http://www.freeassociations.org/
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
定義
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状
〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、
そうでない場合は受動と解する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3d3
要請
一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキ)される
ことができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アフィキ)されることも
できる。 …
二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を、したがってまた事物の
表象像を保持することができる。…
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3post
定理
定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精
神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて
必然的に働きを受ける。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1
定理一系
系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、
反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1c 要請の訳語に仮定を採用しているのはなるほどと思った。
(自然)物 (観念)
商品 経済政策=感情
経済=身体 政治=精神
猫が資本主義的で、犬が封建的だろう
ペットは治療だから症状と逆の処方になる
漱石等神経症には猫が効く
ただし漱石は犬派だったらしい
例えば、複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。
価格 価値
政策 原理
神学
資本[身体] 国民 [精神]国家
アソシエーション
自由 友愛 平等
(エチカ)+[モナドロジー]:
1実体
/\
[神] 系列 (無限) [論理]
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/
\ (悪)/___2b様態\____\(善) /
\(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/
\/ 憎しみ \努力/(愛) \/
/\対象/ /[調和]\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
/ 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然
[動物] \ 4理性 / [魂]
[欲求] \[基礎]/ [表象]
[精神] \ (徳)/ [多様性]
[神の国] \/ [モナド]
5自由
価値 価格
政策 原理
神学
資本[身体] 国民 [精神]国家
アソシエーション
自由 友愛 平等
(エチカ)+[モナドロジー]:
1実体
/\
[神] 系列 (無限) [論理]
/_無限定_\
________/_2a属性__\________
\知 抑制 / 小←/\→大 (完全性)至福/
\ (悪)/___2b様態\____\(善) /
\(受動)悲しみ_/\_喜び (能動)/
\/ 憎しみ \努力/(愛) \/
/\対象/ /[調和]\ \認識/\
所産的自然/物体__欲望__観念[反省]\
/ 延長 (身体)3感情/(精神) 思惟 \能産的
神/__[襞]_\___\/_第三種認識____\自然
[動物] \ 4理性 / [魂]
[欲求] \[基礎]/ [表象]
[精神] \ (徳)/ [多様性]
[神の国] \/ [モナド]
5自由
価値と価格とは解釈次第で逆転する
価格 交換価値
使用価値 価格
でよい。
937 :03/07/16 22:31
今日、早稲田の古本屋で宇野弘蔵著作集全10巻+別冊1巻get!
帰り重くてしんどかった。
…
とりあえずさっきから別巻のエッセイをパラパラめくってますが、
「犬・猫・人間-猫は封建的である-」は笑わせてもらいました。
ペットの話と見せかけて、実は当時の日本資本主義論争をおちょくってますねw
940 :03/07/17 13:13
>>939
宇野弘蔵は、講座派と労農派の両方に批判的だったから
経済の現状分析に、そのまま資本論を使うと言うやり方に対して
資本論で書かれた経済体制と違うから、日本の経済は半封建的
(講座派)と言う論理や、何れ日本の経済も、資本論で書かれた
通りの経済体制(労農派)になると言う論理の、どちらにも組みし
ない立場だったから
人間関係では、宇野は労農派に近かったけどね
http://mimizun.com/log/2ch/eco/1001356927/
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_shohonsyugironso.htm
長島伸一続・千曲河畔にて
第19回 犬と猫、どちらが資本主義的?
著名な経済学者として知られた宇野弘蔵。1930年代は、日本の学会で「封建論争=日本資本主義論争」が活発に繰り広げられていた時代だった。封建論争とは、日本の資本主義の構造や性格をめぐって、講座派と労農派の間で行われた論争のこと。両派互いに譲らず、論点も多岐にわたったが、きわめて大雑把にいえば、次のようになる。
封建派とも呼ばれた講座派は、遅れて資本主義化した戦前の日本社会は、封建的ないし半封建的性格をもつと考えた。農業における地主・小作関係をみれば、ヨーロッパの先進資本主義国のような近代性を備えていない、と。
対する労農派は、確かに遅れている面はあるが、それは後発国に特有なもので、時が経てば解消される封建遺制に過ぎない。だから、日本の資本主義は、近代前期的ないし前資本主義的性格をもつ、というのが労農派の主張であった。
宇野弘蔵のエッセイは、この論争の渦中で書かれている。それによると、猫は封建的、犬は資本主義的であるという。なぜか。猫をつれて散歩する人はいないが、散歩は資本主義の産物の一つである。また、「或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くことから人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である」。映画で犬が活躍することはあっても、猫はスクリーンになじまない。蓄音機の前に犬を配したビクターの登録商標も、猫に変えては様にならない。
エッセイの前段は、多少のユーモアを交えながら、大略、以上のような説明が進んでいく。猫好きの読者なら、多分、反論もあるのではないか。――犬はしつけをすれば飼主によく従う。主従関係が徹底していた封建社会にぴったりだが、猫は個人主義的で独立性が高い。猫を飼うのも、そういう近代的な面が魅力だからだ、と。
しかし、このエッセイのおもしろさは、予想される反論とは無関係に、日本資本主義論争に関わった講座派と労農派の重鎮たちを、猫派と犬派に分けて、両者が見事に対応していることを「発見」している点にある。講座派の堺利彦は猫好きだった。労農派の山川均、荒畑寒村、向坂逸郎は大の犬好きである。「先年来の封建論争で最初はかなり山田(盛太郎)君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派なのを飼われてからのことだ。……ことによると山田盛太郎君なども最近まで猫を飼っていたのかも知れない」。
最後はかなり強引な推量である。講座派の重鎮山田は、猫好きのはずだ、と。それにしても、大論争の当事者たちを猫好き・犬好きの二派に分け、論争の立場と平仄があっているとまで主張しているのが、馬鹿馬鹿しくもおもしろい。
ところで、封建論争に宇野自身は関わらなかった。つまり、講座派にも労農派にも与しなかった。日本資本主義の現状分析は、『資本論』を直接の基準にして行うことができる――それが両派に共通の認識であったが、宇野はその点に方法論的な無理を感じとったからである。のちに、その考えが三段論法に結実するが、この随筆でも既に、両派と一線を画した宇野の本領が現れている。エッセイは「僕の処には犬も猫もいる」というオチで閉じられているからである。オチとしては「僕の処には犬も猫もいない」という方がよさそうであるが、座り心地を多少の犠牲にしても事実をとったところに、宇野の性格が垣間見えるような気がする。
Copyright (C) 1998 Shinichi Nagashima. All Rights Reserved. 前回 | 目次 | 次回
猫が資本主義的で、犬が封建的だろう
ペットは治療だから症状と逆の処方になる
柄谷は子犬を悪口に使うくらいだから猫派だろう
漱石等神経症には猫が効く
ドゥルーズも猫派だろう
ドゥルーズと柄谷は反対のような気がするので
柄谷は犬派かも
宇野のユーモア溢れるエッセイについては以下のサイトがまとまっている。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_shohonsyugironso.htm
第19回 犬と猫、どちらが資本主義的?
「講座派の堺利彦は猫好きだった。労農派の山川均、荒畑寒村、向坂逸郎は大の犬好きである。」
やはり、猫が資本主義的で、犬が封建的だろう
ペットは治療だから症状と逆の処方になる
柄谷は子犬を悪口に使うくらいだから猫派だろう
漱石等神経症には猫が効く
ドゥルーズも猫派だろう
ドゥルーズと柄谷は反対のような気がするので
柄谷は犬派かも
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(『『資本論』と私』271-272頁)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載、『『資本論』と私 』宇野 弘蔵 (著), 櫻井 毅 御茶の水書房 (2008/01)に再録。
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(『『資本論』と私』271-272頁)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載、『『資本論』と私 』宇野 弘蔵 (著), 櫻井 毅 御茶の水書房 (2008/01)に再録。
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載、『『資本論』と私 』宇野 弘蔵 (著), 櫻井 毅 御茶の水書房 (2008/01)に再録。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
スピノザ『エチカ』第三部序言
感情の起源および本性について
序 言
感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。
宇野弘蔵
「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「 経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、東北帝国大学
研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、東北帝国大学
研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、東北帝国大学
研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働・と
解し、然らざる場合には受・働・と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、東北帝国大学
研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,
太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物に
ついて論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。初出は1935年、
東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。」
封建論争は都市と農村の論争だった
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3d3
定義
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、そうでない場合は受動と解する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3post
要請
一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキ)されることができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アフィキ)されることもできる。 この要請あるいは公理は第二部定理一三のあとにある要請一ならびに補助定理五と七に基づく。
二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を(これについては第二部要請五を見よ)、したがってまた事物の表象像を保持することができる。表象像の定義については第二部定理一七の備考を見よ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1
定理
定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1c
定理一系
系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3d3
定義
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状
〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、
そうでない場合は受動と解する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3post
要請
一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキ)される
ことができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アフィキ)されることも
できる。 …
二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を、したがってまた事物の
表象像を保持することができる。…
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1
定理
定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精
神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて
必然的に働きを受ける。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1c
定理一系
系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、
反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
要請の訳語に仮定を採用しているのはなるほどと思った
経済政策=感情
(観念)
商品経済=身体 政治=精神
商品経済 経済政策
感情
(観念)
商品経済 政治
身体 精神
(自然)物 (観念)
商品経済 経済政策=感情
=身体 政治=精神
(自然)物 (観念)
商品 経済政策=感情
経済=身体 政治=精神
(自然)物 (観念)
商品 経済 感情
経済=身体 政策=精神
(政治)
(自然)物 (観念)
商品 経済政策=感情
経済=身体 政治=精神
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する
小論理学目次と対応させたメモが資本論と私に載っている
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ 『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
本来の対応はもっと細かい。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ 『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
索引
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ 『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ 流通論/ \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
本来の対応はもっと細かい。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ 『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル
段階論はスピノザ、ということか?
ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ 『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ 流通論/ \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
本来の対応はもっと細かい。
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ /\
/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\ /______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ 流通論/ \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ /\
/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\ /______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ 流通論/ \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ 『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ /\
/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\ /______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
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(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/__利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ 分配論 /__\ 宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ 利潤 地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/__資本__\ 経済原論 /資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ 流通論/ \ / \ 生産論 / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/__商品__\/__貨幣__\ /資本の生産過程 /資本の流通過程
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
宇野弘蔵のみだと、
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/ 利子 \
/______\
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/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
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/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
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宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html
■宇野弘蔵、1973b『宇野弘蔵著作集2 経済原論Ⅱ』岩波書店.
□目次
□序
□序論
□第一篇 流通論
□1章 商品
□2章 貨幣
□3章 資本
□第二篇 生産論
□1章 資本の生産過程
□□1節 労働生産過程
□□2節 価値形成増殖過程
□□3節 資本家的生産方法の発展
□2章 資本の流通過程
□3章 資本の再生産過程
□□1 単純再生産――資本の再生産と労働力の再生産
□□2 拡張再生産――資本家的蓄積の現実的過程
□□3 社会的総資本の再生産過程――価値法則の絶対的基礎
□第三篇 分配論
□1章 利潤
□□1 一般的利潤率の形成――価値の生産価格への転化
□□2 市場価値と市場価格(市場生産価格)――需要供給の関係と超過利潤の形成
□□3 一般的利潤率の低落の傾向――生産力の増進と景気循環
□2章 地代
□3章 利子
□□1 貸付資本と銀行資本
□□2 商業資本と商業利潤
□□3 それ自身に利子を生むものとしての資本
□□4 資本主義社会の階級性
□「資本は、商品経済に特有なるものであって、むしろ生産過程と直接には関係なく、貨幣の特殊な使用方法から発生するのである。その最初の出現をなす商人資本はそのことを明らかに示している。商人の手にあっては、資本は勿論生産手段ではなく、貨幣や商品からなるのである。事実、資本は、貨幣を前提とし、貨幣は商品を前提として始めて解明されるのである」(17:流通論序)
□「商品は、種々異ったものとして、それぞれ特定の使用目的に役立つ使用価値としてありながら、すべてに一様に金何円という価格を有しているということからも明らかなように、その物質性質と関係なく、質的に一様で単に量的に異るにすぎないという一面を有している。商品の価値とは、使用価値の異質性に対して、かかる同質性をいうのである」(18:商品)
□「かくして商品は、マルクスのいわゆる一般的価値形態を展開する。あらゆる商・・22 品の価値を表現する商品は、一般的等価物となるわけである。かくて一般の商品所有者はその所有する商品の価値をすべてかかる一般的等価物の種々なる量の使用価値によって表現することになるのであるが、しかしこの場合はすでに等価物の使用価値は必ずしも直接消費の対象をなすものとしてではない。それと同時にまた当然のことであるが、一般的等価物は等価物商品として最も適した使用価値を有する商品に帰着することになる。金、銀が、そして結局金が、かかる一般的等価物として固定され、貨幣となるのである」(22-23:商品)
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ ☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\ ☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\ ☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ /\
/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\ /______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ ☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\ ☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\ ☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
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/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
宇野弘蔵のみだと、
/\
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/ 利子 \
/______\
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/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
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/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということか?
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html
■宇野弘蔵、1973b『宇野弘蔵著作集2 経済原論Ⅱ』岩波書店.
□目次
□序
□序論
□第一篇 流通論
□1章 商品
□2章 貨幣
□3章 資本
□第二篇 生産論
□1章 資本の生産過程
□□1節 労働生産過程
□□2節 価値形成増殖過程
□□3節 資本家的生産方法の発展
□2章 資本の流通過程
□3章 資本の再生産過程
□□1 単純再生産――資本の再生産と労働力の再生産
□□2 拡張再生産――資本家的蓄積の現実的過程
□□3 社会的総資本の再生産過程――価値法則の絶対的基礎
□第三篇 分配論
□1章 利潤
□□1 一般的利潤率の形成――価値の生産価格への転化
□□2 市場価値と市場価格(市場生産価格)――需要供給の関係と超過利潤の形成
□□3 一般的利潤率の低落の傾向――生産力の増進と景気循環
□2章 地代
□3章 利子
□□1 貸付資本と銀行資本
□□2 商業資本と商業利潤
□□3 それ自身に利子を生むものとしての資本
□□4 資本主義社会の階級性
□「資本は、商品経済に特有なるものであって、むしろ生産過程と直接には関係なく、貨幣の特殊な使用方法から発生するのである。その最初の出現をなす商人資本はそのことを明らかに示している。商人の手にあっては、資本は勿論生産手段ではなく、貨幣や商品からなるのである。事実、資本は、貨幣を前提とし、貨幣は商品を前提として始めて解明されるのである」(17:流通論序)
□「商品は、種々異ったものとして、それぞれ特定の使用目的に役立つ使用価値としてありながら、すべてに一様に金何円という価格を有しているということからも明らかなように、その物質性質と関係なく、質的に一様で単に量的に異るにすぎないという一面を有している。商品の価値とは、使用価値の異質性に対して、かかる同質性をいうのである」(18:商品)
□「かくして商品は、マルクスのいわゆる一般的価値形態を展開する。あらゆる商・・22 品の価値を表現する商品は、一般的等価物となるわけである。かくて一般の商品所有者はその所有する商品の価値をすべてかかる一般的等価物の種々なる量の使用価値によって表現することになるのであるが、しかしこの場合はすでに等価物の使用価値は必ずしも直接消費の対象をなすものとしてではない。それと同時にまた当然のことであるが、一般的等価物は等価物商品として最も適した使用価値を有する商品に帰着することになる。金、銀が、そして結局金が、かかる一般的等価物として固定され、貨幣となるのである」(22-23:商品)
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産
第二節 拡張再生産
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
マルクスのカント的4分割からも後退している。
宇野は意図的に生産論と流通論の名を逆にしているのか?
http://nam-students.blogspot.jp/2013/11/blog-post_29.html
マルクス『資本論』 絶対的5〜9、 商品と
__________相対的10〜13__貨幣〜3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|
| と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1
| 1〜6 |1、2、3| 〜16 一般的|貨幣|
|_二資本の流通過程__|_一資本の生産過程__|
| |拡大|単純|時間| | 資本の |
|資本の回転|再生産 ・|_労 賃_|蓄積過程 |
|7〜17 社会的総資本|17〜20|21〜25|
|_____|18〜21|出来高__|_____|
| | 生産過程49|資本|労働|
| 利潤 | | 競争の |_三位一体48
| 1〜20| | 外観50|土地| |
|____三資本主義的生産の総過程への転化|__|
| 絶対・|差額| 資本家|労働者
| 利子 |_地代_・| 生産51|_諸階級52
|21〜36|37〜47| 分配と |地主| |
|複利24_資本主義的・|_____|__|__|
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/blog-post_29.html?m=0
「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが,この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば,「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されているということでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだにおいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離されえないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「ともに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476)。」
5つ星のうち 4.0 宇野弘蔵へのスピノザとヘーゲルからの影響, 2013/12/3
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レビュー対象商品: 『資本論』と私 (単行本)
スピノザからマルクスを見た先駆者に宇野弘蔵がいる。
宇野は東北大学で教えている時、ライプニッツ研究者の河野与一と知り合い、スピノザを経済学に応用する視座を得た(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁)。本書ではそれを物語る1935年の短文が始めて再録、紹介されている。
「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
ただし、宇野の戦後の『経済原論』(原理論)はヘーゲル論理学に対応する。
ヘーゲル『小論理学』目次と対応させたメモが本書冒頭に載っている。
以下、恣意的に図解すると、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ 概念論 /\ &
/推論\ ☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\ /______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\ ☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\ ☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ /\
/推論\ 概念論 /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ /\
/ \ 分配論 /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\ /______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の \
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\ 流通論 /\ /\ 生産論 /\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\ /_生産過程_\ /_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
原理論はヘーゲル、段階論はスピノザ、ということだろう。
段階論における現状との矛盾を維持する態度が再評価されるべきだ。
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スピノザからマルクスを見た先駆者に宇野弘蔵がいる。
宇野は東北大学で教えている時、ライプニッツ研究者の河野与一と知り合い、スピノザを経済学に応用する視座を得た(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁)。本書ではそれを物語る1935年の短文が始めて再録、紹介されている。
「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
ただし、宇野の戦後の『経済原論』(原理論)はヘーゲル論理学に対応する。
ヘーゲル『小論理学』目次と対応させたメモが本書冒頭に載っている。
以下、恣意的に図解すると、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\<概念論> /\ &
/推論\☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断\/______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ <概念論>/\
/推論\ /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断\/______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\/______\/______\
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
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/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
原理論はヘーゲル、段階論はスピノザ、ということだろう。
段階論における現状との矛盾を維持する態度が再評価されるべきだ。
スピノザからマルクスを見た先駆者に宇野弘蔵がいる。
宇野は東北大学で教えている時、ライプニッツ研究者の河野与一と知り合い、スピノザを経済学に応用する視座を得た(宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁)。本書ではそれを物語る1935年の短文が始めて再録、紹介されている。
「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照
序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
ただし、宇野の戦後の『経済原論』(原理論)はヘーゲル論理学に対応する。
ヘーゲル『小論理学』目次と対応させたメモが本書冒頭に載っている。
以下、恣意的に図解すると、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\<概念論> /\ &
/推論\☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\/______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ <概念論>/\
/推論\ /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\/______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\/______\/______\
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
原理論はヘーゲル、段階論はスピノザ、ということだろう。
段階論における現状との矛盾を維持する態度が再評価されるべきだ。
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第一節 商品の二要素
第二節 交換価値=価値形態
第三節 価値形態=価格
第二章 貨幣
第一節 価値??としての貨幣
第二節 流通手段としての貨幣
第三節 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
a 労働過程
b 生産過程における労働の二価値
c 生産???社会????
