金曜日, 6月 05, 2015

田岡嶺雲 老子



              (老子リンク:::::::::

和訳老子・和訳荘子: 全 - 田岡嶺雲 - Google ブックス
https://books.google.co.jp/books?id=4SaEgHF2ufsC&hl=ja

近代デジタルライブラリー - 和訳老子・和訳荘子

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/753446
和訳老子・和訳荘子
著者 田岡嶺雲 訳注
出版者 玄黄社
出版年月日 明43.4
シリーズ名 和訳漢文叢書 ; 第1編

和訳老子・和訳荘子(田岡嶺雲) 1_Taiju's Notebook
http://www2s.biglobe.ne.jp/Taiju/1910_wayaku_roso_1.htm
如何か老子を讀むべき

一、夏殷二代の忠質を承けて、周に至つて文勝つ。文の勝つは即ち飾の勝つ也、飾の勝つは即ち巧の勝つ也、巧の勝つは即ち詐の勝つ也、詐の勝つは即ち智の勝つ也、智の勝つは即ち僞の勝つ也。僞は人爲也、人の爲す也、人の爲す所あるは即ち欲する所あれば也、欲する所あれば則ち爭ふ、爭へば則ち競ふ、爭ひ且競へば則ち亂る。老子周衰に生る。其の世降り俗漓き(*うすき)を見、之を濟はんことを思ふ、乃ち道を説く。老子の所謂道は天地萬物の自ら成り自ら生ずる所以の道にして、即ち自然也。萬有皆形あり象あり、道は萬有を統ぶる所以にして即ち一也、よく萬有を統べて而して形象の見るべきあるなし、即ち無也。有なるものは實也、道は無なるが故に即ち虚也。實なる者は變ず、道は虚なるが故に常。變ずる者は動いて而して死、道は常なるが故に靜にして而久。動く者は益して而して進む、道は靜なるが故に損して而して退く。進む者は陽にして剛也、道は退くが故に陰にして柔也。陽なる者は即ち明、道は陰なるが故に昧、昧なるが故に即ち拙、拙なるが故に即ち樸、樸なるが故に即ち純、純なるが故に即ち素、素なるが故に即ち無知にして無慾、無知にして無慾、即ち爭はず、競はず。爭はず競はず、故に謙に居り下に居り弱を守り雌を守る。謙下に居り雌弱を守る、是を德といふ。老子の所謂德は道の自然に順つて消極に處るに在り、無爲を爲し、無事を事とし、甚を去り奢を去るを旨となす。甚を去り奢を去るは文を矯むる所以也、之を矯めて質に反す、其理想とする所は古に復るに在り。夫れ時弊に反動する者は毎に古に復らんとす、ルイ十四世の華耀の世ありて、乃ちルーソーの民約説あり。其古の自然に復らんとするに於て老子と相似たり。老子を讀む者は先づ此を體せざる可からず、然らざれば其正解を失はん。
一、夫れ人の思議し得べき者は皆相待(*相対)也、有なきの無、前なきの後、左なきの右、高なきの下を思議する能はず。而るに老子の道は絶對也、之を名けて無と曰ふといへども有無の無に非ず、有無を絶するの無也、非無の無也、非無無の無也。故に思議す可からず言説す可からず。窈兮、冥兮、恍兮、惚兮、亡きが如く有るが如し、此境無念無想の三昧地に入りて、始めて之を髣髴するを得べし。蓋し萬有、形象ある者は皆相待也、我と萬有と亦相待也、故に我を有すれば、竟に相待を離るゝこと能はず。若し能く自我の識を泯ぼさば、差別自から融けて乃ち物我なく、彼此なく、唯太一あるのみなるを得ん。然れども最も泯し難きものは自我の識、最も執し易きものは差別の見なり、故に老子の所謂道なる者は最も覺り難し。若し道の一字に於て透關し得ずんば、老子五千言、終に渡るに津を得ざらむ。是れ老子解し難しと稱せらるゝ所以の一。
一、老子其説奧玄、其文奇古、既に解し易からず、况や且つ其書傳はること久しく、誤脱訛譌の多きを免れずして、而して加之諸註家の、解を得ざれば動もすれば輙ち字句の改竄を濫りにするあり、屋上屋を架して、愈よ艱澁を加ふ。故に章句の一々に就いて其解を求めんとすれば、却て大義に通ずることを失はん、讀者其大綱を擧げ、其小節を略して可也。
一、老子章を分つ一定ならず。或は五十五、或は六十四、或は六十八、或は七十二、或は八十一。今其流布最も多きを以て劉向定むる所の八十一章を採るも間々私見を以て出入を加ふる所あり。蓋し分章もと諸註家の恣意に出づ、故に必ず章の斷つに從て義を絶たんとすれば、却て不通を致すを免れず、讀者必ずしも拘せずして可也。
一、老子象徴の語を造りて説理に代ふること多し、玄牝といひ、谷神といひ、和光同塵といひ、塞兌閉門といふの類是れ、讀者若し理を推して義を求めんとすれば乃ち迷はん。
一、老子好で逆語を用ふ、明道昧きが如く進退退くが如しといひ、上德德あらず是を以て德あり、下德德を失はず、是を以て德なしといふの類、一見矛盾に似て本意は否らず、讀者措詞の詭に惑ふなかれ。
一、老子文中韻を押める處あり、韻のために語を造る、故に字を措くこと往々にして險なるを免れず、讀者語の爲に意を害すること有る可からず。
一、老子の長生久視をいふ、唯柔弱謙下の身を保つ所以たるをいふのみ。仙家の不老不死の義に非ず。又㬛(*{日+翕})めんとすれば必ず固と之を張り弱めんとすれば必ず固と之を強むといふが如き、是れ天地消長盈虚の理をいふのみ、刑名者流(*法家)の刻薄權術と同じからず。讀者誤ること莫れ。
一、註家紛々たり、或は儒に牽合し或は佛に附會す、然れども老子は是れ自ら老子、老子は須らく老子を以て解すべし、否らざれば老子の旨を去るや遠し、今此書諸註を參酌するも、多く私見を以て解し、必ずしも雷同せず、功罪倶に自ら負ふ。
明治四十三年正月
                               田岡嶺雲 識


