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日曜日, 11月 18, 2012

プラトンの洞窟の比喩と映画

                 プラトン@ 、『哲学の起源』リンク:::::::::

NAMs出版プロジェクト: プラトンの洞窟の比喩と映画

http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/test_18.html@

NAMs出版プロジェクト: 信念について

http://nam-students.blogspot.jp/2015/01/blog-post_17.html

戦士エルの物語図解

http://nam-students.blogspot.jp/2017/12/blog-post_25.html
    
洞窟と映画
http://yojiseki.exblog.jp/10632864/

以前紹介したボブ・ディランの以下のインタビュー記事は、プラトンの洞窟の比喩とそっくりなことに気づいた。
(ただしディランは、フーコー及び柄谷行人の言うパレーシアの人=「真の生」開く人で、プラトン=『国家』によって追放される彷徨う詩人側の人間であろう。)


(質問者)これまでに、書こうとしても、どうしても書けなかったようなことは?
         
ディラン あるとも。どんなものでも、書こうとすると書けないものなのだ。僕が何かについて書こうとしたとする−−「馬について書きたい」とか「セントラル・パークについて書きたい」とか「グランド・キャニオンについて書きたい」とか「コカイン産業について書きたい」−−ところが、それじゃ、何もうまくいかないのだ。いつも肝心なものを除外してしまうのだ。ちょうど、あのHurricaneの歌のように。僕はハリケーン・カーターについて曲を書きたかったし、そのメッセージを広めたかった。ところが、ハリケーン・カーターについてなど、どこにも出てこない。ほんとうなんだ、その曲の本質というものは、何かについてではない。つまり、すべてはきみ自身についてなのだ。きみが誰か他人の靴をはいて立っているかぎり、きみにはその感触がどんなものかわからないだろう。それが何についてかさえわからない。
 映画を観に行って、「何についての映画だったんだ?」ということはできる。映画というのは、きみに時間を止められるという幻想を抱かせるものなのだ。きみはどこかに行って、しばらくのあいだじっと坐っている。きみは何かを観ている。わなをしかけられたも同然だ。すべてはきみの脳の中で起こり、いま世界ではそれ以外に何も起こっていないように、きみを思わせる。時間はとまっている。外では世界が終末を迎えようとしていたとしても、きみにとって、時間は止まったままだ。その時、誰かが「何についての映画だったんだ?」と聞く。「うーん。よくわからないな。同じ娘をものにしようとしていた、二人の野郎の話だろ?」あるいは「ロシア革命についての映画だよ」そうだ、それは映画が何についてだったか説明しているが、映画そのものではない。きみに、ずっと座席に坐ってスクリーンに見入ったり、壁のライトを見つめたりさせたのは、それではないはずだ。他のいい方をすれば、きみは、「人生とはいったい何なのだ?」ということもできた。それは、いつだって映画のように過ぎていくだけだ。きみがここに何百年もいようが関係なく、それはただ過ぎ去っていく。誰にも止めることはできない。
 だから、それが何についてかなどということはできないのだ。ただ、きみにできることは、その瞬間の幻を与えようとすることだけだ。だが、それにしたって、それがすべてではない。きみが存在していたという単なる証なのだ。
 どれが何についてだって? それは何についてでもない。それはそれなのだ。
(『ロックの創造者たち』より)


以下は、プラトン『国家』7:1〜2(岩波文庫下巻p94〜)
http://www.qmss.jp/interss/01/materials/plcave.htm

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm

 「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 −地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ[ab]。彼らの上方はるかのところに、火[i]が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道[ef]が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなもの[gh]が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウゴンは言った。









 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部[cd]に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

 −彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。


 「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではないだろうか? 」

(略)
 「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。――まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう。」「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることが出きるようになるだろう」



参考:
http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/politeia2004.html
道新文化センター2004年度
「プラトン『国家』を読む」資料

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node9.html#SECTION00032100000000000000
言論の上での国家の建設
最も必要なものだけの国家(第2巻第11-12章)

「そもそも国家というものがなぜ生じてくるかと言えば,それは,人間がひとりひとりでは自給自足もできず,多くのものに不足しているからだ。…ある人はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして,人間は多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や 助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住にわれわれは〈国家〉という名前をつけるわけなのだ。」(369B-C)

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node11.html
個人における正義(第4巻11章-19章)
第4巻12章 矛盾律 ここで哲学史上初めて「矛盾律」というものが明確に表明される。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一のものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることはできないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それらは同一のものではなくて, 二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B-C)
「同じものが同じものについて同時に反対の判断をもつということは,不可能である」(602E)
「同じものを,知っていて知っていないとか,知らないでいて知っているとかいうことは不可能である。」(プラトン『テアイテトス』188A)


