(リンク::::::::::、本頁、監視社会、思考集成、言葉と物、性の歴史、ドゥルーズ『フーコー』)
NAMs出版プロジェクト: Foucault (1986)『フーコー』ドゥルーズ:目次
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/foucault-1986.html
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_13.html(本頁)
言葉と物 Les mots et les choses (ミシェル・フーコー Michel Foucault)1966
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html
Michel Foucault : la justice et la police(付『監獄の誕生』1975目次)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/blog-post_21.html
フーコー『性の歴史』Histoire de la sexualité 1976-1984:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/histoire-de-la-sexualite-1976-1984.html
NAMs出版プロジェクト: Foucault (1986)『フーコー』ドゥルーズ:目次
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/foucault-1986.html
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html
NAMs出版プロジェクト: G・ドゥルーズ 「批評と臨床」
NAMs出版プロジェクト: フーコーと行動システムhttp://nam-students.blogspot.jp/2012/11/blog-post_13.html(本頁)
フーコー『狂気の歴史』 Foucault, Michel . Histoire de la folie à l'âgeclassique .1961
http://nam-students.blogspot.jp/2016/01/foucault-michel-histoire-de-la-folie-l.html言葉と物 Les mots et les choses (ミシェル・フーコー Michel Foucault)1966
http://nam-students.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html
Michel Foucault : la justice et la police(付『監獄の誕生』1975目次)
http://nam-students.blogspot.jp/2014/03/blog-post_21.html
フーコー『性の歴史』Histoire de la sexualité 1976-1984:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/histoire-de-la-sexualite-1976-1984.html
イオンとイオニア、パレーシアとイソノミア
フーコー・コレクション4より
パーソンズが思想家を分類した図↓☆で、行動システムの項だけが空白だった。ウェーバーもしくはモースを入れてもいいと思っていたが、フーコーがあてはまることに最近思い当たった。
|人格システム|社会システム
|フロイト |マルクス
有機体システム | 行為システム
判断力批判 |____実戦理性批判____
|行動システム|文化システム
| ? |デュルケム
_________|______|_______
|
物理・化学システム| 究極システム
純粋理性批判 | スピノザ
|
|
(社会システムには柄谷の交換図が対応する。)
前期フーコーはグラムシの後を継いで文化システム(上記図ではデュルケム)に対応するが、
後期フーコーは行動システムを研究したと見ていい(さらに最初期を考えれば、人格システムの相対化を心理学批判において成し遂げようとしていたし、カントの三批判書を人間学批判において相対化していた。晩年は究極システムへ興味を広げていた)。
法(社会システムの左上に位置する。上図では省略)からはみだす人間の行動に彼は興味を示すのだ。
そのことは彼がかかわった映画に関するインタビューからもわかる。
http://www.dailymotion.com/video/k7bEl5c8BkVvdh2GERN
採用されたのは以下。()内はカットされている。
(邦訳『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』 より)
「いずれにしろこのディスクールは、考えられるあらゆる攻略方法をあまりに見事に逃れてしまっています。
ですから事件の核心そのものについて、この犯罪、この行為について、無限に後退した位置から発言する以外、
どうしようもありません。なんにせよこれは、犯罪史においてもディスクールの歴史においても、比べる
ものがないような現象です。この犯罪は一つのディスクールに伴われているわけですが、そのディスクールが
あまりに強く、あまりに奇妙なせいで、犯罪というものがついには存在になくなってしまう、ついには
逃れ去ってしまうのです。そのディスクールが、犯罪を犯した本人がその犯罪について書いたものである
という事実によって、そうなのです。」(127ー8頁)
「アリオのフィルムの重要性としては、農民たちにその悲劇を与えたという点もありますね。十八世紀までの
農民の悲劇は、最終的には飢餓の悲劇でした。ところが十九世紀からは、そしておそらく今でもそうなので
すが、それはあらゆる偉大な悲劇と同様に、法の悲劇、法と土地の悲劇なのです。(ギリシア悲劇とは、法の誕生
と、法が人間に与えた致命的な効果を語る悲劇です。リヴィエール事件は一八三六年、つまり民法施行から約二
十年後に起きました。)農民は日常生活の中で新しい法を押し付けられ、この新しい法体系の中で争っていたわけ
です。リヴィエールのドラマはまるごと法のドラマであり、法典の、法律の、土地の、結婚の、あるいは財産の
ドラマなのです。ところが農民の世界は、いつでもまさにこの悲劇の内側で動いています。(だから肝心なのは、
現在の農民たちに、彼らの生活のそれでもあるこの古いドラマを演じさせることであるわけです。古代ギリシア
の市民たちが、舞台の上に自分たち自身の都市を見ていたのと同じことなのです。)」(130頁)
Michel Foucault A propos de Pierre Rivière, par Pascal Kané. (1976)
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
ミシェル・フーコーとの対話
P・カネとの対話。R・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが......』に 関して
A propos de Pierre Rivière, le film du tournage, réalisé par Pascal Kané. (25min - 1976)より
参考:
フーコー著『カントの人間学』(新潮社)=書評
重要なのは7章の「源泉・領域・限界」の『論理学』と『オプス・ポストゥムム』(遺稿、遺作)に触
れた箇所だろう。
『論理学』での文法上の
「主語」「述語」「繋辞」(96頁)がそれぞれ、
『オプス・ポストゥムム』の
「源泉・領域・限界」、
つまり
「神」「世界」「人間」(94頁)に対応し、
さらに『第一批判』の
「理性」「知性」「感性」(106頁)、
全体系では
「純粋理性」「実践理性」「判断力」(106頁)に対応する、という指摘は参考になった。
人 間 学
神_____人間___ 世界 遺稿
(源泉) (限界) (領域)
主語_____繋辞____述語 論理学
理性_____感性____知性 能力
純粋理性批判_判断力批判_実践理性批判 批判書(↑レベル)
(三幅対を強調すれば以下の図のようになるだろう)
神 _________ 世界 遺稿
(源泉)|\ /|(領域)
| \人 間 学/ |
主語|__\ /__|述語 論理学
|\ \人間 /|
| \ (限界)/ |
理性|__\ | /__|知性 能力
|\ \繋辞 /|
純粋 | \ | / |実践
理性批判|__\_|_/__|理性批判 批判書(↑レベル)
\ \感性 /
\ | /
\ | /
\判断力批判
あるいは(ア・プリオリな認識の場所を強調した場合)、
_________
感性| 人 /|判断力
/ | 間 / |
/知性__学___ / |実践理性
人間(限界)| | |繋辞 |
|_理性|_____|___|純粋理性_______
世界(領域)| | |述語/| ア
| 能力|_____|_/_|批判書 プ・
神(源泉)_|_ /______|主語/______リ__
| / | / オ
遺稿 |/________|論理学 リ
全体系は、
__________________________________
/| /| 人 (教育論/認識)/|オ
/ | / | / |
/ | / | / |プ
/___|____________間___|____________/ |
/| | /| | (快、不快) /| |ス
/ | | / | | / | |
/ (欲求) | 学 / (性格論)| / | |・
/___|___|________/___|___|________/ | |
| | | | | | | | |ポ
|永 | | | | | | | 論|
|遠 | | | | | | | |ス
|平 | |_______|____|___|_______|____|__理|
|和 | /| | | /| | | /|ト
|の | / | 自 然| の |形/ |而 上 |学 | /学|
|た |/ | | |/ | | |/ |ゥ
|め |___|_______|____|___|_______|____| |
|に /| | (徳|論) /| | | /| |ム
| / |人 倫|の | / |理性の限界内における | / | |
| /(法学) |形 而 上 学| /宗教(目的論) | / | |ム
|/___|___|_______|/___|___|_______|/ | |
| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
| | |_______|____|___|_______|____|___|
| | / | | /(空間)(時間)|(数学)| /
| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 | | /
| |/ | |/(物理学) | |/
| |___________|____|___________|____/
| / (倫理|学) / (美|学) /
| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| / | /(目的論) | /
|/_______________|/_______________|/
同縮小バージョン:
__________________________________
/| /| 人 (教育論/認識)/|オ
/ | / | / |
/ | / | / |プ
/___|____________間___|____________/ |
/| | /| | (快、不快) /| |ス
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|遠 | | | | | | | |ス
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|に /| | (徳|論) /| | | /| |ム
| / |人 倫|の | / |理性の限界内における | / | |
| /(法学) |形 而 上 学| /宗教(目的論) | / | |ム
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| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 | | /
| |/ | |/(物理学) | |/
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| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| / | /(目的論) | /
|/_______________|/_______________|/
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Les mots et les choses (Michel Foucault, 1966) [LMELC]
Les mots et les choses (Michel Foucault, 1966) [LMELC]
p7 : Préface
I.
p19 : Ch. I : Les suivantes
p32 : Ch. II : La prose du monde
p60 : Ch. III : Représenter
p92 : Ch. IV : Parler
p137 : Ch. V : Classer
p177 : Ch. VI : Echanger
II.
p229 : Ch. VII : Les limites de la représentation
p262 : Ch. VIII : Travail, vie langage
p314 : Ch. IX : L'homme et ses doubles
p355 : Ch. X : Les sciences humaines
ミシェル・フーコー「言葉と物」
書名:言葉と物-人文科学の考古学(原題:Les Mots et Les Choses)
著者:ミシェル・フーコー
訳者:渡辺一臣・佐々木明
出版:新潮社、初版1974年6月(原書1966年)
著者:ミシェル・フーコー
訳者:渡辺一臣・佐々木明
出版:新潮社、初版1974年6月(原書1966年)
《目次》
序
第一章 侍女たち
一 (小見出しなし)
ニ (小見出しなし)
ニ (小見出しなし)
第二章 世界という散文
一 四種の相似
ニ 外徴
三 世界の限界
四 物で書かれたもの
五 言語(ランガージュ)の存在(エートル)
ニ 外徴
三 世界の限界
四 物で書かれたもの
五 言語(ランガージュ)の存在(エートル)
第三章 表象すること
一 ドン・キホーテ
ニ 秩序
三 記号(シーニュ)の表象作用
四 二重化された表象
五 類似性の想像力
六 「マテシス」と「タクシノミア」
ニ 秩序
三 記号(シーニュ)の表象作用
四 二重化された表象
五 類似性の想像力
六 「マテシス」と「タクシノミア」
第四章 語ること
一 批評と注釈
ニ 一般文法
三 動詞の理論
四 分節化
五 指示作用
六 転移
七 言語(ランガージュ)の四辺形
…いまや、古典主義時代の経験における言語(ランガージュ)の強固で緊密な統一性が何であるか、把握することができるだろう。言語(ランガージュ)とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係のなかにおさめるものである。つまり、《ある(エートル)》という動詞を基礎とし《名》の綱目によって顕示される、同一性と相違性の体系のなかにおさめるのだ、古典主義時代における「言説(ディスクール)」の基本的任務は、《物に名を付与し、この名において物の存在(エートル)を名ざす》ことである。二世紀にわたって西欧の言説(ディスクール)は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在(エートル)を目指すとき、哲学、すなわち認識の理論および観念の分析であり、表象された個々の物に適切な名を付与し、表象の場全域にわたって「よくできた言語(ラング)」の綱目を張りめぐらすとき、学問-すなわち、名称体系と分類法-だったわけだ。
ニ 一般文法
三 動詞の理論
四 分節化
五 指示作用
六 転移
七 言語(ランガージュ)の四辺形
…いまや、古典主義時代の経験における言語(ランガージュ)の強固で緊密な統一性が何であるか、把握することができるだろう。言語(ランガージュ)とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係のなかにおさめるものである。つまり、《ある(エートル)》という動詞を基礎とし《名》の綱目によって顕示される、同一性と相違性の体系のなかにおさめるのだ、古典主義時代における「言説(ディスクール)」の基本的任務は、《物に名を付与し、この名において物の存在(エートル)を名ざす》ことである。二世紀にわたって西欧の言説(ディスクール)は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在(エートル)を目指すとき、哲学、すなわち認識の理論および観念の分析であり、表象された個々の物に適切な名を付与し、表象の場全域にわたって「よくできた言語(ラング)」の綱目を張りめぐらすとき、学問-すなわち、名称体系と分類法-だったわけだ。
第五章 分類すること
一 歴史家はどう言うか
ニ 博物学
三 構造
四 特徴(カラクテール)
五 連続体と天変地異
六 畸型と化石
七 自然の言説(ディスクール)
ニ 博物学
三 構造
四 特徴(カラクテール)
五 連続体と天変地異
六 畸型と化石
七 自然の言説(ディスクール)
第六章 交換すること
一 富の分析
ニ 貨幣と価格
三 重商主義
四 担保と価格
五 価値の形成
六 有用性
七 全体的な表(タブロー)
八 欲望と表象
ニ 貨幣と価格
三 重商主義
四 担保と価格
五 価値の形成
六 有用性
七 全体的な表(タブロー)
八 欲望と表象
第二部
第七章 表象の限界
一 歴史の時代
ニ 労働という尺度
三 生物の組織
四 語の屈折
五 観念学と批判哲学
六 客体の側における綜合
ニ 労働という尺度
三 生物の組織
四 語の屈折
