http://www.freeassociations.org/
(経済学、リンク::::::::::)
ケインズ『貨幣論』1929,『貨幣改革論』1923,『確率論』1921:メモ
http://nam-students.blogspot.jp/2015/10/1979-john-maynard-keynes-treatise-money.html(本頁)
4
A TREATISE ON MONEY
BK. I
of-account is the description or title and the money is
the thing which answers to the description. Now if
the same thing always answered to the same descrip-
tion, the distinction would have no practical interest.
But if the thing can change, whilst the description
remains the same, then the distinction can be highly
significant. The difference is like that between the
King of England (whoever he may be) and King
George. A contract to pay ten years hence a weight
of gold equal to the weight of the King of England
is not the same thing as a contract to pay a weight
of gold equal to the weight of the individual who is
now King George. It is for the State to declare,
when the time comes, who the King of England is.
Now by the mention of contracts and offers, we
have introduced Law or Custom, by which they are
enforceable; that is to say, we have introduced the
State or the Community. Furthermore it is a peculiar
characteristic of money contracts that it is the State
or Community not only which enforces delivery, but
also which decides what it is that must be delivered
as a lawful or customary discharge of a contract
which has been concluded in terms of the money-of-
account. The State, therefore, comes in first of all as the authority of law which enforces the payment of the thing which corresponds to the name or description in the contract. But it comes in doubly when, in addition, it claims the right to determine and declare what thing corresponds to the name, and to vary its declaration from time to time-when, that is to say, it claims the right to re-edit the dictionary.
This right is claimed by all modern States and has been so claimed for some four thousand years at least.
It is when this stage in the evolution of Money has been reached that Knapp's Chartalism-the doctrine that money is peculiarly a creation of the State-is fully realised.
Thus the Age of Money had succeeded to the Age
The State, therefore, comes in first of all as the authority of law which enforces the payment of the thing which corresponds to the name or description in the contracts. But it comes in doubly when, in addition, it claims the right to determine and declare what thing corresponds to the name, and to vary its declaration from time to time – when, that is to say, it claims the right to re-edit the dictionary. This right is claimed by all modern states and has been so claimed for some four thousand years at least. (Keynes 1930, p. 4, emphasis added).
哲 学 | 自然科学 | 確率論・数学 |
1620ベーコン「ノブム・オルガヌム」 1637デカルト「方法序説」 1690ロック「人間悟性論」 1703 ライプニッツ「人間知性新論」 1739ヒューム「人間本性論」 1781カント「純粋理性批判」 1789 ベンサム「道徳および立法の諸原理序説」 1795 コンドルセ「人間精神進歩史」 1807 ヘーゲル「精神現象学」 1841 フォイエルバッハ「キリスト教の本質」 1843 マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」 1843ミル「論理学体系」 1844コント「実証的精神論」 1869 ケトレー「社会物理学」 1874 ジェボンズ「科学の原理」 1886 エンゲルス「自然の弁証法」 1899 リッケルト「文化科学と自然科学」 1903ムーア「倫理学原理」 1903ラッセル「数学の原理」 1907 ベルクソン「創造的進化」 1909 レーニン「唯物論と経験批判論」 1921 ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 1925 ホワイトヘッド「科学と近代世界」 1927 ハイデッガー「存在と時間」 1929ウィーン学団結成 | 1609ケプラー「新天文学」 1638ガリレオ「新科学対話」 1687 ニュートン「プリンキピア」 1788 ラグランジュ 「解析力学」 1789 ラボアジェ「化学原論」 1794 エコール・ポリテクニック創設 1799 ラプラス「天体力学」 1822 フーリエ「熱の解析的理論」 1859 ダーウィン「種の起源」 1860 マックスウェル 気体分子の速度分布則 1865 クラジウス エントロピー概念 1887 マイケルソン・モーレーの実験 1895 レントゲン X線を発見 1900 ケルヴィン「熱と光の動力学理論をおおう19世紀の暗雲」 1900 メンデルの遺伝法則再発見 1902 ギブス「統計力学の基本原理」 1905 アインシュタイン 特殊相対性理論 1911 ラザフォード 原子模型 1916 アインシュタイン 一般相対性理論 1919 エディントン 重力による光の歪曲の観測 1926 シュレジンガー 波動力学 1927 ハイゼンベルク 不確定性原理 1953 ワトソン&クリック DNA構造解析 | 1654 パスカル&フェルマー 往復書簡 1671 ニュートン 微積分法発見 1713 ベルヌーイ「推測法」 1718 ド・モワブル「偶然の原理」 1763 ベイズの定理 1768 コンドルセ「解析学試論」 1785オイラー「解析小論」 1812 ラプラス「確率の解析理論」 1847ブール「論理の数学的分析」 1884フレーゲ「算術の基礎」 1900 ヒルベルト 「数学の問題」 1910-13 ホワイトヘッド&ラッセル「プリンキピア・マテマティカ」 1914ボレル「偶然論」 1921ケインズ「確率論」 1926 ラムジー「真理と確率」 1928 ミーゼス「確率・統計・真理」 1931ゲーデル 不完全性定理 1931 ジェフリーズ「確率の理論」 1933 コルモゴロフ「確率の基礎概念」 1934 ライヘンバッハ「確率の理論」 1944 フォン・ノイマン&モルゲンシュタイン「ゲーム理論と経済行動」 1950 カルナップ「確率の論理学的基礎」 1954 サヴェジ「統計学の基礎」 1956 ハロッド「帰納論理学の基礎」 |
https://opac.lib.city.yokohama.lg.jp/opac/OPP1500?ID=1&SELDATA=TOSHO&SEARCHID=0&START=1&ORDER=DESC&ORDER_ITEM=SORT4-F&LISTCNT=10&MAXCNT=1000&SEARCHMETHOD=SP_SEARCH&MENUNO=0
人間知性研究
デイヴィッド・ヒューム/著 斎藤繁雄/訳 一ノ瀬正樹/訳
出版者 法政大学出版局 出版年 2004.5 285,7p 付・人間本性論摘要
目次
人間知性研究
哲学の異なった種類について
観念の起源について
観念の連合について
知性の作用に関する懐疑的疑念
これらの疑念の懐疑論的解決
蓋然性について
必然 的結合の観念について
自由と必然性について
動物の理性について
奇蹟について
特 殊的摂理と未来(来世)の状態について
アカデミー的あるいは懐疑的哲学について)
付・人間本性論摘要
ベンサム(ベンタムとも発音する 1748-1832年)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)
ダーウィン(1809 ~1882)
スペンサー(1820~1903)
功利主義
note.masm.jp/功利主義/
イギリス功利主義を確立したベンサムは,抽象的な思弁の世界に閉じこもるだけでなく, 議会制度改革や民主主義的な政治 .... スペンサー(1820~1903)は,ダーウィン(1809 ~1882)によって提唱された進化論をあらゆる現象に適用し、功利 ...
功利主義(こうりしゅぎ)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/功利主義-63351
さらに、ベンサムは外的制裁を重んじたが、ミルは内面的な動機、良心、自己陶冶( とうや)の重要性も認めて、心情道徳、完成説への傾斜を示した。彼らと同時代の急進 主義者たちにも功利主義の傾向がみられるが、以後もスペンサーやスティーブンらの 進化論 ...
辞書別に見る:日本大百科全書(ニッポニカ)-大辞林 第三版-世界大百科事典 第2版
ハーバート・スペンサー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ハーバート・スペンサー
略歴[編集]. 1820年、イングランド、ダービーの非英国国教会(非国教徒)の家庭に 生まれる。教師であった父の方針で学校教育を受けず、父と叔父を教師として、家庭で 教育を受けた。16歳でロンドン・バーミンガム鉄道の鉄道技師として働き始め、空いた 時間に ...
略歴-思想・研究-社会進化論-スペンサーの社会学
国立国会図書館デジタルコレクション - ベンサム,ミル,スペンサー邦訳書 ...
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3050969
詳細レコード表示にする. 永続的識別子: info:ndljp/pid/3050965; タイトル: 参考書誌 研究. (10); 著者: 国立国会図書館参考書誌部; 出版者: 国立国会図書館; 出版年月日: 1974-11-30. タイトル (title): 参考書誌研究; 著者 (creator): 国立国会図書館参考書誌 部
第十五章 功利主義・実証主義・進化論
www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/kindai/kouri.htm
ベンサム(1748~1832) は『道徳と立法の諸原理序説』で,次のように「功利の原理」を 展開しました。人間は「快」 .... スペンサー(1820~1903) は『綜合哲学体系』を著して, 進化論を生物体だけでなく,一般の自然法則として諸科学の綜合を試みました。全ての
...文藝散歩 「ミル自伝」 - FC2
sendatakayuki.web.fc2.com/bungei2/bungei56.html
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)は自他ともにベンサム(ベンタムとも発音する 1748-1832年)の功利主義者をもって任じている。 ...... 社会学」という名称を創始し、 英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。
功利主義の誤謬(後) : 森田浩之の政治コラム(アーカイブ) - livedoor Blog
blog.livedoor.jp/hiroyukimo2/archives/14274463.html
このように当時は「哲学者」と見られていたが、その後は社会科学者として認知されて いる人としては、ヒューム、スミス、コント、ベンサム、スペンサー、ミルなどがいる。 この うちヒューム、スミス、ベンサム、ミルに共通するのが「功利主義」である。
バンコールを誤解しているような
ヤニス・ バルファキス: 資本主義が民主主義を食い尽くす―今こそ立ち上がろう (TED) - Yahoo!ニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20160310-00002413-ted&utm_source=taboola&utm_medium=exchange
世界政治経済のレベルでは 我々の国の通貨が 自由に変動する相場を持ち IMFやG-20が 人類を代表して発行する―
世界共通のデジタル通貨に なったとしたら 世界共通のデジタル通貨に なったとしたら どうでしょうか さらに発展さ
せて この共通通貨― 仮に「コズモス」とします― 国際貿易はすべて コズモス建てで行います どの国の政府も 共通の
通貨基金に 貿易赤字 または 貿易黒字に比例する額を コズモス建てで 払い入れる協定を結びます この基金を 環境の
ための技術への投資に活用し 特に 世界の中でも 投資が不足している地域に投入します
これは何も新しい考えではなく ジョン・メイナード・ケインズが 事実上 1944年のブレトンウッズ会議で 提案したもの
です 問題は 当時 この考えを実践するための 技術がなかったことです でも 今はあります 政治と経済を融合すれば もっと確実です
【サッカー】くじ「BIG」で宇宙誕生レベルの奇跡が起こる 運営側「全くの偶然」その確率は0.0000000000000000000000000000001%以下 [無断転載禁止]©2ch.net
1 : Marine look ★@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:09:00.28 ID:CAP_USER9
25溝0316穣0000杼0000垓0000京0000兆0000億0000万0000分の1の奇跡
http://image.itmedia.co.jp/nl/articles/1702/20/l_ikko_BIG001.jpg
ランダムで試合結果を予想するスポーツくじ「BIG」で、14試合×5口分の予想結果が一致したという画像が投稿され物議を醸した件で、日本スポーツ振興センターが見解を発表しました。
システムの不具合や不正操作によるものではなく、全くの偶然によるものと結論づけられています。
その確率は約2,503,160,000,000,000,000,000,000,000,000,000分の1。単位を追加すると約25溝0316穣0000杼0000垓0000京0000兆0000億0000万0000分の1となります。
「BIG」は、1口分14試合に“ホームチームの90分勝ち”“ホームチームの90分負け”“その他”の3パターンの予想結果を3分の1ずつランダムに割り当て、実際の試合結果に応じて当せん金が当たるというサッカーくじ。
ネット掲示板で5口分が完全一致した画像が投稿されたことをきっかけに「不正操作ではないか」などの臆測を呼んでいました。
発表では「このくじの販売元である『楽天totoサイト』を運営する楽天に実際に販売されていたことを確認した」としていますが、「重複する投票内容の出現はあり得る」「システム不具合や不正な操作によるものではない」と偶然によるものとされています。
日本スポーツ振興センターに「現実的に起こり得ない確率で不正を疑う声もある。返金するなどの対応はしないのか」と問い合わせたところ、「返金の予定はない」と回答しました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170220-00000060-it_nlab-sci
関連
【サッカー】toto・BIG運営が発表「不具合や不正な操作等によるものではない。」 5口分の投票内容が一致していた事例について★2 [無断転載禁止](c)2ch.net
http://hayabusa8.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1487591566/
2 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:09:14.45 ID:4pXt8cD40
1/300 ←パチンコで当たる確率
1/330,000 ←麻雀で天和を上がる確率
1/4,800,000 ←totoBIGの一等当選確率
1/6,000,000 ←LOTO6の一等当選確率
1/10,300,000 ←LOTO7の一等当選確率
1/100,000,000 ←1つの精子が受精する確率
1/77,000,000,000,000 ←他人とDNAが一致する確率
1/1,000,000,000,000,000,000,000,000 ←ビッグバンが起こったり、人が壁をすり抜ける確率
1/2,500,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000 ←サッカーくじBIGで起こった確率
3 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:09:38.57 ID:IeTNOBwQ0
そうなんだ
4 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:10:09.04 ID:IF4Y+sYP0
宇宙ヤバイ
5 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:10:09.46 ID:VAnzPNAO0
つまりどういうことだってばよ
6 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:10:13.46 ID:Mcudbkgw0
これ楽天が客には絶対当たらない番号渡して、実際はクジを買わずに呑んでたんじゃないか
7 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:11:13.15 ID:XRd+3zNi0
画像が捏造なんじゃないの?
