日曜日, 11月 18, 2012

プラトンの洞窟の比喩と映画

                 プラトン@ 、『哲学の起源』リンク:::::::::

NAMs出版プロジェクト: プラトンの洞窟の比喩と映画

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NAMs出版プロジェクト: 信念について

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以下ドゥルーズ差違と反復より

《プラトンは、最初にプラトン哲学を転倒させる者、少なくとも最初にそのような転倒の方向を示す者であるべきではなかったのか。『ソピステス』のあの壮麗な結末を思い起してみよう。差異は置き換えられ、分割はおのれ自身に敵対し、逆に機能し、そして、(空想、影、反映、絵画といった)見せかけを深く究めることによって、その見せかけがオリジナルあるいは範型から区別できないということを証明しているのである。》DR#1


    
洞窟と映画
http://yojiseki.exblog.jp/10632864/

以前紹介したボブ・ディランの以下のインタビュー記事は、プラトンの洞窟の比喩とそっくりなことに気づいた。
(ただしディランは、フーコー及び柄谷行人の言うパレーシアの人=「真の生」開く人で、プラトン=『国家』によって追放される彷徨う詩人側の人間であろう。)


(質問者)これまでに、書こうとしても、どうしても書けなかったようなことは?
         
ディラン あるとも。どんなものでも、書こうとすると書けないものなのだ。僕が何かについて書こうとしたとする−−「馬について書きたい」とか「セントラル・パークについて書きたい」とか「グランド・キャニオンについて書きたい」とか「コカイン産業について書きたい」−−ところが、それじゃ、何もうまくいかないのだ。いつも肝心なものを除外してしまうのだ。ちょうど、あのHurricaneの歌のように。僕はハリケーン・カーターについて曲を書きたかったし、そのメッセージを広めたかった。ところが、ハリケーン・カーターについてなど、どこにも出てこない。ほんとうなんだ、その曲の本質というものは、何かについてではない。つまり、すべてはきみ自身についてなのだ。きみが誰か他人の靴をはいて立っているかぎり、きみにはその感触がどんなものかわからないだろう。それが何についてかさえわからない。
 映画を観に行って、「何についての映画だったんだ?」ということはできる。映画というのは、きみに時間を止められるという幻想を抱かせるものなのだ。きみはどこかに行って、しばらくのあいだじっと坐っている。きみは何かを観ている。わなをしかけられたも同然だ。すべてはきみの脳の中で起こり、いま世界ではそれ以外に何も起こっていないように、きみを思わせる。時間はとまっている。外では世界が終末を迎えようとしていたとしても、きみにとって、時間は止まったままだ。その時、誰かが「何についての映画だったんだ?」と聞く。「うーん。よくわからないな。同じ娘をものにしようとしていた、二人の野郎の話だろ?」あるいは「ロシア革命についての映画だよ」そうだ、それは映画が何についてだったか説明しているが、映画そのものではない。きみに、ずっと座席に坐ってスクリーンに見入ったり、壁のライトを見つめたりさせたのは、それではないはずだ。他のいい方をすれば、きみは、「人生とはいったい何なのだ?」ということもできた。それは、いつだって映画のように過ぎていくだけだ。きみがここに何百年もいようが関係なく、それはただ過ぎ去っていく。誰にも止めることはできない。
 だから、それが何についてかなどということはできないのだ。ただ、きみにできることは、その瞬間の幻を与えようとすることだけだ。だが、それにしたって、それがすべてではない。きみが存在していたという単なる証なのだ。
 どれが何についてだって? それは何についてでもない。それはそれなのだ。
(『ロックの創造者たち』より)


以下は、プラトン『国家』7:1〜2(岩波文庫下巻p94〜)
http://www.qmss.jp/interss/01/materials/plcave.htm

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm

 「ではつぎに」とぼくは言った、「教育と無教育ということに関連して、われわれ人間の本性を、次のような状態に似ているものと考えてくれたまえ。

 −地下にある洞窟状の住いのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のあるほうへ向かって、長い奥行きをもった人口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住いのなかで、子供のときからずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前のほうばかり見ていることになって、縛めのために、頭をうしろへめぐらすことはできないのだ[ab]。彼らの上方はるかのところに、火[i]が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。

 この火と、この囚人たちのあいだに、ひとつの道[ef]が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなもの[gh]が、しつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、同じようなぐあいになっている」

 「思い描いています」とグラウゴンは言った。









 「ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびそのほかの動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人々がそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人々のなかには、当然、声を出すものもいるし、黙っている者もいる」

 「奇妙な情景の譬え、奇妙な囚人たちのお話ですね」と彼。

 「われわれ自身によく似た囚人たちのね」とぼくは言った、「つまり、まず第一に、そのような状態に置かれた囚人たちは、自分自身やお互いどうしについて、自分たちの正面にある洞窟の一部[cd]に火の光で投影される影のほかに、何か別のものを見たことがあると君は思うかね?」

 「いいえ」と彼は答えた、「もし一生涯、頭を動かすことができないように強制されているとしたら、どうしてそのようなことがありえましょう」

 「運ばれているいろいろの品物については、どうだろう?この場合も同じではないかね?」

 「そのとおりです」

 「そうすると、もし彼らがお互いどうし話し合うことができるとしたら、彼らは、自分たちの口にする事物の名前が、まさに自分たちの目の前を通りすぎて行くものの名前であると信じるだろうとは、思わないかね?」

 「そう信じざるをえないでしょう」

 「では、この牢獄において、音もまた彼らの正面から反響して聞えてくるとしたら、どうだろう?[彼らのうしろを]通りすぎて行く人々のなかの誰かが声を出すたびに、彼ら囚人たちは、その声を出しているものが、目の前を通りすぎて行く影以外の何かだと考えると思うかね?」

 「いいえ、けっして」と彼。

 「こうして、このような囚人たちは」とぼくは言った、「あらゆる面において、ただもっぱらさまざまの器物の影だけを、真実のものと認めることになるだろう」

 「どうしてもそうならざるをえないでしょう」と彼は言った。

 「では、考えてくれたまえ」とぼくは言った、「彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。それは彼らの身の上に、自然本来の状態へと向かって、次のようなことが起る場合に見られることなのだ。

 −彼らの一人が、あるとき縛めを解かれたとしよう。そして急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光のほうを仰ぎ見るようにと、強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目がくらんでよく見定めることができないだろう。

 そのとき、ある人が彼に向かって、『お前が以前に見ていたのは、愚にもつかぬものだった。しかしいまは、お前は以前よりも実物に近づいて、もっと実在性のあるもののほうへ向かっているのだから、前よりも正しく、ものを見ているのだ』と説明するとしたら、彼はいったい何を示して、それが何であるかをたずね、むりやりにでも答えさせるとしたらどうだろう?彼は困惑して、以前に見ていたもの[影]のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えるだろうとは思わないかね?」

 「ええ、大いに」と彼は答えた。


 「それならまた、もし直接火の光そのものを見つめるように強制したとしたら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではないだろうか? 」

(略)
 「だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。――まず最初に影を見れば、いちばん楽に見えるだろうし、つぎには、水にうつる人間その他の映像を見て、後になってから、その実物を直接見るようにすればよい。そしてその後で、天空のうちにあるものや、天空そのものへと目を移すことになるが、これにはまず、夜に星や月の光を見るほうが、昼間太陽とその光を見るよりも楽だろう。」「思うにそのようにしていって、最後に、太陽を見ることが出きるようになるだろう」



参考:
http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/politeia2004.html
道新文化センター2004年度
「プラトン『国家』を読む」資料

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node9.html#SECTION00032100000000000000
言論の上での国家の建設
最も必要なものだけの国家(第2巻第11-12章)

「そもそも国家というものがなぜ生じてくるかと言えば,それは,人間がひとりひとりでは自給自足もできず,多くのものに不足しているからだ。…ある人はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えるというようにして,人間は多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や 助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住にわれわれは〈国家〉という名前をつけるわけなのだ。」(369B-C)

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node11.html
個人における正義(第4巻11章-19章)
第4巻12章 矛盾律 ここで哲学史上初めて「矛盾律」というものが明確に表明される。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一のものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることはできないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それらは同一のものではなくて, 二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B-C)
「同じものが同じものについて同時に反対の判断をもつということは,不可能である」(602E)
「同じものを,知っていて知っていないとか,知らないでいて知っているとかいうことは不可能である。」(プラトン『テアイテトス』188A)


http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/stoics/stoics.html

古代ギリシア哲学 ストア派
(図多数)


付録:
【動画】-人間は洞窟にとらわれた囚人である-プラトンの洞窟の世界観をクレイアニメで表現したショートフィルム
The Cave: An Adaptation of Plato's Allegory in Clay

http://youtu.be/E4XXItJYFKA


信念について


宗教、信仰だと社会学の対象になるが、信念になると哲学の対象になる。

(呪術(一体一)と宗教(媒介のある三角形)の違いに関してはR.オットー*が何か言っていた。)

 ________________

|命題 ____  ____   |

|  /    \/    \  |

| /     /\     \ |

||     |  |     ||

|| 真理  |知識| 信念  ||

||     |  |     ||

| \     \/     / |

|  \____/\____/  |

|________________|

知識 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98


プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で

提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識という

ものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると

「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題部分集合

とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。


参考:

信念の検証について ― C.S.パースの認識批判再考 ― 野口良平


なおカントは、「純粋理性批判」第二版の序文で「信仰場所を作るために
知識を制限しなければならなかった」という意味のことばを述べている。
ただし、総じてカントは宗教を理性で置き換えたと言える。

    __
 命題l信仰
 --+--
l真理l知識

 第二節 『聖なるもの』 ― オットー

ルードルフ・オットー

 二〇世紀の前半にヨーロッパは第一次世界大戦(一九一四~一九一七年)やロシアでの共産主義革命(一九一七年)などの激動を体験します。その直後にキリスト教界に衝撃を与える重要な著作が現れます。一つはルードルフ・オットーの『聖なるもの』(一九一七年)であり、もう一つはカール・バルトの『ローマ書講解』(一九一九年)です。バルトが二〇世紀の神学に与えた巨大な影響とその宗教観については次章で取り上げることにして、ここでは、宗教学の古典となった『聖なるもの』を出したオットーについて見ておきましょう。

 オットー(1869-1937)はルター派の組織神学者で、聖書神学の著作もかなり出しています。彼は前出のトレルチとほぼ同じ年代に活躍した人です。先に見たように、トレルチは一九〇二年に『キリスト教の絶対性と宗教史』を書いて、キリスト教と諸宗教との関係を問題にしていましたが、おそらくそれよりも早くオットーは若い頃から世界の諸宗教に強い関心を持ち、世界の各地を旅行して実際にその地の宗教に触れています。彼は日本にも来て、高野山で僧侶に講演したり座禅したりしています。ただ触れるだけではなく、アラビア語を学びイスラム教を研究し、サンスクリット語を勉強してヒンズー教を研究、その聖典『バガヴァッド・ギータ』や『ウパニシャッド』などのドイツ語訳と注解研究書を七冊も出版しています。このような研究を土台にして、晩年には『東西の神秘主義』と『インドの恩寵宗教とキリスト教』という宗教比較の模範となるような著作を出しています。前者はインドのヴェーダーンタ学派の神秘家シャンカラとドイツの神秘主義者エックハルトの比較研究です。後者は、ヒンズー教のなかでもっとも明確に他力救済を唱えるバクティ派とルターの信仰義認論に代表されるプロテスタンティズムの比較研究です。このような優れた宗教比較は、オットーのようなキリスト教とヒンズー教の両宗教に深く通じた研究者によって初めて可能になります。

 このように世界の諸宗教に通じたオットーが、人間の宗教的営みに通底する根底的体験を明らかにしようとする著作を出します。それが『聖なるもの』です。「聖」は宗教における最高の価値とされ、すでにシュライエルマッハーもその『宗教論』において聖の観念を宗教の中心概念としています。聖書の宗教においても神は「聖なる方」として賛美され(イザヤ六・三)、神の民は「聖である」ことを求められます(レビ一一・四四、ペトロⅠ一・一六)。ところが「聖」は善とか正義というような倫理的合理的概念の究極の成就態として理解されがちです。それに対してオットーは、人間が絶対的な他者に遭遇する宗教的体験において体験する対象や感動を「ヌミノーゼ」と名付け、その体験が倫理とか合理性を超えていることを主張しました。「ヌミノーゼ」というのは「ヌーメン」(神性、神的な力)というラテン語からオットーが造語して用いたもので、宗教的体験の非合理的神秘的な面を指しています。


            (プラトン# 、『哲学の起源』リンク:::::::::


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戦士エルの物語図解
人が死んだらどうなるか、プラトンの対話集 「国家」の最終稿に出てくる
エルの物語の 簡単な解説。

 (結構仏教的なので親しみがある。)

エルは神様の命により、ハデス(死)の世界を一般庶民に伝えるため死後の世界を
見物させられた。
不正をはたらかず、哲学するモノは救われるらしいが、2000年前の死生観として
参考にしてください。

尚、霊界の裁判官がえんま様になっているのは小生の誤りです。訂正してお読みください。
人は(すべての生き物)、
輪廻転生し、生まれ先は選べるが、その人生の結末は神のみぞ知る。それが
落ちでありますから、決して 王様を選べば良いと言うわけにはいかないようで、経験の多い
魂は、獣や一般庶民を選択するらしい。


《このような事情により、ひとつにはまた籤運も手伝って、多くの魂にとって善い生涯と悪い生涯とが入れ替わることになったのである。…》

プラトン『国家』#10


https://plaza.rakuten.co.jp/finlandia/diary/201708190000/

《あの世からの報告者(エル)の伝えたところによれば、
 そのとき先の神官は次のように言ったという。
  『最後に選びにやって来る者でも、よく心して選ぶならば、
 彼が真剣に努力して生きるかぎり、満足のできる、けっして悪くない生涯が残されている。
  最初に選ぶ者も、おろそかに選んではならぬ。
 最後に選ぶ者も、気を落としてはならぬ』》



<参考意見>

確かに動物を選択すれば、罪を犯さず、しばしの休息が約束されるが
天国にはいけない。
また転生しなければならない。

プラトン、お釈迦さまともに 徳 を積まなければ 天国 (極楽) は遠いと
おっしゃっていますし、とある文献 (神との対話) では愛を多く
経験できなければ、転生するとも言っています。
どのみち、そう簡単には この転生への運命からは解脱できそうにないが

あなたならどうする??




https://plaza.rakuten.co.jp/finlandia/diary/201708050000/


“蘇生” 
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」9 
 “エルの物語”  戦士エルは、炎を浴びる前に蘇える。

 
「引き寄せの法則」の考察から始まった本稿、
『国家』第10巻末の“エルの物語”でひとまず締めようと思います。
プラトンの「正義」と「不正」の定義は『国家』前半部を読んでもらうとして、
ソクラテスは、「魂の「正義」を実行する者は、
(日本でいうところの“天狗の隠れ蓑”に相当する)
ギュゲスの指輪やハデスの兜を持っていようがいまいが、
正しいことを心がけねばならぬ」と述べているのです。
何しろ、姿が透明になる魔法のアイテムを使えるならば、
巨万の富も! 海外旅行も! 豪華クルーザーでのパーティも! あれもこれも!
たとえ凡夫の身であれ、やろうと思えば
容易に実現できるであろうこと、想像に難くありません。

__そのような条件に関係なく、正義を行なうものの行く先と、
不正を行なう者の末路についての、ソクラテスの言葉を読んでみましょう。
 
 
 