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/stoics/stoics.html

古代ギリシア哲学 ストア派
(図多数)


付録:
【動画】-人間は洞窟にとらわれた囚人である-プラトンの洞窟の世界観をクレイアニメで表現したショートフィルム
The Cave: An Adaptation of Plato's Allegory in Clay

http://youtu.be/E4XXItJYFKA

30 件のコメント:

  1. http://karapaia.livedoor.biz/archives/52057772.html
    【動画】-人間は洞窟にとらわれた囚人である-プラトンの洞窟の世界観をクレイアニメで表現したショートフィルム : カラパイア


     洞窟の比喩はプラトンの著書『国家』第7巻に記述されている。(wikipedia)
    (514A-515A) ……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……

    洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考えていたのだ。

     そしてプラトンは、アリストテレスにこう言った。「私たちは何も知らなさすぎる。私たちは、その洞窟を抜け出して太陽を見なければならない。太陽というものは真実なのだ。そして、太陽を見ようをもがき、考えることを"哲学する"というのだ」と。

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  3. 柄谷哲学の起源単行本はプラトン国家引用箇所が増えた
    5,6,7巻特に6



    http://philos.fc2web.com/plato/politeia.html

    哲人政治論

    ───プラトン著 藤沢令夫訳『国家(上)』岩波文庫青601-7──────
    「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」(とぼくは言った、)「あるいは、)現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、(親愛なるグラウコンよ、)国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。……
    ──────────P405(ステファヌス版473D)より引用─────5巻18

    哲学の起源214頁


    http://blog.goo.ne.jp/dreamct-1/e/daf9ef1ff04e384ed034fbbbb13f1d18

    『国家−上・下』プラトン著(岩波文庫)を読んで-gooブログ

    ・ その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、

    (そういう国家こそが、最もよく、内部的な抗争の最も少ない状態で治まる。)

    下109
    7巻5


    哲学の起源214頁


    http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/shin-kokusai/philosophy/2012/20120511shiryo
    pdf


    a.「すなわちそれは、理(ことわり、logos)がそれ自身で、問答(対話)の力によって把握す るところのものであって、この場合、理はさまざまの仮設(ヒュポテシス)を絶対的始原とする ことなく、文字どおり〈下に(ヒュポ)置かれたもの(テシス)〉となし、いわば踏み台として、 また躍動のための拠り所として取り扱いつつ、それによってついに、もはや仮設ではないものに まで至り、万有の始原に到達することになる。そしていったんその始原を把握したうえで、こん どは逆に、始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら、最後の結末に至るまで下降し て行く…」(『国家』VI.511B) 

    哲学の起源230頁


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  4. http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/politeia2004.html

    道新文化センター2004年度 
    「プラトン『国家』を読む」資料

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  5. http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/stoics/stoics.html

    古代ギリシア哲学 ストア派
    (図多数)

     つまり、ストア派における「基体」は「自然」を内包していない状態のものということになりますが、2-3で主張したように、ストア派においてはこの「自然」と「基体」の区別はあくまで概念上の区別であり、存在者としての立場を認められているものは「自然」と「基体」が結びついている「自然を内在しているもの」、すなわち、「物体」のみでした。
     ですから、この一番目のカテゴリーとしてストア派が提示している「基体」というのも、それは存在として認められているわけではなく、あくまで、存在者である「物体」を概念として厳密に規定するために用意したものと考えるべきでしょう。 


    2-4-2、性質的形容 
     次に「性質的形容」についてみてみましょう。例によって、以下の資料を見て下さい。

    『初期ストア派断片集2』三九五(シンプリキオス『アリストテレス「魂について」注解』二一七-二一八) 
    具体的なものの場合にも、[質料と]統一された形相があるなら、ストア派の人々の間では、性質的形容は固有の仕方ではそれに基づいて語られ、それがまた、一挙につけ加わったりまた離れたりして、具体的なものの全寿命を通じて同じものとして存続するのだが、他の諸部分は時によって生じたり滅んだりする。 

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  6. http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
    橋本努北大講義プラトン「国家」

    Ⅳ 不完全国家とそれに対応する人間の諸形態。正しい生と不正な生の比較。
    ・【5種類の国制とその移り変わり】:優秀者支配制→名誉支配制→寡頭制→民主制→僭主独裁制(170)
    (1)「優秀者支配制」:哲学者によって統治された体制。財産の共有。妻女の共有。

