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火曜日, 4月 23, 2013

カント『世界公民的見地における一般史の構想』(1784):メモ

                       (カント:インデックスリンク::::::
カント『世界公民的見地における一般史の構想』(1784)
Immanuel Kant, 1724年4月22日 - 1804年2月12日)
"Idee zu einer allgemeinen Geschichte in weltbürgerlicher Absicht"1784

柄谷はこの小論の第七命題の解説部分を進化論とつなげて論評した事がある*。『判断力批判』ともつなげている。無論『平和論』にもつながるし、『基礎づけ』などにも関連するだろう。名誉欲を歴史の推進力のひとつと考える結語も興味深い。
以下全部で九個ある命題を紹介したい。


カント再読 - 柄谷行人
http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-42.html
『判断力批判』においてカントが考えていたのは、実は、進化論の問題だった。いうまでもないが、進化論はダーウィン以前からあった。たとえば、ライプニッツも進化論的であった。カントはそれを批判的に吟味したのである。ついでにいうと、カントは『判断力批判』以後も、人間史(一般史)における「進化」の問題について、同様の観点から考えた。《ところで我々はこの場合に、作用する様々な原因の集合をエピクロス風の考えに従って、――諸国家は物質の微塵すなわち原子と同じく、偶然的な衝突に依って有りとある形態をとるが、これらの形態はまたもや新たな衝撃に依って破壊され、このような過程が何度となく繰返されたあげく、その形態を永く保持しうるような形態をいつかは偶然に獲得する(これはとうてい起こりそうもない僥倖である)、というふうに考えてよいのだろうか。それとも、自然は、この場合にも規則正しい経過を辿り、われわれ人類を導いて動物性という低い段階から人間性という最高の段階に到らしめ、しかもその方法としては、なるほど人間から無理取りしたにせよ、しかしもともと自然の意図に出づる巧みな手段を用い、こうして一見したところ野放図な無秩序のさなかに、自然が人間に与えた根源的素質を、極めて規則正しく開展する、というふうに考えてよいのだろうか》(「世界公民的見地における一般史の構想」)。

参照:https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/1889/4/KJ00000695373-00001.pdf
カントの法思想における歴史哲学の意義 福井徹也

(この論考はカント『人類史の憶測的起源』"Mutmaßlicher Anfang der Menschengeschichte"(1786)**と合わせて考察が進められていて興味深い。)

以下、カント『世界公民的見地における一般史の構想』より

第一命題
「被造物の一切の自然素質は、いつかは完全かつ合目的的に展開するように定められている」

第二命題
「人間(地上における 唯一の理性的被造物としての)においては、その理性の使用へと差し向けられた自然素質は、ただ類においてのみ、 個人においてではなく、完全に発展するべくさだめられている」

第三命題
「自然の欲したところは、人間がその動物的現存の機械的体制を越え出る一切のものをまったく自分自身から産出し、人間が自分自身 で、本能からは自由に、理性を通じて獲得したのではないような幸福あるいは完全性には関与しないことである」

第四命題
「自然が人類の素質の全てを展開させるという意図を実現するために用いる手段は、社会においてこれ らの素質のあいだに生じる敵対関係である。しかしながら、最後にはこの敵対関係が、これらの素質の合法則的秩序の原因となるかぎりにおいてであるが」

第五命題
「自然が人類にその解決を強要する最大の課題は、普遍的に法を司る公民的社会を設立することである。しかもこの社会には最大の自由があり、それゆえこれは、その成員がどこでも敵対関係Antagonismにありながらも他人の自由と共存しうるようにと、自由の限界をきわめて厳密に規定し保証する社会である」

第六命題
「この課題はもっとも困難であり、また人類によって最後に解決されるような課題である」

第七命題
「完成された公民的体制の設立という課題は、合法則的な外的な諸国家の関係の[設 立という]課題に従属しており、この課題の解決なくしては、解決されることはない。…道徳的に善である心情moralisch=gute Gesinnungに接ぎ木されていない善は,すべてまったくの見せかけで,外面だけで輝いている悲惨以外の何ものでもない。おそらく人類は,混沌とした状態にある国際関係から,私が語ってきたような仕方で抜け出すまで,こうした状態のままであろう」

第八命題
「人は全体としての人類史を自然の隠されたプランの遂行とみなすことができる。この隠されたプランとは、国内的に完全でありかつそのために対外的にも完全であるような国家体制  これは、そこでのみ自然が人類の人間性における一切の素質を充全に展開しつくすことのできる唯一の状態であるが〜を実現することである。…市民的自由が著しく侵害されるなら,必ずその不利益があらゆる産業Gewerbe,とりわけ商取引Handelにおいて感じられ,またさらにこれによって,対外的な国力の衰微も感じられる。……市民は,他人の自由と共存できる限り,自分自身の任意な仕方で幸福Wohlfahrtを求めるが,もし彼を妨害する者がいるならば,この者は一般の事業Betriebの活性を沈滞させ,これによってまた国力全体をも沈滞させることになる」