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第一節 資本の価値と流通費用
第二節 資本の??
第三節 ??価値の流通
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
a
b
c
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
a
b
c
第二章 地代
第一節 差額地代とその資本形態としての第一?形態
第二節 差額地代???形態
第三節 絶対地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
a
b
c
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第一節 商品の二要素
第二節 交換価値=価値形態
第三節 価値形態=価格
第二章 貨幣
第一節 価値??としての貨幣
第二節 流通手段としての貨幣
第三節 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
a 労働過程
b 生産過程における労働の二価値
c 生産???社会????
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第一節 資本の価値と流通費用
第二節 資本の??
第三節 ??価値の流通
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)
a
b
c
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
a
b
c
第二章 地代
第一節 差額地代とその資本形態としての第一?形態
第二節 差額地代???形態
第三節 絶対地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
a
b
c
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
a
b
c
第3編 現実形態論
第1章 利潤
第1節 剰余価値の利潤への転化
A 費用価格と利潤
B 利潤率
C 利潤率上昇への資本家の努力
第2節 価値の生産価格への転化
A 部門間の資本競争―一般的利潤率と生産価格
B 『資本論』の価値と生産価格―総計二命題
C 生産価格の諸問題
a 価値表現と価値尺度の現実形態
b 生産価格と需要・供給
c 市場価値と市場生産価格
第3節 利潤の資本への転化―資本蓄積の現実形態
第2章 地代
第1節 差額地代
A 差額地代の第一形態
B 差額地代の第二形態
C 差額地代の実際
第2節 絶対地代
第3節 資本主義と土地私有制度
第3章 利子
第1節 貸付資本
A 商業信用
B 銀行信用
C 貸付資本と産業資本
第2節 商業資本
第3節 利子生み資本
A 利潤の企業利潤と利子への分割
B 利子生み資本と株式会社制度
C 資本-利子、労働-賃金、土地-地代 国民所得
第1編 流通形態論―商品・貨幣・資本
第1章 商品
第1節 商品の二つの要因―価値と使用価値
第2節 価値の形態と使用価値の形態
A 単純な価値形態
B 拡大された価値形態
C 一般的価値形態
第3節 貨幣形態―貨幣による価値表現、価格
第2章 貨幣
第1節 商品価値の尺度
第2節 流通手段―商品流通と貨幣流通
第3節 資金
A 貨幣蓄積
B 支払手段
C 資金と商品流通の分立
第3章 資本
第1節 商人資本形式
第2節 金貸し資本形式
第3節 産業資本形式
第2編 生産関係論
第1章 資本の生産過程
第1節 労働生産過程
A 労働の二重性
B 生産に必要な労働時間―社会的必要労働
C 必要労働と剰余労働
第2節 価値形成過程と価値増殖過程
A 価値形成過程
B 価値増殖過程
C 可変資本と不変資本 剰余価値率
第3節 資本の生産力の発展
A 絶対的剰余価値の生産
B 相対的剰余価値の生産
a 協業 b 分業 c 機械制工業
C 賃金形態
第2章 資本の流通過程
第1節 資本の循環
第2節 資本の費用と回転期間
A 生産費用と流通費用
B 生産期間と流通期間
C 流動資本と固定資本
第3節 剰余価値の流通 遊休資金
第3章 資本の再生産過程
第1節 資本の単純再生産と拡大再生産
第2節 資本の蓄積過程―景気変動の必然性
A 横への拡大―資本構成に変化のない資本蓄積
B 縦への深化―資本構成に変化のある資本蓄積
C 景気変動の必然性
第3節 社会的総資本の生産と流通―再生産表式
A 資本の単純再生産の表式
B 資本の拡大再生産の表式
C 第二編の総括と第3編との関連
第3編 現実形態論
第1章 利潤
第1節 剰余価値の利潤への転化
A 費用価格と利潤
B 利潤率
C 利潤率上昇への資本家の努力
第2節 価値の生産価格への転化
A 部門間の資本競争―一般的利潤率と生産価格
B 『資本論』の価値と生産価格―総計二命題
C 生産価格の諸問題
a 価値表現と価値尺度の現実形態
b 生産価格と需要・供給
c 市場価値と市場生産価格
第3節 利潤の資本への転化―資本蓄積の現実形態
第2章 地代
第1節 差額地代
A 差額地代の第一形態
B 差額地代の第二形態
C 差額地代の実際
第2節 絶対地代
第3節 資本主義と土地私有制度
第3章 利子
第1節 貸付資本
A 商業信用
B 銀行信用
C 貸付資本と産業資本
第2節 商業資本
第3節 利子生み資本
A 利潤の企業利潤と利子への分割
B 利子生み資本と株式会社制度
C 資本-利子、労働-賃金、土地-地代 国民所得
『原論』第2篇「生産論」は,第1章「資本の生産過 程」,第2章「資本の流通過程」,第3章「資本の再生産過程」という構成 になっているが,まずその第1章,第1節「労働生産過程」において,『資 本論』第1巻,第3篇冒頭での「労働過程論」を積極的に評価しつつ,そ れに加えて前述のように〈労働の二重性論〉を社会的形態にかかわらない 超歴史的概念として強調している。そしてつづく第2節「価値形成増殖過 程」において〈価値法則〉の中心的な規定である「労働時間によって価値 が決定される」という核心が述べられる。つまり「価値法則の必然的根拠」 というわけである。そして,こうして与えられた商品価値の決定原理を基 礎に,資本が労働力を商品として用いて価値増殖を実現する機構が展開さ れ,第3章,第3節の「再生産表式」において「価値法則の絶対的基礎」 が明らかにされる構成になっている5)。
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第一節 商品の二要素
第二節 交換価値=価値形態
第三節 価値形態=価格
第二章 貨幣
第一節 価値??としての貨幣
第二節 流通手段としての貨幣
第三節 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
a 労働過程
b 生産過程における労働の二価値
c 生産???社会????
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第一節 資本の価値と流通費用
第二節 資本の??
第三節 ??価値の流通
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 剰余価値の利潤への転化
第二節 一般的利潤率の形成 市場価格と市場価値(市場生産価格)
a ??わる部門の利潤形成の??
b ??価格の生産価格の
c 生産価格と????
第三節 一般的利潤率の低落の傾向
a 生産力の増殖による??利潤の追求
b 一般的利潤率の??????????
c 資産家的生産??????矛盾の展開
第二章 地代
第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
第二節 差額地代の第一形態
第三節 絶対地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
a 流通資本の資本化
b 商業利潤と商業資本の倒錯性
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値??としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産???社会????
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成 市場価格と市場価値(市場生産価格)
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と????
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第一形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値??としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産???社会????
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成 市場価格と市場価値(市場生産価格)
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と????
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第一形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値??としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産???社会????
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の??
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第一形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値??としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産???社会????
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の??
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第一形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値??としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産???社会????
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の??
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第二形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値尺度としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産的労働の社会的規定
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の??
・関係 第三節 ??価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄の?現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a ??わる部門の利潤形成の??
・反照の判断 b ??価格の生産価格の
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の??
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による??利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の??????????