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  7. 2:11
    自給自足が出来ないから国家が生じてくる
    国家上131頁

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  8. http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node9.html#SECTION00032100000000000000
    言論の上での国家の建設

    最も必要なものだけの国家(第2巻第11-12章)

    「そもそも国家というものがなぜ生じてくるかと言えば,それは,人間がひと りひとりでは自給自足もできず,多くのものに不足しているからだ。…ある人 はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えると いうようにして,人間は多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や 助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住にわれわ れは〈国家〉という名前をつけるわけなのだ。」(369B-C)

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  9. 柄谷哲学の起源岩波
    233頁(217頁)関連:


    http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012060300010.html?guid=on
    ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気 自己と他者の統治2 [著]ミシェル・フーコー - 柄谷行人(評論家) - 書評
    ■「真の生」開く哲学、ソクラテスに探る

     本書はフーコー最晩年(1984年)の講義録であり、その主題は「パレーシア」である。それはギリシャ語で「真理を語る」という意味だ。真理を語るといっても、いろんなケースがある。真理を語ることによって、相手との関係が損なわれたり、自分の身が危うくなる場合がある。パレーシアとはそのような場において真理を語ることである。だから、パレーシアには「勇気」がいる。
     なぜフーコーはこのことを考えるようになったのか。それは哲学の意味を問い直すためである。今日、哲学は知識を厳密に基礎づける仕事として存在している。それはプラトン以来の哲学がたどった道である。フーコーはそれに異議を唱える。哲学は「真の生」を開示するものであった、と彼はいいたいのだ。そして、彼は、「ソクラテス以前の哲学」に向かった同時代の傾向に反して、その手がかりをソクラテスに見いだそうとする。
     ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。
     そのような伝統がソクラテスに由来することは否定できない。しかし、ソクラテスには別の側面がある。フーコーはそれを受け継ぐ者を、キュニコス派(犬儒派)のディオゲネスに見た。彼にはさまざまな伝説がある。彼を犬扱いした相手に、小便をかけてまわった。物乞いし、樽(たる)の中に住んだ。人前で自慰をした、等々。こうしたエピソードは、彼のスキャンダラスで戦闘的な言動がパレーシアであったことを物語っている。事実、プラトンは彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。
     フーコーによれば、キュニコス主義は古典古代において嫌悪されながら重視され続けた。そして、それはやがて、キリスト教の修徳主義(ドミニコ会やフランシスコ会)に取り入れられた。つまり、パレーシアや哲学的な「生」は、哲学よりむしろ宗教のほうに残ったのである。その後も消えることはなかった。近代では、それは芸術家の生き方や「極左主義」というかたちをとったと、フーコーはいう。30年後の今日、それは消えてしまっただろうか。
        ◇
     慎改康之訳、筑摩書房・6195円/Michel Foucault 1926〜84。フランスの哲学者・思想家。著書に『狂気の歴史』『性の歴史』など。本書はコレージュ・ド・フランスでの講義録(講座名は思考諸体系の歴史)の一部(邦訳は全13冊)。

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  10. http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node11.html
    個人における正義(第4巻11章-19章)
    12章 矛盾律

    ここで哲学史上初めて「矛盾律」というものが明確に表明される。

    「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一の ものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることは できないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう 事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それらは同一のものではなくて, 二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B-C)
    「同じものが同じものについて同時に反対の判断をもつということは,不可 能である」(602E)
    「同じものを,知っていて知っていないとか,知らないでいて知っていると かいうことは不可能である。」(プラトン『テアイテトス』188A)

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  11. http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012060300010.html?guid=on
     ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。

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  12. ディランはパレーシアの人で、追放される=彷徨う詩人である

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  13. http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/plato/plato.html
    古代ギリシア哲学 プラトン(B.C.427-347)
    AーーDーーーCーーーEーーーーB


     また、プラトンはAD、DC、CE、EBの四つの範囲でそれぞれに働く認識作用を、AD=映像知覚(間接的知覚)、DC=確信(直接的知覚)、CE=悟性的思考(間接知)、EB=知性的思惟(直接知)と呼んで分類しています。 
     これまでの部分って、なんとなく文章だけだとわかりづらいですけど、いま説明してきたようなことを加味して再度プラトンの線分を図で表すと以下のようになります。 

    ○線分…その2 
     

     以上が、「線分の比喩」を用いてなされた人間の認識の分類です。 
     さて、これまでの議論をまとめると、プラトンは「太陽の比喩」によって「思惟によって知られる世界」における認識のあり方を明らかにし、「線分の比喩」によって「見られる世界」と「思惟によって知られる世界」の両方でなされる人間の認識すべてを四つに分類しました。 