第九命題
「人類の完全な公民 的結合を目指している自然のプランにしたがって、一般的世界史をものしようという哲学的試みは、可能であるとみ なされるのみならず、こうした自然の意図を助長するものとみなされねばならない」

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柄谷がat+23,2015年1月で触れているのは、「人類の憶測的始元」 1786(岩波書店版全集14より)

ルソーとの比較
カインとアベルの話を聖書に依拠することでカントの方が本質を見ている、らしい


カントはこの「人類の歴史の憶測的な起源」という論文では、「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである[74]」と語るようになります。人間の悪の起源を問う弁神論の問いにたいして、カントは歴史哲学で答える…。

中山光文社解説本より



「カント全集」(岩波書店版)収録作品リスト | Philosophy Guides

https://www.philosophyguides.org/data/kant-complete-works/
 




19 件のコメント:


  1. カインとアベル - Wikipedia
    カインとアベルは、旧約聖書『創世記』第4章に登場する兄弟のこと。アダムとイヴの息子たちで兄がカイン(קַיִן)、弟がアベル(הֶבֶל)である。人類最初の殺人の加害者・被害者とされている。

    カインとは本来ヘブライ語で「鍛冶屋、鋳造者」を意味し、追放され耕作を行えなくなったカインを金属加工技術者の祖とする解釈も行われている。

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  2. 『永遠平和のために/啓蒙とは何か』(カント/中山 元 訳) - 光文社古典 ...
    www.kotensinyaku.jp/books/book03.html
    カント/中山 元 訳; 定価(本体648円+税); ISBN:75108-1; 発売日:2006.9.7 ... 啓蒙と は何か----「啓蒙とは何か」という問いに答える;

    世界市民という視点からみた普遍史の理念

    ; 人類の歴史の憶測的な起源; 万物の終焉; 永遠平和のために----哲学的な草案.

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  3. 子孫[編集]


    アベルの死を嘆くアダムとイヴ(ウィリアム・アドルフ・ブグロー画)
    カインの子孫であるトバルカインは「青銅や鉄で道具を作る者」と『創世記』第4章に記されている。また、トバルカインの異母兄弟であるヤバルは遊牧民、ユバルは演奏家の祖となった。さらに彼らの父であるレメクは戦士だったらしく「わたしは受ける傷のために人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。 カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」と豪語している。
    『ベオウルフ』に登場する魔人グレンデルはカインの末裔とされている。

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  4. カント『純粋理性批判』:メモ及び目次 の yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント 世界市民という視点からみた普遍史の理念 Note: 第三命題より yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント 自然は、人間が安楽に生きられるようにすることなどには、まったく配慮しなかったようである。人間がみずからの行動を通じて、安楽で幸せな生活に値するような存在になることが求められているのである。  これについては奇妙なことがある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のための土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、みずからの素質を完全に発達させる域にまで到達することができるのである。 Note: 定本トランスクリティーク195~6頁参照
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    yoji
    (14/03/16)

    カント『純粋理性批判』:メモ及び目次 の yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント 世界市民という視点からみた普遍史の理念 Note: 第三命題より yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント 自然は、人間が安楽に生きられるようにすることなどには、まったく配慮しなかったようである。人間がみずからの行動を通じて、安楽で幸せな生活に値するような存在になることが求められているのである。  これについては奇妙なことがある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のための土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、みずからの素質を完全に発達させる域にまで到達することができるのである。 Note: 定本トランスクリティーク195~6頁参照

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  5. カント『純粋理性批判』:メモ及び目次 の カント.Kant,Immanuel,  ❶J.18,30@, 283,296@,297/❷M.14-7(-の批判),195/❸T.3,4(新-派,101),4(-派マルクス主義者),17,53(-主義者, ショーペンハウエル),59(:ラカン,フロイト),60(-の「転回」),63@,73(新-派,リッケルト),155(-的転回),197(新-左派),197(-派倫理学),199(新-派,マールブルク派,ヘルマン・コーヘン),200(-の言葉),247(-的),480(-的転回) /❹A.29-30@,63-4@,67-71,96-7@,153 /❺H.194/◉W.102@(179@,181@,『道徳形而上学原論』*),180@(「たんなる理性の限界内での宗教」),181-4,221- 2@,223@(『世界公民的見地における一般史の構想』)/◎N.17,25,  「永遠平和のために」,❸T.198/◉W.222@,  『活力測定考』,❸T.91,92@,  『啓蒙とは何か』,❸T.154,155@,195@,196@ ,198@,199@,478@/❹A.69-70@/◉W.223@(『世界公民的見地における一般史の構想』),  『純粋理性批判』,❸T.53@,67,82@,84,200?/❹A.29-30@,63-4/❺H.147/◎N.17,25,  『実践理性批判』,❸T.67,84,176@,181?,184,185@,  『視霊者の夢』,❸T.17(『形而上学の夢によって解明されたる-』,74),74〜78,76@,  『人生論』,❸T.144@,  『人倫の形而上学』,❸T.337@,  『一七六五年・一七六六年冬学期講義案内』,❸T.63,  『たんなる理性の限界内での宗教』,◉W.180@  『道徳形而上学原論』,❸T.3@,181?@,197@,339@/◉W.102@,179@,181@/◎N.25@,  『人間学』,❸T.207@,335@,  『判断力批判』,❶J.30@,296@/❷M,16@/❸T.61,64〜66,65@,66@,70,73,120,146,334@/❹A.31@,99@101-2@/❺H.148,  『プロレゴメナ』,❸T.63,90@,468@,  『論理学』,「緒論」,❸T.63@,   『〜書簡』,❸T

