A beautiful 2nd century A.D. sculpture of the starving Buddha @ Lahore Museum. Lahore, Pakistan
Gandhara, Lahore Museum, Pakistan
Buddha was called Gotama Siddharta and lived in the 5th century B.C. The story goes that he was the son of a king who wanted to hide from him all the evils of the world so that he should not know anything but pure happiness and joy all his life. One day though the young prince slipped out of the palace and encountered reality for the first time; he saw old age, sickness and suffering and understood in a flash that he’d been living in a dream world all his life.
He packed his bags and set out to become and ascetic in the woods. He went months without sleep and food (see the starving Buddha in the Lahore museum) until he understood that punishing the self was not the way. Each time he conquered his appetites they returned again shortly afterwards. This led him to discovering the Middle Way. A path of spiritual moderation.
Finally he say down under a Bodhi tree and resolved not to move until he had discovered enlightenment. His moment of realisation came shortly before the dawn and then he spent the next 40 years of his life spreading the word. http://www.skyscrapercity.com/showthread.php?t=503784&page=9 http://farm1.static.flickr.com/161/437124463_619d0159be_o.jpg
帰国後 編集 1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年(明治42年)に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。
現在自分で引くおみくじは簡易的なもの。 神社本庁による正しいおみくじの引き方は下記の通りです。 ① おみくじを引く前にあらかじめ尋ね事を一つ決めておく。 ② 謙虚な気持ちで祈りながら引く。 ③ 自分の尋ね事に該当する部分を読む。 吉や凶は願い事や尋ね事が成就しやすいかどうかであり、その人の運勢を占うものではなく成就するまで早いか遅いかなのだそうです。凶が出たならば、早く成就するよう努力をせよ!ということだそうです。
九一六 われは考えて、有るmūlaṃ papañcasaṃkhāyā, ti Bhagavā mantā asmīti sabbam uparundhe. yā kāci taṇhā ajjhattaṃ, tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe. この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(mantā)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると、〈mantā asmī ti〉を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andersen and Helmer Smith)もそのように区切っている。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeln hier im Sondern, Unterscheiden, Ich bin's, der denkt muss gänzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantāを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantāを gerund と解する)」という訳が成立する。 〔わたくしは、後者のように gerund に解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所(Sn. 1040)で mantā na lippati を paññāya na lippati と解されているからである(Pj. p.588)。〕 どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。 しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。
九一六 われは考えて、有るmūlaṃ papañcasaṃkhāyā, ti Bhagavā mantā asmīti sabbam uparundhe. yā kāci taṇhā ajjhattaṃ, tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe. この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(mantā)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると、〈mantā asmī ti〉を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andersen and Helmer Smith)もそのように区切っている。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeln hier im Sondern, Unterscheiden, Ich bin's, der denkt muss gänzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantāを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantāを gerund と解する)」という訳が成立する。 〔わたくしは、後者のように gerund に解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所(Sn. 1040)で mantā na lippati を paññāya na lippati と解されているからである(Pj. p.588)。〕 どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。 しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。
r over ‘secondary’ doctrine at the expense of ‘primary’ exterior and interior actions is wasteful diversion. James’ view that, as a philosophy, pragmatism ‘unstiffens our theories’ (1902, p. 415) is a kin to Ma¯dhyamika Buddhist deconstructionist talk of using s ´unyata, ‘emptiness’,as‘the antidote for all dogmatic views’ (Candrakirti 1979, pp. 150–1; see also Williams 1990, p. 70). James compares the Absolutist Idealism of Continental Europe, exemplied by Descartes and Kant, with the more empirical British tradition exemplied by Locke and Hume: The Continental schools of philosophy have too often overlooked the fact that man’s thinking is organically connected with his conduct. It seems to me that the chief glory of the English and Scottish thinkers is to have kept the organic connection in mind. The guiding principle of British philosophy has in fact been to have kept the organic connection in view. The guiding principle of British philosophy has in fact been that every difference must make adifference, every theoretical difference somewhere issue in a practical difference, and that the best method of discussing points of theory is to begin by ascertaining what practical difference would result from one alternative or the other being true . . . the principle of pragmatism. (1902, pp. 425, 427) While at rst sight this position points to Hume, there are also Buddhist parallels. James’ point that ‘man’s thinking is organically connected with his conduct’ parallels the Buddhist idea that practical reasons need to be grounded in inner meditation (sama¯dhi). Of the Dhammapada’s opening words that ‘mind precedes all things; all things have mind foremost, are mind-made’, Hammalawa Saddhatissa writes that ‘here we have the key to Buddhist ethics, and in fact to the whole teaching, for Buddhism is essentially a ‘‘mind culture’’. Any improvement or retrograde step must occur initially in the mind of the person concerned, whether it proceeds to external manifestations immediately or at a later date, so that the importance of being aware of [i.e. mindfulness of] and of controlling, one’s thoughts is continually stressed’ (1970, p. 28). James’ characterisation of ‘menticulture’ comes to mind: being that ‘self-control attained by the Japanese through their practice of the Buddhist discipline’, thereby undercutting ‘the divided self’. James’ holistic vision is not of a static Absolute but of a dynamic pluralistic universe. He denies that the world can be explained in terms of any absolute force or scheme mechanistically determining the interrelations of things or events. Instead, he holds that the interrelations are just as real as the things themselves: Without being one throughout, such a universe is continuous. Its members interdigitate with their next neighbours in manifold directions and there are no clean cuts between them anywhere . . . Our ‘multiverse’ still makes a ‘universe’; for every part, tho’ it may not be in actual or immediate connection, is nevertheless in some mediated connection with every other part however remote, through the fact that each part hangs together with its very next neighbour in inextricable interfusion. (1909, p. 254)
その前に、西洋の心理学者と仏教のかかわりについて、簡単にふりかえっておく必要があるだろう(村本,1999)。その歴史は意外に古い。William Jamesは1912年に『宗教的経験の諸相』(The varieties of religious experience )の 最後で、わずかであるが仏教について肯定的に言及している。Sigmund Freud は宗教を神経症のひとつとみなして否定的であったが、Erich Fromm は 1957 年に鈴木大拙とRichard de Martino とともに「禅と精神分析」という画期的なシンポジウムを開いた。 Carl Jung はむしろ東洋思想に傾倒したといわれている。1929年に(仏教ではないが)道教の瞑想法である『太乙金華宗旨』(The secret of the golden fl ower)のドイツ語訳に対する注解を書き、1939年に鈴木大拙の『禅仏教入門』(An introduction to Zen Buddhism )に序文を書いた。晩年の1958年には久松真一と対談したが、残念ながらこれはすれ違いに終わったという(Muramoto,2002)。1970年代から80年代にかけては、人間性心理学・トランスパーソナル心理学の展開のなかで東洋思想が再評価され、精神的成長やスピリチュアリティに関する諸理論が提唱された時代である。そして1990年代は、「第二の盛り上がり」(村本,1999)を見せたといっていい。すなわち、仏教を実践しながら臨床と理論を説く人びとが現れたのである。Jon Kabat-Zinn (1990)、Mark Epstein (1995)、 David Brazier (1995,1998)、Polly Young-Eisendrath (1996)、 Jeff rey Rubin (1996)、 David Loy (1996) などがそうである。2000 年以降の流れもこの延長にある。そこでは日本と西洋の研究者の交流が再び盛んになっていることも特徴だろう。たとえば花園大学国際禅学研究所は、1999年に「禅と心理学の出会い」、2006 年に「Self and No-Self」(Mathers et al., 2009)という国際会議を開催した。龍谷大学「人間・科学・宗教オープンリサーチセンター」も、2002~2009年に「仏教と心理療法
春木は十牛図の牛飼い(私)をWilliam James のいう「主体としての自己」(subjective self )、探し求める牛を「客体としての自己」(objective self)と考えた(Haruki, 2004)。第六図において、「私」と牛は調和してひとつになるが(self regulation= 苦悩の解決)、主客が分かれているという考えがあるかぎり、再び同じ過程が繰り返されるだろうという。じっさい第七図で、「私」は達成されたその調和に満足しつつ、牛のことを完全に忘れることができないかもしれない。この問題を解消するために、第八図では私も牛も消えてしまうのだ、と説明する(Haruki, 2004, p. 103)。彼は(座禅という)身体技法によって、主客を超えた認識(=無我)にいたる道筋として十牛図をとらえている(ように思われる)。
Haruki, Y. (2004). Concepts of self regulation in the East and the West. In M. Blows, S. Srinivasan, J. Blows, P. Bankart, M. DelMonte, & Y. Haruki (Eds.), The rel e vance of the wisdom traditions in con tem po ra ry society: The challenge to psychology (pp.99-114). Delft, Netherlands: Eburon.
175 Comments:
[749]5/6(月)15:12 P↓
だいたい葬式仏教を批判しないで
テクスト批判している時点で信用出来ない
原始仏教がそんなに大事ならチッタゴン↓で暮らせばいい
(窓)http://youtu.be/uig-2QJR3Eo
[750]5/6(月)15:24 P↓
ブッダが生きていたら般若心経のようなその国で受け継がれた文化を大事にしたと思う
キサーゴータミー↓を頭から否定せず、新たな試練を与え自ら気づかせたように、、、
(窓)http://youtu.be/_NrcK0bQSg8
般若心経は別にカースト制度というわけではない
般若心経は一種のクリエイティブコモンだ
今必要なのは空海がやったような新たな般若心経解釈だ
全否定することで何かが生まれるとは思えない
仏像の誕生 [編集]
仏像が造られる以前、釈迦牟尼(しゃかむに)の存在は法輪・菩提樹・仏足石などによって象徴的に表現されていた。
ところが、西北インドのガンダーラ地方と北インドのマトゥーラ地方(現在はパキスタン)に仏教が伝わると、仏像が盛んに造られるようになったことから、この2つの地域に仏像の起源は求められている[1]。ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、決着を見ていない。
ガンダーラ [編集]
白毫と、丸い光背を付けているガンダーラの仏立像(1-2世紀)東京国立博物館蔵
ガンダーラでは、インド文化を基盤にヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシャ的な風貌を持つ仏像が造られた[1]。次第に釈迦の修行時代を示す王冠菩薩や、弥勒(みろく)菩薩を示す束髪(そくはつ)菩薩などの菩薩像が生まれ、さまざまな仏像が出現するようになる[1]。
ガンダーラの仏像の特徴は額・眉間に白毫(びゃくごう)があり、背後に丸い円盤のような光背を付けているなどが挙げられる[1]。
また、ガンダーラでは仏塔の周囲に仏像を安置する仏龕(ぶつがん)が作られるようになるが、時代の経過と中央アジアに仏教が伝わるにつれて、仏塔と仏像を祀る祠堂(しどう)が誕生する[2]。そうしてついには、仏像崇拝が仏塔崇拝よりも興隆するのである。
ガンダーラの仏教美術は、仏塔や石窟寺院とともに、ガンダーラから中央アジアを経由して東アジアへ伝えられた[2]。
ガンダーラ仏教美術の時代背景
紀元前330年頃にアレクサンドロス3世(大王)の遠征軍がペルシャを越え北インドまで制圧し、ギリシャ文化を持ち込んだ。その後も紀元前2世紀にはグレコ・バクトリア王国のギリシャ人の支配を受けるなど、西方文化の流入は続いた。つまりガンダーラの仏教美術とは、ギリシャ美術、ペルシャ文化に仏教が融合した結果であった。
元々仏陀像は釈迦の像に限られていたが、仏教の展開に応じて、色々な像が生まれ、光背はペルシャ文化の影響と見られ、仏教はギリシャ文化の影響からか、偶像崇拝的性格を持つようになった。ガンダーラにおいても銘文から弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩などであることが明らかな作例が確認されている。詳しくは高田修『仏像の起源』(岩波書店、初版1967年、復刊1994年ほか)『仏像の誕生』(岩波新書 1987年)、宮治昭『ガンダーラ仏の不思議』(講談社選書メチエ、1996年)。
マトゥラー [編集]
マトゥラーの弥勒菩薩坐像(2世紀)パリ・ギメ東洋美術館蔵
仏像が盛んに造られるようになったのは、紀元後1世紀頃からインドを支配したクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっている。クシャーナ朝のカニシカ王は釈迦の教えに触れて仏教の保護者となった。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印した。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャーワル)の遺跡からはクシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されている。
マトゥラーの仏像は肩がいかり肩で力強く、量感に富む仏像が造られた[2]。これはさらに洗練され、グプタ朝時代の完成された仏像に引き継がれていった[2]。
https://www.youtube.com/watch?v=JVf0NoqfN6w
映画「円空 今に生きる・ENKU Life to Live」予告編・Trailer
https://www.youtube.com/watch?v=xZfRdWifbB8
円空 飛騨巡礼
<パキスタン・ラホール博物館 ~断食するブッダ~>
この仏像、実際に見にいったことがあります。まるで生きた人が化石になったかのよう。顔は痩せこけ、目はくぼみ、骨と皮だけ。あばら骨や血管が浮き出ています。体はとても痩せ細っているのに、肉体からは強いエネルギーを発しているかのよう。しばらくその場所から動けなかったです。パキスタンに行った際は是非見にいってください。すごい迫力です。
http://blog-imgs-30.fc2.com/k/u/n/kunyshanti/2011010323594764e.jpg
http://kunyshantishanti.blog.fc2.com/blog-entry-102.html
断食する仏陀像 パキスタン世界遺産紀行76
April 26 [Thu], 2007, 23:27
この博物館で最も有名なもの、そしてガンダーラ美術の最高傑作と評されているのが、この断食する仏陀像でしょう。2世紀後半或いは2~4世紀に作られたと考えられている像ですが、観れば観るほどその完成度には驚きを持って然るべきです。
釈迦の苦行する姿が、灰色片岩になんとも細かく表現されています。
6年間に及ぶ、極度の肉体的苦しみに耐え抜いた姿。落ち窪み頭蓋骨かと思うような眼窩、浮き上がった骨、血管の浮き出た皮膚。最初は怖く恐ろしくもあったけれど、観ている内にその苦行を支えた精神力を感じました。
何一つ不自由なく産まれ、しかし世を憂い、仏陀は断食にその悟りを求めます。結局断食で悟りは得られませんでしたが、落ち着き払い何にも動じることなく、静かに深く佇む姿は人を導くものの姿です。
以前日本で「ガンダーラ展」か何かで来日していましたが、今回ここで見られて嬉しいです。
http://yaplog.jp/saemizuki/image/748/2216
http://yaplog.jp/saemizuki/archive/748
ラホール博物館 パキスタン世界遺産紀行75
April 25 [Wed], 2007, 22:44
バスに乗って15分ほど。続いてやって来たのはラホール博物館。1894年に、ヴィクトリア女王の治世50周年を記念して建設された博物館です。パキスタンにある博物館の中では最も古く、又規模も大きいものです。収蔵品も価値のあるものが多い為、入口ではセキュリティ・チェックが行われます。
A beautiful 2nd century A.D. sculpture of the starving Buddha @ Lahore Museum. Lahore, Pakistan
Gandhara, Lahore Museum, Pakistan
Buddha was called Gotama Siddharta and lived in the 5th century B.C. The story goes that he was the son of a king who wanted to hide from him all the evils of the world so that he should not know anything but pure happiness and joy all his life. One day though the young prince slipped out of the palace and encountered reality for the first time; he saw old age, sickness and suffering and understood in a flash that he’d been living in a dream world all his life.
He packed his bags and set out to become and ascetic in the woods. He went months without sleep and food (see the starving Buddha in the Lahore museum) until he understood that punishing the self was not the way. Each time he conquered his appetites they returned again shortly afterwards. This led him to discovering the Middle Way. A path of spiritual moderation.
Finally he say down under a Bodhi tree and resolved not to move until he had discovered enlightenment. His moment of realisation came shortly before the dawn and then he spent the next 40 years of his life spreading the word.
http://www.skyscrapercity.com/showthread.php?t=503784&page=9
http://farm1.static.flickr.com/161/437124463_619d0159be_o.jpg
今回の旅の最大の目的は、ラホール博物館に展示されているガンダーラ仏教美術の最高傑作「釈迦苦行像」を見ることである。ブッダの出家から悟りに至るまでの6年間の苦行について、前回の連載「ブッダの旅路」(昨年11月8日~4月3日)では、ほとんど触れることができなかった。
私たちが博物館を訪れたのは4月7日朝。目的の石像は、ガンダーラ展示室の薄暗い蛍光灯の下にあった。
出土地はパキスタン北西部、インダス川西岸にあるマルダンの近く。米国が続けるテロとの戦いのため、私たち観光客が容易に入れない場所だ。
この像は正確には、ブッダ(真理を悟った人)になる以前の「断食するシッダールタ」である。痩せこけ、黒光りする石の肌に肋骨や血管が生々しく浮き上がる。そげた頬、落ちくぼんだ眼。無精ひげがあごの周りに伸びているのも、苦行のリアリティを感じさせる。
それでいて表情は静かで、苦悶の様子はない。像の高さは、台座を含めても84㌢。思ったより小ぶりだが、半眼で背筋を伸ばし、瞑想にふける姿は神々しいほど力強い。
制作年代は3世紀前後とされ、ブッダが入滅して7、8百年ほど経ったクシャーナ朝の仏教信仰における苦行仏のイメージである。
苦行は、ブッダの教えの最も謎に満ちた部分である。ブッダは苦行を捨てて悟りを開き、さらに貪欲を捨てて中道を歩むことを勧めた。
インド哲学者の中村元は、「ブッダが苦行は無意味なものであると知ったことは、仏教の成立のためには重大な意味をもっている」と述べ、それが出発点だとする。
だが、ここで疑問が生じる。ブッダがその知見に至ったのは、ほかならぬ苦行によってではないのか。
最古の仏典「スッタニパータ」の中で、苦行の最中誘惑する悪魔に対し、ブッダは「肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念〔おも〕いと智慧と統一した心とは、ますます安立するに至る。私は(中略)最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない」(中村訳)と述べ、悪魔を退けた。
初期の仏教では、苦行は捨てられるどころか尊重されていたようだ。釈迦苦行像の制作は、その事情を物語っているように思う。
この像ができたころに成立した『ミリンダ王の問い』(東洋文庫)に、仏教徒の身体観を示す項がある。
西北インドを支配したミリンダ王こと、ギリシャ系の王メナンドロスが、仏僧ナーガセーナにこう問いただす。「出家者にとって身体はいとしいものなのか」
ナーガセーナは、身体を矢傷にたとえ、「傷に膏薬を塗って包帯で保護するのは、傷がいとしいからですか」と反問する。僧は、「出家者にとって身体はいとしいものではありません。出家者は(身体に)執着しないけれども、清浄なる修行を助成するために、身体を保護するのです」と述べた。
人間の身体は、生老病死の苦を受ける厭うべき存在であるが、大いなる悟りに至ることも可能な、かけがえのない存在なのだ、と説いているのである。
博物館を出ると、真夏の炎天が待ち受けていた。とたんに全身から汗が噴き出した。『ミリンダ王の問い』で、ナーガセーナが引いたブッダの言葉は正しい。
「不浄にして悪臭あるもの、到るところより流出す」The sankei Shimbun
縁起ってのは、止観の観でもあるんだよ。
この観によって、無我・空性を悟るわけ。
この観は般若とも言われ、戒定慧の慧とも呼ばれるもので、
最も重要な修行法でもあるんです。
>>834
ちゃうちゃう、それは上の通り現代的誤解だよ。
普通、論理学は自分を対象外とするが仏教論理学は自分を対象とし、
相対化する
縁起とはそのようなものだ
自己を特権化出来なくなることで初めてそこに倫理的契機が現れる
身体的修業的要素、美的要素、いろいろあるが、仏教の論理学的要素
に着目するに足る理由は十二分にある
ちなみに般若心経は無意識裏の論理学のレッスンなのだ
この要素がなければ歴史的に仏教はもっと神秘主義的、秘教的になっ
ていたと思う
同じ理由でインドで定着できなかったのだが
そんなにオリジナルがよければ仏像でも破壊していればいい
般若心経は仏教の論理学的レッスン
その非合理的部分もその論理によって分節化されている
原始仏教の論理学的部分を認めないのは無知の証
その発展としての般若心経を認めないのは自由だが
やはり無理解の証だ
http://blogs.yahoo.co.jp/dnnyh656/57853452.html
釈迦苦行像
※法堂内解説より
釈迦苦行像は、お釈迦様が極限の苦行・禁欲(断食)を行っているお姿を現したもので
顔に髭を生やした姿は、きわめて稀であるとともに、
徹底的に肉体をも痛めつけるような荒行をしていたことを表しています。
この釈迦苦行像は、
パキスタンの北西部地方のガンダーラ文明の遺産で
ラホール中央博物館に安置されているお像をもとに制作され、
2005年愛知万博に陳列された後、
この度パキスタン国より建長寺に寄贈されました。
本仏像はパキスタン政府から公式承認され唯一国外への持ち出しが許可されたものです。
本来の仏教に立ち返るなら仏像の存在をも否定すべきかも知れない
禅宗のように
ただし個人的に釈迦苦行像は美しい、と思う
美が世界を救うのだ
(龍樹も音楽だけは否定できなかった)
般若心経による論理学レッスンはそれらを補助する
本来の仏教に立ち返るなら仏像の存在をも否定すべきかも知れない
禅宗のように
ただし個人的に釈迦苦行像は美しい、と思う
美が世界を救うのだ
(龍樹も音楽だけは否定できなかった)
般若心経による論理学レッスン=悟りはそれらを補助する
教授尸伽羅越経 南伝大蔵経 第八巻
財産4分法
重要なことは収入の何割かをお金を生産するために回転させるということです。まるで現在の会社経営の考え方のようですね。また、ものおしみをせずに、他人に施しをしなければならないと言っています。施しに関しては金銭だけではなく、ボランティアをするなどの労働を提供することでもよいそうです。生活の糧である仕事を一生懸命し、収支の均衡のとれた消費を心がけ、貯蓄に励み、お金を回転させていけば自然とお金は貯まっていくという考え方です。
このエピソードは商人や資産家に向けたものです。収入の半分を仕事のために使うというのは、自営業者の場合は参考になると思います。オフィスで働く女性の場合は、半分を消費に使い、四分の一を仕事や寄付に、四分の一を貯蓄にまわせると理想的ですね。最初は四分の三を消費に使い、仕事と貯蓄に10%ずつ、寄付に5%など始めやすい割合でスタートするのもよいでしょう。
寄付に関しては、敷居が高いと感じるかもしれませんね。例えば、職場のみんなにお菓子を配るというのも立派な施しにあたります。まずは、手みやげを渡すなど小さなところから始めてみてはどうでしょう。私も手みやげを渡す習慣を心がけてから、不思議と物をたくさんいただくようになりました。
ロバートキヨサキの『金持ち父さん貧乏父さん』でも「与えることの力」についての言及があります。「何かが足りないとか何かが必要だと感じたときには、まず、それを人に与えることだ。そうすればあとになって、二倍にも三倍にもなって返ってくる。」この本でもっとも大切で、忘れないで欲しいメッセージだと書かれています。
節約をして貯めたお金を自分のところにとどめておきたいと思うのは自然なことです。しかし、お金はただあるだけでは何の意味もなしません。将来不安からお金を使うことに怖くなっている人もいるかもしれません。そんな人も少しずつでもよいので、お金を生かして使うことに慣れていきましょう。この連載のなかでお金の生かし方についてもお伝えしていきたいと思います。
参考文献:『中村元選集18 原始仏教の社会思想』(春秋社)
花輪陽子
1978年三重県生まれ。ファイナンシャルプランナー(FP)。元外資系の投資銀行勤務。OL時代にはまったショッピングによりカードローンの残高は最大200万円に。失業も経験する。お金にコンプレックスがあり、勉強してFPになる。現在は雑誌・新聞・テレビ・ラジオ出演や全国講演などを精力的に行っている。著書に『貯まらん女のお金がみるみる貯まる魔法のレッスン88』(マガジンハウス)、『貯金ゼロ 借金200万円!ダメダメOLが資産1500万円を作るまで』(小学館)など。
『中村元選集18 原始仏教の社会思想』(春秋社)
仏教社会・経済学説の研究 (1956年) [古書] [-]
大野 信三 (著)
南伝大蔵経 第8巻 長部経典 3
高楠博士功績記念会 (単行本)
教授尸伽羅越経 南伝大蔵経 第八巻
経蔵長部 [編集]
経蔵長部 全訳
『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)』(全6巻)片山一良訳 大蔵出版
経蔵長部 [編集]
経蔵長部 全訳
『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)』(全6巻)片山一良訳 大蔵出版
http://daizoshuppan.jinbunpub.com/daizo/Shop/ThisBook.aspx?KanriNo=9-050-00190-0-000
パーリ仏典
第2期 長部経典 【全6冊】ディーガニカーヤ
揃税込 57,225円 本体54,500円 .