和訳老子・和訳荘子: 全 - 田岡嶺雲 - Google ブックス
https://books.google.co.jp/books?id=4SaEgHF2ufsC&hl=ja









Amazon.co.jp: 和訳老子・和訳荘子: 田岡嶺雲: 本

www.amazon.co.jp/和訳老子・和訳荘子-田岡嶺雲/.../B008UQ...
Amazon.co.jp: 和訳老子・和訳荘子: 田岡嶺雲: 本. ... 和訳老子・和訳荘子 - – 古書, 1910. 田岡嶺雲 (翻訳). カスタマーレビューを書きませんか? すべての フォーマット およびエディションを表示する 他のフォーマットおよびエディションを非表示にする. Amazon ...

Amazon.co.jp: 田岡 嶺雲 - 古書: 本

www.amazon.co.jp/古書-田岡.../s?...27%3A田岡%20嶺雲
19件の結果 本 : 古書 : "田岡 嶺雲" ›. キャンセル. 商品の詳細 ... 嶺雲揺曳 (1965年) ( 明治文献資料叢書〈社会主義篇 5 明治文献資料刊行会編〉). 1965. 田岡 嶺雲 ... 和訳 老子・和訳荘子. 1910. 田岡嶺雲. 現在在庫切れです。 商品の詳細 ...

読書のしすぎで人生詰んだwww - 2ちゃんねる

kohada.2ch.net/test/read.cgi/dame/1344264833/117
もし紙にこだわらないのなら、Nexus7+GooglePlayブックスが最強 慶應図書館蔵書 の古書漢籍がタダで拾える 老荘一冊本 ... 和訳老子・和訳荘子(田岡嶺雲/玄黄社) http://books.google.co.jp/books?id=4SaEgHF2ufsC 古書なんで旧 ...

私の本棚(5月25日):もしもの老子 - BIGLOBEウェブリブログ

s.webry.info/sp/qlove-1947.at.webry.info/.../article_19.html
①「真田一族外伝」田中博文(産学社)1250E ②「江戸東京 名士の墓碑めぐり」(人文 社)1800E ③「日本の近現代史をどう見るか」岩波新書編集部編(岩波新書)820E ④ 「明治叛臣傳」田岡嶺雲(大勢新聞社)1080円・古本⑤「坂本龍馬 ...