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  6. カント『純粋理性批判』:メモ及び目次 の yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント    ◆第九命題        ◇自然の計画  自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある。だからこの計画にしたがって人類の普遍史を書こうとする哲学的な試みが可能であるだけではなく、これは自然のこうした意図を促進する企てとみなす必要がある。 Note: 世界共和国へ223頁 yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント    ◆第八命題    ◇自然の隠された計画  人類の歴史の全体は、自然の隠された計画が実現されるプロセスとみることができる。自然が計画しているのは、内的に完全な国家体制を樹立することであり、しかもこの目的のために外的にも完全な国家体制を樹立し、これを人間のすべての素質が完全に展開される唯一の状態とすることである。 Note: 世界共和国へ223頁
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    yoji
    (14/03/16)

    カント『純粋理性批判』:メモ及び目次 の yojisekimoto shared from 永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) by カント ところで他国との関係のもとにある国家が、法の定められていない状態、戦争だけが支配する状態から抜けだすには、理性的に考えるかぎり、次の方法しか残されていないのである。すなわち国家も個々の人間と同じように、法の定めにしたがわない未開な状態における自由を放棄して、公的な強制法に服し、つねに大きくなりながら、ついには地上のすべての民族を含むようになる国際国家を設立するほかに道はないのである。  しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このことを決して望まず、それを一般的には正しいと認めながらも、個々の場合には否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。 Note: 世界共和国へ222頁参照
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  7. 2012年09月26日
    本 『純粋理性批判』(カント著)(その6、第二章 純粋理性のアンチノミー(前半))
    篠田英雄(しのだ・ひでお)訳、岩波文庫





    本書87ページから163ページまでを読み終えた。(中巻の前半分が読み終わった。)ここに有名な四つの「アンチノミー」が展開されている。四つのアンチノミー、誰もが一度ならず、何度も何度も考えてしまうもの。









    「世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。」のか否か。


     《先験的理念の第一の自己矛盾 正命題 世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。(中略)反対命題 世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない、即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。》(P103)









    「世界においては、合成された実体はすべて単純な部分から成っている」のか否か。


     《先験的理念の第二の自己矛盾 正命題 世界においては、合成された実体はすべて単純な部分から成っている、また世界には単純なものか、さもなければ単純なものから成る合成物しか実在しない。(中略)反対命題 世界におけるいかなる合成物も単純な部分から成るものではない、また世界には、およそ単純なものはまったく実在しない。》(P115)










    「現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある」のか否か。


     《先験的理念の第三の自己矛盾 正命題 自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。(中略)反対命題 およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。》(P126)











    「絶対に必然的な存在者であるような何か或るものが実在する。」のか否か。


     《先験的理念の第四の自己矛盾 正命題 世界には、世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対に必然的な存在者であるような何か或るものが実在する。(中略)反対命題 およそ絶対に必然的な存在者などというものは、世界のうちにも世界のそとにも、世界の原因として実在するものでない。》(P134)










    「一切の条件から解放して」…。


     《つまり理性は、経験の規則に従って常に条件付きにしか規定せられ得ないところのものを一切の条件から解放して、その無条件的全体性を把握しようとするのである。》(P143)










    「純粋経験論の原理」と「純粋理性の独断論」。


     《我々は上述した四個の反対命題の主張を通じて、その考方がまったく一様でありまたその格律〔主観的原理〕が完全に一致していることを認め得る、即ちそれは純粋経験論の原理である、そしてこの原理は、世界における現象の説明についてばかりでなく、世界そのものの先験的理念の解決についてもまた認められるのである。これに反して四個の正命題の主張は、現象の系列内において格律もまた一通りではない。私は、正命題を反対命題から区別するところの本質的漂微にかんがみて、これらの正命題を純粋理性の独断論と名づけようと思う。》(P146)








    http://komesen.sblo.jp/article/58519251.html

    「プラトン主義」と「エピクロス主義」との対立。


     《これが即ち〔正命題の側の〕プラトン主義と、〔反対命題の側の〕エピクロス主義との対立にほかならない。》(P151)









