宇野弘蔵あるいはマルクスとスピノザ(日本資本主義論争)
参考:
NAMs出版プロジェクト: 201411 Platypus There is no such thing as Japanese Marxism - Platypus
http://nam-students.blogspot.jp/2014/11/201411-platypusthere-is-no-such-thing.html
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/blog-post_80.html
真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。
(スピノザ『エチカ』第一部公理六 ) http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note1a6
マルクスはスピノザに学びつつスピノザの体系に異議を唱えた。
「たとえばスピノザの場合でさえ、彼の体系の本当の内的構造は、彼によって体系が意識的に叙述された形式 とはまったく違っている」
(ラサール宛書簡1858年5月31日 大月全集29巻、438頁)
https://maruen.jugemu-tech.co.jp/ImageView?vol=BK03_29_00&p=486 (会員のみ閲覧可能)
しかし、マルクスの体系こそスピノザに従属する(べきな)のである。
(例えば、マルクスが前提とした複利を伴った貨幣体系はその実体経済と一致しない。スピノザの言葉で言えば、観念とその対象が一致しないのだ。)
マルクスの理論を貫徹するなら外側から倫理を再導入する必要がある。
柄谷がカントを導入したように。
ドゥルーズもマルクス的唯物論を展開する際に精神分析を批判的に導入したが、そもそもスピノザの 、
「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や、受動であることを止める」
(エチカ第5部定理3)
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note5p3
という理論は精神分析を先取りするものなので、(スピノザを基礎に置くならば)マルクスのように倫理の不在を外から補完する必要はない。
そこで本題だが、スピノザからマルクスを見た先駆者に宇野弘蔵がいる。
宇野は東北大学で教えている時、ライプニッツ研究者の河野与一と知り合い。スピノザを経済学に応用する視座を得た。
大黒弘慈は以下のように指摘している。
「…宇野は,資本の物質的過程に則した原理の純粋化(方法の模写)と,その純粋 化によって要請される政策目標設定との「同時並行性」を指摘するのであるが, この種の「唯物論」がスピノザの「心身二元論」に着想をえていると,宇野自身 によって述懐されていることは,十分に注意されてよい。 宇野自身によるその説 明がない以上,その真意は測りかねるが,たとえばアルチュセールによれば, 「無神論者」スピノザは,敵のもっとも強い陣地たる神=無限実体から始める。 これは並行する二つの属性,思惟(精神)と延長(身体)の無限様態に自己を実 現する。しかしスピノザの方法は,情念(身体)に対して,知性(精神)からの 制圧=改善を期待するところにあるのではない。「心身二元論」「心身並行論」 の名で知られるスピノザのテーゼは,しかし精神が身体から切り離されていると いうことでもない。精神が身体と「ともに」思考するということであり,一方の 他方に対する優越を禁じているのである。 この関係は,国家と資本とのあいだに おいても想定可能である。つまり国家(精神)は,資本(身体)から切り離され えないばかりか,資本(身体)と「ともに」ありながら,資本と「ともに」思考 する。国家と資本もまた,厳密に「並行関係」を保ちながら,際限のない過程を 展開するのである。国家という「精神」は,ヴェーバーの認識とは反対に,資本 の動向に対して,外からその行程を歪めることなく,資本という「身体」と「と もに」,あるいは資本という「身体」 に「おいて」 しか思考できない。 こうした 理解を示すかのように,宇野は政策と原理との関係を,スピノザにおける精神と 身体との関係になぞらえるのである (宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:476)。」
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007より
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期第 20 号,太田出版 他を纏めたもの)
参考:
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て―スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」
(1935年 東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号掲載、『『資本論』と私 』宇野 弘蔵 (著), 櫻井 毅 御茶の水書房 (2008/01)に再録)