    第6巻にカントの原型

    4に論理学
    5に共産主義
    7にイデア、宇宙倫理

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  14. 10
    詩人追放論
    籤引き

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  15. http://nam-students.blogspot.jp/2012/05/blog-post_10.html
    ロッセリーニ『ソクラテス』

    パゾリーニの最後の企画も「史上最大の過激派」ソクラテスだった(もう一つはパウロ)

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  17. 哲学の起源4:2

    131頁(226)

    ポパー、ヘラクレイトスについて

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  18. ドゥルーズにおける思考の概念
    http://www3.ocn.ne.jp/~camp/deleuze.html

     「現在のような貧しい時代には、超越性の復権と、「何かについて考察する」という意味の哲学への回帰が存在しています。それはまた、アカデミスムヘの回帰でもあります。ですから、今まさに取り戻さなければならないのは、創造としての哲学なのです。 つまり、「何かについて考察する」のではなく、概念を創造すること。超越性を探求するのではなく、内在野において概念を機能させることです。(1)」

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  19.       (太陽 善のイデア)
             \|/
            --○--
             /|\   (地上 イデア界)
          _________________
    \洞窟   \
     \ i    \_____________   
      \光源                |
       \ ef _     ab   cd|
        \通路|塀|    人々   影絵|
         \_| |___________|


          (太陽 善のイデア)
             \|/
            --○--
             /|\   (地上 イデア界)
          _________________
    \洞窟   \
     \     \_____________   
      \i光源               |
       \ ef 人形    ab   cd|
        \通路 ☆_    人々   影絵★
         \__|壁|__(囚人)____|


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  20. エウリピデス


    エウリピデス像
    エウリピデス(古典ギリシア語: Ευριπίδης, Euripides、紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)は、古代アテナイの三大悲劇詩人の1人。現代にも大きな影響を及ぼしている。代表作は『メデイア』、『アンドロマケ』など。


    ニーチェの悲劇の誕生によれば
    エウリピデスとソクラテスはつながる

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  21. プラトンの言葉「善人とは、悪人が実際に行っている事を夢に想像して満足している人間である」
    はどの著作で言っているのでしょうか?

    国家第九章の要約だろう

    5 追記
    >>150の文章はフロイトの『精神分析入門』からの引用のようだ。
    新潮文庫版 上巻 第2部「夢」 第9講「夢の検閲」p.201

    精神分析がここで言っていることは、プラトンが言った言葉、すなわち善人とは悪人が現実に行っていることを夢にみて満足している人間であるということ以外のなにものでもないのです。

    返信削除
  22. 哲学の起源231-2頁(217)

    ポパー邦訳上104頁

    プラトンが意図的に無視したというisonomy については ポパー『開かれた社会とその敵1』邦訳103−4、272−4参照

    平等主義の3つの要求に関しては104頁


    http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA254&dq=isonomy+popper&hl
    =ja&sa=X&ei=916sUOLkLY7imAW7_IHoCQ
    &ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q=isonomy
    %20popper&f=false

    Open Society and Its Enemies, Volume 1: The Spell of Plato
    著者: Karl R. Popper,Sir Karl Raimund Popper


    http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA93#v=onepage&q&f
    =false

    p93-4

    本文isonomy

    返信削除
  23. yoji さんは書きました...
    プラトンが意図的に無視したというisonomy については ポパー『開かれた社会とその敵1』邦訳103−4、272−4参照

    平等主義の3つの要求に関しては104頁


    http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA254&dq=isonomy+
    popper&hl=ja&sa=X&ei=916sUOLkLY7imAW7_
    IHoCQ&ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q
    =isonomy%20popper&f=false

    Open Society and Its Enemies, Volume 1: The Spell of Plato
    著者: Karl R. Popper,Sir Karl Raimund Popper


    http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA93#v=onepage&q&f=false

    p93-4

    本文isonomy

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  24. プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識というものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題の部分集合」とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。

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  25. 宗教、信仰だと社会学の対象になるが、信念になると哲学の対象になる。
    (呪術(一体一)と宗教(媒介のある三角形)の違いに関してはR.オットー*が何か言っていた。)
     ________________
    |命題 ____  ____   |
    |  /    \/    \  |
    | /     /\     \ |
    ||     |  |     ||
    || 真理  |知識| 信念  ||
    ||     |  |     ||
    | \     \/     / |
    |  \____/\____/  |
    |________________|
    知識 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98

    プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で
    提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識という
    ものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると
    「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題の部分集合」
    とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。