    「人間理性」の「自然的本性」と「経験論的」な「反対命題」。


     《人間の理性は、その自然的本性から言って建築術的〔体系構成的〕である、―換言すれば、人間理性は一切の認識を一つの可能的体系に属するものと見なし、従って現に有するところの認識を、なんらかの体系において他の認識と関連させることを少なくとも不可能にしないような原理しか承認しない。ところが上述の反対命題は、認識の建築物〔体系〕の完成をまったく不可能にするようなたぐいのものである。かかる経験論的命題に従うと(中略)。つまりこれらの反対命題は、決して第一者なるものを許容しないし、またこの建物の絶対的基礎になり得るような始まりを決して認めようとしないから、かかる前提のもとでは、認識の完全な建物はまったく不可能である。》(P154)










    「脳裡にのみあ」る。


     《要するにこれらの宇宙論的課題の解決は、もともと経験においてはまったく不可能なのであるから、諸君にしてもかかる対象がどのような性質をもっているかは不確実であるなどと言えるわけはない。この対象はまったく諸君の脳裡にのみあり、それ以外のどこにも与えられているのではないからである。》(P162)







    カント、世界中の「哲学者」・「思想家」から批判されているが、そうした批判の意味を理解するには、少なくとも本書を理解する必要があるだろうと思う。





    『純粋理性批判 中』 目次概略

    第二部 先験的弁証論 緒言 第一篇 純粋理性の概念について 第二篇 純粋理性の弁証的推理について 第一章 純粋理性の誤謬推理について 第二章 純粋理性のアンチノミー 第三章 純粋理性の理想 先験的弁証論・付録

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  8. ニュートン ライプニッツ ロック

    外在的   内在的    経験主義的


        カント   カント

    カントは時により立場を使い分けるが
    ライプニッツこそ中庸にいる

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  9. と「純粋理性の独断論」。「純粋経験論の原理」


     《我々は上述した四個の反対命題の主張を通じて、その考方がまったく一様でありまたその格律〔主観的原理〕が完全に一致していることを認め得る、即ちそれは純粋経験論の原理である、そしてこの原理は、世界における現象の説明についてばかりでなく、世界そのものの先験的理念の解決についてもまた認められるのである。これに反して四個の正命題の主張は、現象の系列内において格律もまた一通りではない。私は、正命題を反対命題から区別するところの本質的漂微にかんがみて、これらの正命題を純粋理性の独断論と名づけようと思う。》(P146)








    http://komesen.sblo.jp/article/58519251.html

    「プラトン主義」と「エピクロス主義」との対立。


     《これが即ち〔正命題の側の〕プラトン主義と、〔反対命題の側の〕エピクロス主義との対立にほかならない。》(P151)

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  10. カントはこの「人類の歴史の憶測的な起源」という論文では、「自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである[74]」と語るようになります。人間の悪の起源を問う弁神論の問いにたいして、カントは歴史哲学で答えるのです。

    中山光文社

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  11. 柄谷がat+23,2015年1月で触れているのは、「人類の憶測的始元」

    ルソーとの比較
    カインのアベルの話を聖書に依拠することでカントの方が本質を見ている、らしい

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  12. http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html
    カントにおける平和と革命
    柄谷行人

     カントが平和に関して述べたのは、『永遠平和のために』(以後『永遠平和』一七九五年)が最初ではない。それより一〇年ほど前の『世界市民的見地における普遍史の理念』(以後『普遍史』一七八四年)が最初である。が、平和論にのみ関心をもつ者は、そこまで遡ろうとはしない。実際、平和論に関しては、『永遠平和』が『普遍史』よりはるかに緻密な著作であることは疑いない。しかし、そこでは、後者にあった幾つかの重要なポイントが抜け落ちている。そして、それには理由がある。


    《完全な市民的体制を達成するという問題は合法則的な対外的国家関係という問題に左右されるので、この後者の問題を別にして解決されるものではない》(第七命題)。


    《自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざるをえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込むのである》(第七命題)。
    憲法の無意識131頁

    カント全集14

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  13. 思想
    2015年第12号
    思想の言葉
    http://www.iwanami.co.jp/shiso/1100/kotoba.html
    2015年 第12号


    カントにおける平和と革命

    柄谷行人

     カントが平和に関して述べたのは、『永遠平和のために』(以後『永遠平和』一七九五年)が最初ではない。それより一〇年ほど前の『世界市民的見地における普遍史の理念』(以後『普遍史』一七八四年)が最初である。が、平和論にのみ関心をもつ者は、そこまで遡ろうとはしない。実際、平和論に関しては、『永遠平和』が『普遍史』よりはるかに緻密な著作であることは疑いない。しかし、そこでは、後者にあった幾つかの重要なポイントが抜け落ちている。そして、それには理由がある。