五 観念学と批判哲学
六 客体の側における綜合
第八章 労働、生命、言語(ランガージュ)
一 新たなる経験的諸領域
ニ リカード
三 キュヴィエ
四 ボップ
五 客体となった言語(ランガージュ)
ニ リカード
三 キュヴィエ
四 ボップ
五 客体となった言語(ランガージュ)
第九章 人間とその分身
一 言語(ランガージュ)の回帰
ニ 王の場所
三 有限性の分析論
四 経験的なものと先験的なもの
五 コギトと思考されぬもの
六 起源の後退と回帰
七 言説(ディスクール)と人間の存在(エートル)
八 人間学的眠り
ニ 王の場所
三 有限性の分析論
四 経験的なものと先験的なもの
五 コギトと思考されぬもの
六 起源の後退と回帰
七 言説(ディスクール)と人間の存在(エートル)
八 人間学的眠り
第十章 人文諸科学
一 知の三面角
ニ 人文諸科学の形態 ☆
三 三つのモデル
四 歴史
五 精神分析、文化人類学
六 (小見出しなし)
ニ 人文諸科学の形態 ☆
三 三つのモデル
四 歴史
五 精神分析、文化人類学
六 (小見出しなし)
あとがき
索引
☆
ドゥルーズがA.Oで参照しているのは第十章2の中段から。
《(22)フーコーが指摘していることは、次のことである。「人文
諸科学」はその原理を生産の中に見いだし、表象が破綻した
ところに構築されたものであるが、しかし、これらの人文諸
科学は、無意識の表象といったものとして新しい型の表象を
再建しているのだ、ということである。(Les Mots et les
choses, pp. 363-378).》(邦訳単行本A.O,508頁)
諸科学」はその原理を生産の中に見いだし、表象が破綻した
ところに構築されたものであるが、しかし、これらの人文諸
科学は、無意識の表象といったものとして新しい型の表象を
再建しているのだ、ということである。(Les Mots et les
choses, pp. 363-378).》(邦訳単行本A.O,508頁)
http://hospitality.jugem.jp/?eid=326
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フーコーとチョムスキー:権力関係対正義 (1)
2008.10.08 Wednesday | category:c:政治・経済・社会
JUGEMテーマ:学問・学校
1974年に、フーコーとチョムスキーが討議している。
このズレは、人間性と政治問題との関係をめぐる課題であるが、
フーコーは人間性を巡っては同じであったが、
人間性と政治との関係においては対立したといっているが、そうではない、
人間本性を設定すること自体において最初からズレ・対立している。
チョムスキーは、人間には創造性がある、驚くべき多数の能力がある、
自分の考えを表明し、他者の言葉を理解できる、
この高度な分節化され組織化された能力の複雑な総体を使いこなして個々の経験すると考える。
子どものころからそうであり、また科学的な創造をなしうると、
理想的な創造人間がありうるとする。
だが、フーコーは、科学の概念や考えは、
歴史に規制された権力関係の網の目の中にあるにすぎず、
認識論的解読格子におかれているにすぎないとする。
創造的人間なる一般はないとみなす。認識は、帰属と真理を守るパワー関係にしかない、
そして、認識主体は真理に到達するうえで、集合的表象、共通思想、
神話的偏見をのりこえながら、奇妙な位置におかれる、と。
したがって、理解の諸変化を、知の発見の歴史におきかえていかねばならないとなる。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm05.htm
返信削除『ミシェル・フーコー思考集成Ⅴ 1974-1975 権力/処罰』
◆132 人間的本性について一正義対権力 石田英敬・小野正嗣訳
(N・チョムスキー、F・エルダースとの討議、アイントホーヘン、一九七一年九月。翻訳A・ラビノヴィッチ)、F・エルダース編『返り水-人類の基本的関心』ロンドン、スーヴェニア・プレス、135-197ページ(オランダのテレビによる、フランス語と英語による討議。一九七一年九月にアイントホーヘン高等技術学校にて収録)。
「フーコー一(…)スピノザの言葉を使ってあなたにお答えしましょう。私があなたに申し上げたいのは、プロレタリアートは、自分たちの闘いが正しいと考えているから支配階級と闘っているわけではない、ということです。プロレタリアートが支配階級と闘うのは、歴史においてはじめて、彼らが権力を奪取したいと望んだからなのです。そして、支配階級の権力を転覆させたいがゆえに、この闘いが正しいのだと考えるのです。
チョムスキー一同意しかねますね。
フーコー一人は勝つために闘うのであって、それが正当だからなのではありません。」(本文より)
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm
返信削除Foucault, Michel[ミシェル・フーコー]
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
返信削除Foucault, Michel『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
(P・カネとの対話)、「カイエ・デュ・シネマ」誌、二七一号、一九七六年十一月、52-53ページ(P・カネがR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』に関して製作した短編映画の中での対話を書き取ったもの)。
「ご存じの通り、農民に関する文学というのは沢山あります。しかし農民の文学、農民の表現というのは多くはありません。ところがここにあるのは、一八三五年に一人の農民によって書かれた、農民自身の言語によって書かれたテクストです。これはつい今しがた読み書きを覚えた一人の農民の言語なのです。そして今、現在の農民たちに、自分自身で、自分自身の方法で、結局はごく近い世代のものであるドラマを演ずる可能性が与えられました。(中略)そして農民たちに農民のテクストを演ずる可能性を与えるということは、政治的な意味でも重要だと言ってかまわないでしょう。」(本文より)
http://nam-students.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html
返信削除フーコーと映画
柄谷哲学の起源岩波
返信削除233頁(217頁)関連:
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012060300010.html?guid=on
ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気 自己と他者の統治2 [著]ミシェル・フーコー - 柄谷行人(評論家) - 書評
■「真の生」開く哲学、ソクラテスに探る
本書はフーコー最晩年(1984年)の講義録であり、その主題は「パレーシア」である。それはギリシャ語で「真理を語る」という意味だ。真理を語るといっても、いろんなケースがある。真理を語ることによって、相手との関係が損なわれたり、自分の身が危うくなる場合がある。パレーシアとはそのような場において真理を語ることである。だから、パレーシアには「勇気」がいる。
なぜフーコーはこのことを考えるようになったのか。それは哲学の意味を問い直すためである。今日、哲学は知識を厳密に基礎づける仕事として存在している。それはプラトン以来の哲学がたどった道である。フーコーはそれに異議を唱える。哲学は「真の生」を開示するものであった、と彼はいいたいのだ。そして、彼は、「ソクラテス以前の哲学」に向かった同時代の傾向に反して、その手がかりをソクラテスに見いだそうとする。
ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。
そのような伝統がソクラテスに由来することは否定できない。しかし、ソクラテスには別の側面がある。フーコーはそれを受け継ぐ者を、キュニコス派(犬儒派)のディオゲネスに見た。彼にはさまざまな伝説がある。彼を犬扱いした相手に、小便をかけてまわった。物乞いし、樽(たる)の中に住んだ。人前で自慰をした、等々。こうしたエピソードは、彼のスキャンダラスで戦闘的な言動がパレーシアであったことを物語っている。事実、プラトンは彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。
フーコーによれば、キュニコス主義は古典古代において嫌悪されながら重視され続けた。そして、それはやがて、キリスト教の修徳主義(ドミニコ会やフランシスコ会)に取り入れられた。つまり、パレーシアや哲学的な「生」は、哲学よりむしろ宗教のほうに残ったのである。その後も消えることはなかった。近代では、それは芸術家の生き方や「極左主義」というかたちをとったと、フーコーはいう。30年後の今日、それは消えてしまっただろうか。
◇
慎改康之訳、筑摩書房・6195円/Michel Foucault 1926〜84。フランスの哲学者・思想家。著書に『狂気の歴史』『性の歴史』など。本書はコレージュ・ド・フランスでの講義録(講座名は思考諸体系の歴史)の一部(邦訳は全13冊)。
_資本論
返信削除/___/|
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文学☆☆☆ | |
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| | /デュルケ|ム| / ウェーバー /|
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| | | |アドルノ|
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|永 | | ドゥルーズ| | | | | 論|
|遠 | | ハイデガー| ライプニッツ | | |ス
|平 | |_______|____|___|_______|____|__理|
|和 | /| | | /| | | /|ト
|の | / | 自 然| の |形/ |而 上 |学 | /学|
|た |/ | | |/ | | |/ |ゥ
|め |___|_______|____|___|_______|____| |
|に /| | (徳|論) /| | | /| |ム
| / |人 倫|の | / |理性の限界内における | / | |
| /(法|学) |形 而 上 学| /宗教(目的論) | / | |ム
|/___|___|___(原論)|/___|___|_______|/ | |
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| | | | ヘーゲル | | | |
| | |_______|____|___|_______|____|___|
| | /(テリックシステ|ム) | /(空間)(時間)|(数学)| /
| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 |カテゴリ|ー/
| |/(ス ピ ノ ザ )| |/(物理学) | |/
| |___________|____アンチノミー______|____/
| / | / (美 学) | /
| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| /(倫理学/徳or福) | / | /
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_資本論
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文学☆☆☆ | |
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| | ___|_|______フーコー
| | /デュルケ|ム| / ウェーバー /|
| |/_____|_|/_______/ |
| / マルクス | / フロイト / |
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| | /(テリックシステ|ム) | /(空間)(時間)|(数学)| /
| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 |カテゴリ|ー/
| |/(ス ピ ノ ザ )| |/(物理学) | |/
| |___________|____アンチノミー______|____/
| / | / (美 学) | /
| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| /(倫理学/徳or福) | / | /
|/_______________|/__________(目的論)|/
フーコーとチョムスキー 人間本性について(日本語字幕)1/2
返信削除http://www.youtube.com/watch?v=iWaTtRvH7LA&feature=youtube_gdata_player
フーコーとチョムスキー 人間本性について(日本語字幕)2/2
http://www.youtube.com/watch?v=RbXCgZVzBKI&feature=youtube_gdata_player
音楽、建築、原発、政治、中国、歴史、分類、図像学
返信削除文学、東洋思想、プラトン、アリストテレス、リンク:::::
カントの「人間学」- カントの人相術もすこし 2012,1加筆修正版: こういちの人間学ブログ
http://koiti-ninngen.cocolog-nifty.com/koitiblog/2011/11/--2011-8232.html
これは、人間学研究所にある、カントの『人間学』の翻訳です。右の小さい本が岩波文庫版で今では貴重です。一番左が渋谷治美氏の最新岩波書店版です。
カントの『実用的見地の人間学』の基本的な立場については、「こういちの人間学」ブログの2009,8,13日付の「l実用的人間学とは、カントの~人間学」に書きました。序文の自分の人間学はどのような立場であるかということです。ここでは、その「人間学」の中にどのようなことが書かれているか紹介します。
◎本は『人間学』 カント 坂田徳男訳 昭和27年(1952)岩波文庫版をもとにしています。
『人間学』の第一部は人間学的教授学で、人間の外部や内部を認識する方法について書かれています。
第一編は認識能力についてです。
その第一に、人間が自我を持っているために、人格を持ち、意識の統一性を持っている、というところから始まります。
利己について、自分自身の観察について、感性と悟性など、認識論の諸問題が書かれています。面白いのは、預言者的天賦という項目があリます。それには、預言(経験則による自然的なもの)占言(既知の経験則に反したもの)、霊的預言(超自然的なものにもとずく霊感)に分けられるという。自分は超自然的な洞察をすると言ったら、彼は占いをするものと言わなければならない。カントは占いの欺瞞について述べ否定をしています。理性、悟性を重視するカントらしい立場です。
認識能力に関しての、心の弱さ、病気というところではいろいろな例が示されています。精神薄弱とか愚鈍とか精神病などについていろいろ書かれています。精神医学のもとになるような記述です。また逆にさまざまな才能についても書かれています。天才とは何かなども書かれています。
第二編は 快・不快の感情についてです
快には感性的快と知性的快があるという。
趣味とは何かについて、いろいろのべられています。理想的な趣味は道徳性の外的促進に向かう傾向を含むものであるという。趣味に対する人間学的注意ということに関して、具体的に流行趣味について、芸術趣味についてと書かれています。
最後に贅沢についてで。贅沢とは、共同体において、趣味を持って営まれる社交的逸楽的生活の過度である。これはなくてすませる浪費であり、趣味を伴わない場合は耽溺という。耽溺は人を病的にする。 いろいろと言葉の定義と、具体例が多いのですが、訳が固いのでかなり難しく感じてしまいます。最近の全集の中の人間学の訳はもう少しわかりやすくなっています。
◎ 例 カント全集 15 「人間学」 渋谷治美訳 2003年11月27日 岩波書店
第三篇 欲求能力について
欲望とは、その結果として生じた、ある未来のものの表象によって主観の力が自らを規定することである。難しい表現ですね。理性で抑えられないことを激情と言います。どうするか決まらないが現在での快不快の感情は情緒という。情緒が多ければ激情は少ない。
フランス人はその快活さによって、イタリア人やスペイン人、インド人中国人より気分が変わりやすい、しかし後者は深く恨みを抱き復讐を試みる、などと書いています。 他人を自分の思い通りにしたいという欲望な表れとして、名誉欲、支配欲、所有欲がある。
善についても書かれています。善には自然的善、と道徳的善とがある。 交際において、逸楽と徳とを合致せしめるという心術が人間性である。真の人間性と、まだしももっともよく調和するように思われる逸楽生活は、よき会食者達と共にとる食事(サロン)である。~ただ一人で食事することはいやしくも哲学する学者にとっては、不健康である。
カントは、親しい人たちと会食しながら会話することを何より楽しみにしていました。そのメンバーは学者だけではなく様々な人たちがふくまれていました。何か気難しそうに見えるカントは、じつは楽しく会食し、ユーモアにあふれた人だったのです。
第二部 人間学的性格記述 (人間の内部を外部より認識する方法について)
分類 1.個人の性格 2、両性の性格 3、民族の性格 4、人類の性格
返信削除第二部 人間学的性格記述 (人間の内部を外部より認識する方法について)
分類 1.個人の性格 2、両性の性格 3、民族の性格 4、人類の性格
①個人の性格では、気質について4つの基本型についてせつめいしています。気質や性格に関してのべていることはのちの心理学のもとになる考察をたくさん含んでいます。
個人の性格のなかに「観相術について」という項目があリます。観相術とは、「ある人の可視的形態から、したがって外的なものからその人の内的なもの(心)を測定する技術である」と定義しています。人相術の好きな筆者にとって大変面白いと思ったところなので、ご紹介します。カントはいいます。「人相から人の性格をのべることはできるがこれは決して一つの科学となるものではない」と。これは概念的にのべられるものではなく、直感的にのべられることだからだと言っています。