 
  「さて」とぼくはつづけた、
 「これでわれわれは、さまざまな問題を議論のなかで片づけたわけだが、
 特に君たちが言っていたようなヘシオドスやホメロスのやり方と違って、
 われわれは正義について、その報酬や評判を讃えるということはしなかった。
 われわれが発見したのは、
 正義はそれ自体として魂それ自体にとって最善のものであるということ、
 そしてギュゲスの指輪を持っていようといまいと、
 さらにそのような指輪に加えてハデスの兜をもっていようといまいと、
 魂は必ず正しいことを心がけねばならぬ、ということだったね?」
  「まったくおっしゃるとおりです」と彼は答えた。
  「では、グラウコン」とぼくは言った、
 「いまならもう、これまで論じた事柄に加えて、
 正義その他の徳が本来もつべき報酬のことも認めてやったとしても、
 何も文句は出ないだろうね
 __正義の徳は魂に対して、人間たちからも神々たちからも、
 人がまだ生きている間も死んでからのちも、
 どれだけの、またどのような報酬をもたらすかを語ったとしても?」
  「ええ、おっしゃるとおりです」と彼。
  「それならひとつ、前に君たちが議論のなかで僕から借りたものを、
 返してくれるつもりはないかね?」
  「いったい全体、それは何のことですか?」
  「先にぼくは、君たちに一歩譲って、正しい人が不正な人間だと思われたり、
 不正な人が正しい人間だと思われたりするということを許した。
 それはほかでもない、君たちが、
 たとえ正と不正が神々と人間の目を逃れることは実際に不可能だとしても、
 なおかつ議論のために、そのことを認めねばならぬ、そうでなければ、
 正義そのものを不正そのものとくらべて判定することができないからと、
 ぼくに要請したからなのだ。
 __憶えていないかね?」
  「憶えていないとしたら不埒〔ふらち〕な話でしょう」と彼は答えた。
  「では」とぼくは言った、
 「その判定もすでに終わったいま、
 ぼくはこんどは、正義のためにその点を返還しよう
 __それが神々からも人間からも実際に受けている評判を、
 そのままわれわれも正義について認めるべきだとね。
 そうすれば正義は、正しいと思われることから獲得して
 正義の持ち主に授けるところの褒賞もまた、確保することになるだろう。
 正義が、正しくあることから由来する数々の善きものを与えるということ、
 正義をほんとうに自分のものとする人々をけっして裏切らないということは、
 すでにあきらかになったのだからね」
  「そのように要求されるのは正当なことです」と彼は言った。
  「では」とぼくは言った、
 「そのようなぼくの返還要求に応じて君たちがまず認めるべきことは、
 正しい人も不正な人も、
 それぞれどんな人間であるかは神の目を逃れることができない、ということだ」
  「返還に応じましょう」と彼。
  「しかるに、神々の目を逃れえないとすれば、
 一方は神に愛される人間であり、他方は神に憎まれる人間だということになろう。
 これは、われわれがそもそもの最初に認めていた結論とも一致する」
  「そのとおりです」
  「そして神に愛される人間には、およそ神から由来するかぎりすべてのことが、
 可能なかぎり最善のものになるということに、われわれは同意しないだろうか?
 その人が前世の過ちのために、
 何か避けられぬ不幸をはじめから背負っているのでないかぎりはね」
  「たしかにそのとおりです」
  「したがって正しい人間については、
 たとえその人が貧乏のなかにあろうとなかろうと、病いのなかにあろうと、
 その他不幸と思われている何らかの状態のなかにあろうと、
 その人にとってこれらのことは、彼が生きているあいだにせよ死んでからのちにせよ、
 最後には何か善いことに終るだろうと考えなければならぬ。
 なぜなら、すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人、
 徳を行なうことによって、人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が、
 いやしくも神からなおざりにされるようなことは、けっしてないのだから」
  「たしかにそのような人間なら当然」と彼は言った、
 「彼が似ている相手からなおざりにされはしないと考えられます」
  「そして不正な人間については、
 ちょうどそれと正反対のことを考えなければならないのではないかね?」
  「大いにそのとおりです」
  「では神々からは、およそ以上のようなことが、
 正しい人への褒賞として与えられることだろう」
  「少なくとも私は、そう思います」と彼は答えた。
  「では、人間の側からはどうだろう」とぼくは言った、
 いまこそ真実を言うべきだとすれば、事情は次のごとくではあるまいか。
 __腕利きの不正な人々というものは、
 往路はよく走るが帰路はそうではない走者と、同じではないだろうか?
 彼らは、最初はすばやく跳び出すけれども、
 最後には、栄冠をいただくこともなく、耳を肩に垂らして逃げ去り、
 みなの笑いものになる。
 真の走者こそが、決勝点に達したとき賞を獲得し、栄冠をいただくのだ。
 正しい人々についても、事の成行きは多くの場合、これと同じではないかね?
 ひとつひとつの行為や人とのつき合い、また人生全体において、
 彼らは最後に至って好評を得て、人間たちから褒賞をかちうるのではないかね?」
  「たしかに」
  「それなら君は、君自身が前に不正な人々について言っていたことを、
 そのままここでぼくが正しい人々について語るのを許してくれるだろうね?
 つまり、ぼくが言おうとしているのはこういうことだ
 __正しい人々は、年が長じてから、望むならば自分の国において支配の任につき、
 どこからでも好きなところから妻をもらい、
 誰でも好きな者と子供たちを結婚させることができる。
 さらにそのほか、君が不正な人々について言ったことをすべて、
 そっくりそのまま、ぼくはいまこの人々について言うわけだ。
  他方もまた、不正な人々についてもぼくは言おう。
 __彼らの多くは、たとえ若いうちはその正体に気づかれずにいたとしても、
 競争路の最後まで来たときに、捕われて笑いものになり、
 年老いてからは、よそ者からも同市民たちからも惨めなありさまで辱めを受け、
 鞭打たれ、さらに、
 君がいみじくも残酷な話だと言ったさまざまな刑罰を受けることになるのだ。
 どうか、ああいうすべてのことを不正な人々は身に受けるのだと、
 ぼくが君にくり返すのを聞いたつもりになってくれたまえ、
 __しかしどうだね、
 もう一度言うが、ぼくがこういうふうに語るのを許してくれるかね?」
  「ええ、よろこんで」と彼は言った、
 「あなたの言われるのは正当なことですから」
 
  「それでは」とぼくは言った、
 「先に語られたような、正義がそれ自体だけで提供する数々の善いものとは別に、
 正しい人が神々と人間から褒賞や報酬や贈物として生存中に授かるものは、
 だいたい以上のようなものだということになる」
  「ええ」と彼は言った。
 「それらは大へんすばらしい、しかも確実なものです」
  「さてしかし」とぼくは言った、
 「これらのものは、正しい人と不正な人のそれぞれの死後において
 待ちうけているものにくらべるならば、
 数においても大きさにおいても、何ものでもないのだ。
 それがいかなるものかを、いまやわれわれは聞かなければならない。
 正しい人と不正な人のそれぞれが聞かされるべきことを聞いて、
 われわれの議論から借りとして支払われるべきものを、
 すっかり完全に受け取ってしまうために」
  「どうか話してください」と彼は言った。
 「わたしがこれ以上よろこんで聞くことは、ほかにはあまりたくさんないのですから」
  ぼくはその話を、次のようにはじめた。
  「さてそれでは、ぼくがこれから話そうとするのは、アルキノオスの物語ではない。
 これはひとりの勇敢なる(アルキモス)戦士であった、
 パンピュリア族の血筋をうけるアルメニオスの子、エルの物語である。
  そのむかし、エルは戦争で最期〔さいご〕をとげた。
 10日ののち、数々の屍体が埋葬のために収容されたとき、
 他の屍体はすでに腐敗していたが、エルの屍体だけは腐らずにあった。
 そこで彼は家まで運んで連れ帰られ、
 死んでから12日目に、まさにこれから葬られようとして、
 野辺送りの火の薪の上に横たえられていたとき、エルは生きかえった。
 そして生きかえってから、彼はあの世で見てきたさまざまな事柄を語ったのである。
  彼が語ったのは次のようなことであった。
 __彼の魂は、身体を離れたのち、他の多くの魂とともに道を進んで行って、
 やがてある霊妙不可思議な場所に到着した。
 そこには大地に二つの穴が相並んで口をあけ、
 上のほうにもこれと向かい合って、天に別の二つの穴があいていた。
  これらの天の穴と地の穴とのあいだに、裁判官たちが坐っていた。
 彼らは、そこへやってくる者をつぎつぎと裁いては判決をくだしたのち、
 正しい人々に対しては、その判決の内容を示す印しを前につけたうえで、
 右側の、天を通って上に向かう道を行くように命じ、
 不正な人々に対しては、これもまた
 それまでにおかしたすべての所業を示す印をうしろにつけて、
 左側の下へ向かう道を行くように命じていた。
  エル自身がそこへ近づくと、彼らは、
 お前は死後の世界のことを人間たちに報告する者とならねばならぬから、
 ここで行なわれることをすべて残らずよく見聞きするように、と言った。
  そこで彼は、一方において、魂たちが判決を受けてのち、
 天の穴と地の穴のそれぞれ一つの口から、そこを立ち去って行くのを見た。
 別の二つの穴のところでは、地の穴のほうからは、
 汚れと埃にまみれた魂たちが大地のなかから上ってきたし、
 天の穴のほうからは、別の魂たちが浄らかな姿で天から降りてくるのであった。
  こうしてつぎつぎと到着する魂たちは、
 長い旅路からやっと帰ってきたような様子に見え、うれしそうに牧場へ行き、
 ちょうど祭典に人が集まるときのように、そこに屯〔たむろ〕した。
  知合いの者どうしは互いに挨拶をかわし、
 大地のなかからやってきた魂は、別の魂たちに天上のことをたずね、
 天からやってきた魂は、もう一方の魂たちが経験したことをたずねるのであった。
 こうしてそれぞれの物語がとりかわされたが、
 そのさい一方の魂たちは、地下の旅路において
 __それは千年つづくのであったが__
 自分たちがどのような恐ろしいことをどれだけたくさん受けなければならなかったか、
 目にしなければならなかったかを想い出しては、悲しみの涙にくれていたし、
 他方、天からやってきた魂たちは、数々のよろこばしい幸福と、
 はかり知れぬほど美しい観物〔みもの〕のことを物語った。
  そうした物語のなかの多くの事柄をそのまま話すのは、グラウコン、
 長い時間を要するだろう。
 しかしエルの語ったところによれば、その要点というのは次のようなことなのだ。
  すなわち、それぞれの者がかつて誰かにどれだけ不正をはたらいたか、
 どれだけの数の人々に悪事を行なったかに応じて、
 魂はそれらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、
 その刑罰の執行は、それぞれの罪について10度くり返して行なわれる。
 すなわち、人間の一生を100年とみなしたうえで、
 その100年間にわたる罰の執行を10度くり返すわけであるが、
 これは、各人がそのおかした罪の10倍分の償いをするためである。
 たとえば、国や軍隊を裏切ることによって、
 多くの人々の死をもたらしたり、奴隷の状態におとしいれたり、
 その他何らかの悪業に加担したりしたような者があれば、
 すべてそのような所業に対して、それぞれの罪の10倍分の苦痛を与えられることになる。
 他方また、いくつかの善行を為したことのある者、正しく敬虔な人間であった者があれば、
 同じ割合でそれにふさわしい報いを与えられるのである。
  これとは別に、生まれるとすぐに死んだ者たちや、
 わずかの期間しか生きなかった者たちのことについてエルは語ったが、
 それらはここで取り立てて話すだけのこともないだろう。
 しかし神々や生みの親たちに対する不敬と敬虔について、
 またみずから手をくだした殺人については、
 彼は以上のものよりもさらに大きな報いがあることを物語った。
  すなわちエルの話では、ある者が他の者から、
 『アルディアイオス大王はどこにいるか?』
 とたずねられているところへちょうど居合わせたそうである。
 このアルディアイオスという人は、いまからちょうど千年前、
 パンピュリアのある国の独裁僭主であった者で、歳老いた父親を殺し、兄を殺し、
 その他数多くの不敬な所業をかさねた男だと言われている。
 エルの話では、そのときアルディアイオスのことをたずねられた者の答はこうであった。
 『彼はここへまだ帰って来ていない。そして永久に帰って来ないだろう。……』
 
  (プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
 

 (つづく)
 
 


“明暗” 
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」10
 “エルの物語”  神は、籤〔くじ〕を引かない。

 
  (前回からの続き)
 
  『われわれは』とその者は事の次第を説明して言った、
 『数々のおそろしい光景を見たけれども、これから話すのもそのひとつだ。
 われわれは、受けねばならぬ苦しみをすべて受けてしまったのち、
 地の穴から上に抜け出ようとして、出口の近くまでやってきた。
 そのとき突然われわれは、
 あのアルディアイオスが他の者たちといっしょにいるのを目にしたのだ。
 それは、ほとんどが独裁僭主たちであったが、
 一般の人々で大きな罪をおかした者たちも何人かいた。
 彼らは、いまやようやく上に抜け出られるときが来たつもりになっていたのだが、
 出口が彼らを受けつけなかった。
 その穴の出口は、罪を癒しえないほど極悪な者や、
 まだじゅうぶんに罰を受け終えていない者が上に出ようとすると、
 その度ごとに咆哮〔ほうこう〕の声をあげたのだ。
  するとそこには__とその男は語った__猛々しい男たちが、
 火のような形相をして待ちかまえていて、その咆哮の声の意味を了解し、
 彼らを両側から鷲掴みにして連れ去った。
 しかしアルディアイオスとそのほかの何人かに対しては特別に、
 その手と足と頭を縛り上げ、投げ倒して皮をはぎ、道に沿って外へ引きずって行き、
 刺〔とげ〕の上で、羊毛を梳〔す〕くようにその肉を引き裂いた。
 そして、そこを通り過ぎて行く者たちの皆に、
 どういうわけで彼らがこんな目にあっているのかということと、
 彼らがこれからタイタロスへ投げこまれるために連れて行かれるのだということを、
 告げ知らせるのだった』
  こうして、その男が語ったところでは、
 自分たちは多くのありとあらゆる恐怖を味わったけれども、
 何といってもいちばん恐ろしかったのは、
 めいめいが穴から上に登ろうとするときに、
 その咆哮の声がはじまりはしないかということだったという。
 だから、ひとりひとりが上へ登るその瞬間に穴の出口が沈黙していてくれたときには、
 これにまさる喜びはなかったのである。
  かくて裁きと刑罰とは以上のごときものであり、
 他方恩恵もこれに相応ずるものである、とエルは語った。
  さて、牧場に集まった魂たちのそれぞれの群れが七日を過すと、
 八日目には彼らはそこから立ち上がって、旅に出なければならなかった。
 旅立って四日目に、彼らはあるひとつの地点に到着したが、
 そこからは、上方から天と地の全体を貫いて延びている、
 柱のような、まっすぐな光が見えた。
 その光の色は何よりも虹に似ていたが、もっと明るく輝き、もっときよらかであった。
  そこからさらに一日の行程を進んだのち、彼らはその光のところまで到着した。
 そしてその光の中央に立って、天空から光の綱の両端が伸びてきているのを見た。
 というのは、この光はまさしく、天空をしばる綱であったから。
 それは、あたかも軍船(三段橈船〔どうせん〕)の船体をしばる締め綱のように、
 回転する天球の全体を締めくくっていたのである。
  その端からは、アナンケ(必然)の女神の紡錘が伸びているのが見られ、
 それによってすべての天球が回転するようになっていた。
 その紡錘の軸棒と鈎〔かぎ〕とは金剛〔こんごう〕でできていたが、
 はずみ車はこれとその他の材料とが混じり合って出来ていた。
  このはずみ車はどのようなものかというと、
 形の点では、われわれの世界にあるそれとそっくりであるが、
 その構造は、エルの語ったところによれば、
 次のようになっていると考えなければならない。
 すなわち、一つの大きなはずみ車が内側をすっかりくり抜かれて
 洞〔うつ〕ろになっている中に、
 それよりも小さい別の同じような車がぴったりとはめこまれて、
 ちょうど椀が椀の中にぴったり収まった具合になっている。
 そして同様にして、その中に第三の車、第四の車がはめこまれ、
 さらにあと四つの車がつぎつぎとはめこまれている。
 つまり、それらの車は全部で八つあり、
 軸棒を中心として、全体がただ一つのはずみ車であるかのように、
 その連続した表面を形づくっているのである。
 軸棒は、八番目の車のまん中を貫き通っている。
  これらのはずみ車のうち、
 第一のいちばん外側の車の円い縁〔ふち〕が最も幅ひろく、
 外側から第六番目の車の縁が第二番目に幅ひろく、
 第三番目に幅ひろいのは第四番目の車の縁であり、
 第四番目に幅ひろいのは第八番目のそれ、
 第五番目は第七番目のそれ、
 第六番目は第五番目のそれ、
 第七番目は第三番目のそれ、
 第八番目は第二番目のそれ、となっている。
 