     カントは『普遍史』で、サン・ピエールの「永久平和論」(一七一三年)、そして、それを取り上げたルソーの「抜粋」および批判的コメント(一七六一年)について論じた。サン・ピエールがヨーロッパ諸君主の国家連合体を構想したのに対して、ルソーは、君主らの合意にもとづく国家連合の限界を指摘した。たとえそれによって平和が実現されたとしても、牢獄の平和のようなものだ。真の平和を実現するためには、先ず、諸個人の社会契約によって人民主権にもとづく国家を形成すること、さらに、それらの諸国家が契約によって連合体を形成することが必要である、と彼は考えた。彼はそれについて具体的な構想を述べなかった。ただ、「幾多の革命以外の方法では、国家連合が樹立されることはけっしてない」と結論したのである。同時に、彼はそこで躊躇せざるをえなかった。革命はそれ自体戦争を引き起こすからである。では、それは望ましいことなのか、恐るべきことなのか。ルソーの論考はそこで終わっている。

     カントが『普遍史』で考えたのは、この問題だといってよい。ルソーの場合、先ず国民主権にもとづく国家を作る革命があり、その後に諸国家の連合がなされると想定されている。しかし、カントの考えでは、そもそも一国の革命そのものが、他国との関係を離れて考えられない。《完全な市民的体制を達成するという問題は合法則的な対外的国家関係という問題に左右されるので、この後者の問題を別にして解決されるものではない》(第七命題)。ここで、カントがいう「完全な市民的体制」とは、ルソー的な市民革命を意味している。そして、カントが見ていたのは、そのような革命が起こったときどうなるか、という問題である。

     これは机上の論ではなかった。まもなく起こったフランス革命では、実際に周囲の諸国の干渉が生じたのである。たとえば、一七九一年八月に、オーストリア皇帝とプロイセン国王は共同声明(ピルニッツ宣言)で、武力干渉を辞さないことを表明した。これは威嚇にすぎなかったが、それに対抗して、ジロンド派がオーストリアに宣戦布告した。国外とつながる貴族の反革命運動を一挙に封じるために、戦争に訴えたのである。さらに、一七九三年一月にルイ一六世が処刑されたあとには、「第一次対仏大同盟」が結成された。これは本格的な軍事的干渉である。そこには、オーストリア、プロイセン、スペインだけでなく、イギリスが入っていた。同年六月にロベスピエール派がジロンド派を倒して権力を握り「恐怖政治」を強いたが、これもむしろ、外からの「恐怖」によって生じたというべきであろう。そのことは、カントが『普遍史』で予想していたことであった。

     彼が『永遠平和』を書き始めたのは、フランスと周辺諸国との戦争が起こっていた時期である。この中でナポレオンが軍人として頭角をあらわし始めた。以後、この戦争はいわゆるナポレオン戦争に転化したのである。カントが、『普遍史』で考えた問題を『永遠平和』で論じなかった理由は明らかである。それはもはや市民革命の存立条件を問うような時期ではなかった。彼の眼前には、市民革命が一国で起こったために生じた戦争があった。ゆえに、『永遠平和』で、彼はもっぱら諸国家連盟の構想を論じたのである。

     『永遠平和』はその後に大きな影響を与えた。が、最初にいったように、それは「平和論」に限定される傾向がある。実は、カントが『普遍史』で指摘した問題は、平和論よりもむしろ革命論として重要なのである。というより、この二つは本来切り離せない問題なのだ。カントが述べたのは、つぎのようなアンチノミーである。「完全な市民的体制」を創るような革命は一国だけでは不可能である。諸国家が連合する状態が先になければならない。一方、諸国家の連合が成立するためには、それぞれが「完全な市民的体制」となっていなければならない。では、どうすれば、この循環論を脱することができるか。

     私の考えでは、この問題を「世界同時革命」によって解こうとしたのが、マルクスである。《共産主義は、経験的には、主要な諸民族が《一挙に》、かつ同時に遂行することによってのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的な発展とそれに結びついた世界交通を前提としている》(『ドイツ・イデオロギー』)。実際、その後に起こったヨーロッパ革命(一八四八年)は、いわば「世界同時革命」であった。それらはそれぞれ敗北したけれども、外国からの干渉はなかった。

     以後も、マルクスやバクーニンは「世界同時革命」を追求し、「インターナショナル」(国際労働者協会)を結成した。しかし、「世界同時革命」は二度と起こらなかった。また、各国の運動もナショナリズムによって分断されてしまった。そのためにインターナショナルは解散し、その後結成された第二インターナショナルも第一次大戦では、各国の社会主義者が自国の戦争を支持したため消滅してしまった。大戦の末期に社会主義革命が起こったが、それはロシア一国においてだけであった。そのとき、フランス革命で生じたことがくりかえされた。外からの軍事的干渉がただちに起こった(たとえば、日本もシベリアに出兵し駐留した)。国家の揚棄を目指した社会主義革命は、「対外的関係」によってねじ曲げられ、国家の強化と「恐怖政治」に帰結したのである。