8 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:11:15.16 ID:yC/rY2Ji0
人が壁をすり抜ける確率よりも低いw
9 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:11:22.31 ID:wHPD80O+0
楽天が悪いの?
totoBIGのシステムが悪いの?
totoBIGのシステム自体が悪いなら
もうtotoBIG買えないやん
10 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:11:31.09 ID:Lz80/vfP0
まぁ当然嘘だけど認めるわけにはいかないよな
過去の販売実績全部返金しないといけなくなるもんな(笑)
11 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:11:51.99 ID:ZullE4w90
はじめに5口買っててその翌日に10口買うってのもなんか不自然だな
12 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:00.02 ID:vxAVIi/k0
これイカサマあるよって認めたようなもんじゃねーか
13 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:00.71 ID:OVRf4opU0
アブダクションだよスカリー
14 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:04.93 ID:b61bOx890
溝って単位があるのを初めて知った
15 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:06.24 ID:UCqyMuj70
>全くの偶然
この言い分は厳しいわ。誠実さにかけるわ。
「起こり得ないことがおきた」ことは認めないと。
16 : 名無しさん@恐縮です@無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:13.07 ID:8mQ0Ng890
ある人が5週連続で1等をあてる確率
17 : @無断転載は禁止2017/02/20(月) 21:12:12.96
確率論分かってないアホが多すぎだろw
中学か高校で習うことだぞw
BIG(ランダムの3択抽選)で70回連続で前回と同じ数字がでる確率 1/(3^70)=1/(2.5*10^33)
どのくらいかというと
サイコロで1が連続43回出る確率 1/(6^43)=1/(2.8*10^33)
麻雀で天和(テンホウ)が6局連続でる確率 1/(330000^6)=1/(1.3*10^33)
このくらいなら、まれによくあるレベル
イカサマでもなんでもない
はい論破
前提とされる命題の集合をh、hから推論され結論となる命題の集合をaとし、hの知識がaに対して度合いαの合理的信念を持つことが正当化されたとき、「aとhとの間に度合いαの確率─関係がある」と言い、a/h=αと書く。
たとえばある仮説hの一定の証拠eに関し、ラッセルの形式論理学ならば演繹的推論を用い、は0(否)か1(是)かである。けれども我々の日常生活は、そのように確実ではない判断に満ちている。ケインズの帰納的推論は、日常の推論に相当する0<a/h<1の合理的信念を扱うのである*10。
松原
ケインズとハイエクより
、一九三一年にR・カーンが著し「乗数理論」を唱えた論文「国内投資と失業の関係」が転機となったと言われている。
ケインズ『確率論』bot (@keynestpbot)
2017/12/08 21:01
一般化という用語は,命題のある定義可能なクラスのすべてが真である,という言明を意味する.
不可能性に0,確実性に1という記号を用いることがはじめて導入されたのは,1665年に刊行されたライプニッツによる「法律における確実な証拠あるいは証明,条件論覚書」と題する,ごく初期の論文においてであった(クーチュラ『ライプニッツの倫理学』,p.553参照).
午後3:01 · 2017年12月12日
イギリスは一九二五年、蔵相チャーチルのもと旧平価での金本位制への復帰を決定する。これに対しケインズはさっそく『チャーチル氏の経済的帰結』を著し、批判を加えた。この時点でのケインズの関心は、物価の安定にあった。
松原
ケインズとハイエク
The Economic Consequences of Mr. Churchill(1925)
25)ケインズ『確率論』第3章。ここでの「美人コンテスト」の例は,各ブロック選出の候補者が最終的に若 き貴族の伴侶になれるという約定が,途中まで進行したところで,破棄されたことに対する逸失利益の賠 償を求めた裁判の事例であるが,周知のように,後の『一般理論』第12章では,「玄人筋の行う投資」の例で, 少し条件を変え,新しい文脈の中ではあるが,再登場している。(ケインズ『一般理論』全集版第7巻,邦 訳154頁)
千葉大中村確率論論考
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20180523211315.pdf?id=ART0010350014
25)ケインズ『確率論』第3章。ここでの「美人コンテスト」の例は,各ブロック選出の候補者が最終的に若 き貴族の伴侶になれるという約定が,途中まで進行したところで,破棄されたことに対する逸失利益の賠 償を求めた裁判の事例であるが,周知のように,後の『一般理論』第12章では,「玄人筋の行う投資」の例で, 少し条件を変え,新しい文脈の中ではあるが,再登場している。(ケインズ『一般理論』全集版第7巻,邦 訳154頁)(26)ケインズ『確率論』第8章。何回目かの試行でコインの表が出るか,裏が出るかという確率や,何回目の 試行でサイコロの何の目が出るかというような,数学的統計的とも見える問題でも,もしも,コインやサ イコロに「歪み」や細工があれば,話が変わってくる。これらは,彼が後の第V部で詳しく論じている通 りである。(27)ケインズ『確率論」第10章で,ケインズ自身による詳しい「断り」がある。(28) cf. Bertramd RusseU, Review, The Mathematical Gazette, Vol.XI,110.159(Jnly 1922), pp.119−125.(C. R. Maccan, Jr. ed., John MaOrnaiTl Keynes’ critiCal responses, VoL 1,1998, pp.395−403.に再録)但し,この点と, 自分の主著(lb・incipia Mathematica)カS Dr. Whiteheadとの共著である旨の修正を求めていることを除け ば,ラッセルの批判は,大体において,好意的である。
ケインズ『確率論』bot
@keynestpbot
その事件は,『デイリー・エクスプレス』紙主催の美人コンクールの賞の提供に起因するものであった.
ライプニッツ(1665年『条件論2(Disputatio juridica posterior de conditionibus)』、1669年『法の諸例(Specimina juris)』として刊行)
は、無効・不確実・絶対的ということを0・1/2・1と表記している。
ラッセルの形式論理学ならば演繹的推論を用い、は0(否)か1(是)かである。
けれども我々の日常生活は、そのように確実ではない判断に満ちている。
ライプニッツを受け継いだケインズ『確率論』(1921)の帰納的推論は、日常の推論に相当する0<a/h<1の合理的信念を扱う。
ケインズは(ニュートンを支持していたが)ライプニッツを意識していたと思う。
http://store.toyokeizai.net/books/9784492811481/
ケインズ全集8巻 確率論 (A Treatise on Probability) 1921
ケインズ,J.M.著/佐藤 隆三訳 578頁
発行日:2010年05月28日
若きケインズがムーア、ラッセルの影響のもとに書いた哲学の書。「確率の論理説」の立場にたって、確率概念の定義と
その形式的体系化を試み、それを応用した帰納的推論の分析を行う。
エピグラフ「一度ならず私は、新たな種類の論理学、確からしさの程度を扱う論理学が必要になるといってきました。」
ライプニッツ(『人間知性新論』1765,みすず書房,pp.480~81)『確率論』邦訳3頁より
『確率論』と「若き日の信条」 平井俊顕
http://olympass.blogspot.jp/2014_05_01_archive.html
Ⅱ.『確率論』の後 ― ラムゼーによる批判の影響
ラムゼーは『確率論』にたいし,論文「確率と真理」(Ramsey,1926)で根底的批判を展開した。16そして,それをケインズは受容している。公の紙面を割いて,こうした表明を行うのは,ケ インズにあって異例である。既述のように、ケインズの哲学的論文はその後発表されてはいないこともあり、そしてケンブリッジの哲学にあって重要な位置を占 めるラムゼーの批判であることもあり、このできごとはこれまで多くの注目を集めてきた。以下、ラムゼーの批判のポイント、ならびにそれにたいするケインズ の反応をみることにしよう。
1.ラムゼーによる批判
ラムゼーによるケインズ『確率論』批判は、主として3点で構成されている。
第1に,命題間の確率関係といったものは存在しない,という批判が来る。ケインズの「確率」の定義そのものの否定である。
もし誰かが一方の命題が他方の命題にどのような確率を与えるのかと尋ねた場合,私はそれに答えるために[ケインズ氏のように]これら命題を注視し,それらの論理的関係を見分けようと試みるかわりに,むしろ,私が知っているのが一方だけと想定して,その場合もう一方の命題にどれだけの度合の信頼をおくべきかを推量しようとするであろう (Ramsey,1996, 83-84ページ)。
つまり,ラムゼーは命題間の確率ではなく,個人がもう一方の命題に寄せる主観確率について語っている。そこには,確率とは個人による判断をめぐる問題との主張がみられる。17
第2に,その主要な諸原理の論述においても整合性が保たれていない,という批判が来る。『確率論』にみられる確率の客観性・主観性をめぐる曖昧性を突くものである。18
第3に, 帰納法の世界を演繹法の世界に包摂しようとする試みにたいする批判が来る。
…推論を正当化する論理的関係とは,帰結の意味…が,その前提の意味に含まれているということである。だが,帰納的論証の場合には,このようなことは少しも生じていない。これを[ケインズ氏のように]演繹的論証に類似していて,ただその度合が弱いものとするのは不可能である。そこでは帰結の意味が前提の意味に部分的に含まれているというのはばかげている(Ramsey, 1996, 115-116ページ。下線は引用者)。
命題Aと命題Bの間に確率を設定するというのは,命題Bが命題Aから演繹的に(しかも部分的に)導出されるということを意味しない。それをあたかもそうであるかのようにみせるのはおかしい,というのである。
ラムゼーの批判は,私にとり非常に明快で理解しやすいものである。
2. ケインズの反応
ケインズがラムゼーのこの批判に応じたのは,ラムゼーにたいする追悼文「哲学者ラムゼー」(Keynes, 1931b)においてである。これは, 1931年10月時点での「哲学者ケインズ」のスタンスを知るうえできわめて重要な証言であり,「人間論理」(human logic)へのラムゼーの着目にたいする高い評価と,「形式論理」(formal logic)に基づく『確率論』にたいする自己批判とが混在するかたちで語られている。
…彼[ラムゼー]は,「形式論理」とは識別される「人間論理」を考えるに至った。形式論理は整合的な思考ルール以外には何ら関心をもたない。だがこれに加えて, われわれは,われわれの感性や記憶,およびその他の方法で供給される素材を処理するための, そしてそうして真理に達する…ための,ある「有益な精神的慣習」をもっている。…そのような慣習についての分析もまた一種の論理である。こうしたアイデアの確率論理への適用はきわめて有益である。…ここまでのところ,私はラムゼーに譲る ― 私は彼が正しいと思う(JMK.10, pp. 338-339)。☆
ここには、「形式論理」を中核にした,命題間の客観的関係としての確率よりも,ラムゼー的な「人間論理」に着目した確率論への賛意がみられる。「私は彼が正しいと思う」という発言は,『確率論』が哲学者ケインズの長期間に及ぶ思考の産物であったことを考慮すると, 非常な重みをもっている。
☆
《けれども、「合理的な」信念の度合と信念一般とを区別しようとした点では、彼はいまだ完全には成功していなかったと思う》
と続く。
『ケインズの闘い』157頁
以下は300頁を超える大部なので入門書とは言い難いが、この手の本に珍しく貨幣論論争についても言及している(第3章)。
ケインズとハイエク―貨幣と市場への問い (講談社現代新書)
松原 隆一郎; 新書 2011
ラムゼイは、ケインズが確率関係の存在とその知覚を混同していると非難した。
…
ケインズがラムゼイの批判に対して公に返答し、確率の主観的性格に関して、彼の批判が部分的に正しいことを認め
たのは、ようやくラムゼイの死後においてであった。
《われわれの確信の度合の基礎は…形式論理学よりもむしろわれわれの知覚や記憶に類似した装備にほかならない。
ここまでは私はラムゼイに承服する…けれども、「合理的な」信念の度合と信念一般とを区別しようとした点では、
彼はいまだ完全には成功していなかったと思う》
『ケインズの闘い』151,157頁
ラムゼイは、ケインズが確率関係の存在とその知覚を混同していると非難した。
…
ケインズがラムゼイの批判に対して公に返答し、確率の主観的性格に関して、彼の批判が部分的に正しいことを認め
たのは、ようやくラムゼイの死後においてであった。
《…われわれの確信の度合の基礎は…形式論理学よりもむしろわれわれの知覚や記憶に類似した装備にほかならない。
ここまでは私はラムゼイに承服する…けれども、「合理的な」信念の度合と信念一般とを区別しようとした点では、
彼はいまだ完全には成功していなかったと思う》
『ケインズの闘い』151,157頁
後年合理的期待仮説が再度その論点の穴をつくことになったが、むしろ今日では合理的なる概念が揺らぐ結果となって今日に至っている。
少なくとも行動経済学の先駆けがここにあったと思う。