観相術の分類として、A顔立ち、B容貌、C習慣的な顔の表情に示された性格的なものについての三つがのべられています。
いくつか書いてみます。
1、どこもかも、整った規則正しい顔は精神を欠いて、ごく平凡な人間であることを示す
2、醜悪というのは、物を言うや否や陰険な笑いを浮かべる人、面と向かって相手の顔を覗き込み、自己に関する相手の判断などはものの数ともしない鉄面皮なそぶりをする人である。怪奇な恐ろしい顔をしている人でも、自分の顔について冗談を言えるほどの善良で快活な心を示していることがある。そういうのは決して醜いとは言わない顔である。また身体的に問題のある人を軽蔑することに、カントは怒りを覚えています。又、自国民以外の人たちの顔を、嘲笑する傾向がある。それをカントは非難しています。
3、表情とは活動している容貌である。情緒の印象はいかなる表情をもってしても隠しておくわけにはいかない。いかに苦心しても覆い隠すことができない。 その他いろいろ興味深い考察が書かれています。
②、両性の性格 男女の違い、特に女性に対しての考察がいろいろ書かれています 女性には、文化にとってなくてはならぬ繊細な感覚ーすなわち社交性と礼儀正しさに対する感覚を持っていること。男性は女性によりしつけよき礼儀をもつことになったと評価し、女性による社会の教化、および醇化という大きな役割を果たしていると評価しています
③ 民族の性格 各国国民の傾向について様ざまにのべています。民族学、人類学のもとにもなる考察です。
④ 人類の性格 人間は理性能力を与えられた動物として自己みずからを理性的動物たらしめる。人類が、教化によって文明化すること、人間は訓育並びに錬成(規律)に関して教育が可能であるし、又これを必要とする。 人間は生来上善である。とはいえ、人間は悪をあえておかそうとする。人間の本分に関して実用的人間学が達した総括的結論と人間の完成過程に関する特性は、人間が自己の理性によって定められた本分は~芸術やもろもろの学問により文明化し道徳化するにある。~ゆえに人間は善に行くように教育されねばならぬ、しかるに人間を教育するものはこれまた人間である、すなわちいまだに生来の粗野な状態にありながらもしかも、彼自身の必要とするところのものを実現せねばならぬ人間なのである。
そして最後に、人類の意欲は一般的には善であるが、その実現には世界公民的に結合せられた一つの組織としての人類において、又かかるものとしての人類足らんとして、進歩してゆく世界市民の有機的組織によってのみ可能である。
この言葉が、「実用的人間学」の最後の言葉です。カントは認識論始め、いろいろ論及を続けた結果、最後には「人間とは何かと」いう「人間学」に帰結するとしとて最晩年にこの講義をし、本を書きました。カントの「人間学」は哲学界では俗的な軽いものであると大変低い評価を受けています。しかしそれは過ちであると思います。カントは単なる人間はこうこうであると、定義づけるとか、こうしなさいとかのべているのではありません。この世の中で人間としてよりよく生きるための世間知としてこの本を書きました。そして人間が理性的になるように教育され、人間をもっとも不幸にする戦争をなくすために、国々が連合し、今の国際連合のようなものを作るべきだと別の本(『恒久平和のために」その第三条で常備軍の廃止を説いています)で強調しています。残念ながら、現在も国際連合はあっても、カントの望んんだような平和な社会には到底なっていません。
カントの流れをくんだ「実用的人間学」を主張する私の人間学も、当然カントの願いを継承していくものでなければなりません。
★渋谷治美氏の全集の「人間学」の解説 分かりやすい訳で
よくまとめられているので掲載します。2011年11月追記
実用的人間学とはどのようなものか P518
(1)人間とは、文化(陶冶・洗練)を通して自己教育していく地上に生存する理性的生物であると認識すること(カントはこれを「世界知」としたー岩波文庫では世間知と呼び換えている)が実用的人間学の目標である。
(2)「実用的な人間学」の特徴は、人間は自由の主体として自ら何を形成し何をすべきかの究明にあること
(3)人間を「世界市民」とみなす視点にこそ実用的人間学の神髄があること
が表明されている。(訳によっては「世界公民」としているものがあります)
★ 2012年1月 追記 訳の違いを見る
1)坂田徳男訳 岩波カント著作集16 1937年 邦訳の始め
世界公民 実用的見地と自然学的見地
2)坂田徳男 岩波文庫版 1952年(上記を一部改訳)
世界公民 実用的見地と自然的見地
3)山下太郎 理想社 1966年 カント全集第14巻
世界公民 実用的見地と生理学的見地
4)清水 清 玉川大学出版部 1969年 世界教育宝典
世界公民 実用的見地と生理的見地
5)塚崎 智 河出書房新社 1983年 世界の大思想2
世界公民 実際的見地と生理学的見地
6)渋谷治美 岩波書店 2003年 カント全集15
世界市民 実用的見地と自然学的見地
人間学は第一と第二の間を第三が取り持つ構成
返信削除NAMs出版プロジェクト: 人倫の形而上学:付リンク
http://nam-students.blogspot.jp/2012/08/blog-post_2934.html
『人間学』 カント 坂田徳男訳 昭和27年(1952)岩波文庫版
返信削除第一部 人間学的教授学(人間の外部や内部を認識する方法について書かれています)
第一編 認識能力について
第二編 快・不快の感情について
第三篇 欲求能力について
第二部 人間学的性格記述 (人間の内部を外部より認識する方法について)
分類 1.個人の性格 2、両性の性格 3、民族の性格 4、人類の性格
④ 人類の性格 人間は理性能力を与えられた動物として自己みずからを理性的動物たらしめる。人類が、教化によって文明化すること、人間は訓育並びに錬成(規律)に関して教育が可能であるし、又これを必要とする。 人間は生来上善である。とはいえ、人間は悪をあえておかそうとする。人間の本分に関して実用的人間学が達した総括的結論と人間の完成過程に関する特性は、人間が自己の理性によって定められた本分は~芸術やもろもろの学問により文明化し道徳化するにある。~ゆえに人間は善に行くように教育されねばならぬ、しかるに人間を教育するものはこれまた人間である、すなわちいまだに生来の粗野な状態にありながらもしかも、彼自身の必要とするところのものを実現せねばならぬ人間なのである。
返信削除そして最後に、人類の意欲は一般的には善であるが、その実現には世界公民的に結合せられた一つの組織としての人類において、又かかるものとしての人類足らんとして、進歩してゆく世界市民の有機的組織によってのみ可能である。
返信削除1798年 - 『実用的見地における人間学』
Amazon.co.jp: ピエール・リヴィエール---殺人・狂気・エクリチュール (河出文庫): ミシェル・フーコー, 慎改 康之, 柵瀬 宏平, 千條真知子, 八幡恵一: 本
返信削除内容紹介
十九世紀フランスの小さな農村で一人の青年が母、妹、弟を殺害した。青年の手記と事件の考察からなる、フーコー権力論の記念碑的労作であると同時に希有の美しさにみちた名著の新訳。
内容(「BOOK」データベースより)
犯罪と精神医学との関係をめぐる研究の過程で、十九世紀フランスの小さな農村に住む一人の青年が母、妹、弟を殺害した事件に出会ったフーコーらは、この殺人犯が残した手記の美しさに驚嘆し、手記を含む訴訟資料の一式および事件に関する論考を一冊にまとめた。フーコーにおける権力と知の分析にとっての記念碑的労作であると同時に希有の強度にみちた名著を、最新の研究成果をふまえて新訳。
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登録情報
文庫: 502ページ
出版社: 河出書房新社 (2010/8/4)
ISBN-10: 4309463398
ISBN-13: 978-4309463391
発売日: 2010/8/4
Moi Pierre Rivière Ayant égorgé Ma Mère, Ma Sœur Et Mon Frère... - Film 1976 (Documentaire) - Comme Au Cinéma
返信削除http://www.commeaucinema.com/film/moi-pierre-riviere-ayant-egorge-ma-mere-ma-s-ur-et-mon-frere,11167
A propos de Pierre Rivière, le film du tournage, réalisé par Pascal Kané. (25min - 1976)より
Moi Pierre Rivière ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère... en DVD le 08 Novembre 2007
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Le DVD
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Un film de René Allio avec Claude Hebert, Jacqueline Millière
(France)
Genre : Documentaire - Duree : 2H5 mn
Distributeur : Les Films du Losange - Editeur DVD : INA
Sortie à la Vente en DVD le 08 Novembre 2007
Sortie en salles le 24 Octobre 2007
(Reprise, Première sortie le 27 Octobre 1976)
Année de production : 1976
Résumé du film Moi Pierre Rivière ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère...
En Normandie, à la Faucterie, le 3 juin 1835, Pierre Rivière, un jeune homme de vingt ans, assassine sa mère, sa sœur et son plus jeune frère, à coups de serpe, avant de prendre la fuite. Pendant plus d'un mois, Pierre va errer dans le bocage et au bord de la mer, se nourrissant d'herbes, de mollusques, de racines et de quelques animaux malhabilement capturés, avant d'être enfin arrêté. Au cours de son instruction, puis de son procès, Pierre dévoile les véritables motifs de son triple crime : les souffrances de son père, la méchanceté, la tyrannie et la cupidité de sa mère. Il parle de la ferme, de leur existence quotidienne, des durs travaux, des constantes disputes. Le mémoire qu'il rédige en prison apporte enfin des éclaircissements sur son comportement singulier, ses motivations et sa vraie nature. Accusé de parricide, il est finalement condamné à mort et voit sa peine commuée en détention perpétuelle. C'est alors qu'il décidera de se pendre pour expier sa faute.
Rechercher les séances : Moi Pierre Rivière ayant égorgé ma mère, ma sœur et mon frère...
http://www.amazon.fr/Pierre-Rivi%C3%A8re-ayant-%C3%A9gorg%C3%A9-soeur/dp/B000YHGBB6
返信削除Moi, Pierre Rivière ayant égorgé ma mère, ma soeur et mon frère...: Amazon.fr: Rene Allio: DVD & Blu-ray
The trailer for John Huston's UNDER THE VOLCANO
返信削除(窓)http://www.youtube.com/watch?v=emo4ShoErx0
/////////
Moi, Pierre Rivi?re, ayant ?gorg? ma m?re, ma soeur et mon fr?re
Ren? Allio
(窓)http://fr.movies.yahoo.com/m/moi-pierre/index-3442327.html
(窓)http://cinema.translocal.jp/2007-11.html#2007-11-28_1
(窓)http://d.hatena.ne.jp/pop1280/20080218/1203323526
フーコーはこの映画のロケにも来た。農民は「フーコーは知性をひけらかさず、気さくに話しかけてくれた」
(窓)http://lynceus.seesaa.net/article/84153837.html
Trailer Regreso a Normand?a
(窓)http://www.youtube.com/watch?v=ugJjDV40xLk
12 2010/09/18(土)11:23 P↓
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
(窓)http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
(P・カネとの対話)、「カイエ・デュ・シネマ」誌、二七一号、一九七六年十一月、52-53ページ
(P・カネがR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』に
関して製作した短編映画の中での対話を書き取ったもの)。
「ご存じの通り、農民に関する文学というのは沢山あります。しかし農民の文学、農民の表現というのは多
くはありません。ところがここにあるのは、一八三五年に一人の農民によって書かれた、農民自身の言語に
よって書かれたテクストです。これはつい今しがた読み書きを覚えた一人の農民の言語なのです。そして今、
現在の農民たちに、自分自身で、自分自身の方法で、結局はごく近い世代のものであるドラマを演ずる可能
性が与えられました。(中略)そして農民たちに農民のテクストを演ずる可能性を与えるということは、政
治的な意味でも重要だと言ってかまわないでしょう。」(本文より)
行為より歴史化されたディスクールがフーコーの関心事だが結果的に行為の場をそれは規定する
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/9059714/
返信削除フーコーとオリンピック
プラトンは法律によらない性の自己統御の例として運動選手を挙げている。
フーコーはそれに批判的に言及する。
「プラトンが言及するのは運動競技者の例であって、彼らは競技で勝利を収めたい欲求があるので、厳しい禁欲の生活法に服して、練習中はずっと女にも若者にも近づかない。ところが欲望という内面の敵にたいする勝利のほうが、競争相手にたいして収めることができる勝利よりはるかにすばらしい(『法律』840、岩波文庫p134)、というわけである。」(邦訳『快楽の活用』p212より)
ちなみに、あとがきで訳者がまとめていたフーコーの性のあり方をめぐった歴史観は以下のような図式になるだろう。
ギリシア
(自己統御)
/\
/__\
キリスト教 中国
(禁欲) (快楽)
子作り
ギリシア
(行為、自己統御)
/\
キリスト教/ \中国
(禁欲) \ /(快楽)
\/
現代
(欲望、行為△、快楽×)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm09.htm
返信削除321 ミシェル・フーコー「ポーランドの倫理的・社会的経験が消されることはもうありえない」 西永良成訳
(G・アンケティルとの対談)「ヌーヴェル・リテレール」2857号、一九八二年十月十四日―二十日、8-9ページ。
「もし私が政治家だったなら、私には必要不可欠と思える次のような問題を自分に優先的に提起することでしょう。すなわち、この三十五年来、戦争それ自体によって提起された政治、外交、戦略的大問題のどれひとつとして解決できなかったあの大国家の元首たちに、はたして歴史はどのような評価を下すのだろうか?朝鮮の問題も、インドシナの問題も、中東の問題も、ヨーロッパの問題も解決されていません。このような途轍もない無能力には、最終的に否定的な評価が下されるはずです。世界政治の責任者たちは先の戦争によって提起された大問題の、ただのひとつも解決できなかった。これはやりきれないことです。」(本文より)
322 封印令状の黄金時代 佐藤嘉幸訳
(「レクスプレス」誌Y・エルサン、A・ファルジュとの対談)「レクスプレス」誌、一六三八号、一九八二年十一月二十六日―十二月三日、83、85ページ。(『家族の無秩序―バスチーユ古文書の封印令状』A・ファルジュ、M・フーコー編、パリ、ガリマール、一九八二年。について)
