も異存はない。しかしそうした人々が自分たちに隷従しているからには、彼らにはそも
      そも自由は適していないし、彼らをいつまでも自由から遠ざけておいてよいのだということ、これを原則とすることは神性
      の人権を、神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その人権を侵害することなのである。このような原則を実施で
      きれば、もちろんその方が国家や家や教会は支配しやすい。しかしはたしてその方が正しいのであろうか。


    チョムスキーとカントはアプリオリな言語観以外は相性が悪いような気もするが、この生前発禁になった著作から自由主義に関
    して好意的な部分を選び取って引用したのはさすがだと思う。

    返信削除
  9. 柄谷行人『世界共和国へ』で、チョムスキーの国家に関する講演が引用されていたが、チョムスキーはその元となる講演で、
    フンボルトに続いてカントを引用していた。

    以下、該当箇所である、カント『たんなる理性の限界内の宗教』第4編第2部第4節原注(邦訳岩波版全集第10巻255頁)より

     (原注)賢明な人々でもよく用いる表現で、正直にいって、どうも私にはなじめないのであるが、それは、ある民族(法的自
      由の取り扱いにはこの民族もふくまれている)がまだ自由の段階にまで成熟していないとか、土地所有主の農奴がまだ自由
      の段階にまで成然していないとか、一般に人間はまだ信仰の自由の段階にまで成熟していない、といった表現である。しか
      しこのような前提にしたがうなら自由が生じることはけっしてあるまい。そもそもあらかじめ自由のうちに置かれていなけ
      れば、自由の段階にまで成熟するなどということはありえないのである(自由において力を合目的的に利用しうるには、ま
      ず自由でなければならないのである)。もちろん、はじめのうちはさまざまな試みも粗野であろうし、ふつうそうした試み
      にはいまだ他人の命令を受け、配慮をも受けていたときよりも困難で危険な状態も結びついていようが、しかしこと理性に
      関しては、自分で試みる以外にはけっして成熟しないのである(試みてもよいという点では、自由でなければならないので
      ある)。権力を掌握している人々がこれら三つのくびきを断ち切るのを、時勢のためにやむをえずさらに先へ、非常に先ヘ
      と延ぱすことがあるが、これには私も異存はない。しかしそうした人々が自分たちに隷従しているからには、彼らにはそも
      そも自由は適していないし、彼らをいつまでも自由から遠ざけておいてよいのだということ、これを原則とすることは神性
      の人権を、神性は人間を自由のために創造したもうたのに、その人権を侵害することなのである。このような原則を実施で
      きれば、もちろんその方が国家や家や教会は支配しやすい。しかしはたしてその方が正しいのであろうか。


    チョムスキーとカントはアプリオリな言語観以外は相性が悪いような気もするが、この生前発禁になった著作から自由主義に関
    して好意的な部分を選び取って引用したのはさすがだと思う。

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  10. 言語学と宗教
    理性宗教と啓示宗教

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  11. マルクス主義が無力だったから原理主義に傾いたというのが柄谷行人の分析
    イスラムの互助システムには共産主義的なものがあるが、
    これはむしろアナキストの自主管理に近い

    ただ本来のイスラム教は商売人の宗教
    そこに坂本龍馬的なイスラムの夜明けがある

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  12. 7:7求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
    http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html

    「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8
    http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html

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  13. 『単なる理性の限界内における宗 教 』 ( RGV )

    《 RGV 目 次 》
     序 文 ( 第 一 版 、 第 二 版 )
     第1篇「善の 原 理 と な ら ん で 悪の 原 理 が 内 在 す る こ と に つ い て 、 も し く は 人 間 本 性 の う ち に あ る 根 本 悪 に つ い て 」 : 「 原 罪 」論、 堕 罪 論 の 理 性 宗 教 的 解 釈
     第2篇「 人 間 の 支 配 を め ぐ る 善の 原 理 と悪の 原 理 の戦 い に つ い て 」 : キ リ ス ト 論、救 済 論 、 贖 罪 論 の 理 性 宗 教 的 解 釈
     第3篇「悪の 原 理 に対 す る 善の 原 理 の 勝 利 と 地 上 に お け る 神の国の 建 設 」 : 教 会 論 の 理 性 宗 教 的 解 釈
     第4篇「善の 原 理 の 支 配 下 に お け る 奉 仕 と 偽 奉 仕 に つ い て 」 :