ラムゼイは、ケインズが確率関係の存在とその知覚を混同していると非難した。
…
ケインズがラムゼイの批判に対して公に返答し、確率の主観的性格に関して、彼の批判が部分的に正しいことを認め
たのは、ようやくラムゼイの死後においてであった。
《…われわれの確信の度合の基礎は…形式論理学よりもむしろわれわれの知覚や記憶に類似した装備にほかならない。
ここまでは私はラムゼイに承服する…けれども、「合理的な」信念の度合と信念一般とを区別しようとした点では、
彼はいまだ完全には成功していなかったと思う》
『ケインズの闘い』151,157頁
後年合理的期待仮説が再度その論点の穴をつくことになったが、むしろ今日では合理的なる概念自体が揺らぐ結果とな
って今日に至っている。
少なくとも行動経済学の先駆けがここにあったと思う。
松原
ケインズとハイエク
国際金本位制は、D・ヒュームの唱えた「正金配分の自動調節理論」の原理に従うものとして正当化されていた。ヒュームによれば、金本位制のもと、ある国が貿易黒字になると輸出超過で得た金が流入して国内物価が上昇、輸出品の価格も上がり、輸出量が減る。そして輸入が増え輸出を上回り貿易が赤字に転じるなら、支払いで金は流出してゆき、国内物価は下落に向かい、輸出は容易になってゆく。国内物価や貿易収支は、金の流出入を通じて自動調節されるというのである。
ところがケインズの目には、二〇世紀初頭において金本位制はそうした機能を持たなくなったと見えていた。まずイギリス国内において、すでに流通する貨幣量は金によって拘束されていなかった。銀行制度の発達により当座預金と小切手も通貨とみなされていたからで、第一次大戦前にはすでに貨幣の九割が銀行預金であった。したがってイギリスには、金本位制であるにもかかわらず莫大な金を保有する必要がなくなっていた。
ケインズ21,341:
産出と所得の増大は、もし貨幣数量が厳格に固定されているなら、遅かれ早かれ頓挫を来すだろう。このことから類推して、産出と所得は貨幣数量の増加により増大させうると考えているらしい人もいる。しかし、これはより長いベルトを買うことによつて太ろうとするようなものである。今の合衆国では、ベルトはお腹にとって十分長い。貨幣数量を強調するのは大変な誤解を招く。それは単なる制限的要因であり、支出規模、これこそが効果を発揮する要因である。
タイムズ1934年1月2日
ルーズベルト氏の実験
ケインズ『確率論』bot
@keynestpbot
Aが結果として起こるかもしれぬ善の量であり,pがその確率であって(ここにp+q=1),Eが「数学的期待値」,したがってE=pAならば,「危険」RはR=p(A-E)=p(1-p)A=pqA=qEで表される.
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8:01 PM · Nov 24, 2018 · keynestpbot
古川顕イネスとケインズの貨幣論より
ケインズの 「古代通貨論」 は, ケインズ全集全28巻の最後の巻 (第28巻)に掲載されたもので, 彼の数多くの著作の中ではほとんど注目されず, 読まれることのなかった一編ではあるまいか。 しかしこれは, 貨幣の起源や貨幣の歴史について数多くの示唆を与えてくれる貴重な小編であることは確かであるように思われる。 ケインズは次のように述べている。 「記録された歴史のほとんど全期間を通じて, 貨幣価値の低下は, 簡単な議論に値する。 それは, 貨幣が造られる金属の大量の増加, ないしは貨幣単位の金属の含有量の減少による失敗という2つの方法によってもたらされた。 前者を貨幣価値の下落 (Depreciation), 後者を貨幣価値の切り下げ (Debasement)と呼ぶのが便利である。 もし歴史の推移と本質が前者を生じさせないならば, 人間は一般に後者を頼みとするものである」 (Keynes [(19201926) 1982] p.226)。ケインズはこの記述に続いてこう指摘する。 「最初に貨幣の使用が物々交換に取って代わるとき, 鋳貨は金塊にほかならず, それに捺された刻印が品質と数量を証明するものの, その金塊の価値を除いては流通しない。 この初歩的な段階では, 貨幣価値切り下げという方法は利用できない。 契約の発達につれて計算貨幣 (money of account) の概念が現れ, 国家によって発行された鋳貨が法貨 (legal tender) の性格を獲得し, この計算貨幣で測られた債務の法的履行を経験する。 われわれが理解する意味で, 貨幣が人類の制度に登場するようになるのはこの段階である」 (Ibid., p.226)」。 ケインズはこうして貨幣制度が実現する初期の段階として, ①物々交換に代わる貨幣の生成,
Modern Money Theory: How I Came to MMT and What I Include in MMT « Multiplier Effect
http://multiplier-effect.org/modern-money-theory-how-i-came-to-mmt-and-what-i-include-in-mmt/
Wray
My second book, in 1998, provided a different view of sovereign spending. I also revisited the origins of money. By this time I had discovered the two best articles ever written on the nature of money—by Mitchell Innes. Like Warren, Innes insisted that the dollar’s value is derived from the tax that drives it. And he argued this has always been the case. This was also consistent with what Keynes claimed in the Treatise, where he said that money has been a state money for the past 4,000 years, at least. I called this “modern money” with intentional irony—and titled my 1998 book Understanding Modern Money as an inside joke. It only applies to the past 4,000 years.
https://books.google.co.jp › books
Economics for Sustainable Prosperity
Steven Hail · 2018 · Business & Economics
According to randall Wray, the name 'modern money theory' itself is derived from these words in Keynes' A ... by all modern states and has been so claimed for some four thousand years at least' (Keynes 1930, 4).
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.45480/page/n23
ケインズ全集5
p.4
Now by the mention of contracts and offers, wehave introduced Law or Custom, by which they areenforceable; that is to say, we have introduced theState or the Community. JHirthermore it is a peculiarcharacteristic of money contracts that it is the Stateor Community not only which enforces delivery, butalso which decides what it is that must be deliveredas a lawful or customary discharge of a contractwhich has been concluded in terms of the money-of-account. The State, therefore, comes in first of allas the authority of law which enforces the paymentof the thing which corresponds to the name or de-scription in the contract. But it comes in doublywhen, in addition, it claims the right to determine anddeclare what thing corresponds to the name, and tovary its declaration from time to time—when, thatis to say, it claims the right to re-edit the dictionary.This light is claimed by all modem States and hasbeen so claimed for some four thousand years at least.It is when this stage in the evolution of Money hasbeen reached that Knapp’s Chartalism—the doctrinethat money is peculiarly a creation of tte State—^isfully realised. «
Thus the Age of Money had succeeded to the Age
貨幣論
ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代がか物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
全集#5:4~5頁
ケインズ『貨幣論』の貨幣分類(ケインズ『貨幣論』冒頭参照)
債務の承認→銀行貨幣 → 銀行貨幣
/ \ /法定不換貨幣
計算貨幣 代表貨幣
\ / \
本来の貨幣→国家貨幣 管理貨幣
\ /
商品貨幣
\商品貨幣
土器に印をつける方が金属鋳造より楽なのは理解出来る
(ケインズが調べた時の)インドで起きたことをみれば
あるいはアメリカの事例からみれば(金を流失させないための兌換停止だから)
商品としての金は無くなるわけではない
あくまで貨幣とは何かという話だ
金を持っていた方が国力は高いが
MMTで供給能力を高めたほうが簡単に国力は上がる
このコメントは投稿者によって削除されました。
いわば貨幣は価値の媒介者であり、価値の媒介者として市場に流通することのただ一点において意義があるということです。 ... 国家が貨幣を発行すること によってではなく 国家が貨幣を受領すること によって裏付けられているのが肝です。 これを国定信用貨幣論といい、現代の貨幣論のなかでは主流派と言える理論です。2018/06/15
現代貨幣理論(MMT)を学べば分かる「財政健全化」という言葉の不健全さ ...
http://cobaltic.hatenablog.com/entry/2018/06/15/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E7%90%86%E
8%AB%96%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B9%E3%81%B0%E5%88%86%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%80%8C
%E8%B2%A1%E6%94%BF%E5%81%A5%E5%85%A8%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84
ホー トリーの信用貨幣論 内 藤 敦 之 - J-Stage (Adobe PDF)
www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/46/46/.../en
ホー トリーの信用貨幣論. 貨幣的循環と銀行. 内 藤 敦 之. I. は. じ. め. に. ホー ト リー( R. G. Hawtrey, 1879-1971)は. ケインズ と ...
信用貨幣論と表券貨幣論に関する断章 - SUCRA (Adobe PDF) -htmlで見る
sucra.repo.nii.ac.jp/?action...action...
兌換銀行券を導出する貨幣・信用論の組み立てか. らすれば,不換銀行券を信用貨幣と捉えることは. 論理の一貫性を欠くこと ...
現代貨幣理論(MMT)を学べば分かる「財政健全化」という言葉の不健全さ ...
cobaltic.hatenablog.com/.../ ...
貨幣の定義; 2.貨幣の起源; 3.貨幣の発展と本質. 3-1 商品貨幣論(金属主義); 3-2 信用 貨幣論. 4.日本の現状 ...
1.貨幣の定義-2.貨幣の起源-3.貨幣の発展と本質-4.日本の現状
現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学 ...
hbol.jp>ハーバービジネスオンライン>政治・経済
2019年7月1日 ... MMTの貨幣論は、中野氏が「国定信用貨幣論」と呼ぶように、国定貨幣論と信用貨幣論 の合成です。これらは ...
商品貨幣論とは (ショウヒンカヘイロンとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
dic.nicovideo.jp/a/商品貨幣論
2019年5月17日 ... 国定信用貨幣論とはあらゆる面で正反対の主張をしている。商品貨幣論と国定信用 貨幣論の論争は1000年 ...