「私たちが関心を持っているのは思想史です。一方に行動分析があって、他方に思考の歴史があるなどとは私たちは考えていません。私たちにとって、思想は至るところに存在するのです。夫が妻を殴り、子供たちは自分に可能な自由を追及するといった十八世紀の家族の中には、諸々の表象のシステムが存在し、文化や社会秩序とともにまさしく情念のゲームが存在します。社会史とは異なった要請、異なった方法―というのもそれとは対象が異なっているからですが-によって私は思想史を作り出したいのです。」(本文より)
323 主体の解釈学 神崎繁訳
『一九八二年度コレージュ・ド・フランス年報―思考体系の歴史、一九八一-一九八二年』一九八二年刊、395-406ページ。
「今年の講義は自己の解釈学という主題の形成にあてられる。その際、この主題が理論的に形成される過程を考察するだけでなく、古典古代および古代末期において極めて重要な意味をもっていた営為(プラティック)の総体との関わりにおいて分析することに留意したい。それらの営為は、ギリシア語でepimeleia heautou(自己への配慮)、あるいはラテン語でcura sui(自己への関心)としばしば呼ばれる自称の領域に属している。」(本文より)
「〔訳者付記〕その後、この一九八一・八二年のコレージュ・ド・フランスにおけるフーコーの講義は、L'hermeneutique du sujet-Cours au College de France, 1981-1982(Gallimard/Seuli 2001)として公刊された。本巻で訳者が担当した他の論考、329「自己の書法」、322「快楽の夢―アルテミドーロスの『夢判断』をめぐって」、338「快楽の用法と自己の技法」とも関連するが、『快楽の用法』『自己への配慮』という著作へ組み込まれる諸論考が、講義においてはどのような文脈で語られたのかを知る貴重な資料である。」
1983
http://blog.goo.ne.jp/ginyucinema/e/2b1c8c30aacb2d8a06b4170a161087c8
返信削除メモ:『性の歴史』第2巻 快楽の活用
2005年05月05日
カテゴリー: 読書
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フーコーは『性の歴史』2巻と3巻で古代ギリシア時代の性規範について詳述する。当時の哲学者・医学者の文献を渉猟することにより、何が問題とされ、何が規律違反とされ、何が指弾されるかを探り、そのことから「性を律する主体」がどのようにとらえられているかを分析している。
第2巻で分析されるのは
「アフロディジア」愛欲の営み
「クレーシス」活用
「エンクラテイア」克己
快楽を持続されるためには「節制が必要」(ソクラテス)
と同時に、「しかるべき時を選んで」が大切(プラトン)
だから、若すぎたり年老いすぎたりして性交するのはよくないとか、季節もいつがいいとか、事細かく書いてある「養生訓」がいくつも存在する。
というような話に始まって、養生訓だの家庭管理術だの恋愛術だの、当時の哲学者たちが訓戒を垂れた内容を事細かくフーコーは紹介・分析していく。
手っ取り早く結論だけまとめよう。
あまねく認められた実践(養生生活の実践、家庭管理の実践、若者にたいして行われる《求愛》の実践)の領域のなかで、しかもそれらの実践の入念な磨きあげを目差していたいくつかの省察をもとにして、ギリシャ人は道徳上の賭金としての性行動について問いかけたのであって、彼らはその性行動において必要だと思われた節度の形式を規定しようと努めた。
………
[この三つの問題構成の]まわりにギリシャ人は生きる技法、ふるいまい方の技法、《快楽を活用する》技法を、気難しくて厳しい原則にしたがって展開したのである。
後にキリスト教の時代がきて厳格な性規範が一般化したというのは間違いで、既に古代ギリシャ(紀元前4世紀)から厳しい規範が述べられていたのだとフーコーは言う。
性の活動はそれ自体として危険で犠牲をともなくので、しかも生命にかかわる物質(精液)の喪失とつよく結びつくので、その活動は、必要なものでない限り、綿密な節約策によって制限されるべきだ、というものであった。同じくまた、夫婦の双方にたいして、「結婚以外の」あらゆる快楽を等しく絶つように求めていると思われる婚姻上の考証という範例も見出される。最後に、成人大性の、若者とのあらゆる肉体関係の断念という主題も見出されるのである。(p318)
若者愛にかんするこの省察のなかにおいてこそ、プラトンのエロス論は、濃い、快楽の断念、真理への接近、という三者のあいだの複雑な関連の問題を提出したのである。
………
自由な成人男性によって構成される最小部分の人口にとっては、性の一つの美学を、力(=権力)の作用として知覚される自由についての熟慮にとむ技法を磨きあげる方法なのであった。この性倫理は、部分的には今日のわれわれの性倫理の起源になっているのだが、なるほど不平等および高速にかんするきわめて過酷な体系(とくに女性や奴隷について)に立脚していた。しかしそれは(ギリシャの)思索のなかでは、自由な成人男性にとって、自分の自由の行使、自分の力(=権力)の諸形式、真理への自分の接近、これら三者の関連として問題構成が行なわれてきた。(p321-322)
要するに、性規範を守ることによって人格を高め権力を得るのはあくまで男なのだ。ギリシャ時代のお説教って、フェミニストが読んだら悶絶しそうな「人生訓、養生訓」なんだな。で、フーコーによれば、ギリシャ時代には若者愛について厳しい倫理を求めていた当時の社会規範が、時代と共にその対象を変遷させる。後には女性にかんして。近代以降は子どもと身体へ。
フーコーは最終章で「真の恋」という項目を挙げて、若者愛(同性愛)について述べる。なにが「真」なのかというと、恋に通暁するというのは、恋の客体になることではなく恋の主体になることである。恋愛術は求愛する者とされる者との格闘技だ。
ソクラテスの教訓は、真の恋は肉体の接触を断たねばならない、というもの。厳しいねぇ~、ほんとの恋は相手に触れてはいけないのだそうだ。
恋が向かうべき対象は若者の肉体ではなく魂だと、プラトン先生も言っている。
さて第3巻冒頭は『夢占い』だ。長くなったので別エントリーに。
<書誌情報>
快楽の活用 / ミシェル・フーコー [著] ; 田村俶訳
新潮社, 1986(性の歴史; 2)
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/9059714/
フーコーとオリンピック
プラトンは法律によらない性の自己統御の例として運動選手を挙げている。
フーコーはそれに批判的に言及する。
「プラトンが言及するのは運動競技者の例であって、彼らは競技で勝利を収めたい欲求があるので、厳しい禁欲の生活法に服して、練習中はずっと女にも若者にも近づかない。ところが欲望という内面の敵にたいする勝利のほうが、競争相手にたいして収めることができる勝利よりはるかにすばらしい(『法律』840、岩波文庫p134)、というわけである。」(邦訳『快楽の活用』p212より)
ちなみに、あとがきで訳者がまとめていたフーコーの性のあり方をめぐった歴史観は以下のような図式になるだろう。
ギリシア
(自己統御)
/\
/__\
キリスト教 中国
(禁欲) (快楽)
子作り
ギリシア
(行為、自己統御)
/\
キリスト教/ \中国
(禁欲) \ /(快楽)
\/
現代
(欲望、行為△、快楽×)
『性の歴史』全三巻をとおしてみると、フーコーは性現象を考察するための三つの極をつねに設定している。すなわち、行為と快楽と欲望の三つである。…
古代ギリシャでは、性の行為とその統御が重視され、中国では、性の快楽とその強化に関心が集中する。ところがキリスト教では欲望とその根絶が企てられて、性の行為そのものはもっぱら子供作りのためのものであり、快楽は理論上も実際上も無視される。そして現代では、 は欲望とその に置かれ、行為はそれほど重要ではなく、快楽がない状態である。
(「訳者あとがき」より)
フーコー性の歴史3 自己への配慮 帯より
『性の歴史』全三巻をとおしてみると、フーコーは性現象
を考察するための三つの極をつねに設定している。すなわ
ち、行為と快楽と欲望の三つである。…
古代ギリシャでは、性の行為とその統御が重視され、中
国では、性の快楽とその強化に関心が集中する。ところが
キリスト教では欲望とその根絶が企てられて、性の行為そ
のものはもっぱら子供作りのためのものであり、快楽は理
論上も実際上も無視される。そして現代では、 は
欲望とその に置かれ、行為はそれほど重要ではなく、
快楽がない状態である。 (「訳者あとがき」より)
フーコー性の歴史3 『自己への配慮』 Le Souci de soi 帯より
返信削除http://yojiseki.exblog.jp/9059714/
フーコーとオリンピック
プラトンは法律によらない性の自己統御の例として運動選手を挙げている。
フーコーはそれに批判的に言及する。
「プラトンが言及するのは運動競技者の例であって、彼らは競技で勝利を収めたい欲求があるので、厳しい禁欲の生活法に服して、練習中はずっと女にも若者にも近づかない。ところが欲望という内面の敵にたいする勝利のほうが、競争相手にたいして収めることができる勝利よりはるかにすばらしい(『法律』840、岩波文庫p134)、というわけである。」(邦訳『快楽の活用』p212より)
ちなみに、あとがきで訳者がまとめていたフーコーの性のあり方をめぐった歴史観は以下のような図式になるだろう。
ギリシア
(自己統御)
/\
/__\
キリスト教 中国
(禁欲) (快楽)
子作り
ギリシア
(行為、自己統御)
/\
キリスト教/ \中国
(禁欲) \ /(快楽)
\/
現代
(欲望、行為△、快楽×)
『性の歴史』全三巻をとおしてみると、フーコーは性現象
を考察するための三つの極をつねに設定している。すなわ
ち、行為と快楽と欲望の三つである。…
古代ギリシャでは、性の行為とその統御が重視され、中
国では、性の快楽とその強化に関心が集中する。ところが
キリスト教では欲望とその根絶が企てられて、性の行為そ
のものはもっぱら子供作りのためのものであり、快楽は理
論上も実際上も無視される。そして現代では、主眼は
欲望とその達成に置かれ、行為はそれほど重要ではなく、
快楽が何かでさえも解らない状態である。 (「訳者あとがき」より)
フーコー性の歴史3 『自己への配慮』 Le Souci de soi 帯より
生命と認識
返信削除近藤
http://www.slideshare.net/retrosection/ss-2855246
p14
切断
知の考古学
むろんフーコーは言説の歴史性を重視する
返信削除
返信削除http://gold.ap.teacup.com/multitud0/697.html
「ブルジョアジーがマルクスに対して築いた最後の防波堤」というサルトルのフーコー批判は有名である。しかし68年革命の過程で、当時非合法化されていたマオイストの弾圧に対する救援闘争では、二人は共闘。1972年ごろには関係はかなり改善していたようだ。
さて、フーコー自身は、マルクス派からの批判にこう答えた。いや、私だって、マルクスの概念や原文はしょっちゅう引用している。ただ引用符をつけたり、出典をわざわざ明記したりしないだけだ、と。マルクスに精通し、マルクスを敬い、共産党のお墨付きを受ける人々には、引用符と出典がなくなるだけで、それがマルクスのことばだとわからなくなるらしい。
ここからがおもしろい。長くなるが引用してみる。
--物理学者が物理をやる時に、いちいちニュートンだとかアインシュタインを引用する必要を感じるでしょうか? 彼らはそれを利用するが、自分がどれだけ師の意見に忠実かを示す証しとして引用符や脚注や賛辞を使う必要なんてない。他の物理学者たちだって、アインシュタインが何をやり、何を発見し、何を証明したかぐらいは心得ているから、読んでいきながらなるほどと思うだけです。今の時代に歴史をやるには、直接的であれ間接的であれマルクス思想につながる概念を全く使わないでやるとか、彼が説明を与え定義づけた視野に立たずしてやるなんてことは不可能です。つきつめれば、歴史家であることとマルクス主義者であることの間にどんな違いがあるのかとさえ思えるほどです。(中略)
で、議論もマルクスによって定義され体系化されたその全体的視野の内部で初めて始まるわけです。その相手というのが、実際にはマルクス理論ではないのに、ただ共産主義理論のルールを操るという理由でマルクス主義者を自認してはばからない連中です。まあルールと言ったって共産党が決めたもので、党からマルクス主義者だと公認されるためのマルクス利用マニュアルのようなもんですがね。
(ミシェル・フーコー「監獄についての対談--本とその方法」ちくま学芸文庫、フーコー思考集成IV所収)
最後は読んで笑ってしまった。
剰余価値をめぐる深遠な議論が続いてきたせいで、マルクスにはあまり注目されていない、まだ未開拓の領域があるという指摘は重要だと思う。フーコーはマルクスの軍隊論に注目する。『監視と処罰』(邦題『監獄の誕生』)を読んで、「これってマルクスの別展開だよな」と思ったけれど、そういうことを言う人はあまりいなかった。
本書収録の討論「人民裁判について マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論」(1972年)は、法と正義、そしてかつて慣れ親しんだことばでいえば革命的暴力をめぐる、思想家と革命家の真剣勝負。討論相手は、後にサルトルの秘書になったピエール・ヴィクトールことベニー・レヴィ、そしてジルことアンドレ・グリュックスマン。
返信削除http://www.miyadai.com/index.php?itemid=653
■1960年代後半に、先進各国で次々に反体制運動(異議申し立て運動)ないし大学紛争(学園闘争)が起こった。異議申し立ての主題は、ベトナム戦争だったり大学管理体制だったり授業料値上げだったりと一国内でも多様だったが、この多様性がこれらの闘争の共通性を逆に示唆していた。一口でいえば、実存的ないし実存主義的だったのである。
■1966年に新聞上で戦われたミシェル・フーコーとジャン・ポール・サルトルの論争に、構図の一端を見出せる。サルトルが意味の獲得に向けて投企する主体の自由を賞揚するのに対し、フーコーはラカンやアルチュセールやレヴィストロースを援用しつつ、主体性なるものはシステムないし構造の作動が与える効果に過ぎないとしてサルトルを批判した。
■この論争は「構造主義による実存主義への批判」のエポックとして有名だが、そうした学問的意義とは別に、フーコーによる告発が「自由や主体性に見えるものは、どこまでも見せ掛けに過ぎない」という形式をとることが注目されなければならない。というのは、同時代の映画や演劇や小説などの表現に、似た形式の告発が陸続と登場するからである。
構造主義は通時的なものを共時的な数式に還元してしまうからその手続きだけみれば楽観的すぎる
返信削除その方法論はとても歴史に適応出来ない
歴史はそうした数式で割り切れないものが残余として積み重なったものだ
今や構造主義そのものが(理解されないままに)一時的な潮流としての権威、権力だったと言える
ただし、フーコーが構造主義を経た後の残余に思考を向けていたということは、
構造主義という方法論を手中に収めていたということでもある
構造主義は通時的なものを共時的な数式に還元してしまうからその手続きだけみれば楽観的すぎる
返信削除その方法論はとても歴史に適応出来ない
歴史はそうした数式で割り切れないものが残余として積み重なったものだ
今にしてみれば構造主義そのものが(理解されないままに)一時的な潮流としての権威、権力だったと言える
ただし、フーコーが構造主義を経た後の残余に思考を向けていたということは、
構造主義という方法論を手中に収めていたということでもある
構造主義は通時的なものを共時的な数式に還元してしまうからその手続きだけみれば楽観的すぎる
返信削除その方法論はとても歴史に適応出来ない
歴史はそうした数式で割り切れないものが残余として積み重なったものだ
今にしてみれば構造主義そのものが(その数学的な本質が理解されないままに)一時的な潮流としての権威、権力だったと言える
ただし、フーコーが構造主義を経た後の残余に思考を向けていたということは、
構造主義という方法論を手中に収めていたということでもある
構造主義は通時的なものを共時的な数式に還元してしまうからその手続きだけみれば楽観的すぎる
返信削除その方法論はとても歴史に適応出来ない
歴史はそうした数式で割り切れないものが残余として積み重なったものだ
今にしてみれば構造主義そのものが(その数学的な本質が理解されないままに)一時的な潮流としての権威、
権力だったと言える
ただし、フーコーが構造主義を経た後の残余に思考を向けていたということは、
構造主義という方法論を手中に収めていたということでもある
構造主義は通時的なものを共時的な数式に還元してしまうからその手続きだけみれば楽観的すぎる
返信削除その方法論はとても歴史に適応出来ない
歴史はそうした数式で割り切れないものが残余として積み重なったものだ
今にしてみれば構造主義そのものが(その数学的な本質が理解されないままに)一時的な潮流としての権威、
権力だったと言える
ただし、フーコーが構造主義を経た後の残余に思考を向けていたとするならば、
構造主義という方法論を手中に収めていたということでもある
ただしフーコーは最終的にギリシアを介在して主体化を模索する
返信削除脱構造主義の立場をとったと言える。
618 :考える名無しさん:2014/03/13(木) 08:53:54.59 0
返信削除ttp://ki-breathing.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-a3d7.html
構造主義者と呼ぶな (ミシェル・フーコー『知の考古学』慎改康之 訳)
「フーコーの最重要著作 42年ぶりの新訳」
ある本の帯の惹句です。去年出た文庫です。僕はこの文庫が発売されたとき、近所の書店で偶然平積みされていたところを見つけました。
彼はよく構造主義者と思われました。その構造主義は現代の思想の一つです。
スイスの言語学者、ソシュールの言語理論の影響で、現象を記号の体系として捉え、個別的で歴史的な記述よりも、規則や関係などの構造分析を重視します。
言語学や人類学のほか、心理学、精神医学、数学などへ多様に展開されました。
フーコーはその構造主義者と思われることが嫌でした。この『知の考古学』でそれを否定します。
返信削除http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/pdf
知の考古学、訳者解説
構造主義はパノプティコン?