パーリ仏典 ②-1
長部(ディーガニカーヤ)戒 蘊 篇 Ⅰ
448頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1207-2 2003.04
梵網経・沙門果経・アンバッタ経・ソーナダンダ経
パーリ仏典 ②-2
長部(ディーガニカーヤ)戒 蘊 篇 Ⅱ
460頁 税込 9,975円 本体9,500円 4-8043-1208-0 2003.09
クータダンタ経・マハーリ経・スバ経・大獅子吼経 他
パーリ仏典 ②-3
長部(ディーガニカーヤ)大篇 Ⅰ
416頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1209-9 2004.06
大譬喩経・大因縁経・大般涅槃経
パーリ仏典 ②-4
長部(ディーガニカーヤ)大篇 Ⅱ
416頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1210-2 2004.11
マハースダッサナ経・大集会経・帝釈天問経 他
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
514頁 税込 11,550円 本体11,000円 4-8043-1211-0 2005.7
パーティカ経・転輪王経・世起経・歓喜経 他
パーリ仏典 ②-6
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅱ
336頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1212-9 2006.5
結集経・十増経 他
http://daizoshuppan.jinbunpub.com/daizo/Shop/ThisBook.aspx?KanriNo=9-050-00190-0-000
パーリ仏典
第2期 長部経典 【全6冊】ディーガニカーヤ
揃税込 57,225円 本体54,500円 .
パーリ仏典 ②-1
長部(ディーガニカーヤ)戒 蘊 篇 Ⅰ
448頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1207-2 2003.04
梵網経・沙門果経・アンバッタ経・ソーナダンダ経
パーリ仏典 ②-2
長部(ディーガニカーヤ)戒 蘊 篇 Ⅱ
460頁 税込 9,975円 本体9,500円 4-8043-1208-0 2003.09
クータダンタ経・マハーリ経・スバ経・大獅子吼経 他
パーリ仏典 ②-3
長部(ディーガニカーヤ)大篇 Ⅰ
416頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1209-9 2004.06
大譬喩経・大因縁経・大般涅槃経
パーリ仏典 ②-4
長部(ディーガニカーヤ)大篇 Ⅱ
416頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1210-2 2004.11
マハースダッサナ経・大集会経・帝釈天問経 他
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
514頁 税込 11,550円 本体11,000円 4-8043-1211-0 2005.7
パーティカ経・転輪王経・世起経・歓喜経 他
パーリ仏典 ②-6
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅱ
336頁 税込 8,925円 本体8,500円 4-8043-1212-9 2006.5
結集経・十増経 他
波梨篇(Pathika-vagga)
(1. 波梨経(Pathika-sutta) 2. 優曇婆邏師子吼経(Udumbarika-sutta) 3. 転輪聖王師子吼経(Cakkavatti-sutta) 4. 起世因本経(Agganna-sutta) 5. 自歓喜経(Sampasadaniya-sutta)
6. 清浄経(Pasadika-sutta) 7. 三十二相経(Lakkhana-sutta) 8. 教授尸伽羅越経(Sigalovada-sutta) 9. 阿吒曩胝経(Atanatiya-sutta) 10. 等誦経(Sangiti-sutta) 11. 十上経(Dasuttara-sutta))
四分の計
二宮尊徳に受けつがれた
分度とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書
分度とは?歴史民俗用語。 (1)はかりわけること。 (2)〔「分限度合」の意。二宮尊徳の 唱えた語〕経済面での自分の実力を知り、それに応じて生活の限度を定めること。 >>『 三省堂 大辞林』の表記・記号についての解説を見る.
www.weblio.jp>Weblio 辞書>学問>歴史民俗用語
禅語「本來無一物(ほんらいむいちぶつ)」
『六祖壇經』にある中国禅宗の第六祖慧能の「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)の一句。
『聯燈會要』に「有居士盧惠能。來參。師問。汝自何來。云嶺南。師云。欲求何事。云唯求作佛。師云。嶺南人無佛性。若為得佛。云人有南北。佛性豈然。祖默異之。乃呵云。著槽廠去。能入碓坊。腰石舂米。供衆。師將付法。命門人呈偈。見性者付焉。有上首神秀大師。作一偈。書于廊壁間云。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。師嘆云。若依此修行。亦得勝果。衆皆誦之。能聞。乃問云。誦者是何章句。同學具述其事。能云。美則美矣。了則未了。同學呵云。庸流何知。發此狂言。能云。若不信。願以一偈和之。同學相顧而笑。能至深夜。自執燭。倩一童子。於秀偈之側。書一偈云。菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何處惹塵埃。」(居士あり、盧惠能。来たりて参ず。師問う、汝はいずこより来るや。云う、嶺南。師云く、何事をか求めんと欲す。云う、唯だ作仏せんことを求む。師云く、嶺南の人に仏性なし、若為ぞ仏を得ん。云う、人には南北あるも、仏性には豈に然らんや。祖、默しこれを異とす。乃ち呵して云く、槽廠に著き去れと。能、碓坊に入りて、石を腰きて米を舂き、衆に供す。師、将に付法せんと、門人に偈を呈するを命ず。見性者付す。上首神秀大師あり。一偈を作る。廊壁の間に書きて云う。身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時に払拭に勤めよ。何れの処にか塵埃を惹かん。師、嘆じて云く。若し此に依りて修行せば、また勝果を得ん。衆皆な之を誦す。能、聞く。乃ち問うて云く、誦するは是れ何の章句ぞ。同学、其事を具述す。能、云う、美なることは則ち美なり。了ずることは則ち未だ了ぜず。同学、呵して云く、庸流、何をか知らん、此の狂言を発す。能、云く、若し信ぜずば、願くは一偈を以て之を和せん。同学答えず、相顧て笑う。能、深夜に至り、自ら燭を執りて、一童子を倩し、秀の偈の側に、一偈を書きて云く。菩提もと樹に非ず、明鏡もまた台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。)とある。
初祖達磨(だるま)大師より第五祖の弘忍(ぐにん)が法嗣を決定するため、悟りの境地を示した詩偈を作れと弟子達に命じた。学徳に優れ信望厚く、六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)がこの詩偈を廊壁に書いた。寺男として米搗きをしていた慧能がこれを聞き、綺麗だが未だ至っていないと、無学文盲のため童子に頼み「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)と壁書した。菩提というのは樹ではなく、明鏡もまた台ではない。もともと何もないではないか、どこに塵埃がつくと言うのか、と言う意味である。これを聞いた五祖弘忍は夜になって慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、伝法が済んだ今、ここにいては危ういから一刻も早く立ち去るがよいと、密かに逃がし、別れに臨んで「法縁熟するまで身を隠して聖胎長養し、市塵へ出るな」と忠告したという。
------------------------------------------------------------------------------------------------
無一物、むいちもつ。人間は、本来、何も持たない。
汚れも罪もなく病気も苦悩も無い。
------------------------------------------------------------------------------------------------
本来空(くう)であるから一物として執着すべきものはなく、一切のものから自由自在になった心境。
------------------------------------------------------------------------------------------------
万物は実体ではなく、空にすぎないのだから、執着すべき対象は何一つないということ。
<今月の禅語>
本来無一物(ほんらいむいちもつ) <六祖壇経>
禅宗の初祖達磨禅師から法灯を守る五祖の弘忍大満禅師のもとには七百人もの
修行僧が集まっていた。ある日、弘忍禅師は次の継承者を決めるに当たって、
門下の一同に、「自ら会得した境地を偈にして示せ」と告げられた。
神秀上座はこれに答えて示したのが次の偈である。
身は是れ菩提樹
(この身は菩提(悟り)を宿す樹である)
心は明鏡台の如し
(心は曇りのない明鏡のようにすっきりしている)
時時に勤めて払拭せよ
(だからいつも精進して心を払い浄めなければならない)
塵埃を惹かしむること莫れ
(そのために煩悩妄想の塵や埃で汚さないことである)
神秀上座は五祖門下のナンバーワンであり、広く学問に通じ
大衆の信望も厚く、彼に及ぶ者がいなかった。この偈により皆は
六祖になるのは神秀に違いないと思った。ところが未だ一人前の
修行者として認められていなかった、米搗きとして働く新参の
慧能行者(あんじゃ)がこの偈を見て、その傍に
菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の
世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を
身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は
大混乱となった。しばし寺内は身分も弁えぬ慧能への批判と、真実の境地は慧能が
優るという意見もあって侃侃諤諤の騒乱となったが、結局、
五祖弘忍は慧能を六祖としの伝法衣を授けた。結局、慧能が
禅宗六祖の地位を得ることとなった。だが、また神秀上座も
後に北宗禅開き、禅の法脈が北宗禅と南宗禅の分岐きっかけ
となったいわく因縁の語がこの「本来無一物」である。
本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切
空であり、絶対無であることを意味する。分別相対的な観念を全くはさまない
世界なのである。本来の心、仏性にはもとより塵や埃はないではないか。
何事にもとらわれない、「空」や「無」と云う悟りさえとらわれないところで
あるから、煩悩妄想の起きようもないというところの心境をいう。
さらに無一物の境地は、万法に広がる世界であり、限りないものがあり、
そのままが「無一物中、無尽蔵」の世界なのである。
>>235の改訂版
是諸法空相a、不生不滅b、不垢不浄c、不増不減d。
様相 関係 質 量
上記はカントのカテゴリーの範疇(下段)にそれぞれ対応し得る。
参考: カント、純粋理性のカテゴリー
量(単一性、多数性、全体性d)
質( 実在性c、否定性、限界性)
関係(実体性、 因果性b、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性a)
カントが挙げているアンチノミーには、(カテゴリー順に)四つ(a-d)ある(それ
ぞれのテーゼにアンチテーゼが対応)。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。d
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在
しない。c
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然
法則に従って生起する。b
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者
など存在しない。a
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
1量 2質
3関係4様相
1不増不減d2不垢不浄c
3不生不滅b4諸法空相a
カントはプロテスタントだが、その論理学的思考は仏教に通じる。
質に関しては第三批判(一般には様相が主題と解釈されるが)で詳述されると
考えられる。
>>235の改訂版
是諸法空相a、不生不滅b、不垢不浄c、不増不減d。
( 様相 関係 質 量 )
上記はカントのカテゴリーの範疇(下段)にそれぞれ対応し得る。
参考: カント、純粋理性のカテゴリー
量(単一性、多数性、全体性d)
質( 実在性c、否定性、限界性)
関係(実体性、 因果性b、相互性)
様態(可能性、現実存在、必然性a)
カントが挙げているアンチノミーには、(カテゴリー順に)四つ(a-d)ある(それ
ぞれのテーゼにアンチテーゼが対応)。
1 世界は有限(時間的、空間的に)である。←→世界は無限である。d
2 世界におけるどんな実体も単純な部分から出来ている。←→単純なものなど存在
しない。c
3 世界には自由な原因が存在する。←→自由は存在せず、世界における一切は自然
法則に従って生起する。b
4 世界の内か外に必然的な存在者がその原因として存在する。←→必然的な存在者
など存在しない。a
http://www.ne.jp/asahi/village/good/kant.html
1量 2質
3関係4様相
1不増不減d2不垢不浄c
3不生不滅b4諸法空相a
カントはプロテスタントだが、その論理学的思考は仏教に通じる。
質に関しては第三批判(一般には様相が主題と解釈されるが)で詳述されると考えられる。
普通の論理学は自分を対象外とするが仏教論理学は自分を対象とし、
相対化する
自己を特権化出来なくなることで(論理学の臨界を経ることで)初め
てそこに倫理的契機が現れる
身体的修業的要素、美的要素、いろいろあるが、仏教の論理学的要素
に着目するに足る理由は十二分にある
繰り返しになるが般若心経は無意識裏の論理学のレッスン
この要素がなければ歴史的に仏教はもっと神秘主義的、秘教的になっ
ていたと思う
書誌詳細情報
仏典の植物事典
著者
満久崇麿 著
定価
2,940円 (税込)
ISBNコード
9784896941555
発行日
2013/05
出版
八坂書房
判型/頁数
A5 208ページ
在庫
あり
この本のジャンル:
農業書センターおすすめ >> 農業 >> 園芸(野菜・果樹・花卉)
解説
仏教と植物の深い関わりを読み解く貴重な文献!
三大霊樹(ムユウジュ、ボダイジュ、サラノキ)をはじめ、天から降りそそぐ喜びの五天華、ハス、パンノキ、マンゴー、ビャクダンなど仏教の聖典や密教・護摩の儀式に現れる植物について、その象徴性と、仏教的生活文化とのかかわりを、実地踏査と文献渉猟により探る。
◆収録植物約280種
◆植物写真・参考図版250余点
◆和名、学名、漢名、サンスクリット名による索引完備
目次
1 仏教の聖なる植物
仏教的世界観
仏教三霊樹と五木、五天華
仏教の三大霊樹 ほか
2 密教仏典の植物
護摩壇と護摩木
護摩壇に捧げる植物
真言呪法の植物 ほか
3 仏教生活と植物
男女両性の出現
カルパ(却)の長さと人間の寿命
安産の生薬ハマビシ
食事
薬事
環境の保全 ほか
議論のレベルが印象論で終わっている
反論する意味もない
とにかく、
空海の『般若心経秘鍵』を読んでから議論して欲しい
空海「般若心経秘鍵」 (角川ソフィア文庫): 空海, 加藤 精一
http://www.amazon.co.jp/dp/4044072248
空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫) [文庫]
http://www.amazon.co.jp/dp/4480087621/
空海 般若心経の秘密を読み解く: 松長 有慶: 本
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キサー・ゴータミーの話 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51922739.html
8. 教授尸伽羅越経(Sigalovada-sutta)
シンガーラ経
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
514頁 税込 11,550円 本体11,000円 4-8043-1211-0 2005.7
パーティカ経・転輪王経・世起経・歓喜経 他
8:59 午後
南伝大蔵経 第8巻 長部経典 3
高楠博士功績記念会 (単行本)
教授尸伽羅越経 南伝大蔵経 第八巻
250頁
8. 教授尸伽羅越経(Sigalovada-sutta)
シンガーラ経
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
514頁 税込 11,550円 本体11,000円 4-8043-1211-0 2005.7
パーティカ経・転輪王経・世起経・歓喜経 他
378頁
南伝大蔵経 第8巻 長部経典 3
高楠博士功績記念会 (単行本)
教授尸伽羅越経 南伝大蔵経 第八巻
250頁
8. 教授尸伽羅越経(Sigalovada-sutta)
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
514頁 税込 11,550円 本体11,000円 4-8043-1211-0 2005.7
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南伝大蔵経 第8巻 長部経典 3
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教授尸伽羅越経 南伝大蔵経 第八巻
8. 教授尸伽羅越経(Sigalovada-sutta)
250頁
パーリ仏典 ②-5
長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇 Ⅰ
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378頁
状況論的な印象批評ではなく、出来ればテクストに沿った議論をして欲しい
他の経典をあげるなら尚更
最低限空海は読んで欲しい
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インド人の論理学―問答法から帰納法へ (中公新書): 桂 紹隆: 本
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東洋の合理思想 (1970年) (講談社現代新書) [古書] [新書]
末木 剛博 (著)
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プレミアはついているが買う価値はある
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特に前者の内在的龍樹批判は貴重
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561 07/22 21:55:56 ID:yBV4DmrP (9/9)
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 提 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 提 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
実体の有無は排中立だが仏教は空を主張する
実 体
有 無
認 有 l
ー十ー
識 無 l空
いわば排中立に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中立だが仏教は空を主張する
実 体
有 無
認 有 |
ー十ー
識 無 |空
いわば排中立に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中立だが仏教は空を主張する
実 体
有 無
認 有 |
-+-
識 無 |空
いわば排中立に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中立だが仏教は空を提示する
実 体
有 無
認 有 |
ー十ー
識 無 |空
いわば排中立に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中律だが仏教は空を提示する
実 体
有 無
認 有 |
ー十ー
識 無 |空
いわば排中律に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中律だが仏教は空を提示する
実 体
有|無
認 有 |
ーーー十ー
識 無 |空
いわば排中律に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
実体の有無は排中律だが仏教は空を提示する
実 体
有|無
認 有 |
---+-
識 無 |空
いわば排中律に集合論的場所をあたえるのである
仏教に4分割思考が比較的多いのは偶然ではない
804 8/17(土)02:52 ID:r
AA縮小
般 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 仏
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 説
心 羯 即 除 大 耨 竟 ,r'""´`゙゙''、, 識 舌 不 利 色 空 在 摩
経 諦 説 一 神 多 涅 / l, 界 身 減 子 即 度 菩 訶
呪 切 呪 羅 槃 rヽ .,‐- ,- |. 無 意 是 是 是 一 薩 般
波 曰 苦 是 三 三 ヾ `゙" ,l ゙´| 無 無 故 諸 空 切 行 若
羅 真 大 藐 世 . _> -=='./ 明 色 空 法 空 苦 深 波
羯 実 明 三 _/|, `゙ヽー--ノヽ、,_. 聲 中 空 即 厄 般 羅
提 不 呪 rー'""l, 'l, / .| ||/`>、、 無 相 是 舎 若 蜜
虚 是 / | 'l, / .|./》/ ∧ 色 不 色 利 波 多
波 故 無 / , | ヽ ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 無 生 受 子 羅 心
羅 説 上 / 、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ /゙ヽ 不 想 色 蜜 経
僧 般 ./ ///l`゙'゙ー-'" / // ノ// //`l、 滅 行 不 多
羯 若 ,|. /// | |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l, 不 識 異 時
諦 波 | /// /| /二=‐'"´´/ /`゙゙'ー-、,_.l 垢 亦 空 照
羅 |/// / | /|三="´ / //"´´゙'ー、| 不 復 空 見
菩 蜜 ///ノ ノ ノ ノ‐-二‐'"´ ノ/r=、,_ー-、_| 浄 如 不 五
804 8/17(土)02:52 ID:r
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般羯多呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 仏
若諦呪能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 説
心羯即除 大 耨 竟 ,r'""´`゙゙''、 識 舌 不 利 色 空 在 摩
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呪切 呪 羅 槃 rヽ .,‐- ,- |. 無 意 是 是 是 一 薩 般
波曰苦 是 三 三 ヾ `゙" ,l ゙´| 無 無 故 諸 空 切 行 若
羅 真 大 藐 世 . _> -=='./ 明 色 空 法 空 苦 深 波
羯 実 明 三 _/|, `゙ヽー--ノヽ、,_. 聲 中 空 即 厄 般 羅
提 不 呪 rー'""l, 'l, / .| ||/`>、、 無 相 是 舎 若 蜜
虚 是/ | 'l, / .|./》/ ∧ 色 不 色 利 波 多
波 故 無/ , | ヽ ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 無 生 受 子 羅 心
羅 説 上 /、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ /゙ヽ 不 想 色 蜜 経 僧 般 ./ ///l`゙'゙ー-'" / // ノ// //`l、滅 行 不 多
羯 若 ,|. /// | |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l, 不 識 異 時
諦 波 | /// /| /二=‐'"´´/ /`゙゙'ー-、,_.l 垢 亦 空 照
羅 |/// / | /|三="´ / //"´´゙'ー、| 不 復 空 見
菩 蜜 ///ノ ノ ノ ノ‐-二‐'"´ ノ/r=、,_ー-、_| 浄 如 不 五
804 8/17(土)02:52 ID:r
AA縮小
般羯多呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 仏
若諦呪能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 説
心羯即除 大 耨 竟 ,r'""´`゙゙''、 識 舌 不 利 色 空 在 摩
経諦説一 神 多 涅 / l,界 身 減 子 即 度 菩 訶
呪切 呪 羅 槃 rヽ .,‐- ,- |. 無 意 是 是 是 一 薩 般
波曰苦 是 三 三 ヾ `゙" ,l ゙´| 無 無 故 諸 空 切 行 若
羅 真 大 藐 世 . _> -=='./ 明 色 空 法 空 苦 深 波
羯 実 明 三 _/|, `゙ヽー--ノヽ、,_. 聲 中 空 即 厄 般 羅
提 不 呪 rー'""l, 'l, / .| ||/`>、、 無 相 是 舎 若 蜜
虚 是/ | 'l, / .|./》/ ∧ 色 不 色 利 波 多
波 故 無/ , | ヽ ヽ,、/.@ / 《l,l / ヽ 無 生 受 子 羅 心
羅 説 上 /、,ヽ|/ ヾ。ツ`' 「ゞ / /《ヾ /゙ヽ 不 想 色 蜜 経
僧 般 ./ ///l`゙'゙ー-'" / // ノ// //`l、滅 行 不 多
羯 若 ,|. /// | |___,,,ノ≡≡ツノ//_,,-‐'"".l, 不 識 異 時
諦 波 | /// /| /二=‐'"´´/ /`゙゙'ー-、,_.l 垢 亦 空 照
羅 |/// / | /|三="´ / //"´´゙'ー、| 不 復 空 見
菩 蜜 ///ノ ノ ノ ノ‐-二‐'"´ ノ/r=、,_ー-、_| 浄 如 不 五
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 諦 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 掛 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経
インド国旗に採用された車輪も24で4で割り切れる
禅宗の問答も論理学的にはアンチノミーと言える
インド国旗に採用された法輪の車軸から出るスポーク=枝も24で4で割り切れる
禅宗の問答は論理学的にはアンチノミーと言える
老子11の「輻」は30で3で割り切れる
老子11の「輻」は30で3で割り切れる
インド国旗に採用された法輪の車軸から出るスポーク=枝は24で3と4で割り切れる
禅宗の問答は論理学的にはアンチノミーと言える
老子11の「輻」は30で3で割り切れる
インド国旗に採用された法輪の車軸から出るスポーク=枝は24で3と4で割り切れる
禅宗の問答は論理学的にはアンチノミーの表現と言える
老子11の「輻」は30で3で割り切れるが
インド国旗に採用された法輪の車軸から出るスポーク=枝は24で3と4と両方で割り切れる
禅宗の問答は論理学的にはアンチノミーの表現と言える
般 波 羯 即 多 一 大 提 波 倒 礙 提 集 明 眼 眼 不 諸 是 色 照 観 摩
若 羅 諦 説 呪 切 明 故 羅 夢 無 薩 滅 盡 界 耳 減 法 色 不 見 自 訶
心 僧 羯 呪 苦 呪 知 蜜 想 掛 陀 道 乃 乃 鼻 是 空 受 異 五 在 般
経 羯 諦 曰 真 是 般 多 究 礙 依 無 至 至 舌 故 相 想 空 蘊 菩 若
諦 実 無 若 故 竟 故 般 智 無 無 身 空 不 行 空 皆 薩 波
波 不 上 波 得 涅 無 若 亦 老 意 意 中 生 識 不 空 行 羅
菩 羅 虚 呪 羅 阿 槃 有 波 無 死 識 無 無 不 亦 異 度 深 蜜
提 羯 故 是 蜜 耨 三 恐 羅 得 亦 界 色 色 滅 復 色 一 般 多
薩 諦 説 無 多 多 世 怖 蜜 以 無 無 聲 無 不 如 色 切 若 心
婆 般 等 是 羅 諸 遠 多 無 老 無 香 受 垢 是 即 苦 波 経
訶 若 等 大 三 佛 離 故 所 死 明 味 想 不 舎 是 厄 羅
波 呪 神 藐 依 一 心 得 盡 亦 觸 行 浄 利 空 舎 蜜
羅 能 呪 三 般 切 無 故 無 無 法 識 不 子 空 利 多
蜜 除 是 菩 若 顛 掛 菩 苦 無 無 無 増 是 即 子 時
般 波 羯 多 一 大 提 波 倒 礙 提 集 明 眼 眼 不 諸 是 色 照 観 摩
若 羅 諦 呪 切 明 故 羅 夢 無 薩 滅 盡 界 耳 減 法 色 不 見 自 訶
心 僧 羯 即 苦 呪 知 蜜 想 掛 陀 道 乃 乃 鼻 是 空 受 異 五 在 般
経 羯 諦 説 真 是 般 多 究 礙 依 無 至 至 舌 故 相 想 空 蘊 菩 若
諦 呪 実 無 若 故 竟 故 般 智 無 無 身 空 不 行 空 皆 薩 波
波 曰 不 上 波 得 涅 無 若 亦 老 意 意 中 生 識 不 空 行 羅
菩 羅 虚 呪 羅 阿 槃 有 波 無 死 識 無 無 不 亦 異 度 深 蜜
提 羯 故 是 蜜 耨 三 恐 羅 得 亦 界 色 色 滅 復 色 一 般 多
薩 諦 説 無 多 多 世 怖 蜜 以 無 無 聲 無 不 如 色 切 若 心
婆 般 等 是 羅 諸 遠 多 無 老 無 香 受 垢 是 即 苦 波 経
訶 若 等 大 三 佛 離 故 所 死 明 味 想 不 舎 是 厄 羅
波 呪 神 藐 依 一 心 得 盡 亦 觸 行 浄 利 空 舎 蜜
羅 能 呪 三 般 切 無 故 無 無 法 識 不 子 空 利 多
蜜 除 是 菩 若 顛 掛 菩 苦 無 無 無 増 是 即 子 時
菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 罣 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
掛→罣 菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 罣 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
掛→罣
菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 罣 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
掛→罣
菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 罣 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
罣→掛
改変
空…………_…………頭上…青
風……_( )_……眉間…黒
火…( )…胸……赤
水…_\ z /_…臍……白
地(__\_/__)尿道…黄
「真言者、円壇をまず自体に置け」
(真言の行者よ、自分自身をマンダラとせよ)
「五輪成身観」
(『密教のすべて』花山勝友75頁参照)
空…………_…………頭上…青
風……_( )_……眉間…黒
火…( )…胸……赤
水…_\ z /_…臍……白
地(__\_/__)尿道…黄
「真言者、円壇をまず自体に置け」
(真言の行者よ、自分自身をマンダラとせよ)
「五輪成身観」
(『密教のすべて』花山勝友75頁参照)
【考古学】釈迦の生誕年が早まる可能性も、ネパールの遺跡で新発見
1 :伊勢うどんφ ★:2013/11/27(水) 00:46:18.39 ID:???