第1編 貨幣の性質
脱してはいない。本来の貨幣は、この言葉の完全な意味内容からいって、ただ計算貨幣とのかかわりでしか存在する
ことはできない。
貨幣と計算貨幣との区別は、計算貨幣は記述あるいは称号であり、貨幣はその記述に照応する物であるといえば、
恐らく明らかにしうるであろう。ところで、もし同じ物がつねに同じ記述に照応しているならば、この区別は何の実
際的な興味も引かないであろう。しかし、もし物は変わりうるがこれに対して記述は同一のままであるならば、その
場合にはこの区別はきわめて重要でありうる。この違いは、イギリス国王(それは誰であってもよい)とジョージ国
第王との違いのようなものである。一〇年後にィギリス国王の体重に等しい重量の金を支払うという契約は、現在ジョ
ージ国王であるその個人の体重に等しい重量の金を支払うという契約と同じものではない。そのときになって誰がイ
ギリス国王であるかを布告するのは、国家の役目である。
ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるい
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを
強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき
すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき||国家は役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○〇〇年の間そのように要求し続けてき
2° ある (Knapp
添主義 (chartalism)
ー貨幣はとくに国家の創造物であるという学説||が 完全に実
)
ISHIZUKA Ryouji (@ISHIZUKA_R)
2019/09/30 16:13
このサイトでケインズのA Treatise on Money も読める。
邦訳書で「この計算貨幣で表示される契約の付け値、契約、および債務の承認」のとりわけ「債務の承認」が意味不明だったが、Acknowledgement-of-Debt で「債務証書」だとわかった。債務証書が貨幣になる、という意味だろう。
Twitterアプリをダウンロード
経済的可能性」(1930 年), ケインズはこのように貨幣動機のタームで ...
Imagewww.tohoku-gakuin.ac.jp › p...PDF
ケインズの経済思想 - 東北学院大学
動機ないし貨幣愛(love of money)が経済機構の推進力となっているという点に,資本 ... ケインズは,1930年代の大不況における膨大な失業.
23 ページ·937 KB
Imagekhosokawa.sakura.ne.jp › ...
オピニオン ケインズ
ケインズは、この投資家階級の「貨幣愛」に不況の原因を見出した。投資家の ... ケインズは1930年に「孫の世代の経済的可能性」を書いた。
Imagejshet.net › uploads › 2019/02PDF
ケインズと精神医学 - 経済学史学会
ケインズは 1930 年に出版した『貨幣論』のなかで,フロイトの議論に言及している.ここで. ケインズは根深い金本位制への執着の理由を考える ...
5 ページ·645 KB
大銀山から産出した銀は、何に使われたか?/野口悠紀雄|文藝春秋digital
https://bungeishunju.com/n/n235d68df1218
… ポトシで採掘された銀は、パナマまで船で運ばれ、ラバに背負われてパナマ地峡を超えます。そして、カリブ海の港からスペインに輸送されます。それをイングランドの海賊たちが襲ったのです。
なかでも有名なのが、サー・フランシス・ドレーク( 1543年頃 - 1596年)。彼は、ウェールズ人の航海者で、海賊(私掠船船長)です(後に海軍提督)。
ドレークは、初めて世界一周を達成しました。マゼランは生還できなかったので、艦隊指揮者として世界を周航したのは、ドレークが初めてです。
彼はマゼラン海峡を通り抜けて太平洋に出たあと、嵐に流されて、マゼラン海峡より南の海峡を偶然通り抜けて大西洋に押し戻されました。南極半島との間のこの海峡は、「ドレーク海峡」と呼ばれるようになりました。
もっとも、ドレークにとってもエリザベスにとっても、世界周航や海峡発見は重要なことではありませんでした。彼らの関心は、「何を持ち帰れるか」にあったからです。
マゼランの艦隊は胡椒を持ち帰っただけですが、ドレークは、海賊行為によって多大の財宝を持ち帰りました。
◆海賊ビジネスで大英帝国の基礎を築く
その額は、60万ポンドと言われます。当時のイングランド王室の年収が20万ポンド程度だと言われますから、いかに巨額かが分かります。出資者は4700パーセントの収益を得たのですが、その一人である女王は30万ポンドを得ました。
イングランド王室は負債をすべて返済し、残りの一部である4.2万ポンドを「レヴァント会社」に投資しました。これは、オスマン帝国から商業活動を認められたエリザベスが、イギリス商人に特許状を与えて1581年に作った会社です。毛織物の輸出などで利益をあげ、またオスマン帝国との外交にもあたりました。
この会社の収益から、後に東インド会社が設立されたのです。経済学者J.M.ケインズは、『貨幣論』(A Treatise on Money )の中で、ドレークの捕獲金がイギリス対外投資の源泉となったと指摘しています。
大英帝国の基礎は、このときに作られたのです。スペインが新大陸の富を浪費したのに対して、「海賊ビジネス」と企業家精神を持つイングランドは、近代資本主義に向かう道を歩んでいました。
11月29日21:00~ #D2021 企画 Vol.5 Dialogue 「さよなら資本主義 # 1歴史篇 」
https://youtu.be/P6khqkKXJ6U
奴隷と賃労働者は似ているが、
賃労働者は消費者として選択出来る
フェアトレードに参加する可能性がある
情報さえあれば
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ケインズ『貨幣論』
《 ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるいは慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがって国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現われる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることになる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてきた。クナップ(Knapp)の表券主(chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのである。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなるものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでなく、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的[貨幣〕である。》原著1929
邦訳ケインズ全集#5:4~5頁
レイMMT入門6.3
《 ここでは、貨幣の歴史に関する従来の物語の誤りを証明するために、詳細な歴史を説明する余裕はない。そこで、その代わりとなるものを概観しよう。
まずは、計算貨幣は何千年も前から──少なくとも4000年、おそらくはもっとずっと前から──存在することに注目しなければならない(「現代貨幣理論」の「現代」は、「貨幣とは、少なくとも過去4000年間は国家貨幣であった」というケインズの主張から来ている)。我々がこれを知っているのは、例えば貨幣的な価値を記録するメソポタミアの粘土板や、その計算貨幣を使った価格表のおかげである。》原著2015改訂版
ケインズ『貨幣論』
《 ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるいは慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがって国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現われる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることになる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてきた。クナップ(Knapp)の表券主義(chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのである。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなるものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでなく、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的[貨幣〕である。》原著1929
邦訳ケインズ全集#5:4~5頁
レイMMT入門6.3
《 ここでは、貨幣の歴史に関する従来の物語の誤りを証明するために、詳細な歴史を説明する余裕はない。そこで、その代わりとなるものを概観しよう。
まずは、計算貨幣は何千年も前から──少なくとも4000年、おそらくはもっとずっと前から──存在することに注目しなければならない(「現代貨幣理論」の「現代」は、「貨幣とは、少なくとも過去4000年間は国家貨幣であった」というケインズの主張から来ている)。我々がこれを知っているのは、例えば貨幣的な価値を記録するメソポタミアの粘土板や、その計算貨幣を使った価格表のおかげである。》原著2015改訂版
ケインズ『貨幣論』
《 ところで、契約と付け値とに言及することによって、既にわれわれはそれらを履行させることのできる法律あるいは慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがって国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現われる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることになる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてきた。クナップ(Knapp)の表券主義(chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのである。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなるものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでなく、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的[貨幣〕である。》原著1929
邦訳ケインズ全集#5:4~5頁
レイMMT入門6.3
《 ここでは、貨幣の歴史に関する従来の物語の誤りを証明するために、詳細な歴史を説明する余裕はない。そこで、その代わりとなるものを概観しよう。
まずは、計算貨幣は何千年も前から──少なくとも4000年、おそらくはもっとずっと前から──存在することに注目しなければならない(「現代貨幣理論」の「現代」は、「貨幣とは、少なくとも過去4000年間は国家貨幣であった」というケインズの主張から来ている)。我々がこれを知っているのは、例えば貨幣的な価値を記録するメソポタミアの粘土板や、その計算貨幣を使った価格表のおかげである。》原著2015改訂版
8 金持ち名無しさん、貧乏名無しさん (ワッチョイ 37c9-VdWF)[] 2021/02/07(日) 17:53:22.71 ID:dFacvjrJ0
MMTは、自国通貨を発行することができる政府について主に以下のように説明する。(Wikipedia)
1.徴税や国債の発行による財源を確保する必要なしに、支出することができる。
2.自国通貨建ての債務で債務不履行(デフォルト)を強制されることはない。
3.経済の実物的な資源(労働、資本、資源)の利用が限界に達した場合に発生する、インフレ率の上昇が財政の制約である。
4.徴税で貨幣を経済から取り除くことで、ディマンドプルインフレーション(需要インフレ)の抑制が可能である
(ただし、それを実行する政治的意思が常にあるとは限らない)。
5.国債の発行が民間部門の資金を締め出すことはない(クラウディングアウトは起こらない)。
ケインズ『貨幣論』
《 …国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威とし
て現われる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を
時どき変更する権利を要求するとき──すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき──国家は二役を演ずること
になる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四〇〇〇年の間そのように要求し続けてきた。
クナップ(Knapp)の表券主義(chartalism) ──貨幣はとくに国家の創造物であるという学説──が完全に実現される
のは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのである。
》原著1929邦訳ケインズ全集#5:4~5頁
レイMMT入門6.3
《 ここでは、貨幣の歴史に関する従来の物語の誤りを証明するために、詳細な歴史を説明する余裕はない。そこで、
その代わりとなるものを概観しよう。 まずは、計算貨幣は何千年も前から──少なくとも4000年、おそらくはもっとずっ
と前から──存在することに注目しなければならない(「現代貨幣理論」の「現代」は、「貨幣とは、少なくとも過去4000
年間は国家貨幣であった」というケインズの主張から来ている)。
我々がこれを知っているのは、例えば貨幣的な価値を記録するメソポタミアの粘土板や、その計算貨幣を使った価格表
のおかげである。》原著2015改訂版
246 あ[sage] 2021/02/17(水) 09:28:07.60 ID:Rhru65wk
参考
貨幣の本源的概念についての覚書
泉正樹 2013[レイが引用される]
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2013/pdf/no06_03.pdf
次頁のツリー上の系統図部分は,1930年にケインズが,『貨幣論 I 貨幣の純粋理論』第1編「貨幣の性質」
第1章「貨幣の分類」の「四 貨幣の形態」と「五 流通貨幣」とで提示した分類を,一つにまとめてみた
ものである。見られるように,そこには,「本源的概念」とされる計算貨幣から「本来の貨幣」と「債務の承認」が
分岐し,それぞれに「国家貨幣」と「銀行貨幣」とが対応する。
https://1.bp.blogspot.com/-LOdJ6po3IDs/Xe0HlUr5dnI/AAAAAAABpgI/BPCl1Th17h0EErETM11DJWqAlMdUoD6hQCLcBGAsYHQ/s1600/IMG_6322.PNG
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.227329/mode/2up?q=drake
vol.2
ドレーク
*
Page -153-
4 The expedition of Mr. Phipps (afterwards Sir W. Phipps) to recover a Spanish treasure ship which was believed to have sunk some fifty years before off the coast of Hispaniola, is one of the most extraordinary records of improbable success. He returned to London in 1688, having fished up out of the sea a sum estimated at between £250,000 and £300,000 and paid a dividend to his shareholders of 10,000 per cent (even Drake had only distributed a dividend of 4700 per cent). The excitement and stimulus occasioned by this event was the proximate cause of the remarkable Stock Exchange boom which reached its climax in 1692-95 and ended with the foundation of the Bank of England, a Stock Exchange list (with 137 securities quoted) on modern lines, and the reform of the currency by Locke and Newton. The stimulus which this gave to home investment offset the loss of foreign trade due to William’s French war, and created an atmosphere of optimism and prosperity which must have been invaluable for the stability of the new regime. This investment boom is of particular historical interest in that it was the first of the public utility booms so typical of later periods {e.g. the railway booms of the nineteenth century), being characterised by a number of water-works flotations. (For these particulars, as well as for many others mentioned in this section, vide W. R. Scott, Joint-Stock Companies to 1720, passim.)
*
Page -156-
1 Prior to the exploits of Drake and others, referred to below, the new treasure could only affect English prices by dribbling in vid the Antwerp money market.
