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http://nam-students.blogspot.jp/2014/04/blog-post_18.html(カントと建築:本頁)
カントと建築(「カント図解:別バージョン」を改題) : 再掲
http://yojiseki.exblog.jp/8037656/中島義道 著『カントの人間学』(講談社現代新書 )で、カントが自宅の窓から見られる教会が隠れるからポプラの枝を切ってくれと言ったというエピソードが紹介されています。
その後『カントその生涯と思想』(グリガ著、法政大学出版p206)および『カントその人と生涯』(創元社p261)を調べたところカントが窓から見ていた教会はレーベニヒト教会(画像)だということがわかりました(『カントの人間学』にでてくる教会名は間違い)。第二次大戦による損壊で現在は存在していないようです。
その後『カントその生涯と思想』(グリガ著、法政大学出版p206)および『カントその人と生涯』(創元社p261)を調べたところカントが窓から見ていた教会はレーベニヒト教会(画像)だということがわかりました(『カントの人間学』にでてくる教会名は間違い)。第二次大戦による損壊で現在は存在していないようです。
第一批判でも「建築術」といった記述がありますから、カントの言う美は建築的=構造的なもののような気がします。
下の絵にある手前左の小さな家がカントの初期の家です。プロテスタント的慎ましさがうかがわれます。
http://www.hkbu.edu.hk/~ppp/Kant_gallery.html
http://www.hkbu.edu.hk/~ppp/K1tools.html
(弁証法においては裁判のモデルが該当するが)教会の構造がカント哲学と呼応するような気が、、、
「私の言う建築術とは、学的体系を構成する技術のことである。」純理b860
参考:
ちくま新書『カント入門』(石川文康)より
<ここに一枚の絵がある(前ページ参照)。本書のテーマである十八世紀ドイツの哲学者カント(Immanuel Kant,一七二四―一八〇四)を描いたものである。たいていのカントの肖像画は端正にすぎ、生気にとぼしく、いちじるしく個性を欠いたものであったりする。ここに掲げた鋼版画はめずらしく書斎のカントを描いたものであり、しかも書斎の窓から見える背景をリアルに考証したものである。カントの没後から一世紀あまりを経た、二十世紀初頭(一九一二年)、カントと同じケーニヒスベルクの画家であるハインリヒ・ヴォルフによって描かれた作品である。カントと同時代の作品ではないが、それだけに、生き生きとした実在感を再現しようとする作者の意欲がそこから迫ってくる。窓から見えるケーニヒスベルク城の六角塔はもとより、はるかに位置するレーベニヒト教会の塔もリアルに描かれている。>
Löbenicht Church - Wikipedia, the free encyclopedia
Löbenicht Church - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%B6benicht_Church559
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Here under follows the transcription of the chapter Kant of Houston Stewart Chamberlain's Immanuel Kant, published by John Lane, The Bodley Head, 1914.
177
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Löbenicht Church - Wikipedia, the free encyclopedia
返信削除http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%B6benicht_Church
File:Löbenichtschen Kirche 001.jpg
返信削除http://en.wikipedia.org/wiki/File:Löbenichtschen_Kirche_001.jpg
5+7=12云々は、
返信削除時計を念頭に置いていたのだろう。
カント『純粋理性批判』序論
返信削除http://www.geocities.jp/hgonzaemon/pure-critique-introduction.html
V
例えば、7+5=12 という命題は分析的命題で、7と5の合計という概念から矛盾律にしたがって引き出されると考える人がいるかもしれない。しかし、よく見ると7と5の合計という概念は、二つの数を結びつけて一つにすること以外には何も含んでいないことが分かる。
二つの数を合わせた一つの数が何であるかという情報は、その中には含まれていないのである。わたしは7と5を結びつけることを考えるだけでは、決して 12という概念を導き出すことはできない。わたしはそのようなありうべき合計という概念をどれだけ分析してみても、そこに12という数を見つけることはで きないのである。
そのために我々は7と5の合計という概念の外に出て、直観の助けを借りなければならない。その直観とは例えば二つの数の一方に対応する五本の指や、ゼン ガーがその『算数』の中で示したような五つの点である。そして、この直観によって与えられた5の一つ一つを順番に7の概念に加えていくのである。
つまり、わたしは7から出発して、5という概念の代わりに手の五本の指を直観として使って、取りのけておいた一つ一つを5になるまで、このイメージにしたがって、7に対して順番に足していくのである。そうして12という数字が出来上がるのを目にするのである。
7に5を足すということは、「7と5の合計」という概念の中に見つけることができるが、その合計が12という数に等しいということは、その概念の中には ない。つまり、数学的命題はつねに総合的なのである。これはもっと大きな数を扱うならさらにいっそう明らかになるだろう。その場合には、どれだけ手元にあ る概念をひねくり回してみても、直観の助けなしにそれらを分析するだけでは、けっして合計の数を発見できないことが明白だからである。
まず最初にカントが非ユークリッド的な空間を、観念的なものとしてであれ、考えて いたであろうと思われる箇所を引用しておこう。カントは彼の考える空間の概念を述べ たあと、次のようにいう。「したがって私たちの論究は、対象として私たちの外に生じ
返信削除・・・
ているあらゆるものに関して、空間の実在性(すなわち、空間の客観的妥当性)を教え ・・・
るが、しかし同時に、事物に関する空間の観念性をも教える。だがそれは観念性が理性
によってそれ自体において考察される場合である。いいかえれば、私たちの感性を考慮 ・・・・・・
しないならばである。それだから私たちは空間の経験的実在性(あらゆる可能的な外的 ・・・・・・・
経験に関しての)を主張するが、同時に空間の超越論理観念性をも主張する。いいかえ
れば、私たちがあらゆる経験の可能性の条件を除去して、物それ自体の根底に横たわる
なにものかとしての空間を想定するや否や、空間はなにものでもなくなるということで
ある」(A27・28 )ここでカントははっきりと、空間の実在性と空間の観念性の2つがあ B43・44
ることを述べている。空間の実在性としてカントが考えたのは、ユークリッド幾何学に 基づく空間の概念である。とするならば、空間の観念性として、非ユークリッド幾何学 が念頭にあったと考えるのが自然であろう。空間の実在性に対立して、観念性という言 葉だけを述べただけではあるまい。それに対応する概念があってこそ述べられたといえ よう。論者がカントにおいて観念的なものであるにしても、非ユークリッド幾何学なる ものがあることに気づいていて、それだからこそこのように述べたのだとする理由であ る。では空間の実在性とはなにか。カントがユークリッド幾何学に基づく空間を実在的 なものとした理由はなにか。カントの空間論を、その解釈をも含めて、その「感性論」
(A19・49 )から要約してみよう。