インドとの国境に近いネパール南部のルンビニ(Lumbini)で、
仏教の開祖である釈迦(しゃか)が
生まれたとされる場所で木造建築物の痕跡が新たに見つかった。
これは紀元前6世紀頃のものとみられ、考えられていたより2世紀も
早く釈迦が生きていたことを示す証拠であるかもしれないという。
考古学者らが25日に発表した。
古代の宗教的な木造建築物と考えられたこの遺構は、仏教徒にとって非常に
重要な寺院であるマヤデビ(Maya Devi)寺院の敷地内で発見された。
レンガ造りのマヤデビ寺院とデザインの面では似ているものの、
この遺構には何もないスペースが配置されており、
そこからかつては木が生えていたとみられている。
おそらくここに釈迦が生まれた場所に生えていたとされる木があったとみられる。
考古学者のロビン・コニンガム(Robin Coningham)氏は、
「これは、いつ釈迦は生まれたのか、また彼の教えが発展し、
信仰として根付いたのがいつなのかという、長い長い間交わされてきた
議論の手がかりになるかもしれない」と語った。
AFPBB News 2013年11月26日 09:23
http://www.afpbb.com/articles/-/3003957
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20130216-10-11036
番組タイトル:発見!北のシルクロード「雲岡(うんこう)石窟・美の全貌」
チャンネル:BSプレミアム
放送日時: 2013年2月16日(土)
午後1:30~午後3:00(90分)
ジャンル: ドキュメンタリー/教養 > 歴史・紀行
情報/ワイドショー > 暮らし・住まい
趣味/教育 > 音楽・美術・工芸
番組HP: -
世界遺産で中国有数の仏教遺跡・雲岡石窟の全貌を徹底的に紹介する決定版。極彩色のインドの神々から、シルクロード伝来の女神、そして巨大な石仏までミラクルワールドが。
世界遺産で、中国有数の仏教遺跡・雲岡石窟の全貌を徹底的に紹介する。極彩色のインドの神々から、シルクロード伝来の女神、巨大な石仏まで。1500年前の人々の祈りの空間が、タイムカプセルのように残されている。懐かしさを感じさせる微笑の仏。万里の長城の近く、辺境の地に巨大仏教遺跡を作った北の騎馬民族の正体とは? 石窟づくりに身をささげた王女の物語とは?【出演】いとうせいこう、夢枕獏、小沢真珠、六田知弘
菩 羯 多 呪 多 得 想 罣 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
掛 → 罣
菩 羯 多 呪 多 得 想 掛 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 掛 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
掛
↓
罣
菩 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
提 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
薩 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
婆 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
訶 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
波 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
般 羅 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
若 羯 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
心 諦 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
経 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
波 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羅 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
僧 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
羯 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
諦 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
圭
↓
四
圭
般 波 羯 多 一 大 提 波 倒 礙 提 集 明 眼 眼 不 諸 是 色 照 観 摩
若 羅 諦 呪 切 明 故 羅 夢 無 薩 滅 盡 界 耳 減 法 色 不 見 自 訶
心 僧 羯 即 苦 呪 知 蜜 想 圭 陀 道 乃 乃 鼻 是 空 受 異 五 在 般
経 羯 諦 説 真 是 般 多 究 礙 依 無 至 至 舌 故 相 想 空 蘊 菩 若
諦 呪 実 無 若 故 竟 故 般 智 無 無 身 空 不 行 空 皆 薩 波
波 曰 不 上 波 得 涅 無 若 亦 老 意 意 中 生 識 不 空 行 羅
菩 羅 虚 呪 羅 阿 槃 有 波 無 死 識 無 無 不 亦 異 度 深 蜜
提 羯 故 是 蜜 耨 三 恐 羅 得 亦 界 色 色 滅 復 色 一 般 多
薩 諦 説 無 多 多 世 怖 蜜 以 無 無 聲 無 不 如 色 切 若 心
婆 般 等 是 羅 諸 遠 多 無 老 無 香 受 垢 是 即 苦 波 経
訶 若 等 大 三 佛 離 故 所 死 明 味 想 不 舎 是 厄 羅
波 呪 神 藐 依 一 心 得 盡 亦 觸 行 浄 利 空 舎 蜜
羅 能 呪 三 般 切 無 故 無 無 法 識 不 子 空 利 多
蜜 除 是 菩 若 顛 圭 菩 苦 無 無 無 増 是 即 子 時
般 波 羯 即 実 呪 多 三 般 倒 圭 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩
若 羅 諦 説 不 是 是 藐 若 夢 礙 若 得 老 亦 無 耳 故 生 復 即 舎 時 自 訶
心 僧 羯 呪 虚 無 大 三 波 想 故 波 以 死 無 眼 鼻 空 不 如 是 利 照 在 般
経 羯 諦 曰 故 等 神 菩 羅 究 無 羅 無 盡 無 界 舌 中 滅 是 空 子 見 菩 若
諦 説 等 呪 提 蜜 竟 有 蜜 所 無 明 乃 身 無 不 舎 空 色 五 薩 波
波 般 呪 是 故 多 涅 恐 多 得 苦 盡 至 意 色 垢 利 即 不 蘊 行 羅
菩 羅 若 能 大 知 故 槃 怖 故 故 集 乃 無 無 無 不 子 是 異 皆 深 蜜
提 羯 波 除 明 般 得 三 遠 心 菩 滅 至 意 色 受 浄 是 色 空 空 般 多
薩 諦 羅 一 呪 若 阿 世 離 無 提 道 無 識 聲 想 不 諸 受 空 度 若 心
婆 蜜 切 是 波 耨 諸 一 圭 薩 無 老 界 香 行 増 法 想 不 一 波 経
訶 多 苦 無 羅 多 佛 切 礙 陀 智 死 無 味 識 不 空 行 異 切 羅
呪 真 上 蜜 羅 依 顛 無 依 亦 亦 無 觸 無 減 相 識 色 苦 蜜
もちろん、原始仏典には、時代背景を抜きにして現代人の心を打つようなフレーズも溢れている。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
(『ダンマパダ』1-5)
これは、サンフランシスコ講和条約調印の際にスリランカ代表が引用し、日本に対する賠償請求権を放棄したことで有名になったものである。文字通り時代を越えた「永遠の真理」の名に相応しいものと言えよう。
法句経 - Wikipedia
日本への伝来-書誌情報-邦訳-英訳
法句経』(ほっくぎょう)、または『ダンマパダ』(Dhammapada)は、原始仏典の一つで、 釈迦の語録の形式を取った仏典である。語義は「真理の言葉」といった意味であり、原始 仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。『スッタニパータ』と共に原始仏典 ...
http://todaibussei.or.jp/asahi_buddhism/03.html
現代人の心を打つフレーズ
インド中央部、グワリオルのジャイナ窟。仏教と同時代に生まれたジャイナ教は、いまも信者を獲得している。
写真 田村 仁
もちろん、原始仏典には、時代背景を抜きにして現代人の心を打つようなフレーズも溢れている。
「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である」
(『ダンマパダ』1-5)
これは、サンフランシスコ講和条約調印の際にスリランカ代表が引用し、日本に対する賠償請求権を放棄したことで有名になったものである。文字通り時代を越えた「永遠の真理」の名に相応しいものと言えよう。
原始仏典の世界は広大であり、「原始仏典」という言葉からイメージされるのとは異なって理性的かつ論理的な教えも多く、その内容も非常にヴァラエティに富んでいる。これらの多くは日本語訳が出版されているので、興味のある人には、ぜひとも原典を読むことをお勧めする。
(文・堀田和義◎東京大学大学院博士課程)
<今月の禅語>
本来無一物(ほんらいむいちもつ) <六祖壇経>
禅宗の初祖達磨禅師から法灯を守る五祖の弘忍大満禅師のもとには七百人もの
修行僧が集まっていた。ある日、弘忍禅師は次の継承者を決めるに当たって、
門下の一同に、「自ら会得した境地を偈にして示せ」と告げられた。
神秀上座はこれに答えて示したのが次の偈である。
身は是れ菩提樹
(この身は菩提(悟り)を宿す樹である)
心は明鏡台の如し
(心は曇りのない明鏡のようにすっきりしている)
時時に勤めて払拭せよ
(だからいつも精進して心を払い浄めなければならない)
塵埃を惹かしむること莫れ
(そのために煩悩妄想の塵や埃で汚さないことである)
神秀上座は五祖門下のナンバーワンであり、広く学問に通じ
大衆の信望も厚く、彼に及ぶ者がいなかった。この偈により皆は
六祖になるのは神秀に違いないと思った。ところが未だ一人前の
修行者として認められていなかった、米搗きとして働く新参の
慧能行者(あんじゃ)がこの偈を見て、その傍に
菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の
世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を
身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は
大混乱となった。しばし寺内は身分も弁えぬ慧能への批判と、真実の境地は慧能が
優るという意見もあって侃侃諤諤の騒乱となったが、結局、
五祖弘忍は慧能を六祖としの伝法衣を授けた。結局、慧能が
禅宗六祖の地位を得ることとなった。だが、また神秀上座も
後に北宗禅開き、禅の法脈が北宗禅と南宗禅の分岐きっかけ
となったいわく因縁の語がこの「本来無一物」である。
本来無一物とは読んで字のごとく、本来執すべき一物も無い、何も無い、一切
空であり、絶対無であることを意味する。分別相対的な観念を全くはさまない
世界なのである。本来の心、仏性にはもとより塵や埃はないではないか。
何事にもとらわれない、「空」や「無」と云う悟りさえとらわれないところで
あるから、煩悩妄想の起きようもないというところの心境をいう。
さらに無一物の境地は、万法に広がる世界であり、限りないものがあり、
そのままが「無一物中、無尽蔵」の世界なのである。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/03.htm
般 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
波 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
羅 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羯 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
諦 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
波 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
羅 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
僧 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羯 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
諦 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
菩 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
提 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
薩 羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
婆 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
訶
圭
↓
四
圭
仏
説
般 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
波 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
羅 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羯 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
諦 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
波 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
羅 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
僧 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羯 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
諦 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
菩 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
提 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
薩 羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
婆 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
訶
圭
↓
四
圭
仏
説
般 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
波 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
羅 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羯 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
諦 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
波 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
羅 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
僧 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羯 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
諦 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
菩 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
提 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
薩 羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
婆 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
訶
圭
↓
四
圭
仏
説
般 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 摩
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 訶
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 般
経 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 若
波 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 波
羅 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 羅
羯 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 蜜
諦 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 多
波 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 心
羅 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 経
僧 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅
羯 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜
諦 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
菩 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
提 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
薩 羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
婆 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
訶
圭
↓
四
圭
般 羯 多 呪 多 得 想 圭 所 亦 無 耳 不 是 異 蘊 観 仏
若 諦 呪 能 是 阿 究 礙 得 無 意 鼻 増 舎 色 皆 自 説
心 羯 即 除 大 耨 竟 無 故 老 識 舌 不 利 色 空 在 摩
経 諦 説 一 神 多 涅 圭 菩 死 界 身 減 子 即 度 菩 訶
波 呪 切 呪 羅 槃 礙 提 盡 無 意 是 是 是 一 薩 般
羅 曰 苦 是 三 三 故 薩 無 無 無 故 諸 空 切 行 若
羯 真 大 藐 世 無 陀 苦 明 色 空 法 空 苦 深 波
諦 実 明 三 諸 有 依 集 亦 聲 中 空 即 厄 般 羅
波 不 呪 菩 佛 恐 般 滅 無 香 無 相 是 舎 若 蜜
羅 虚 是 提 依 怖 若 道 無 味 色 不 色 利 波 多
僧 故 無 故 般 遠 波 無 明 觸 無 生 受 子 羅 心
羯 説 上 知 若 離 羅 智 盡 法 受 不 想 色 蜜 経
諦 般 呪 般 波 一 蜜 亦 乃 無 想 滅 行 不 多
菩 若 是 若 羅 切 多 無 至 眼 行 不 識 異 時
提 波 無 波 蜜 顛 故 得 無 界 識 垢 亦 空 照
薩 羅 等 羅 多 倒 心 以 老 乃 無 不 復 空 見
婆 蜜 等 蜜 故 夢 無 無 死 至 眼 浄 如 不 五
訶
圭
↓
四
圭
第五章 三論宗
第一節 宗名と所依の論
第一項 宗名
問い。なぜ「三論宗」という名称なのか。
答え。三部の論書を根拠としているので「三論宗」と呼ぶ。
第二項 所依の論
問い。その三部とは何か。
答え。1. 『中論』四巻、龍樹菩薩造。2.『百論』二巻、提婆菩薩造。3.『十二門論』一巻、龍樹菩薩造。これを三論と呼ぶ。
ところが、もし『大智度論』百巻を加えると四論となる。また、これも龍樹菩薩造である。
この四論のうち、三論は通申の論である。大小乗の様々な教えを「通」じて「申」べているから。
『大智度論』は別申の論である。『大品般若経』について個「別」に「申」べているから。
仮に『大智度論』を全訳すれば千巻になるが、鳩摩羅什三蔵が九割を削り、抄訳して百巻になった。
三論について、『中論』は主に小乗(説一切有部等)を破し、兼ねて外道(バラモン教等)を破し、大乗の教えをあきらかにした。
『百論』は主に外道を破し、あわせてその他を破し、大乗の教えをあきらかにした。
『十二門論』は小乗と外道を共に破し、大乗の深い教えをあきらかにした。
http://totutotudojin.jimdo.com/八宗綱要/三論宗/
八宗綱要
はっしゅうこうよう 〔ハツシユウカウエウ〕 【八宗綱要】 [ 日本大百科全書(小学館) ]
仏教の概論書。2巻。日本華厳(けごん)宗の学僧、東大寺の凝然(ぎょうねん)(1240―1321)の29歳のときの著。インド、中国、日本の三国にわたる、大小乗、密教に及ぶ全仏教を網羅する概説書として、今日でも一般に広く読まれている。八宗とは、倶舎(くしゃ)宗、成実(じょうじつ)宗、律(りつ)宗、法相(ほっそう)宗、三論(さんろん)宗、華厳(けごん)宗、天台宗、真言(しんごん)宗で、それら八宗の宗名、成立、教説を概説する。うち、倶舎、成実、律、法相、三論、華厳は南都六宗である。これに、平安仏教の、最澄(さいちょう)の天台宗と、空海の真言宗の二宗を加えている。歴史的には倶舎は法相の、成実は三論の付宗とされ、基礎学として併修され独立した宗ではなかった。最後に禅宗、浄土宗についての簡単な付記があるが、当時盛行した浄土宗や禅宗が凝然の意識に大きくなかったことは注目すべきである。
哲学者デレク・パーフィットは、自我論者と束論者の区別を設けることにより、混乱した状況を
いくらか整理しようとしている。彼は、自分というものが経験を持つ単一で連続的な自我であるよ
うに思われるという、疑いようのない事実から出発し、それはなぜかと問う。この問いにたいし、
自我論者はそれが文字通りの真実だからだと答えるが、束論者はそれは真実ではなく、自我の経験
はほかの何らかの仕方で説明されるべきだと答える。
束理論という名称は、哲学者デイビッド・ヒューム(1711~76)の著作に由来する。ヒュー
ムは自分の経験を見つめることで、その経験を持つ自我を探してみたが、そこに見いだされたのは
経験だけであったと述べている。このことから彼は、自我は実在するものではなく、「感覚の束」
のようなものであると結論づけている。人生とはさまざまな印象の連続であり、それらの印象はひ
とりの個人に属するものとして統合されているように思われても、実際はたんに記憶やそのほかの
関係によって相互に結びつけられているにすぎないのである。
…
数ある宗教のなかで仏教だけが自我の観念を否定している。歴史上実在した人物としてのブッダ
は、二千五百年ほどまえに北インドで生きており、木のしたでの長い瞑想のあとに悟りを開いたと
されている。彼は当時一般的だった宗教的教義を否定したが、そのなかには永遠の内的自我、すな
わちアートマンが存在するということも含まれていた。これに代わって、彼は人間の苦るしみは無知、
とりわけ自我という誤った観念への執着によって引き起こされると説いた。苦しみから抜け出す方
法は、自我をたえず新たに作り出す欲求や執着をすべて捨て去ることである。つまり彼の教義の中
心にあったのは、無我という考えである。これは自我が存在しないということではなく、自我は錯
覚である、つまりそれは見かけ通りのものではないということである。自我は個人の生を生きる持
続的な実体ではなく、たんにひと組の要素に与えられた便利な名前にすぎないのである。彼はまた、
すべてのものがそれに先立つ原因に依存しており、どんなものも独立には生じないとも説いている。
これは宇宙が相互に依存し合っており、因果的に閉じているという現代の考え方と共通している。
「行為は存在するし、その結果も存在するが、それを行った人は存在しない」というブッダの主張は、
彼のこの教えから理解できる。パーフィットは、ブッダを最初の束論者としている。
『意識』(スーザン・ブラックモア、信原幸弘他訳、岩波書店、88~90頁)
http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20080330/1206696218
理由と人格―非人格性の倫理へ
作者: デレクパーフィット,Derek Parfit,森村進
出版社/メーカー: 勁草書房
発売日: 1998/06
この本は「英米の哲学界では二〇世紀末の最も重要な哲学書の一つと目されて
いる」らしい。永井均氏や森岡正博氏の著作に時々出てきたりする。以前、この
研究会の機関誌で、再帰的な書き換え系としての記憶=「わたし」について短文
を書いたことがあるが(師茂樹「記憶を書き出す―総括にかえて」、
『GYRATIVA』4, pp. 64-71, 2007)、この本を読むのは言わばその延長戦であ
り、ついでに言えば最近やってる一般キャラクター論にも関連する。
興味深いのは、このパーフィットが、自分の主張する所謂「還元主義」的人格観
(「ある人物の時間を通じた同一性は、もっと細かい (particular) ある事実が妥当
するということだけからなる」)が歴史的、地域的一般性を持つことを主張する
ために、『ミリンダ王の問い』や『倶舎論』を引いて「ブッダならば同意しただ
ろう」と述べている点である。これについては、欧米の仏教研究者が何人か反応
している:
主観から主体への飛躍は、
主観と客観との距離と同義だろう
その意味で思い出されるのは以下の逸話だ
キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てて
いた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです。
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子
の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家など
あろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬ
のが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び行った。
ブッダは訪ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。
わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書に、子どもを亡くした女性の話が出てくる(仏教説話大系12、すずき出版)。
ブッダの最初の女性の弟子になったというキサー・ゴータミーという名前の女性だ(キサーは痩せているという意味)。
脚色された話かも知れないが、本来の仏教の姿を伝えていて興味深い。
ブッダ 大いなる旅路part1より キサー・ゴータミーの話
http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/nayami25.htm
以下上記サイトより
キサー・ゴータミーの話
キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てていた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家などあろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬのが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び言った。
ブッダが訪ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
参考サイト:
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/mission/howa/rewa/rewa_6.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:edD8IeEjdKcJ:www.takamatsu-u.ac.jp/nlibrary/kiyo/no34/no34akamatsu.
pdf+%E3%82%AD%E3%82%B5%E383%BC%E3%82%
B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E
「3%83%9F%E3%83%BC%E3%
80%80%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80&hl=en&ct=clnk&cd=1
追記:
バングラデッシュのチッタゴンに残る仏教の本来の姿。
僧侶はお経を生きているひとたちのために語る。
ブッダ 大いなる旅路part1より お経の本来の姿
主観から主体への飛躍は、
主観と客観との距離と同義だろう
その意味で思い出されるのは以下の逸話だ
キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てて
いた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです。
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子
の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家など
あろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬ
のが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び行った。
ブッダは尋ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。
わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
仏教説話集 12?
______
>>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてきた。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、このような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのために、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私がいうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
「諸関係の束」とは、「因果で編まれた関連性の中に生きている存在」といった概念に相当するとしていいでしょう。
その「関連性に輪廻転生を織り込んでは考えない・考えるべきではない」という主旨と解して間違いではないと思います。
ただし、「何のために生きている・努力している」という概念について、どういった視点で捉えるのか?