*
Page -158-
Indeed, the booty brought back by Drake in the Golden Hind may fairly be considered the fountain and origin of British Foreign Investment. Elizabeth
*
Page -407-
Drake and Spanish treasure, ii. 151 n.t 156-7, 156 n.
ページ -153
4 フィップス氏(後のW.フィップス卿)が、50年ほど前にヒスパニオラ島沖で沈没したとされるスペインの宝船を回収するために行った探検は、あり得ない成功を収めた最も素晴らしい記録の一つである。彼は、25万ポンドから30万ポンドと推定される金額を海から釣り上げ、1688年にロンドンに戻り、株主に1万パーセントの配当を支払った(ドレイクでさえ4700パーセントの配当しかなかった)。この出来事がもたらした興奮と刺激は、1692年から95年にかけて最高潮に達した証券取引所の目覚ましいブームの近因となり、イングランド銀行の設立、近代的な証券取引所のリスト(137の証券が引用されている)、ロックとニュートンによる通貨の改革で幕を閉じた。このように国内の投資が活発になったことで、ウィリアムのフランス戦争による外国貿易の損失が相殺され、楽観的で繁栄した雰囲気が生まれ、新体制の安定に大きく貢献したに違いない。この投資ブームは、後の時代に典型的に見られる公共事業ブーム(19世紀の鉄道ブームなど)の最初のものであり、多くの水道事業の浮揚を特徴とするという点で、特に歴史的に興味深いものである。これらの点については、W. R. Scott, Joint-Stock Companies to 1720, passim.を参照のこと。
ページ -156
1 後述するドレークらの活躍以前は、新しい財宝はアントワープの貨幣市場に流れ込むことでしかイギリスの価格に影響を与えなかった。
158ページ
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った戦利品は、イギリスの海外投資の源泉であり、原点であると言っても過言ではありません。エリザベス
ページ -407
ドレークとスペインの財宝、II. 151 n.t. 156-7, 156 n.
貨幣論
全集6
164ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
おり、少なくともそれは、六〇万ポンドを超えていたに逮いないということを示す証拠を提出している。このような大量の貨
幣の流入の効果は、一五七五年から一五八七年までの「素晴らしき繁栄の一一年」を築き上げる上で、最も有力なものであっ
たに違いない。エリザベスの時代を作り上げ、またその偉大さを可能にしたものとして、これらの経済的藩要因に言及するこ
とを全くしょうとしないのは、わが国の歴史家の特徴であり、『ケンプリッジ近代史』(Cambridge Modern History)は、そ
の一例である。
実際、ドレークがゴールデン ·ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二O○○ボンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。現在の時点で(概数を使えば)われわれの対外投賓は、種々の損失を差し引いて、恐らく正味六易バーセン
ト程度の収益をもたらすであろうが、そのうち約半分||たとえば三Nバーセン ト||を海外に再投資するとする。
もしこれが、平均的に見て、一五八〇年以来行なわれてきたことのかなり良い見本であるとすれば、一五八〇年に、
エリザベスがドレークの掠奪品の中から投資した四万二〇○○ポンドは、一九三〇年までには、ほぼわれわれの現在」
の海外投資の実際の総額、すなわち四二億ボンドーいいかえれば、最初の投資よりもおよそ一○万倍も大きなもの
|にまで増大していたであろう。実際われわれは、この仮定した蓋積率の正確さを、約一二〇年の経過をおいて照
合することができるのである。なぜならば、一七世紀の末にわが国の海外投資の大部分を構成していた三大貿易会社一
東イソド会社、勅許アフリカ会社およびハドソン湾会社||は、約二一五万ポンドの資本をもっていたのである
が、もしわれわれが、当時のわが国の総海外投資額を二五○万ボンドとするならば、これは四万二○○○ポンドが一
163
第30章 歴 史的 例証
る。明らかにスペインでは、新しい購買力は、直接に貴族階級および支配階級の手に入ってきて、そして直ちに彼ら
によって使用され、用役の費用を競り上げることになったーァメリカ大陸からの新しい富は、一六世紀の中葉以
後、まもなく賃金水準の高騰の中に(すなわち所得インフレーションの中に)、全面的に反映されっつあったの で あ
り、遂に一度も資本蓄積の中に(すなわち、もはや利潤インフレーションの中に) 反映されることはなかったのであ
る。しかし、ヨ1ロッパのその他の諸国では、新しい購買力は、異なる道筋を通って、すなわち私的な商業という道
(-)
筋を通って到来した。新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
強く受けていた諸国に対して、大きな利益をえて販売することができたし、そして、その中でもとくに [地中海およ
びエーゲ海東岸の〕レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのであ
る。
(1) (政府の許可のもとに、武装の民有船で敵船を攻撃捕慶するいわゆる〕私掌捕船の行動も、この中に含まれる。 なぜなら
ば、イギリスの場合には、地金の輸入の大きな部分が、ドレークによるスペインの財宝船の傘捕、および他の人びとによる多
くの同様な目ざましい活躍によっていたからである。これらの違征は、資本家の出資団体や会社によって金融され、商業上の一
投機を意味するものであったが、それらの成功と成果とは、あらゆる種類の企業的活動に刺激を与えた。イギリスでの景気過
熱の時期は、一五七三年のドレ1クの最初の重要な遠征(彼の三度目の航海)からの帰還と共に、明確な形で始まり、そして
1五八〇年に帰還したその第二回目の遠征の莫大な収穫によって、いっそう破かなものになったのであるが、また一方、一五
八六年のその第 三回目の遠征も、まったく無視されてよいわけのものではなかった。ゴールデン.ハインド(Golden Hind)
号で持ち帰った金および銀の価値は、当時は進意深く秘密にされていたが、歴史家によって非常にまちまちに見積もられ、三
O万ポンドから一五〇万ポンドまでの間のどれかであるとされてきた。W.R.ス=ット教授は、高い方の数字に強く傾いて
第6 投資率とその変動
162
ることができ、特にその初めの四○年の間はそうであった。スペインで富の非常に急速な蓄積に対する諸条件がそろ
っていたのは、一五二〇年から一五六○年までの間であった。しかし一五八八年以後は、二つないし三つの景気過熱
の年を除いて、スペインでは、利潤が得られる機会はまったくなかったし、また一七世紀の最初の三○年間、スペィ
ンの賃金は(ハミルトン教授の数字によれば)、物価を超える状態を統け、したがって、利潤デフレーションを引き
起こしていたばかりでなく、ョ1eッパのその他の諸国での賃金に比べて、驚くべき高水準に達していた。スペイン
の政治的失墜の時代を通じて、その貨幣賃金のフランスおよびイギリスの賃金に対する関係は、今日のイギリスの貨
店幣貨金のフランスのそれに対する関係と、ほとんど同様であった。
(1) 『ニコノwカ』一九二九年、一1月、三五四ページに発表されているハミルトン教授の アンダルシアの物価と賃金とに関
する図表を見よ
(2) スペインでの一五四○年から一六○○年に至る板端な賃金の上昇は、ョーeッパのその他の国で起こりつつあったことと
は全く調和しないものであったが、それは明らかに、住民を軍隊に取られ、またアメリカ〔大陸]へ向けて喪失したことによ
って(そしてそれほど重要な理由ではないが、独身主義の住民が多かった こと と、ムーア人の追放とによって)、また農民
が、海外冒険者の団体に加わるためとか、あるいは人的な用役に対して得られる高賃金を得るために都市へ流入してきたこと
によって、非常に激化させられたのである。これらのことのすべてと、そして後にその結果として生じた耕作地の維持の困難
とは、すでに長いあいだ歴史家には周知の論題であった。しかし私は、ハミルトン教授の調査以前に、統計資料が利用可能で
あったという事実を知らないし、また歴史家は例によって、これらの事柄を、惰、迷信および客修といったような道徳的お
よび政治的諸原因に帰してきており、多くの場合、貨幣的蓄影響を顕りみることはしていないーそれはちょうど、今日のイ
ギリスの困難が、労働者の怠償、労働組合の反啓蒙主義および雇用者の無能に帰せられている のと同様であるが、これらのイ
ギリスについての諸要因も、もしそれが現代に特有なものであることを示すことができるのであれば、説明として、もう少し
価値のあるものにはなるであろう。
なぜならば、フランスとイギリスでの賃金のたどった経過は、スペインの場合とは、非常に違っていたからであ
第6 投資率とその変動
162
ることができ、特にその初めの四○年の間はそうであった。スペインで富の非常に急速な蓄積に対する諸条件がそろ
っていたのは、一五二〇年から一五六○年までの間であった。しかし一五八八年以後は、二つないし三つの景気過熱
の年を除いて、スペインでは、利潤が得られる機会はまったくなかったし、また一七世紀の最初の三○年間、スペイ
ンの賃金は(ハミルトン教授の数字によれば)、物価を超える状態を統け、したがって、利潤デフレーションを引き
起こしていたばかりでなく、ヨーロッパのその他の諸国での賃金に比べて、驚くべき高水準に達していた。スペイン
の政治的失墜の時代を通じて、その貨幣賃金のフランスおよびイギリスの賃金に対する関係は、今日のイギリスの貨
店幣貨金のフランスのそれに対する関係と、ほとんど同様であった。
(1) 『ニコノミカ』一九二九年、一1月、三五四ページに発表されているハミルトン教授の アンダルシアの物価と賃金とに関
する図表を見よ
(2) スペインでの一五四○年から一六○○年に至る板端な賃金の上昇は、ヨーロッパのその他の国で起こりつつあったことと
は全く調和しないものであったが、それは明らかに、住民を軍隊に取られ、またアメリカ[大陸]へ向けて喪失したことによ
って(そしてそれほど重要な理由ではないが、独身主義の住民が多かった こと と、ムーア人の追放とによって)、また農民
が、海外冒険者の団体に加わるためとか、あるいは人的な用役に対して得られる高賃金を得るために都市へ流入してきたこと
によって、非常に激化させられたのである。これらのことのすべてと、そして後にその結果として生じた耕作地の維持の困難
とは、すでに長いあいだ歴史家には周知の論題であった。しかし私は、ハミルトン教授の調査以前に、統計資料が利用可能で
あったという事実を知らないし、また歴史家は例によって、これらの事柄を、怠惰、迷信および奢侈といったような道徳的お
よび政治的諸原因に帰してきており、多くの場合、貨幣的諸影響を顕りみることはしていないーそれはちょうど、今日のイ
ギリスの困難が、労働者の怠償、労働組合の反啓蒙主義および雇用者の無能に帰せられている のと同様であるが、これらのイ
ギリスについての諸要因も、もしそれが現代に特有なものであることを示すことができるのであれば、説明として、もう少し
価値のあるものにはなるであろう。
163
第30章 歴 史的 例証
なぜならば、フランスとイギリスでの賃金のたどった経過は、スペインの場合とは、非常に違っていたからであ
る。明らかにスペインでは、新しい購買力は、直接に貴族階級および支配階級の手に入ってきて、そして直ちに彼ら
によって使用され、用役の費用を競り上げることになったーァメリカ大陸からの新しい富は、一六世紀の中葉以
後、まもなく賃金水準の高騰の中に(すなわち所得インフレーションの中に)、全面的に反映されっつあったの で あ
り、遂に一度も資本蓄積の中に(すなわち、もはや利潤インフレーションの中に) 反映されることはなかったのであ
る。しかし、ヨーロッパのその他の諸国では、新しい購買力は、異なる道筋を通って、すなわち私的な商業という道
筋を通って到来した(1)。新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
強く受けていた諸国に対して、大きな利益をえて販売することができたし、そして、その中でもとくに [地中海およ
びエーゲ海東岸の]レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのであ
る。
(1) 〔政府の許可のもとに、武装の民有船で敵船を攻撃捕獲するいわゆる〕私掌捕船の行動も、この中に含まれる。 なぜなら
ば、イギリスの場合には、地金の輸入の大きな部分が、ドレークによるスペインの財宝船の傘捕、および他の人びとによる多
くの同様な目ざましい活躍によっていたからである。これらの違征は、資本家の出資団体や会社によって金融され、商業上の
投機を意味するものであったが、それらの成功と成果とは、あらゆる種類の企業的活動に刺激を与えた。イギリスでの景気過
熱の時期は、一五七三年のドレークの最初の重要な遠征(彼の三度目の航海)からの帰還と共に、明確な形で始まり、そして
一五八〇年に帰還したその第二回目の遠征の莫大な収穫によって、いっそう確かなものになったのであるが、また一方、一五
八六年のその第 三回目の遠征も、まったく無視されてよいわけのものではなかった。ゴールデン・ハインド(Golden Hind)
号で持ち帰った金および銀の価値は、当時は進意深く秘密にされていたが、歴史家によって非常にまちまちに見積もられ、三
O万ポンドから一五〇万ポンドまでの間のどれかであるとされてきた。W.R.スコット教授は、高い方の数字に強く傾いて
おり、少なくともそれは、六〇万ポンドを超えていたに逮いないということを示す証拠を提出している。このような大量の貨
幣の流入の効果は、一五七五年から一五八七年までの「素晴らしき繁栄の一一年」を築き上げる上で、最も有力なものであっ
たに違いない。エリザベスの時代を作り上げ、またその偉大さを可能にしたものとして、これらの経済的藩要因に言及するこ
とを全くしょうとしないのは、わが国の歴史家の特徴であり、『ケンプリッジ近代史』(Cambridge Modern History)は、そ
の一例である。
貨幣論
全集6
164ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二O○○ボンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。現在の時点で(概数を使えば)われわれの対外投賓は、種々の損失を差し引いて、恐らく正味六1/2パーセン
ト程度の収益をもたらすであろうが、そのうち約半分ーーたとえば三1/4パーセン トーーを海外に再投資するとする。
もしこれが、平均的に見て、一五八〇年以来行なわれてきたことのかなり良い見本であるとすれば、一五八〇年に、
エリザベスがドレークの掠奪品の中から投資した四万二〇○○ポンドは、一九三〇年までには、ほぼわれわれの現在
の海外投資の実際の総額、すなわち四二億ボンドーーいいかえれば、最初の投資よりもおよそ一○万倍も大きなもの
ーーにまで増大していたであろう。実際われわれは、この仮定した蓋積率の正確さを、約一二〇年の経過をおいて照
合することができるのである。なぜならば、一七世紀の末にわが国の海外投資の大部分を構成していた三大貿易会社
ーー東インド会社、勅許アフリカ会社およびハドソン湾会社ーーは、約二一五万ポンドの資本をもっていたのである