返信削除パノプティコン
ベンサムによるパノプティコンの構想図
パノプティコン型刑務所の例。旧プレシディオ・モデーロ(キューバ)
プレシディオ・モデーロの内部
監視方法
パノプティコン、もしくはパンオプティコン(Panopticon)は邦訳すれば全展望監視システムのこと。all「すべてを」(pan-)observe「みる」 (-opticon)という意味である。イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムが弟サミュエルに示唆を受け設計した刑務所その他施設の構想であり[1]、その詳細が記された『パノプティコン』が1791年に刊行されている。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13100059438
ベンサムとパノプティコンについて具体的に教えてください!
mj_pizza_of_death_0805さん 2013/01/10 22:52:23
ベンサムとパノプティコンについて具体的に教えてください!
回答数:2 閲覧数:1,263 お礼:知恵コイン100
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rsk4212892さん 2013/01/11 01:05:13
フーコーの「監獄の誕生」(新潮社)の202頁から226頁でで述べられているジェレミー・ベンサムの考案したとされる「一望監視施設(パノプティコン)」のことだと思いますが、真ん中に看守のいる監視搭をおき、その周りに監房を放射状にならべると真ん中の監視搭からすべての監房が見通せるので、ひじょうに少ない人数で監房を監視できることで、その後各国で採用されたということです。
わが国の刑務所とか拘置所では昔はその方式が採用されましたが、最近は「監視カメラ」が使われるようになって普通のマンションのような建物になっています。
パノプティコンの仕組みはフーコーの本にも写真が載っていますが、ほかにベルナール・コマンの「パノラマの世紀」という本にも載っています。コマンに言わせるとパノプティコンは19世紀の「パノラマ」という視覚装置の一つの例だということです。
フーコーが「監獄の誕生」でそれを取り上げたのは近代の規律・訓練という権力を表すのにちょうど良いと思われたからです。
いつの時代でも権力を持つものは少数で、その権力によって支配される人間の方が圧倒的に多いので、支配するのにもっとも良いのは人間の内面に支配の仕組みを植えつけることです。
アルチュセールが「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」という本で「プラチック(慣習行為)」といっているように、近代では学校・病院・軍隊・会社・工場・自治体・官庁・組合など組織と名のつくもののすべてで身体に国家の支配の論理を慣習行為というかたちで無意識に植えつけて、あえて支配者が上から命令したり、監視したりしなくても、みずからそのように動くようにする方が能率的なので、そのような仕組みが出来上がっています。
近代社会では、独裁国家のような支配者がいなくても、そのような規律・訓練によって身体に支配の論理を植えつけているので、人々は命令されなくても奴隷のように従順に動くのです。そのような巧妙なシステムを作り上げたのです。
私たちは誰にも命令されないから、一見すると自由であるように思っているだけです。
あなただってなんらかの組織に属して働いていれば、知らず知らずに組織の論理が身体にふかくしみこんで自動機械のように動くように作り上げられているのです。
ベンサムについて知りたかったら最近土屋賢二が「怪物ベンサム」(講談社学術文庫)という本を出しています。
パノプティコンを考案した経緯も載っています。
【補足】
あなたの質問を受けて本屋で「怪物ベンサム」を立ち読みしてきました。がっかりするようなことが書いてありました。
ベンサムは別に刑務所を作ろうとしてパノプティコンを考えたのではなく、快楽主義者だったベンサムが女性をいっぱい集めて「ハーレム」をつくり、パノプティコンのように一望に監視できたら楽しいだろうと空想しただけのようです。そんな施設を作ったわけではないようです。
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
返信削除思考集成6
パゾリーニ愛の集会 について
yoji said...
返信削除「社会的な裁判ね・・・うんと・・・。わたしは基本いじわるな人間じゃないけど、少しだけ意地悪になって言うと・・・裁判ってのは、警察の運営を保たせるためのもんだわ。裁判っては、それ以外の何ものでもない。つまり、それは、様々なものを公的にも、法的にも準じ、そして習慣的にとも言える収集をして、警察が普通・平常を管理するためのもの。っと、この様に、裁判所・裁判官ってのは、警察の為に存在するんでっす。それは、歴史的、制度的観念からも同じことが言えるんですね。」 (1977年4月25日)
http://onaironaironair.wordpress.com/2013/08/17/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%
82%B3%E3%83%BC%E3%80%80%E3%80%8C%E8%A3%81%E5%88%A4%E3%81%A3%
E3%81%A6%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%80%81%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E3%
81%AE%E9%81%8B%E5%96%B6%E3%82%92%E4%BF%9D%E3%81%9F%E3%81%9B/
2:12 午前
返信削除『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
http://www.arsvi.com/b1990/9400fm8.htm
180 ミシェル・フーコーとの対話 鈴木雅雄訳
(P・カネとの対話)、「カイエ・デュ・シネマ」誌、二七一号、一九七六年十一月、52-53ページ
(P・カネがR・アリオの映画『私ことピエール・リヴィエールは、母と妹、弟を殺害しましたが……』に
関して製作した短編映画の中での対話を書き取ったもの)。
「ご存じの通り、農民に関する文学というのは沢山あります。しかし農民の文学、農民の表現というのは多
くはありません。ところがここにあるのは、一八三五年に一人の農民によって書かれた、農民自身の言語に
よって書かれたテクストです。これはつい今しがた読み書きを覚えた一人の農民の言語なのです。そして今、
現在の農民たちに、自分自身で、自分自身の方法で、結局はごく近い世代のものであるドラマを演ずる可能
性が与えられました。(中略)そして農民たちに農民のテクストを演ずる可能性を与えるということは、政
治的な意味でも重要だと言ってかまわないでしょう。」(本文より)
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返信削除「デュルケムがしたように社会の一般的な〔発展〕形態だけを研究するなら、刑罰が個別化する過程〔現代の刑罰の特徴だとされる、犯された「罪」に対応した罰から、罪を犯した「人」に応じた罰への変化の過程〕を、罰の緩和という原則に則ったものだととらえてしまう危険がある。実際には刑罰の個別化とは、新しい権力の戦術がもたらした結果であり、とりわけ処罰の新しいメカニズムの帰結に他ならないのだ」(『監獄の誕生』二七頁。〔 〕内は引用者がつけた説明)
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返信削除『監獄の誕生』は、「規律の系譜学」と呼びかえてもよいほど、彼が系譜学的な手法を意識的に用いていることが読み取れる著書である。ニーチェは『道徳の系譜学』で、どこか高いところに、正統な出自と立派な血統を持っていると思われがちな「道徳」なるものが、実はいくじなしでうらみがましい「弱者たち」による手前勝手で卑賤な意図から生じたことを示した。
ニーチェの叙述はまったく歴史的でも「実証的」でもなく、むしろ文学的なのだが、フーコーはニーチェから「善良な人々のよき意図から出た道徳というストーリーを疑え」というメッセージを受け取る。そして、人間のモラルに関わる基準、あるいはまともな人間と逸脱した人間を分ける尺度を疑い、それが実は高尚さとは無縁の、卑しくまた取るに足りない出自を持つのではないかと問いかける。
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ウェーバー解釈者たちが問うてきたのは、プロテスタンティズムの倫理は宗教的救済を真摯に求める純粋なものだったはずなのに、それがなぜ資本主義の下卑た精神へと成り下がったかだ。つまり、プロテスタンティズムの倫理を資本主義の精神の一起源としてとらえるウェーバーは、規律の系譜学を目論むフーコーとは企図もアプローチも異なるということだ。
フーコーが描こうとしたのは、純粋な倫理が意に反して単なる金儲けのための貪欲へと頽落してゆくプロセスではない。もともとさもしく小賢しいちっちゃな技術(テクニック、いわば工夫)の寄せ集めが、いつの間にやら巨大な監獄になり、大工場になり、世界中どこの学校でも使われるテクニックとして普及するという驚くべき歴史だった。
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返信削除(40) VéritÅEpouvoir et soi, 'D/E'-4 : 778.
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あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。 人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です(40)。
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こうした社会では、「監獄が工場や兵舎や病院に似通い、こうしたすべてが監獄に似通っても、なんら不思議ではない」のである。
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その権力の原理は、一つの人格のうちにあるのではない。身体、表面、光、まなざしなどの慎重な配置のうちにある。この内的なメカニズムをそなえた仕掛けに、個人が捉えられるのである。……パノプティコンとは、絶妙な機械仕掛けであり、ごく多様な欲望をもとにして、権力の均質な効果が作り出されるのである。(『監視と処罰――監獄の誕生』第三部第三章)
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キュヴィエ以降、分類の外的な可能性を基礎づけるのは…生命である。秩序の大きな広がりの中にはもはや、〈生きることのできるもの〉という分類はない。分類の可能性は、生命の深層から、まなざしにもっとも遠い場所から訪れる。生物は、かつては自然の分類の一区画だった。しかしいまや分類しただけでは、生物のすべての特徴を明らかにすることはできなくなった。……かくて自然に関する一般的な学問の基盤と基礎としての秩序の探求は消滅する――「自然」が消滅するのである。(『言葉と物』第八章)
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さらにデカルトは、一六二八年頃の『精神指導の規則』の冒頭で、「人々は、二つの物の間にある類似を認めるたびに、両者のうちの片方だけにおいて真であると認めたものを、実際には異なっている点についても、両方にあてはまると考えてしまうのである」と指摘していた。
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フーコーはこの書物の冒頭で、ボルヘスの「中国の」百科事典の分類を引用しながら、この分類を読んだ後の困惑は、「言語の崩壊してしまった人々の抱くあの深い困惑と無縁ではあるまい。場所と名のあいだの〈共通なもの〉が失われたということなのだ」と語っている。ボルヘスは、ある「中国の事典」の分類基準を次のように引用していた。 a.皇帝に属するもの、b.香の匂いを放つもの、c.飼いならされたもの、d.乳呑み豚、e.人魚、f.お話にでてくるもの、g.放し飼いの犬、h.この分類自体に含まれるもの、i.気違いのように騒ぐもの、j.数えきれぬもの、k.駱駝の毛のごとく細い毛筆で描かれたもの、l.その他、m.今しがた壷を壊したもの、n.遠くから蠅のように見えるもの(『言葉と物』序) この事典が「お話にでてくるもの」と「数えきれぬもの」を並列するとき、そこに露呈するのは、さまざまな物はそれ自体で秩序をそなえているわけではなく、それを分類するまなざしが必要であること、そしてそのまなざしは、文化的な背景に応じて完全に異なったものでありうることであった。
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フーコーは後にカントの『人間学』を翻訳し、その詳しい注釈を書いているが、カントは『人倫の形而上学』において、同性愛の〈反自然性〉について次のように語っていた。 [婚姻という]性的共同態とは、一対の人間が相手の人間の生殖器および性的能力を相互に使用することであり、この使用には自然的な使用と不自然な使用がある。不自然な使用には、同性の人格に対して行われるものと、人類以外の動物に対して行われるものがある。これらは…口に出すのも憚られるような反自然的な悖徳であり、われわれの人格の内なる人間性を侵害するものであり、なんらの制限や例外もなく、全面的な断罪に値する。 カントの偉大さとは別に、カント哲学には人間の欲望の一つの形態を「不自然なもの」であり、「人間性の侵害」であるとして断罪する思想があったのはたしかである。
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返信削除あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。
「人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です(40)。」
Vérité pouvoir et soi, 'DE'-4 : 778.
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Vérité, pouvoir et soi
Michel Foucault
« Trurh, Power, Self » (« Vérité, pouvoir et soi » ; entretien avec R. Martin, université du Vermont, 25 octobre 1982 ; trad. F. Durand-Bogaert), in Hutton (P.H.), Gutman (H.) et Martin (L.H.), éd., Technologies of the self. A seminar with Michel Foucault, Amherst, the University of Massachusetts Press, 1988, pp. 9-15.
Dits Ecrits tome IV texte n°362
http://1libertaire.free.fr/MFoucault240.html
思考集成10
362 真理、権力、自己 原和之訳
Mon rôle -mais c'est un terme trop pompeux -est de montrer aux gens qu'ils sont beaucoup plus libres qu'ils ne le pensent, qu'ils tiennent pour vrais, pour évidents certains thèmes qui ont été fabriqués à un moment particulier de l'histoire, et que cette prétendue évidence peut être critiquée et détruite. Changer quelque chose dans l'esprit des gens, c'est cela, le rôle d'un intellectuel.
返信削除yojisekimoto shared from フーコー入門 (ちくま新書) (Japanese Edition) by 中山元
返信削除あるインタビューでフーコーは知識人としての自分の役割を次のように説明している。
「人々が、自分で考えているよりもはるかに自由なのだと教えること、人々が自明で真理だと信じているいくつかのテーマが、歴史の特定の時点に作り出されたものであり、このみかけの上での自明性は批判し、破壊することができるものだということを示すことです。人々の精神において何かを変えること、それが知識人の役割です(40)。」
Mon rôle -mais c'est un terme trop pompeux -est de montrer aux gens qu'ils sont beaucoup plus libres qu'ils ne le pensent, qu'ils tiennent pour vrais, pour évidents certains thèmes qui ont été fabriqués à un moment particulier de l'histoire, et que cette prétendue évidence peut être critiquée et détruite. Changer quelque chose dans l'esprit des gens, c'est cela, le rôle d'un intellectuel.
Vérité pouvoir et soi, 'DE'-4 : 778.
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Vérité, pouvoir et soi
Michel Foucault
« Trurh, Power, Self » (« Vérité, pouvoir et soi » ; entretien avec R. Martin, université du Vermont, 25 octobre 1982 ; trad. F. Durand-Bogaert), in Hutton (P.H.), Gutman (H.) et Martin (L.H.), éd., Technologies of the self. A seminar with Michel Foucault, Amherst, the University of Massachusetts Press, 1988, pp. 9-15.
Dits Ecrits tome IV texte n°362
http://1libertaire.free.fr/MFoucault240.html
思考集成10
362 真理、権力、自己 原和之訳
ガイドブック81
返信削除主権から規律へ
さらに生政治へ
知への意志の最後
生政治へ
返信削除これは国家の交換、分配に対応する。
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返信削除"Omnes et singulatim" : vers une critique de la raison politique, 'D/E'-4 : 139. (35)
yojisekimoto shared from フーコー入門 (ちくま新書) (Japanese Edition) by 中山元
政治的な合理性は、西洋社会の歴史の流れに沿って発展し、重きをなしてきた。これはまず司牧者権力の観念の中に根づき、次に国家理性の観念の中に根づいた。個別化と全体化は、その不可避な所産であった。その所産の片方だけを攻撃することによってではなく、政治的な合理性の根源そのものを攻撃することによってしか、解放の道を拓くことはできない(35)。
規律権力から
返信削除生権力へ
両者は重なる時期もある
««Omnes et singulatim» : Towards a Criticism of Political Reason» (««Omnes et singulatim» : vers une critique de la raison politique» ; trad. P. E. Dauzat ; université de Stanford, 10 et 16 octobre 1979), in McMurrin (S.), éd., The Tanner Lectures on Human Values, t. II, Salt Lake City, University of Utah Press, 1981, pp. 223-254.