は、まさに、「諸関係」をどの程度として捉えるのか?に関連することでしょう。
たとえば、
>>> 浄土真宗やっとかめ通信(東海教区仏教青年連盟)仏教青年 Q & A 魂という概念 http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.html
僕は、さっきも言ったように、そのころは、そんなこと(死や死後のこと)ばかり考えていて、いろんな本を読みましたよ。丹波哲郎から、つのだじろうまで読んだ(笑)。あの「幸福の科学」の前身の本も読みましたよ。だから、霊界とかそういうことには詳しかったのです。そのころ、アメリカで仕事もせずぶらぶらして、(中略)それからまもなく、エドワード・サイード(学者・批評家)という人と会ったんです。
僕は、そのとき自分の関心から抜けられないから、あなたは死についてどう思うかって馬鹿な質問をしたわけです。彼はパレスチナ人だから、何かあるのではないか、と僕は思って。しかし、彼は、自分は宗教、一切の神秘主義を否定する、自分にとって死というのは、残った家族をどうするかという問題である、と言った。なぜならば、自分はイスラエル右翼のヒットリストに載っているからだ、と。
そのとき、僕は目が覚めたような気がしましたね。ああ、そうだった、と。僕の妄想は、単なるナルシシズムにすぎない、と思った。
(柄谷行人×日野啓三「死について」、柄谷行人『ダイアローグV』第三文明社)
http://qanda.rakuten.ne.jp/qa5465997.html?rel=innerHtml
僕は、さっきも言ったように、そのころは、そんなこと(死や死後のこと)ばか
り考えていて、いろんな本を読みましたよ。丹波哲郎から、つのだじろうまで読ん
だ(笑)。あの「幸福の科学」の前身の本も読みましたよ。だから、霊界とか そう
いうことには詳しかったのです。そのころ、アメリカで仕事もせずぶらぶらして、
(中略)それからまもなく、エドワード・サイード(学者・批評家)とい う人と会
ったんです。
僕は、そのとき自分の関心から抜けられないから、あなたは死についてどう思う
かって馬鹿な質問をしたわけです。彼はパレスチナ人だから、何かあるのでは ない
か、と僕は思って。しかし、彼は、自分は宗教、一切の神秘主義を否定する、自分
にとって死というのは、残った家族をどうするかという問題である、と 言った。な
ぜならば、自分はイスラエル右翼のヒットリストに載っているからだ、と。
そのとき、僕は目が覚めたような気がしましたね。ああ、そうだった、と。僕の
妄想は、単なるナルシシズムにすぎない、と思った。
(柄谷行人×日野啓三「死について」、柄谷行人『ダイアローグV』第三文明社)
仏教はけっして「寛容な」宗教ではない。それはカースト社会とそれに対応する思想に対して、ラディカ
ルに対決する実践的な思想であった。仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しか
し、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教
以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてき
た。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、こ
のような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのた
めに、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私が
いうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい
方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってし
まう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けた
のであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻
からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によっ
て支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しか
し、それ(仏教)が何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教
以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてき
た。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、こ
のような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのた
めに、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私が
いうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい
方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってし
まう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けた
のであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻
からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によっ
て支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
仏教は、あらゆる実体を諸関係の束にすぎないものとしてみる。しかし、それ(仏教)が
何よりも標的としたのは、輪廻、あるいは輪廻する魂の同一性という観念である。仏教
以前に、カーストによる現実的な悲惨は輪廻の結果であると見なされ、そこから解脱する修行がなされてき
た。ブッダがもたらしたとされるもののほとんどは、すでに彼以前からある。ブッダがもたらしたのは、こ
のような個人主義的な解脱への志向を、現実的な他者との実践的な「関係」に転換することである。そのた
めに、彼は輪廻すべき同一の魂という観念をディコンストラクトしたのである。ディコンストラクトと私が
いうのは、ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい
方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってし
まう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けた
のであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻
からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によっ
て支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
主観から主体への飛躍は、
主観と客観との距離と同義だろう
その意味で思い出されるのは以下の逸話だ
キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てて
いた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです。
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子
の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家など
あろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬ
のが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び行った。
ブッダは尋ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。
わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
仏教説話大系12参照
すずき出版
【朝鮮日報】「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」[09/14]
1 :依頼@マドハンド ★@転載は禁止:2014/09/15(月) 05:19:18.38 ID:???
「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」
百済・大通寺の瓦、文様・製作技法が新羅と日本に伝播
「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」
「百済の熊津時代(475-538年)を代表する大通寺で創案された瓦の製作技法が新羅と日本に伝わり、この技法によって新羅と日本で初の仏教寺院が作られた」
国立中央博物館のイ・ビョンホ学芸研究官(百済歴史考古学)は、最近出版された『百済仏教寺院の創立と展開』(社会評論社)で、このような主張を繰り広げた。
イ研究官は「大通寺は527年に中国の南朝・梁(502-557)の影響を受けて建立され、百済式に変形させた瓦の製造技術が、新羅初の仏教寺院・興輪寺と、
日本初の仏教寺院・飛鳥寺にそのまま伝えられた」と語る。
この主張は、関野貞(1867-1935)ら日本の研究者が「南朝→百済→飛鳥と伝播する過程で、南朝の文化が百済を単純経由して直ちに日本へ伝えられた」
と主張しているのとは異なり、百済の主導的役割を浮き彫りにするものだ。
・大通寺式の瓦当が新羅・日本にそのまま伝来
植民地時代に大通寺跡から出土した蓮花紋の軒瓦は、それ以前のものと比べ、文様や製作技法が明らかに異なっている。
(1)文様は、蓮花の中に別の装飾がなく、端の部分が軽く突き出ており、律動感がある
(2)鋳型に粘土を詰めてろくろで整形する際、回転させて仕上げた痕跡が瓦の裏側に残っている
(3)軒瓦と牡瓦を接合する際、牡瓦の端を竹べらで2カ所削って組み合わせている-というのが特徴。
イ研究官は「(1)と(2)は南朝のものと似ているが、(3)は百済だけの固有の特徴」と語った。
ところが2008年、慶州の興輪寺跡から、この「大通寺式軒瓦」と同じ様式の瓦が出土した。
イ研究官は「新羅仏教の始まりを高句麗の影響と考える従来の見解を覆す、画期的発見」と主張した。飛鳥寺創建期の瓦当も、これと同じ様式だ。
イ研究官は「飛鳥寺創建期の瓦は、花組(花びら模様の瓦)と星組(星の模様の瓦)の2種類に区分されるが、中でも星組は、大通寺式の瓦当と酷似している。
『日本書紀』には、飛鳥寺の建立時、百済から瓦職人(瓦博士)が派遣されたとしか記録されていないが、この瓦博士が日本に技術を伝えたということが考古学的遺物で確認された」と語った。
・「百済が東アジア仏教文化拡散をリード」
6-7世紀ごろに新羅と日本で仏教が受け入れられ、定着していく過程で、百済の役割は極めて主体的だったというのが本書の結論だ。
イ研究官は「百済は、単なる中国文化の伝達者や経由地ではなく、新羅や日本の初期寺院建設に技術者を派遣し、支援を行うなど、東アジア仏教文化の拡散を実質的にリードした」と強調した。
イ研究官は「こうした技術が百済と新羅、日本に共存したということは、瓦だけでなく、ほかの建築技術にも百済の影響が及んだということを意味する」と主張した。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報 2014/09/14 07:03
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/13/2014091300869.html
【朝鮮日報】「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」[09/14]
1 :依頼@マドハンド ★@転載は禁止:2014/09/15(月) 05:19:18.38 ID:???
「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」
百済・大通寺の瓦、文様・製作技法が新羅と日本に伝播
「新羅初・日本初の仏教寺院は百済式の瓦で作られた」
「百済の熊津時代(475-538年)を代表する大通寺で創案された瓦の製作技法が新羅と日本に伝わり、この技法によって新羅と日本で初の仏教寺院が作られた」
国立中央博物館のイ・ビョンホ学芸研究官(百済歴史考古学)は、最近出版された『百済仏教寺院の創立と展開』(社会評論社)で、このような主張を繰り広げた。
イ研究官は「大通寺は527年に中国の南朝・梁(502-557)の影響を受けて建立され、百済式に変形させた瓦の製造技術が、新羅初の仏教寺院・興輪寺と、
日本初の仏教寺院・飛鳥寺にそのまま伝えられた」と語る。
この主張は、関野貞(1867-1935)ら日本の研究者が「南朝→百済→飛鳥と伝播する過程で、南朝の文化が百済を単純経由して直ちに日本へ伝えられた」
と主張しているのとは異なり、百済の主導的役割を浮き彫りにするものだ。
・大通寺式の瓦当が新羅・日本にそのまま伝来
植民地時代に大通寺跡から出土した蓮花紋の軒瓦は、それ以前のものと比べ、文様や製作技法が明らかに異なっている。
(1)文様は、蓮花の中に別の装飾がなく、端の部分が軽く突き出ており、律動感がある
(2)鋳型に粘土を詰めてろくろで整形する際、回転させて仕上げた痕跡が瓦の裏側に残っている
(3)軒瓦と牡瓦を接合する際、牡瓦の端を竹べらで2カ所削って組み合わせている-というのが特徴。
イ研究官は「(1)と(2)は南朝のものと似ているが、(3)は百済だけの固有の特徴」と語った。
ところが2008年、慶州の興輪寺跡から、この「大通寺式軒瓦」と同じ様式の瓦が出土した。
イ研究官は「新羅仏教の始まりを高句麗の影響と考える従来の見解を覆す、画期的発見」と主張した。飛鳥寺創建期の瓦当も、これと同じ様式だ。
イ研究官は「飛鳥寺創建期の瓦は、花組(花びら模様の瓦)と星組(星の模様の瓦)の2種類に区分されるが、中でも星組は、大通寺式の瓦当と酷似している。
『日本書紀』には、飛鳥寺の建立時、百済から瓦職人(瓦博士)が派遣されたとしか記録されていないが、この瓦博士が日本に技術を伝えたということが考古学的遺物で確認された」と語った。
・「百済が東アジア仏教文化拡散をリード」
6-7世紀ごろに新羅と日本で仏教が受け入れられ、定着していく過程で、百済の役割は極めて主体的だったというのが本書の結論だ。
イ研究官は「百済は、単なる中国文化の伝達者や経由地ではなく、新羅や日本の初期寺院建設に技術者を派遣し、支援を行うなど、東アジア仏教文化の拡散を実質的にリードした」と強調した。
イ研究官は「こうした技術が百済と新羅、日本に共存したということは、瓦だけでなく、ほかの建築技術にも百済の影響が及んだということを意味する」と主張した。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報 2014/09/14 07:03
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/09/13/2014091300869.html
考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:18:49.83 0
『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』ロジェ=ポル・ドロワ(2002)
西洋で仏教が知られる様になったのは、せいぜいこの200年ぐらい。
ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。
その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。
1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
↓
↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
↓
1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
↓
↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
↓
1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
↓
↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』
この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。
21 :
考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:19:06.88 0
ここで注意されたいのは、
仏教の中心概念は、無(nothingness)ではなく空(emptiness)であること。
よく混同されるが、
空は非有非無、つまり有でも無でもないものと定義される。
西洋では、パルメデニス以来ヘーゲルやハイデガーに至る2000年以上もの間、
それらの存在論は有(存在)と無を論じてきた。
空はそこにない視点を提供する。
22 :
考える名無しさん
2016/11/23(水) 11:39:28.77 0
ヘーゲルは『大論理学』の存在論で、仏教の「無 Nichts」と「空 Leere」について触れている。
24 :
考える名無しさん
2016/11/23(水) 12:04:08.48 0
>>20
西洋では「有」に対する「無」を、仏教の本質として解釈(1820~1890年頃)していた。
現代の西洋に於いては、西洋哲学の「無」の概念に対して、東洋哲学での「空」概念を、どの様に理解
しているのでしょうか。
25 :
考える名無しさん
2016/11/23(水) 18:42:02.81 0
>>24
スピヴァクは、デリダの考えが仏教の空に近いものであるという話をしている。(『スピヴァク、日本で語る』(2009))
こういうのも一例。
26 :
考える名無しさん
2016/11/23(水) 23:23:21.47 O
車は実在しない
車は車輪が車なのか車軸が車なのか車体が車なのか
いずれでもない
相互関係で車の本質は実体にはない
ミリンダ王の問い
全てを関係の網の目で仮象とする仏教や唯名論にヘーゲルは近いが
有力な反論もある
丸ごと車という普遍は実在するという実在論からはそれらの批判は
成立しない
車は実在する、個々の部品が車ではないのは当たり前だが
それとは別に本質としての普遍は実在し車もそういう普遍だから
車は実在する
しかし、そういう実在論には一つの欠陥がある
二百メートル先の人物の見た目と二メートル先の同じ人物の見た目は違うが
それが同じ普遍だと言うなら何が同一で何が見た目の違いを出すと言うのか
車が普遍だとして、個々の車で違うなかに何が同一で、
同時に個々の車で何が同一でなく違うのか説明できない
その点では唯名論が正しい
しかし、唯名論も欠陥がある
27 :
考える名無しさん
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:53:56.10 0
レヴィナスと仏教が直接比較された例は知らないが、
レヴィナスの特徴の一つには、キリストのケノーシスを受けれている点がある。
39 :
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:54:28.39 0
「ケノーシス kenosis」とは、キリストの自己無化。
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。” (フィリピの信徒への手紙 2:6-7)
この"自分を無にして"の部分については、ギリシャ語の原義では「空」が近い。
"emptied himself"とか"自らを空しくされる"と訳される。(ギリシャ語・英語対訳 http://bibleapps.com/int/philippians/2-7.htm)
40 :
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:54:47.88 0
レヴィナスは、キリストのケノーシスを、民数記12:3にあるモーセの謙遜さと比較をしている。
“モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。”
41 :
考える名無しさん
2016/11/29(火) 22:59:15.80 0
>>39
ケノーシスと仏教の空を比較したものでは、
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝,ブレット・デービス (2005)所収の
・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか -阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
が、詳しい。
このコメントは投稿者によって削除されました。
関本洋司サイト:キサー・ゴータミーの話 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51922739.html
キサー・ゴータミーの話
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書に、子どもを亡くした女性の話が出てくる(仏教説話大系12、すずき出版)。
ブッダの最初の女性の弟子になったというキサー・ゴータミーという名前の女性だ(キサーは痩せているという意味)。
脚色された話かも知れないが、本来の仏教の姿を伝えていて興味深い。
ブッダ 大いなる旅路part1より キサー・ゴータミーの話
http://www8.ocn.ne.jp/~ohmybud/nayami25.htm
以下上記サイトより
キサー・ゴータミーの話
キサーゴータミーは、結婚するとまもなくかわいい男の子を授かった。ゴータミーは大変この子をかわいがり大切に育てていた。しかし、男の子が歩いて遊ぶようになったころ、突然死んでしまったのです。
ゴータミーは愛児の突然の死が信じられず半狂乱の状態になってしまった。ゴータミーは、死んだ愛児を抱きかかえ、
「誰か、この子を生き返らせる薬を下さい」と言って、町じゅうを歩き回ったのです
町の人もさすがに「このまま放って置けない」と考え、ブッダに薬をもらうよう、ゴータミーに教えた。
ブッダに会いに行くとゴータミーは言った。
「この子を生き返らせる薬を下さい」
するとブッダはこう言った。
「ゴータミーよ、よく聞きなさい。それでは今から町に行き、家々を訪ね、まだ一人の死者も出したことのない家から、芥子の粒をもらってきなさい。そうすれば、その薬を作ってあげよう」
町に出たゴータミーは言われた通りに、一軒一軒訪ねて廻った。
しかし、死人を出した事のない家などあろう訳はなかった。そのうちようやくブッダが自分に何を教えようとしたのかわかったゴータミーは、
「愛する我が子よ、わたしは今まであなたが一人だけ死んでしまったとばかり思っていた。でも生まれてきた者は皆死ぬのが定めなのだ」
ゴータミーは愛児を墓に埋めてやり、ブッダのところへ再び言った。
ブッダが訪ねた。
「ゴータミーよ、芥子の粒はもらえたかね」
それに対して、
「ブッダよ、もう芥子の粒はいりません。家々を訪ねて廻るうちに、死なない人などいないということがわかったのです。わたしをあなたの弟子にしてください」
とゴータミーは答えた。
参考サイト:
http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/mission/howa/rewa/rewa_6.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:edD8IeEjdKcJ:www.takamatsu-u.ac.jp/nlibrary/kiyo/no34/no34akamatsu.pdf+%E3%82%AD%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%
82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%80%80%E3%83%96%E3%83%83%E3%83%80&hl=en&ct=clnk&cd=1
追記:
バングラデッシュのチッタゴンに残る仏教の本来の姿。
僧侶はお経を生きているひとたちのために語る。
ブッダ 大いなる旅路part1より お経の本来の姿
考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:18:49.83 0
『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』ロジェ=ポル・ドロワ(2002)
西洋で仏教が知られる様になったのは、せいぜいこの200年ぐらい。
ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。
その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。
1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
↓
↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
↓
1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
↓
↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
↓
1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
↓
↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』
この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。
21 :
考える名無しさん
2016/11/22(火) 23:19:06.88 0
ここで注意されたいのは、
仏教の中心概念は、無(nothingness)ではなく空(emptiness)であること。
よく混同されるが、
空は非有非無、つまり有でも無でもないものと定義される。
西洋では、パルメデニス以来ヘーゲルやハイデガーに至る2000年以上もの間、
それらの存在論は有(存在)と無を論じてきた。
空はそこにない視点を提供する。
22 :
《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(五)*」
これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもっている発言です。
ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しましたが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経のことばを引いているのです。
なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より
新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで『反キリスト者』に引用している。
オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
Amazon.co.jp: 法句経 電子書籍: 荻原 雲来: Kindleストア
https://www.amazon.co.jp/法句経-荻原-雲来-ebook/dp/B009MAANEW
五
世の中に怨は怨にて息むべきやう無し 。無怨にて息む 、此の法易はることなし 。
敵意そのものの消滅を平和の条件としたカントの永遠平和論を想起させる。
《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。
これは永遠の真理である。(五)*」
これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもっている発言です。
ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国に賠償を要求したのですが、
その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しましたが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、
この法句経のことばを引いているのです。
なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。「戦いは終わったのだ。もはや
怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神でセイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より
新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで『反キリスト者』に引用している。
オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
Amazon.co.jp: 法句経 電子書籍: 荻原 雲来: Kindleストア
https://www.amazon.co.jp/法句経-荻原-雲来-ebook/dp/B009MAANEW
五
世の中に怨は怨にて息むべきやう無し 。無怨にて息む 、此の法易はることなし 。
敵意そのものの消滅を平和の条件としたカントの永遠平和論を想起させる。
『ダライ・ラマ般若心経を語る』では、サルナート*で説かれたというサンスクリット語版
のもう一つの長文版般若心経が紹介される
《「──このように聞きました。 昔、あるとき、仏陀は僧侶たちの大きな集団と、大勢の
菩薩らと共に、鷲の頂の山のラジグリハにおられました。 そのとき仏陀は、深淵なる
大悟というべきものへの、深い瞑想に沈んで行かれました。
…
(内容は少し違うが従来の般若心経が挟まる)
…
そのとき、仏陀は瞑想から目覚めて立ち上がられ、聖なる観世音にして菩薩に言われました。
よく語ったと。完璧なりと。高いカーストの息子らよ、まさにかくの如しと。
高貴なる息子らよ、まさにかくの如く、深遠なる悟りに到る叡智は実践すべきなりと。
如来ら、阿羅漢らの心も喜びに満ちるであろう。
こう仏陀が言われたとき、祝福されるべきシャリプトラ、聖なる観音菩薩、全世界の神々、
人々、阿修羅ら、乾闥婆**らも大歓喜しました。」
…
イギリス生まれで、若くして仏教に帰依した宗教家、サンガラクシータ***、『般若
心経とは何か』の中で、般若心経は仏陀の叡智を象徴する観音菩薩と智慧で知られたシャ
リプトラとの対話であるとして、次のように書いている。
〈何よりも異常で意味深長なのは、短い方の般若心経の中では、シャリプトラが一言も発し
ないことである。文脈から言えば、知的な発言があるべきだ。この沈黙に解く鍵がある
ようだ。要するに、智慧は死に、悟りに到る完全なる叡智が生まれた、ということである〉
知性のレベルでの智慧を象徴するシャリプトラは沈黙し、超越的な智慧のシンボルである
観音菩薩のみが語る。シャリプトラの沈黙にも重大な秘密があるとサンガラクシータは
考えている。》
*サルナート 釈尊が悟りを得てはじめてその教えを説いた、初転法輪の地とされる。ヒンドゥー教の
聖地、ヴァラナシの北西13キロに位置する。仏教では鹿野苑とされ、今も仏教寺院や僧院の遺跡が多く見られる。
**乾闥婆 ガンダルヴァGandharvaの音訳。インドの神々の宮廷で、その妻である
ウプサラとともに、踊りや音楽で神々を楽しませる半神。神々の飲み物、ソーマの守護
にもあたる。
***サンガラクシータ Sangharakshita 一九二五年、ロンドンに生まれたイギリス人。
金剛般若経に十代で接し、仏教に帰依。インドでの陸軍勤務の後、本格的な仏教修行に入る。
ヨーロッパにおける仏教指導者となる。多数の著書がある。
『ダライ・ラマ般若心経を語る』では、サルナートで説かれたというサンスクリット語版
のもう一つの長文版般若心経が紹介される
《「──このように聞きました。 昔、あるとき、仏陀は僧侶たちの大きな集団と、大勢の
菩薩らと共に、鷲の頂の山のラジグリハにおられました。 そのとき仏陀は、深淵なる
大悟というべきものへの、深い瞑想に沈んで行かれました。
…
(内容は少し違うが従来の般若心経が挟まる)
…
そのとき、仏陀は瞑想から目覚めて立ち上がられ、聖なる観世音にして菩薩に言われました。
よく語ったと。完璧なりと。高いカーストの息子らよ、まさにかくの如しと。
高貴なる息子らよ、まさにかくの如く、深遠なる悟りに到る叡智は実践すべきなりと。
如来ら、阿羅漢らの心も喜びに満ちるであろう。
こう仏陀が言われたとき、祝福されるべきシャリプトラ、聖なる観音菩薩、全世界の神々、
人々、阿修羅ら、乾闥婆*らも大歓喜しました。」
…
イギリス生まれで、若くして仏教に帰依した宗教家、サンガラクシータは、『般若
心経とは何か』の中で、般若心経は仏陀の叡智を象徴する観音菩薩と智慧で知られたシャ
リプトラとの対話であるとして、次のように書いている。
〈何よりも異常で意味深長なのは、短い方の般若心経の中では、シャリプトラが一言も発し
ないことである。文脈から言えば、知的な発言があるべきだ。この沈黙に解く鍵がある
ようだ。要するに、智慧は死に、悟りに到る完全なる叡智が生まれた、ということである〉
知性のレベルでの智慧を象徴するシャリプトラは沈黙し、超越的な智慧のシンボルである
観音菩薩のみが語る。シャリプトラの沈黙にも重大な秘密があるとサンガラクシータは
考えている。》
*乾闥婆 ガンダルヴァGandharvaの音訳。インドの神々の宮廷で、その妻である
ウプサラとともに、踊りや音楽で神々を楽しませる半神。神々の飲み物、ソーマの守護
にもあたる。
「ありがとう」の由来は仏教|仏教の教えを学ぼう|仏教 釈迦 ブッダ 因果応報 仏教用語はこちら
http://bukkyouwakaru.com/butugo/arigatou.html
“ありがとう”は、実は仏教に由来する言葉です。
もとになった話を紹介しましょう。
盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)
亀
お釈迦さまがあるとき、阿難(あなん)というお弟子に、
「そなたは、人間に生まれたことをどのように思っているか?」
と尋ねられた。
「はい。大変よろこんでおります」と阿難は答えた。
お釈迦さまが、「では、どれくらい喜んでいるか?」
と重ねて尋ねると、阿難は答えに窮した。
するとお釈迦さまは、一つの例え話をされた。
これは今日、「盲亀浮木の譬(もうきふぼくのたとえ)」
と言われているお話。
・・・・・
「果てしな~く広がる海の底に、目の見えない亀がいる。
その亀は、100年に1度、海面に顔を出すのだ。
広~い海には1本の丸太棒が浮いている。
その丸太棒の真ん中には、小さな穴がある。
丸太棒は、風のまにまに、波のまにまに、
西へ東へ、南へ北へと、漂っているのだ。
阿難よ。
100年に1度浮かびあがるその目の見えない亀が、
浮かび上がった拍子に、丸太棒の穴に、
ひょいっと頭を入れることが有ると思うか?」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことは、とても考えられません」
と答えた。
「絶対にない、と言い切れるか?」
広い海
お釈迦さまが念を押されると、
「何億年×何億年、何兆年×何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
ない、と言っても良いくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが、阿難よ。
私たちが人間に生まれることは、
その亀が、丸太棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。
有難いことなんだよ」
と教えられています。
盲亀の浮木
【読み】 もうきのふぼく
【意味】 盲亀の浮木とは、出会うことが甚だ困難であることのたとえ。また、めったにない幸運にめぐり合うことのたとえ。
【盲亀の浮木の解説】
【注釈】 大海の底にすみ、百年に一度だけ海面に出てくる盲目の亀が、海面に浮かぶ一本の木に出会い、その木にあいている穴に入ることは容易ではないという、仏教の説話から。
もとは、仏または仏教の教えにめぐり合うことは、非常に難しいことをいったもの。
「盲亀浮木に値あう」の略。
「盲亀の浮木、優曇華の花」と続けてもいう。
「優曇華の花」は、三千年に一度咲くという想像上の吉兆の花。
【出典】 『雑阿含経』 『涅槃経』
【注意】 -
【類義】 一眼の亀浮木に逢う/千載一遇
人間として生まれ難いのは... 『雑阿含経』の中には、有名な盲亀浮木の譬喩が...