が、もしわれわれが、当時のわが国の総海外投資額を二五○万ボンドとするならば、これは四万二○○○ポンドが一
第6 投資率とその変動
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ることができ、特にその初めの四○年の間はそうであった。スペインで富の非常に急速な蓄積に対する諸条件がそろ
っていたのは、一五二〇年から一五六○年までの間であった。しかし一五八八年以後は、二つないし三つの景気過熱
の年を除いて、スペインでは、利潤が得られる機会はまったくなかったし、また一七世紀の最初の三○年間、スペイ
ンの賃金は(ハミルトン教授の数字によれば)、物価を超える状態を統け、したがって、利潤デフレーションを引き
起こしていたばかりでなく、ヨーロッパのその他の諸国での賃金に比べて、驚くべき高水準に達していた。スペイン
の政治的失墜の時代を通じて、その貨幣賃金のフランスおよびイギリスの賃金に対する関係は、今日のイギリスの貨
店幣貨金のフランスのそれに対する関係と、ほとんど同様であった。
(1) 『ニコノミカ』一九二九年、一1月、三五四ページに発表されているハミルトン教授の アンダルシアの物価と賃金とに関
する図表を見よ
(2) スペインでの一五四○年から一六○○年に至る板端な賃金の上昇は、ヨーロッパのその他の国で起こりつつあったことと
は全く調和しないものであったが、それは明らかに、住民を軍隊に取られ、またアメリカ[大陸]へ向けて喪失したことによ
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よび政治的諸原因に帰してきており、多くの場合、貨幣的諸影響を顕りみることはしていないーそれはちょうど、今日のイ
ギリスの困難が、労働者の怠償、労働組合の反啓蒙主義および雇用者の無能に帰せられている のと同様であるが、これらのイ
ギリスについての諸要因も、もしそれが現代に特有なものであることを示すことができるのであれば、説明として、もう少し
価値のあるものにはなるであろう。
163
第30章 歴史的例証
なぜならば、フランスとイギリスでの賃金のたどった経過は、スペインの場合とは、非常に違っていたからであ
る。明らかにスペインでは、新しい購買力は、直接に貴族階級および支配階級の手に入ってきて、そして直ちに彼ら
によって使用され、用役の費用を競り上げることになったーァメリカ大陸からの新しい富は、一六世紀の中葉以
後、まもなく賃金水準の高騰の中に(すなわち所得インフレーションの中に)、全面的に反映されっつあったの で あ
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る。しかし、ヨーロッパのその他の諸国では、新しい購買力は、異なる道筋を通って、すなわち私的な商業という道
筋を通って到来した(1)。新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
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びエーゲ海東岸の]レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのであ
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(1) 〔政府の許可のもとに、武装の民有船で敵船を攻撃捕獲するいわゆる〕私掌捕船の行動も、この中に含まれる。 なぜなら
ば、イギリスの場合には、地金の輸入の大きな部分が、ドレークによるスペインの財宝船の傘捕、および他の人びとによる多
くの同様な目ざましい活躍によっていたからである。これらの違征は、資本家の出資団体や会社によって金融され、商業上の
投機を意味するものであったが、それらの成功と成果とは、あらゆる種類の企業的活動に刺激を与えた。イギリスでの景気過
熱の時期は、一五七三年のドレークの最初の重要な遠征(彼の三度目の航海)からの帰還と共に、明確な形で始まり、そして
一五八〇年に帰還したその第二回目の遠征の莫大な収穫によって、いっそう確かなものになったのであるが、また一方、一五
八六年のその第 三回目の遠征も、まったく無視されてよいわけのものではなかった。ゴールデン・ハインド(Golden Hind)
号で持ち帰った金および銀の価値は、当時は進意深く秘密にされていたが、歴史家によって非常にまちまちに見積もられ、三
O万ポンドから一五〇万ポンドまでの間のどれかであるとされてきた。W.R.スコット教授は、高い方の数字に強く傾いて
おり、少なくともそれは、六〇万ポンドを超えていたに逮いないということを示す証拠を提出している。このような大量の貨
幣の流入の効果は、一五七五年から一五八七年までの「素晴らしき繁栄の一一年」を築き上げる上で、最も有力なものであっ
たに違いない。エリザベスの時代を作り上げ、またその偉大さを可能にしたものとして、これらの経済的藩要因に言及するこ
とを全くしょうとしないのは、わが国の歴史家の特徴であり、『ケンプリッジ近代史』(Cambridge Modern History)は、そ
の一例である。
貨幣論
全集6
164ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二〇〇〇ポンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。現在の時点で(概数を使えば)われわれの対外投賓は、種々の損失を差し引いて、恐らく正味六1/2パーセン
ト程度の収益をもたらすであろうが、そのうち約半分ーーたとえば三1/4パーセン トーーを海外に再投資するとする。
もしこれが、平均的に見て、一五八〇年以来行なわれてきたことのかなり良い見本であるとすれば、一五八〇年に、
エリザベスがドレークの掠奪品の中から投資した四万二〇〇〇ポンドは、一九三〇年までには、ほぼわれわれの現在
の海外投資の実際の総額、すなわち四二億ボンドーーいいかえれば、最初の投資よりもおよそ一○万倍も大きなもの
ーーにまで増大していたであろう。実際われわれは、この仮定した蓋積率の正確さを、約一二〇年の経過をおいて照
合することができるのである。なぜならば、一七世紀の末にわが国の海外投資の大部分を構成していた三大貿易会社
ーー東インド会社、勅許アフリカ会社およびハドソン湾会社ーーは、約二一五万ポンドの資本をもっていたのである
が、もしわれわれが、当時のわが国の総海外投資額を二五○万ボンドとするならば、これは四万二〇〇〇ポンドが一
第6 投資率とその変動
162
ることができ、特にその初めの四〇年の間はそうであった。スペインで富の非常に急速な蓄積に対する諸条件がそろ
っていたのは、一五二〇年から一五六〇年までの間であった。しかし一五八八年以後は、二つないし三つの景気過熱
の年を除いて、スペインでは、利潤が得られる機会はまったくなかったし、また一七世紀の最初の三〇年間、スペイ
ンの賃金は(ハミルトン教授の数字によれば)、物価を超える状態を統け、したがって、利潤デフレーションを引き
起こしていたばかりでなく、ヨーロッパのその他の諸国での賃金に比べて、驚くべき高水準に達していた。スペイン
の政治的失墜の時代を通じて、その貨幣賃金のフランスおよびイギリスの賃金に対する関係は、今日のイギリスの貨
店幣貨金のフランスのそれに対する関係と、ほとんど同様であった。
(1) 『ニコノミカ』一九二九年、一一月、三五四ページに発表されているハミルトン教授の アンダルシアの物価と賃金とに関
する図表を見よ。
(2) スペインでの一五四○年から一六○○年に至る板端な賃金の上昇は、ヨーロッパのその他の国で起こりつつあったことと
は全く調和しないものであったが、それは明らかに、住民を軍隊に取られ、またアメリカ[大陸]へ向けて喪失したことによ
って(そしてそれほど重要な理由ではないが、独身主義の住民が多かった こと と、ムーア人の追放とによって)、また農民
が、海外冒険者の団体に加わるためとか、あるいは人的な用役に対して得られる高賃金を得るために都市へ流入してきたこと
によって、非常に激化させられたのである。これらのことのすべてと、そして後にその結果として生じた耕作地の維持の困難
とは、すでに長いあいだ歴史家には周知の論題であった。しかし私は、ハミルトン教授の調査以前に、統計資料が利用可能で
あったという事実を知らないし、また歴史家は例によって、これらの事柄を、怠惰、迷信および奢侈といったような道徳的お
よび政治的諸原因に帰してきており、多くの場合、貨幣的諸影響を顕りみることはしていないーそれはちょうど、今日のイ
ギリスの困難が、労働者の怠償、労働組合の反啓蒙主義および雇用者の無能に帰せられている のと同様であるが、これらのイ
ギリスについての諸要因も、もしそれが現代に特有なものであることを示すことができるのであれば、説明として、もう少し
価値のあるものにはなるであろう。
163
第30章 歴史的例証
なぜならば、フランスとイギリスでの賃金のたどった経過は、スペインの場合とは、非常に違っていたからであ
る。明らかにスペインでは、新しい購買力は、直接に貴族階級および支配階級の手に入ってきて、そして直ちに彼ら
によって使用され、用役の費用を競り上げることになったーァメリカ大陸からの新しい富は、一六世紀の中葉以
後、まもなく賃金水準の高騰の中に(すなわち所得インフレーションの中に)、全面的に反映されっつあったの で あ
り、遂に一度も資本蓄積の中に(すなわち、もはや利潤インフレーションの中に) 反映されることはなかったのであ
る。しかし、ヨーロッパのその他の諸国では、新しい購買力は、異なる道筋を通って、すなわち私的な商業という道
筋を通って到来した(1)。新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
強く受けていた諸国に対して、大きな利益をえて販売することができたし、そして、その中でもとくに [地中海およ
びエーゲ海東岸の]レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのであ
る。
(1) 〔政府の許可のもとに、武装の民有船で敵船を攻撃捕獲するいわゆる〕私掌捕船の行動も、この中に含まれる。 なぜなら
ば、イギリスの場合には、地金の輸入の大きな部分が、ドレークによるスペインの財宝船の傘捕、および他の人びとによる多
くの同様な目ざましい活躍によっていたからである。これらの違征は、資本家の出資団体や会社によって金融され、商業上の
投機を意味するものであったが、それらの成功と成果とは、あらゆる種類の企業的活動に刺激を与えた。イギリスでの景気過
熱の時期は、一五七三年のドレークの最初の重要な遠征(彼の三度目の航海)からの帰還と共に、明確な形で始まり、そして
一五八〇年に帰還したその第二回目の遠征の莫大な収穫によって、いっそう確かなものになったのであるが、また一方、一五
八六年のその第 三回目の遠征も、まったく無視されてよいわけのものではなかった。ゴールデン・ハインド(Golden Hind)
号で持ち帰った金および銀の価値は、当時は進意深く秘密にされていたが、歴史家によって非常にまちまちに見積もられ、三
〇万ポンドから一五〇万ポンドまでの間のどれかであるとされてきた。W.R.スコット教授は、高い方の数字に強く傾いて
おり、少なくともそれは、六〇万ポンドを超えていたに逮いないということを示す証拠を提出している。このような大量の貨
幣の流入の効果は、一五七五年から一五八七年までの「素晴らしき繁栄の一一年」を築き上げる上で、最も有力なものであっ
たに違いない。エリザベスの時代を作り上げ、またその偉大さを可能にしたものとして、これらの経済的藩要因に言及するこ
とを全くしょうとしないのは、わが国の歴史家の特徴であり、『ケンプリッジ近代史』(Cambridge Modern History)は、そ
の一例である。
貨幣論
全集6
164ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二〇〇〇ポンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。現在の時点で(概数を使えば)われわれの対外投賓は、種々の損失を差し引いて、恐らく正味六1/2パーセン
ト程度の収益をもたらすであろうが、そのうち約半分ーーたとえば三1/4パーセン トーーを海外に再投資するとする。
もしこれが、平均的に見て、一五八〇年以来行なわれてきたことのかなり良い見本であるとすれば、一五八〇年に、
エリザベスがドレークの掠奪品の中から投資した四万二〇〇〇ポンドは、一九三〇年までには、ほぼわれわれの現在
の海外投資の実際の総額、すなわち四二億ボンドーーいいかえれば、最初の投資よりもおよそ一〇万倍も大きなもの
ーーにまで増大していたであろう。実際われわれは、この仮定した蓋積率の正確さを、約一二〇年の経過をおいて照
合することができるのである。なぜならば、一七世紀の末にわが国の海外投資の大部分を構成していた三大貿易会社
ーー東インド会社、勅許アフリカ会社およびハドソン湾会社ーーは、約二一五万ポンドの資本をもっていたのである
が、もしわれわれが、当時のわが国の総海外投資額を二五○万ボンドとするならば、これは四万二〇〇〇ポンドが一
第6 投資率とその変動
162
ることができ、特にその初めの四〇年の間はそうであった。スペインで富の非常に急速な蓄積に対する諸条件がそろ
っていたのは、一五二〇年から一五六〇年までの間であった。しかし一五八八年以後は、二つないし三つの景気過熱
の年を除いて、スペインでは、利潤が得られる機会はまったくなかったし、また一七世紀の最初の三〇年間、スペイ
ンの賃金は(ハミルトン教授の数字によれば)、物価を超える状態を統け、したがって、利潤デフレーションを引き
起こしていたばかりでなく、ヨーロッパのその他の諸国での賃金に比べて、驚くべき高水準に達していた。スペイン
の政治的失墜の時代を通じて、その貨幣賃金のフランスおよびイギリスの賃金に対する関係は、今日のイギリスの貨
店幣貨金のフランスのそれに対する関係と、ほとんど同様であった(2)。
{(1) 『ニコノミカ』一九二九年、一一月、三五四ページに発表されているハミルトン教授の アンダルシアの物価と賃金とに関
する図表を見よ。
(2) スペインでの一五四○年から一六○○年に至る板端な賃金の上昇は、ヨーロッパのその他の国で起こりつつあったことと
は全く調和しないものであったが、それは明らかに、住民を軍隊に取られ、またアメリカ[大陸]へ向けて喪失したことによ
って(そしてそれほど重要な理由ではないが、独身主義の住民が多かった こと と、ムーア人の追放とによって)、また農民
が、海外冒険者の団体に加わるためとか、あるいは人的な用役に対して得られる高賃金を得るために都市へ流入してきたこと
によって、非常に激化させられたのである。これらのことのすべてと、そして後にその結果として生じた耕作地の維持の困難
とは、すでに長いあいだ歴史家には周知の論題であった。しかし私は、ハミルトン教授の調査以前に、統計資料が利用可能で
あったという事実を知らないし、また歴史家は例によって、これらの事柄を、怠惰、迷信および奢侈といったような道徳的お
よび政治的諸原因に帰してきており、多くの場合、貨幣的諸影響を顕りみることはしていないーそれはちょうど、今日のイ
ギリスの困難が、労働者の怠償、労働組合の反啓蒙主義および雇用者の無能に帰せられている のと同様であるが、これらのイ
ギリスについての諸要因も、もしそれが現代に特有なものであることを示すことができるのであれば、説明として、もう少し
価値のあるものにはなるであろう。}
163
第30章 歴史的例証
なぜならば、フランスとイギリスでの賃金のたどった経過は、スペインの場合とは、非常に違っていたからであ
る。明らかにスペインでは、新しい購買力は、直接に貴族階級および支配階級の手に入ってきて、そして直ちに彼ら