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※ Precession of the Planets or What was Plato Writing About?
By V.L.Pakhomov

 
  いちばん大きな車の縁は、飾りをちりばめたようにきらきらと輝き、
 外側から第七番目の車の縁はその光が最も明るく、
 第八番目の車の縁は、第七番目のそれに照らされて色彩をもらい受け、
 第二番目と第五番目のそれは互いに似かよった色合いをもっていて、
 先の二つよりも黄色がかっている。
 第三番目のそれは最も白い色合いをもち、
 第四番目のそれはやや赤味をおび、
 第六番目のそれは白さにおいて第二番目である。
  紡錘の全体は同じ方向に回転して回転運動を行なっているが、
 回転するぞの全体の中で、内側の七つの輪は、
 全体と反対の方向にゆっくりと回転する。
 この七つのなかでは、外側から第八番目の輪が最も速く動き、
 第七番目・第六番目・第五番目の輪がそのつぎに速く、
 互いにいっしょに動く。
 第四番目の輪は、彼らの見えたところでは逆もどりの回転運動を行ないながら、
 三番目に速く動き、
 第三番目の輪が四番目に速く、
 第二番目の輪が五番目に速く動く。
 
 

Ananche

 
 
  紡錘はアナンケの女神の膝の中で回転している。
 そのひとつひとつの輪の上にはセイレンが乗っていて、
 いっしょにめぐり運ばれながら、一つの声、一つの高さの音を発していた。
 全部で八つのこれらの声は、互いに協和しあって、単一の音階を構成している。
  ほかに三人の女神が、等しい間隔をおいて輪になり、
 それぞれが王座に腰をおろしていた。
  これはアナンケの女神の娘、モイラ(運命の女神)たちであって、
 白衣をまとい、頭には花冠をいただいている。
 その名はラケシス、クロト、アトロポス。
 セイレンたちの音楽に合わせて、ラケシスは過ぎ去ったことを、
 クロトは現在のことを、アトロポスは未来のことを、歌にうたっていた。
 そして、クロトは間をおいては紡錘の外側の回る輪に右の手をかけて、
 その回転をたすけ、
 アトロポスも同じようにして、内側の輪に左手をかけてその回転をたすけている。
 ラケシスは、左右それぞれの手でそれぞれの輪に交互に触れていた。
 
 
  さて、魂たちは、そこに到着すると、
 ただちにラケシスのところへ行くように命じられた。
 そこには神の意を伝える役の神官がひとりいて、まず彼らをきちんと整列させ、
 ついで、ラケシスの膝からさまざまな籤と、
 いろいろの生涯の見本を受け取ったうえで、
 高い壇に登って次のように言った。
  『これは女神アナンケの姫御子〔みこ〕、乙女ラケシスのお言葉であるぞ。
 命はかなき魂たちよ、ここに、死すべき族〔やから〕どもがたどる、
 死に終るべき、いまひとたびの周期がはじまる。
  運命を導くダイモーン〔神霊〕が、汝らを籤で引き当てるのではない。
 汝ら自身が、みすからのダイモーンを選ぶべきである。
  第一の籤を引き当てた者をして、第一番目にひとつの生涯を選ばしめよ。
 その生涯に、以後彼は必然の力によって縛りつけられ、
 離れることができぬであろう。
  徳は何ものにも支配されぬ。
 それを尊ぶか、ないがしろにするかによって、
 人はそれぞれ徳をより多くあるいは少なく、自分のものとするであろう。
  責〔せめ〕は選ぶ者にある。神にいかなる責もない』
  神官はこのように言うと、すべての者に向かって籤を投げ与えた。
 それぞれの者は、自分のところに落ちた籤を取り上げたが、エルだけは除外された。
 彼にはそうすることが許されなかったのである。
 籤を取り上げた者は、それぞれ自分が第何番目を引き当てたかを知った。
  そのあとでこんどは、神官はさまざまな生涯の見本を彼らの前の地上に置いたが、
 その数は、そこにいた者の数よりもはるかに多かった。
  ありとあらゆる種類の見本がそこにはあった。
 あらゆる動物の生涯があったし、
 人間の生涯も、あらゆるものがそろっていたからである。
 たとえば、そのなかには独裁僭主の生涯もあったが、
 それも、一生つづくものもあれば、途中で滅びるのもあり、
 貧乏や追放に終るもの、乞食となり果てるものもある、というふうであった。
 名高くなる男たちの生涯もあったが、
 そのあるものは姿かたちの点で、容貌の美しさの点で、
 あるいはまた強さの点で、競技の腕前の点で、名高くなる男たちの生涯であり、
 ある者は氏素性〔うじすじょう〕と
 先祖の功業において名高くなる男たちの生涯であった。
 同様にして女たちの生涯にもさまざまなものがあった。
  ただしこれらのなかには、魂そのものの序列を決めるものはなかった。
 これは、魂はそれぞれが選んだ生涯に応じて、
 おのずから必然的にそれぞれ異なった性格を決定されるからである。
 しかし、いま挙げたようなそれ以外のさまざまの条件は、
 互いに混じり合い、富や貧乏と混じり合い、
 あるいは病気と、あるいは健康と混じり合っている。
 また、これらの富と貧乏、健康と病気の中間の状態にあるものもある。
 
  (プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
 
 
 
__物欲まみれの流行〔はやり〕の「引き寄せの法則」考のはずが、
何やら雲行きが怪しくなってきました。
くじ引きで順番を決める? 自分で好きな生涯を選べる?
かような壮大なスケールの話を前にしては、
「巨万の富」や「レアグッス」や「海外旅行」など消し飛んでしまいます。
たしかにアインシュタインの説く「時空の歪み」みたいな力で、
欲しいものが身近にスルスルと落ちてくるかもしれません。
しかし、作用には反作用があり、引力に対する斥力〔せきりょく〕があり、
一点にばかり集中すると、他への注意がお留守になる、
などというような事態もおこりそうです。


 (つづく)
 
 





 

“旅路” 
「“皆土”を盛って作ろうぞ生活環境」11
 “エルの物語” 〔完〕 来世、そんな先のことはわからない。

 
  (前回からの続き)
 
  けだしこの瞬間にこそ、親愛なるグラウコンよ、
 人間にとってすべての危険がかかっているのだし、
 そしてまさにこのゆえにこそ、われわれのひとりひとりは、
 ほかのことを学ぶのをさしおいて、ただこのことだけを自分でも探求し、
 人からも学ぶように心がけねばならないのだ
 __善い生と悪い生とを識別し、自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも、
 より善いほうの生を選ぶだけの能力と知識を授けてくれる人を、
 もし見出して学ぶことができるならば、
 それによって、われわれひとりひとりは、
 いまいろいろの生涯の見本として語られたすべての条件が、
 互いに結びつく場合にも、単独に別々のものとしても、
 善き生ということに対してどのような関係をもつかを考慮しながら、
 美しさが貧乏あるいは富といっしょになるとき、
 またどのような魂の持前とともにあるとき、
 どのような善いこと悪いことをつくり出すかを知らなければならぬ。
 氏素性の良さ悪さ、私人としてあることと公的な地位にあること、
 身体の強さ弱さ、物分かりの良さ悪さ、
 そしてすべてそれに類する魂の先天的ないし後天的な諸特性が互いに結びつくとき、
 何をつくり出すかを知らなければならぬ。
 そうすれば、その人は、すべてこれらの事柄を総合して考慮したうえで、
 もっぱら魂の本性のことに目を向けながら、
 魂がより不正になるような方向へ導く生涯を、より悪い生涯と呼び、
 より正しくなるような方向へ導く生涯を、より善い生涯と呼んで、
 より善い生涯とより悪い生涯とのあいだに選択を行なうことができるようになるだろう。
 そしてほかのことには、いっさい見向きもしないようになるだろう。
 なぜならば、われわれがすでに見定めたように、そのような選択こそは、
 生きている者にとっても死んでからのちにも、
 最もすぐれた選択にほかならないのであるから。
  かくて人は、金剛のごとく堅固にこの考えをいだいて
 ハデスの国〔冥界〕へ赴かなければならぬ。
 あの世においてもまた、富およびそれと同類の害悪に目をくらまされることなく、
 独裁僭主の生活やその他同様の境遇に落ちこんで多くの癒しがたい悪事をはたらいたり、
 さらには自分自身がもっと大きな害悪を身に受けたりすることのないために、
 しかり、できるかぎり現在のこの生涯においても、
 またこれから来たるべきどの生涯においても、つねに中庸の生活を選び、
 どちらかの方向に度を超えた生活を避けることを知るために……。
  なぜならば、人間はそのようにしてこそ、最も幸せになれるのだから。
 
 
  じじつまた、あの世からの報告者(エル)の伝えたところによれば、
 そのとき先の神官は次のように言ったという。
  『最後に選びにやって来る者でも、よく心して選ぶならば、
 彼が真剣に努力して生きるかぎり、満足のできる、けっして悪くない生涯が残されている。
  最初に選ぶ者も、おろそかに選んではならぬ。
 最後に選ぶ者も、気を落としてはならぬ』
  エルの話によると、神官がこのように言い終わるや、
 第一番の籤を引き当てていた者は、ただちにすすみ出て、最大の独裁僭主の生涯を選んだ。
 彼は選択にあたって、浅はかさと欲ふかさのために、
 あらゆる事柄をじゅうぶんに考えてみなかったのである。
 そこには自分の子供たちの肉を食らうことや、
 その他数々の禍いが運命として含まれていることに、彼は気づかなかった。
  しかし、時間をかけてよく調べたあとで、彼は胸を打って、自分の選択を嘆いた。
 その際彼は、神官によってあらかじめ告げられてあったことを守らなかった。
 彼は不幸の責を自分自身に帰することなく、運命を責め、ダイモーンを責め、
 およそ自分以外のものならすべてに八つ当たりをしたからである。
  この男は、天上の旅路を終えてやって来た者たちのひとりであった。
 彼は前世において、よく秩序づけられた国制のなかで生涯を過したおかげで、
 真の知を追求する(哲学する)ことなく、
 ただ習慣の力によって徳を身につけた者だったのである。
 概して言えば、これと同じようなしくじりにおちいった少なからざる者が、
 天上からやって来た者たちであった。
 彼らは、苦悩によって教えられることがなかったからである。
 これに反して、地下からやってきた者の多くは、
 自分自身もさんざん苦しんできたし、他人の苦しみも目〔ま〕の当たりに見てきたので、
 けっしてあだやおろそかに選ぶようなことはしなかった。
  このような事情により、ひとつにはまた籤運も手伝って、
 多くの魂にとって善い生涯と悪い生涯とが入れ替わることになったのである。
 しかしながら、もし人がこの世の生にやって来るたびごとに、
 つねに誠心誠意知を愛し求め、
 そして生の選択のための籤が最後のほうの順番にさえならなければ、
 おそらくはこうしたあの世からの報告から考えて、
 その人は、ただこの世において幸福になれるだけでなく、
 さらにこの世からあの世へ赴くときも、ふたたびこの世に戻って来るときにも、
 地下の険しい旅路ではなく、坦々としてなめらかな天上の旅路を行くことになるだろう。
  まことに、エルの語ったところによれば、
 どのようにしてそれぞれの魂がみずからの生を選んだかは、
 見ておくだけの値打のある光景であった。
 それは、哀れみを覚えるような、そして笑い出したくなるような、
 そして驚かされるような観物だったのである。
 というのは、その選択はまずたいていの場合、前世における習慣によって左右されたからだ。
  彼は見た、かつてオルペウスのものであった魂が、白鳥の生涯を選ぶのを。
 オルペウスは、女たちに殺されたために女性族を憎み、その憎しみのあまり、
 女の腹にはらまれて生まれる気になれなかったのである。
  また彼は見た、タミュラスの魂が、夜鶯〔ようぐいす〕の生涯を選んだのを。
  また、彼は見た、白鳥が人間に生まれかわるために人間の生涯を選び、
 その他音楽的な動物も同じようにしたのを。
  20番目の籤を引き当てた魂は、ライオンの生涯を選んだ。
 これはかつてのテラモンの子アイアスの魂であり、
 物の具についての判決を忘れることができず、人間として生まれることを嫌ったのである。
  その次の順番を引き当てた魂は、アガメムノンの魂であった。
 この魂もまた、自分が受けた災難ゆえに人間を忌み嫌って、かわりに鷲の生涯を選んだ。
  まんなか辺の籤を引き当てたものにアタランテの魂があったが、
 男子の競技者に与えられる大きな栄誉を目にして、
 見すごすことができずに、それをつかんだ。
  つづいてパノペウスの子エペイオスが、
 技術に秀でた女へと、生まれ変わるのをエルは見た。
  また遠くに、最後のほうの順番の者たちのなかにいた道化テルシテスの魂が、
 猿に姿を変えるのが見えた。
  たまたまオデュッセウスの魂は、みなのなかでいちばん最後の順番が当たり、
 選ぶためにすすみ出たが、前世における数々の苦労が身にしみて、
 もはや名を求める野心も涸れはてていたので、長いあいだ歩きまわっては、
 厄介ごとのない一私人の生涯を探し求めた。
 そしてやっとのことで、そういう生涯が他の者たちからかえりみられずに、
 片隅に置かれてあったのを発見し、それを見るや、
 かりに第一番の籤が当たっていたとしても自分は同じようにしただろうと言って、
 よろこんでそれを選んだ。
  同様にその他の動物たちも、動物から人間になるものもあり、
 動物から他の動物になるものもあった。
 不正な動物は凶暴な野獣となり、正しい動物はおとなしい家畜となるようにして、
 そこにはありとあらゆる混合がなされた。
  さて、ともかくこうしてすべての魂たちが生涯を選び終えると、
 みなは籤の順番に整列してラケシスのもとに赴いた。
 この女神は、これからの生涯を見守って選び取られた運命を成就させるために、
 先にそれぞれが選んだダイモーンをそれぞれの者につけてやった。
  ダイモーンはまず最初に、魂を女神クロトのところに導き、
 その手が紡錘の輪をまわしている下へ連れて行って、
 各人が籤引きのうえで選んだ運命を、この女神のもとであらためて確実なものとした。
 そしてこのクロトの手に触れたのち、
 今度はアトロポスの紡〔つむ〕ぎの席へ連れて行って、
 運命の糸を、取り返しのきかぬ不変のものとした。
  そこから魂は、うしろをふりむくことなく女神アナンケの王座の下へ連れて行かれた。
 そしてそこを過ぎ、他の者たちもみなそこを通り過ぎると、
 魂たちは全員が連れ立って旅路をすすみ、〈忘却(レーテー)の野〉へとやって来た。
 それは、息のつまりそうな、おそろしい炎熱の道行きであった。
 この野原には、およそ大地に生ずるものは、一木一草も生えていなかったのである。
  すでに夕方になって、魂たちは
 〈放念(アメレース)の河〉のほとりに宿営することになった。
 この河の水は、どのような容器をもってしても汲み留めることができなかった。
 すべての魂は、この水を決められた量だけ飲まなければならなかったが、
 思慮によって自制することができない者たちは、決められた量よりもたくさん飲んだ。
 それぞれの者は、飲んだとたんに一切のことを忘れてしまった。
  みなが寝に就〔つ〕いて、やがて真夜中になると、雷鳴がとどろき、大地が揺らいだ。
 と、その場から突如としてそれぞれの者は、あたかも流星が飛んでいくように、
 かなたこなたへと新たな誕生のために、上方高く運び去られて行った。
  エル自身といえば、彼だけは先に河の水を飲むことを禁じられたのであるが、
 ただ自分がどこを通り、どのようにして肉体の中へ帰ってきたかは、わからなかった。
 しかし不意に、目を開いてみると、
 明け方に自分が火葬のために薪の上に横たわっているのを見出したのたという。
  このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。
 もしわれわれがこの物語を信じるならば、
 それはまた、われわれを救うことになるだろう。
 そしてわれわれは、〈忘却の河〉をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう。
 しかしまた、もしわれわれが、ぼくの言うところに従って、
 魂は不死なるものであり、ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであると信じるならば、
 われわれはつねに向上の道をはずれることなく、
 あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう。
 そうすることによって、この世に留まっているあいだも、
 また競技の勝利者が数々の贈物を集めてまわるように、
 われわれが正義の褒賞を受け取るときが来てからも、
 われわれは自分自身とも神々とも、親しい友であることができるだろう。
 そしてこの世においても、われわれが物語ったかの千年の旅路においても、
 われわれは幸せであることができるだろう」
 
