華厳経とライプニッツ 村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 1896
西田幾多郎
絶対矛盾的自己同一
…
二
…
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの
現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合
より成ると考えることができる。斯(か)くいうことは、かかる世界は一面にライプニ
ッツのモナドの世界の如く何処(どこ)までも自己自身を限定する無数なる個物の相互
否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己
自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕(はら)む一つの時間的連続であ
る、一つの世界である。
岩井貴生論考
西田は華厳の「多」と「一」の相即相入の論理で成り立つ「事事無礙」(華厳経より)と同じ構造を、
「個」 が「他個」に対して「個」であるという言い方で両者の区別を明確にしつつも同一
であると主張 した。ということは、西田幾多郎が難解な哲学的論理を駆使して解き明か
そうとした内容とは、 「事事無礙法界」の世界観と考えることが出来る。
村上俊江
山口県出身。東京帝大文科大学哲学科卒業。吉田松陰の研究家として知られる。 熊本 県立八代中学校、山口県立萩中学校長、東京成城中学校主事を経て、1922(T11)新設 の高知県立城北中学校(小津高校)校長に就任。 以来8年間在任し「剛健醇美」の校是 ...
銅像 村上俊江
村上 むらかみ 俊江 としえ. 生没年, 明治4年(1871)~昭和32年(1957), 分類, 教育者. 略歴, 山口県山口市大字大歳湯田養元寺に生まれる。東京帝国大学文科大学哲学科を 卒業し、熊本県立八代中学、山口県立萩中学校長、東京成城中学校主事を経て ...
< 論説>『華厳経』 と 『モナドロジー』: 村上俊江におけるライプニッツ受容
酒井潔
タイトル: <論説>『華厳経』と『モナドロジー』 : 村上俊江におけるライプニッツ受容. その他のタイトル: Kegon-Gyô (華厳経)and Leibniz's Monadology. Leibniz Reception ...
・『『華厳経』と『モナドロジー』―村上俊江におけるライプニッツ受容』 酒井潔 (2014-03-01)
・村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 『華厳思想』 中村元編 (1960)
453-483頁
ようやく村上の死後になって,彼の論文「ライブニッツ氏ト華厳宗」は,川田熊太郎監修・中村元編集『華厳思想』法蔵館1960年,453-483頁
,に収載され公刊されたが,この村上の論文は彼が1896年に卒業論文として東京帝国大学に提出したものであって,非常に重要な寄与であると言わねばならない。その主旨は,「ライブニッツ氏ノ元子論ト,華厳宗ノ事々無礙論ト殆ンド異ナルコトナキヲ了スベシ」というものである7)。村上のライプニッツ研究は,いまこれを年代的にみるなら,クーテュ
ラ編纂の『ライプニッツ未公刊著作・断片集』Opuscules et fragments inédits, éd. par Louis Couturat, Paris 1903 にも先行し,また汎論理主義を代表する画期的なクーテュラの『ライプニッツの論理学』(L. Couturat, La logique de Leibniz, Paris 1901)や,ラッセルの『ライプニッツ哲学の批判的解説』(Bertrand Russell, A Critical Exposition of the Philosophy of Leibniz, London 1900)などの研究書にも先行している。くわえて,明治維新以降の日本において,西洋哲学の本格的な学術的受容が開始されたのがようやく1890年頃 からであったことを考え合わせると,この時点での村上の本論文は驚くべき業績である。
村上は本論文の冒頭に,「例言六則」と題し,自身の探究の格率について明示している。なかでも「一」,「二」が重要である:
「一 斯論唯ライブニッツ氏ノ哲学ト華嚴宗ノ敎義ノ相類似スルモノヲ彼此對照スルノミ。固ヨリ二者ノ全系ヲ盡スモノニアラズ
二 華嚴宗ノ敎義ノ事々無礙論ナルハ,辨ズルヲ要セズ。ライブニッツ氏ノ哲學ノ亦事々無礙論ニ根據スルハ,學者之ヲ説ク事希也。斯論殊ニ氏ガ事々無礙論ヲ發揮セントス故ニ氏ヲ主トシ,華嚴宗ヲ賓トシ,主ヲ詳ニシ賓ヲ略ス」8)