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  14. 求む邦訳, 2008/4/24

    http://www.amazon.co.jp/gp/product/0865971099/

    The Limits of State Action [ペーパーバック]
    Freiherr von Humboldt Wilhelm (著), J. W. Burrow (編集)

    レビュー対象商品: The Limits of State Action (ペーパーバック)
    これは、チョムスキーがよく引用する書物で、一般に『国家活動の限界を決定するための試論』、『国家行為の限界』、『国家活動の 限界を確定せんがための試論』などと呼ばれ、一部のアナキズム、リバタリアニズム信奉者にとって聖書的な本となっている。
    日本では『リバタリニズム読本』、『フンボルト』(清水書院)、『人間形成と言語』(以文社)などで断片的に紹介されているが、まだ全訳は存在しない。
    執筆されたのは1792年だが、検閲を恐れたため、刊行は1851年に著者の死後だったそうだ。
    晩年のフンボルトは国家による教育などを許容する方向に向かったそうで必ずしもフンボルトの全体像を示した本ではないが、この書の古典としての今日性は揺るがないだろう。
    ヴィルヘルム・フンボルト(兄の方)は言語学者としての見直しが現在進行形だが、並行してこうした政治的な方面も見直されてほしい。





    http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・スチュアート・ミル
    ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「国家活動の限界を決定するための試論」(1851年、刊行)はミルの「自由論」にも大きな影響を与えた。ミルは『自由論』において、政府がどの程度まで国民の自由を制限できるか、国民はどの程度の客観的証拠による注意によって、自らの自由な注意によってどの程度まで政府に干渉されずに、自由な意思決定をなすべきなのか考察を行なった。例として毒薬の薬品の注意書きは政府によって命令されるべきか、自らの自由な意思によって注意すべきかを挙げて考察している。もし自らの意思によって注意すべきであるならば、政府は注意書きをつけるように強制すべきではないが、それが不可能ならば政府は注意書きを強制すべきであると論じ、国民の能力の問題をも取り上げることとなった。 酒や、タバコの注意書きや、それと類似に経済学的に意味がある酒税や、タバコ税の意味についても同じことがいえる。もし注意すべきではないということになれば警察国家となるであろうし、一方リバタリアンのように経済的なことのみに注意すべきであるということも可能であろうし、またスウェーデンのような福祉国家を主張することも可能であるということになる。

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  15. さらにこの利己愛は一面では、人間の平等を求めるものとなります。この比較において「平等という価値を与える心の傾き[51]」が生まれるのであり、究極的にはこれは人間を手段として使用せず、目的としてのみ使用することを求める定言命法につながるものです。この意味でもその素質は善なるものと考えることができます。
    250?
    [36]カント「たんなる理性の限界内における宗教」第三篇。邦訳は飯島宗享・宇都宮芳明訳、『カント全集』第九巻、理想社、一三四ページ。
    [51]同。邦訳は同、四五ページ。

    7:55 午後
    yoji said...
    カントは「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである[28]」と、このプロセスを要約しています。人間の歴史は悪によって始まる自由の歴史なのです。

    問題を考察するためにカントは、人間の「素質[44]」と「傾き[45]」という概念を提起します。素質という概念は、人間の生まれつきの潜在的な可能性を示します。傾きというのは、人間の心の自然的な傾きです。

    ます。善は人間の本性の素質であって傾きではないし、悪は人間の本性の傾きであって、素質ではないのです。素質に善を、傾きに悪を割り当てるというのは、よく考えられていると思います。