  (プラトン著 藤沢令夫訳 岩波文庫『国家(下)』より)
 
 
 
この「エルの物語」によれば、人間は〈忘却の河〉の水を飲んだために、
前世のことも、自ら選んだ来世のことも忘れてしまったというのです。
 
同様に、我々は遅かれ早かれ、
あらゆる物寄せの手練手管、流行のスピリチュアルの類、
その他諸々の願望実現の方法などを捨ててしまうでしょう、
さような方法論は幻影を作り出すための幻影であり、
いわば影の影、影の影の影であって、まったく実体ではないからです。
どうして人は実体を見ずして影の影の影、二次的三次的手段に気を取られてしまうのか。
 
おそらくは、所持品や環境や条件で他人を判断することに慣れてしまったために、
自分自身も外的条件で値踏みされると考えてのことでしょうが、
それらの外的条件はぼろぼろと崩れ落ちて土に還ってしまって、
魂そのものが立ち現れる時が訪れることでしょう。
 
 


 (本稿 終わり)

 
 

輪廻と浄土教 - 念佛寺

輪廻と浄土教」 ○評判の悪い輪廻説 迷えるかぎり「生あるものは生死を繰り返す」という 仏教輪廻説は近年、評判が悪い。そのせいか、「輪廻説はバラモン教から混入した ものであって釈尊は輪廻を説かなかった」とか「輪廻説は人間の身分的差別を助長する 邪説であって、仏教には本来ない ... この問題で、桜部建氏は『輪廻について』の論考で 、初期仏教について「迷える者には輪廻があり、迷いを離れた者には輪廻はない、という のがその立場である」と論述されている。 .... 仏教、ヒンズー教、プラトン哲学などである。

輪廻

tanemura.la.coocan.jp/re3_index/9RW/ri_rinne.html

概要□「死者がこの世に何度も生まれ変わってくるという輪廻転生思想はインド、古代 エジプトや古代ギリシャなど、世界各地でみられる。インドにおいては、前世での行為が 現世での境遇を決定するという業(カルマ)思想や因果応報思想と結びつき、仏教では 六道輪廻の考え方とともに、生の暫定的な目標はより寄り転生、生の究極的な目標は 輪廻転生(生死の世界)そのものからの解脱にあるととらえられている。インドその他 東方宗教の伝統においては、究極的な真理=法(ダルマ)の認識こそが究極的な形で死 を克服 ...

プラトンの『国家』の第10巻の「エルの物語」:プラトン輪廻転生 ...

d.hatena.ne.jp/sophiologist/20070923

近代主義と反近代主義である。これを形成する支点である超越論的同一性構造から 脱却しないといけない。差異を不連続化して、超越性に達することである。そして、それが 即非差異へと熟するのを待つのである。そして、Media Pointの開示が生起する。これは 、いわば、器ではないだろうか。超越的差異を受ける器、受容器ではないだろうか。聖杯 のことではないだろうか。仏教で言えば、阿弥陀如来を受容する信心ではないだろうか。 あるいは、プラトンのコーラではないだろうか。魂を受ける容器である。






ロッセリーニ『ソクラテス』


https://vt.tiktok.com/ZSPEyAkuU/


出典:

『ソクラテスの弁明』

『パイドン~魂について~』

プラトン著

納富信留(のうとみ・のぶる)訳

光文社古典新訳文庫



以下、『ソクラテスの弁明』より

 もし私があなた方を懇願によって説得して、宣誓した皆さんを懇願で無理強いするとしたら、明らかに、私はあなた方に神々が存在しないと考えるように教えていることになるでしょう。それではまさに、弁明をしながら、私が神々を信じていないと私自身を告発することになってしまいます。  

 しかし、まったくそんなことはありません。アテナイの皆さん、私は実際、神を、私の告発者のだれにもまして、信じています。そして、私にとっても皆さんにとっても最善になるように、私について判決を下されるよう、あなた方と神にお任せします。


以下、『パイドン』より

 「よろしい、優れた者よ。君はこのことに知識を持っている。何をすればよいのかね。」  

すると、彼は言いました。「いや、ただ飲んで、両脚が重くなるまで歩き回って、その後横になっているだけでいい。そうすれば、こいつは効くだろう」。そして同時に、その杯をソクラテスに手渡しました。

 「分かったよ。だが、神々に祈りを捧げることは許されているだろうし、それは為さねばならない。この世からあの世への移住が、幸あるものとなりますようにと。これを私はお祈りします。どうぞ叶えて下さい。」


「なんということをやっているのだ。驚いた人たちだね。私はまさにこのことのために、つまり、こんな失態をしでかさないようにと、女たちを家に帰したのに。私は、静寂において死を迎えるべきだと聞いている。だから、落ち着いて、耐えなさい。」

 「クリトンよ、ぼくたちはアスクレピオスの神様に鶏をお供えする借りがある。君たちはお返しをして、配慮を怠らないでくれ。」


以下、『パイドン』解説より


「神秘主義(mysticism)を過剰に嫌悪し哲学史から排除する者は、この世界と宇宙が神秘に満ち溢れ、私がここに生きてあることそれ自体が神秘であるという現実感覚を失っている。無論「神秘」という言葉の意味が問題であり、軽々に使うべきではないが、現代のそうした不感症を見直し、私たちを目覚めさせてくれる哲学の言論として、『パイドン』は読まれるべきかもしれない」(『パイドン』、p.272-273)


ロッセリーニ『ソクラテス』

ゴダールはロッセリーニはソクラテスだと言ったそうだが、そのロッセリーニは晩年、教育的な歴史映画シリーズの一環として、西欧の偉大な哲学者を題材にした作品を作っている(「ソクラテス」(1970) 、「ブレーズ・パスカル」(1972)、「デカルト」(1974))。
上記作品は全編ネット上で見ることができる。

Sócrates - filme completo

http://youtu.be/SlJSF-V6yBA
参考:
http://shahr.exblog.jp/12516561/
古代世界の午後雑記 : 古代ギリシア歴史映画1971年版「ソクラテス」


Blaise Pascal - Filme Completo

http://youtu.be/C3fhX3q0-SQ


Descartes - Filme Completo

http://youtu.be/T9cq7G8hoAE

字幕がなかったり、ポルトガル字幕だったりするので内容はよくわからない。ソクラテス以外は英語字幕版が発売されているようだ。
デカルト以外は主人公の死で終わる。まるでパゾリー二映画みたいだ(逆か?)。

近代を題材にした方が出来がいいように思える。

以下はデカルトの英語字幕版(一部のみ)。

「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus:メモ 
http://nam-students.blogspot.jp/2015/11/umgedrehter-platonismus.html 
プラトンの洞窟の比喩と映画
http://nam-students.blogspot.jp/2012/11/test_18.html
ニーチェ:インデックス
http://nam-students.blogspot.jp/2013/04/blog-post_1686.html
ハイデガー『存在と時間』:メモ及び目次
http://nam-students.blogspot.jp/2011/11/blog-post_26.html
ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
NAMs出版プロジェクト: ドゥルーズ体系:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/blog-post_72.html

ドゥルーズ体系:     分子化
      スピノザ 【 分 析 】 Platoカント
     Hegel\   |   /Heidegger
           千のプラトー
        ライプニッツ| ベルクソン
             \|/
 【規定】差異と反復
シネマ①意味の論理学【反省】
             /|\     [修辞学?]
        フーコー/ | (ヒューム
       (Marxアンチ Freud
          /・オイディプス
      サルトル 【 総 合 】 ニーチェ

上はカントハイデガーの準備したマトリクスである。これらを
スピノザ
  ニーチェが横断し、マルクス、フロイト(懐疑論)が左右において上下の断絶を決定づける。
出発点にはサルトルSartreがいた。

DRは強度を外から捉えていて、LSは意味を内部から捉える。
AOは社会に留まり、MPは飛び立つ。
ただし、分析的(分子的)に物質を基礎付けるのはMPの方である。 
アプリオリな分析はLeibnizにある。Platoプラトン哲学の転倒が課題となる。
Bergson的な質的な差異、さらには時間とともにシーニュはProustにある。 


ニーチェからハイデガーを経由してドゥルーズへ
サルトルの思想もこれに近い。

《プラトンは、最初にプラトン哲学を転倒させる者、少なくとも最初にそのような転倒の方向を示す者であるべきではなかったのか。『ソピステス』のあの壮麗な結末を思い起してみよう。差異は置き換えられ、分割はおのれ自身に敵対し、逆に機能し、そして、(空想、影、反映、絵画といった)見せかけを深く究めることによって、その見せかけがオリジナルあるいは範型から区別できないということを証明しているのである。》DR#1


7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

http://www.capurro.de/platonismus.htm
"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden,
um so reiner sch?ner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

1870年末-1871年4月
(ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

ハイデガー『ニーチェ1』(細谷貞雄監訳平凡社ライブラリー214頁、
ドゥルーズ『差異と反復』邦訳文庫版上169,487頁、単行本102,490頁参照)

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
<現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。>(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102) 

文庫上169,487差異と反復
487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』
形而上学の克服  ... Die Überwindung der Metaphysik

「(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)

(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」



序 論:反復と差異 
第1章:それ自身における差異(プラトン『
ポリティコス』『メノン』『ソピステス』)
第2章:それ自身へ向かう反復 (プラトン『ソピステス』
『パルメニデス』『メノン』
第3章:思考のイマージュ ◯第四の公準(プラトン『国家』)◯第五の公準(プラトン『テアイテトス』)◯第八の公準(プラトン『メノン』)
第4章 差異の理念的総合(プラトン『パルメニデス』
『パイドロス』)
第5章:感覚されうるものの非対称的総合 
結 論:差異と反復 

 ドゥルーズ『差異と反復』:メモ
 http://nam-students.blogspot.jp/2012/01/blog-post_20.html
 

ちなみに、差異と反復では、 
http://cosmologia.zatunen.com/deleuze/a08_1968.htm 
*プラトン『ポリティコス』1
*プラトン『パイドロス』4注
*プラトン『ソピステス』1、2
・プラトン『メノン』1、2、3:8
*プラトン『テアイテトス』3:5
・プラトン『国家』3:4
*プラトン『パルメニデス』2、4
意味の論理学では、
http://cosmologia.zatunen.com/deleuze/a10_1969.htm 
プラトン『パイドロス』a
プラトン『ポリティコス』a
・プラトン『ピレボス』1注、18??、a
プラトン『ソピステス』a
プラトン『テアイテトス』a注
・プラトン『ティマイオス』a注
・プラトン『クラテュロス』1
プラトン『パルメニデス』23、a
が参照されていた。*は両方で言及。aは付録1「プラトンとシミュラクル」@。
  The Logic of Sense(Logique Du Sens)
 https://books.google.co.jp/books?id=X83asrKI_b0C 
 『意味の論理学(上、下)』 ドゥルーズ:目次
 http://nam-students.blogspot.jp/2015/05/blog-post_21.html


文庫版下巻
付録
Ⅰ シミュラクルと古代哲学
 Ⅰプラトンとシミュラクル (
『ポリティコス』『パルメニデス』
  プラトンの弁証論:役割の意義  (
『パイドロス』『ポリティコス』『ソピステス』)☆
  請求者の選別
  コピーとシミュラクル
  シミュラクルの特徴 (
『ピレボス』、『テアイテトス』注『ティマイオス』)
  表象の歴史
  プラトニズムを転倒すること:現代芸術作品とシミュラクルの報復
  永遠回帰の顕示内容と潜伏内容(プラトンに対抗するニーチェ)
  永遠回帰とシミュレーション
  モデルニア

 ☆
『差異と反復』と違い、ハイデガーへの言及はない(付録冒頭にあるニーチェによるプラトン主義の転倒の話は本来はハイデガー経由の課題のはず)。

http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger


7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、より純粋に、よ
り美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。

1870年末-1871年4月
(ニーチェ全集第一期第一巻白水社267頁より)

ハイデガーの『思惟…?1954

My philosophy is inverted Platonism: the further a thing is from true being, the purer, the lovelier, the better it is. Living in illusion as a goal!
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Friedrich Nietzsche
Friedrich Nietzsche (1844–1900), German philosopher, classical scholar, critic of culture. Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe, vol. 7, p. 199, selection 7[156], eds. Giorgio Colli and Mazzino Montinari, Berlin, de Gruyter (1980). Unpublished fragments dating to Late 1870April 1871.