返信削除Dits et Ecrits tome IV, texte n° 291
http://1libertaire.free.fr/MFoucault185.html
返信削除思考集成8
返信削除291 全体的なものと個的なもの―政治的理性批判に向けて 北山晴一訳
返信削除http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm
『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』
201 寛容の灰色の曙 森田祐三訳
「ル・モンド」紙、九九九八号、一九七七年五月二十三日、24ページ、(一九六三年製作、一九六五年イタリア公開、ピエル・パオロ・パゾリーニの「愛の集会」について)
「そぞろ歩いたり、日なたぼっこをしている集団に、パゾリーニはたまたま通りかかったかのようにマイクを差し出し、誰にともなく、セックスや夫婦、快楽や家族、婚約とその習慣、売春とその料金といった諸々のことが交錯する、未決定の領域である「愛」について質問をする。」(本文より)
フーコーのいう歴史は非連続的である
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6.人間の誕生と終焉
「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない。」
近代学問の特徴は、認識対象としてと同時に、認識主体として人間が認識されるようになったことだ。
そこには常に、「人間とは何か」という問いがつきまとっている。
すでにこのことは、カントが『論理学』のなかで、その伝統的三部作に究極的問いをつけくわえたとき、定式化したものだった。すなわち、それこそ、《人間とは何か?》という問いかけなのだが、三つの批判的設問(わたしは何を知ることができるか?わたしは何をなすべきか?わたしには何を希望することが許されるか?)は、そこで第四のそれに関係づけられ、いわば『それに依拠して』提出されたのである。」
しかしこれは「人間学的な眠り」であるとフーコーは言う。
われわれはこのような眠りを破壊しなければならない。
今なお「人間」などと言う者は、笑い飛ばしてしまうべきである。フーコーは言う。
「なお人間、その統治、もしくはその解放について語ろうとするすべての人々、なお人間とはその本質において何かという設問を提出するすべての人々、人間から出発して真実に近づこうと望むすべての人々〔中略〕、こうしたぎこちなく歪んだ反省のあらゆる形態にたいしては、哲学的笑い――一部が沈黙の笑いであるような哲学的笑い――を向けることしかできないであろう。」
冒頭にも書いたことだが、フーコーのこの主張には論理の飛躍があるように思われる。
フーコー自身は、人間をテーマにし、そしてその人間を操ろうとする、「権力」と結びついた人文科学を批判したかったのだろう(フーコー『監獄の誕生』のページ参照)。
その主張はよく分かる。しかしそのことと「人間の終焉」を要請することとは、また別の問題であるはずだ。
しかしともあれ、フーコーは言う。
精神分析と文化人類学が、「人間の終焉」を予告していると。
どちらも人間を規定しているものを探り出す学問であるからだ。
こうして、本書は次のように締めくくられる。
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」
はじめに
フーコーの超博学を、これでもかというほどに見せつけてくれる知の玉手箱のような本書。
難解で知られる本書だが、テーマは実は単純だ。
ヨーロッパの知は、そのあり方を歴史的にどのように変貌させてきたのか。そしてそれは、今後どのように展開するのか。
知の歴史を一通り繙いて見せた後、フーコーは本書の最後で人間の終焉を宣言する。それは言わば、近代諸学問における人間中心主義の批判である。
後に『監獄の誕生』などで描き出されるのは、人間を主題とする人文諸科学が、権力と結びつき、人々を都合のいいように操る知になっていることだった(『監獄の誕生』のページ参照)。
フーコーは、そうした人間を操る知を探究することをやめて、われわれを規定しているもの(無意識や権力や社会構造など)を探究すべきだと考えた。そして彼自身、その後、われわれを操作している、自覚されていない「規律的権力」や「生−権力」を暴きだして行くことになる。
しかし私は、本書を代表とするフーコー40代の頃の一連の著作には、2つの点においてあまり説得力を感じることができない。
1つは、フーコーが本書などで描き出すヨーロッパのエピステーメー(知のあり方)の変化が、あまりにも「実在」的に描かれすぎている点だ。
フーコーが主張するほどに、その変化は絶対的事実として起こってきたのか、フーコーの書き方からは検証が難しい。むしろ私の考えでは、フーコーの見方は関心相関的な仮説的見方として自覚的に捉えた方がいい。
もう1つは、「人間の終焉」という結論に至る根拠が、いまいち分かりにくいという点だ。
先述の観点からすると、フーコーはまさに、「人間の終焉」を唱えるという関心のために、西洋のエピステーメーの歴史を彼なりにまとめ上げたのではないかという気がする。
彼は本書で、「人間」が登場してきたのはつい最近のことに過ぎないと主張する。
しかしだからと言って、それが近い将来の人間の終焉を予言する根拠にはならないだろう。むしろ、これからまさに「人間」の時代が本格化するのだ、と言うことだってできるかもしれない。
実際フーコーは、晩年になって少しずつ、「人間」へと思索の対象を変えていくことになる。(『性の歴史』のページ参照)。
人間を規定するものを探究しながらも、そこにおいてわれわれ「人間」はどのようによりよい社会や生き方を作り上げていくことができるか。私はこの問題こそ、現代の哲学が問うべきテーマであると考えている。結局のところ、問題を発見し解決しようとするのは「人間」以外にあり得ない。
常に過去の自らの思想を乗り越え続けたフーコーは、しかし残念ながら、ついにこのテーマを探究し尽くすことなく50代で亡くなった。
後続世代が引き継ぐべき課題である。
1.16世紀までの知のあり方
フーコーは言う。16世紀、ルネッサンス末までの西洋における知のあり方(エピステーメー)は、相似にあったと。
細かく言うと、相似には適合、競合、類似、共感、の4種類がある。
要するに、これとこれは似ている、というのが、当時を支配する認識のあり方だったという訳だ。たとえばこんな感じだ。
「世界は万物の普遍的『適合』である。水のなかには、地上における動物や、自然や人間が創りだした品物とおなじ数だけの魚がいる」
地上には地上の動物がいて、水中には水中の生物がいる。したがって、地上と水中とは互いに適合関係にある、という訳だ。
あるいは次のような例も挙げられる。
「星とそれが輝いている空との関係は、革と大地とのあいだにも、生物とそれが住んでいる地球とのあいだにも、鉱物やダイヤモンドとそれが埋まっている岩石とのあいだにも、感覚器官とそれが生気をあたえている顔とのあいだにも、皮膚のしみとそれがひそかにしるしづけている身体とのあいだにも、認められるであろう。」
一切をアナロジー関係で認識すること、それがこの時代のエピステーメーだったのだ。
2.世界は解読されるべき記号体系
一切がアナロジーで結ばれ合っているということは、そこには多種多様で無限の意味が読み取れるということを意味している。したがってこの時代の知は、アナロジーの意味を読み取り記号として捉え直すという、解釈学と記号学が支配することになる。
「知に固有なものは、見ることでも証明することでもなく、解釈することなのだ。」
3.解釈から秩序へ
「十七世紀初頭、ことの当非はべつとしてバロックと呼ばれる時代に、思考は類似関係の領域で活動するのをやめる相似はもはや知の形式ではなく、むしろ錯誤の機会であり混同の生じる不分明な地域の検討を怠るとき人が身をさらす危険なのだ。」
ルネッサンスまでの知のあり方は、合理的な立場からすれば、全く関係のないものまでアナロジーによって結び合わせるいわば「錯誤」「混同」の知であった。
17世紀以降、そうした知のあり方に代わる、新たなエピステーメーが現れてくる。
その象徴を、われわれはセルバンテスの『ドン・キホーテ』に見ることができる。フーコーはそう主張する。
風車を邪悪な巨人と思って突撃していくドン・キホーテの認識は、いわば16世紀的アナロジーである。しかし17世紀、このドン・キホーテの認識は、もはや狂人の認識だと考えられるようになっていた。
確かな認識は、アナロジーではなく「秩序」になったのだ。
「いまでは、あらゆる相似は比較という吟味にかけられる。すなわち、相似は、計量と共通の単位によって、さらに根源的には、秩序と同一性と相違の系列とによって、ひとたび発見されたうえ、はじめて容認されるというわけである。」
返信削除4.マテシスとタクシノミア
ここで登場してくるのが、マテシス(相等性の学)とタクシノミア(諸存在の学)である。
「《マテシス》は、相等性の学、したがって主辞=属辞関係定立と判断の学であり、《真理》の学であるのにたいして、《タクシノミア》は、同一性と相違性を扱うものであり、分節化と分類階級の学、《諸存在》に関する知なのである。」
要するに、マテシスは代数学に代表される学であり、タクシノミアは分類する学である。
一切を秩序化する知が現れたのだ。
古典主義時代のエピステーメーは、この2つを基礎として発展することになる。そうフーコーは主張する。
5.博物学、富の分析、一般文法
タクシノミアの代表として、フーコーは博物学、富の分析、一般文法を挙げている。
まず博物学だが、この当時はあらゆる生物を階級づけることを主軸としていた。
「十八世紀末まで、生命というものは実在しない。ただ生物があるのみだ。生物は、世界のあらゆる物の系列のなかで、ひとつの分類階級、というよりむしろいくつかの分類階級を形成している。」
富の分析においても、それまでは金銀という外徴を基軸として物の価値は考えられていたが、古典主義時代には、流通においてどのように価値が決まるかが考えられるようになる。
つまり、あらゆる富が貨幣となることが可能になったことで、富を流通において分類して考える発想が生まれたのだ。
一般文法も同様だ。これは、各「名」が一般的に何を指しているのかを網羅的に分類する。
「古典主義時代の思考の本質的問題は、《名》と《秩序》との関係のうちに宿っていた。すなわち、同時に《分類法》でもあるような《名称体系》を発見すること、あるいは、存在の連続性にたいして透明であるような記号体系を設定することが問題であった。」
一切を分類的体系の中に押し込めること。これが古典主義時代のエピステーメーだった。フーコーは言う。
「ある文化のある時点においては、つねにただひとつの《エピステーメー》があるにすぎず、それがあらゆる知の成立条件を規定する。」
5.近代のエピステーメー
古典主義時代のエピステーメーの象徴が『ドン・キホーテ』に見られたように、古典主義時代から近代への転換の象徴は、サドの文学に見ることができる。続いてフーコーはそう主張する。
「サドは古典主義時代の言説と思考の果てに到達した。彼はまさにそれらの限界に君臨している。彼以後、暴力、生と死、欲望、そして性が、表象のしたに巨大な影の連続面をひろげはじめ、われわれは今日、この影の連続面を、われわれの言説、われわれの自由、われわれの思考のなかにとり入れようとして、できるかぎりの努力をはらっているのだ。」
分類ではなく、この分類の根底に流れる力を読み取ろうとする、いわばダイナミックな知のあり方が登場するのだ。
このエピステーメーのもとに、かつての博物学は生物学へ、富の分析は経済学へ、そして一般文法は文献学へと転換する。
アダム・スミス以来、経済学は経済の絶対的尺度を「労働」に見出してきた。
生物学は、網羅的な分類ではなく、機能に基づく「組織」の概念を見出した。
文献学は、諸言語の内部に共通してあるメカニズム(語の屈折)を見出した。
「つまり、知は、もはや表といった様態でではなく、系列、連鎖、生成といった様態で成立させられるのであり、約束された夕暮とともに結末の闇が訪れてくるであろうとき、〈歴史〉の緩慢な侵蝕作用ないし〈歴史〉の暴力は、その岩のような不動性のうちに、人間にかかわる人間学的真実をほとばしらせるのにほかならない。」
この近代的エピステーメーにおいて、人間が登場してくることになる。フーコーはそう主張する。「歴史性は、人間の本質に正確に重ねあわされることになるからだ。」
Les mots et les choses (Michel Foucault, 1966) [LMELC]
返信削除http://www.idixa.net/Pixa/pagixa-0803141714.html
p7 : Préface
I.
p19 : Ch. I : Les suivantes
p32 : Ch. II : La prose du monde
p60 : Ch. III : Représenter
p92 : Ch. IV : Parler
p137 : Ch. V : Classer
p177 : Ch. VI : Echanger
II.