・必然性の推論 c 資産家的生産??????矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第二形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
ヘーゲル 宇野弘蔵
論理学 経済原論 メモ 1947-
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要素
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 価値形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値尺度としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二価値
・根拠 c 生産的労働の社会的規定
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の回転
・関係 第三節 剰余価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄積の現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a 異なる部門の利潤形成の形態
・反照の判断 b 商品価格の生産価格の転化
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の競争
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による超過利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の傾向的低下の法則
・必然性の推論 c 資産家的生産 矛盾の両面 矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第二形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2209/1/ronso0660400320.pdf
NAMs出版プロジェクト: 定本柄谷行人集目次(付『世界共和国へ』)+総合索引
http://nam-students.blogspot.jp/2011/12/blog-post_01.html#table
宇野弘蔵.UNO Kozo,❸T.31,391,399(「世界資本主義の世界的構造」),441,498,502,504,
『恐慌論』,❸T.502,
『経済原論』,❸T.502,
「資本主義の成立と農村分解の過程」,❸T.504
NAMs出版プロジェクト: 『世界史の構造』索引:作業中
http://nam-students.blogspot.jp/2010/10/blog-post_7190.html#refaa
宇野弘蔵.UNO Kozo,「恐慌論」(著作集5),302^493,(405-407),411(「自由主義」)
宇野弘蔵著作集別巻 (1974年8月16日発行 岩波書店)73〜75頁
犬・猫・人間
ーー猫は封建的であるーー
谷崎潤一郎も大体そういうふうにいっていたと思うが(1)、猫は人前では決してフザケないものである。客が来ると主
人の方は見向きもしないようなふりをして客の膝の上にあがって愛想をする。また主人の方でもさも御迷惑なものを
飼っていますといった態度でこれをつまんで障子の外に出したりする。猫をつれて散歩に出かける主人はない。勿論
猫は散歩の連れとして多少小さ過ぎるという欠点は否定出来ない。が、しかし散歩には向かないような小さなのでも
犬なら連れて歩く人かある。どうも猫には元来そういう性質が欠けているのではないかと思う。そしてそれは猫が封
建的であることの有力な論拠をなすものである。というのは散歩は資本主義の産物の一つであるからだ。わが国でも
西洋文明が入って開化するまでは二人連れで散歩というようなことはなかったらしいが、最近では諸君の御覧の通り
だ。もっとも僕は人間を猫と混同するわけではないが、最近の資本主義の発展がこういうことにも随分著しい変化を
齎らしたものだということからつい連想する。つまり最近の日本資本主義は猫文明が犬文明にかなりの程度に交替し
たものだと思われて仕方がないのだ。或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くこと
から人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である。或いはこの学者のいうように
資本主義の元祖かも知れない。犬は始めての客であるとしばらくは敵意を示し、漸くお愛想を始めても主人にジャレ
つくことを寧ろ見せびらかせる。犬はなかなかに西洋風だ。もっともこの頃は日本犬が大分もてはやされることにな
ったが、これなども日本資本主義の特殊性を示すものであろう。とにかく我が国が資本主義化して来たことを表わし
ているといってよい。犬公方なんかはその点では世に理解されなかった先覚者だったといえる。例えば映圃にしても
猫が活躍するというものは少ない。芝居の方になると犬が出るとやや滑稽なものになり易い。犬に芝居がやれないと
いうのではないが、すればいわゆる犬芝居になるわけだ、大体糸にのらない。然るに蓄音機による西洋音楽は犬には
理解されるものらしい。もっともあの主人の声に聞き入っているマークは僕の余り好まないところである。あれでは
蓄音器愛好者を犬に見たてたものとしか考えられない。何とかして改めてほしいと思うが、不適当とは言えない。先
年なくなられたわが国社会主義者の巨頭堺利彦氏は猫が好きだった。これに反して山川均氏の一党は犬が好きのよう
だ。社会主義者の間にも時代の推移は免れないものと見える。堺氏の理論に何だか古風なものが残っていたのはこの
猫のせいではないかと思われろ。山川氏の如きはしかし最近では鳥が随分気に入ったと見えて犬が万物の霊長だとす
れば鳥は万物の次長ぐらいにはなるといって、犬好きの荒畑寒村氏に答えている。いささか行き過ぎた文明のようで
ある。考えて見ると先年来の封建論争で最初はかなり山川君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼
っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派な
のを飼われてからのことだ。描や犬を飼うということも馬鹿にならぬことである。向坂君の犬好きはまた大変だ、僕
等は会う度に犬の飼い方の注意を受けている。ことによると山田盛太郎君なども最近まで描を飼っていたのかも知れ
ない。われわれの連中では和田君は一時犬を飼っておられたが最近はそうでもないようだ。長谷田君の家には名犬秋
田犬がいる。服部君のところにもたしかに犬がいる。僕の処には犬も猫もいる。
(1)谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな」参照。なおこの小説は全くつまらぬことに異常な努力を払ったものであるとは思
うが、猫を描いて技まさに神にちかいものがあるといってよい。漱石の『猫』の如きは猫のかいた『吾が輩は人間である』
に過ぎない。
(東北帝国大学経済学友会『経済学友会報』第二号、一九三六年一一月刊)
YSD8810(幼児退行中) @nariyuki_hanyu 4月16日
柄谷行人がどこかで自分のスピノザへの入口はアルチュセールでもドゥルーズでもなくアランで、
そのとき重要な問題意識だったのは過剰な情念にどう始末をつけるかということだった、という
ようなことを語っていたのも納得がいく。そういえばいかにも情念過剰な小林秀雄もアランの翻訳者なのであった。
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YSD8810(幼児退行中) @nariyuki_hanyu 4月16日
アラン『幸福論』(白井健三郎訳、旺文社文庫)。前世紀の遺物だと舐めてかかっていたが、これ
がなかなか効く。デカルトやスピノザの思想を「生きる」という点では誰よりも先を行っていた
人ではないか。情念と身体の問題についてはドゥルーズのスピノザ論に通じるものさえある。今は集英社文庫に所収。
昔は馬鹿にしていたが宇野弘蔵『経済原論』(岩波全書、全227頁)はいい。
資本の定義を蓄積された労働価値としないで、商品、生産要素、貨幣のどれとも切り離せないものとする(88頁)。
この三つは『経済原論』の各三篇(流通論/生産論/分配論)に対応し得るだろう。
普通『資本論』第三部は個別資本を扱った部分が強調されるが、この方がスッキリする。利子が最後に叙述されるのも納得できる。
第二部もつなぎとしての意味よりも重要性が増している。
労働価値説が後退したかのように感じる人もいるだろうが、再生産表式こそ生産要素分析の王道であることが明確になる。
ヘーゲル的トリアーデの採用(著作集第一巻版ほど明確ではない)には賛否両論あるが、意識的に読むなら有効だ。
柄谷行人『トランスクリティーク』とまた少し違った(マルクスという固有名のない~マルクスの名は脚注に回される~)『資本論』の活かし方がある。
参照される岩波文庫の頁数が旧版のものであるのが残念。
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
ヘーゲル論理学と資本論との対応はもっと細かい。松村一人訳のヘーゲル『小論理学』目次に宇野が書き込んだメモのファクシミリ版が『『資本論』と私』(2008年、お茶の水書房)に載っている。『資本論五十年』(上472頁)でも語られる。
宇野弘蔵『経済原論』目次:
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働=生産過程
第二節 価値形成=増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産~~資本の再生産と労働力の再生産
第二節 拡張再生産~~資本家的蓄積の現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程~~価値法則の絶対的基礎
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成~~価値の生産価格への転化
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)~~需要供給の関係と超過利潤の形成
第三節 一般的利潤率の低落の傾向~~生産力の増進と景気循環
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
>>852
正否は別にして彼らの国家論は弱いというのが柄谷の意見だ
ブリュメールだけ例外で
柄谷はカントを持ち出すがスピノザで充分だと思う
(ネグリもズレてるが反発する必要もない)
大黒某が宇野弘蔵のスピノザパロディを批評空間で持ち上げたが
国家資本の双頭性はそれに尽きる
思惟と延長
国家と資本
ということだ
宇野弘蔵経済原論は生産論と流通論を逆にした
これも資本主義が流通に基礎を置くということから納得できる
交換が最初からあるのだ
柄谷行人が先の講演でも強調したように、そこに国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座があるのである。これは新たなアソシエーション、平等と自由を併せ持ったそれを具体化する際にも必要な考え方だ。
追加資料:
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物につ
例えば、複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
例えば、複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
例えば、複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。
第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
例えば、複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。
第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
宇野さんの著作を母語で読めるのにこういうことを言う奴がまだ居るのか?
柄谷は鈴木鴻一郎編経済原論上下を「全文ほぼ暗記するほど読みました」って岩田弘との対談で言ってたけど、
そこまではいかないにしても>>318のような事を言うのは恥ずかしいと自覚できる程度には勉強すべきだ。
318
普通にいわれる恐慌の原因というのは、過剰在庫、あるいは需要の減退だけどね。
相対的な賃金総額か平均賃金が下がることで需要が減退して過剰在庫が生まれ恐慌になる。
インフレからの急激なデフレ化による企業の倒産と間違えている
恐慌は基本インフレ
あとデフレでは給料を下げるのではなく首を切る
その方が楽だから
宇野さんの著作を母語で読めるのにこういうことを言う奴がまだ居るのか?
柄谷は鈴木鴻一郎編経済原論上下を「全文ほぼ暗記するほど読みました」って岩田弘との対談で言ってたけど、
そこまではいかないにしても>>318のような事を言うのは恥ずかしいと自覚できる程度には勉強すべきだ。
318
普通にいわれる恐慌の原因というのは、過剰在庫、あるいは需要の減退だけどね。
相対的な賃金総額か平均賃金が下がることで需要が減退して過剰在庫が生まれ恐慌になる。
8:11 午後
yoji さんは書きました...
インフレからの急激なデフレ化による企業の倒産と間違えている
恐慌は基本インフレ
8:14 午後
yoji さんは書きました...