田岡嶺雲の文庫版選集 - 黌門客

d.hatena.ne.jp/higonosuke/20120807
こないだ素見のつもりでUさんとワゴンセールに行ったら、西田勝編『田岡嶺雲選集』( 青木文庫1956,以下『選集』)が出ていたので ... ただし「序文は嶺雲が書いたが、かれ が純粹に譯したのは『老子莊子』『荀子』『墨子列子』の三册に過ぎぬ。

和訳老子・和訳荘子(田岡嶺雲) 2_Taiju's Notebook

http://www2s.biglobe.ne.jp/Taiju/1910_wayaku_roso_2.htm#5

如何か莊子を讀むべき

  • 一、老子を讀んで、莊子に至れば、一棹、谿間の曲流を下つて、直ちに太洋の上に浮ぶが如し。眼を放ちて唯淼々を見るのみ、殆ど其方に迷はんとす。老子の解し易からざるは、則ち其言の簡古奇奧なるに在りて、而して莊子の解し易からざるは、則ち其言の荒唐空漠なるに存す。
  • 一、老子は儉を説き、嗇を説き、鋭を挫き雌を守るを説き、柔弱謙下を説く、消極的也。莊子に至つては、逍遙を説き、天游を説き、無方を説き、無何有を説き、是非を齊しうし同異を齊しうするを説き、變化を一にし死生を一にするを説く、積極的也。老子は小に止まらんとし、莊子は大に往かんとす。老子は卑に入らんとし、莊子は曠に出でんとす。老子は虚無に居らんとし、莊子は無礙に游ばんとす。老子は韜晦して自ら藏れんとし、莊子は奔逸して迹を絶たんとす。老子の虚は容れざらんとするの虚也、莊子の虚は容れざるなからんとするの虚也。老子の靜は動かざらんとするの靜也。莊子の靜は動かざるなからんとするの靜也。老子は無を説いて無に即く、未だ始めより無を出でざる也。莊子は空を説いて空を破る、未だ始めより空に入らざる也。老子は爭はず自ら退いて而して閉づ、歛して又歛し、損して又損す。莊子は辯ぜず、是に因りて而して逝く、往かざる所なく、在らざる所なし。老子は小乘也、莊子は大乘也。老子は深くして沈む、世を避けんとし、莊子は高くして擧がる、世を超えんとす。莊子、老子の旨を得て、而して更に之を推開すること一層。
  • 一、老子は虚を説いて、而して其言は則ち實、莊子は虚を説いて、而して其言も亦虚。老子は人の言也、訥と雖ども猶解すべし。莊子は空中の仙樂、縹緲として捕捉す可からざる也。
  • 一、唐宋以下の文、文に格あり、句に法あり、脈絡、段落、抑揚、照應、皆作者の錬烹に成る。秩然として序あり、井然として理あり。故に字を逐ふて解し、句を逐ふて辨じて、全章の意得べき也。先秦の文に至つては則ち否らず、作者唯其言はんと欲する所を言ふて已むのみ。固より格なく、固より法なし。殊に莊子の文其落想既に奇創にして、之を遣るに才力の宏肆を以てす。筆端鼓舞、直ちに其欝勃を揮霍して縱横に奔放す、往かんと欲する所に往き、止まらざるを得ずして止まる、恍洋恣縱己に適するのみ。所謂謬悠の説、荒唐の言、無端崖の辭を以てする者、豈に屑々たる字義章法を以て之を律す可けん哉。故に尋常文字の蹊徑を以て此が解を求めんとすれば、穿鑿に陷らずんば則ち附會に流れん。若かず先づ作者立言の源頭に還り、其大旨の在る所を看取せんには。必ずしも摘句尋字に拘泥せざれ。而る後諷誦玩味、興來り神會せば、小節細目は刄を迎へて自ら解けむ。
  • 一、莊子の文、一篇の中、忽ちにして叙事、忽ちにして議論。忽ちにして説話、忽ちにして譬喩、忽ちにして莊語、忽ちにして寓言、或は離れ或は合し、或は斷ち或は續き、參差錯綜、變化奇幻、窮詰す可からず、端倪す可からず。讀者割裂支離して之を解せんと欲する莫れ。錦繍の離奇、斷つ可からず、截る可らず。