    参考:
    信念の検証について ― C.S.パースの認識批判再考 ― 野口良平
    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/581pdf/noguchi.pdf

    なおカントは、「純粋理性批判」第二版の序文で「信仰の場所を作るために
    知識を制限しなければならなかった」という意味のことばを述べている。
    ただし、総じてカントは宗教を理性で置き換えたと言える。

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  26. プラトンの自然学
    http://www.laboratory-for-metaphysics.org/Timaios.html
    [異なる運動と同じ運動]
    プラトンは魂をさらに異なるモノと同じモノの混合体として説明しようとします.ティマイオスは「その時「異」は混りにくかったのですが,これを力づくで「同」に適合させたのです[47]」というのです.つまり,「異なる」モノを「同じ」モノにする,つまり異なるモノ同士を結合するにおいては,「力」が必要とされるのです.これを,力の概念の萌芽であるといえないこともないでしょう.

    ティマイオスは続けます.「まず,全体から一つの部分を切り離しました.
    その次には,前者の二倍の部分を,
    さらに第三には,第二の部分の一倍半で,第二の部分の三倍に当たる部分を,
    第四には,第三の部分の三倍を,
    第五には,第一の部分の八倍を,
    第七には,第一の部分の二十七倍を,という具合に切り離していったのです[48]」.これは,2の累乗と3の累乗を考えるのです.つまり,2,4,8と3,9,27の二つの数列がそれです.そして「つまり,その一つは,両端の項それぞれに対してそのどちらにとっても等しい割合を占める分だけての差をもって初項を超過し,末項によって超過されるものであり[調和中項],いま一つは,数的に等しい差をもって,初項を超過し,末項によって超過されるもの[算術中項]なのです[49]」というのです.このように,数的な関係をもって全宇宙の秩序を作り出そうとします.

    さらに「そこで神は,この組織全体を縦に二つに裂いて,それぞれの裁片の真ん中と真ん中を,ちょうど文字Χ(ギリシア文字「ケイ」)のように相互にあてがい,各自が閉じた一つの円を作るようにしました.そして,同じ場所を一律に回る運動にこれらを巻き込み,そして二つの円の一方を外側に,他方を内側にしました[50]」.ここまでくれば,プラトンの意図が明らかになります.つまり,「同」と「異」なる二重の円運動によって,それぞれ外惑星と内惑星の運動の差異を説明しようとするのです.プラトンにとっての宇宙の魂とは,なんと,惑星の運動それ自身のことだったのでした.

    「さて,神は外側の運動を「同」の運動だと呼び,内側の運動を「異」の運動だと呼びました.そして「同」の運動のほうは辺にそって右向きに,「異」の運動のほうは対角線にそって左向きに回転させ,「同であり一様であるもの」回転運動のほうに主権を与えたのです[51]」.ここまでくると,神の意志はともかくも,見かけ上の天球の回転という「現象」をあくまで数的(算術的)に説明しようとするプラトンの不屈の「意志」にはいささか感動せざるをえません.そして,このように構成された天体の運動こそが世界の「魂」であるというのです.天球が「運動する」ということを,宇宙が魂をもっていて生きているコト,イノチをもつコト,天球というモノがココロをもつコトであるその現象として捉えているのです.神によって秩序ある運動を与えられたこと,すなわち永遠に円運動し続けることを魂の本性としてとらえているのです.

    「そして,構成者の考え通りに,魂の組織全体ができあがってしまうと,次にはその身体となるものの全体を魂の内部に組み立てて行き,両者の中心と中心を合わせて,適合させていったのでした.そして魂は,その中心から宇宙の果てに至るまで,あらゆるところに織り込まれ,さらに,そのまわり全体を外側から覆い,自ら自分の内部で回転しながら,休みなき知的活動の生を,時間のあらん限り続けるべく,神々しい出発点を踏み出したのです[52]」.つまり,永遠に回転し続けることが,休みなき知的活動である,ということになっています.天体の運動は永遠であるが,地上の運動はいずれ休止する(死ぬ)ことに対応しています.運動性がイノチあるモノ,ココロあるモノ,つまり知性の働きによるものであって,その活動の静止がすなわち死であることが,明白に意識されているのではないでしょうか.プラトンにとって魂を持つとは自らが自らにおいて運動できること,「自・動」能力を持つことを意味したのです.