    。自己保存の本能から生まれる悪徳は、身体の自然を損ねるほどに過度の飲食をすることだとカントは考えます。子孫を求める本能から生まれる悪徳は、淫乱です、社交的な本能から生まれる悪徳は、他者にたいする無法です。



    8:11 午後
    yoji said...
    22]カント「人類の歴史の憶測的な起源」。邦訳は前掲の『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』七六ページ。[28]同。邦訳は同、八五ページ。

    カント「たんなる理性の限界内における宗教」第三篇。邦訳は飯島宗享・宇都宮芳明訳、『カント全集』第九巻、理想社、一三四ページ。
    [44]同、第一篇。邦訳は同、四三ページ。 [45]同。邦訳は同、四七ページ。

    8:19 午後
    yoji said...
    9


    5
    [73]カント「人類の歴史の憶測的な起源」。『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』中山元訳、光文社古典新訳文庫、八四ページ。

    返信削除
  16. 。「悪の根拠は、……自然衝動のうちにではなく、選択意志がみずからの自由を使用するため自己自身に設ける規則のうちにのみ、すなわち行動原理のうちにのみ存在することができる[48]」。すなわち人間に自然にそ

    返信削除
  17. カントはこうしてみずからの心に問いながら、「人間は悪である[62]」と結論しました。それは「人間が道徳法則をみずから意識しながらも、なお道徳法則からのそのときどきの違反をみずからの行動原理のうちに採用している[63]」ということなのです。

    48
    カント「たんなる理性の限界内における宗教」第三篇。邦訳は飯島宗享・宇都宮芳明訳、『カント全集』第九巻、理想社、36ページ

    62
    63
    同52ページ

    返信削除
  18. 『道徳形而上学の基礎づけ』で正価で販売する商店主の例をあげていました。不慣れな客には値段をつりあげて売るというのが当時の商売のやり方だったらしいのですが、その店主はそのようなことをせずに商品をその本来

    返信削除
  19. たとえば、小売り商人が不慣れな買い手に高い値段をふきかけないとすれば、それは確かに義務に合致した行為である。そして売買

    返信削除
  20. 『道徳形而上学の基礎づけ』第一章で正価で販売する商店主の例をあげていました。不慣れな客には値段をつりあげて売るというのが当時の商売のやり方だったらしいのですが、その店主はそのようなことをせずに商品をその本来

    8:48 午後
    yoji さんは書きました...
    たとえば、小売り商人が不慣れな買い手に高い値段をふきかけないとすれば、それは確かに義務に合致した行為である。そして売買

    返信削除
  21. 【カナダ】映画「預言者ムハンマド」が非イスラム教徒にも歓迎[09/03] [転載禁止]©2ch.net
    1 :虎跳 ★:2015/09/03(木) 11:48:11.46 ID:???
    カナダで、映画「預言者ムハンマド」が非イスラム教徒にも歓迎

    カナダで、イラン映画「預言者ムハンマド」が、イスラム教徒以外の人々に歓迎されています。

    イランのコーラン専門の通信社・イクナー通信によりますと、イランの著名な映画監督マジード・マジーディ氏の映画「預言者ムハンマド」が、テヘランでの上映の数日後に、カナダのモントリオール国際映画祭で大好評を博しているということです。
    このため、この映画の入場券は数日前に完売しました。
    この映画の観客の多くはイスラム教徒以外の人々だったということです。
    映画「預言者ムハンマド」は、イランの150の映画館で上映中です。

    イランラジオ日本語
    http://japanese.irib.ir/news/culture-society/item/57717
    画像
    http://japanese.irib.ir/media/k2/items/cache/e6975cc8bfc45266a1d8b4d92eb43819_XL.jpg

    2 :七つの海の名無しさん:2015/09/03(木) 11:49:40.67 ID:SDtTHnsU

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