p229 : Ch. VII : Les limites de la représentation
p262 : Ch. VIII : Travail, vie langage
p314 : Ch. IX : L'homme et ses doubles
p355 : Ch. X : Les sciences humaines
http://bunbuku.cocolog-nifty.com/dotannba/2011/04/post-3bf3.html
ミシェル・フーコー「言葉と物」
この本は以外に新しく、25年ほど前に購入したもののようだ。
書名:言葉と物-人文科学の考古学(原題:Les Mots et Les Choses)
著者:ミシェル・フーコー
訳者:渡辺一臣・佐々木明
出版:新潮社、初版1974年6月(原書1966年)
《目次》
序
第一章 侍女たち
一 (小見出しなし)
ニ (小見出しなし)
第二章 世界という散文
一 四種の相似
ニ 外徴
三 世界の限界
四 物で書かれたもの
五 言語(ランガージュ)の存在(エートル)
第三章 表象すること
一 ドン・キホーテ
ニ 秩序
三 記号(シーニュ)の表象作用
四 二重化された表象
五 類似性の想像力
六 「マテシス」と「タクシノミア」
第四章 語ること
一 批評と注釈
ニ 一般文法
三 動詞の理論
四 分節化
五 指示作用
六 転移
七 言語(ランガージュ)の四辺形
…いまや、古典主義時代の経験における言語(ランガージュ)の強固で緊密な統一性が何であるか、把握することができるだろう。言語(ランガージュ)とは、分節化された指示作用の仕組みによって、類似を命題的関係のなかにおさめるものである。つまり、《ある(エートル)》という動詞を基礎とし《名》の綱目によって顕示される、同一性と相違性の体系のなかにおさめるのだ、古典主義時代における「言説(ディスクール)」の基本的任務は、《物に名を付与し、この名において物の存在(エートル)を名ざす》ことである。二世紀にわたって西欧の言説(ディスクール)は存在論の場であった。つまりそれは、表象一般の存在(エートル)を目指すとき、哲学、すなわち認識の理論および観念の分析であり、表象された個々の物に適切な名を付与し、表象の場全域にわたって「よくできた言語(ラング)」の綱目を張りめぐらすとき、学問-すなわち、名称体系と分類法-だったわけだ。
第五章 分類すること
一 歴史家はどう言うか
ニ 博物学
三 構造
四 特徴(カラクテール)
五 連続体と天変地異
六 畸型と化石
七 自然の言説(ディスクール)
第六章 交換すること
一 富の分析
ニ 貨幣と価格
三 重商主義
四 担保と価格
五 価値の形成
六 有用性
七 全体的な表(タブロー)
八 欲望と表象
第二部
第七章 表象の限界
一 歴史の時代
ニ 労働という尺度
三 生物の組織
四 語の屈折
五 観念学と批判哲学
六 客体の側における綜合
第八章 労働、生命、言語(ランガージュ)
一 新たなる経験的諸領域
ニ リカード
三 キュヴィエ
四 ボップ
五 客体となった言語(ランガージュ)
第九章 人間とその分身
一 言語(ランガージュ)の回帰
ニ 王の場所
三 有限性の分析論
四 経験的なものと先験的なもの
五 コギトと思考されぬもの
六 起源の後退と回帰
七 言説(ディスクール)と人間の存在(エートル)
八 人間学的眠り
第十章 人文諸科学
一 知の三面角
ニ 人文諸科学の形態 ☆
三 三つのモデル
四 歴史
五 精神分析、文化人類学
六 (小見出しなし)
あとがき
索引
☆
ドゥルーズがA.Oで参照しているのは第十章2の中段から。
《(22)フーコーが指摘していることは、次のことである。「人文
諸科学」はその原理を生産の中に見いだし、表象が破綻した
ところに構築されたものであるが、しかし、これらの人文諸
科学は、無意識の表象といったものとして新しい型の表象を
再建しているのだ、ということである。(Les Mots et les
choses, pp. 363-378).》(邦訳単行本A.O,508頁)
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/03/gr/mf/foucault02.htm
十七・十八世紀
返信削除/
\ 文:名 /
博:指示 /
結合法 \富:交換/
諸存在の構造 / 諸存在の連続性
物の価値 \/
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\ 分節化\ /
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文:動詞 ⬆︎/ 《名称体系》 / 文:原初の名
博:諸存在の可能性\/命題 指示↘︎/ 博:種の指示
富:必要の対象 /↖︎ 分類学 / 富:貨幣という担保
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/ 転移/
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諸存在の / 百科事典
表象可能性 / \ 種属の特徴
/ 商品の価格
/文:譬喩 \ 文=一般文法
/ 博:諸存在の隣接関係 博=博物学
/ 富:流通と商業 \ 富=富の分析
十七・十八世紀
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\ 文:名 /
博:指示 /
結合法 \富:交換/
諸存在の構造 / 諸存在の連続性
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文:動詞 |/ 《名称体系》 / 文:原初の名
博:諸存在の可能性\/命題 指示」/ 博:種の指示
富:必要の対象 /「 分類学 / 富:貨幣という担保
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諸存在の / 百科事典
表象可能性 / \ 種属の特徴
/ 商品の価格
/文:譬喩 \ 文=一般文法
/ 博:諸存在の隣接関係 博=博物学
/ 富:流通と商業 \ 富=富の分析
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https://lh3.googleusercontent.com/-BtZ9vVjnFaI/VPWLMqQv1II/AAAAAAAArSc/rXZ4Ahx7-Go/s640/blogger-image-1921913824.jpg
返信削除\ 十九世紀 X
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哲学的場 \ X 認識論的場
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形式化 ⬅︎ \ X 音声学
形式的 X 比較解剖学
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⬆︎ X \ X
\ X 分節化\ X
命題学X \ ⬆︎ X
\ ↖︎X \ X
X主辞= 指示\X
X\属辞関係定立 X
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X ⬇︎ \ X 意味
X 統辞法 \ X ⬇︎ \
X 生理学 ⬅︎\転移X
X 配分の分析 \X↘︎ \
X 歴史➡︎ 解釈
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哲学的場 \ X 認識論的場
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_\l形式化〈ー \ X 音声学l/_
形式的 X 比較解剖学
\ へ 存在論「\X\ー〉生産の分析 X
l X \ X
\ X 分節化\ へ X
命題学X \ l X
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X主辞= 指示\X
X\属辞関係定立 X
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X 統辞法 \ X l \
X 生理学 〈ー\転移X v
X 配分の分析 \X\」 \
X 歴史ー〉 解釈
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http://progressivegeographies.files.wordpress.com/2011/03/foucault-2.jpg
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
返信削除もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。」
カント人間学の研究の影響はあるだろう。
國分said
返信削除フーコーの本棚読み
返信削除http://infoseek_rip.g.ribbon.to/hpcunknown.hp.infoseek.co.jp/unpublished/woman.html
二
木部を有名にし、葉子と蔵地を破滅に追いこんだのは新聞である。新聞はブルジョア社会において重要な役割を果たしている。ミシェル・フーコーは、『狂気の歴史』において、一八世紀以降、西欧ではスキャンダルがブルジョアのモラルを強化する道具として使われていたと指摘する。王侯貴族は直接的な暴力によって人々を抑圧したが、ブルジョアはスキャンダルによって自分たちのモラリティへの反逆者を抑圧・排除する。
「祖先のうちで奴隷でなかった者もなかったし、奴隷の祖先のうちで王でなかった者はいなかった」(ヘレン・ケラー『わたしの生涯』)。近代では、それを賞賛されるべき過去なのか非難されるべきものなのかは新聞次第である。「わたしたちはたくさんの嘘をまことしやかに話すこともできますが、しかしまたその気になれば、わたしたちは真実をも話すことができるのです」(ヘシオドス『神々の誕生』)。ブルジョア的スキャンダルの装置はメディアという噂話を変換し、伝達する機能が不可欠である。ダビデとバテシバの密通もスキャンダルであるが、それは新聞というメディアを通してユダヤ人に浸透したわけではない。ダビデが恐れたのは神であって、世間ではない。道徳は神の死により、ニヒリズムの状態に陥り、スキャンダルがブルジョアの道徳基準である。新聞は話題になり、発行部数を増やすために、スキャンダルを追い求め、ブルジョアはそれによって好奇心を満足させる。近代の道徳は新聞によって規定される。近代小説はそうしたブルジョア道徳的な新聞の三面記事やゴシップ記事の延長であり、ギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』が示している通り、スキャンダルを取りあげ、作品ならびに作者をもスキャンダルの渦に巻きこむ。
狂気の歴史 - Wikipedia
返信削除https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
『狂気の歴史』(フランス語: Histoire de la folie à l'âge classique 1961年)とは西欧の歴史において狂気を扱った思想、制度、芸術などについて考察したミシェル・フーコーの著作。フランス語の教師をしていたスウェーデンのウプサラで第一稿が書かれたが(ウプサラ大学図書館の医学文庫が重要な役割を果たした)、スゥエーデンにおける博士論文提出を拒否され、その後ワルシャワ、パリで完成された。『狂気の歴史』はソルボンヌ大学に博士論文として提出され(審査員はジョルジュ・カンギレム、ダニエル・ラガーシュ)、同時に『狂気と非理性、古典主義時代における狂気の歴史』というタイトルで1961年にプロン社から出版された。出版された本書に対して、フェルナン・ブローデル、モーリス・ブランショは熱烈な賛辞を送っている。その後、1972年、初版の序文を削除し、「狂気、作品の不在」とデリダへの返答「私の身体、この紙、この炉」を追加した現在の版『古典主義時代における狂気の歴史』が、ガリマール社「歴史学叢書」から再刊された[1]。
Foucault, Michel『狂気の歴史――古典主義時代における』
返信削除http://www.arsvi.com/b1900/6100fm.htm
>HOME >BOOK
『狂気の歴史――古典主義時代における』
Foucault, Michel 1961 Histoire de la folie à l'âge classique, Plon.
=197502 田村 俶訳,『狂気の歴史――古典主義時代における』,新潮社,621p.
このHP経由で購入すると寄付されます
■Foucault, Michel 1961 Histoire de la folie à l'âge classique, Plon → 1972, 増補版=197502 田村 俶 訳,『狂気の歴史――古典主義時代における』,新潮社,621p. ISBN-10: 4105067028 ISBN-13: 978-4105067021 \6300 [amazon]/[kinokuniya] p0601, c0105
■目次
序言
序文――ガリマール版
第一部
第1章 《阿呆船》
第2章 大いなる閉じ込め
第3章 感化院の世界
第4章 狂気の諸経験
第5章 気違いたち
第二部
序論
第1章 種の園における狂人
第2章 幻想の超越性
第3章 狂気の現象
第4章 医師と病者
第三部
序論
第1章 大いなる恐怖
第2章 新しい分割
第3章 自由の正しい使途について
第4章 狂人保護院の誕生
第5章 人間論上の円環
付録
《一般施療院》の歴史
一 狂気,営みの不在
二 私の身体,この紙,この炉
訳者あとがき
固有名詞索引
■引用
■紹介・言及
◇ルイ・アルチュセール
◇差別 discrimination
◇橋口 昌治 200908 「格差・貧困に関する本の紹介」, 立岩 真也編『税を直す――付:税率変更歳入試算 +格差貧困文献解説』,青土社
*作成:橋口 昌治 更新:樋口也寸志
UP: 20090804 REV: 0811, 1005
◇犯罪/刑罰・文献 歴史 ◇精神障害/精神障害者・文献 ◇貧困・格差関係の本 ◇身体×世界:関連書籍 ◇BOOK
TOP HOME (http://www.arsvi.com)◇
ミシェル・フーコーまとめ
返信削除http://souzouhou.com/2015/12/05/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83
%95%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81/
フーコーが考察しているのは、狂気が西洋の歴史のなかでいかにして形成されてきたかです。狂気の意味付けと排除の歴史的仮定をフーコーは『狂気の歴史』で分析しています。
狂気は太古の昔から存在しています。しかし、狂気が人間の精神の病として意味づけられるようになったのは、近代の初頭、古典主義時代においてです。
なぜこの時期にこのような意味付けがなされたかというと、近代社会の根幹の理念である理性の概念が形成され、西洋の思想と社会のシステムに根を下ろした時期であったからです。狂気は理性ではないもの、つまり非理性として差異化されてしまいました。そして理性的ではない、狂人は人間ではないものとして排除されるようになりました。治療の対象となっていくのです。ちなみに前近代において狂人は聖なる言葉を聞くものとしての意味付けでした。
1961
返信削除一九七五
Histoire de la folie à l'âge classique
Folie et déraison. Histoire de la folie à l'âge classique est la thèse majeure du doctorat d'État et le premier ouvrage important de Michel Foucault, qui y étudie les développements de l'idée de folie à travers l'Histoire. C'est la deuxième édition, révisée, de 1972, qui abandonne le titre principal au profit du seul sous-titre.
Histoire de la folie à l'âge classique — Wikipédia
https://fr.m.wikipedia.org/wiki/Histoire_de_la_folie_%C3%A0_l%27%C3%A2ge_classique
Plan
Première partie Modifier
Chapitre I - Stultiferas navis
Chapitre II - Le grand renfermement
Chapitre III - Le monde correctionnaire
Chapitre IV - Expériences de la folie
Chapitre V - Les insensés
Deuxième partie Modifier
Introduction
Chapitre I - Le fou au jardin des espèces
Chapitre II - La transcendance du délire
Chapitre III - Figures de la folie
Chapitre IV - Médecins et malades
Troisième partie Modifier
Introduction
Chapitre I - La grande peur
Chapitre II - Le nouveau partage
Chapitre III - Du bon usage de la liberté
Chapitre IV - Naissance de l'asile
Chapitre V - Le cercle anthropologique
「汚辱に塗れた人々の生」『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』ミシェル・フーコー著・ちくま学芸文庫 - hokou on the web
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「汚辱に塗れた人々の生」『フーコー・コレクション 6 生政治・統治』ミシェル・フーコー著・ちくま学芸文庫
本
「汚辱に塗れた人々の生」は、静かな哲学者、ジル・ドゥルーズが『フーコー』(河出文庫)で何度も言及し、珍しく「傑作」と褒め称えたエッセイのひとつ。
フーコーは『狂気の歴史』以来、一般施療院とバスチーユ監獄に残された収監古文書を発掘し続けていた。それはたとえば、
「マチュラン・ミラン、一七〇七年八月三十一日シャラントン施療院収監―<絶えず家族から身を隠し、林野で世に埋もれた生活を送り、夥しく訴訟を起こし、高利で金を貸しつけ資産を遣い果たし、その哀れな心を見知らぬ街路に彷徨わせつつ、より大なる事業を行い得ると自らに信じ続けるところ、この者の狂気を認む>」。
というものであり、数行、あるいは数頁の、一掴みの言葉に要約された数知れない不幸や冒険である。
それがたとえ、ほんのささいな逸脱であっても、告発されたものはすでに、たちまち恐るべき者と化す。一度でもこうした「政治的鎖」にからみとられれば、そこから逃れる術はないのだ。後は、ただ沈黙があるのみ。
ただし、この圧縮されたテクストのなかには、フーコーに「一瞬の閃光」を与えるような、エネルギーがある。権力と衝突し、それと格闘し、またはその罠から逃れようとし、捕まった、一瞬の緊迫した生の記録。