Read more athttp://quotes.dictionary.com/my_philosophy_is_inverted_platonism_the_further_a#TmdyV95MBcGQGdYT.99

http://www.capurro.de/platonismus.htm

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
…存在の一義性の第三の契機はニーチェによるものである。…
「永遠回帰とは存在の一義性のことであり、この一義性の現実的な実在化
のことである。」(ドゥルーズ『差異と反復』p77)

現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

(プラトンにおける)弁証法(問答法)はイロニーであるのだが、この
イロニーは、問題および問いに関する技術である。」(p109)

(p114)「プラトンは最初にプラトンを転倒させるもの」であり、ソピ
ステスにおいて「見せかけを深く究めることによってその見せかけがオリ
ジナルあるいは範型から区別できないということを証明している。」



http://blogs.yahoo.co.jp/saru107f/archive/2011/11/23
本来芸術は感性にもとづくものであり、この感性にもとづく生産能力から旧来の価値体系を転倒しようとする。感性とは時に激情であり、「力への意志」の「力」も「意志」も本質的に激情であるとハイデッガーは説明している。この芸術のもつ感性は超感性的なプラトニズムと正反対なものであり、超感性的なプラトニズムを転倒する基本原理であると言っている。





現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

文庫上169

487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze



http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger




現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」umgedrehter Platonismus として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。(p102)

文庫上169差異と反復

487
ハイデガー1954
Vorträge und Aufsätze. 1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätze



http://www.capurro.de/platonismus.htm
II. Nietzsches "Herausdrehung aus dem Platonismus"
Von hier aus wenden wir uns Nietzsches "Umkehrung des Platonismus" mit Blick auf Heideggers Interpretation zu. Heideggers Bezugspunkt ist das zwiespältige Verhältnis von Kunst und Wahrheit bei Platon. "Umdrehung des Platonismus" bedeutet die "Erschütterung des Vorranges des Übersinnlichen als des Ideals" (N I, S. 187). Bei Nietzsche heißt es:

"Meine Philosophie umgedrehter Platonismus: je weiter ab vom wahrhaft Seienden, um so reiner schöner besser ist es. Das Leben im Schein als Ziel." (N I, S. 180)

Heidegger stellt nun die Frage, wieso Nietzsche trotz der Umdrehung des Platonismus das Verhältnis zwischen Kunst und Wahrheit als Zwiespalt, und zwar als einen "Entsetzen erregenden", auffaßt. Denn gesetzt, daß dieses Verhältnis für Platon ein solches des Zwiespalts wäre - die Kunst bejaht das Sinnliche, das wahrhaft Seiende ist aber das Übersinnliche -, müsste er verschwinden, wenn das Sinnliche als das Wahre bejaht wird.


https://de.wikipedia.org/wiki/Martin_Heidegger




Vorträge und Aufsätze. (書籍, 1954) [WorldCat.org]
http://www.worldcat.org/title/vortrage-und-aufsatze/oclc/1167373
Aufsatzsammlung
その他のフォーマット: Online version:
Heidegger, Martin, 1889-1976.
Vorträge und Aufsätze.
Pfullingen, G. Neske [1954]
(OCoLC)654695923
ドキュメントの種類: 図書
すべての著者/寄与者: Martin Heidegger
この著者についてさらに詳しく:
OCLC No.: 1167373
物理形態: 283 pages 21 cm
コンテンツ: Die Frage nach der Technik.--Wissenschaft und Besinnung.--Überwindung der Metaphysik.--Wer ist Nietzsches Zarathustra?--Was heisst Denken?--Bauen, Wohnen, Denken.--Das Ding--" ... Dichterisch wohnet der Mensch ..."--Logos (Heraklit, Fragment 50)--Moira (Parmenides, Fragment viii, 34-41)--Aletheia (Heraklit, Fragment 16).

10:14 午前
  削除

ハイデッガー全集 - 創文社
www.sobunsha.co.jp>ホーム>書籍検索
1 | 2 ≫. 書 名, 著訳編者名, シリーズ, 刊行年月, 本体価格.
ハイデガーにおけるエルンスト・ユンガーへの取り組みの再検討 ... - nifty (Adobe PDF) -htmlで見る
homepage3.nifty.com/h~hasegawa/study/data.../20120630.pdf
例えばハイデガーは、ユンガーの七十歳記念論文集に対する寄稿「こ. の<線> ... 簡体 論文「存在の問いへ」のなかで、次のように述べております。 ... であり、他には 1954 年刊の『講演と論文』(全集第 7 巻)に収められた「形而上学の超克」.




CiNii 図書 - 形而上学の克服 : 近代哲学の終焉
ci.nii.ac.jp/ncid/BA75212503
形而上学の克服 : 近代哲学の終焉 ... Die Überwindung der Metaphysik : zu einem Ende der neuzeitlichen Philosophie .... 第4章 形而上学の個人的な記述(ウィトゲン シュタイン); 第5章 形而上学の自己記述(ハイデッガー); 第6章 形而上学の克服; 第7 ...




67 Metaphysik und Nihilismus

Die Überwindung der Metaphysik
Das Wesen des Nihilismus

___________

http://www.ne.jp/asahi/net/jpn/segawa/dgd/essay_1.htm
『差異と反復』はじめに
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、 ハイデガーが存在論的≪差異≫の哲学にますます強く定位しようとしていること、つぎに構造主義の活動が或る共存の空間における差異的=微分的(différentiel)な諸特徴の配分に基づいていること、さらに現代小説という芸術がそのもっとも抽象的な省察ばかりでなくその実際的な技法においても差異と反復をめぐって動いていること、最後に無意識の、言語の、そして芸術の力でもあろうような反復本来の力(puissance)があらゆる種類の分野において発見されていること。これらのすべてのしるし(シーニュ)は、或る一般化した反ヘーゲル主義に数え入れることができる。つまり、差異と反復が、同一的なものと否定的なものに、同一性と矛盾に取ってかわったのである。」邦訳文庫上11-12頁

http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1605.html 
『差異と反復』
「本書で論じられる主題は、明らかに、時代の雰囲気の中にある。その雰囲気のしるしとして、つぎの四つの点をあげて良いだろう。まず、ハイデガーが、存在論的〈差異〉の哲学にますます強く定位しようとしていること」(p13) 

...ドゥルーズは正確に、「永遠回帰における車輪は、差異から出発しての反復の生産である」(p78)と述べているが、もしも「反復」の概念を起源に設定した場合、「差異」は各様態に「選別」されていると考えられている。このように、ドゥルーズの規定する「存在」は一義的であるのだが、これは「差異の回帰」すなわち「反復」を意味する。ドゥルーズにもしもハイデッガー的な意味での「存在論」があるとすれば、それは「永遠回帰」を本質とした「差異の回帰」の存在論なのである。
 我々がドゥルーズと「観覧車」の問題に注目する一つの決定的な理由となるテクストは以下である。「神話の構造は、プラトンにおいて明瞭に現れている。その構造とは、二つの動的な機能、すなわち、〈回転し、還帰すること〉、および〈配分すること、つまり割り振ること〉という二つの機能をもった円環である――分け前〔運命〕の割り振りは、永遠回帰の輪廻として回転する車輪に属しているのだ」(p107)。ドゥルーズはここで、プラトンの『パイドロス』、『ポリティコス』などの神話のモデルに「回転する車輪」の構造が見出されると述べている。この箇所は、永遠回帰の存在論とプラトニズムにおける「イデア」の概念が接合されている点でいっそう興味深く、また神秘的である。ドゥルーズによれば、プラトンの『パイドロス』には、「天球の外側に乗って循環するプシューケー(魂)たちによって観照されるイデアたち」(p107)という神話的モデルが見出される。また、『ポリティコス』には、「宇宙の循環的運動を自ら司る〈神―牧養者〉」(p107)という原理がやはり登場する。見落とすべきではないのは、ドゥルーズが「循環するもの」を円、ないし球体として把捉し、その「中心」は常に不動であったという神話の記述を重視している点である。かつては「中心」に「神」や「イデア」が設定されたが、ドゥルーズは現代思想においてその機能を持つ概念を「差異」に見出す。『差異と反復』は、少なくとも第一章において伝統的な神話体系、古代ギリシア哲学の中心原理を相続しつつ、新しい「語彙」によって表象=再現前化している。
 ドゥルーズは永遠回帰を可能にするのは「差異」の選別を可能にする「反復」であると述べるわけだが、永遠回帰というこの円環の中心に存在するのは「差異」であると規定する。永遠回帰の法則に従えば、全てのありとあらゆる事物はけして同一的であることができず、見られる対象だけでなく我々が見る対象の視点も常に多義的であり、画一的ではない。例えば空に浮かぶ雲は刻一刻と姿を差異化させるが、それらを見る我々の内在意識も時間によって差異化する。こうした諸差異の中で、事物は「八つ裂き」(p99)にされていると表現されている。また、永遠回帰という概念は「オリジナル/コピー」という概念の考察にも寄与する。ドゥルーズによれば、「もの」は常に反復されることによってでしか存在し得ないのであり、「もの」はそれぞれ背後に「オリジナル」なものを起源として控えてはいないのである。「もの」たちはただコピーをコピーする。したがって、「もの」は動物であろうと他の何であろうと、常に永遠回帰においてはシミュラークル(見せかけ)の状態として維持されるのである。これは我々、存在了解を有する「現存在」においても妥当する。ハイデッガーは基礎存在論において現存在の情動性に注目し、「不安」を人間存在に特有の明かし得ぬ本質として定義したが、ドゥルーズはこういった心理的概念を捨象する。彼はより大胆に、我々の本質はシミュラークルに過ぎないという事実を前提にしている。
 永遠回帰の存在論から明らかになるのは、「もの」だけでなく「事象」も含め、全ては「反復」しているという構造である。「反復」は「差異」を中心原理として回転する円環である。だとすれば、ボルヘスがいみじくも述べたように、「失う」という動詞は「発見する」という動詞と再帰的関係にあると言えるのではないだろうか? 実はドゥルーズも第一章の記念すべきラストで、以下のように述べている。「どのセリーも他のセリーの回帰によってのみ存在する以上、何も失われはしないのである。全てはシミュラークルへと生成したのだ」(p117)。「もの」は原理的には失われることができない。何故なら、失われた対象は再び回帰して表象=再現前化されるからである。第二章でも、この章の深い考察で獲得されたドゥルーズの概念は形式を変えて再演されている。例えば、以下のテクストはまさに上記のテクストの換言であろう。「常に置き換えられ、また偽装される対象の特徴である〈ジャメ・ヴュ(未視)〉は、その対象がそこから引き出される当の純粋過去一般の特徴たる〈既視(デジャ・ヴュ)〉の中に潜んでいる」(p174)。


【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 documents/ウェブリブログ

http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
マルティン・ハイデッガー「形而上学の超克」(1936年-46年)
テキスト=関口浩訳『技術への問い』(平凡社、2009年)所収

画像


「訳者後記」によるとこのテキストは、1936年から46年までの間に書かれた手記の一部だそうです。
「一」から「二八」までの断章から成っていて、論理展開が分かりにくいところ、いまの私にはどうしても解釈できないところが多々あります。
そこで、まずはそれぞれの断章の大まかな内容を並べて、その後で全体的な論旨をまとめる、という形にします。

専門分野ではないですし、本当に難しかったので、たぶん間違っているところも少なからずあります。眉に唾をつけてご覧ください。

  一 〔標題について〕

「形而上学の超克」という標題は暫定的なものであり、誤解を生みかねない。
現在、形而上学は「終わりつづけること」に達しており、しかし「終りつづけること」は継続するだろう。

  二 〔形而上学は消え去ることはない〕

形而上学はたとえ「超克」されたとしても消滅するものではなく、「労働する生物」としての人間が大地の荒廃の中をさまよう現代を支配している。
ただ、そのような現状は、いつか本当に「存在」の真理が出来する事態の前兆なのかもしれない。

  三 〔現代は「存在するものの真理の没落」の時代である〕

形而上学は人間を「理性的動物」ととらえてきた末に、現在「労働する動物」として確立した。
「労働する動物」として確立された人間は、「存在」に隠された真理を拒絶しており(=「存在忘却」に対して盲目であり〔※〕)、それと同時に、<意志への意志>にとりつかれている〔※〕ので、自分でも分からないうちに無価値な無ばかりを求めて、大地を荒廃させる。
大地の荒廃は、「形而上学の完結」という形で「存在するものの真理の没落」〔※〕を引き起こしている。
世界大戦などの破滅的な出来事は、「存在するものの真理の没落」の結果である。

※「存在忘却」とは、「存在」自体の真理を忘れていること。
名高い「存在論的差異」のことを考えればよいのですが、ハイデガーによると、従来の形而上学があつかってきた「存在」の概念の中では、じつは以下の2つの側面が混同されていました。
・「存在者」:存在するもの。
・「存在」:存在すること。存在者を存在させている(不思議な)はたらき。
ハイデガーはここでは、
・従来の形而上学はこの存在論的差異を分かっておらず、世界内の「存在するもの」ばかりを見ていたため、「存在」それ自体の真理について洞察できなかった。
・世界内のあらゆる「存在するもの」を、たんに労働の対象としてのみとらえる(そして「存在」そのものの真理を一顧だにしない)ような「労働する動物」としての人間像は、形而上学によって作られたものだ。
ということを言っているのだと思います。

※<意志への意志>とは、文字どおり、意志することを意志すること。
人間と世界との関係を、「意志」という形でとらえようとすること。
形而上学の歴史は<意志への意志>という方向に発展し、「労働する動物」(主体としての人間が意志によって自然を加工する)としての人間像を作りあげた、というふうにハイデガーは言っているのだと思います。

※「存在するものの真理の没落」は、よく分かりません。
ニーチェの「没落」の概念を、ハイデガー流に解釈し直すことで、ニーチェを批判しているのだと思いますが。
「存在」の真理を忘却したうえに、「存在者」を「用象」(=役に立つ側面。「技術への問い」参照)としてしか見なくなる、みたいなことでしょうか。

存在するものの真理の没落とは次のことを意味する。すなわち、存在するものの、しかもただ存在するもののみの顕示性が決定的なものであるべきだという要求はこれまで比類のないものであったが、その比類なさが失われるということである。


  四 〔形而上学は人間の本性に属している。近代形而上学の始まりとしてのデカルト〕

形而上学的に作られた「理性的動物」としての人間は、形而上学的にとらえられた世界しか見ることができない。
そういう意味で、形而上学は現代の人間像と切っても切れない関係にある。
そこで、近代の形而上学が人間と世界をどのようにとらえてきたのか、検討してゆく。
まずはデカルトの理論を現象学的に解釈する。
デカルトの「コギト」とは、目の前に対象を立てる「基体」である。
デカルトが「基体」としてのコギトを作ったとき、「立てること」としての「対象性」が生まれた。〔これが以後引き継がれてゆく〕

  五 〔存在論の近代的形態としてのカントの認識論〕

存在論の近代的形態は、カントのような超越論的哲学であり、それは認識論になる。
カントの認識論において、〔デカルトの「対象性」の発想が継承されて〕世界内の「存在するもの」〔=存在者〕は「対象」としてとらえられた。
さらに、カントの認識論において、真理とは〔「存在」それ自体の真理ではなく〕表象の「確実性」のこととされたせいで、形而上学はそれ自体の本質と根拠〔=探究すべき「存在」それ自体の真理〕を知りえなくなってしまった。

  六 〔形而上学の「完結」の始まりとしてのヘーゲル〕

ヘーゲルはすべてを「意志」〔としての主体〕の運動だと考えることで、形而上学を<意志への意志>という形に「完結」させる過程をスタートさせた。
ヘーゲルの規定した「現実性」とは、「確実性」という意味での存在者性の支配〔=世界内に存在する現実的な対象とは、あれこれの存在者だけである、という考え方?〕である。
〔つまりヘーゲルは、意志としての主体/存在者としての客体、という形で形而上学の「完結」を開始した、ということでしょうか〕