あとデフレでは給料を下げるのではなく首を切る
その方が簡単だから
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。)
マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。
ドゥルーズもマルクス的唯物論を展開する際に精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの 、
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める」
(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に置くならば)マルクスのように
倫理の不在を外から補完する必要はない。
マルクスは神学政治論の抜き書きをしているが、参照するべきはエチカだ。
ヘーゲルマルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要があ。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲルマルクスは彼らとは違って弁証法に屈した)。
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。)
マルクスは神学政治論の抜き書きをしているが、参照するべきはエチカだ。
ヘーゲルマルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要があ。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲルマルクスは彼らとは違って弁証法に屈した)。
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。エチカ1:a6)
マルクスは神学政治論の抜き書きをしているが、参照するべきはエチカだ。
ヘーゲルマルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要があ。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲルマルクスは彼らとは違って弁証法に屈した)。
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。エチカ1:a6)
マルクスは『神学政治論』の抜き書きをしているが、参照するべきは『エチカ』だ。
ヘーゲルマルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要があ。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲルマルクスは彼らとは違って弁証法を信奉した)。
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マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に
叙述された形式 とはまったく違っている」
(マルクス、ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。
スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。〜エチカ1:a6〜)
マルクスは『神学政治論』の抜き書きをしているが、参照するべきは『エチカ』だ。
ヘーゲル、マルクスを読む際にもスピノザに立ち返る必要がある。そこからやり直すしかない。
ドゥルーズもスピノザ、ライプニッツ研究者であり続けた(この三者はともに並行論者だが、
ヘーゲル、マルクスは彼らとは違って弁証法信奉者だった)。
http://chikyuza.net/archives/59516
[民主制と貨幣制度の同型性] 注目すべきことに、マルクスの貨幣の発生史の論証の仕方
はスピノザの論法と同じである。各人が生存するために自然権を共同の《一つ》の力に委譲
し、それを体現する代表者・《一者》を選ぶというスピノザ的過程と、多種多様な商品の世界
から代表・《貨幣》が生まれてくるマルクス的過程とは、アナロガスである。
貨幣の論理学的生成の核心は、商品所持者の間の商品の価値表現をめぐる対抗関係=第
二形態から、第三形態の一般的等価形態=《一者》が何故に如何に生まれて来るのかという
問題にある。第2形態とは、或る商品Aの価値が他のすべての商品(B、C…など)の使用価値
で表現される形態である。それぞれの商品所持者は自分の商品の価値表現を優先させよう
と競いあう。そのさい商品世界の各々の商品[5](商品所持者ではない)が知るのは、個々の
商品交換関係で取引相手についてのミクロ的個別的情報のみである。商品の間には第三形
態への移行上の優劣順序は存在せず無差別で同格なので、第三形態への移行は一挙同時
である。商品世界にn種類の商品種類があるとすると、n個の第2形態が発生する。マルクス
はこの競争関係を次のようにとらえる。
「これらの諸形態は、もし商品Aが一方の形態規定[相対的価値形態]にあれば、[他のすべて
の]商品B,Cなどは商品Aに対立して他方の形態規定[等価形態]をとるというように、ただ対
立的に(gegensätzlich)のみ、いずれの商品にも属している」(MEGA,IV/5,S.80;『資本論』第1
部、初版:77、[]は引用者補足)。
ここでマルクスが分析している《1者・対・多者[n-1]》という関係は、先の「『神学・政治論』抜粋
ノート」からの引用にあるように、スピノザ民主制論における代表選出法と同型である。スピノ
ザは、実践の世界では「各人」(1)は「多数の残りの者たち」(n-1)に従属するように契約してい
るので、そこでは全員同意というフィクションは現実になるという。商品関係でも、各々の商品
は自立的主体であるから、《1・対・[n-1])》という関係に存立する。その関係から一般的等価
形態=貨幣が生成する。では、如何なるメカニズムがその生成を媒介するのであろうか。
スピノザには国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座があるのである。
これは新たなアソシエーション、平等と自由を併せ持ったそれを具体化する際にも必要な考え方だ。
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
スピノザには国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座がある。
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
タイトル 資本論の読み方 宇野弘蔵に学ぶ
著者名等 山口重克/著 ≪再検索≫
出版者 有斐閣
出版年 1983.9
大きさ等 20cm 251p
NDC分類 331.6
件名 「資本論」 ≪再検索≫ マルクス カール
件名 Marx Karl Heinrich.
ISBN等 4-641-06411-3
書誌番号 3-0190114550
資本論を学ぶ
資本論に学ぶ
後者が宇野
「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋 化によって要請される政策目標設定との
「同時並行性」を指摘するのであるが, この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身 に
よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説 明がない以上,その真意は測りかねるが,た
とえばアルチュセールによれば, 「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。 これは並
行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実 現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に
対して,知性(精神)からの 制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」 の名で知ら
れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考すると
いうことであり,一方の 他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに おいても想定可能
である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本
と「ともに」思考 する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を 展開するのである。国家
という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本 の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という
「身体」と「と もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした 理解を示すかのように,
宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と 身体との関係になぞらえるのである (宇野弘蔵『資本論五十年』上,
法政大学出版局1973]:476)。」
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,太田出版 他を纏めたもの)
熊野純彦
資本論の思考
http://www.serica.co.jp/326.htm
内容一覧
まえがき
凡例
はじめに――同盟綱領・再読――
序論 資本論をどう読むか
第Ⅰ篇 資本の生成
Ⅰ・1 商品と価値
Ⅰ・2 価値形態論
Ⅰ・2・1 価値形態(1) Ⅰ・2・2 価値形態(2)
Ⅰ・2・3 交換過程
Ⅰ・3 貨幣と資本
Ⅰ・3・1 商品流通
Ⅰ・3・2 信用取引
Ⅰ・3・3 資本形態
第Ⅱ篇 資本の運動
Ⅱ・1 生産の過程
Ⅱ・1・1 労働過程
Ⅱ・1・2 増殖過程
α 価値形成過程の分研
β 価値増殖過程の分析
γ 不変資本と可変資本
Ⅱ・1・3 剰余価値
α 絶対的剰余価値
β 相対的剰余価値
a 諸概念の規定
b 工場制手工業(マニュファクチュア)
c 機械と大工場
γ 資本の蓄積過程
a 労働の「包摂」
b 蓄積の諸様相
c 資本制の原罪
Ⅱ・2 流通の過程
Ⅱ・2・1 資本循環
α 貨幣資本の循環
β 生産資本の循環
γ 商品資本の循環
Ⅱ・2・2 資本回転
α 流通期間と流通費用
β 回転期間と回転回数
γ 固定資本と流動資本
Ⅱ・2・3 回転周期
Ⅱ・3 再生産表式
Ⅱ・3・1 価値の循環
Ⅱ・3・2 単純再生産
α 単純再生産の条件・再考
β 資本の蓄積と拡大再生産
γ 再生産表式論とはなにか
第Ⅲ篇 資本の転換
Ⅲ・1 利潤
Ⅲ・1・1 利潤率への「転化」
α 費用価格
β 利潤率
γ 生産条件
Ⅲ・1・2 一般利潤率の形成
α 生産価格
β 市場価格
γ 転形問題
Ⅲ・1・3 一般利潤率の傾向
Ⅲ・2 地代
Ⅲ・2・1 地代論の諸前提
Ⅲ・2・2 「差額地代」論
α 落流の例
β 差額地代
γ 絶対地代
Ⅲ・2・3 貨幣地代の形成
Ⅲ・3 利子
Ⅲ・3・1 商業資本の問題
α 商業資本
β 商業利潤(1)
γ 商業利潤(2)
Ⅲ・3・2 貸付資本の生成
α 貨幣取引資本
β 利子生み資本
γ 利潤の再分化
Ⅲ・3・3 信用制度の展開
α 信用制度の形成
β 銀行信用の問題
γ 架空資本の成立
おわりに――宗教批判・再考――
参考文献
あとがき
人名索引
参考:
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/<資本の転換>/\
/ \ / \
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 熊野純彦 資本の\
貨幣と資本\ 『資本論の思考』 /再生産表式