「権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち」。ここにこそ、卑小な実存にとっての記念碑がある、という。
また、文学は他のいかなる形式の言語活動よりも「汚辱」のディスクールであるといい、
「もっとも語り難きもの―もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも呵責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。」
という、特異な位置から語られる文学論が、権力の構造を貫通している。
何よりもこの一篇は、世に知られることなく埋没した人々のための、フーコーの詩であろう。
返信削除《…党というものは、合理的なある一つの決断を下しうるヒエラルキーを持った組織であるわけですから、何か暗い狂気を含んだ部分とか、あるいは人間の活動の夜の部分という、まあ暗く孤立した部分というものが──いわゆる闘争には、当然、必然的に含まれていたにもかかわらず──それそのものとしてはどうしても視界に浮上してくることがなかったのです。たぶんニーチェか、あるいは理論ではなく文学的作品だけがそれを語ったにすぎません。文学と哲学との違いといったことを強調するのもあまり有意義なこととは思えませんが、しかし理論の面で、闘争のそうした暗く孤立した部分を語りえなかったことはたしかだというほかはありません。
だからこそ、理論の持つこのような不充分な局面を白日のもとにさらさねばなりません。哲学のみが唯一の規範的な思考だとする考え方を破壊する必要があるのです。そして無数の語る主体の声を響かせ、おびただしい数の体験をして語らせねばならないのです。語る主体がいつでも同じ人間であってはいけない。哲学の規範的な言葉ばかりが響いてはならない。ありとあらゆる体験を語らせ、言葉を失った者たち、排除された者たち、死に瀕した人たちに耳を傾ける必要があるのです。というのは、我々は外部におり、そうした人たちこそが闘争の暗く孤立した側面を実質的に扱っているからです。そしてそうした言葉に耳を傾けることこそが、今日西欧に生きる哲学するもののつとめであろうと思います。》
フーコー
世界認識の方法
吉本
返信削除《…フーコーさんにそこのところでお訊きしたいのですが、マルクス主義を始末したそのあとでどういう問題が
残るのかという場合に、ぼくなりの読み方によりますと、フーコーさんはヘーゲルの意志論にわたる領域を、
全体考察、つまり世界認識の方法から全部抜いてしまったとおもえるのです。そして全体の構想のなかから省い
たあとはそれを個別的な問題のようにみなして、刑罰の歴史とか狂気の歴史とかの追及に向かわれた。ヘーゲル
がたいへん問題にした領域は全部個別的な課題に転化してしまって、全体の構想からヘーゲルのいう意志論は
排除したのではないのかなとおもわれました。
それから『言葉と物』を読んで、ぼくの読み方で特徴的だとおもえたことは、ある事物ないし言葉の表現、
つまり思想というものから、その背後に意味の核、中心を捜していくという方法をフーコーさんは徹底的に
否定したんじゃないか。それを拒否するという態度の問題を提出してきたのではないかなということです。
そしてその問題意識はニーチェから由来するのではないかというのがぼくの読み方です。》
フーコー
《…党というものは、合理的なある一つの決断を下しうるヒエラルキーを持った
組織であるわけですから、何か暗い狂気を含んだ部分とか、あるいは人間の活動
の夜の部分という、まあ暗く孤立した部分というものが──いわゆる闘争には、
当然、必然的に含まれていたにもかかわらず──それそのものとしてはどうして
も視界に浮上してくることがなかったのです。たぶんニーチェか、あるいは理論
ではなく文学的作品だけがそれを語ったにすぎません。文学と哲学との違いといっ
たことを強調するのもあまり有意義なこととは思えませんが、しかし理論の面で、
闘争のそうした暗く孤立した部分を語りえなかったことはたしかだというほかは
ありません。
だからこそ、理論の持つこのような不充分な局面を白日のもとにさらさねばなりません。
哲学のみが唯一の規範的な思考だとする考え方を破壊する必要があるのです。そして無数の
語る主体の声を響かせ、おびただしい数の体験をして語らせねばならないのです。語る主体
がいつでも同じ人間であってはいけない。哲学の規範的な言葉ばかりが響いてはならない。
ありとあらゆる体験を語らせ、言葉を失った者たち、排除された者たち、死に瀕した人たちに
耳を傾ける必要があるのです。というのは、我々は外部におり、そうした人たちこそが闘争の
暗く孤立した側面を実質的に扱っているからです。そしてそうした言葉に耳を傾けること
こそが、今日西欧に生きる哲学するもののつとめであろうと思います。》
フーコー
世界認識の方法
対談がわかりやすい
返信削除特に吉本隆明対談撰と世界認識の方法に所収されているフーコーとの対談がオススメ
後者は電子版がある
吉本
《…フーコーさんにそこのところでお訊きしたいのですが、マルクス主義を始末したそのあとでどういう問題が
残るのかという場合に、ぼくなりの読み方によりますと、フーコーさんはヘーゲルの意志論にわたる領域を、
全体考察、つまり世界認識の方法から全部抜いてしまったとおもえるのです。そして全体の構想のなかから省い
たあとはそれを個別的な問題のようにみなして、刑罰の歴史とか狂気の歴史とかの追及に向かわれた。ヘーゲル
がたいへん問題にした領域は全部個別的な課題に転化してしまって、全体の構想からヘーゲルのいう意志論は
排除したのではないのかなとおもわれました。
それから『言葉と物』を読んで、ぼくの読み方で特徴的だとおもえたことは、ある事物ないし言葉の表現、
つまり思想というものから、その背後に意味の核、中心を捜していくという方法をフーコーさんは徹底的に
否定したんじゃないか。それを拒否するという態度の問題を提出してきたのではないかなということです。
そしてその問題意識はニーチェから由来するのではないかというのがぼくの読み方です。》
フーコー
《…理論の持つこのような不充分な局面を白日のもとにさらさねばなりません。
哲学のみが唯一の規範的な思考だとする考え方を破壊する必要があるのです。そして無数の
語る主体の声を響かせ、おびただしい数の体験をして語らせねばならないのです。語る主体
がいつでも同じ人間であってはいけない。哲学の規範的な言葉ばかりが響いてはならない。
ありとあらゆる体験を語らせ、言葉を失った者たち、排除された者たち、死に瀕した人たちに
耳を傾ける必要があるのです。というのは、我々は外部におり、そうした人たちこそが闘争の
暗く孤立した側面を実質的に扱っているからです。そしてそうした言葉に耳を傾けること
こそが、今日西欧に生きる哲学するもののつとめであろうと思います。》
対談がわかりやすい
返信削除特に吉本隆明対談選と世界認識の方法に所収されているフーコーとの対談がオススメ。後者は電子版もある
吉本
《…フーコーさんにそこのところでお訊きしたいのですが、マルクス主義を始末したそのあとでどういう問題が
残るのかという場合に、ぼくなりの読み方によりますと、フーコーさんはヘーゲルの意志論にわたる領域を、
全体考察、つまり世界認識の方法から全部抜いてしまったとおもえるのです。そして全体の構想のなかから省い
たあとはそれを個別的な問題のようにみなして、刑罰の歴史とか狂気の歴史とかの追及に向かわれた。ヘーゲル
がたいへん問題にした領域は全部個別的な課題に転化してしまって、全体の構想からヘーゲルのいう意志論は
排除したのではないのかなとおもわれました。
それから『言葉と物』を読んで、ぼくの読み方で特徴的だとおもえたことは、ある事物ないし言葉の表現、
つまり思想というものから、その背後に意味の核、中心を捜していくという方法をフーコーさんは徹底的に
否定したんじゃないか。それを拒否するという態度の問題を提出してきたのではないかなということです。
そしてその問題意識はニーチェから由来するのではないかというのがぼくの読み方です。》
フーコー
《…理論の持つこのような不充分な局面を白日のもとにさらさねばなりません。
哲学のみが唯一の規範的な思考だとする考え方を破壊する必要があるのです。そして無数の
語る主体の声を響かせ、おびただしい数の体験をして語らせねばならないのです。語る主体
がいつでも同じ人間であってはいけない。哲学の規範的な言葉ばかりが響いてはならない。
ありとあらゆる体験を語らせ、言葉を失った者たち、排除された者たち、死に瀕した人たちに
耳を傾ける必要があるのです。というのは、我々は外部におり、そうした人たちこそが闘争の
暗く孤立した側面を実質的に扱っているからです。そしてそうした言葉に耳を傾けること
こそが、今日西欧に生きる哲学するもののつとめであろうと思います。》
商品の詳細
返信削除Foucault at the Movies2018/7/17
Patrice Maniglier、 Dork Zabunyan
Kindle版
¥ 3,188
ハードカバー
¥ 9,069プライム
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
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Blog / ブログ
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」
2007.12.09 └哲学と大学, 宮崎裕助
公開共同研究「哲学と大学」第2回は、UTCP共同研究員・宮崎裕助によるカントの『学部の争い』に関する発表だった。
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⇒発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」
『学部の争い』(1798年)は、『人間学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。
カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部(哲学部)とから構成されている。上級学部の教説は国民に強力な影響力をもつ。神学部は各人の永遠の幸せを、法学部は社会の各成員の市民的な幸せを、医学部は肉体的な幸せ(長寿と健康)を対象とする。上級学部は政府から委託されて、文書にもとづく規約(聖書、国法、医療法規)を整備することで公衆の生活に直接的な影響を及ぼす。政府は上級学部の教説を認可し統御することで、国家権力を行使するのである。
他方、下級学部(哲学部)は国家の利害関心からは独立しており、その教説は国民の理性のみに委ねられる。哲学部は国家権力の後ろ盾がないが、しかし、すべての教説を判定する理性の自由を保証されている。哲学部は国家権力に対して反権力を対置するのではなく、一種の非権力、つまり権力とは異質の理性を対置することによって、この権力の限界画定を内側から試みるのだ(デリダ)。哲学部は大学の一学部として制度的に限定されると同時に、批判的理性を行使する無条件な権利をもつという点で学問の全領域を覆う。それゆえ、哲学部をめぐるアポリアは、ひとつの有限な場所と遍在的な非場所(シェリング)という二重性をもつ哲学部をどのように大学制度のうちに定着したらよいのか、という問いになるだろう。
上級学部と下級学部の争いは合法的なものであって、戦争ではない。上級学部が右派として政府の規約を弁護するならば、下級学部(哲学部)は反対党派(左派)として厳密な吟味検討をおこない、異論を唱える。理性という裁判官が真理を公に呈示するために判決を下すかぎりにおいて、この争いは国家権力に対しても有益なのである。その場合、まるで梃子の作用が働くように、真理への忠実さという点で哲学部は右派となり、上級学部は左派となるだろう。こうした大学の建築術的な図式において重要なことは、各勢力の争いの両極を分かつ支点において大学全体の方向を転換するような「梃子(モクロス)」(デリダ)の作用が維持されること、そうすることで、真理をめぐる複数の政治的戦略が可能性として残されることであるだろう。
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討議の時間では、カントの大学論を現在の視点から読む上での注意事項が挙げられた。まず、カントのいう哲学部と哲学を分けて考える必要性だ。カントの時代の哲学部から文学部や理学部、経済学部などが派生してくるわけで、それは狭義の哲学部ではない。また、この大学論はカントの政治的な振る舞いが込められたテクストであり、その文脈を十分に考慮しなければならない。
大学の各学部の上級/下級という区分は、現在で言うと専門と基礎教養に対応するものだろうが、カントの区分は実によく練り上げられている。神学は来世、法学と医学は現世を対象とし、さらに法学と医学は社会的次元と身体的次元に関係する。上級学部は人間の生活に関わるほとんどすべての領域を包括するのであり、これを統御する国家は優れた「統治性」(フーコー)を発揮することができる。これに対して、下級学部(哲学部)には理性の自由が許可されるとカントは幾度も書いているのだが、意外にも、真理に関する記述は手薄である。つまり、カントは真理を実定的なものとして提示するのではなく、むしろ真理の可能性の条件を提示し、理性の自由な判断はいかにして可能かを論及するのだ。例えば、真理とは虚偽を発見し、これを排除する手続きであって、そのためには公開性の原則が保持されなければならない、というように。
「学者の形象」に関しても議論となった。カントは『啓蒙とは何か』において「als Gelehrter(学者として)」という表現を何度か使用して、理性の公的使用を説明した。日常生活において聖職者や士官として社会的役割をはたす人々が、「Gelehrter」として理性を世界市民的な視点から行使しうるとされる。この場合、「Gelehrter」は敢えて「知識人」と解した方がよい、という意見が出た。カントは大学教育を受けた者を原像として「Gelehrter」を使用し、これを「自分の見解を書くことを通じて表現できる者」という意味合いで使っているのではないか。こうした「学者の形象」を踏まえて、それでは、誰もが「自分の見解を書くことを通じて表現できる」この高度情報化社会において、「在野の学者」とはいったい誰のことを指すのか、という問いも発せられた。
前回に引き続き関西から参加してくれた斉藤渉氏(大阪大学)は、カントの時代の大学制度に関して詳細なコメントを加えてくれた。次回(1月28日)は、フンボルト研究者である斉藤氏による発表である。あのフンボルトの大学理念がいよいよ登場するわけだ。
(文責:西山雄二)
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【UTCP Juventus】 西山雄二
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6:17 午後 削除
Blogger yoji さんは書きました...
【報告】「哲学と大学」 第2回「カント『学部の争い』」 - UTCP
utcp.c.u-tokyo.ac.jp/from/.../-philosophy-and-university-2-k/
発表レジュメ「カントの『諸学部の争い』をめぐって」. 『学部の争い』(1798年)は、『人間 学』と並んで、カントが生前に公表した最後の著作である。初版の諸論文は検閲に遭って 発禁処分となったため、序言には検閲を行ったフリードリッヒ・ヴィルヘルム二世への 弁明が綴られている。大学論は第1部「哲学部と神学部との争い」で展開されており、 この部分は日本語訳にしてわずか20頁ほどだが実に豊かな問題を提起している。 カントの時代、大学は三つの上級学部(神学部、法学部、医学部)と下級学部( ...
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諸学部の争い - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/諸学部の争い
カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:1)健康の追求(肉体(物質) 的)、2)社会的な平和の追求(社会的)、3)信仰上の平安(宗教的)。これらのぞれぞれ を研究する学問の学部である医学部と法学部と神学部は社会上の権威と同時に権力も 握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部 として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部 と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的で ...
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
返信削除諸学部の争い
ページの問題点
「諸学部の争い」は草稿などを除く、刊行物の中でカントの最晩年に書かれた本である。この本は発禁を避けるため、慎重に時期を伺って刊行期日が選ばれて出版された。
カントによれば、人生には三つの重大な幸福の追求がある:
1)健康の追求(肉体(物質)的)、
2)社会的な平和の追求(社会的)、
3)信仰上の平安(宗教的)。
これらのぞれぞれを研究する学問の学部である
医学部と法学部と神学部は
社会上の権威と同時に権力も握っていた。カントはこれらを上級学部と名づける。これに対し当時の哲学部は下級学部として上級学部より劣った立場として扱われていた。諸学部の争いとは以上の上級学部と下級学部の争いを指す。カントは、上級学部の価値判断はすべて歴史的・経験的であり、下級学部の哲学による判断の方が先見的・理知的であるとして、上下の優劣の逆転を説く。つまり哲学こそが最も諸学のなかで勝る学問であるとした。とりわけ宗教的権威である教会の堕落への批判は痛烈である。[1]
カントはこの本の中で専門家以外の外部の意見が自由な討議を妨げる恐れがあるから、専門家の議論の過程は公には公開すべきではないと主張する。
脚注または引用文献 編集
^ 角忍; 竹山重光; 久保光志; 他 (2002-11-26). カント全集18. 岩波書店.
ノート
807 考える名無しさん[] 2023/02/26(日) 04:19:38.66 ID:0
返信削除フーコーが、唐突に、交換の重要性を語っていて、柄谷行人の交換様式論を思い出した。
言語で伝達されるべきでない真理は、貨幣の見えない力に相当するのだろうか。
フーコー「カントの人間学」(新潮社)
人間学とは、意味がはっきりしていたりいなかったりするこの出来合いの言語の解明である。その出来合いの言語によって、人間は事物の上に、また人間同士のあいだに、交換と相互性と物言わぬ理解からなる網を繰り広げる。
ある国語で言われたことに十全な交換価値があることを保証していたのは、このラテン的な権威だったのだ。
だから『人間学』が明らかにする真理は、言語以前にあって、言語によって伝達されるべきものではない。この真理はずっと内的でずっと複雑なものだ。それは交換の運動そのもののなかにあり、この交換こそが人間の普遍的真理を完成するのだから。先ほど、本源的なものが時間的なものそのものとして定義されたのと同様に、今度は、本源的なものはあらかじめ存在する秘められた意味のなかにではなく、もっとも眼につきやすい交換の軌跡のなかにあると言ってもよいだろう。言語はこの交換のなかで現実性を獲得し、完成し、再発見するのであり、人間もまた同じようにそこで人間学的な真理を展開するのである。