    さらにティマイオスは「そして,宇宙の全体のほうは見えるものとして生み出されたのでしたが,魂のほうは,そのものとしては見えないものではありますが,数理や調和の一面を備えており,およそ理性の対象となり常にところのもののうちで最もすぐれたものによって生み出されたものであり,しかも生み出されたもののうちでも,これはもっともすぐれたものだったのです[53]」と語るのです.魂とは,世界を秩序づける正しい運動のことであって,数理や調和の側面をもっているというのです.さて,その現代科学技術において対応する意義をもとめようとすれば,それは自然法則のことであり,世界の運動を作り出す原理であり,それは「自然の第一原理(principle)」に対応すると考える他はないと思われます.

    「さて,魂は,かの三つの部分たる「同」と「異」と「有」から混ぜ合わされ,また比率にしたがって分割され結合され,さらに回り回っては自分で自己自身へと帰ってくるので,それが分散可能な「有」をもった何ものかに触れる場合も,いつも自分自身の中を隈なく動いて回るのです-何かが,何かと同じであるにしても,何かから異なっているにしても,とにかくそれが,そもそも特に,何との関係で,どこで,どのようにして,いつ,生成する領域の各々のものに対して,また常に同一を保つものに対して,そのそれぞれ[同じ・異なる]であったり,それぞれの状態になったりするような結果となるのかを語るのです[54]」といわれます.宇宙の魂である「宇宙の第一原理(principle)」とでもいうモノは,宇宙のすべての事物を経めぐって,その事物の関与するデキゴトを紡ぎ出すような円運動に他ならない,ということになるのでした.

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  27. ドゥルーズ差異と反復邦訳単行本350頁参照

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  28. 【話題】伝説の古代金属「オリハルコン」がついに発見される!含有成分も判明、アトランティス大陸産の可能性も浮上(写真あり) [無断転載禁止]©2ch.net

    1 : ニライカナイφ ★2017/04/17(月) 13:08:33.42 ID:CAP_USER9
    幻の古代金属「オリハルコン」のインゴットが大量に発見されたとのニュースが飛び込んできた!
    古代アトランティス大陸に存在したといわれる幻の金属の正体は一体何だったのだろうか?

    ■オリハルコンの成分が判明?

    オリハルコンの存在は、ギリシア哲学者プラトンが著した『クリティアス』で言及されて以来、かつてアトランティス大陸で作られていた幻の金属として人々の想像力を掻き立ててきた。
    ゲーム「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」をプレイしたことがある読者なら聞き覚えがあることだろう。

    『クリティアス』によれば、アトランティス大陸においてオリハルコンは金に次ぐ価値を持つ希少な金属だとされ、これまで真鍮や銅のことではないかと推測されてきたが、具体的な成分はアトランティス大陸の滅亡とともに失われてしまったといわれている。
    それが発見されたとなれば、伝説の大陸アトランティスが現実に存在する可能性もグッと高まるため、考古学的にもオカルト的にも極めて重要な金属といえるだろう。

    写真:発見されたオリハルコンらしきインゴット
    http://tocana.jp/images/alloy_03.jpg
    http://tocana.jp/images/alloy_04.jpg

    そして2015年、イタリア・シチリア島ジェーラの海岸から300メートル離れた海底30メートルに沈む2600年前の貿易船から、ついにオリハルコンらしき金属のインゴットが発見されたのだ。
    科学ニュースサイト「Live Science」(2015年1月7日付)の報道によると、発見に携わった地元海洋局のセバスティアーノ・トゥーザ氏も伝説の金属かもしれないと興奮気味に語っていたという。

    その後、イタリアの科学技術系企業「Technologies for Quality」が成分を分析したところ、75~80パーセントの銅、15~20%の亜鉛、わずかなニッケルと鉛と鉄が含有していたことが判明し、これでオリハルコンを巡る長年の謎が解決したかと思われた。

    ■アトランティス大陸発見へ

    写真:汚れを取り除いたオリハルコン。かつての輝きを取り戻した
    http://tocana.jp/images/alloy_02.jpg

    しかし、ブラジル・リオデジャネイロ連邦大学の元教授エンリコ・マティヴィッチ氏が異議を唱えたため事態が複雑化。
    マティヴィッチ氏によると、そもそもオリハルコンは紀元前900年ごろペルー北部のアンデス高地に栄えたチャビン文化にみられる銅9%、金76%、銀15%の合金に起源を持つため、発見されたインゴットは伝説のオリハルコンではないというのだ。
    また、イギリス人研究者ジョセフ・ニーダム氏も、古代にはアトランティス大陸で作られたオリジナルのオリハルコンと、古代ギリシア人がそれを劣化コピーした複製品が存在すると主張しているため、2015年に発見された金属が複製品だった可能性も考えられている。

    このような批判に遭い、結局のところ発見された金属が正真正銘のオリハルコンであるとは確定されなかった。
    やはり伝説の金属、そして伝説の大陸アトランティスは夢物語に過ぎなかったのだろうか……?