によって使用され、用役の費用を競り上げることになったーァメリカ大陸からの新しい富は、一六世紀の中葉以
後、まもなく賃金水準の高騰の中に(すなわち所得インフレーションの中に)、全面的に反映されっつあったの で あ
り、遂に一度も資本蓄積の中に(すなわち、もはや利潤インフレーションの中に) 反映されることはなかったのであ
る。しかし、ヨーロッパのその他の諸国では、新しい購買力は、異なる道筋を通って、すなわち私的な商業という道
筋を通って到来した(1)。新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
強く受けていた諸国に対して、大きな利益をえて販売することができたし、そして、その中でもとくに [地中海およ
びエーゲ海東岸の]レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのであ
る。
{(1) 〔政府の許可のもとに、武装の民有船で敵船を攻撃捕獲するいわゆる〕私掌捕船の行動も、この中に含まれる。 なぜなら
ば、イギリスの場合には、地金の輸入の大きな部分が、ドレークによるスペインの財宝船の傘捕、および他の人びとによる多
くの同様な目ざましい活躍によっていたからである。これらの違征は、資本家の出資団体や会社によって金融され、商業上の
投機を意味するものであったが、それらの成功と成果とは、あらゆる種類の企業的活動に刺激を与えた。イギリスでの景気過
熱の時期は、一五七三年のドレークの最初の重要な遠征(彼の三度目の航海)からの帰還と共に、明確な形で始まり、そして
一五八〇年に帰還したその第二回目の遠征の莫大な収穫によって、いっそう確かなものになったのであるが、また一方、一五
八六年のその第 三回目の遠征も、まったく無視されてよいわけのものではなかった。ゴールデン・ハインド(Golden Hind)
号で持ち帰った金および銀の価値は、当時は進意深く秘密にされていたが、歴史家によって非常にまちまちに見積もられ、三
〇万ポンドから一五〇万ポンドまでの間のどれかであるとされてきた。W.R.スコット教授は、高い方の数字に強く傾いて
おり、少なくともそれは、六〇万ポンドを超えていたに逮いないということを示す証拠を提出している。このような大量の貨
幣の流入の効果は、一五七五年から一五八七年までの「素晴らしき繁栄の11年」を築き上げる上で、最も有力なものであっ
たに違いない。エリザベスの時代を作り上げ、またその偉大さを可能にしたものとして、これらの経済的藩要因に言及するこ
とを全くしょうとしないのは、わが国の歴史家の特徴であり、『ケンブリッジ近代史』(Cambridge Modern History)は、そ
の一例である。}
貨幣論
全集6
164ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二〇〇〇ポンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。現在の時点で(概数を使えば)われわれの対外投賓は、種々の損失を差し引いて、恐らく正味六1/2パーセン
ト程度の収益をもたらすであろうが、そのうち約半分~~たとえば三1/4パーセン ト~~を海外に再投資するとする。
もしこれが、平均的に見て、一五八〇年以来行なわれてきたことのかなり良い見本であるとすれば、一五八〇年に、
エリザベスがドレークの掠奪品の中から投資した四万二〇〇〇ポンドは、一九三〇年までには、ほぼわれわれの現在
の海外投資の実際の総額、すなわち四二億ボンド~~いいかえれば、最初の投資よりもおよそ一〇万倍も大きなもの
~~にまで増大していたであろう。実際われわれは、この仮定した蓋積率の正確さを、約一二〇年の経過をおいて照
合することができるのである。なぜならば、一七世紀の末にわが国の海外投資の大部分を構成していた三大貿易会社
~~東インド会社、勅許アフリカ会社およびハドソン湾会社~~は、約二一五万ポンドの資本をもっていたのである
が、もしわれわれが、当時のわが国の総海外投資額を二五〇万ボンドとするならば、これは四万二〇〇〇ポンドが一
貨幣論
全集6
163~4ページ
#30-1
第6編 投資率とその変動
新しい財宝によって影響されることの最も少なかった国々の商人たちは、その影響をいっそう
強く受けていた諸国に対して、大きな利益をえて販売することができたし、そして、その中でもとくに [地中海およ
びエーゲ海東岸の]レヴァント地方およびアジアとの貿易関係を確立していた諸国は、このようにして受け取った
財宝を、次には、非常に莫大な利潤の得られる条件で、輪出する こと ができた。一七世紀を通じて、自国の富に莫
大な増加をつけ加えつつあったのは、イギリスとフランスの資本家であって、スペインの資本家ではなかったのである。
実際、ドレークがゴールデン・ハインド号で持ち帰った掠奪品こそは、まさにイギリスの海外投資の源泉であり、
起源であったと考えて差し支えない。 エリザベス[一世〕は、その収入の中から自分の対外債務の全部を支払い、ま
たその残額の一部(約四万二〇〇〇ポンド)をレヴァント会社に投資したし、また主としてレヴァント会社の利潤か
ら東インド会社が設立され、そして一七世紀と一八世紀とを通じて、その利潤はイギリスの対外的事業関係の主要な
基礎をなすものであった、等々。これらのことを考えれば、以下の計算は、好奇心に富む人びとの興味を引くかもし
れない。
yoji2021年8月5日 21:19
ケインズはソロンを評価していた。
貨幣論1
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。
…
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。
第1編 貨幣の性質
12
真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように
す
-やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の
ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公
的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための
標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ
ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており
そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた||ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは
アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園でー|間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園
の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると
いう明確な意図のもとに企画された〜〜ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である〜〜例を、
私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた
めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。標準物の質的劣悪化、すなわち計算貨幣の価値を突然に低下させるような標準の変更は、それ自体ではわれわ
れを一歩も代表貨幣の方へ導くものではない。商品貨幣は、単に商品の単位が質的に変化し、あるいは量的に減少し
ケインズはソロンを評価していた。
貨幣論1
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。
…
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。
第1編 貨幣の性質
12
真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように〜〜やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の
ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公
的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための
標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ
ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており
そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた〜〜ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは
アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園で〜〜間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園
の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると
いう明確な意図のもとに企画された〜〜ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である〜〜例を、
私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた
めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。標準物の質的劣悪化、すなわち計算貨幣の価値を突然に低下させるような標準の変更は、それ自体ではわれわ
れを一歩も代表貨幣の方へ導くものではない。商品貨幣は、単に商品の単位が質的に変化し、あるいは量的に減少し
ケインズはソロンを評価していた。
貨幣論1
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。
…
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。
13頁
国家による重量の標準の最初の改革は、はっきりした記録のあるところでは、紀元前3000年代終り頃のバビロニアの改革であった。
第1編 貨幣の性質
12
後に13世紀にもなってイングランドの政府が英貨1ペンスを「穂の
真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように〜〜やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の
ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公
的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための
標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ
ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており
そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた〜〜ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは
アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園で〜〜間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園
の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると
いう明確な意図のもとに企画された〜〜ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である〜〜例を、
私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた
めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。標準物の質的劣悪化、すなわち計算貨幣の価値を突然に低下させるような標準の変更は、それ自体ではわれわ
れを一歩も代表貨幣の方へ導くものではない。商品貨幣は、単に商品の単位が質的に変化し、あるいは量的に減少し
R Ishizuka
@ISHIZUKA_R
ケインズはこんなこと言っています。金の量が変動したら、準備率を調整してしまう、という。だから金にリンクしていなかったから金本位制は安定したと。
経済学の先生は、学生に嘘を教えてこなかったか。 pic.twitter.com/QATob2v8bE
2021/09/08 11:53
ケインズの証言
「世界の多くの発券銀行における金準備率の任意性と変わりやすい性格は、推測不可能な要因を導入するというよりも、むしろ安定要因であったのである。なぜなら、金が比較的多量に流入する場合は、金準備率を多少引き上げれば吸収されてしまうし、また、金が比較的希少であるときは、金準備を実用に供する意図がないという事実が、準備率を多少引き下げても、へいせいを保たせることができたのである。」
(『ケインズ全集』第4巻、邦訳、p.138)
50
貨幣改革論
お金の改革論
https://genpaku.org/keynes/monetaryreform/monetaryreformj.pdf
4.3
69
だが、安定化をこれまで支援してきた別種の影響があった。黄金の価値は、ある一つの人間集団の政策や意志決定に依存するものではない。そして供給のそこそこの割合は、市場を氾濫させることなく、芸術やアジアにおける抱え込みへと向かった。だから黄金の限界価値は、その金属が他のモノに対して持つ安定した心理的推定に左右されることになったのだった。黄金には「内在的価値」があり、「管理」通貨の危険から逃れているというのはこういう意味だ。黄金の価値を決める•独•立•し•た•各•種•の影響は、それ自体として安定化をもたらす影響となった。黄金の備蓄量が、世界の多くの紙幣発行銀行が維持する負債に対して持つ割合は、恣意的で変わりやすいものだが、これも計算不能な要素を導入するどころか、安定性の一要因となった。黄金が豊富で中央銀行のほうに流れてくると、黄金準備高の比率が少し上がるのを容認することで吸収できたし、それが比較的希少になると、中央銀行が自分たちの黄金準備高を実用的な目的に使う意図はまったくなかったという事実のため、そうした銀行のほとんどは黄金準備高比率が減るのを平然と見守れたのだ。南アフリカの黄金がボーア戦争終わりから1914年までに示した流れの大半は、ヨーロッパなどの国々の中央黄金準備高に流れ込んで、物価には最小限の影響しか与えなかった。
ヒックスは貨幣の現状の機能をストックとしたが金本位制が念頭にあったのだろう。
ケインズ#5貨幣論5頁
《今日全ての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義的[貨幣]である。》
Today all civilised money is, beyond the possibility of dispute, chartalist.