  七 〔形而上学は「存在」を問うてこなかった〕

アリストテレスの「エネルゲイア」という概念には、「存在」の真理を問う姿勢がみられるが、それ以後の形而上学は、「自然」としての客体と「理性」や「自由」としての主体、という方向に発展し、「存在」の真理自体を問うことがなかった。

  八 〔形而上学は西欧的思考の宿命となり、本質が無視されてきた〕

「存在」と「存在するもの」との「二重襞」〔=存在論的差異〕は、従来の形而上学において解明されることはなく、そのため、「存在」の真理は西欧的思考から宿命的に排除されてしまう。
現在、そのような形而上学は「完結」し、世界全体を無制約的に支配していっている。
だが、この形而上学の「完結」の後にはじめて、「存在」の真理が出来する可能性が生まれる〔?〕。

  九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕

ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」はプラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという考え方〕に限定されていた。
したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは形而上学の枠内のものでしかない。
本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の原初的耐え忍び〔?〕の前兆として考えられるべきである。〔これが分かりません……〕

  一〇 〔<意志への意志>としての技術〕

ニーチェに至るまでの形而上学が作りあげてきた<意志への意志>とは、「存在」の「命運」の忘却であり、これによって「完結」した形而上学の時代が、現在始まろうとしている。
<意志への意志>は現在、技術という形で出現している。
〔人間は、「自らの意志で世界内の存在者を加工したい」という意志をもち、それが技術という形になっている〕

  一一 〔ニーチェの<力への意志>にたいする批判〕

ニーチェの称揚する「生の高揚」すなわち<力への意志>とは、じつは「計算」する「理性」〔=対象をとらえ、計量し、役立てる主体のはたらき〕の無制約的支配を意味してしまう。
ニーチェの思想は「存在」への深い省察にもとづくものではなく、熱狂であり、文学的現象として支持されてきたものでしかない。

  一二 〔ニーチェにおいて哲学は「完結」してしまった〕

ニーチェの<力への意志>の形而上学は、形而上学の「完結」であり、この「意志」の原理が大地を秩序づける土台となってしまった。
このように秩序づけられた世界には、もはや哲学の余地がない。

  一三 〔ニーチェにおける「真理」とはなにか〕

ニーチェの言う「真理」とは、本当に「存在」の真理なのだろうか。

  一四 〔存在論的差異の考え方の導入〕

これまで、「存在するもの」(存在者)ばかりが考えられ、「存在」自体が問われたことはないのではないか。

  一五 〔形而上学の歴史のまとめ〕

形而上学は、以下のような歴史をたどった。
1.「私は思う」の確実性〔=疑えなさ〕
2.客体としての「対象」を概念的に把握すること
3.客体としての「対象」について無制約的に思考すること〔=どこまでもくまなく支配できると考えること〕

  一六 〔「対象性」の思考はどのように生まれたか〕

「一致すること」としての真理が「確実性」としての真理となり、イデアが認知となっているとき、何かを目の前に立てる「表象」が生まれる。
この「表象」という「存在するもの〔存在者〕との関連」を前提にして、「反省」〔=「我思う」〕が生まれる。
この「反省」をもとにして、「存在」が「対象性」として規定されてしまう。
〔従来の形而上学の基盤である「対象性」はこのようにして「反省」から生まれ、存在論的差異が無視され、「存在」の真理が忘却された〕

  一七 〔「反省」と「自我性」〕

カントは「反省」の本質を熟慮する途上にあった。
カントが検討した形而上学は、「自我性」にもとづいていた。

  一八 〔形而上学が育てた「自我性」は、「人間学」を作り出す〕

デカルトの「自我」はまだ一般的な「自我性」から考えられたものではなく、個別的な人格としての「自我」だったが、「自我性」の萌芽はそこにあった。
デカルトの「自我」は、自我自身と表象されたものとの関わりとしての「確実性」に支配されていた。
ここから形而上学は、表象との関わりとしての〔構造的な〕「自我性」を作り出し、それに支配されることになった。〔必然的に、「自我性」の前に立つものとしての「対象性」の概念が生まれる〕
「完結」した形而上学の時代において、哲学は、「自我性」にもとづく「人間学」〔=すべてを人間にたいして用立てるような思考〕となってしまい、滅びることになる。

  一九 〔技術と「人間学」〕

<意志への意志>の中で、技術は「存在」の真理に関する無思慮と相通ずるものになってしまう。〔技術は人間の「意志」による用立てになってしまうから〕
そのような時代において、「人間学」は人間の研究だけにとどまらず、人間中心主義の全体化〔=「存在」の真理を無視して、あらゆるものに関して人間に役立つかどうかということだけを考えること〕を引き起こしてしまう。

  二〇 〔<力への意志>は「正しいもの」だが「真なるもの」ではない〕

ニーチェの<力への意志>は、無制約的に確かである「正しいもの」だが、その「正しさ」とは、「意志」のために世界のすべてが確保されるという考え方があらゆる事態の説明として妥当してしまうというだけの意味である。
真理の原初的な本質は<力への意志>にはない。
<力への意志>の「正しさ」は、「真なるもの」を排除してしまう。

  二一 〔純粋な形式となる<意志への意志>〕

カントの純粋意志に始まり、ニーチェの<力への意志>に至るまで、形而上学が育ててきた<意志への意志>とは、計算〔=主体が対象を計ること〕の、計算による自己確保という無制約的な意識である。
<意志への意志>は、なにも目的を持たないので、自身の確保以外の何も考慮しなくなり、ただの形式になる。

  二二 〔<意志への意志>は世界を一様なものにする〕

人間が<意志への意志>を作り出すのではなく、<意志への意志>が人間を意欲する。〔人間は<意志への意志>の運動から疎外される〕
この<意志への意志>の運動は、世界を一様なものに均質化してしまう。

  二三 〔<意志への意志>は秩序を作ろうとする〕

<意志への意志>は目的を持たないが、自らを正当化するため、「任務」を捏造して秩序を作ろうとする。〔この「任務」がよく分かりません……〕

  二四 〔力をめぐる戦いの中で、人間は存在から見放される〕

<意志への意志>は、力をめぐる戦いを生む。
人間たちはその力に支配され、存在忘却から脱出する可能性を奪われる。
その結果、人間は命運〔=存在と存在者との本質的な関係のこと?〕から閉め出され、存在から見放される。

  二五 〔ニヒリズムとは存在から見放されること〕

<意志への意志>の支配の下、人間は、「人間はすべての現実的なものを意のままにできるし、真理を知っている」と思い込んでしまう。
そこにニヒリズムが生まれる。
ニヒリズムとは、存在から見放されること〔=「存在」の真理が現われなくなること〕である。

  二六 〔存在から見放された現代の世界〕

存在から見放された人間は、無理やりに世界を秩序づけようとしたり、消費に走ったりする。
消費は無制約的で目的のない濫用に至る。
「存在するもの」を動員〔=「技術への問い」における「挑発」〕し濫用する「迷誤」の中で、世界は非世界になり、戦争と平和の区別がなくなる。
「存在するもの」を動員するための確保と秩序づけの必要性から、必然的に「指導者」の登場が要請される。
指導者は「超人」にして、本能的な「直観力」をもつという意味で動物的であり、つまり、「人間以上」にして「人間以下」の存在であるが、このような存在は、人間を「理性的動物」として規定してきた形而上学の産物にほかならない。
人間は濫用の主体になりうるという意味で最も重要な資源なので、人的資源の生産と統制が行われるだろう。
技術による代用品の大量生産から、消費のための濫用が循環しつづける。
動員と濫用の「業務」はグローバル化し、歴史を一様化すると同時に、人間を画一化する。

  二七 〔大地との関わり〕

大地は本来、<可能なもの>というつつましさの範囲内において事物を生み出したり消滅させたりしている。
しかし、技術と「意志」は大地を濫用し、<不可能なもの>であるように強いているので、現在の大地は荒廃している。
人間には、以下の2つの生き方がある。
 (A) 大地をただ利用する生き方。
 (B) 大地の恵みを受領し、大地の掟に従って存在の秘密を見守るため、故郷に住み慣れる生き方。
〔従来の形而上学は、存在論的差異を無視して主体と対象という形で世界を見てきたせいで、(A)の生き方の元凶となってしまった。本当の「形而上学の超克」とは、存在論的差異から「存在」の真理を洞察することで、(B)の生き方を作り出すことでなければならない〕

  二八

〔ここはよく分かりません……〕

  まとめ

以上、読んできたことを私なりにまとめると、以下のようになると思います。

デカルトに始まり、カントを経てヘーゲルに至って「完結」しはじめる形而上学は、世界内に存在するものを「対象」としてとらえ、対象に向かい合う人間の側に「自我」「主観」「意志」を置いた。
ニーチェは形而上学を「超克」することを目論んだが、しかしじつは、<力への意志>によって世界を見るニーチェの思想も、上記のような形而上学の延長線上のものであった、
これらの形而上学によって育てられてきたのは<意志への意志>、すなわち、「人間の意志が対象としての存在者を加工する」という形で世界をとらえようとする姿勢である。
人間が作為によって世界内のあらゆる存在者を際限なく利用する現代の「作為機構」は、このような形而上学にもとづく西欧的精神が、グローバルな規模に拡大したものである。
この「作為機構」(現代技術のシステム)は、必然的に世界戦争やファシズム、環境破壊を生む。
なぜこのようなことになったのか。
それは、従来の形而上学が世界内の存在者を「対象」としてとらえる方向に完成されていったせいであり、そもそも存在者と存在の違い(存在論的差異)を洞察できなかったせいである。
もしも存在論的差異が深く洞察され、存在そのものの真理が明らかになるならば、そのときはじめて、大地から資源を挑発して濫用するような生き方ではなく、大地の掟のもとに真理を見守りながら住み慣れるような生き方が可能になるだろう。

存在論的差異への洞察が大地への住み慣れにつながるというのは、たとえば木を見てそれをただの「存在者」としてしかとらえられない(従来の形而上学における「対象」の)考え方だと、切って木材にするだけですが、そこに木が芽生え育って「存在していること」自体の神秘に思いを致すなら、接し方も変わるという話かなと思います。



《7[一五六]
 私の哲学は逆転したプラトン主義。真に存在するものから遠ざかれば遠ざかるほど、
より純粋に、より美しく、より良くなってゆく。仮象のうちなる生が目的。
1870年末-1871年4月》
(ニーチェ「遺された断想」『ニーチェ全集』第1期第1巻白水社267頁より)

【読書メモ】ハイデッガー「形而上学の超克」 要約

http://42286268.at.webry.info/201411/article_3.html
ハイデッガー「形而上学の超克」1936年-46年(『技術への問い』平凡社、2009年、所収)

《 九 〔「形而上学の超克」をどのように考えるべきか〕
ニーチェは「形而上学の超克」を目指したが、そこでは「超克」されるべき「形而上学」は
プラトン主義〔=感性によってとらえられるものを、感性を超えたものが支配しているという
考え方〕に限定されていた。
したがってニーチェの「形而上学の超克」は、プラトン主義のたんなる逆転にすぎず、じつは
形而上学の枠内のものでしかない。
本当は、「形而上学の超克」は、存在忘却〔=「存在」の真理を忘れてしまっていること〕の
原初的耐え忍びの前兆として考えられるべきである。》

http://deleuze.web.fc2.com/DR-1.html
《現代哲学の責務は「プラトン哲学の転倒」として定義された。ところが、
プラトン哲学の転倒には、数多くのプラトン哲学の特徴が保存されている
のであって、これは、たんに避けることができないというだけでなく、望
ましい事態でもある。》(ドゥルーズ『差異と反復』邦訳単行本p102) 

《プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくは
コピーのあいだでのその権利を確認することである。》『意味の論理学』付論1より



プラトニズムの転倒とは、シミュラークルを上昇させ、イコンもしくはコピーのあいだでのその権利を確認することである。問題は、本質と仮象、もしくはモデルとコピーという区別にはもはやかかわらない。この区別の全体は、表象の世界のなかで作用している。重要なのは、《偶像の黄昏》というこの世界のなかでの破壊である。シミュラークルは程度の落ちたコピーではなく、オリジナルとコピー、モデルと複製を否定する積極的な力を隠している。少なくともシミュラークルのなかに内化された分岐した二つのセリーのうち、どちらをオリジナルとし、どちらをコピーにするかは決められない



〈私ハ思考スル〉(コギト)は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。

ドゥルーズ
差異と反復結論
 

シェストフは、ドストエフスキーに、『純粋理性批判』の結末を、すなわちその完了と出口を見ていた。しばしわたしたちには、〔フローベールにおける〕ブヴァールとペキュシェに、『方法序説』の結末を見させていただきたい。で、コギトは、ひとつの愚劣なのだろうか。〈私ハ思考スル〉は、この命題がおのれ自身とおのれの意味とを言うのだと主張するかぎりにおいて、必然的にひとつのナンセンスである。しかし、コギトはまた、《私》は思考するという規定作用が、《私》は存在するという未規定な存在を直接的に対象としながらも、同時にそうした未規定なものが規定されうるものになるための形式を指定しないかぎりにおいて、反意味でもある(それは、カントが指摘していたことである)。デカルト的コギトの主体は、思考しているのではなく、ただ、思考する可能性をもっているだけであり、その可能性のただなかで依然として愚鈍であり続けるのだ。コギトには、規定されうるものの形式が欠けているのである。規定されうるものの形式といっても、それは、質料に形相を与える種的な特性、種的な形式ではなく、また現在に形式を与える記憶でもなく、それは、時間の純粋で空虚な形式なのである。思考がそれから出発して思考するようになる当の《差異》を、すなわち未規定なものと規定作用との差異としての《差異》を、思考に持ち込み思考において構成するのは、まさに時間の空虚な形式である。まさにその差異こそが、おのれ自身の両側に、抽象的な線によってひび割れた《私》と、その《私》が観照する無底(サン・フォン)から生まれた受動的自我とを割りふるのである。まさにその差異こそが、思考のなかに思考するという作用を産出するのである。なぜなら、思考は、あの脱根拠化の点のまわりにおいては差異によってはじめて思考するようになるからである。まさに差異こそが、あるいは、規定されうるものの形式こそが、思考を、すなわち、未規定なもの〔私は存在する〕と規定作用〔私は思考する〕との機械の全体を機能させるのだ。思考に関する理論は、言わば絵画であって、この理論は、おのれを表象=再現前化から抽象芸術へ移行させるような転回を必要としているのである。それこそ、イマージュなき思考に関する理論の対象なのである。

非人称的な個体化と前個体的な特異性  



30 Comments:

Blogger yoji said...

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52057772.html
【動画】-人間は洞窟にとらわれた囚人である-プラトンの洞窟の世界観をクレイアニメで表現したショートフィルム : カラパイア


 洞窟の比喩はプラトンの著書『国家』第7巻に記述されている。(wikipedia)
(514A-515A) ……地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。……壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。……

洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考えていたのだ。

 そしてプラトンは、アリストテレスにこう言った。「私たちは何も知らなさすぎる。私たちは、その洞窟を抜け出して太陽を見なければならない。太陽というものは真実なのだ。そして、太陽を見ようをもがき、考えることを"哲学する"というのだ」と。

7:27 午前  
Blogger yoji said...

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9:22 午後  
Blogger yoji said...