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  14.  一方、第一次大戦後には、国際連盟が創られた。これはカントの流れを汲むと見なされているが、事実上、サン・ピエールの構想した諸国家連合に類するものだ。すなわち、帝国主義諸国家の連合体である。たとえば、信託統治などは植民地支配の新版にすぎない。ゆえに、国際連盟は第二次大戦を阻止することができなかった。第二次大戦後にできた国際連合も、根本的には同じである。要するに、カントの『普遍史』において切り離せないものであった平和と革命が、以後切り離され、そのために平和と革命のいずれもが損なわれてしまったのである。

     『普遍史』にあり『永遠平和』で抜けてしまったもう一つのポイントは、「自然」という観点である。前者において、カントは、人類が世界共和国にいたるという過程の必然性を、隠微な「自然の計画」として見た。一見すると、彼は「神」というかわりに「自然」といったかのように見える。しかし、このとき、カントはそれまで宗教的な摂理として語られてきたものを唯物論的に見なおす観点をもちこんだのである。彼が最も重視したのは、人間の自然的素質としての「非社交的社交性」である。これが敵対・戦争をもたらすとともに、それを越えた平和状態をも作り出す。《自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざるをえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込むのである》(第七命題)。

     『永遠平和』でも、カントは「人間の本性にそなわる邪悪」を強調してはいる。しかし、そこでは、邪悪はせいぜい利己心のようなものである。《自然は、互いの利己心を通じて諸民族を結合する》。その意味で、「商業精神」が平和をもたらすといってよい。が、一九世紀以後の戦争は、君主の恣意ではなく、むしろ「商業精神」にこそもとづいている。つまり、根本的に資本主義経済から来るものだ。『永遠平和』におけるカントの見方が非現実的に見えるのは、むしろそのためである。

     一方、『普遍史』における「非社交的社交性」は、表層的な心理の問題ではない。それを見るためには、われわれは後期フロイトの精神分析を必要とする。前期のフロイトの考えは、『夢解釈』のような仕事に典型的に示されている。夢において、現実に満たせなかった欲望が実現されるが、それは〝検閲〟を受けて歪曲される。つまり、フロイトは心的現象を快感原則とそれを制限する現実原則の二元性から考えていた。

     たとえば、第一次大戦の始まったころ、フロイトはオーストリアの戦争を支持していた。戦争が予期した以上に長引き、悲惨な事態をもたらしたため、戦争に対する楽観的な見方を捨てたが、それでも、戦争が終われば、人々は自然に元に戻るだろうと考えていたのである。彼の考えでは、戦争における野蛮さは、ふだんは抑圧されていた「感情生活」が、国家そのものがその抑制を解き放ったために露出したものにすぎない。したがって、《われわれは、この盲目性が、興奮が醒めると同時に消えさるのを希望することができるのだ》(「戦争と死に関する時評」、『フロイト著作集5』人文書院)。つまり、戦争において一時的に欲望が抑制から解き放たれるが、その後は平常に戻る、というのがフロイトの予測であった。が、第一次大戦後にこのような考えを修正せざるを得なかった。それは戦争神経症の患者らに出会ったからである。彼らにとって、戦争は次第に「消えさる」どころではなかった。毎夜戦争の悪夢を見て飛び起きていたのだから。

     戦争神経症者の反復強迫症状に遭遇したフロイトは、快感原則と現実原則という二元性の根底に「死の欲動」を想定するにいたった。《反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる》(「快感原則の彼岸」、『フロイト著作集6』人文書院)。こうして、彼は快感原則および現実原則よりも根源的なものとして「死の欲動」を見出した。それは、人が社会的・有機的である状態から、無機的な状態に戻ろうとする欲動である。それは外に向けられたときに、攻撃欲動となる。つぎに、それが内に向けられると、今度は攻撃欲動を抑制する「超自我」となる。これは、親あるいは社会の規範のように外部から来るのではなく、内部から来る。その意味で「自律的」である 。

     フロイトの考えでは、攻撃欲動(自然)を抑えることができるのは、他ならぬ攻撃欲動(自然)なのである。それは、カントの文脈でいえば、非社交性の発露である戦争が、それ自身を抑制するように「国際連盟を結ぶ方向へ追い込む」ということである。先に私は、カントと深く関連する出来事が二つ、第一次大戦後に生じたことを指摘した。ロシア革命と国際連盟である。が、ここでそれに、後期フロイトの精神分析を付け加えたい。