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hiker_aさん2012/5/203:18:30
人間として生まれ難いのは...
『雑阿含経』の中には、有名な盲亀浮木の譬喩が説かれています。
ある時、釈尊が
「たとえば、大海の底に一匹の盲亀がいて、百年に一度、海上に浮かび上がるのだ。
その海には、一本の浮木が流れていて、浮木の真ん中に、一つの穴がある。
盲亀が百年に一度浮かび上がった際に、その浮木の穴へ、ちょうど、頭を突っ込む
ことがあるだろうか」と尋ねられた。
阿難という弟子が、「そんなことは、毛頭、考えられません」と答えると釈尊は、
「誰でも、そんなことはありえないと思うだろう。だが、何億兆年よりも永い間には
絶対にないとは、誰も言い切れないであろう。人間に生まれるということは、この例え
よりもありえない有り難いことなのだよ」
と言われたそうですが、これは生物学的にひとつの卵子と何億という精子の中の
わずか1匹との結びつきを意味していると思いますか?
それとも心霊的な生まれ難さを意味していると思いますか?
仏教思想解説
・塚本善隆編、角川文庫ソフィア
『仏教の思想 1 知恵と慈悲 』 梅原猛、増谷文雄
『仏教の思想 2 存在の分析 』 上山春平、桜部健
『仏教の思想 3 空の論理 』 梶山雄一、上山春平
『仏教の思想 4 認識と超越 』 上山春平、服部正明
『仏教の思想 5 絶対の真理 』 田村芳朗、 梅原猛
『仏教の思想 6 無限の世界観 』 鎌田茂雄、上山春平
『仏教の思想 7 無の探求 』 柳田聖山、 梅原猛
『仏教の思想 8 不安と欣求 』 塚本善隆
『仏教の思想 9 生命の海 』 宮坂宥勝、梅原猛
『仏教の思想 10 絶望と歓喜 』 増谷文雄、梅原猛
『仏教の思想 11 古仏のまねび 』高崎直道、梅原猛
『仏教の思想 12 永遠のいのち 』 塚本 善隆
・集英社
『仏教を読む 一切は空 』 平田精耕
『仏教を読む 宇宙観を開く 』 松原哲明
『仏教を読む こころの開眼 』 松原泰道
『仏教を読む 自在に生きる 』 平川彰
『仏教を読む 捨ててこそ得る 』 花山勝友
『仏教を読む 生とはなにか 』 金岡秀友
『仏教を読む 沈黙の教え 』 鎌田茂雄
『仏教を読む ほんとうの道 』 中村瑞隆
『仏教を読む 迷いを超える 』 松原泰道
主に解説。
原始仏典関連
・中村元訳、岩波文庫
『ブッダのことば(スッタニパータ)』
『ブッダの真理のことば・感興のことば(ダンマパダ・ウダーナヴァルガ)』
『仏弟子の告白(テーラガーター)』
『尼僧の告白(テーリーガーター)』
『ブッダ神々との対話(サンユッタ・ニカーヤ 1)』
『ブッダ悪魔との対話(サンユッタ・ニカーヤ 2)』
『ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経)』
・増谷文雄訳、ちくま学芸文庫
『阿含経典 1』
『阿含経典 2』
『阿含経典 3』
・長尾雅人編、中央公論社
『世界の名著〈1〉バラモン教典, 原始仏典 』
ブッダが説いた、最も平易かつ主要な教え。
仏教以前
『ウパニシャッド 翻訳および解説』湯田豊(2000)(13ウパニシャッドの全訳)
『ウパニシャド』日野紹運、奥村文子(2009)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『ウパニシャッド』佐保田鶴治(1979)(主要12ウパニシャッドの抄訳)
『原典訳 ウパニシャッド』岩本裕(2013)(主要5ウパニシャッドの抄訳)
『ウパニシャッド』服部正明(1979)(主要4ウパニシャッドの抄訳)
『バガヴァッド・ギーター』 上村勝彦 (1992)(章題なし)
『バガヴァッド・ギーター』 鎧淳 (2008)(章題なし)
『バガヴァッド・ギーター詳解』 藤田晃 (2015)(章題あり)
『神の詩 バガヴァッド・ギーター』 田中嫺玉 (1988)(章題あり)
『バガヴァッド・ギーター』 辻直四郎著 (1980)(章題なし、〜なり調)
『実践「ヨーガ・スートラ」入門』 番場裕之 (2008)(全訳)
『現代人のためのヨーガ・スートラ』 グレゴール・メーレ (2009)(全訳)
『解説ヨーガ・スートラ』 佐保田鶴治 (1980)(全訳)
『図説ヨーガ・スートラ』 伊藤武 (2016)(全訳、図解つき)
『リグ・ヴェーダ讃歌』 辻直四郎 (1978)
大乗仏典関連
・中村元、東京書籍
『現代語訳大乗仏典 1 般若経典』
『現代語訳大乗仏典 2 法華経』
『現代語訳大乗仏典 3 維摩経・勝鬘経』
『現代語訳大乗仏典 4 浄土経典』
『現代語訳大乗仏典 5 華厳経・楞伽経』
『現代語訳大乗仏典 6 密教経典・他』
『現代語訳大乗仏典 7 論書・他』
抄訳と解説。
『中村元選集』(春秋社)
第1巻 『インド人の思惟方法 東洋人の思惟方法 I』
第2巻 『シナ人の思惟方法 東洋人の思惟方法 II』
第3巻 『日本人の思惟方法 東洋人の思惟方法 III』
第4巻 『チベット人・韓国人の思惟方法 東洋人の思惟方法 IV』
第5巻 『インド史 I』、第6巻 『インド史 II』
第7巻 『インド史 III』
第8巻 『ヴェーダの思想』
第9巻 『ウパニシャッドの思想』
第10巻 『思想の自由とジャイナ教』
第11巻 『ゴータマ・ブッダ I 原始仏教 I』
第12巻 『ゴータマ・ブッダ II 原始仏教 II』
第13巻 『仏弟子の生涯 原始仏教 III』
第14巻 『原始仏教の成立 原始仏教 IV』
第15巻 『原始仏教の思想 I 原始仏教 V』
第16巻 『原始仏教の思想 II 原始仏教 VI』
第17巻 『原始仏教の生活倫理 原始仏教 VII』
第18巻 『原始仏教の社会思想 原始仏教 VIII』
第19巻 『インドと西洋の思想交流』
第20巻 『原始仏教から大乗仏教へ 大乗仏教 I』
第21巻 『大乗仏教の思想 大乗仏教 II』
第22巻 『空の論理 大乗仏教 III』
第23巻 『仏教美術に生きる理想 大乗仏教 IV』
第24巻 『ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学 I』
第25巻 『ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想 インド六派哲学 II』
第26巻 『ミーマーンサーと文法学の思想 インド六派哲学 III』
第27巻 『ヴェーダーンタ思想の展開 インド六派哲学 IV』
第28巻 『インドの哲学体系 I 『全哲学綱要』訳註 I』
第29巻 『インドの哲学体系 II 『全哲学綱要』訳註 II』
第30巻 『ヒンドゥー教と叙事詩』
第31巻 『近代インドの思想』
第32巻 『現代インドの思想』
仏教哲学総合スレ2 [無断転載禁止]©2ch.net
223 : 考える名無しさん2017/04/09(日) 11:23:59.07 0
特に仏教に関しては、釈迦の生没年に100年以上の開きがある。
(1)紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝仏教による説(ドイツ人ガイガー説)
(2)紀元前563/480年 - 紀元前483/400年 : 英語wiki
(3)紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝仏教の『衆聖点記』による説
(4)紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村元説(北伝仏教による)
ホメロス (前8世紀~?)
ヘシオドス (前750~前650)
サッフォー (前630~前570)
★釈迦(1) (前624~前544)
タレス (前624~前546)
老子 (前604~?)
ピタゴラス (前582~前496)
★釈迦(3) (前566~前486)
孔子 (前551~前479)
ヘラクレイトス (前540~前480)
パルメニデス (前500~?)
ソクラテス (前469~前399)
★釈迦(4) (前463~前383)
デモクリトス (前460~前370)
プラトン (前427~前347)
アリストテレス (前384~前322)
荘子 (前369~前286)
知っているようで知らないお遍路に行く際の必需品 - マイナビニュース
news.mynavi.jp>ニューストップ>旅と乗りもの>レジャー
男性の厄年42歳+女性の厄年33歳+子供の厄年13=88という説や米という字を分解 して88という説など。加えて、四国八十八カ所札所巡りの"札所(ふだしょ)"とは、お遍路 で巡る88カ所のお寺のことを示す。札所と呼ばれるようになったの ...
『「唯識三十頌」を読む』 広沢隆之 (2005)
1.漢訳経典
2.漢訳書き下し
3.法相宗の伝統的読み
4.サンスクリットを参照した読み
5.サンスクリット文
6.玄奘訳ベースの和訳
7.哲学的概念を考慮した意訳
8.チベット訳
以上の8文を併読できる唯識読解の決定版。
『唯識三十頌』を読む
叢書名 TU選書 ≪再検索≫
著者名等 廣澤隆之/著 ≪再検索≫
出版者 大正大学
出版年 2005.5
大きさ等 19cm 343,35p
NDC分類 183.94
目次 『唯識三十頌』内容と解説(帰敬偈;総論(第一偈);初能変―阿頼耶識の変容(第二偈
~第四偈);第二能変―末那識の変容(第五偈~第七偈);第三能変―感覚・知覚の変容
(第八偈~第十六偈);正弁唯識―唯識ということ(第十七偈);心法生起―心の働きの
起こり(第十八偈);有情相続―生死と心のつながり(第十九偈);三性―心に見える三
種の存在形態(第二十偈~第二十二偈);三無性―空性である三種の存在形態(第二十三
偈~第二十五偈) ほか);『唯識三十頌』を読んで
ISBN等 4-924297-30-5
世親
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唯識三十頌 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/唯識三十頌
唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ、梵: Triṃśikā-vijñapti-mātratā, トリンシカー・ビジュ ニャプティ・マートラター)は、大乗仏教唯識派の世親が著した唯識の思想を要約した30 の偈頌で、玄奘が訳したもの。 原題は「トリンシカー」(triṃśikā)が「三十頌」、「ビジュ ....
脚注-参考文献-関連項目-外部リンク
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫) | 多川 俊映 | 哲学 ...
www.amazon.co.jp/唯識とはなにか-唯識三十頌を読む...
評価(評価: 5)評価:5-5件のレビュー
唯識仏教の大本山、奈良興福寺の貫首が、身近な例を用いつつ、心のしくみや働きに 迫りながら『唯識三十頌』を易しく解説。日常の己をみつめ、よりよく生きるための最良の 入門書。『唯識 こころの哲学』を改題。
唯識三十頌 - Wikisource
ja.wikisource.org/wiki/唯識三十頌
唯識三十頌. 世親菩薩造. 稽首唯識性 満分清浄者. 我今釈彼説 利楽諸有情. 由假説我 法 有種種相轉. 彼依識所變 此能變唯三. 謂異熟思量 及了別境識. 初阿頼耶識 異熟 一切種. 不可知執受 處了常與觸. 作意受想思 相應唯捨受. 是無覆無 ...
HIRO'S HOME PAGE:唯識:唯識三十頌
junsoyo.on.coocan.jp/yuisiki/sannjuuju.htm
唯識三十頌』は,世親の代表的著書と言われています。わずか30の偈頌の中に,唯識 の教理がまとめあげられています。同じ世親の著書で『唯識二十論』があります。『唯識 二十論』が外界に事物が実在するとする他派の批判を反論することにより唯識という 立場 ...
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む 多川 俊映:書籍 | KADOKAWA
www.kadokawa.co.jp/product/321407000003/
書籍「唯識とはなにか 唯識三十頌を読む」多川 俊映のあらすじ、最新情報を KADOKAWA公式サイトより。わたしが見ているこの世界は、すべて心の中にある。心の 外には存在しない.
宇多田ヒカル と 「 唯識三十頌 」 - 本蔵院 律良日記 - Goo ブログ
blog.goo.ne.jp/.../e/bfc79e71ad9e3ab13c3c55618e9a4996
昔から、仏教を学ぶにあたっては 『 唯識三年 倶舎八年 』 ( ゆいしき三年 くしゃ8年 ) ということがいわれています。 「 唯識 」 とは仏教の心理学というか 人間の心の構造を 明らかにする学問です。 すぐに悟りの世界を追求するのではなく、 人間 ...
唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/唯識三十頌-144546
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 唯識三十頌の用語解説 - 世親著。 サンスクリット原典,チベット語訳,漢訳 (真諦訳,玄奘訳) が現存。『解深密経』から『摂 大乗論』まで多くの書によって明らかにされた仏教の唯識説の要義を,30の頌 (→偈 ) によって ...
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)
『唯識三十頌』を読む|大正大学
www.tais.ac.jp/guide/research/publishing/tu_list/c-4/
唯識三十頌』を読む. 『唯識三十頌』を読む. 廣澤隆之著: 本体価格1,900円+税: 四六 判 385頁 ... 本著の内容. 唯識思想の基本文献である『唯識三十頌』。梵蔵漢の三訳を 対照しながら、その三十の詩頌からなる短く簡潔な教理の深遠なる心の世界を読む。
ヴァスバンドゥの現象学-『唯識三十頌』 (Adobe PDF) -htmlで見る
human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/pdf/no155/15513.pdf
75. ヴァスバンドゥの現象学. 共に唯識学派を創始した――このように、わたくしは言い たい。アビダル. マ的なヴァスバンドゥの唯識を、われわれは正しく評価すべきである。 第 1部:原典の翻訳. 三十頌:30の詩句. 〔Trim. sika--Ka-rika-〕. 詩句. カーリカー. 1.
【5/6】まとめ「唯識三十頌を読む」 (The 男爵ディーノBLOG)
cagami.net/dansyaku_blog/archive/002888.html
法相宗の唯識思想は日本の大乗でも基礎学問。 ・法相宗の学問の基礎が『成唯識論』 で、法相宗は『成唯識論』の教理体系に基づいている。『成唯識論』は『唯識三十頌』の 注釈書。 ・安慧も注釈書書いてるよ。 序章. ・アビダルマの壮大な理論 ...
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商品の説明
内容紹介
「我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法(ダルマ)のみがある」とした『倶舎論(くしゃろん)』。また、すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない、と主張する唯識論(ゆいしきろん)など、仏教理論を完成させた知の巨人の思想と生涯を詳述。アーラヤ識と呼ばれる深層心理を重視し、現代の精神分析をはるか1600年前に先取りした精緻な唯識学の全体像を、平易に説き明かす。
内容(「BOOK」データベースより)
「我は存在せず、煩悩と業などによって構成される法のみがある」とした『倶舎論』。また、すべての事物はこころが作りだした表象にすぎない、と主張する唯識論など、仏教理論を完成させた知の巨人の思想と生涯を詳述。アーラヤ識と呼ばれる深層心理を重視し、現代の精神分析をはるか千六百年前に先取りした精緻な唯識学の全体像を、平易に説き明かす。
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登録情報
文庫: 384ページ
出版社: 講談社 (2004/3/11)
言語: 日本語
ISBN-10: 406159642X
ISBN-13: 978-4061596429
発売日: 2004/3/11
商品パッケージの寸法: 14.6 x 10.6 x 1.6 cm
おすすめ度: 5つ星のうち 3.4 5件のカスタマーレビュー
岡潔が私淑
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山崎辨榮
山崎 弁栄 (やまざき べんねい、安政6年2月20日(1859年3月24日) - 大正9年(1920年)12月4日)は、日本の浄土宗の僧侶。大正時代に浄土宗の社会運動である光明主義運動を行った。
目次
略歴 編集
安政6年、下総国手賀沼鷲野谷(現、柏市)の熱心な浄土門徒の農家に生まれる。近所の真言宗寺院で仏画を習う傍ら、12歳の時、阿弥陀三尊を夕日の中に観想して出家を願い、明治12年(1879年)11月、東漸寺の大谷大康に師事して出家した。
明治14年(1881年)に上京し、増上寺や駒込吉祥寺学林(現、駒澤大学)で研鑽を積み、明治15年(1882年)に筑波山中で念仏修行を行った。明治18年(1887年)に習志野に移住し、善光寺建立・浄土宗本校(現、大正大学)設立の勧進を行った。明治27年(1894年)にはインド仏跡巡拝に出かけ、翌28年に帰国した。
その後、光明主義運動を始め、大正3年(1914年)には如来光明会(現、光明修養会)を設立した。
大正5年(1916年)には、総本山知恩院の夏安居に講師に招かれ、大正7年(1918年)には時宗当麻派の本山、無量光寺の61世法主に迎えられ、境内に人々の教育のために光明学園を創設した。
大正9年12月、各地を巡錫中、柏崎市の極楽寺で還浄した。
弟子 編集
田中木叉、笹本戒浄、大谷仙界、藤本浄本
山崎弁栄記念館 編集
2013年(平成24年)8月、岐阜市に山崎弁栄記念館が開館した。記念館には遺墨作品を始め、自筆の原稿、著作などが一般公開されている。理事長は光明修養会上首で東洋大学名誉教授の河波昌。館長には批評家の若松英輔が就任。
所在地:岐阜市長良泉町16 山本ビル1階
開館日:特別展会期中を除き平日のみ。(要予約)
著書 編集
『弁栄聖者道詠集』(ミオヤノ光社、1926年→1984年)
『弁栄上人遺墨集』(ミオヤノ光社、1926年)
『弁栄聖者光明大系無辺光』(ミオヤノ光社、1928年)
『弁栄聖者光明大系不断光』(ミオヤノ光社、1928年)
『弁栄聖者光明大系無量光寿』(ミオヤノ光社、1930年)
『弁栄聖者光明大系無礙光』(田中木叉編、ミオヤノ光社、1956年)
『弁栄聖者光明大系無対光』(田中木叉編、ミオヤノ光社、1957年)
『弁栄聖者光明大系炎王光』(田中木叉編、ミオヤノ光社、1959年)
『弁栄聖者光明大系清浄光・歓喜光・智慧光・不断光』(田中木叉編、ミオヤノ光社、1959年)
『自覚の曙光 - 仏陀禅那弁栄聖者御遺文』(光明会本部聖堂、1964年)
『宗祖の皮髄 - 仏陀禅那弁栄聖者御遺文』(光明会本部聖堂、1965年)
『無辺光』(講談社、1969年)
『阿弥陀経図会 - 仏陀禅那弁栄聖者御遺文』(光明会本部聖堂、1974年)
『十六観相 - 仏陀禅那弁栄聖者御遺文』(光明会本部聖堂、1975年)
『如来光明礼拜儀』(光明修養会、1995年)
遺稿集 編集
『ミオヤの光 - 弁栄聖者御遺稿』1-6(ミオヤノ光社、1922年)
関連文献 編集
『辨榮聖者の人格と宗教』(山本幹夫著、大東出版社、1937年)
『弁栄聖者』(藤堂恭俊著、光明会連合本部、1959年)
『日本の光 - 弁栄上人伝』(田中木叉著、光明修養会、1997年)
論文・記事 編集
CiNii>山崎弁栄
INBUDS>山崎弁栄
参考文献 編集
佐々木有一『近代の念仏聖者 山崎弁栄』(春秋社、2015年)ISBN 978-4-393-17428-9
紀野一義『名僧列伝』4(講談社学術文庫、2001年)
河波昌外『浄土仏教の思想』第14巻、清沢満之・山崎弁栄(講談社、1992年)
外部リンク 編集
一般財団法人光明修養会
山崎弁栄記念館
光明学園相模原高等学校
コトバンク>山崎弁栄
山崎弁栄インデックス - 長良川画廊
宗教法人 光明園 念仏道場 弁栄聖者と光明主義
先代:
他阿覚誠
当麻上人
61世:1918年-1920年
次代:
他阿戒浄
心理学における仏教の影響−過去と展望−
https://www.psych.or.jp/meeting/proceedings/76/contents/pdf/WS125.pdf
たとえば,ウィリアム・ジェームズは,自らの講演中,仏教徒ダルマパーラに短い講話を求め,
この「仏教教理は,25年以内に,誰もが研究することになる心理学となるだろう」と述べている。
実際には,彼の予想通りにはならなかったが,心理学・深層心理学と仏教との関連は,何度となく議論されてきた。
自灯明・法灯明 - 禅語に親しむ
www.jyofukuji.com › ...
自灯明・法灯明」は、釈尊が入滅される前に弟子に示された最後の教えだと いわれる。「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころとして生き なさい」ということである。「自己を拠りどころとし、法を拠りどころとせよ」 とは ...
【禅語】 自灯明 - 本当に自分を支えることができるのは自分だけ - - 禅の視点 - life ...
www.zen-essay.com › 禅語エッセイ
2016/11/05 · 真理、つまり本当に正しいことを頼りにして生きていきなさいという意味の禅語であった。 その法灯明 という禅語とともに、ブッダはもう1つの禅語を弟子たちに残していた。 それが自灯明。 これら2つの禅語はいつも ...
20.自灯明・法灯明
www.geocities.jp › chandi1813
自灯明・法灯明>は、仏陀が入滅される前に弟子に示された最後の教えのようです。自灯明・法灯明の教えに関して、私が一般的な仏教の書物を読んで理解したその意味は、「他者に頼らず、自己を拠りどころとし、法を拠りどころ ...
自灯明法灯明
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自灯明法灯明(じとうみょうほうとうみょう) 「自らを灯明とし、法を灯明とせよ」と読めるこの文句は、釈尊がなくなる直前の最後の教えとして知られています。 異なる複数の漢訳があるため、ここでは原典であるパーリ語の経典「大 ...
「おんな城主・直虎」の禅語② 自灯明~己の信じたものを、明かりとして進む~ | ...
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2017/04/17 · みなはただ自らを光とし、自らをよりどころとし、法を光とし、法をよりどころとして修行をすればいい。私が生きている今も、私が亡きあとも、自灯明、法灯明の教えに従うものことが、この教団の後継者となるのです ...
法話「自灯明 法灯明 ~自分と向き合い 心を修めていく~」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト - ...
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自灯明 法灯明 ~自分と向き合い 心を修めていく~. 書き下ろし ... 法の教えを灯火とし、拠り所にしなさい、他の教えを拠り所としてはならない。教えのかなめは心を修めることです」と、悲しまれるお弟子たちに最後の法話をされました。
自灯明・法灯明 - 曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
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自灯明・法灯明」―お釈迦様の智慧の光。 お釈迦さまは亡くなる間際に、集まった人々にこう言われました。 「これからは自らを灯とし、私が教えた法を灯にして行きなさい。」 これを「自灯明・法灯明」という言葉で表して仏教徒 ...