これだけでは何のことかわからない人もいるだろうが、プルードンがヘーゲルの弁証法を否定したこと、マルクスの欠点がヘーゲルの弁証法を引き摺ったことにあること、ソ連や中国の政治体制が弁証法による止揚の政治的適用であること等を考え合わせると、その重要性がわかるだろう。
柄谷行人が先の講演でも強調したように、そこに国家と資本を双頭として見ることを可能にする視座があるのである。これは新たなアソシエーション、平等と自由を併せ持ったそれを具体化する際にも必要な考え方だ。
追加資料:
宇野弘蔵「経済政策の起源及性質に就て
——スピノーザ哲学体系第三部「感情の起源及性質に就て」参照」(全文)
「序言
経済政策に就て記述した大抵の人々は、恰も彼等が商品経済の法則に従う商品経済的の
物を取り扱うのでなくて、商品経済の外に在る物を取り扱うような方法を取っている。
云々
定義
一、二 略
三、経済政策とは商品経済の運動を増加し、或いは滅少し、促進し或いは防止する商品
経済の発動、及びそれと同時に、これらの発動の観念であると解する。
それ故に若し社会がこれらの発動の妥当なる原因であり得るならば、社会は政策を働'と
解し、然らざる場合には受'働'と解する。
仮定
一、商品経済の社会はその活動を増加或いは減少する多くの仕方において刺戟され、又
同様にその活動力を増加或いは減少しない他の仕方においても刺戟されることが出来る。
二、商品経済の社会は多くの変化をうけ、且つその際に対象の印象或いは痕跡に従って
物の同じ表象像を維持することが出来る。
定理
一、政治は或働を為し、又或る働を受ける。即ち政治は妥当なる観念を有する限りに於
いて必然に或る働を為し、又非妥当なる観念を有する限りに於いて必然に或る働を受ける。
証明。略
系。これから、政治は非妥当なる観念を一層多く有するに従って益々多くの働を受け、
又反対に、妥当なる観念を一層多く有するに従って、益々多くの働を為すことが起こる。」
(2008年お茶の水書房、宇野弘蔵『『資本論』と私』271-272頁より。同書解説ではスピ
ノザのパロディと解釈される。初出は1935年、東北帝国大学 研究年報「経済学」第2号。)
参考:
宇野弘蔵『資本論五十年』上,法政大学出版局1973]:475-476頁
大黒弘慈 「宇野理論形成の思想的背景 ―純粋と模倣― 」2007
http://www.unotheory.org/files/daikoku.pdf
(これは、大黒弘慈「宇野弘蔵の『純粋』-戦前・戦中の思想形成-」1999『批評空間』第II期
第20号,太田出版 他を纏めたもの)
スピノザ『エチカ』第三部序言
「感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然
物について論じているのではなくて、自然の外にある物について論じているように見える。…」
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3pr
定義
三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状
〔刺激状態〕、また同時にそうした変状の観念であると解する。
そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、
そうでない場合は受動と解する。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3d3
要請
一 人間身体はその活動能力を増大しあるいは減少するような多くの仕方で刺激(アフィキ)される
ことができるし、またその活動能力を増大も減少もしないような仕方で刺激(アフィキ)されることも
できる。 …
二 人間身体は多くの変化を受けてしかもなお対象の印象あるいは痕跡を、したがってまた事物の
表象像を保持することができる。…
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3post
定理
定理一 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精
神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて
必然的に働きを受ける。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1
定理一系
系 この帰結として、精神は非妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きを受け、
反対に、妥当な観念をより多く有するに従ってそれだけ多く働きをなすことになる。
http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note3p1c 要請の訳語に仮定を採用しているのはなるほどと思った。
(自然)物 (観念)
商品 経済政策=感情
経済=身体 政治=精神
補足:
(ヘーゲルとの対応)
スピノザの二元論は一元論のなかでも止揚されない。
ただし宇野の経済原論はヘーゲル論理学に対応する。
小論理学目次と対応させたメモが『『資本論』と私』に載っている。
以下、恣意的に図解すると、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/_☆利子__\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\<概念論> /\ &