     フロイトは一九三三年に、どうすれば戦争を廃棄できるかというアインシュタインの問いに対してこう述べた。《文化的な態度と、将来の戦争が及ぼす影響に対する当然の不安、これら二つの契機が働いて、近いうちに戦争遂行に終止符が打たれるであろうというのは、ひょっとすれば単にユートピア的な希望ではないかもしれません。どのような道を経て、あるいは回り道を経てそれが実現するのかは、私たちは推し量ることができません。にもかかわらず、文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだといえます》(「戦争はなぜに」、『フロイト全集20』岩波書店)。
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  15. 《自然は人間を、戦争をとおして、また戦争へ向けてのけっして縮小されない過度の軍備、さらにまったく平和状態にある国家でさえも結局はそれぞれ内心抱かざるをえない苦境をとおして、最初は不十分ながらいろいろな試みをさせるが、最終的には、多くの荒廃や国家の転覆を経て、さらに国力をことごとく内部から消耗させた後に、これほど多くの悲惨な経験をしなくても理性ならば告げることのできたこと、つまり野蛮人の無法状態から抜け出して国際連盟を結ぶ方向へ追い込むのである。ここで国家はすべて、最小の国家でさえも、自国の軍隊や自国の法律上の判決からではなく、もっぱらこの大きな国際連盟(アンフィクチオン同盟 Foedus Amphictyonum)すなわち統一された権力と統一された意志の法に則った決断から、自国の安全と権利を期待することができる。》(カント全集第14巻より、『世界市民的見地における普遍史の理念』もしくは『普遍史』一七八四年、第七命題)。

    憲法の無意識131頁

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  16. http://ittokutomano.blogspot.jp/2016/03/kant_23.html
    2.「世界公民的見地における一般史の構想」(1784)

     本論文において、カントは、人類史とは人間が自らの「理性」を進化させる過程であると主張する。

     そして言う。その結果、社会はやがて、「各自の自由が他者の自由と共存しうる社会」へといたるのであると。

     以下、本論文を構成する9つの命題を紹介しよう。

     第1命題は、人間本性の目的論的発展について。

    「およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、いつかはそれぞれの目的に適合しつつ、あますところなく開展するように予め定められている。」

     第2命題は、人類は個ではなく類において進化するという命題。

    「人間(地上における唯一の理性的被造物としての)にあっては、理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは、類においてであって、個体においてではない。」

     第3命題は、人間は理性によって幸福を得るという命題。


    「自然が人間に関して欲しているのは、次の一事である、すなわち――人間は、動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ、また人間が本能にかかわりなく、彼自身の理性によって獲得した幸福、或いは成就した完全性以外のものには取り合わない、ということである。」

     第4命題は、敵対関係こそが長い目で見て社会の合法的秩序を作り出すという命題。

    「自然が、人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。」

     第5命題は、各自の自由が他者の自由と共存しうる社会こそが自然の最高の意図であるという命題。

    「自然が人類に解決を迫る最大の問題は、組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである。組織において最大の自由が保たれ、従ってまたその成員のあいだに敵対関係が普ねく存在するが、しかしこの自由の限界が厳密に規定せられ、かつ守られていて、各自の自由が他人の自由と共存し得るような社会においてのみ、自然の最高の意図――すなわち、自然が人類に与えたところの一切の素質の開展が達成され得るのである。」

     第6命題は、しかし人間は、どうしても支配者を必要としてしまう動物だという困難についての命題。

    「如上の問題は、 最も困難であると同時に、また人類によって最後に解決するべき課題である。この課題をちょっと思いみるだけでも現前する困難は、――人間は、同類であるところの他の人間のあいだに生活する場合には、支配者を必要とする動物だということである。」

     第7命題は、人類はやがて国際連合を作り出さねばならないという命題。

    「かかる国際連合においては、どの国家も――従ってまた最小の国家といえども、その安全と権利とを、自国の威力や法的判決に求めるのでなくて、この大規模な国際連合(Foedus Amphictyonum)に、すなわち合一せる威力と合一せる意志とによって制定せられた法律に従うところの決定とに期待することができるだろう。」

     この命題については、後の『永遠平和のために』においてより詳細に論じられることになる(カント『永遠平和のために』のページ参照)。今日の国連が、このカントの構想に多くを負っていることはよく知られていることだ。

     第8命題は、人類は国内外において完全な組織を創設しなければならないとする命題。

    「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程とみなすことができる、ところでこの場合に自然の計画というのは、――各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである。」

     第9命題は、「一般世界史」の試みは、自然の意図の実現促進の企てであるという命題。

    「自然の計画の旨とするところは、全人類の中に完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画に則って一般世界史を著わそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるを得ない。」

     哲学的な「一般世界史」は、世界史の出来事を単に叙述することとは異なっている。

     哲学的な「一般世界史」、それは、歴史とは人間が理性を展開させるプロセスにほかならないことを洞察するものである。
    
 だからこそ、この洞察は、そのような歴史の営み(自然の意図)を促進するのに寄与するであろう。
    そうカントは言うのだ。

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  17. 『ヘンリー・ミラー再読』:「長池講義」 69 - livedoor Blog(ブログ)
    http://blog.livedoor.jp/hida_2005/archives/51429296.html

    〈世界共和国は、それに対して諸国家が主権を放棄するところに成立する。カントがいう「永遠平和」とは、たんに国家の間に戦争がない状態ではなくて、諸国家が揚棄された状態なのだ。しかも、カントはそれを実現することが歴史の目的であると仮定してよいというのである。