「自灯明・法灯明」で生きていく。 - 世の中の観察日記
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2015/06/10 · 自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」という、 仏教に出てくる言葉があります。 これは、 お釈迦様がこの世を去る時に、 弟子のアーナンダさんに言った言葉だと言われています。 アーナンダさんは ...
お釈迦様の言う「自灯明、法灯明」とはどんな意味ですか? - 意味は自分を拠り所... - Yahoo!知恵袋 - Yahoo! ...
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2014/03/30 · 自灯明(じとうみょう)の意味が本当に理解できたのは、 皆様方は何歳からですか. ... この解釈は、 大乗仏教の解釈であり、少なくとも「自灯明、法灯明」に対応するパーリ仏典の箇所の解釈としては採り得ない ...
「自灯明(Attadīpā)」の本当の意味。 - 仏滅2500年後 Neyya(被教導者)、Padaparama(語句最上者)の解脱戦略 - ...
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2014/05/16 · しかし、このブッダの言葉には「では、どのように自己を拠り所とするのか」という続きが存在しており、 その続きには、厳密に自灯明・法灯明とは何かが定義されている。それを読むと本来ブッダが言いたかったのは ...
2014-05-16
「自灯明(Attadīpā)」の本当の意味。
仏教 Dīgha-Nikāya 長部経典
ブッダの言葉である「自灯明(Attadīpā)」について。
結論から言えば、「自灯明の実践=「Satipaṭṭhāna(サティパッターナ、四念処)の実践」である。
それゆえに、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā.
長部経典16「大般涅槃経(Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章の一般に「自灯明・法灯明」とされている部分である。
これは、非常に誤解されている部分であって、
「自分を拠り所にしろいうことだから、自分で考えて、自分の直感に従って生きることではないか」
「自分に好きに生きろということではないか」
「自分を信じて生きろということではないか」
などど、一歩間違えれば、自分のエゴ肯定、欲望肯定と仏説とは、真逆の「解釈」をされることがある。
しかし、このブッダの言葉には「では、どのように自己を拠り所とするのか」という続きが存在しており、その続きには、厳密に自灯明・法灯明とは何かが定義されている。それを読むと本来ブッダが言いたかったのは、「自分を信じて生きろ」風の巷の解釈とは全く別のものであることがわかるはずだ。
では、問題となるその続き。
では、アーナンダよ、どのように比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのか。
ここに比丘は、身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住みます。
このように、アーナンダよ、比丘は自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住むのです。
アーナンダよ。今でも、また私の死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にいるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は――。
長部経典16「大般涅槃経(Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章
(片山一良訳、後半は中村元訳)
(パーリ語原文)
Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo?
Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
Vedanāsu…pe…
citte…pe…
dhammesu dhammānupassī viharati ātāpī sampajāno satimā, vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Evaṃ kho, ānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo .
Ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā’’ti.
(http://www.palikanon.com/pali/digha_mula/digha16.htm 165の後半 1「…pe…」のところは省略されている)
この大般涅槃経の続きを読むと、
「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
とは、
「身体について、身体を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」
「もろもろの感受について、感受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」
「心について、心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」
「もろもろの法について、法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて、住むこと」
であることがわかる。
パーリ語原文を読むと、「kāye kāyānupassī…Vedanāsu…citte…pe…dhammesu dhammānupassī」とある。
つまり、
ブッダの「この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」
とは、「Kāyānupassanā(身随念)、Vedanānupassanā(受随念)、Cittānupassanā(心随念)、Dhammānupassanā(法随念)の四念処(Satipaṭṭhāna)を修しなさい」ということなのだ。
要するに、「自灯明・法灯明」の本当の意味は、「四念処(Satipaṭṭhāna)を修せよ」ということである。
では、なぜ「自灯明(attadīpā)」「法灯明(dhammadīpā )」となぜ言葉を変えたのか?
スマナサーラ長老によれば、「たとえていえば、植物性のタンパク質を取りなさい。豆腐を食べなさい、というような意味」だという。
たとえば、「この洞窟を調べなさい」(自灯明)と言われて調べたところで、宝物(真理)を発見する。「宝物を探しなさい。洞窟の中にあります」(法灯明)と言われたならば、宝物を(真理)を意識して洞窟を調べてそれを発見する。
アルボムッレ・スマナサーラ長老『自立への道』(サンガ)p.124
参考:
「インドと釈尊【原始仏教関連】のトピック」http://buddhism.sns.fc2.com/exec/community/forum/view/42429/?sid=15bdc4793b7abbf73238ce0bff3eaba7
「『大般涅槃経』に記された「正法」の見分け方」
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20081225/p1
関連記事:
唯一の解脱法:Satipaṭṭhāna - http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/05/11/222742
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/05/16/200345
禅語に親しむ
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/03.htm
菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の
世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を
身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は
大混乱となった。
本来無一物
禅語に親しむ
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/03.htm
菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の
世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を
身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は
大混乱となった。
親鸞の二双四重はカント
日蓮の五重三段はヘーゲルを想起させる
親鸞の2×2の四分割と日蓮のフラクタルな三分割
親鸞(しんらん、承安3年4月1日 - 弘長2年11月28日 [注釈 5])は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧。浄土真宗の宗祖とされる[注釈 6]。
日蓮 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/日蓮
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日 - 弘安5年(1282年)10月13日)は、鎌倉 時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗・法華宗の宗祖。滅後に皇室から 日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈され た。
立正安国論-日蓮宗-安房国-池上本門
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2010/03/07/%E4%BA%8C%E5%8F%8C%E5%9B%9B%E9%87%8D%E3%81%AE%E6%95%99%E5%88%A4/
親鸞の二双四重↑はカント、
日蓮の五重三段↓はヘーゲルを想起させる
http://monnbutuji.la.coocan.jp/hihan/gojyusanndan.htm
親鸞の2×2の四分割と日蓮のフラクタルな三分割
中国の仏教 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/中国の仏教
唐
もう一つ、この時代の仏教で忘れてはならないのは、末法思想に基づく三階教の存在である。各宗派の僧が一緒に住むのが通例であった当時の寺院制度の中で、三階教のみが他宗派とは別組織としての、独自の三階寺院を持つに至った。しかし、三階教は無尽蔵と呼ばれる金融組織を持っていたことなどから、弾圧の対象となり、姿を消すこととなった。
霊鷲山におけるブッダは
ウッドストックにおけるジミヘンみたいなもの
人類史における頂点であることに変わりはない
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河口慧海
河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日) - 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。
河口 慧海
1866年2月26日
- 1945年2月24日
Ekai Kawaguchi by Zaida Ben-Yusuf, c1899.jpg
河口慧海
生地 摂津国堺山伏町
宗旨 黄檗宗
著作 『西蔵旅行記』
1897年(明治30年)、日本を離れる直前の河口(32歳)
1902年(明治35年)11月、ダージリンにてチベットのラマ姿をした、チベット脱出後の河口(37歳)
ネパール、カトマンズのボダナートにある河口訪問の記念碑
中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
1866年(慶応2年)摂津国堺山伏町(現・大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁)生まれ。1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺(当時は東京本所にあった)で得度を受け出家する。1892年(明治25年)には大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ。その後、五百羅漢寺の住職を勉めるまでになるが、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求めて、鎖国状態にあったチベットを目指す。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果す。帰国した後、1921年(大正10年)に還俗する(その理由については自身の著書『在家仏教』に詳しく記されている)。
邦人未踏のチベットへ 編集
1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダースの知遇を得る。およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにした。
1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士(英語版)より釈迦牟尼如来の舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉の経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託される。同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地にてボダナートの住職であるブッダ・バッザラ(覚金剛)の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査する。同年3月、カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索する。
1900年(明治33年)3月、新たな間道を目指してツァーラン村を発ちマルバ村(マルパまたはマルファ)へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅の仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機する。同年6月12日、マルバ村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発する。同年7月4日、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟の尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年(明治34年)3月にチベットの首府ラサに到達。チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許される。それまで中国人と偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方、以前に中国人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなる。
たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。次第にラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラの医者」)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになる(本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っている。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。
1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。 親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。
同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、かつて哲学館で教えを受けた井上円了・偶然出会った探検家の藤井宣正・後に浄土真宗本願寺派の法主となる大谷光瑞の三人の反対を押し切り、その救出の為の方策としてチベットが一目置いているであろうネパールに赴く。翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果、河口慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功、また国王より多くの梵語仏典を賜る。
同年4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。
その後、河口慧海は1913年(大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。
ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。
帰国後 編集
1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。英訳では1909年(明治42年)に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。
帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。晩年は蔵和辞典の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で東京世田谷の自宅で死去した。 慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されたが、現在は青山霊園(1種ロ 15号 5側(西1地区))に改葬されている。
河口慧海 (1866-1945)
チベット旅行記
http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典は
あるけれどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。
しかるにその大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡あとを絶って、今はネパールあるいはチベット
に存在して居るという。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお
欧米の東洋学者の説によるとチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ
訳よりも余程確かであるという。その説はほとんど西洋人の間には確定説かくていせつのようになって居ります。はたして
チベット語の経文が完全に訳せられてあるものならば、今日の梵語ぼんごの経文は世界にその跡を絶ったにしても
そのまたチベット語に訳された経文によって研究することが出来る。なおチベットの経文と漢訳の経文とを
比較して研究するのも余程学術上面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを
研究するにはぜひチベットに行ってチベット語をやらなければならぬという考えが起りました。
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典はあるけ
れどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。しかるにその
大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡あとを絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居ると
いう。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお欧米の東洋学者の説による
とチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。
その説はほとんど西洋人の間には確定説かくていせつのようになって居ります。はたしてチベット語の経文が完全
に訳せられてあるものならば、今日の梵語ぼんごの経文は世界にその跡を絶ったにしてもそのまたチベット語に訳さ
れた経文によって研究することが出来る。なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余程学術上
面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット
語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり
入蔵を思い立った原因 でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で今より満十年余以前のことでござり
ますけれども、チベットは厳重げんじゅうに鎖国主義を実行して居る国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多く
の光陰こういんを費やし種々の準備を調ととのえて行ってすらも今日失敗に帰して居る者が多い中に、我々ごとき
一介の貧僧が出掛けたところがはたして目的を達することが出来るかどうか。また自分はそんな冒険な事をやらない
でも黄檗宗おうばくしゅうの一寺の住職じゅうしょくになって居りさえすればごく安楽に過せる位置までに進んで居り
ます。現に東京本所の五百羅漢らかんの住職もし、その後は宗内しゅうないにも河口慧海かわぐちえかいという名が
喧やかましく言われるようになったから、自分さえ寺を持つという考えがあれば非常に便宜べんぎな地位を占めて居
ったのであります。それを打棄うちすてて死ぬか活いきるか分らない国へ行くということはいかにも馬鹿ばかげた話
のようですけれども、これは畢竟ひっきょう世間普通の考えで真実事業の為には便宜の地位を犠牲ぎせいにする位の
事は訳のない事であります。
参考:
河口慧海 (1866-1945)
チベット旅行記
http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典はあるけ
れどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。しかるにその
大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡あとを絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居ると
いう。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお欧米の東洋学者の説による
とチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。
その説はほとんど西洋人の間には確定説かくていせつのようになって居ります。はたしてチベット語の経文が完全
に訳せられてあるものならば、今日の梵語ぼんごの経文は世界にその跡を絶ったにしてもそのまたチベット語に訳さ
れた経文によって研究することが出来る。なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余程学術上
面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット
語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり
入蔵を思い立った原因 でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で今より満十年余以前のことでござり
ますけれども、チベットは厳重げんじゅうに鎖国主義を実行して居る国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多く
の光陰こういんを費やし種々の準備を調ととのえて行ってすらも今日失敗に帰して居る者が多い中に、我々ごとき
一介の貧僧が出掛けたところがはたして目的を達することが出来るかどうか。
参考:
河口慧海 (1866-1945)
チベット旅行記
http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典はあるけ
れどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。しかるにその
大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡あとを絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居ると
いう。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお欧米の東洋学者の説による
とチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。
その説はほとんど西洋人の間には確定説かくていせつのようになって居ります。はたしてチベット語の経文が完全
に訳せられてあるものならば、今日の梵語ぼんごの経文は世界にその跡を絶ったにしてもそのまたチベット語に訳さ
れた経文によって研究することが出来る。なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余程学術上
面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット
語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり
入蔵を思い立った原因 でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で今より満十年余以前のことでござり
ますけれども、チベットは厳重げんじゅうに鎖国主義を実行して居る国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多く
の光陰こういんを費やし種々の準備を調ととのえて行ってすらも今日失敗に帰して居る者が多い中に、我々ごとき
一介の貧僧が出掛けたところがはたして目的を達することが出来るかどうか。
…
ちなみに河口慧海はインドへも行っている
河口慧海は医者だから学びに行って人助けをしたという
真に仏教的人物
キサー・ゴータミーの話 - livedoor Blog(ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/51922739.html
キサー・ゴータミーの話
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書に、子どもを亡くした女性の話が出てくる(仏教説話大系12、すずき出版)。
ブッダの最初の女性の弟子になったというキサー・ゴータミーという名前の女性だ(キサーは痩せているという意味)。
http://mujintou.net/houwa1.htm
2400-2500年前のインドで
この事件を知ったとき、仏典に説かれた、一つの逸話を思い出しました。それは祇園精舎があったことでも有名な古代インドの都市、舎衛国(しゃえいこく、シュラーヴァスティー)での話です。
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞きつけたのでしょうか、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。さて、釈尊はどのように応対されたと思いますか。
釈尊はこんな風に答えられたといいます。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことのない家からね」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれると思ったのでしょうか、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ず、しかし人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。
→もっと知りたい方へ:キサー・ゴータミーの話は、中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫、p.108に簡単に紹介されているほか、一般書ではないですが、赤沼智善『印度仏教固有名詞辞典』法蔵館、p.308-309に関連文献が挙げられています。
http://mujintou.net/houwa1.htm
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、
遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を
歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞
きつけ、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。…
釈尊はこう答えました。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことの
ない家から」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれる
と思い、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ませんでした。
しかし人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。
参考:
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書より(『仏教説話大系』12、すずき出版)
延暦寺について | 天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]
www.hieizan.or.jp/about
概要. 比叡山. 百人一首で有名な慈円は、比叡山について「世の中に山てふ山は多かれど、山とは比叡の御山(みやま)をぞいふ」と比叡山を日本一の山と崇め詠みました。 それは比叡山延暦寺が、世界の平和や平安を祈る寺院として、さらには国宝的人材育成の学問と修行の道場として、日本仏教各宗各派の祖師高僧を輩出し、日本仏教の母山と仰がれているからであります。 また比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「 天台薬師の池」と詠われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望 ...
延暦寺 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/延暦寺
延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。 平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも称された。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。 住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも ...
概要-歴史-境内-文化財
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸[1]。通称は黒谷上人・吉水上人とも。
法然房源空
長承2年4月7日 - 建暦2年1月25日(宣明暦)
(1133年5月13日 - 1212年2月29日〈ユリウス暦〉)
Takanobu-no-miei.jpg
「披講の御影(隆信御影)」[注釈 1]
幼名
勢至丸
号
(房号)法然
(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師[1]
諱
源空
諡号
慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・
天下上人無極道心者・光照大士[1]
尊称
元祖法然上人
生地
美作国(現・岡山県)
没地
洛東大谷(現在の知恩院付近)
宗旨
浄土宗
寺院
法然自身は寺院を建立せず。
師
源光・叡空
弟子
弁長、証空、親鸞、蓮生、源智、
幸西、信空、隆寛、長西、湛空
など。
著作
『選択本願念仏集』、
「一枚起請文」、他。
廟
知恩院、金戒光明寺、法然寺、
粟生光明寺など。
せいし丸さま
(知恩院)
謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である[注釈 2][1]。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師である[注釈 3][1]。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本における称名念仏の元祖と称される。
浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇めている。
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位置付ける[注釈 4]。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。
目次
おみくじ発祥の地 大津:【大津e湖都市場(おおついいこといちば)】大津豆知識
http://www.e510.jp/o2/mametishiki/mame-tishiki63.html
みなさんは神社などにお参りに行くとおみくじをされますか?
全国各地の神社には必ずと言っていいほどおみくじがありますが、 実は、そのおみくじの発祥の地は大津なのです。
大津市にある比叡山延暦寺、ここは最澄が開いた天台宗の総本山であり、「三塔十六谷三千坊」と言われる大寺です。その三塔とは「東塔(とうどう)」「西塔(さいとう)」「横川(よかわ)」のエリアを指しています。その横川にあるのがおみくじの元祖として知られている元三大師堂(がんざんだいしどう)です。
ここは比叡山中興の祖・元三慈恵大師の住居跡で、建物は四季に法華経を論議することが始められて以来「四季講堂」とも呼ばれるようになりました。現在は元三大師を本尊にしているので「横川の大師さん」と親しまれています。
「おみくじ」は、南北朝~室町初頭ごろ中国から入ってきた易学のような「天竺霊籤」をベースに「元三大師百籤」(がんざんだいしひゃくせん)と して元三大師が作り上げたものと言われています。この元三大師百籤は天台宗だけでなく他のお寺でも一般的に使われるようになり「みくじ本」と呼ばれるおみくじの解説書まで登場したそうです。
現在、お寺で引けるおみくじは、元三大師百籤がルーツになっているため、大まかに分けて寺のおみくじは「漢文」、それに対して神社のおみくじは「和歌」で書かれたものが多いようです。
神仏に頼む時、お願い事は「祈祷」、お尋ね事が「おみくじ」となり、おみくじとはお願いをするものではなく、どちらがいいか?どうしたらよいか?などを尋ねる時に利用するようです。
元三大師堂で行っている正式なおみくじは、自ら引くものではなく、まず僧侶の前で自分の悩み事を話し、僧侶が引いたおみくじを授受します。その後、おみくじに書いてある内容について僧侶から教えを受けます。そのため、悩みの内容によっては数十分かかることもあるらしいです。
現在自分で引くおみくじは簡易的なもの。
神社本庁による正しいおみくじの引き方は下記の通りです。
① おみくじを引く前にあらかじめ尋ね事を一つ決めておく。
② 謙虚な気持ちで祈りながら引く。
③ 自分の尋ね事に該当する部分を読む。
吉や凶は願い事や尋ね事が成就しやすいかどうかであり、その人の運勢を占うものではなく成就するまで早いか遅いかなのだそうです。凶が出たならば、早く成就するよう努力をせよ!ということだそうです。
みなさんも、祈りを1つに絞り、正しい引き方でもう一度引いてみてはいかがでしょうか?
大津豆知識、目次へ >>
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2013/01/post-29fe.html
延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源
永観三年(985年)1月3日、比叡山延暦寺の中興の祖で慈恵大師の名で知られる良源が74年の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・・・
上記の、朝廷から賜った正式な諡号(しごう・おくりな=生前の功績を評価する死後に贈られる名)である「慈恵大師(じえだいし)」の他にも、「元三大師(がんさんだいし)」「角大師」「豆大師」など・・・多くの呼び名を持つ良源(りょうげん)は、それだけ、その伝説が数知れない事を物語っています。
Ryougen500 実際の良源は、近江国浅井郡虎姫(滋賀県長浜市)に根づく地元豪族・木津氏の生まれで、10代の前半に比叡山に上って仏門に入ったと言います。
とは言え、天台宗の開祖である最澄(さいちょう)(6月4日参照>>)の直系の弟子ではないうえに、実家の身分も低い事から、入門当時は、あまり注目を浴びるタイプでは無かったそうですが、17歳で出家した後、ほどなく、その才能が芽生え始め、徐々に一目置かれる存在となっていきます。
それが決定的となったのが26歳の時・・・奈良の興福寺にて行われた法華八講(ほっけはっこう)での事・・・
この法華八講というのは、法華経を対象とする法要の一つで、左右の講座に上った読師(どくし)役の高僧がお経を読み、講師(こうじ)役の高僧が、その注釈を行い、その後、その注釈の内容について門者(もんじゃ)が質問し、講師がそれに答える論議の時間が設けられているという、言わば勉強会みたいな物ですが、ここで、良源は、南都(奈良)の高僧と論議を交し、論破しちゃった・・・
これで、その名が一躍有名になるのです。
さらに、28歳の時に、時の権力者・藤原忠平(ふじわらのただひら=関白だったとも)に認められて、一門のお抱え祈祷師となりますが、そこで、中宮(天皇の妃)となっていた忠平の娘の安産祈願をすれば無事に生まれ、その子の守護を祈祷すれば、その子がライバルを蹴落として皇太子に選ばれ・・・てな事が立て続けに起こり、霊験あらたかな僧として注目を浴びるようになり、
やがて、55歳の時に天台座主=比叡山延暦寺のトップとなるのです。
以後、永観三年(985年)1月3日に亡くなる、その日までの19年間・・・上りつめた良源は、荒廃していた延暦寺の堂塔を次々に復興し、現在の比叡山の伽藍の基礎を造ったのです。
また、学問の振興にも力を注ぎ、僧の規律を正すとともに、お得意の論議の場を頻繁に設けて、僧たちのレベルアップに尽力し、多くの弟子を育て上げました。
まさに、比叡山延暦寺の中興の祖・・・なわけですが、
以前、あの浄土真宗の中興の祖である蓮如(れんにょ)さんのページ(2月25日参照>>)でもお話させていただきましたが、この中興の祖というのは、ある意味商売上手でないと、中興の祖にはなれません。
ヤラしい話ですが、お金が無いと伽藍の再建もできませんし、学問僧の教育だってできません。
つまり、この良源さんも、かなりの商売上手・・・もともとの霊的能力もあるうえに、そこをウマくアピールして貴族のお気に入りとなっては、巧みに、その荘園を延暦寺に寄付してもらい、寺の持つ荘園をどんどん増やしていったのですね。
なので、そういうやり方を嫌う僧もいて、そのぶん敵も多く・・・敵に対抗するため、また、多くの荘園を守るため、やがて比叡山も武装していく事になるわけですが・・・
しかし、輩出した多くの弟子たちからは、新たなる思想を生みだす者も現われ、それが、鎌倉の新仏教へも繋がるのですから、良源の残した功績は計り知れないです。
また、後世には、良源自身が如意輪観音(にょいりんかんのん=苦を解いて利益を与える救世観音とも)の化身と言われたり、また、あの平清盛の全盛期には、「清盛は良源の生まれ変わりだ」と称されたりするほど、その死後も、特別視された僧だったのです。
Tunodaisi600 伝説では、2本の角を持ち、骨と皮だけにやせ細った鬼の姿となって疫病神を退治したと言われ、その姿を絵にした「角大師」→のお札が、魔よけの護符として庶民の家々に貼られて信仰されたりしました。
ちなみに、この疫病神というのは、今では、「悪い事を起こさせる神様一般」みたいな感じに扱われれますが、もともとは、その字の通り、疫病をもたらす神で、それは、怨念を残したままこの世を去った人物がなるものとされていたので、その対策は=怨霊を鎮める事・・・
各地に残る御霊神社や、京都の八坂神社も、そのために建てられた神社ですが、庶民は、怨霊を鎮める霊能力を持つ良源さんの護符に、疫病退散の願いをかけたという事ですね。
ちなみのちなみに、現在も、琵琶湖東岸にある玉泉寺(滋賀県長浜市三川町)には、室町時代から続く「元三大師みくじ」というのがあり、これが全国の「おみくじの元祖」と言われています。
ここのおみくじは、参拝者が引くのではなく、代々のご住職が参拝者の話(主に悩みなど)を聞きながら引いて、その解決策を講和のごとく話して聞かせるという物なのだとか・・・
おみくじ、というより占いみたいな感じですが、それこそが、逆に、元祖っぽい気がしないでもないです。
残念ながら、現在は、そのご住職さんが高齢のため、おみくじも堂内の一般公開もされていないのだそうですが、そのお寺の堂内には、バッチリ、あの「角大師」の絵が鎮座しています。
今なお続く庶民の信仰・・・これも、あの延暦寺復興と並ぶ、慈恵大師良源の偉業ですね。
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僧侶がカウンセリング&おみくじをひいてくれる。おみくじ発祥の地の ...
www.ei-publishing.co.jp/articles/.../discover-japan-4481...