/______\ /______\
/<資本の生成>/\ /\<資本の運動>\
/ \ / \ / \ / \
商品と価値\ 価値形態論\ 生産の過程\ /流通の過程
/______\/______\/______\/______\
/架空資本の成立 おわりにー宗教批判ー
/__\
/信用制度の展開
信用制度の形成_\/_銀行信用の問題
/\ /\
/__\<利子>/__\
商業資本の問題\ /貸付資本の生成
/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/ \ / \
一般利潤率の傾向\ <<資本の転換>>/貨幣地代の形成
/______\ /______\
生産条件\ /転形問題 /\ /\
/__\<利潤>/__\ / \<地代>/_絶対地代
利潤率への「転化」\ 一般利潤率の形成 /地代論の\ 「差額地代」論
費用価格\/利潤率/生産\/市場\/__諸前提_\落流の\/_差額地代
/\ 価格 価格 例 /\
/ \ / \
/資本形態\ / \
/______\ /______\
/\ /\ 熊野純彦 /\<再生産 /再生産表式論とはなにか
/ <貨幣と資本> \ <<<資本論の思考>>> / \ 表式>/__\
/商品流通\ /信用取引\ 価値の循環\ /単純再生産
/______\/______\ /______\/条件\/_資本の蓄積と拡大再生産
/\ /\ /\ ・再考 /\
/ \ / \ / \ / \
/ \<<資本の生成>> /交換過程\ /剰余価値\<<資本の運動>> /回転周期\
/______\ /______\ /______\ /______\
/\ /\ /\ /\ /\<生産の /\ /\<流通の 固定資本と流動資本
/ <商品と価値> \ / <価値形態論> \ / \ 過程>/ \商品資本の循環\ 過程>/__\
/ \ / \ 価値形態1\ 価値形態2\ /労働過程\ /増殖過程\ /資本循環\ /資本回転\
/______\/______\/______\/______\/______\/______\貨幣~\/生産~/__\/__\
著者紹介
熊野純彦(くまの すみひこ)
1958年、神奈川県生まれ。1981年、東京大学文学部卒業、現在、東京大学文学部教授。専攻は、倫理学、哲学史。
著書に『レヴィナス入門』『ヘーゲル』(以上、筑摩書房)、『レヴィナス』『差異と隔たり』『西洋哲学史 古代から中世へ』『西洋哲学史 近代から現代へ』『和辻哲郎』(以上、岩波書店)、『カント』『メルロ=ポンティ』(以上、NHK出版)。『戦後思想の一断面』(ナカニシヤ出版)、『埴谷雄高』(講談社)、『日本哲学小史』(編者・中央公論新社)など。
訳書として、レヴィナス『全体性と無限』、レーヴィット『共同存在の現象学』、ハイデガー『存在と時間」(以上、岩波書店)、カント『純粋理性批判』、同『実践
理性批判 倫理の形而上学の基礎づけ』(以上、作品社)。
消費の力を位置づける前段階として…
24
とみなせば、とやかくいうべきではあるまい。しかし、客観的にいえば、スピノザは「幾何学的秩序」
という、一見すれば中性的エレメントという形式によって、その反時代的考察を目論んだのであり、
主観的にいえば、この無機的な秩序なしには、その噴出し奔流する精神に形式を与ええなかったのだ、
というところが本当であろう。それほどに激しい自由の精神が横溢しているのである。時代がけっし
て受容もせず、ただその外見上の静謐によってのみ存在を許されるがごとき、異例さなのであるとい
ってよい。だから、『エチカ』は、徹底して「普通の人間」を論究の対象にしているが、どこまでも
「普通の人間の当り前の表情」をもった著者によって書かれうる性質のものではなかったのである。
自然の力の体系テーゼ
一 神とは自然の総体に他ならない。
二 自然は、その外部になにものももたない。自然は総体として存在する。その内部構成は、人間
的、社会的事象のレヴェルをも含む。(いってよければ、ヘーゲルの「現実性」[Wirklichkeit]という
総体概念である。)
三 自然は、まず第一に、活動する力としてある「能産的自然」(natura naturans)と「所産的自
然」(natura naturata)とは、この力の主体と力の客体(所産)とみなすことができる。つまり、自然と
は生産力に他ならないのだ。
四 だから、スピノザの哲学体系を、第一義的には、自然の力の体系(断るまでもないが、物理学
主義的な含意においてではなく、むしろ、マルクスの生産力の体系構想につながるという意味での)
としてつかまえることが可能である。
24~5頁
スピノザの方へ
鷲田小彌太
三一書房1987年
27頁
…
九 しかし、各人間個体の力は共同の力に還元·解消されえない独自性をもつのだ。スピノザが、
「共同の法」をも一種の自然法とみなしながらも、「自然」の法、つまり「自然状態」の法則を強調す
るのは、この点に関係するのである。
以上を総括して、スピノザの全体系は、まさに力ーしかも生産的力ーの体系構想である、とい
ってよかろう。
*マルクスの生産力の体系構想については、拙著『哲学の構想と現実』(白水社·一九八三)『イデ
オロギーの再認』(白水社· 一九八五)を参照されたい。
鷲田
125:
能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である
…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だと思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,というとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。
鷲田
125:
能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である
…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だと思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,というとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。
後に[[ASIN:4779111978 近代西欧社会哲学の精髄―ヘーゲル、マルクスからスピノザへ]]にも再録されるが、このスピノザとマルクスをめぐる考察は、実証的に大きな価値を持っている。
以下の指摘は生産中心主義ではない。
《能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である
…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だと思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,というとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。》125頁
残念なのはマルクスによるスピノザ『神学・政治論』の抜き書きの考察が、アルチュセール、ネグリらの影響を活かしきれず、そこで止まってしまっている点だ(マルクスへの評価は変わったようだが)。
おそらくジャンルを越えた思考の構造を取り出すのに躍起なあまり総合的な視野が欠けてしまうのが原因だろう。
タルコット・パーソンズの最晩年の考察(スピノザには言及していないが)が参考になると思う。
また、プルードンに関してどう評価するのかも聞いてみたい。
1:22:1
…商品生産がそれ自身の内在的法則に従って資本制的生産に発達するのと同じ程度で、商品生産の所有法則が資本制的取得の法則に転変する。
二四 だから、資本制的所有に対立させて商品生産の永遠的所有法則を有効ならしめることによって資本制的所有を廃絶しようとする、プルードンのずるさは驚くべきものである!
1:22:3
注41
…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾であり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという言葉について沈思してみるがよい。
唯物論と唯心論、両者は鏡に映るように似ている
ともに現象学を使い常識をゆさぶる
最終的には構造主義に接近する
生産力を潜在的なもの、コナトゥスと捉えればスピノザ哲学こそ両者を繋ぐ基盤とわかる
(ハイデガーは消費者側だが発生論に執着があり、その代表制への拒絶は心的な経済決定論だ)
ただしスピノザは現象学と相性が悪い
ハイデガーはシェリング講義を例外にスピノザを無視する
マルクスは神学政治論を抜き書きし資本論でスピノザを引用する
「規定は否定である…」
ヘーゲルの域を出ていないが…
《注41…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの
『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾で
あり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、
怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという
言葉について沈思してみるがよい。》資本論1:22:3
《能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だ
と思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,と
いうとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。》
『スピノザの方へ』鷲田小彌太125頁
消費の力を位置づける前段階として…
唯物論と唯心論、両者は鏡に映るように似ている
ともに現象学を使い常識をゆさぶる
最終的には構造主義に接近する
生産力を潜在的なもの、コナトゥスと捉えればスピノザ哲学こそ両者を繋ぐ基盤とわかる
(ハイデガーは消費者側だが発生論に執着があり、その代表制への拒絶は心的な経済決定論だ)
ただしスピノザは現象学と相性が悪い
ハイデガーはシェリング講義を例外にスピノザを無視する
マルクスは神学政治論を抜き書きし資本論でスピノザを引用する
「規定は否定である…」
ヘーゲルの域を出ていないが…
《注41…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの
『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾で
あり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、
怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという
言葉について沈思してみるがよい。》資本論1:22:3
《能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だ
と思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,と
いうとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。》
『スピノザの方へ』鷲田小彌太125頁
消費の力を位置づける前段階として…
マルクスエンゲルス全集bot
@maruenbot
意識を分析することによって、意識を改革すること。そうすれば、世界がずっと以前からある一つの事がらについて夢をもっていたこと、そしてその事がらを現実に手にいれるためには、ただそれについての意識をもちさえすればよいことがわかるであろう。-マルクス1.383
《能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だ
と思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,と
いうとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。》