    《人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠された計画を遂行する過程と見なすことが出来る。ところで、この場合に自然の計画というのは、――各国家をして、国内的に完全であるばかりでなく、さらにこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質をあますところなく展開し得る唯一の状態だからである》(「世界公民的見地における一般史の構想」(第八命題)『啓蒙とは何か』)。

    《自然の計画の旨とするところは、全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画にそって一般世界史をあらわそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるをえない》(第九命題、同全)

     このような世界共和国あるいは公民的連合が成立するには、それぞれの国家において或る決定的な変化がなければならない。それは、その内部において、各人が他人を手段としてのみならず同時に目的として扱うような経済システムが実現され、「その目的のために対外的にも完全であるような国家組織」となることである。したがって、国家の揚棄と資本主義の揚棄は別々にあるのではない。こうして、カントの倫理学は、たんに道徳的次元にとどまりえず、政治的・経済的なものとして、歴史的に実現されるべき理念(コミュニズム)をはらまずにいないのである。逆にいえば、十九世紀以後、コミュニズムはもっぱら政治・経済的思想としてあらわれたが、それは道徳性に根ざしており、またそうでなければその存在理由はない。〉(『定本 柄谷行人集3』P198~199)

    7:06 午後
    yoji さんは書きました...
    『ヘンリー・ミラー再読』:「長池講義」 177 - livedoor Blog(ブログ)
    http://blog.livedoor.jp/hida_2005/archives/51535973.html
     ところで、2006年4月に岩波新書として出版された『世界共和国へ』においては、「死の欲動」に関する考察はほとんどカットされている。このために、なぜ「世界共和国」なのかということは理解できても、そこへ向かう必然性ともいうべきものが示されていないと解釈されて、あまり説得力がないというような読後感が生じているのかもしれない。
     とはいえ、『世界共和国へ』においても次のように記されている。
    〈(カントは)人間の本性(自然)には「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。しかし、これは個々の人間というよりも、むしろ国家の本性というべきものです。カントが永遠平和のための国家連合を構想したのは、そのような国家の本性を消すことはできないという前提に立ってです。しかも、彼は、国家連合が人間の理性や道徳性によって実現されるとはまったく考えなかったのです。それをもたらすのは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのです。〉(P220)

    〈カントがいう「自然の隠微な計画」はけっして美しいものではありません。それは人間の善意によってよりも、むしろ悪意や攻撃性を通して実現されるからです。その意味で、われわれはどんな悲惨な状態にあっても、絶望する必要はないということになります。しかし、たとえ究極的に「自然の狡知」が働くとしても、われわれはこのまま座視してよいわけではない。人類にとって致命的なカタストロフがおこる前に、われわれはカント自身がそうしたように、実現可能なところから始めるほかないのです。〉(P224)

     「自然の隠微な計画」とはこの一節の直前に引用されたカントの『世界公民的見地における一般史の構想』の第八命題に出てくるのだが、それは合わせて引かれた第九命題にも深く関っている。すなわち、

    〈人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程と見なすことができる、ところでこの場合にいう自然の計画というのは、――各国家をして国内的に完全であるばかりではなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである(第八命題)
    自然の計画の旨とするところは、全人類のなかに完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画にそって一般世界史をあらわそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるをえない(第九命題)〉(篠田英雄訳)

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  18. http://ir.tokyo-kasei.ac.jp/metadb/up/kasei/2011_k_0514.pdf
    ポープとカント - 東京家政大学
    ir.tokyo-kasei.ac.jp/meta-bin/mt-pdetail.cgi?flm...tlang...
    タイトル (ヨミ) ポープ ト カント 掲載誌情報 東京家政大学研究紀要 人文科学・自然科学 Vol.25 page.19-26 (1985) 本文へのリンク http://ir.tokyo-kasei.ac.jp/metadb/up/ kasei/2011_k_0514.pdf 著者 馬場, 喜敬 著者 (ヨミ) ババ, ヨシユキ 著者の別表記 Baba, ...

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  19. 天界の一般自然誌と理論(てんかいのいっぱんしぜんしとりろん)とは ...
    kotobank.jp/word/天界の一般自然誌と理論-1187973
    世界大百科事典 第2版 - 天界の一般自然誌と理論の用語解説 - I.カントの一連の自然 哲学に関する論説中もっとも著名なものであり ... 天界の一般自然誌と理論 てんかいの いっぱんしぜんしとりろん Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels.
    イマヌエル・カント - Wikipedia
    ja.wikipedia.org/wiki/イマヌエル・カント
    イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、 プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授で ... 1755年 、(正規に出版されたものとしては)最初の論文『Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels(天界の一般的自然史と理論)』で太陽系は星雲から生成され たと論証した。
    カント全集
    www.fuchu.or.jp/~d-logic/jp/books/kant.html
    Allgemeine Naturgeschichte und Theorie des Himmels, 1755. ... このタイムラグの おかげで、カントの宇宙論は、自然科学の世界ではカントよりずっと大物のラプラスの 宇宙論(『宇宙の体系』、1796)と時代的に重なり、共通点も少なく ...

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