/推論\☆分配論/__\ ☆宇野弘蔵『経済原論』
/ 主観的\ /客観 \(「資本論」と私』冒頭参照)
/[概念]_判断_\/______\
/\ ☆利潤 ☆地代 /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/_☆資本__\☆『経済原論』 /☆資本の再生産過程
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \☆流通論/ \ / \☆ 生産論/ \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/_☆商品__\/_☆貨幣__\☆資本の生産過程 /☆資本の流通過程
ヘーゲルのみだと、
/\
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\ ヘーゲル『エンチクロペディ』
/\ <概念論>/\
/推論\ /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\/______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <有論> /\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\/______\/______\
参考:ヘーゲル
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#notee1
宇野弘蔵のみだと、
/\
/ \
/ 利子 \
/______\
/\ <分配論>/\
/ \ /__\
/ 利潤 \ / 地代 \
/______\/______\
/\ /\
/ \ 宇野弘蔵 資本の\
/ 資本 \ 『経済原論』 /再生産過程
/______\ /______\
/\<流通論> /\ /\ <生産論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 商品 \ / 貨幣 \ /資本の \ /資本の \
/______\/______\/_生産過程_\/_流通過程_\
本来の対応はもっと細かい。
宇野は戦後、スピノザからヘーゲルに後退した(ウェーバー以上にヘーゲルは批判されるべきだった)。
原理論はヘーゲル、
段階論はスピノザ、ということだろう。
(著作集第七巻502頁解説参照)
宇野弘蔵『経済原論』 目次
序
序論
第一篇 流通論
第一章 商品
第二章 貨幣
第三章 資本
第二篇 生産論
第一章 資本の生産過程
第一節 労働生産過程
第二節 価値形成増殖過程
第三節 資本家的生産方法の発展
第二章 資本の流通過程
第三章 資本の再生産過程
第一節 単純生産〜〜資本の再生産と労働力の再生産
第二節 拡張再生産〜〜資本家的蓄積の現実的過程
第三節 社会総資本の再生産過程〜〜価値法則の絶対的基礎
第三篇 分配論
第一章 利潤
第一節 一般的利潤率の形成〜〜価値の生産価格への転化
第二節 市場価格と市場価値(市場生産価格)〜〜需要供給の関係と超過利潤の形成
第三節 一般的利潤率の低落の傾向〜〜生産力の増進と景気循環
第二章 地代
第三章 利子
第一節 貸付資本と銀行資本
第二節 商業資本と商業利潤
第三節 それ自身に利子を生むものとしての資本
第四節 資本主義社会の階級性
参照:
http://komesen.sblo.jp/article/43615480.html
http://homepage3.nifty.com/tanemura/re2_index/U/uno_kozo.html
追加資料:
ヘーゲル 宇野弘蔵
小論理学 経済原論 メモ 1947?
存在論 第一篇 流通論
・質 第一章 商品
・存在 第一節 商品の二要因
・定在 第二節 交換価値=価値形態
・向自存在 第三節 貨幣形態=価格
・量 第二章 貨幣
・純粋量 第一節 価値尺度としての貨幣
・定量 第二節 流通手段としての貨幣
・度 第三節 貨幣
・限度 第三章 資本
本質論 第二篇 生産論
・現存の根拠としての本質 第一章 資本の生産過程
・純粋な反照諸規定 第一節 労働生産過程
・同一性 a 労働過程
・区別 b 生産過程における労働の二重性
・根拠 c 生産的労働の社会的規定
・現存在 第二節 価値形成増殖過程
・物 第三節 資本家的生産方法の発展
・現象 第二章 資本の流通過程
・現象の世界 第一節 資本の価値と流通費用
・内容と形式 第二節 資本の回転
・関係 第三節 剰余価値の流通
・現実性 第三章 資本の再生産過程
・実体性の関係 第一節 単純生産 資本の再生産と蓄積
・因果性の関係 第二節 拡張再生産 資本家的蓄積の現実的過程
・交互作用 第三節 社会総資本の再生産過程
概念論 第三篇 分配論
・主観的概念 第一章 利潤
・概念としての概念 第一節 剰余価値の利潤への転化
・判断 第二節 一般的利潤率の形成
・質的判断 a 異なる部門の利潤形成の形態
・反照の判断 b 商品価格の生産価格の転化
・必然性の判断 c 生産価格と市場価格 資本の競争
・概念の判断
・推論 第三節 一般的利潤率の低落の傾向
・質的な推論 a 生産力の増殖による超過利潤の追求
・反照の推論 b 一般的利潤率の傾向的低下の法則
・必然性の推論 c 資本家的生産方法の内的矛盾の展開