    画像:アトランティス大陸は実在するのだろうか?
    http://tocana.jp/images/alloy_05.jpg

    希望はまだありそうだ。
    というのも、今月に入り、歴史系情報サイト「New Historian」(3月10日付)などが、またしても新たに47ものオリハルコンのインゴットが発見されたとのニュースを報じ、今度こそ“本物”もしれないと期待されているからだ。
    情報が限られているためこれ以上のことは分からないが、まだまだオリハルコン、そしてアトランティス大陸の謎から目が離せない状況だ。

    http://tocana.jp/2017/04/post_12929_entry.html
    http://tocana.jp/2017/04/post_12929_entry_2.html

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  29. 第13話 イデア論の哲学史 - まったくろくな哲学入門書がないよね(へげぞぞ) - カクヨム
    https://kakuyomu.jp/works/1177354054882822307/episodes/1177354054884188379#end

    第13話 イデア論の哲学史

     西洋哲学をやるのに避けて通れないのがプラトンのイデア論である。もともとは、「国家」の第五巻から第七巻にかけて書かれた存在論が起源で、それは「洞窟の比喩」として語られる。「洞窟の比喩」とは、難しくて容易に要約できないが、洞窟の中では実体は見えず、灯りに照らされた影が見えるだけである。それがこの世界の存在の構造ではないかという仮説。つまり、この世界にはどこかに真の実体の世界であるイデア界が存在していて、我々の現実はその影にすぎないのではないかという仮説である。証拠はない。
     プラトンの対話篇に「国家」より後に書かれた「パルメニデス」というものがあり、これは文庫化されてないので入手困難だが、思い切って大金を出して古本で買ってみた。「パルメニデス」の副題は「イデアについて」であり、読んで重要なことが書いてあったら後でこの箇所を書き直したいと思う。まだ読んでないので、それについてぼくがまったく知らないでイデア論について語るのは許してほしい。
     このイデア論は、可能性として古代思想としてはありえたかもしれないが、原子論や進化論などが発達した現代では信用される仮説ではない。進化しつづけた動物のそれぞれに対応したイデアが存在するとはとても考えられないのである。この失敗した仮説であるイデア論は西洋哲学史で極めて大きな影響力を持ちつづけた。これから、イデア論を論じた哲学者の代表者を述べて、イデア論の哲学史の概略としたい。
     まず、プラトンの生前に直接、教えを受けていたアリストテレスはなんといっているかというと、「形而上学」にある。引用する。