  • 一、莊子の文、或は意既に盡きて語猶絶えざるものあり、或は語既に盡きて、意猶絶えざるものあり。或は意簡にして語繁なる者あり、或は意永うして語短なる者あり。或は意平淡にして、語の却て艱澁なる者あり、或は語淺率にして、意の却て險奇なる者あり。或は前にいふべくして之を後にいひ、後にいふべくして之を前にいふ者あり。或は正意を説いて未だ終らずして、忽ち岐路に入り、層々疊々傍意を説いて長く反らざる者あり、或は全く正意を説き破らず、景物を假り、情趣に托し、比興の具體を以て談理の勃窣(*緩やか、緩慢)を包める者亦あり。莊を解せんとせば、竹影の婆娑を以て天上の月を忘るゝ莫れ。
  • 一、莊子戰國に生る。當時高材逸足の士、辯を奮て雄を競ふ。各、他人の唾餘を嘗むるを恥ぢて、一家の言を立つ。九流百家互に奇を創め新を出だして、相克たんことを惟れ努む。莊子の旨固と是非の辯に拘はるを嫌ふと雖ども、而かも猶之を説いて言ふ所あらんとすれば、則ち亦他と辯ぜざる能はず、辯ずれば則ち相克たんとせざる能はず、相克たんとすれば則ち其言ふ所を險仄にせざる能はず。莊子の文の瓌瑋(*珍奇)、蓋し其思想の奇恣の已むを得ざるに因ると雖ども、亦故らに諔詭を弄して、儕輩を推倒し去らんとせるものなきに非ず。莊子を解せんとする者、徒らに其文の奇に迷離して、其本旨の在る所を失す可からず。
  • 一、漢書藝文志に莊子五十三篇といふ、今存する所三十三篇。其中、贋擬の竄入ありて、悉く莊子の手に出でたるものに非ざるや論なし。内篇七、皆題目ありて且つ一篇中論旨一貫す。想ふに莊子の手定に出づる歟、否らざるも後人删定する時、完くして傳はれる者歟。外雜兩集は各々篇首の兩三字を以て篇に名づけ、又一篇の中説く所雜駁に且文字淺露なる者多し。是れ或は固と莊子の雜著に係り、中に贋手を混ぜるか、或は後の莊子の説を傳ふる徒の手になり、雜ゆるに莊子の斷片を以てせる者か。而かも外雜兩集、亦内篇と理義互に相發明す、必ずしも捨つ可からず。但魚目の珠に混ずるもの、善く讀む者自ら之を辯ぜん。
  • 一、莊子の文、手に觸るゝ者皆採る。字面必ずしも錬らず、必ずしも醇雅を擇ばず。故に其中、俚俗の方言を雜へ、當時の套語を援けるが如きもの無きに非ず。此等の言語、當時に在ては、人々の口に熟し耳に親しき者、而かも此くの如きものは、多く一時に行はれて長く傳はらず。後の人之を解せんとするも、纔に之を揣摩し得べきのみ。若し敢て解せんとすれば牽強に失せん。莊子を讀む者は又之を知らざる可からず。
  • 一、莊子の文中、間ま心齋といひ、坐忘といひ、見獨といひ、朝徹といふが如き語あり。其工夫を説く、甚だ佛家の禪定と相類せり。或は疑ふ、南方の地當時早く既に印度と相通ずる者あるに非ざるやを、或は又相類せる思想は相類せる工夫を用ふるに至れる者乎。但讀者其相同じき所あるを見ば、莊を解するに於て資するあらん。
  • 一、莊子好んで所謂寓言を説く。其富贍なる想像力は、天地間一切の事物を將ち來りて盡く其材となす。止に、上、日月風雲より下、禽獸虫魚に至る有形有象の物のみならず、亦無形無象の抽象的觀念をすら擬人とし、此に名を命じ此をして云爲せしむ。其奇警、人間意料の外に出づ。莊子を讀むもの、之を識らざれば莊子の文の妙を觀るに於て、其興味の半を殺がれん。
  • 一、莊子を註する者、郭子玄より以下、其多きに勝へず。此書必ずしも據らず、私見を加ふるもの亦少からず。其疵謬固より大方の指摘を待つ。但諸註家と雖ども亦各其私見を以て解する而已。而して吾獨り其私見を以て解す可からざらん哉。憾むらくは、相距る千古、莊叟を地下に喚起し來つて、親しく彼に叩くに吾が私見を以てする能はざるを。
明治四十三年三月
田岡嶺雲 識


和譯莊子


1 Comments:

Blogger yoji said...

田岡嶺雲の文庫版選集 - 黌門客
d.hatena.ne.jp/higonosuke/20120807
こないだ素見のつもりでUさんとワゴンセールに行ったら、西田勝編『田岡嶺雲選集』( 青木文庫1956,以下『選集』)が出ていたので ... ただし「序文は嶺雲が書いたが、かれ が純粹に譯したのは『老子莊子』『荀子』『墨子列子』の三册に過ぎぬ。

11:16 午後  

コメントを投稿

<< Home