『スピノザの方へ』鷲田小彌太125頁
《労働はその生産する使用価値の、すなわち素材的富の、唯一の源泉ではない。
ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。》資本論1:1:2
マルクスにとっては労働と自然が価値の源泉で
その点はペティを継承している
C+V+M
のCに自然、
Vに労働が当てられていると考えて良い
(人間も自然の一部なのだがこれにはスピノザのフレームワークが参照されるべき。
生産力は潜勢力であり、[条件付きで]能産的自然なのだ。☆)
問題はMだ
これは集合力と考えるといい
相対的剰余価値という名称から分かるように
これを二次的なものとマルクスが定義してしまったために
その後集合力の肯定的運用の理論化が遅れてしまった
☆
《能産的自然は、マルクスのいう"生産力"に近い概念で、一種の潜在的な能力である…
比喩的にいえば、所産的自然がベースになっていて、その凝縮したものが能産的自然だ
と思うのです。
能産的自然と所産的自然という概念は、大変分りにくい。どうして分りにくいのか,と
いうとスピノザの自然が人間と人間の社会をさしていたからだ、と思うのです。》
『スピノザの方へ』鷲田小彌太125頁
ただし消費者運動こそが能動性を発揮できる契機と考えたほうがいい
生産中心主義は一元的になる傾向がある
彼[シーニョア]は、ものものしくいった、──「私は、生産用具として考察される資本と
いう言葉にかえるにアブスティネンス(節慾)という言葉をもってする」と。
…
俗流経済学者の子供じみた考え方をかりれば──「それらの物の価値」を奢侈品その他
の消費手段に使いはたさないで、それらの物を、労働力との合体によって資本として
利用するばあいには、彼は自分じしんのアダム〔慾慾望〕を奪うのである。
…
《注41…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの
『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾で
あり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、
怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという
言葉について沈思してみるがよい。》資本論1:22:3
資本家階級がいかにしてこうした芸当をやるかは、俗流経済学によって従来かたく守られた秘密の一
彼[シーニョア]は、ものものしくいった、──「私は、生産用具として考察される資本と
いう言葉にかえるにアブスティネンス(節慾)という言葉をもってする」と。
…
俗流経済学者の子供じみた考え方をかりれば──「それらの物の価値」を奢侈品その他
の消費手段に使いはたさないで、それらの物を、労働力との合体によって資本として
利用するばあいには、彼は自分じしんのアダム〔慾望〕を奪うのである。
…
《注41…[シーニョア批判]
第二版への追加。俗流経済学者は、人間のあらゆる行動はその反対の行動からの
『節慾』と解されうる、という簡単な反省をしたことがない。食事は断食の節慾で
あり、歩行は停立の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、労働は怠惰の節慾であり、
怠惰は労働の節慾である、等々。諸君は一度、スピノザの規定は否定であるという
言葉について沈思してみるがよい。》資本論1:22:3
恐慌はトカゲの尻尾切りでしかなくて周期的な資本主義の延命策、
革命も実は周期的だが
これは国家と資本を双頭的に捉えないとわからない
その意味で国家を顕在化している宇野の『経済政策論』を早めに読むべきだ
(身体:精神を経済:政治とした宇野のスピノザパロディも)
カレツキはこの双頭制の考察を史的唯物論を数式化して見直すという
やり方で行なっている
アリギの覇権国家論(G-W-G'ではなく領土-資本-領土')も面白いが
カレツキの方がズバ抜けて明快だ
恐慌はトカゲの尻尾切りでしかなくて周期的な資本主義の延命策、
革命も実は周期的だが
これは国家と資本を双頭的に捉えないとわからない
その意味で国家を顕在化している宇野の『経済政策論』を早めに読むべきだ
(身体:精神を経済:政治とした宇野のスピノザパロディもぜひ)
カレツキはこの双頭制の考察を史的唯物論を数式化して見直すという
やり方で行なっている
アリギの覇権国家論(G-W-G'ではなく領土-資本-領土')も面白いが
カレツキの方がズバ抜けて明快だ
恐慌はトカゲの尻尾切りでしかなくて周期的な資本主義の延命策、
革命も実は周期的だが
これは国家と資本を双頭的に捉えないとわからない
その意味で国家を顕在化している宇野の『経済政策論』を早めに読むべきだ
(身体:精神を経済:政治とした宇野のスピノザパロディもぜひ)
カレツキはこの双頭制の考察を史的唯物論を数式化して見直すという
やり方で行なっている
アリギの覇権国家論(G-W-G'ではなく領土-資本-領土')も面白いが
カレツキの方がズバ抜けて明快だ
宇野の恐慌論は裏返しの信用論でこれもカレツキと合わせて読むといい
恐慌はトカゲの尻尾切りでしかなくて周期的な資本主義の延命策、
革命も実は周期的だが
これは国家と資本を双頭的に捉えないとわからない
その意味で国家を顕在化している宇野の『経済政策論』を早めに読むべきだ
(身体:精神を経済:政治とした宇野のスピノザパロディもぜひ)
カレツキはこの双頭性の考察を史的唯物論を数式化して見直すという
やり方で行なっている
アリギの覇権国家論(G-W-G'ではなく領土-資本-領土')も面白いが
カレツキの方がズバ抜けて明快だ
宇野の恐慌論は裏返しの信用論でこれもカレツキと合わせて読むといい
>>392
カントとマルクスは、
スピノザの並行論みたいなもので
決して止揚されることはない
両者を精神と身体と言い換えてもいいし
観念論と唯物論と言い換えてもいい
国家と資本とも言い換えられる
資本の自己増殖に対して
精神はそこにブレーキを倫理的にかける必要がある
そうでなければ周期的な恐慌が弱者を切り捨てることになる
M-T-M'
(T-M-T')?
アリギが言うように国家は歴史的にはTテリトリーを獲得することで資本の増殖に貢献してきたが
むしろ(精神及びR理性として)資本の増殖をコントロールする役割を担わなければならない
スピノザに関しては以下の13頁が参考になる
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
宇野理論の思想的形成 大黒弘慈
国家と資本、政治と経済の関係については
カレツキの「計量経済学モデルと史的唯物論」1964〔"EconometricModel and Historical Materialism"
が短いながら示唆に富む
以下転載再掲。
120年周期説:
http://yojiseki.exblog.jp/8177147/
資本と国家の交差は、アリギによる定式、
M-T-M'
に対応する。Mは資本、Tは領土。(アリギ『長い20世紀』76,240頁より)
国家独占資本主義(Tが強い)の代表例はヴェネツィア、
世界金融資本主義(Mが強い)の代表例はジェノヴァ。
柄谷の図式だと、
1510~
1630~
1870~
1990~
T l '
-+-
Ml -
1450~ヴェネチア(vs.トルコ)→ジェノヴァ
1570~ジェノヴァ
1690~蘭
1810~英
1930~米
自由主義(M)の時代に反システム運動(-)がおこり、
帝国主義(T)の時代に想像的なネーション( ')が形成され、次の時代のMに付与される。
左下に起点を持つ反時計回りの運動と考えていい。
ただし、柄谷は帝国が再現反復するとは考えない。今おこっているのはあくまで近代資本主義という第三象限の中での小反復、循環だ。
とはいえ帝国(T)を模倣した領土争いも小反復する。
海戦、
コロンブス、
東インド会社、
プラッシーの戦い、
独立戦争、
と考えると、
ヘゲモニー国家はヘゲモニーを握る約50年ほど前に領土的拡大を開始しているのがわかる。だから起点は左上にあるとも言える。
以下、体制支配から能力限界へいたる期間(その後も金融支配は続く)についてのアリギの説のまとめ及び『長い20世紀』で紹介された図(p339)。
ジェノヴァ体制約220年(1340?ー1560?)
オランダ 180年(1560ー1740) 1740に移行開始
イギリス 130年(1740ー1870)
アメリカ 100年(1870−1930−1970)
(アリギ『長い20世紀』p342より。優位から成熟までの所要時間は減少傾向にある。)
『長い20世紀』(p339)で紹介された図(Sは予兆的危機、Tは終末的危機)↓
左右のヘゲモニー国家の交差している期間が柄谷の言う「帝国主義的」な複数国家の覇権争いの時期にあたる。
追記、世界システム(経済/帝国)メモ:
世界経済
ジェノヴァ オランダ アメリカ (香港) 東アジア? 日本
ヴェネツィア イギリス (シンガポール) 中国?
世界帝国
モンゴル
トルコ スペイン ロシア フランス ドイツ 中国?
___________________________
「人間の自分および自然からの自己疎外はいずれも、人間が自分から区別された他の人間たちにたいするものとして、自分や自然にあたえる関係のうちに現われる。」
(マルクス『経済学哲学草稿』)
似たようなことを言ってるけど、こっちの方がダイナミックじゃない?
若いころには、誰でも同じようなことを考えるのかも知れないね。
マルクス主義の唯物論は観念論に陥りやすい
(敵がいないと自分の優位が保てないという相対的なものだ)
疎外に対抗する現実的な代案を見つけられていないことからそれはわかる
例えばプルードンの交換銀行案は疎外に対抗する集合力を体現していたのに…
国家=精神、
経済=身体、という宇野弘蔵が若い頃スピノザのパロディとして書いていた認識に
立ち返る必要がある
吉本の欠点はプルードンを知らなかったことに尽きる
マルクスの唯物論は自分より劣ったとされる空想社会主義者が敵として想定しないと
自身の優位性を証明できないという相対的なものだ
吉本はそのことに気づいていて自身と言説を構造的に構築した
ヘーゲル的に敵を内包させたのだ
資本論で国家が切り離されたのと対照的だ
ちなみに
ヴィトゲンシュタインはショーペンハウアーを仮想敵にして論考を書いたという説があるから
敵を想定するのは間違いではない
ただそのことに自覚的でないといけない
唯物論は簡単に観念論にひっくり返る
マルクスはヘーゲルを逆立ちさせたつもりだがその逆もあり得る
スピノザに還るべきだろう
資本制の障害は資本制それ自体だから資本の自己増殖は永遠ではない
その仮説は恐慌待望論などとは次元が違う
一般的な革命待望論は恐慌待望論と区別がつかない
マルクスは株式会社と協同組合について言及したが処方箋は示していない
処方箋はゲゼルにある
ゲゼルの減価マネーはマルクスの価値形態論と矛盾しない
むしろ価値形態論を突き詰めたものだ
ヒュームの懐疑論について言っておかなければならない
ヒュームは一対一対応を基礎にしているのであって単なる不可知論ではない
カップリングが大事だとバディウが言った時、意識せずにヒュームの原理をバディウは述べているのだ
「例えば、二つの数を集成する各々の単位がそれぞれ常に相応するとき、
我々は二つの数が等しいと宣言する。」(岩波文庫人性論1p123)
その関連でマルクス経済学のアポリアを言うなら価格と価値が一致していない…
verum index sui et falsi Spinoza Marx
エチカ
2:43備考
真理は真理自身と虚偽との規範である。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note2p43n
マルクスが1842年引用
全集1,6ページ
verum index sui et falsi
https://legalform.blog/2017/11/06/marx-the-state-and-spinoza-against-hobbes-and-schmitt-bill-bowring/
[16] Ethics, bk. 2, prop. 43, in Curley, Collected Works of Spinoza, vol. 1, 479.