    ――ある何か離れてそれ自体で存在していて、なんらかの感覚的なものに属しないようなものが、果たして存在するのかどうか。

     アリストテレスは「形而上学」において、資料(ヒュレー)と形相(エイドス)を対比して説明するが、形相(エイドス)はイデアのような概念を必ずしもそのまま示してはいない。アリストテレスは、「形而上学」で「最後は善のイデアに至る」と書いていて、イデア論を結局は肯定している。
     別の章で書いたが、このアリストテレスの「形而上学」がイスラム社会で最も信頼できる世界の構造と考えられていて、十二世紀のヨーロッパのルネサンスまでの間はアリストテレスの「形而上学」が信じられていた。だから、イデア論はこの間、ずっと可能性として信じられていた。
     十三世紀前後のヨーロッパにおけるイデア論の議論を書いた書物は山内志朗の「普遍論争」である。日本の哲学者山内志朗はヨーロッパの図書館に行き、直接、中世ヨーロッパのイデア論の論争を、文献を原語で読んで調べたそうである。イデアは存在するとした哲学者とイデアは存在しないとした哲学者が言い争っていたとある。どうも推察するに、山内志朗は西洋哲学、さらには現代哲学がイデア論という幻想を本当に根拠にしているのが信じられなかったようである。それでそれは本当なのかどうか確かめるためにヨーロッパの図書館で中世の文献を調べたのである。その結果、中世ヨーロッパの哲学者の中には本気でイデア論を信じている人が大勢いたという結果が得られた。
     やがて、十六世紀になり近代哲学が始まる。コペルニクスが「天体の回転について」を発表して、近代科学思想が始まる。哲学も近代化する。デカルトやスピノザやライプニッツは手放しでイデア論を肯定することはなかったようであるが、有名な哲学者でイデア論を肯定する人は近代哲学が始まってからもどんどん出てくる。
     十九世紀のヘーゲルである。「精神現象学」は、人々の掟と神々の掟に分けて論証され、どうも、イデアという単語は使わないものの、ヘーゲルの「精神現象学」はイデア論を肯定する論理で書かれているようなのである。神々の掟は絶対に正しいとされ、おそらくイデアを意識している。
     ヘーゲルは、カントの二律背反を解釈するために出てきた哲学者であるから、二つの矛盾する論理が融合されて別の論理になるという思考を辿る。「精神現象学」は、人々の精神とイデアの精神が融合して、絶対知に至るとなって終わる。絶対知である。そんなことはありえない。ヘーゲルですら完全な真理には到達していないだろう。だから、ヘーゲルの哲学で絶対知に至るというのはもう完全にファンタジーである。このファンタジーが十九世紀の哲学としてドイツで圧倒的に支持されてしまう。この頃から西洋哲学はおかしくなっていく。
     二十世紀になると、デリダが「声と現象」を発表する。これもイデア論を扱ったファンタジーである。イデアから現象が表出して、その時、イデアと現象に差異が生まれる。イデアと現象を行ったり来たり反復するたびに差異が異なるため、世界の表象は異なり、歴史が生まれるとしている。ファンタジーの設定としては面白いかもしれないが、イデアが存在する証拠がひとつもないので仮説である。
     ドゥルーズの「差異と反復」は、1967年に発表されたデリダの「声と現象」のパクリであり、1968年に書かれた博士論文である。同じようなことをいっているが、冗長でしかももっとくだらない論理展開がされてるので読まなくてもいいだろう。
     というように、今では信用する人のほとんどいないイデア論であるが、哲学にはどんどん出てくる。哲学の凋落の原因でもあるだろう。ぼくはイデア論を支持しないし、そんなものを真剣に探究して哲学を研鑽したら現代哲学に未来はないと思っている。
     しかし、まだ見過ごせない問題がある。これはぼくがそう考えているわけではないが、そう考える人もいるということで、プラトンの「洞窟の比喩」が重要であると考える人々がまだいるのである。それは、カントの物自体がプラトンのイデアと同じなのではないかという解釈である。カントの物自体は、存在と認識の様式において想定される仮説であるが、実体の真の姿であるかもしれないが、プラトンがいった「善のイデア」とかにはぜんぜん当てはまらないので、別概念だとぼくは考えるが、同一視して西洋哲学は伝統的に正しいと主張する人々がいる。
     これがイデア論の哲学史である。プラトンの「パルメニデス」を読み終わったら書きかえるかもしれないけど、これでひとまずこの章を終わる。

     追記。
     プラトンの「パルメニデス」を読み終わった。最初は読み終えたら部分的に書きかえようとしていたが、読み終わったところ、とても部分的な修正では間に合わないので、追記の形をとることにした。
     超スピードとか瞬間移動とかじゃない、もっと恐ろしいものの片燐を味わったぜ。
     「美のイデア」とか「善のイデア」とか書いてあるのは「パルメニデス」であって、「饗宴」や「国家」ではない。「洞窟の比喩」とかこれに書かれていることに比べればどうでもいい。これはイデアを知るには必読である。カントも、田辺元も、ドゥルーズの「差異と反復」もこれを参考に書かれているのである。これは、プラトンがパルメニデスの教えを暗記している人に伝え聞いたものを書き写したものである。パルメニデスは天才だ。カントですら、パルメニデスの物まねにすぎない。イデアという考えはパルメニデスによって考えだされたものだ。西洋哲学はプラトンの注釈にすぎないのは本当だった。カントですら、プラトンへの注釈だった。それは「パルメニデス」を読まなければわからないだろう。天才だ。これは天才の書だ。
     何をいっているかというと、極めて難解だが、こんな感じである。
     部分は全体ではありえず、全体は部分でありえない。多は一ではありえず、一は多ではありえない。我々の現実は多様であり、つまり多である。ということは、多である我々の現実は一ではありえず、この世界は一である。よって、多である我々の現実はこの世界には存在しない。
     ぜひ日本の出版界にはプラトンの「パルメニデス」を文庫で安価に手に入れられるようにしてほしい。
     おそらく、プラトンの「パルメニデス」が霊魂、天国、神の国の存在証明である。

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    ロックの創造者たち: 28人のア-ティストは語る
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    ロックの創造者たち: 28人のア-ティストは語る 単行本 – 1987/6/1
    ビル フラナガン (著), 山本 安見 (翻訳)

    10:51 午後
    Blogger yoji said...
    Written in My Soul: Rock's Great Songwriters...Talk About Creating Their Music ハードカバー – 1986/11/1
    英語版 Bill Flanagan (著)
    4.5 5つ星のうち4.5 30個

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