柄谷哲学の起源単行本はプラトン国家引用箇所が増えた
5,6,7巻特に6



http://philos.fc2web.com/plato/politeia.html

哲人政治論

───プラトン著 藤沢令夫訳『国家(上)』岩波文庫青601-7──────
「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」(とぼくは言った、)「あるいは、)現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、(親愛なるグラウコンよ、)国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。……
──────────P405(ステファヌス版473D)より引用─────5巻18

哲学の起源214頁


http://blog.goo.ne.jp/dreamct-1/e/daf9ef1ff04e384ed034fbbbb13f1d18

『国家−上・下』プラトン著(岩波文庫)を読んで-gooブログ

・ その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的に求めることの最も少ない人間であるような国家、

(そういう国家こそが、最もよく、内部的な抗争の最も少ない状態で治まる。)

下109
7巻5


哲学の起源214頁


http://web.ias.tokushima-u.ac.jp/shin-kokusai/philosophy/2012/20120511shiryo
pdf


a.「すなわちそれは、理(ことわり、logos)がそれ自身で、問答(対話)の力によって把握す るところのものであって、この場合、理はさまざまの仮設(ヒュポテシス)を絶対的始原とする ことなく、文字どおり〈下に(ヒュポ)置かれたもの(テシス)〉となし、いわば踏み台として、 また躍動のための拠り所として取り扱いつつ、それによってついに、もはや仮設ではないものに まで至り、万有の始原に到達することになる。そしていったんその始原を把握したうえで、こん どは逆に、始原に連絡し続くものをつぎつぎと触れたどりながら、最後の結末に至るまで下降し て行く…」(『国家』VI.511B) 

哲学の起源230頁


2:30 午後  
Blogger yoji said...


http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/politeia2004.html

道新文化センター2004年度 
「プラトン『国家』を読む」資料

9:09 午後  
Blogger yoji said...

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/stoics/stoics.html

古代ギリシア哲学 ストア派
(図多数)

 つまり、ストア派における「基体」は「自然」を内包していない状態のものということになりますが、2-3で主張したように、ストア派においてはこの「自然」と「基体」の区別はあくまで概念上の区別であり、存在者としての立場を認められているものは「自然」と「基体」が結びついている「自然を内在しているもの」、すなわち、「物体」のみでした。
 ですから、この一番目のカテゴリーとしてストア派が提示している「基体」というのも、それは存在として認められているわけではなく、あくまで、存在者である「物体」を概念として厳密に規定するために用意したものと考えるべきでしょう。 


2-4-2、性質的形容 
 次に「性質的形容」についてみてみましょう。例によって、以下の資料を見て下さい。

『初期ストア派断片集2』三九五(シンプリキオス『アリストテレス「魂について」注解』二一七-二一八) 
具体的なものの場合にも、[質料と]統一された形相があるなら、ストア派の人々の間では、性質的形容は固有の仕方ではそれに基づいて語られ、それがまた、一挙につけ加わったりまた離れたりして、具体的なものの全寿命を通じて同じものとして存続するのだが、他の諸部分は時によって生じたり滅んだりする。 

9:59 午後  
Blogger yoji said...

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
橋本努北大講義プラトン「国家」

Ⅳ 不完全国家とそれに対応する人間の諸形態。正しい生と不正な生の比較。
・【5種類の国制とその移り変わり】:優秀者支配制→名誉支配制→寡頭制→民主制→僭主独裁制(170)
(1)「優秀者支配制」:哲学者によって統治された体制。財産の共有。妻女の共有。

7:37 午前  
Blogger yoji said...

2:11
自給自足が出来ないから国家が生じてくる
国家上131頁

7:53 午前  
Blogger yoji said...

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node9.html#SECTION00032100000000000000
言論の上での国家の建設

最も必要なものだけの国家(第2巻第11-12章)

「そもそも国家というものがなぜ生じてくるかと言えば,それは,人間がひと りひとりでは自給自足もできず,多くのものに不足しているからだ。…ある人 はある必要のために他の人を迎え,また別の必要のためには別の人を迎えると いうようにして,人間は多くのものに不足しているから,多くの人々を仲間や 助力者として一つの居住地に集めることになる。このような共同居住にわれわ れは〈国家〉という名前をつけるわけなのだ。」(369B-C)

8:40 午前  
Blogger yoji said...

柄谷哲学の起源岩波
233頁(217頁)関連:


http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012060300010.html?guid=on
ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気 自己と他者の統治2 [著]ミシェル・フーコー - 柄谷行人(評論家) - 書評
■「真の生」開く哲学、ソクラテスに探る

 本書はフーコー最晩年(1984年)の講義録であり、その主題は「パレーシア」である。それはギリシャ語で「真理を語る」という意味だ。真理を語るといっても、いろんなケースがある。真理を語ることによって、相手との関係が損なわれたり、自分の身が危うくなる場合がある。パレーシアとはそのような場において真理を語ることである。だから、パレーシアには「勇気」がいる。
 なぜフーコーはこのことを考えるようになったのか。それは哲学の意味を問い直すためである。今日、哲学は知識を厳密に基礎づける仕事として存在している。それはプラトン以来の哲学がたどった道である。フーコーはそれに異議を唱える。哲学は「真の生」を開示するものであった、と彼はいいたいのだ。そして、彼は、「ソクラテス以前の哲学」に向かった同時代の傾向に反して、その手がかりをソクラテスに見いだそうとする。
 ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。
 そのような伝統がソクラテスに由来することは否定できない。しかし、ソクラテスには別の側面がある。フーコーはそれを受け継ぐ者を、キュニコス派(犬儒派)のディオゲネスに見た。彼にはさまざまな伝説がある。彼を犬扱いした相手に、小便をかけてまわった。物乞いし、樽(たる)の中に住んだ。人前で自慰をした、等々。こうしたエピソードは、彼のスキャンダラスで戦闘的な言動がパレーシアであったことを物語っている。事実、プラトンは彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。
 フーコーによれば、キュニコス主義は古典古代において嫌悪されながら重視され続けた。そして、それはやがて、キリスト教の修徳主義(ドミニコ会やフランシスコ会)に取り入れられた。つまり、パレーシアや哲学的な「生」は、哲学よりむしろ宗教のほうに残ったのである。その後も消えることはなかった。近代では、それは芸術家の生き方や「極左主義」というかたちをとったと、フーコーはいう。30年後の今日、それは消えてしまっただろうか。
    ◇
 慎改康之訳、筑摩書房・6195円/Michel Foucault 1926〜84。フランスの哲学者・思想家。著書に『狂気の歴史』『性の歴史』など。本書はコレージュ・ド・フランスでの講義録(講座名は思考諸体系の歴史)の一部(邦訳は全13冊)。

8:50 午前  
Blogger yoji said...

http://homepage2.nifty.com/eleutherion/lecture/politeia2004/node11.html
個人における正義(第4巻11章-19章)
12章 矛盾律

ここで哲学史上初めて「矛盾律」というものが明確に表明される。

「いうまでもなく,同一のものが,それの同一側面において,しかも同一の ものとの関係において,同時に,相反することをしたりされたりすることは できないだろう。したがって,もし問題となっているものの間に,そういう 事態が起るのをわれわれが見出すとすれば,それらは同一のものではなくて, 二つ以上のものであったことがわかるだろう」(436B-C)
「同じものが同じものについて同時に反対の判断をもつということは,不可 能である」(602E)
「同じものを,知っていて知っていないとか,知らないでいて知っていると かいうことは不可能である。」(プラトン『テアイテトス』188A)

9:06 午前  
Blogger yoji said...

http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2012060300010.html?guid=on
 ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。

9:08 午前  
Blogger yoji said...

ディランはパレーシアの人で、追放される=彷徨う詩人である

9:10 午前  
Blogger yoji said...

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/plato/plato.html
古代ギリシア哲学 プラトン(B.C.427-347)
AーーDーーーCーーーEーーーーB


 また、プラトンはAD、DC、CE、EBの四つの範囲でそれぞれに働く認識作用を、AD=映像知覚(間接的知覚)、DC=確信(直接的知覚)、CE=悟性的思考(間接知)、EB=知性的思惟(直接知)と呼んで分類しています。 
 これまでの部分って、なんとなく文章だけだとわかりづらいですけど、いま説明してきたようなことを加味して再度プラトンの線分を図で表すと以下のようになります。 

○線分…その2 
 

 以上が、「線分の比喩」を用いてなされた人間の認識の分類です。 
 さて、これまでの議論をまとめると、プラトンは「太陽の比喩」によって「思惟によって知られる世界」における認識のあり方を明らかにし、「線分の比喩」によって「見られる世界」と「思惟によって知られる世界」の両方でなされる人間の認識すべてを四つに分類しました。 

第6巻にカントの原型

4に論理学
5に共産主義
7にイデア、宇宙倫理

1:30 午前  
Blogger yoji said...

10
詩人追放論
籤引き

1:32 午前  
Blogger yoji said...

http://nam-students.blogspot.jp/2012/05/blog-post_10.html
ロッセリーニ『ソクラテス』

パゾリーニの最後の企画も「史上最大の過激派」ソクラテスだった(もう一つはパウロ)

1:06 午後  
Blogger yoji said...

このコメントは投稿者によって削除されました。

3:20 午前  
Blogger yoji said...

哲学の起源4:2

131頁(226)

ポパー、ヘラクレイトスについて

3:22 午前  
Blogger yoji said...

ドゥルーズにおける思考の概念
http://www3.ocn.ne.jp/~camp/deleuze.html

 「現在のような貧しい時代には、超越性の復権と、「何かについて考察する」という意味の哲学への回帰が存在しています。それはまた、アカデミスムヘの回帰でもあります。ですから、今まさに取り戻さなければならないのは、創造としての哲学なのです。 つまり、「何かについて考察する」のではなく、概念を創造すること。超越性を探求するのではなく、内在野において概念を機能させることです。(1)」

7:50 午後  
Blogger yoji said...

      (太陽 善のイデア)
         \|/
        --○--
         /|\   (地上 イデア界)
      _________________
\洞窟   \
 \ i    \_____________   
  \光源                |
   \ ef _     ab   cd|
    \通路|塀|    人々   影絵|
     \_| |___________|


      (太陽 善のイデア)
         \|/
        --○--
         /|\   (地上 イデア界)
      _________________
\洞窟   \
 \     \_____________   
  \i光源               |
   \ ef 人形    ab   cd|
    \通路 ☆_    人々   影絵★
     \__|壁|__(囚人)____|


8:03 午後  
Blogger yoji said...

エウリピデス


エウリピデス像
エウリピデス(古典ギリシア語: Ευριπίδης, Euripides、紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)は、古代アテナイの三大悲劇詩人の1人。現代にも大きな影響を及ぼしている。代表作は『メデイア』、『アンドロマケ』など。


ニーチェの悲劇の誕生によれば
エウリピデスとソクラテスはつながる

7:43 午後  
Blogger yoji said...

プラトンの言葉「善人とは、悪人が実際に行っている事を夢に想像して満足している人間である」
はどの著作で言っているのでしょうか?

国家第九章の要約だろう

5 追記
>>150の文章はフロイトの『精神分析入門』からの引用のようだ。
新潮文庫版 上巻 第2部「夢」 第9講「夢の検閲」p.201

精神分析がここで言っていることは、プラトンが言った言葉、すなわち善人とは悪人が現実に行っていることを夢にみて満足している人間であるということ以外のなにものでもないのです。

7:05 午前  
Blogger yoji said...

哲学の起源231-2頁(217)

ポパー邦訳上104頁

プラトンが意図的に無視したというisonomy については ポパー『開かれた社会とその敵1』邦訳103−4、272−4参照

平等主義の3つの要求に関しては104頁


http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA254&dq=isonomy+popper&hl
=ja&sa=X&ei=916sUOLkLY7imAW7_IHoCQ
&ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q=isonomy
%20popper&f=false

Open Society and Its Enemies, Volume 1: The Spell of Plato
著者: Karl R. Popper,Sir Karl Raimund Popper


http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA93#v=onepage&q&f
=false

p93-4

本文isonomy

7:05 午前  
Blogger yoji said...

yoji さんは書きました...
プラトンが意図的に無視したというisonomy については ポパー『開かれた社会とその敵1』邦訳103−4、272−4参照

平等主義の3つの要求に関しては104頁


http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA254&dq=isonomy+
popper&hl=ja&sa=X&ei=916sUOLkLY7imAW7_
IHoCQ&ved=0CDMQ6AEwAA#v=onepage&q
=isonomy%20popper&f=false

Open Society and Its Enemies, Volume 1: The Spell of Plato
著者: Karl R. Popper,Sir Karl Raimund Popper


http://books.google.co.jp/books?id=v-yrLmQNRvsC&pg=PA93#v=onepage&q&f=false

p93-4

本文isonomy

7:06 午前  
Blogger yoji said...


プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識というものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題の部分集合」とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。

4:51 午前  
Blogger yoji said...


宗教、信仰だと社会学の対象になるが、信念になると哲学の対象になる。
(呪術(一体一)と宗教(媒介のある三角形)の違いに関してはR.オットー*が何か言っていた。)
 ________________
|命題 ____  ____   |
|  /    \/    \  |
| /     /\     \ |
||     |  |     ||
|| 真理  |知識| 信念  ||
||     |  |     ||
| \     \/     / |
|  \____/\____/  |
|________________|
知識 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E8%AD%98

プラトンが『テアイトス』においてソクラテスとテアイトスの対話の形で
提示した諸定義などをふまえつつ、古典的な認識論では長らく知識という
ものを「正当化された真なる信念」と分析した。もう少し分解すると
「知識というのは、真であり、なおかつ、信じられている命題の部分集合」
とも表現される。それをベン図で表すと上記のようになる。

参考:
信念の検証について ― C.S.パースの認識批判再考 ― 野口良平
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/581pdf/noguchi.pdf

なおカントは、「純粋理性批判」第二版の序文で「信仰の場所を作るために
知識を制限しなければならなかった」という意味のことばを述べている。
ただし、総じてカントは宗教を理性で置き換えたと言える。

6:34 午前  
Blogger yoji said...

プラトンの自然学
http://www.laboratory-for-metaphysics.org/Timaios.html
[異なる運動と同じ運動]
プラトンは魂をさらに異なるモノと同じモノの混合体として説明しようとします.ティマイオスは「その時「異」は混りにくかったのですが,これを力づくで「同」に適合させたのです[47]」というのです.つまり,「異なる」モノを「同じ」モノにする,つまり異なるモノ同士を結合するにおいては,「力」が必要とされるのです.これを,力の概念の萌芽であるといえないこともないでしょう.

ティマイオスは続けます.「まず,全体から一つの部分を切り離しました.
その次には,前者の二倍の部分を,
さらに第三には,第二の部分の一倍半で,第二の部分の三倍に当たる部分を,
第四には,第三の部分の三倍を,
第五には,第一の部分の八倍を,
第七には,第一の部分の二十七倍を,という具合に切り離していったのです[48]」.これは,2の累乗と3の累乗を考えるのです.つまり,2,4,8と3,9,27の二つの数列がそれです.そして「つまり,その一つは,両端の項それぞれに対してそのどちらにとっても等しい割合を占める分だけての差をもって初項を超過し,末項によって超過されるものであり[調和中項],いま一つは,数的に等しい差をもって,初項を超過し,末項によって超過されるもの[算術中項]なのです[49]」というのです.このように,数的な関係をもって全宇宙の秩序を作り出そうとします.