Althusser’s decision to place the Spinozist conception of the true—verum index sui et falsi (the true is its own sign, and that of the false)—at the heart of his contribution to Reading Capital was a veritable rebuttal of a conception of Marxist philosophy indebted to a renovated Hegelian dialectical philosophy of history and inspired by Giambattista Vico’s verum-factum principle, the latter of which claimed that man can know his history precisely because he has made it. In this reading, history is man’s creation. (145)
1,6
最近のプロイセンの検閲で引用
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Verum_index_sui_et_falsi
Verum index sui et falsi
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„Est enim verum index sui et falsi“ schrieb Baruch Spinoza in seinem 74. Brief an Albert Burgh, mit dem er auf dessen Brief vom 10. September 1675 antwortete: Denn das Wahre ist der Prüfstein seiner selbst und des Falschen.[1] Ähnlich äußerte er sich im 2. Buch seiner Ethik: „Sane sicut lux seipsam et tenebras manifestat, sic veritas norma sui et falsi est“, „Wahrlich wie das Licht sich selbst und die Finsternis offenbart, so ist die Wahrheit die Norm ihrer selbst wie des Falschen.“[2]
„Est enim verum index sui et falsi“ schrieb Baruch Spinoza in seinem 74. Brief an Albert Burgh, mit dem er auf dessen Brief vom 10. September 1675 antwortete: Denn das Wahre ist der Prüfstein seiner selbst und des Falschen.[1] Ähnlich äußerte er sich im 2. Buch seiner Ethik: „Sane sicut lux seipsam et tenebras manifestat, sic veritas norma sui et falsi est“, „Wahrlich wie das Licht sich selbst und die Finsternis offenbart, so ist die Wahrheit die Norm ihrer selbst wie des Falschen.“[2]
Die Verwendung des Ausdrucks durch Karl Marx
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Karl Marx kritisierte in seinem ersten publizierten Aufsatz Bemerkungen über die neueste preußische Zensurinstruktion[3] u. a. Artikel II Satz 1 der Preußischen Zensur-Verordnung vom 18. Oktober 1819, den er wie folgt zitierte: „Nach diesem Gesetz soll die Zensur keine ernsthafte und bescheidene Untersuchung der Wahrheit hindern, [...]“[4] Marx kommentierte: „Die Wahrheit ist so wenig bescheiden als das Licht, und gegen wen sollte sie es sein? Gegen sich selbst? Verum index sui et falsi. Also gegen die Unwahrheit?“[5]
Literatur
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Henry Deku: Wahrheit und Unwahrheit der Tradition. Metaphysische Reflexionen. Herausgegeben von Werner Beierwaltes. EOS-Verlag, St. Ottilien 1986, ISBN 3-88096-033-X.
Fußnoten
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↑ Benedicti de Spinoza Opera quae supersunt omnia, herausgegeben von Karl Hermann Bruder, vol. II. Leipzig 1844. p.351 books.google; Übersetzung Arthur Buchenau. Leipzig 1907. p.234 books.google
↑ s:Ethica - Pars secunda - De natura et origine mentis, Übersetzung Arthur Buchenau 1841 http://gutenberg.spiegel.de/buch/ethik-5217/6
↑ entstanden 1841/42, Erstdruck 1843
↑ Im Original: „Die Zensur wird keine ernsthafte und bescheidene Untersuchung der Wahrheit hindern, [...]“. http://www.heinrich-heine-denkmal.de/dokumente/zensurgesetz.shtml
↑ Karl Marx: Bemerkungen über die neueste preußische Zensurinstruktion. Von einem Rheinländer. In: Marx-Engels-Werke, Bd. 1: 1839–1844, Dietz, Berlin, 10. Aufl. 1976, S. 3–27, Zitat S. 6. http://www.zeno.org/nid/20009220712
貨幣論
ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
ケインズ全集#5:4~5頁
762 a[sage] 2022/02/16(水) 11:21:31.93 ID:0
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
――スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
《序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。 云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。》
(2008年宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ ノザエチカ第三部
序言以下のパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
《…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋化によって要請される政策目標設定との
「同時並行性」を指摘するのであるが,この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身に
よって述懐されていることは,十分に注意されてよい。宇野自身によるその説明がない以上,その真意は測りかねるが,た
とえばアルチュセールによれば,「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。これは並
行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に
対して,知性(精神)からの制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」の名で知ら
れるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されているということでもない。精神が身体と「ともに」思考すると
いうことであり,一方の他方に対する優越を禁じているのである。この関係は,国家と資本とのあいだにおいても想定可能
である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離されえないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本
と「ともに」思考する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を展開するのである。国家
という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という
「身体」と「ともに」,あるいは資本という「身体」に「おいて」しか思考できない。こうした理解を示すかのように,
宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と身体との関係になぞらえるのである(宇野弘蔵『資本論五十年』上,
法政大学出版局1973]:476)。》
大黒弘慈「宇野理論形成の思想的背景―純粋と模倣―」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第20号,太田出版他を纏めたもの)
地域通貨花子1
@TiikituukaHana
@andouhiroshi マルクス主義者(国家を否定するからグローバリストに見える場合がある)はスピノザに帰るべきなのだ。
エチカ4:73
《定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。》
2022/10/02 3:26
https://twitter.com/tiikituukahana/status/1576277293018025984?s=21
宇野弘蔵著作集別巻 (1974年8月16日発行 岩波書店)73〜75頁
犬・猫・人間
ーー猫は封建的であるーー
谷崎潤一郎も大体そういうふうにいっていたと思うが(1)、猫は人前では決してフザケないものである。客が来ると主
人の方は見向きもしないようなふりをして客の膝の上にあがって愛想をする。また主人の方でもさも御迷惑なものを
飼っていますといった態度でこれをつまんで障子の外に出したりする。猫をつれて散歩に出かける主人はない。勿論
猫は散歩の連れとして多少小さ過ぎるという欠点は否定出来ない。が、しかし散歩には向かないような小さなのでも
犬なら連れて歩く人かある。どうも猫には元来そういう性質が欠けているのではないかと思う。そしてそれは猫が封
建的であることの有力な論拠をなすものである。というのは散歩は資本主義の産物の一つであるからだ。わが国でも
西洋文明が入って開化するまでは二人連れで散歩というようなことはなかったらしいが、最近では諸君の御覧の通り
だ。もっとも僕は人間を猫と混同するわけではないが、最近の資本主義の発展がこういうことにも随分著しい変化を
齎らしたものだということからつい連想する。つまり最近の日本資本主義は猫文明が犬文明にかなりの程度に交替し
たものだと思われて仕方がないのだ。或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くこと
から人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である。或いはこの学者のいうように
資本主義の元祖かも知れない。犬は始めての客であるとしばらくは敵意を示し、漸くお愛想を始めても主人にジャレ
つくことを寧ろ見せびらかせる。犬はなかなかに西洋風だ。もっともこの頃は日本犬が大分もてはやされることにな
ったが、これなども日本資本主義の特殊性を示すものであろう。とにかく我が国が資本主義化して来たことを表わし
ているといってよい。犬公方なんかはその点では世に理解されなかった先覚者だったといえる。例えば映画にしても
猫が活躍するというものは少ない。芝居の方になると犬が出るとやや滑稽なものになり易い。犬に芝居がやれないと
いうのではないが、すればいわゆる犬芝居になるわけだ、大体糸にのらない。然るに蓄音機による西洋音楽は犬には
理解されるものらしい。もっともあの主人の声に聞き入っているマークは僕の余り好まないところである。あれでは
蓄音器愛好者を犬に見たてたものとしか考えられない。何とかして改めてほしいと思うが、不適当とは言えない。先
年なくなられたわが国社会主義者の巨頭堺利彦氏は猫が好きだった。これに反して山川均氏の一党は犬が好きのよう
だ。社会主義者の間にも時代の推移は免れないものと見える。堺氏の理論に何だか古風なものが残っていたのはこの
猫のせいではないかと思われる。山川氏の如きはしかし最近では鳥が随分気に入ったと見えて犬が万物の霊長だとす
れば鳥は万物の次長ぐらいにはなるといって、犬好きの荒畑寒村氏に答えている。いささか行き過ぎた文明のようで
ある。考えて見ると先年来の封建論争で最初はかなり山川君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼
っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派な
のを飼われてからのことだ。描や犬を飼うということも馬鹿にならぬことである。向坂君の犬好きはまた大変だ、僕
等は会う度に犬の飼い方の注意を受けている。ことによると山田盛太郎君なども最近まで描を飼っていたのかも知れ
ない。われわれの連中では和田君は一時犬を飼っておられたが最近はそうでもないようだ。長谷田君の家には名犬秋
田犬がいる。服部君のところにもたしかに犬がいる。僕の処には犬も猫もいる。
(1)谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな」参照。なおこの小説は全くつまらぬことに異常な努力を払ったものであるとは思
うが、猫を描いて技まさに神にちかいものがあるといってよい。漱石の『猫』の如きは猫のかいた『吾が輩は人間である』
に過ぎない。
(東北帝国大学経済学友会『経済学友会報』第二号、一九三六年一一月刊)