2017年10月18日 ... いまや神社仏閣で『運だめし』として引かれているおみくじ。だが、その発祥の地では、 まったく異なる『おみくじの作法』ともいうものがあった。 おみくじの起源は、比叡山のはずれ深山幽谷の地. 788(延暦7)年の開山以来、日本仏教の母山として、数多くの名僧を輩出してきた比叡山延暦寺。日本仏教のそうそうたる先人が修行をした地だ。 その山の中でも、寺の中心である東塔(とうどう)エリアから北へ約4km離れた深山幽谷の地である横川(よかわ)は、都の喧騒と政治から離れて勉学を志す、いわば『 ...
比叡山延暦寺は〝おみくじ〟発祥の地 (大津市比叡山 延暦寺) (Adobe PDF) -htmlで見る
www.biwako-trust.com/btrust-articles/f330-1.pdf
1 -. 私の「滋賀一番」 西本梛枝. ○比叡山延暦寺は〝おみくじ〟発祥の地. (大津市比叡山 延暦寺). 神社仏閣におまいりするとつい引きたくなるのが〝おみくじ〟。そのおみくじの祖は比叡山延. 暦寺を中興した. がんさんだいしりょうげん. 元三大師良源という高僧。平安時代中頃(10 世紀中頃)経済的にも精神的にも. 疲弊荒廃していた延暦寺を天台教学の場として立ち直らせ、僧はもとより多くの民に尊崇された. 方だ。 おみくじは元三大師が観音さまから授かったという五言四句の. げぶん. 偈文百枚が起源。これを江戸時.
私の「滋賀一番」 西本梛枝
http://www.biwako-trust.com/btrust-articles/f330-1.pdf
●比叡山延暦寺は〝おみくじ〟発祥の地 (大津市比叡山 延暦寺) 神社仏閣におまいりするとつい引きたくなるの
が〝おみくじ〟。そのおみくじの祖は比叡山延暦寺を中興したがんさんだいしりょうげん元三大師良源という高僧。
平安時代中頃(10 世紀中頃)経済的にも精神的にも疲弊荒廃していた延暦寺を天台教学の場として立ち直らせ、
僧はもとより多くの民に尊崇された方だ。 おみくじは元三大師が観音さまから授かったという五言四句のげぶん偈
文百枚が起源。これを江戸時代初めの僧てんかい天海大僧正が大師のお告げで発見。これが「元三大師ひゃくせん百
籤 」となり、番号のところに記された偈文を人々は人生の指針として頼みとするようになった。この元三大師百籤は
次第に天台宗以外のところでも使われるようになって、〝おみくじ〟として広まっていった。なので、比叡山元三大師堂
のおみくじは、自分が引くのではなく、お坊さんが引いてくれた籤を戴き、そこに書いてあることの教えを受けて、我
が心の指針とする。 因みに、魔除けのお札とされる鬼の姿のつの角だいし大師は元三大師が疫病神を退散させたときの
姿で、これを戸口に貼っておくと厄難が近づかないと言われている。
げもん
元三大師おみくじ - 妙法寺(蕪村寺)
www.busondera.com/ganzan/omikuji-1.html
実は元三慈恵大師良源上人(912~985)が仏教各宗の寺院や神社で行われている「 おみくじ」の創始者であることは案外知られていない。慈恵大師が観音菩薩に祈念して 偈文(げもん)を授かった観音籤(くじ)が起源と言われる。また、元三大師が如意輪観世音菩薩の化身であると言われているところから、「観音籤」の名があるともいわれる。 江戸時代初期、東京上野の寛永寺に黒衣の宰相といわれた天海大僧正(1536~ 1643)という方がおられた。天海大僧正は常々慈恵大師に深く帰依されていたが、夢枕の中に慈恵 ...
天台宗・寳珠山 繁栄寺 / 繁栄寺のおみくじ
haneiji.com/omikuji.php
繁栄寺のおみくじ. おみくじの起源. 今では各地の寺院や神社で行われている「おみくじ」 の創始者は、元三大師(がんざんだいし)として知られる慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)上人(912~985)です。慈恵大師が観音菩薩に祈念して偈文(げもん)*1を授かっ た観音籤(くじ)が起源と言われています。 江戸時代初期の東京上野の寛永寺、「黒衣の宰相」と言われ、常々慈恵大師に深く帰依されていた天海大僧正(1536~1643) という方が、夢枕の中に現れた慈恵大師にお告げをいただきました。 曰く、「信州戸隠山明神の ...
おみくじの起源について|おみくじドットコム
www.omi-kuji.com/mame/002.html
おみくじが「観音籤(かんのんくじ)」とも呼ばれるのは、この元三大師が観音菩薩に祈念 し、偈文(げもん)を授かり、この偈文がおみくじの紙のルーツになったからと言われています。 その元三大師がおみくじのルーツとしたのが、中国の古いくじ「天竺霊籤(てんじくれいせん)」に遡ると言われています。 江戸時代初期に徳川家康のそばにあって、黒衣の宰相と呼ばれた天台宗の天海大僧正がこの元三大師(慈恵大師)を深く信仰しており、ある時天海の夢枕で元三大師からの神託を受け、戸隠に隠されていた偈文百枚を発見。
http://www.biwako-trust.com/btrust-articles/f330-1.pdf
●比叡山延暦寺は〝おみくじ〟発祥の地 (大津市比叡山 延暦寺)
神社仏閣におまいりするとつい引きたくなるの
が〝おみくじ〟。そのおみくじの祖は比叡山延暦寺を中興した元三大師良源(がんさんだいしりょうげん)という高僧。
平安時代中頃(10 世紀中頃)経済的にも精神的にも疲弊荒廃していた延暦寺を天台教学の場として立ち直らせ、
僧はもとより多くの民に尊崇された方だ。 おみくじは元三大師が観音さまから授かったという五言四句の偈
文(げもん)百枚が起源。これを江戸時代初めの僧天海大僧正が大師のお告げで発見。これが「元三大師百
籤 (ひゃくせん)」となり、番号のところに記された偈文を人々は人生の指針として頼みとするようになった。この元三大師百籤は
次第に天台宗以外のところでも使われるようになって、〝おみくじ〟として広まっていった。なので、比叡山元三大師堂
のおみくじは、自分が引くのではなく、お坊さんが引いてくれた籤を戴き、そこに書いてあることの教えを受けて、我
が心の指針とする。
因みに、魔除けのお札とされる鬼の姿の角大師(つのだいし)は元三大師が疫病神を退散させたときの
姿で、これを戸口に貼っておくと厄難が近づかないと言われている。
新日本風土記 比叡山 2018/3 参照
http://kannoeizan.blog111.fc2.com/blog-entry-626.html
2016-11-24
占いの歴史夜話⑪
…おみくじのルーツは?
神社や寺院に参拝した折り、ちょっとした遊び心で「おみくじ」を引いては、
そのみくじ箋(みくじ紙)に書いてある吉凶判断や和歌、生活全般に亘る運勢
のアドバイスなどに一喜一憂された経験の有る人は多いのではなかろうか。
そもそも、カミの御心、ご神慮を伺う占いの起源は、古代にまで遡り、
古来、政治上の重要事項の決定は、ご神意を仰ぐ「籤引き(くじびき)」に
依って行われたという、「政(まつりごと)」が即ち「祭り事(まつりごと)」で
あった祭政一致の歴史がある。
古代の律令体制下に於いては、神事を司る神祇官(じんぎかん)の中に、
亀卜(きぼく)の専門家集団であった卜部(うらべ)が官職として置かれて
いたように、占いは神事であった。
「おみくじ」に近い形態の占い方法で、最古の記録は「日本書紀」に於ける
「有間皇子の変」の記述であろうと思われる。
「日本書紀」に依れば、斉明天皇4年(658年)11月、斉明天皇と皇太子で
あった中大兄皇子(後の天智天皇)が紀温湯に行き、奈良の都を留守にした際、
有間皇子は蘇我赤兄と挙兵を謀議し、「短籍(ひねりぶみ)」を引いて、謀反の
吉凶を占ったとある。
「短籍」は紙片か、或いは木簡で作った籤(くじ)であったろうと想像される。
第11記事8
現在、「おみくじ」と言えば、仏教寺院よりも神社のイメージで捉えている
人の方が多かろうと思われるが、鎌倉時代初期に始まった、個人の運勢や
吉凶を占う為に行われている現行の「みくじ箋(みくじせん)」の起源は、
仏教サイドにある。
現在のおみくじに繋がる直接の起源は、シナの「天竺霊籤(てんじくれいくじ)」
であるというのが定説である。
その「天竺霊籤」が平安時代中期、日本に伝来し、天台宗中興の祖と呼ばれた
「元三大師(がんざんだいし)」、天台宗座主第18世「慈恵大師(じえだいし)」
良源(912~985)が、観音菩薩に祈念して偈文(げもん)を授かり、人の運勢や
吉凶を表わした100の漢詩(五言絶句)を詠んだという「元三大師百籤
(がんざんだいしひゃっくじ)」或いは「観音籤(かんのんくじ)が起源と
言われる。
良源は「如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)の化身」であると
言われていたことから、「観音籤」と名付けられたとの説もある。
その為に、比叡山横川の元三大師堂は「おみくじ発祥の地」とも言われている。
第11記事9
江戸時代初期、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に
深く関与した天台僧「慈眼大師」天海(1536年?-1643)の夢枕に元三大師が
現われ、「信州戸隠山明神の御宝前に観音百籤がある。これらは人々の困難を
救う為、観音菩薩に祈念して戴いた処方箋とも言うべきであるから、これらを
用いて、衆生を利益せよ」というお告げを戴いたという。
そのお告げ通りに、戸隠山明神に納められていた偈文百枚を「元三大師百籤」
或いは「観音みくじ」と呼び、世に広めたという。
江戸時代初期の頃は、自分でおみくじを引く形態ではなく、僧侶が
「浄聖なる観世音菩薩を念じ、念ぜよ。疑いを生ずることなかれ。
観世音菩薩は苦悩や死や厄災において、頼みとして最高の救世主である」
という内容の観音経(法華経第二十五観世音菩薩普門品)を読誦した後に
引いていたという。
やがて、自分で引く形式に変わって行ったものの、正規の作法としては相当に
面倒な決まり事があったようである。
神社参拝の時のように、手や口を水で清めるのは当然としても、観音経を3遍
読誦し、聖観音菩薩、千手観音菩薩、十一面観音菩薩の真言陀羅尼をそれぞれ
333遍唱え、33回礼拝し、次に「おみくじ願文」を読み、占うことを念じて、
番号の付いた100本のおみくじが入った箱筒を振って、小さな穴から一本だけ
取り出す。
書いてある数字を確認した後に、おみくじを筒に戻し、その筒を両手で持って、
「送奉の文」を読む。
その上で、備え付けられた「みくじ本」という解説書で、引いた数字に相応
する箇所の偈文を読んで判断するという、手の込んだ形式であったようである。
第11記事2
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。
明治維新を経て、新政府が慶応4年(1868年)に発布した太政官布告
「神仏分離令or神仏判然令」の影響で、神社サイドでは「寺のおみくじを
止めて、神社独自のおみくじを使うべきだ」との思潮が生まれ、明治以降には、
神社と寺院では別々のおみくじが使われるようになった。
神社では、現行の和歌系おみくじが主流となり、寺院では従来からの
元三大師御籤が用いられている。
「籤(くじ)」という言葉自体の語源としては、諸説有る。
訴訟など、公に関わる事柄を判断するという「公事」から転化したという説、
「串」という言葉から転化したという説、シナで神事や遊びに使われた円盤状
の「鬮(く)」に「子」か「児」を付けて「くじ」となったという説、
結び目を解く道具「抉り(こじり)」に由来するという説、「寄し」説や
「孔子」説など、様々な説があって、断定は出来兼ねる。
第11記事1
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。
おみくじに書いてある吉凶判断の部分で、読み取りに迷うのは、その吉凶の
順序ではなかろうか。
仏閣の場合は、100本中、大吉16本、吉35本、その他の吉19本、凶30本
という割合が決まっている「元三大師神籤」をベースにしているだけに、
大体、「大吉>吉>半吉>小吉>末吉>末小吉>凶」の順序で統一されている
ようなのであるが、神社は独自のおみくじを作る傾向があるようで、吉凶の
序列自体も神社に依って違い、一概に判断出来ない。
神社本庁の見解としては、
「大吉>【吉】>中吉>小吉>末吉>凶」で、「吉」は「大吉」の次、
「中吉」よりも上位に位置しているのだが、神社に依っては、
「大吉>中吉>小吉>末吉>【吉】>凶」と、「吉」が「末吉」よりも
下位に置かれているところもある。
「中吉」が、「吉」よりも上位なのか、下位なのかで定まっていない上に、
「半吉」が「小吉」よりも上位に置かれているところもあるので、判断に困る。
私の見解としては、「中吉」は「吉」の下、「半吉」は「小吉」の下として、
「大吉>吉>中吉>小吉>半吉>末吉>末小吉>凶>小凶>半凶>
末凶>大凶」の序列で考えている。
吉凶に関して言えば、易の世界の感覚では「大吉」の卦は歓迎しない。
むしろ、「凶」などの良くない卦が出た方が、これ以上は下がらず、
これからは運気が上がるとポジティブに考える。
要するに、「大吉」が出ても油断せず、「凶」が出ても落胆せず、
何れであっても心の励み、向上の糧とするべき神様の励ましなのである。
馴染みは無いが、実は「平」という卦もあり、神道では平穏無事こそ貴い
ものと考えることから、吉凶を超えた良い暗示と捉えて、歓迎する。
現在、おみくじで「平」の卦があるのは、京都の賀茂神社や石清水八幡宮
だけのようである。
第11記事5
PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。
引いた後のおみくじを、神社境内の木の枝に結ぶ慣わしがあるが、本来は
「凶」が出た場合にのみ、凶運を神社に留め置いて、凶が吉に転じて、
良い運勢が結実するようにと心に念じながら、結び目は魔除けにもなる
という言い伝えもあることから、結んで置いて来るべきものなのである。
おみくじは、吉凶判断を目的とする占いと考えて引くよりも、今後の生活の
指針をアドバイスして頂く、神様の励ましの言葉と捉えて、お守り代わりに
持ち帰り、よく読み返してみると良い。
おみくじに書いてある和歌などは、実に味わい深いものがある。
第11記事3
「PAKUTASO」様のフリー写真素材を拝借。
現在、おみくじを製造する会社は全国で6社あるそうだが、その中でも、
最大手の「女子道社」が日本全国の社寺で授与されるおみくじの約6割の
トップシェアを誇っているという。
山口県周南市に在る二所山田神社(にしょやまだじんじゃ)の21代目宮司、
宮本重胤氏が女性解放運動を推進する為の全国組織「敬神婦人会」を設立し、
明治39年(1906年)に、月刊新聞社「女子道社」を設立し、機関誌「女子道」
を発刊、その費用捻出の為、おみくじ作りを創業したのが始まりだという。
また、同年におみくじの自動頒布機を実用化させたのも同社であるとのこと。
現在でも、作業は全て手作業で行われ、紙折り機なども一切使わず、近隣農家
の主婦達の手で一枚一枚、丁寧に心を込めて仕上げられているという。
第11記事10
山口県周南市のHPより、女子道社の写真を拝借。
○おみくじの起源
実は元三慈恵大師良源上人(912~985)が仏教各宗の寺院や神社で行われている「おみくじ」の創始者であることは案外知られていない。慈恵大師が観音菩薩に祈念して偈文(げもん)を授かった観音籤(くじ)が起源と言われる。また、元三大師が如意輪観世音菩薩の化身であると言われているところから、「観音籤」の名があるともいわれる。
江戸時代初期、東京上野の寛永寺に黒衣の宰相といわれた天海大僧正(1536~1643)という方がおられた。天海大僧正は常々慈恵大師に深く帰依されていたが、夢枕の中に慈恵大師が現れて、「信州戸隠山明神の御宝前に観音百籤あり。これは、後世複雑な社会において人々の困難を救うために観音菩薩に祈念していただいた、いわば処方箋ともいうべきである。これを私の影像の前に置いて信心をこらして吉凶禍福を占えば、願いに応じて禍福を知ることができるであろう。そうして衆生を利益せよ」というお告げをいただいた。早速に人を戸隠に派遣して確かめると、偈文百枚が納められていたという。
『観音経』には「浄聖なる観世音菩薩を念じ、念ぜよ。疑いを生ずることなかれ。観世音菩薩は苦悩や死や厄災において、頼みとして最高の救世主である」と説かれている。
番号を付けた百本の籤を小さな穴のあいた箱に納め、至心に祈りながらそのうちの一本の籤を得て、引いた番号に相応した偈文によって、願う事柄の吉凶を判断すると、的確な指示が得られたのであった。
現今の神社仏閣で気軽に引けるおみくじは、この「元三大師百籤」から発展したもので、人間の運勢、吉凶を五言四句の偈文(漢詩百首)や和歌(=神社に多い)にまとめ、一番から百番まで連番をふり、引いた番号に書かれた文面で占うものである。
妙法寺には、厄難災除、魔除守護の元三大師降魔尊像が奉安されており、「元三大師おみくじ祈願所」として昔から知られている。この元三大師降魔尊像は正徳2年(1712)年に日光輪王寺門跡より拝領したもの。左手に独鈷を持ち、表情は極忿怒の相をしているのは恐ろしい形相をして悪魔を退散させ厄災を払う法力を表している。
なお、元三大師降魔尊像、元三大師聖像、同由来記の3点は昭和50年11月14日に丸亀市文化財に指定されている。
歴代住職が相談者から直に話を聞いて、如意輪観音菩薩、元三大師に用件をお伺いし、祈願して、おみくじによって商売、結婚、病気などさまざまな悩みや人生相談に応対している。
原則として直接当山へお越しいただく(要予約電話0877-22-7881)ことで、ご相談に応じています。もちろんプライバシーは厳守いたします。また、後ろ姿の写真では満足できない、住職の顔を見たいという、怖いもの見たさの方もどうぞ。
■妙法寺
〒763-0021 香川県丸亀市富屋町9番地 TEL0877-22-7881
元三大師降魔尊像
(妙法寺藏、約20センチメートル)
20130224更新
http://www.busondera.com/ganzan/omikuji-1.html
元三大師御神籤97~100
http://www.geocities.jp/whiteprince1jp/lot97100.html
http://www.geocities.jp/whiteprince1jp/lot97100.jpg
元三大師おみくじ
http://kusyami.com/omikuzi/mikuzi_index.html
元三大師百籤
http://www.busondera.com/ganzan/hyakusen.html
第95番「吉」
志氣勤修業 祿位未造逢 若見金鷄語 乘舩得便風
大いに意気込み努め励めど 福運いまだ巡り来らず 天に一声導きあれば 追手に帆上げて進む船足
【総 合】いろいろと努力を重ねるがなかなか結果に表れない。うまく結果が出ないことに落ち込んではいけない。初志を貫徹するために一層の努力を傾けるならば成功する。
【願 望】かなうべし
【病 気】回復する
【待 人】来る
【失 物】出る
【縁 談】よし
【売 買】利あり
【その他】一芸努力してよし
籤詩網‧淺草金龍山觀音寺一百籤__第095籤
http://www.chance.org.tw/籤詩集/淺草金龍山觀音寺一百籤/籤詩網%E2%80%A7淺草金龍山觀音寺一百籤__第095籤.htm
元三大師みくじ解釈96
http://omikujiire.shichihuku.com/gansandaisimikuji96.html
九十六番・大吉
(漢詩)
鶏遂鳳同飛 高林整羽儀 棹舟須済岸 宝貨満船帰
(訳)
鶏(けい)は鳳(ほう)を遂(お)いて同(とも)に飛び/高林、羽儀(うぎ)を整う/舟に棹(さおさ)して須(すべか)らく岸を済(わた)るべし/宝貨、船を満して帰らん
(大意)
鶏が鳥の王者・鳳の後を追って、ともに飛び、/高い林に止まって、羽づくろいしている。/こんな幸運の時こそ、船を漕いで対岸へ渡るべきである/そうすれば、船に財宝を山積みにして帰ることができよう。
(みくじの解)
貴人に近づきを得て、大いに成功する兆。
「中村公一 『一番大吉!おみくじのフォークロア』大修館書店より」
早島 鏡正(はやしま きょうしょう、1922年9月21日 - 2000年4月28日)は日本の仏教学者、僧侶。
目次
来歴 編集
北海道の浄土真宗本願寺派寺院に出生、幼少時に横浜へ転居、東京帝国大学文学部印度哲梵文学科卒。在学中に学徒出陣を経ている。仏教学者の中村元門下生の一人。
戦後は東洋大学助教授をへて東京大学助教授・教授、1983年に退官し名誉教授。武蔵野女子大学(現・武蔵野大学)教授、大倉精神文化研究所長をつとめた。原始仏教、聖徳太子や、浄土真宗関連で著書を多数刊行。
横浜市南区の浄土真宗本願寺派宣正寺住職であり、没する直前まで法話活動を行うなど真宗僧侶として幅広く活動した。
著作 編集
単著 編集
『初期仏教と社会生活』 岩波書店、1964年
『ゴータマ・ブッダ』 <人類の知的遺産15>講談社、1979年、講談社学術文庫、1990年
『人間の願い 無量寿経』 <現代人の仏教6>筑摩書房、1965年、新装版1974年
『生きがいのあかし 仏教の生死観』 <人生と仏教3>佼成出版社、1969年
『悪人正機の教え 歎異抄(唯円)』 <日本の仏教8>筑摩書房、1967年
『歎異抄を読む』 講談社(もんじゅ選書14)、1986年-「訳注」を加えた改訂版。
『歎異抄を読む』 講談社学術文庫、1992年-上記の文庫版
『正像末和讃 親鸞の宗教詩』 春秋社、1971年、新装版1978年
『親鸞入門 真実の生を求めて』 講談社現代新書、1979年
『正信偈入門』 法藏館、1990年-現代語訳と詳しい語註・解説
『親鸞聖人の己証に聞く 真俗二諦論の克服』 教育新潮社(伝道新書)、1998年-※以下は講話・講演集
『大無量寿経の現代的意義』 本願寺出版社、1990年、新版1995年
『念仏一茶』 四季社(チッタ叢書)、1995年
『正信偈をよむ 入門教行信証』 日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1995年
『蓮如 その教えと生き方』 日本放送出版協会(NHKライブラリー)、1997年
『蓮如上人のことば 念仏の人生・月々の味わい』 本願寺出版社、1998年
編著・共著 編集
『蓮如のすべて』 新人物往来社、1995年
『お経 浄土真宗』(田中教照編著)、講談社、1983年、座右版1999年
『仏教・インド思想辞典』(監修)、高崎直道(編者代表)、春秋社、1987年、新装版2013年-退官記念出版
『日英仏教辞典』 大東出版社、1965年、新版1984年ほか、増補普及版1991年、2007年
『世界の聖域9 セイロンの仏都』 (伊東照司共著)、講談社、1979年
『インド思想史』(高崎直道・原實・前田専学共著)、東京大学出版会、1982年
『日本仏教基礎講座 第5巻 浄土真宗』 坂東性純共編、雄山閣出版、1979年
主な校注・訳著 編集
『原始仏典 9 仏弟子の詩-長老の詩、長老尼の詩』 講談社、1985年
『ミリンダ王の問い インドとギリシアの対決』 平凡社東洋文庫(全3巻)
中村元共訳注、初版1963-64年、ワイド版2003年
『浄土三部経』-『上巻 無量寿経』、 『下巻 観無量寿経』、『阿弥陀経』
中村元、紀野一義共訳注、岩波書店(岩波文庫 上下)、初版1963-64年、改訳版1990年、ワイド版1991年
『世界古典文学全集 6・7 仏典』- 6巻「長老の詩、長老尼の詩」、7巻「阿弥陀経、大無量寿経」(各抜粋訳注)
中村元編、筑摩書房、初版1965-66年。新装版『原始仏典』、『大乗仏典』
『日本の名著2 聖徳太子』 中村元責任編集、中央公論社、1970年、新装版1983年
改訂版 『聖徳太子 勝鬘経義疏、維摩経義疏(抄)』(共訳注)、中央公論新社:中公クラシックス、2007年
改訂版 『聖徳太子 法華義疏(抄) 上宮聖徳法王帝説、付 十七条憲法』(共訳注)、中公クラシックス、2007年
『日本思想大系2 聖徳太子集 勝鬘経義疏』(築島裕らと共校注)、岩波書店、1975年。新装版「原典日本仏教の思想 1」、1991年
『勝鬘経 勝鬘経義疏』(訳注解説)、世界聖典刊行協会、1999年
『浄土論註 曇鸞』(大谷光真共訳著)、大蔵出版〈佛典講座23〉、1987年、新装版2003年
著作集 編集
『早島鏡正著作集 〈全15巻〉』、世界聖典刊行協会、1992-1996年
初期仏教のさとり
初期仏教の実践と展開
浄土教思想論
日本仏教と民衆化
親鸞の仏教観
親鸞入門
正信偈の世界
仏典と現代
ゴータマ・ブッダ
仏弟子の詩
歎異抄(現代語訳・解説)
道を仰ぐ 講演編1
往生浄土 講演編2
釈尊から親鸞へ 講演編3
仏教と社会生活 法話・聞思編
論文 編集
CiNii>早島鏡正
INBUDS>早島鏡正
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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B3%B6%E9%8F%A1%E6%AD%A3
キサー・ゴータミーの話は、中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫、p.108に簡単に紹介されている
http://mujintou.net/houwa1.htm
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、
遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を
歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞
きつけ、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。…
釈尊はこう答えました。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことの
ない家から」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれる
と思い、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ませんでした。
しかし人生の無常ということを知り、出家して後にさとりを得たのでした。
参考:
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書(『仏教説話大系』12、すずき出版)
キサー・ゴータミーの話は、中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫、p.108に簡単に紹介されている
http://mujintou.net/houwa1.htm
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、
遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を
歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞
きつけ、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。…
釈尊はこう答えました。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことの
ない家から」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれる
と思い、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ませんでした。
しかし人生の無常ということを知り、釈尊の最初の女の弟子になった。
参考:
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書(『仏教説話大系』12、すずき出版)
冒頭にNAM…がありさえすればいい
これは発話時に鼻が開く魔法の音韻
デカルトとブッダ
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 (中村元訳『ブッダのことば』)
九一六 われは考えて、有るmūlaṃ papañcasaṃkhāyā, ti Bhagavā mantā asmīti sabbam uparundhe. yā kāci taṇhā ajjhattaṃ, tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe. この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(mantā)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると、〈mantā asmī ti〉を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andersen and Helmer Smith)もそのように区切っている。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeln hier im Sondern, Unterscheiden, Ich bin's, der denkt muss gänzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantāを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantāを gerund と解する)」という訳が成立する。
〔わたくしは、後者のように gerund に解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所(Sn. 1040)で mantā na lippati を paññāya na lippati と解されているからである(Pj. p.588)。〕
どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。
しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。
デカルトとブッダ
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 (中村元訳『ブッダのことば』)
九一六 われは考えて、有るmūlaṃ papañcasaṃkhāyā, ti Bhagavā mantā asmīti sabbam uparundhe. yā kāci taṇhā ajjhattaṃ, tāsaṃ vinayā sadā sato sikkhe.