・客観 第二章 地代
・機械論 第一節 差額地代とその資本形態としての第一形態
・化学論 第二節 差額地代の第二形態
・目的論 第三節 絶対地代
・理念 第三章 利子
・生命 第一節 貸付資本と銀行資本
・認識 第二節 商業資本と商業利潤
・認識 a 流通資本の資本化
・意欲 b 商業利潤と商業資本の倒錯性
・絶対理念 第三節 それ自身として利子を生むものとしての資本
(第四節 資本主義社会の階級性)
http://ja.wikipedia.org/wiki/エンチクロペディー#.E8.AB.96.E7.90.86.E5.AD.A6
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/2209/1/ronso0660400320.pdf
/\
それ自身として
/利子を生むものとしての
/_資本___\
/\ /\
/__\<利子>/商業資本と
貸付資本と\ 流通\商業利潤
/_銀行資本_\資本の\/商業利潤と商業資本の倒錯性
資本家的生産方法の内的矛盾の展開\ 資本化 /\
☆一般的利潤率の低落の傾向\ /__\
生産力の増殖による超過 <<分配論>> /絶対地代\
生産力の増殖による超過利潤の追求\ 利潤\生産価格と /__\/__\
/\ の追求/市場価格 差額地代と /\
/__\<利潤>資本の競争 その資本形態<地代>/__\
☆剰余価値の利潤への転化\☆一般的利潤率の形成/としての\ /差額地代の
/__\/__\/異なる/商品\/_第一形態_\/_第二形態_\
/\ 部門の 価格の /\
/ \ 利潤形成の 生産価格の 社会総資本の
/ \ 形態 転化 /再生産過程
/______\ /__\/__\
/\ /\ 宇野弘蔵 /\<資本の /\
/ \<資本>/ \ <<<経済原論>>> 単純生産 \再生産過程>_\
/ \ / \ 資本の再生産と\ /\拡張再生産
/______\/______\ /__\蓄積_\/資本家的蓄積の現実的過程
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ 資本家的生産方法\ /__\
/貨幣形態\ <<流通論>> / 貨幣 \ /の発展 \ <<生産論>> /剰余価値の流通
/__=価格_\ /______\ 生産的労働の/______\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\ 社会的規定\<資本の /\ /\<資本の /\
/ \<商品>/ \ / \<貨幣>/ \ / \生産過程> \ /__\流通過程>__\
商品の二要因\ /交換価値\ /価値尺度\ /流通手段\ 労働生産過程\ /価値形成\ 資本の価値\ /資本の回転
/______\/=価値形態_\/としての貨幣\/としての貨幣\/労働_労働の\/_増殖過程_\/と流通費用_\/__\/__\
過程 二重性
ヘーゲル論理学
http://nam-students.blogspot.jp/2010/09/blog-post_5795.html?m=0#noter2
/\
/体系と方法
/絶対理念\
/本性\/方法、弁証法
/\ /\
/類_\ 理念 /善の理念
/\生命/\ /\認識/真の理念
/個体\/過程\/分析\/総合\
/\ (算術、解析)/\
/必然性 /__\
/\推論/\ <概念論> /\目的的関係
/質_\/反省\ /__\/__\
/\ /概念 /\ /\
/__\主観的 /必然性 /__\ 客観的/__\
/\概念/\ /\判断/\ /\機械的\ /化学的/\
/__\/__\/質_\/反省\/__\/__\/__\/__\
/\ /\
/ \ /__\
/ \ /交互作用\
/______\ /__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ 限度 / \ <論理学> /__\ 現実性/__\
/ \ / \ /\実体性\ /\因果性\
/______\/______\ /__\/__\/__\/__\
/\ /\ /\ /\
/ \ / \ /__\ /__\
/対自存在\ <存在論> / 度 \ /\物 /\ <本質論> /\相関/\
/______\ /______\ /__\/__\ /__\/__\
/\ /\ /\ /数学 /\ /\ /\ /\
/ \ 質 / \ / \ 量 / \ /根拠\存在本質/ \ /__\ 現象 /__\
/ 存在 \ /現存在/\ /純粋量 \ /定量 \ /反省規定\ /\ 実存\ /現象世界\ /内容と形式
/______\/___/__\/______\/______\/同一性/区別\/__\/__\/__\/__\/__\/__\
上記は宇野が実際に参照したヘーゲル小論理学とは訳が違う。また経済原論は新旧2種があり、上記はあくまで宇野の手書きメモに従った。誤読があるかも知れない。
また、宇野は意図的に生産論と流通論の名を逆にしている(商品経済が資本主義の前提だから流通が先でいいのだ)。
(宇野の案だと単純・拡張再生産が生産論に収まるわけだから間違いではない。マルクス『資本論』↓では逆になる。)
労働の位置づけもマルクス『資本論』とは違うが宇野の方が収まりはいい。そのかわり労働価値説は強調されないかも知れない。