さらに「そこで神は,この組織全体を縦に二つに裂いて,それぞれの裁片の真ん中と真ん中を,ちょうど文字Χ(ギリシア文字「ケイ」)のように相互にあてがい,各自が閉じた一つの円を作るようにしました.そして,同じ場所を一律に回る運動にこれらを巻き込み,そして二つの円の一方を外側に,他方を内側にしました[50]」.ここまでくれば,プラトンの意図が明らかになります.つまり,「同」と「異」なる二重の円運動によって,それぞれ外惑星と内惑星の運動の差異を説明しようとするのです.プラトンにとっての宇宙の魂とは,なんと,惑星の運動それ自身のことだったのでした.

「さて,神は外側の運動を「同」の運動だと呼び,内側の運動を「異」の運動だと呼びました.そして「同」の運動のほうは辺にそって右向きに,「異」の運動のほうは対角線にそって左向きに回転させ,「同であり一様であるもの」回転運動のほうに主権を与えたのです[51]」.ここまでくると,神の意志はともかくも,見かけ上の天球の回転という「現象」をあくまで数的(算術的)に説明しようとするプラトンの不屈の「意志」にはいささか感動せざるをえません.そして,このように構成された天体の運動こそが世界の「魂」であるというのです.天球が「運動する」ということを,宇宙が魂をもっていて生きているコト,イノチをもつコト,天球というモノがココロをもつコトであるその現象として捉えているのです.神によって秩序ある運動を与えられたこと,すなわち永遠に円運動し続けることを魂の本性としてとらえているのです.

「そして,構成者の考え通りに,魂の組織全体ができあがってしまうと,次にはその身体となるものの全体を魂の内部に組み立てて行き,両者の中心と中心を合わせて,適合させていったのでした.そして魂は,その中心から宇宙の果てに至るまで,あらゆるところに織り込まれ,さらに,そのまわり全体を外側から覆い,自ら自分の内部で回転しながら,休みなき知的活動の生を,時間のあらん限り続けるべく,神々しい出発点を踏み出したのです[52]」.つまり,永遠に回転し続けることが,休みなき知的活動である,ということになっています.天体の運動は永遠であるが,地上の運動はいずれ休止する(死ぬ)ことに対応しています.運動性がイノチあるモノ,ココロあるモノ,つまり知性の働きによるものであって,その活動の静止がすなわち死であることが,明白に意識されているのではないでしょうか.プラトンにとって魂を持つとは自らが自らにおいて運動できること,「自・動」能力を持つことを意味したのです.

さらにティマイオスは「そして,宇宙の全体のほうは見えるものとして生み出されたのでしたが,魂のほうは,そのものとしては見えないものではありますが,数理や調和の一面を備えており,およそ理性の対象となり常にところのもののうちで最もすぐれたものによって生み出されたものであり,しかも生み出されたもののうちでも,これはもっともすぐれたものだったのです[53]」と語るのです.魂とは,世界を秩序づける正しい運動のことであって,数理や調和の側面をもっているというのです.さて,その現代科学技術において対応する意義をもとめようとすれば,それは自然法則のことであり,世界の運動を作り出す原理であり,それは「自然の第一原理(principle)」に対応すると考える他はないと思われます.

「さて,魂は,かの三つの部分たる「同」と「異」と「有」から混ぜ合わされ,また比率にしたがって分割され結合され,さらに回り回っては自分で自己自身へと帰ってくるので,それが分散可能な「有」をもった何ものかに触れる場合も,いつも自分自身の中を隈なく動いて回るのです-何かが,何かと同じであるにしても,何かから異なっているにしても,とにかくそれが,そもそも特に,何との関係で,どこで,どのようにして,いつ,生成する領域の各々のものに対して,また常に同一を保つものに対して,そのそれぞれ[同じ・異なる]であったり,それぞれの状態になったりするような結果となるのかを語るのです[54]」といわれます.宇宙の魂である「宇宙の第一原理(principle)」とでもいうモノは,宇宙のすべての事物を経めぐって,その事物の関与するデキゴトを紡ぎ出すような円運動に他ならない,ということになるのでした.

6:59 午前  
Blogger yoji said...

ドゥルーズ差異と反復邦訳単行本350頁参照

7:00 午前  
Blogger yoji said...

【話題】伝説の古代金属「オリハルコン」がついに発見される!含有成分も判明、アトランティス大陸産の可能性も浮上(写真あり) [無断転載禁止]©2ch.net

1 : ニライカナイφ ★2017/04/17(月) 13:08:33.42 ID:CAP_USER9
幻の古代金属「オリハルコン」のインゴットが大量に発見されたとのニュースが飛び込んできた!
古代アトランティス大陸に存在したといわれる幻の金属の正体は一体何だったのだろうか?

■オリハルコンの成分が判明?

オリハルコンの存在は、ギリシア哲学者プラトンが著した『クリティアス』で言及されて以来、かつてアトランティス大陸で作られていた幻の金属として人々の想像力を掻き立ててきた。
ゲーム「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」をプレイしたことがある読者なら聞き覚えがあることだろう。

『クリティアス』によれば、アトランティス大陸においてオリハルコンは金に次ぐ価値を持つ希少な金属だとされ、これまで真鍮や銅のことではないかと推測されてきたが、具体的な成分はアトランティス大陸の滅亡とともに失われてしまったといわれている。
それが発見されたとなれば、伝説の大陸アトランティスが現実に存在する可能性もグッと高まるため、考古学的にもオカルト的にも極めて重要な金属といえるだろう。

写真:発見されたオリハルコンらしきインゴット
http://tocana.jp/images/alloy_03.jpg
http://tocana.jp/images/alloy_04.jpg

そして2015年、イタリア・シチリア島ジェーラの海岸から300メートル離れた海底30メートルに沈む2600年前の貿易船から、ついにオリハルコンらしき金属のインゴットが発見されたのだ。
科学ニュースサイト「Live Science」(2015年1月7日付)の報道によると、発見に携わった地元海洋局のセバスティアーノ・トゥーザ氏も伝説の金属かもしれないと興奮気味に語っていたという。

その後、イタリアの科学技術系企業「Technologies for Quality」が成分を分析したところ、75~80パーセントの銅、15~20%の亜鉛、わずかなニッケルと鉛と鉄が含有していたことが判明し、これでオリハルコンを巡る長年の謎が解決したかと思われた。

■アトランティス大陸発見へ

写真:汚れを取り除いたオリハルコン。かつての輝きを取り戻した
http://tocana.jp/images/alloy_02.jpg

しかし、ブラジル・リオデジャネイロ連邦大学の元教授エンリコ・マティヴィッチ氏が異議を唱えたため事態が複雑化。
マティヴィッチ氏によると、そもそもオリハルコンは紀元前900年ごろペルー北部のアンデス高地に栄えたチャビン文化にみられる銅9%、金76%、銀15%の合金に起源を持つため、発見されたインゴットは伝説のオリハルコンではないというのだ。
また、イギリス人研究者ジョセフ・ニーダム氏も、古代にはアトランティス大陸で作られたオリジナルのオリハルコンと、古代ギリシア人がそれを劣化コピーした複製品が存在すると主張しているため、2015年に発見された金属が複製品だった可能性も考えられている。

このような批判に遭い、結局のところ発見された金属が正真正銘のオリハルコンであるとは確定されなかった。
やはり伝説の金属、そして伝説の大陸アトランティスは夢物語に過ぎなかったのだろうか……?

画像:アトランティス大陸は実在するのだろうか?
http://tocana.jp/images/alloy_05.jpg

希望はまだありそうだ。
というのも、今月に入り、歴史系情報サイト「New Historian」(3月10日付)などが、またしても新たに47ものオリハルコンのインゴットが発見されたとのニュースを報じ、今度こそ“本物”もしれないと期待されているからだ。
情報が限られているためこれ以上のことは分からないが、まだまだオリハルコン、そしてアトランティス大陸の謎から目が離せない状況だ。

http://tocana.jp/2017/04/post_12929_entry.html
http://tocana.jp/2017/04/post_12929_entry_2.html

10:09 午後  
Blogger yoji said...

第13話 イデア論の哲学史 - まったくろくな哲学入門書がないよね(へげぞぞ) - カクヨム
https://kakuyomu.jp/works/1177354054882822307/episodes/1177354054884188379#end

第13話 イデア論の哲学史

 西洋哲学をやるのに避けて通れないのがプラトンのイデア論である。もともとは、「国家」の第五巻から第七巻にかけて書かれた存在論が起源で、それは「洞窟の比喩」として語られる。「洞窟の比喩」とは、難しくて容易に要約できないが、洞窟の中では実体は見えず、灯りに照らされた影が見えるだけである。それがこの世界の存在の構造ではないかという仮説。つまり、この世界にはどこかに真の実体の世界であるイデア界が存在していて、我々の現実はその影にすぎないのではないかという仮説である。証拠はない。
 プラトンの対話篇に「国家」より後に書かれた「パルメニデス」というものがあり、これは文庫化されてないので入手困難だが、思い切って大金を出して古本で買ってみた。「パルメニデス」の副題は「イデアについて」であり、読んで重要なことが書いてあったら後でこの箇所を書き直したいと思う。まだ読んでないので、それについてぼくがまったく知らないでイデア論について語るのは許してほしい。
 このイデア論は、可能性として古代思想としてはありえたかもしれないが、原子論や進化論などが発達した現代では信用される仮説ではない。進化しつづけた動物のそれぞれに対応したイデアが存在するとはとても考えられないのである。この失敗した仮説であるイデア論は西洋哲学史で極めて大きな影響力を持ちつづけた。これから、イデア論を論じた哲学者の代表者を述べて、イデア論の哲学史の概略としたい。
 まず、プラトンの生前に直接、教えを受けていたアリストテレスはなんといっているかというと、「形而上学」にある。引用する。

――ある何か離れてそれ自体で存在していて、なんらかの感覚的なものに属しないようなものが、果たして存在するのかどうか。

 アリストテレスは「形而上学」において、資料(ヒュレー)と形相(エイドス)を対比して説明するが、形相(エイドス)はイデアのような概念を必ずしもそのまま示してはいない。アリストテレスは、「形而上学」で「最後は善のイデアに至る」と書いていて、イデア論を結局は肯定している。
 別の章で書いたが、このアリストテレスの「形而上学」がイスラム社会で最も信頼できる世界の構造と考えられていて、十二世紀のヨーロッパのルネサンスまでの間はアリストテレスの「形而上学」が信じられていた。だから、イデア論はこの間、ずっと可能性として信じられていた。
 十三世紀前後のヨーロッパにおけるイデア論の議論を書いた書物は山内志朗の「普遍論争」である。日本の哲学者山内志朗はヨーロッパの図書館に行き、直接、中世ヨーロッパのイデア論の論争を、文献を原語で読んで調べたそうである。イデアは存在するとした哲学者とイデアは存在しないとした哲学者が言い争っていたとある。どうも推察するに、山内志朗は西洋哲学、さらには現代哲学がイデア論という幻想を本当に根拠にしているのが信じられなかったようである。それでそれは本当なのかどうか確かめるためにヨーロッパの図書館で中世の文献を調べたのである。その結果、中世ヨーロッパの哲学者の中には本気でイデア論を信じている人が大勢いたという結果が得られた。
 やがて、十六世紀になり近代哲学が始まる。コペルニクスが「天体の回転について」を発表して、近代科学思想が始まる。哲学も近代化する。デカルトやスピノザやライプニッツは手放しでイデア論を肯定することはなかったようであるが、有名な哲学者でイデア論を肯定する人は近代哲学が始まってからもどんどん出てくる。
 十九世紀のヘーゲルである。「精神現象学」は、人々の掟と神々の掟に分けて論証され、どうも、イデアという単語は使わないものの、ヘーゲルの「精神現象学」はイデア論を肯定する論理で書かれているようなのである。神々の掟は絶対に正しいとされ、おそらくイデアを意識している。
 ヘーゲルは、カントの二律背反を解釈するために出てきた哲学者であるから、二つの矛盾する論理が融合されて別の論理になるという思考を辿る。「精神現象学」は、人々の精神とイデアの精神が融合して、絶対知に至るとなって終わる。絶対知である。そんなことはありえない。ヘーゲルですら完全な真理には到達していないだろう。だから、ヘーゲルの哲学で絶対知に至るというのはもう完全にファンタジーである。このファンタジーが十九世紀の哲学としてドイツで圧倒的に支持されてしまう。この頃から西洋哲学はおかしくなっていく。
 二十世紀になると、デリダが「声と現象」を発表する。これもイデア論を扱ったファンタジーである。イデアから現象が表出して、その時、イデアと現象に差異が生まれる。イデアと現象を行ったり来たり反復するたびに差異が異なるため、世界の表象は異なり、歴史が生まれるとしている。ファンタジーの設定としては面白いかもしれないが、イデアが存在する証拠がひとつもないので仮説である。
 ドゥルーズの「差異と反復」は、1967年に発表されたデリダの「声と現象」のパクリであり、1968年に書かれた博士論文である。同じようなことをいっているが、冗長でしかももっとくだらない論理展開がされてるので読まなくてもいいだろう。
 というように、今では信用する人のほとんどいないイデア論であるが、哲学にはどんどん出てくる。哲学の凋落の原因でもあるだろう。ぼくはイデア論を支持しないし、そんなものを真剣に探究して哲学を研鑽したら現代哲学に未来はないと思っている。
 しかし、まだ見過ごせない問題がある。これはぼくがそう考えているわけではないが、そう考える人もいるということで、プラトンの「洞窟の比喩」が重要であると考える人々がまだいるのである。それは、カントの物自体がプラトンのイデアと同じなのではないかという解釈である。カントの物自体は、存在と認識の様式において想定される仮説であるが、実体の真の姿であるかもしれないが、プラトンがいった「善のイデア」とかにはぜんぜん当てはまらないので、別概念だとぼくは考えるが、同一視して西洋哲学は伝統的に正しいと主張する人々がいる。
 これがイデア論の哲学史である。プラトンの「パルメニデス」を読み終わったら書きかえるかもしれないけど、これでひとまずこの章を終わる。

 追記。
 プラトンの「パルメニデス」を読み終わった。最初は読み終えたら部分的に書きかえようとしていたが、読み終わったところ、とても部分的な修正では間に合わないので、追記の形をとることにした。
 超スピードとか瞬間移動とかじゃない、もっと恐ろしいものの片燐を味わったぜ。
 「美のイデア」とか「善のイデア」とか書いてあるのは「パルメニデス」であって、「饗宴」や「国家」ではない。「洞窟の比喩」とかこれに書かれていることに比べればどうでもいい。これはイデアを知るには必読である。カントも、田辺元も、ドゥルーズの「差異と反復」もこれを参考に書かれているのである。これは、プラトンがパルメニデスの教えを暗記している人に伝え聞いたものを書き写したものである。パルメニデスは天才だ。カントですら、パルメニデスの物まねにすぎない。イデアという考えはパルメニデスによって考えだされたものだ。西洋哲学はプラトンの注釈にすぎないのは本当だった。カントですら、プラトンへの注釈だった。それは「パルメニデス」を読まなければわからないだろう。天才だ。これは天才の書だ。
 何をいっているかというと、極めて難解だが、こんな感じである。
 部分は全体ではありえず、全体は部分でありえない。多は一ではありえず、一は多ではありえない。我々の現実は多様であり、つまり多である。ということは、多である我々の現実は一ではありえず、この世界は一である。よって、多である我々の現実はこの世界には存在しない。
 ぜひ日本の出版界にはプラトンの「パルメニデス」を文庫で安価に手に入れられるようにしてほしい。
 おそらく、プラトンの「パルメニデス」が霊魂、天国、神の国の存在証明である。

5:29 午後  
Blogger yoji said...



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10:51 午後
Blogger yoji said...
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10:58 午後  

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