この原文の解釈はむずかしい。一つの解釈は、「考えて(mantā)制する(uparuddhe)」と、つづけて解釈することである。しかし語順を考えると、〈mantā asmī ti〉を一つのまとまった句とみなすほうが順当であり、校訂出版者(Dines Andersen and Helmer Smith)もそのように区切っている。そうだとすると、ここでは哲学的に重要な問題を提供する。ノイマンの訳によると、Das Wurzeln hier im Sondern, Unterscheiden, Ich bin's, der denkt muss gänzlich sein entrodet.「わたしは考えるものとして有る(mantāを主格と解する)」、あるいは「わたしは、考えて(=考えるから)有る(mantāを gerund と解する)」という訳が成立する。
〔わたくしは、後者のように gerund に解するほうが良い、と思う。そのわけは、他の箇所(Sn. 1040)で mantā na lippati を paññāya na lippati と解されているからである(Pj. p.588)。〕
どちらにしても、「われ考う。故に、われ有り」(cogito ergo sum)に対応する問題が意識されているのである。
しかし文句が似ているとしても、近代西洋と古代の仏教とのあいだには、確然たる相違があった。近代西洋におけるその表現は、自我の確立をめざす第一歩であった。しかし古代のインド仏教では、分裂・対立した自我は、むしろ制し、滅ぼさるべきものであった。
NHKスペシャル ブッダ 大いなる旅路 | NHK名作選(動画他)
http://www2.nhk.or.jp/archives/tab/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010448_00000
ブッダ大いなる旅路 「インド・輪廻する大地」(3/4)~仏教盛衰の2500年 バングラデシュのベンガル人仏教徒
https://youtu.be/Nerb03bMlWQ
チッタゴン:
https://youtu.be/PTjmD5rVarc
ブッダ大いなる旅路 「インド・輪廻する大地」(2/4)~仏教盛衰の2500年 1999年1月1日-3日放送
https://youtu.be/AaiPFHJHJ5w
キサーゴタミー:
https://youtu.be/y79i9WkppVM
現代経済学者は「二世」を変数に組み込めば動学化が完成すると考えるがこれでは不十分
「三世」を考える仏教は必要十分で的確
原子論、現象学、論理学、物理学を駆使する必要がある
輪廻思想に対抗しなければならないのだから
中村元の龍樹を読む限り説一切有部の「三世実有法体恒有」はイデアに近い話なんですが
ネットで色々調べるとどのサイトも原子論みたいな話なんですよね。
「ごまかさない仏教」でも佐々木、宮崎は原子論と似たようなものとして解釈してます。
現象界の原子論
現代経済学者は「二世」を変数に組み込めば動学化が完成すると考えるがこれでは不十分
「三世」を考える仏教は必要十分で的確
原子論、現象学、論理学、物理学を駆使する必要がある
輪廻思想に対抗しなければならないのだから
ライプニッツとスピノザからニーチェが生まれたように
ここから新しい思想が生まれる
以下、参考までに『仏教論争』(宮崎哲弥)の戦前の第一次仏教論争を扱った#2,3より
《木村[泰賢]は力説している 。仏教が描き出すものは 、カント的な整然とした客観的な
世界像などではなく 、ショーペンハウアー的な盲目的に生存を求める意志の表象とし
ての世界であると 。かくして 「識名色 」の根源に行 、さらには無明が想定される
こととなる 。木村はさらに一歩踏み込んで 、先にみたバラモン教 、ヒンドゥー教の
聖典リグ ・ヴェーダとの連関性も示唆している 。
「況んや 、前にも述べたごとく 、無明 - 行 - 識の系列は梨俱吠陀の創造讃歌以来の
縁起観の形式であったとすれば 、背景思想の関係からしても 、この系列を度外視し
得ないものがあったにおいてをや 」 ( 「事実的世界観 」第五章三節 )
「梨俱吠陀 」とはリグ・ヴェーダの音写だ 。》#2
《[一般的には、あるいは宇井伯寿の説では]無明は無知なのだ 。宇井において 、ブッダの
根本思想を知らぬことが無明なのである 。だが …
木村(泰賢)は 『原始仏教思想論 』附録の反論文 「縁起観の開展 」の 「上 」において 、
一見奇妙な論法で反駁して…
仏出でたる後の無明はそれでよしとしても 、出でざる以前の無明は少なくも 、それだけ
では説明することの出来ぬ欠点を伴って来よう 」と難じた ( 「縁起観の開展 」上二節 ) 。》#3
以下、参考までに『仏教論争』(宮崎哲弥)の戦前の第一次仏教論争を扱った#2,3より
《木村[泰賢]は力説している 。仏教が描き出すものは 、カント的な整然とした客観的な
世界像などではなく 、ショーペンハウアー的な盲目的に生存を求める意志の表象とし
ての世界であると 。かくして 「識名色 」の根源に行 、さらには無明が想定される
こととなる 。木村はさらに一歩踏み込んで 、先にみたバラモン教 、ヒンドゥー教の
聖典リグ ・ヴェーダとの連関性も示唆している 。
「況んや 、前にも述べたごとく 、無明 - 行 - 識の系列は梨俱吠陀の創造讃歌以来の
縁起観の形式であったとすれば 、背景思想の関係からしても 、この系列を度外視し
得ないものがあったにおいてをや 」 ( 「事実的世界観 」第五章三節 )
「梨俱吠陀 」とはリグ・ヴェーダの音写だ 。》#2
《[一般的には、あるいは宇井伯寿の説では]無明は無知なのだ 。宇井において 、ブッダの
根本思想を知らぬことが無明なのである 。だが …
木村(泰賢)は 『原始仏教思想論 』附録の反論文 「縁起観の開展 」の 「上 」において 、
一見奇妙な論法で反駁して…
「…仏出でたる後の無明はそれでよしとしても 、出でざる以前の無明は少なくも 、それだけ
では説明することの出来ぬ欠点を伴って来よう 」と難じた ( 「縁起観の開展 」上二節 ) 。》#3
道元の映画でキサーゴータミーの逸話が再現されていた
r over ‘secondary’ doctrine at the expense of ‘primary’ exterior and interior actions is wasteful diversion. James’ view that, as a philosophy, pragmatism ‘unstiffens our theories’ (1902, p. 415) is a kin to Ma¯dhyamika Buddhist deconstructionist talk of using s ´unyata, ‘emptiness’,as‘the antidote for all dogmatic views’ (Candrakirti 1979, pp. 150–1; see also Williams 1990, p. 70). James compares the Absolutist Idealism of Continental Europe, exemplied by Descartes and Kant, with the more empirical British tradition exemplied by Locke and Hume: The Continental schools of philosophy have too often overlooked the fact that man’s thinking is organically connected with his conduct. It seems to me that the chief glory of the English and Scottish thinkers is to have kept the organic connection in mind. The guiding principle of British philosophy has in fact been to have kept the organic connection in view. The guiding principle of British philosophy has in fact been that every difference must make adifference, every theoretical difference somewhere issue in a practical difference, and that the best method of discussing points of theory is to begin by ascertaining what practical difference would result from one alternative or the other being true . . . the principle of pragmatism. (1902, pp. 425, 427) While at rst sight this position points to Hume, there are also Buddhist parallels. James’ point that ‘man’s thinking is organically connected with his conduct’ parallels the Buddhist idea that practical reasons need to be grounded in inner meditation (sama¯dhi). Of the Dhammapada’s opening words that ‘mind precedes all things; all things have mind foremost, are mind-made’, Hammalawa Saddhatissa writes that ‘here we have the key to Buddhist ethics, and in fact to the whole teaching, for Buddhism is essentially a ‘‘mind culture’’. Any improvement or retrograde step must occur initially in the mind of the person concerned, whether it proceeds to external manifestations immediately or at a later date, so that the importance of being aware of [i.e. mindfulness of] and of controlling, one’s thoughts is continually stressed’ (1970, p. 28). James’ characterisation of ‘menticulture’ comes to mind: being that ‘self-control attained by the Japanese through their practice of the Buddhist discipline’, thereby undercutting ‘the divided self’. James’ holistic vision is not of a static Absolute but of a dynamic pluralistic universe. He denies that the world can be explained in terms of any absolute force or scheme mechanistically determining the interrelations of things or events. Instead, he holds that the interrelations are just as real as the things themselves: Without being one throughout, such a universe is continuous. Its members interdigitate with their next neighbours in manifold directions and there are no clean cuts between them anywhere . . . Our ‘multiverse’ still makes a ‘universe’; for every part, tho’ it may not be in actual or immediate connection, is nevertheless in some mediated connection with every other part however remote, through the fact that each part hangs together with its very next neighbour in inextricable interfusion. (1909, p. 254)
「一次」の外部および内部の行動を犠牲にして「二次」の教義を超えることは、無駄な転換です。哲学として、実用主義は「私たちの理論を無駄にする」(1902、p。415)というのは、すべての教義的見解のための解毒剤としての「虚無」を使用することの仏教の解釈主義者の話への親族であるというジェームズの見解(Candrakirti 1979、pp。150-1; Williams 1990、p。70も参照)。ジェームズは、デカルトとカントによって例示された大陸ヨーロッパの絶対主義的理想主義を、ロックとヒュームによって例示されたより経験的な英国の伝統と比較します:大陸哲学学校は、人間の思考が彼の行動と有機的に関連しているという事実を見過ごしすぎています。私には、英語とスコットランドの思想家の主な栄光は有機的なつながりを心に留めておくことであったようです。英国哲学の指針となる原則は、実際には有機的なつながりを視野に入れているということです。英国哲学の指針となる原則は、実際にはあらゆる相違が相違を生じさせなければならず、理論的相違をどこかで実用上の相違として問題とし、理論的な点を議論する最善の方法は一つの代替から何が生じるかを確かめることから始めることであるまたは他の人は本当です。 。 。実用主義の原則です。 (1902、pp。425、427)一見したところこの位置はヒュームを指していますが、仏教の類似点もあります。 「人間の思考は自分の行動と有機的に結びついている」というジェームズの主張は、実践的な理由は内的瞑想に根ざしている必要があるという仏教の考えと一致している(sama¯dhi)。ダマパダの最初の言葉のうち、「心はすべてのものより優先されます。 Hammalawa Saddhatissaは、「ここに私たちは仏教倫理の鍵を握っています。実際、仏教は本質的に「心の文化」であるため、すべてのことを教えています」と書いています。 「改善」または「逆行」ステップは、それが即座にまたは後日に外部の徴候に進行するかどうかにかかわらず、関係者の頭の中で最初に行われなければならない。 ]とコントロールのマインドフルネスには、常に考えが強調されています(1970年、28ページ)。ジェームズの「メンタカルチャー」の特徴付けは頭に浮かびます。それは、「日本人が仏教の規律を実践することによって自制心が達成された」ということです。ジェームズの総体的なビジョンは、静的な絶対的なものではなく、動的な多元的な世界のものです。彼は、世界は物事や出来事の相互関係を機械的に決定するどんな絶対的な力や計画によっても説明できると否定している。その代わりに、彼は相互関係は物事自体と同じくらい現実的であると主張します:全体を通して一つであることなく、そのような宇宙は連続的です。そのメンバーは、マニホールド方向で隣人と噛み合い、どこにもきれいなカットはありません。 。 。私たちの「マルチバース」はまだ「宇宙」を作ります。それでも、すべての部分にとって、それは実際のまたは直接の接続ではないかもしれないが、他のすべての部分との仲介された接続ではあるが、それぞれの部分が隣接する隣接部分と密接に関係している。 (1909、p。254)
William James and Buddhism: American Pragmatism and the Orient
David Scott
https://dscottcom.files.wordpress.com/2017/03/buddhism-james.pdf
James,William1890PrinciplesofPsychology.London:Macmilllan,2vols.1892Psychology.NewYork:Faucet.
1902VarietiesofReligiousExperience.Repr.1963.London:Fontana.1908Pragmatism:ANewWayforOldWaysofThinking
.London:Longman,Green.1909APluralisticUniverse.London:Longman,Green.1912EssaysinRadicalEmpiricism
.London:Longman,Green.
心理療法家は仏教にどのような関心をもっているか?串崎, 真志文学部心理学論集, 5: 1-11 2011-03 http://hdl.handle.net/10112/7919 Departmental Bulletin Paper Textversion pub
https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/7919/1/KU-1100-20110300-01.pdf
その前に、西洋の心理学者と仏教のかかわりについて、簡単にふりかえっておく必要があるだろう(村本,1999)。その歴史は意外に古い。William Jamesは1912年に『宗教的経験の諸相』(The varieties of religious experience )の 最後で、わずかであるが仏教について肯定的に言及している。Sigmund Freud は宗教を神経症のひとつとみなして否定的であったが、Erich Fromm は 1957 年に鈴木大拙とRichard de Martino とともに「禅と精神分析」という画期的なシンポジウムを開いた。 Carl Jung はむしろ東洋思想に傾倒したといわれている。1929年に(仏教ではないが)道教の瞑想法である『太乙金華宗旨』(The secret of the golden fl ower)のドイツ語訳に対する注解を書き、1939年に鈴木大拙の『禅仏教入門』(An introduction to Zen Buddhism )に序文を書いた。晩年の1958年には久松真一と対談したが、残念ながらこれはすれ違いに終わったという(Muramoto,2002)。1970年代から80年代にかけては、人間性心理学・トランスパーソナル心理学の展開のなかで東洋思想が再評価され、精神的成長やスピリチュアリティに関する諸理論が提唱された時代である。そして1990年代は、「第二の盛り上がり」(村本,1999)を見せたといっていい。すなわち、仏教を実践しながら臨床と理論を説く人びとが現れたのである。Jon Kabat-Zinn (1990)、Mark Epstein (1995)、 David Brazier (1995,1998)、Polly Young-Eisendrath (1996)、 Jeff rey Rubin (1996)、 David Loy (1996) などがそうである。2000 年以降の流れもこの延長にある。そこでは日本と西洋の研究者の交流が再び盛んになっていることも特徴だろう。たとえば花園大学国際禅学研究所は、1999年に「禅と心理学の出会い」、2006 年に「Self and No-Self」(Mathers et al., 2009)という国際会議を開催した。龍谷大学「人間・科学・宗教オープンリサーチセンター」も、2002~2009年に「仏教と心理療法
春木は十牛図の牛飼い(私)をWilliam James のいう「主体としての自己」(subjective self )、探し求める牛を「客体としての自己」(objective self)と考えた(Haruki, 2004)。第六図において、「私」と牛は調和してひとつになるが(self regulation= 苦悩の解決)、主客が分かれているという考えがあるかぎり、再び同じ過程が繰り返されるだろうという。じっさい第七図で、「私」は達成されたその調和に満足しつつ、牛のことを完全に忘れることができないかもしれない。この問題を解消するために、第八図では私も牛も消えてしまうのだ、と説明する(Haruki, 2004, p. 103)。彼は(座禅という)身体技法によって、主客を超えた認識(=無我)にいたる道筋として十牛図をとらえている(ように思われる)。
Haruki, Y. (2004). Concepts of self regulation in the East and the West. In M. Blows, S. Srinivasan, J. Blows, P. Bankart, M. DelMonte, & Y. Haruki (Eds.), The rel e vance of the wisdom traditions in con tem po ra ry society: The challenge to psychology (pp.99-114). Delft, Netherlands: Eburon.
村本詔司(1999).深層心理学と仏教 季刊仏教,48,28-38,法蔵館
関係機関 各位 訃 報 早稲田大学名誉教授 春木豊(はるき・ゆたか)儀 ... (Adobe PDF) -htmlで見る
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2019年2月10日 ... 早稲田大学名誉教授 春木豊(はるき・ゆたか)儀 かねてより療養中のところ、2019 年2 月9. 日(土)午後 9 時 ...
春木豊 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/春木豊
春木 豊(はるき ゆたか、1933年 - )は、日本の心理学者。早稲田大学名誉教授。文学博士(早稲田大学)。 日本心理学会常務 ...
Title 心理療法家は仏教にどのような関心をもっているか? Author(s) 串崎 ... (Adobe PDF)
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はじめに. 西洋の心理療法家が仏教に寄せる関心は、こ ..... ここでは河合隼雄と春木豊 ..... DelMonte, & Y. Haruki (Eds. ), The.
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ここでは河合隼雄と春木豊. の見解を比較し、その ... 本稿の目的は十牛図の心理学的解釈の妥当性. を議論することではない。
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6 .十牛図に対する解釈の比較 ところで、十牛図は禅における自己探求の過程を示すものとして、さまざまな心理療法家の関心を集めてきた。ここでは河合隼雄と春木豊の見解を比較し、そのアプローチの特徴を考察してみたい(二人とも日本人だが英文で発表している)。郭庵の「十牛図」は第八図(円相)以降に特色があるといわれているので(柳田,1987)、その前後の図についてとりあげる。河合は第七図について、次のように説明する(Kawai, 1996)。一般的には人と牛が完全にひとつになった状態と理解されているが、「私の考えでは、自己はいまや牛としてではなく、その人を取り巻く外的な環境(external environment surrounding⦆the⦆person )と して現れている」(p. 42)。そして第八図についても、「これは簡単に言えば死の体験、絶対無(absolute⦆nothingness )である。この学派における実践で、人が望むことができる最高の状態(there⦆is⦆no⦆higher⦆state)である」(p. 43)という。彼は井筒俊彦の意識論や、西洋の錬金術の書である『哲学者の薔薇園』(Rosarium Philosophorum)に言及しながら、(ビジュアリゼーションによって)意識の深層をめざし、Jung のいう自己(=無我)にいたる道筋として十牛図をとらえている(ように思われる)。
Kawai, H. (1996). Buddhism and the art of psychotherapy. College Station, TX: Texas A & M University Press.
230 考える名無しさん[] 2021/02/12(金) 22:25:33.86 ID:0
天海により日本で始めて印刷・出版された大蔵経
> 天海は生前に日本での一切経(大蔵経)の印刷と出版を企図。
> 慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
> 天海によるこれらの経典の出版は日本の印刷文化史上、最も重要な業績の一つと言われている。
> 天海が作製させた膨大な木製活字(天海版木活字)は26万個以上が現存している。
水上文義 「天海版一切経木活字の特色」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/51/1/51_1_209/_pdf
キサー・ゴータミーの話は、中村元訳『尼僧の告白』岩波文庫、108頁に簡単に紹介されている
http://mujintou.net/houwa1.htm
あるとき、幼い男の子を亡くしたばかりのキサー・ゴータミーという名の女性が、
遺体を抱えたまま、「子供に薬を下さい、薬を下さい」 と、狂乱したように町中を
歩き回っておりました。ゴータミーは、たまたま舎衛国に来ておられた尊者の噂を聞
きつけ、釈尊のもとに行き、同じように薬を求めました。…
釈尊はこう答えました。
「よろしい、ケシの粒を持ってきなさい。ただしいまだかつて死人を出したことの
ない家から」。
これを聞いたゴータミーは釈尊がケシの粒から子供を生き返らせる薬を作ってくれる
と思い、あちこち探し回ったけれども、ついにこれを得ることが出来ませんでした。
しかし人生の無常ということを知り、釈尊の最初の女の弟子になった。
参考:
「法句経(ダンマパダ)」の注釈書(『仏教説話大系』12、すずき出版)
ブッダ大いなる旅路 「インド・輪廻する大地」(2/4)~仏教盛衰の2500年 1999年1月1日-3日放送
https://twitter.com/_luminous_woman/status/1386648349890138118?s=21
三密
さんみつ
仏教用語。秘密の三業(さんごう)(身(しん)・口(く)・意(い)によって行われる理想的行為)の意。すなわち身密・語密(口密)・意密(心密)の三で、おもに密教でいう。顕教(けんぎょう)では、凡人では推し測れない仏の三業をいうが、密教では、仏の三業は体(たい)・相(そう)・用(ゆう)の三大のなかの用大(真如(しんにょ)の働き)であって、衆生(しゅじょう)の三業もまたその隠された本性においては仏の三業とまったく同じであるとして三密という。
[小野塚幾澄]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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