マルクス『資本論』 絶対的5〜9、 商品と
__________相対的10〜13__貨幣〜3
|資本の変態|(資本の |剰余|資本|拡大|単純|
| と循環| 循環過程)価値|へ4|価値形態論1
| 1〜6 |1、2、3| 〜16 一般的|貨幣|
|_二資本の流通過程__|_一資本の生産過程__|
| |拡大|単純|時間| | 資本の |
|資本の回転|再生産 ・|_労 賃_|蓄積過程 |
|7〜17 社会的総資本|17〜20|21〜25|
|_____|18〜21|出来高__|_____|
| | 生産過程49|資本|労働|
| 利潤 | | 競争の |_三位一体48
| 1〜20| | 外観50|土地| |
|____三資本主義的生産の総過程への転化|__|
| 絶対・|差額| 資本家|労働者
| 利子 |_地代_・| 生産51|_諸階級52
|21〜36|37〜47| 分配と |地主| |
|複利24_資本主義的・|_____|__|__|
http://nam-students.blogspot.jp/2011/10/blog-post_29.html?m=0
猫が資本主義的で、犬が封建的だろう
ペットは治療だから症状と逆の処方になる
漱石等神経症には猫が効く
ただし漱石は犬派だったらしい
宇野弘蔵著作集別巻 (1974年8月16日発行 岩波書店)73〜75頁
犬・猫・人間
ーー猫は封建的であるーー
谷崎潤一郎も大体そういうふうにいっていたと思うが(1)、猫は人前では決してフザケないものである。客が来ると主
人の方は見向きもしないようなふりをして客の膝の上にあがって愛想をする。また主人の方でもさも御迷惑なものを
飼っていますといった態度でこれをつまんで障子の外に出したりする。猫をつれて散歩に出かける主人はない。勿論
猫は散歩の連れとして多少小さ過ぎるという欠点は否定出来ない。が、しかし散歩には向かないような小さなのでも
犬なら連れて歩く人かある。どうも猫には元来そういう性質が欠けているのではないかと思う。そしてそれは猫が封
建的であることの有力な論拠をなすものである。というのは散歩は資本主義の産物の一つであるからだ。わが国でも
西洋文明が入って開化するまでは二人連れで散歩というようなことはなかったらしいが、最近では諸君の御覧の通り
だ。もっとも僕は人間を猫と混同するわけではないが、最近の資本主義の発展がこういうことにも随分著しい変化を
齎らしたものだということからつい連想する。つまり最近の日本資本主義は猫文明が犬文明にかなりの程度に交替し
たものだと思われて仕方がないのだ。或る有名な西洋の学者の説によると犬が喰い余した骨を地中に埋めて置くこと
から人間は資本の蓄積を学んだということだが、犬は何といっても資本主義的である。或いはこの学者のいうように
資本主義の元祖かも知れない。犬は始めての客であるとしばらくは敵意を示し、漸くお愛想を始めても主人にジャレ
つくことを寧ろ見せびらかせる。犬はなかなかに西洋風だ。もっともこの頃は日本犬が大分もてはやされることにな
ったが、これなども日本資本主義の特殊性を示すものであろう。とにかく我が国が資本主義化して来たことを表わし
ているといってよい。犬公方なんかはその点では世に理解されなかった先覚者だったといえる。例えば映画にしても
猫が活躍するというものは少ない。芝居の方になると犬が出るとやや滑稽なものになり易い。犬に芝居がやれないと
いうのではないが、すればいわゆる犬芝居になるわけだ、大体糸にのらない。然るに蓄音機による西洋音楽は犬には
理解されるものらしい。もっともあの主人の声に聞き入っているマークは僕の余り好まないところである。あれでは
蓄音器愛好者を犬に見たてたものとしか考えられない。何とかして改めてほしいと思うが、不適当とは言えない。先
年なくなられたわが国社会主義者の巨頭堺利彦氏は猫が好きだった。これに反して山川均氏の一党は犬が好きのよう
だ。社会主義者の間にも時代の推移は免れないものと見える。堺氏の理論に何だか古風なものが残っていたのはこの
猫のせいではないかと思われる。山川氏の如きはしかし最近では鳥が随分気に入ったと見えて犬が万物の霊長だとす
れば鳥は万物の次長ぐらいにはなるといって、犬好きの荒畑寒村氏に答えている。いささか行き過ぎた文明のようで
ある。考えて見ると先年来の封建論争で最初はかなり山川君に感心して居られた大内兵衛氏はその時分までは猫を飼
っておられたようだ。その後間もなく労農派の重鎮として奮闘せられるようになったが、それはセッパードの立派な
のを飼われてからのことだ。描や犬を飼うということも馬鹿にならぬことである。向坂君の犬好きはまた大変だ、僕
等は会う度に犬の飼い方の注意を受けている。ことによると山田盛太郎君なども最近まで描を飼っていたのかも知れ
ない。われわれの連中では和田君は一時犬を飼っておられたが最近はそうでもないようだ。長谷田君の家には名犬秋
田犬がいる。服部君のところにもたしかに犬がいる。僕の処には犬も猫もいる。
(1)谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな」参照。なおこの小説は全くつまらぬことに異常な努力を払ったものであるとは思
うが、猫を描いて技まさに神にちかいものがあるといってよい。漱石の『猫』の如きは猫のかいた『吾が輩は人間である』
に過ぎない。
(東北帝国大学経済学友会『経済学友会報』第二号、一九三六年一一月刊)