CH. I
THE CLASSIFICATION OF MONEY
of Barter as soon as men had adopted a money-of-
account. And the Age of Chartalist or State Money
was reached when the State claimed the right to
declare what thing should answer as money to the
current money-of-account-when it claimed the right
not only to enforce the dictionary but also to write
the dictionary. To-day all civilised money is, beyond
the possibility of dispute, chartalist.
It will be noticed that the money-of-account must
be continuous. When the name is changed-which
may or may not be coincident with
money which answers to it-the new unit must bear
a definite relation to the old. The State will, as a
rule, promulgate a formula which defines the new
money-of-account in terms of the old. If, however,
failing a decree by the State, all contracts prior to a
certain date are worked out in the old currency, and
all contracts subsequent to that date are made in the
new, even so the market cannot help establishing for
itself a parity between the two. Thus there can be
no real breach in the continuity of descent in the
pedigree of the money-of-account, except by a cata-
strophe in which all existing contracts are simul-
taneously wiped out.
change in the
(ii.) MONEY-PROPER AND BANK-MONEY
We have seen that the introduction of a Money-
of-Account gives rise to two derived categories-
Offers of Contracts, Contracts and Acknowledg-
ments-of-Debt, which are in terms of it, and Money-
Proper, answering to it, delivery of which will
discharge the Contract or the Debt. The first of
these prepares the way for the next development,
namely the discovery that for many purposes the
acknowledgments of debt are themselves a service-
able substitute for Money-Proper in the settlement of
transactions. When acknowledgments of debt are
ケインズは貨幣論でホートレーを引く形で信用貨幣を使用している
#5
200頁
174
credit money
信用貨幣
第3編 基本方 程式
の恐れなしにかなり広い範囲で変化させることができる。利子率が上昇するときには、彼は重大な不便を蒙ることなしにできる
かぎりその債務を減少させようと望むであろう。彼がその財貨の在庫を減少させることができれば、彼はその債務を減少させる
ことができる。そして彼は、単に財貨が売却されるときに補充を遅らすだけで、その財貨の在庫を減少させることができる。し
かし製造業者の受け取る注文は、在庫を補充しようとする商人から出てくる。それ故に製造業者たちは、直ちに自分たちの受け
取る注文が前よりも少なくなり、また少額のものになってきていることを知るであろう。商人たちは、さもなければ財貨の購入
のために製造築者への支払いに用いていたはずの貨幣を、いまやその銀行業者への債務の返済のために使用しつつある。 す
なわち彼(製造業者)は需要の減退を経験し、そして彼はその結果生ずる産出量の制限を和らげるために、価格を現行の生産経費 4
が許すかぎり引き下げる。この価格の引下げは、商人に対して、小売価格の引下げという普通ならば需要を刺激するはずの方策
をとることができるようにするであろう。しかしその間に、商人による在庫の減少と生産者による産出の制限とは、生産者およ
び商人との両者の銀行に対する債務の減少をともない、そしてこの銀行業者の資産のこの減少は、彼らの償務、すなわち信用貨」
幣の供給の減少をともなっているであろう。したがって公衆の手許にある貨幣の残高は減少しており、そしてその上に構築され
ている所得の上部構造は、それと同時に縮小しつつあるのである。」
ところで私は、これは銀行利率の上昇の正常な作用様式に関するきわめて不完全な説明だと思う。読者は、それが
もっぱら高金利から生ずる営業費用の増加によっていることに注意してほしい。ホートレー氏は、この追加的費用が
あまりにも僅少で、製造業者に著しい影響を与えることはないだろうということを認めてはいるけれども、商人には
それが著しい影響を与えているということを、吟味もせずに仮定している。彼の議論は、商人の心に物価水準の下落
の予想を起こさせるということに基っいているのではないのであって、信用貨幣の供給の減少を、彼の考える因果的
連鎖での最終の出来事としているのである。しかし商人がその銀行業者から獲得する融通に対して、五パーセントを
支払っているか六バーセントを支払っているかという問題は、彼が取引する財貨の現在および将来の売上率(すなわ
#5
200頁
174
credit money
信用貨幣
A TREATISE ON MONEY BK. m keep wiU be based on experience, but can, of course, be varied- mthin fairly wide limits without much risk of inconvenience. When t^ rate of interest goes up he will be anxious to reduce his indebtedness, so far as he can, without incurring serious inconvenience. He can reduce his indebtedness if he can reduce his stocks of goods, and he can reduce his stocks of goods by merely delaying replenishment when they are sold. But the orders received by manufacturers come from the dealers who want to replenish their stocks. Consequently the manufacturers will at once find that they are receiving fewer and smaller orders. The money which the dealers would otherwise have been using to pay the manufacturer for goods, they are using to extinguish their indebtedness to their bankers. . . . That is to say, he (the manufacturer) experiences a slackening of demand, and in order to relieve the resulting restriction of output he lowers prices so far as the existing expenses of production will permit. This lowering of prices will enable the dealers to lower retail prices, a measure which would ordinarily stimulate demand. But in the meanwhile the reduction of stocks by the dealers and the restriction of output by the producers will have been accompanied by a diminution of indebtedness'of both producers and dealers to the banks, and this diminution of the bankers’ assets will have been accompanied by a diminution in their liabilities, i.e. in the supply of credit money. The balances of money in the hands of the public ate therefore decreasing, and the superstructure of incomes erected thereon is simultaneously shrinking.”
Now, I believe this to be a very incomplete account ^of the normal modus operandi of a Mgber bankrate. It rebes, let the reader observe, exclusively on the increased costs of business res^ting fromjh^rer monej^ Mr. Hawtrey admits that these additional caste be too small materially to affect the manu. facturer, but assumes without investigation that they do materially affect the trader. He does not base his arguptent on the arousing of an expectation of ,fallmg price-levels in the minds of the dealers, and he n^kes the diminution of the supply of credit money the tost event in hi% causal train. Yet probably the qu^on
ホートレー 好況と不況
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hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/.../1/ronso1090601030.pdf
ホートレーにおける商人 - ・消費財と投資財
拡大とともに,ホートレーの見解(在庫投資の重視や公共支出への反対等)は旧. 式として,いつしかその名も完全に ... CBT Good and Bad Trade Constable & Co. 1913.
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hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/.../kenkyu0180300850.pdf
ホートレーとケインズ -共通点を主眼として
命題 ホートレー・ケインズともに貨幣が本質的な役割を演じる経済学を19. 30年代までに構築し, ... 1913 'Review of Good and Bad Trade Economic Journal 23 1913.
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repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/.../kronso_178_5-6_525....
Title R.G.ホートレーの金融・財政政策論(1) Author(s) 古川, 顕 ...
R.G.ホートレーの金融・ 1ぽ政政策論(1 ). (527) 3. は最初の書物 f好況と不況J以来,. して不況時の公共事業支出の増加に反. 対する立場を賞き,いわゆる「大蔵省 ...
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Good and Bad Trade. ペーパーバック – 2010/4/6 - アマゾン
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未指定:ホートレー公共不況
Good and Bad Trade. ペーパーバック – 2010/4/6
英語版 Ralph George Hawtrey (著), . London Constable and Company Limited 1913. (著)
「45度線モデル」について松谷 泰樹*中央大学経済学部一般の経済学の教科書に掲載されている,有効需要の論理に基づ
ホートレー1913に言及
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jmr/31/2/31_36/_pdf/-char/ja
Good and Bad Trade: An Inquiry Into the Causes of Trade Fluctuations
https://library.um.edu.mo/ebooks/b32733574.pdf
p.61-3
ホートレー言う信用貨幣はケインズの銀行貨幣でケインズもホートレーの文脈で信用貨幣を使用している。
ケインズはホートレー、ドゥークに批判的なので立場が違うと思われやすいがむしろ同じである。
物価の捉え方が違うだけである。
今日の信用貨幣は
ケインズの言う計算貨幣、代表貨幣、銀行貨幣、管理貨幣を総合したものである。
ケインズは流動性選考を強調し
集計的需要を見ている
貨幣論
は慣習を導入している。すなわちわれわれは、国家あるいは社会を導入しているのである。さらに貨幣契約の一つの
特殊の性質は、国家または社会が、単に引渡しを強制するだけでなく、計算貨幣をもって締結されている契約の合法
的あるいは慣習的な履行として引き渡されなければならないものは何かということをも決定する点にある。したがっ
て国家は、まず第一に、契約に含まれている名称もしくは記述に照応する物の支払いを強制する法の権威として現わ
れる。しかし国家が、これに加えていかなる物がその名称に照応するかを定め、これを布告し、そしてその布告を時
どき変更する権利を要求するとき--すなわち辞典を再編修する権利を要求するとき--国家は二役を演ずることに
なる。この権利は、すべて近代国家が要求しており、そして少なくとも約四○○○年の間そのように要求し続けてき
た。クナップ(Knapp)の表券主義 (chartalism)--貨幣はとくに国家の創造物であるという学説--が完全に実
現されるのは、貨幣の発展がこの段階に到達したときである。
したがって、人びとが計算貨幣を採用した瞬間から、貨幣の時代が物々交換の時代の後を引き継ぐに至ったのであ
る。そして表券主義的貨幣すなわち国家貨幣の時代は、国家が、一般に行なわれている計算貨幣に対して、いかなる
ものを貨幣としてこれに照応させるかを布告する権利を要求したときに--国家が辞典の使用を強制するだけでな
く、辞典を作る権利をも要求したときに--達せられた。今日すべての文明社会の貨幣は、議論の余地なく表券主義
的[貨幣〕である。
全集#5:4~5頁