すなわち,「一」では,ライプニッツと華厳のそれぞれ全体系を遺漏なく再生することが主眼ではなく,むしろ特定の類似点を剔出し,それをめぐりライプニッツと華厳を相互に比較する旨宣言する。「二」では,華厳の主要思想が個の「事々無礙」の概念によって捉えられることは,繰り返されるまでもなく,ライプニッツの形而上学が「事々無礙」の発想に基礎を置くということは,従来研究者によってほとんど触れられることはなかった,と強調している。こうした欠如こそ,村上によれば,今や克服されるべきである。テクスト基礎として村上が利用したのは,Robert Habs9) (Hrsg.), Kleinere Philosophische Schriften, Reclam’s UniversalBibliothek, Leipzig 188310)であって,村上はこの版から多くの節を,同
並置し比べるだけではなく,それらの共通性をひとつの固有な批判的な態度において評価するという,オリジナルな比較思想研究が提示されている,ということである。
I 華厳宗とモナド論の対応
〔一〕ライプニッツのモナドにはその根底に,超越としての「宇宙の生きた永続的な鏡」(un miroir vivant et perpétuel de l’univers)――それは物どもの多性を脱自的に,一つにする統一によって表出する――の概念が存する。個(「個体」individuum)はそれぞれ,「一における多の表出」expressio multorum in uno であって,村上によれば,このことは内容的には華厳の中心的な概念である「事々無礙」(相互に-進入すること)に対応している。「事々無礙」が意味するのは次のことである。すなわち,現出世界の多様なものどもが共に,かつ相互の内へ融合し,妨げることがない,ということである。正当にも村上は,この観点におけるモナド論の先駆者としてニコラウス・クザーヌスとジョルダーノ・ブルーノをあげている。『モナドロジー』第65~68節においても,どの微小な諸部分のなかにも全宇宙が表現・代表されていると述べられていて,村上はそこにもまた華厳仏教への大きな親近性を見出している(465頁10行目以下)。すなわち,村上はこの第65,66,67,68節の全原文をHabs版により引用し,言明する:「今之ヲ華嚴經ノ所説ニ對比シ來ラバ,予ハ其類似ノ甚シキニ驚カザルヲ得ズ」(466頁6行目)。そして華厳経第四巻,第二七巻,第三巻,第七巻から計七箇所を引用している。例えば,その最初の引用は「一一微塵中,見一切法界(華嚴經第四巻)」である。村上は,彼の精緻なテクスト理解において,モナドすなわち「元子」13)は,いささかも,単に感性的に知覚され得るだけのものとは同一視されてはな
らない,と強調し注意している。モナドが存在するその仕方/有り方は,華厳では,「真如」(真理/真性)という語で表示される。モナドとはつまり,直前的/眼前的な物を意味するのではなく,それ自身と,それ自身において世界とを,それがそれ自身において有るような仕方で表現する有るもの“dharma”(達磨)、つまり「表出」を意味するのである。
悪の起源への問いについては,「形而上学的悪」malum metaphysicumの意味での悪は,ライプニッツにおいては「善の欠如」privatio boni(「 非有」non entia)として定義されている。それと同じように,真実でなく不浄な存在者は、華厳においては本来いかなる積極的具体的な現実存在をも持たないと村上は述べ,華厳の「妄染無体」を示唆する。ただし,ライプニッツ自身は,被造物の不完全性を意味する「形而上学的悪」だけでなく,「苦痛」を意味する「自然的(身体的)悪」malum physicumと,「罪」を意味する「道徳的(精神的)悪」malum moraleとを区別している。したがって,ライプニッツの「悪」概念を「非有」とし,華厳の「妄染無体」との対応を見出そうとする村上の論は,ライプニッツ解釈としては必ずしも正しくない。興味深いのは同様のライプニッツ解釈をかつてシェリングが行っていたことである。シェリングは,ライプニッツの「形而上学的悪」を,悪の積極的な面を見ていないとして非難するとき,彼はライプニッツにある「自然的悪」も「道徳的悪」も看過しているかのようである14)。
村上はさらに,ライプニッツの表象のうち,意識の随伴する表象を,とくに「覚性」と呼んでこれに注目する。
「ライブニッツ氏ハ寫象ノ階級ヲ分チテ,寫象ノ分明ニシテ,意識アルモノヲ心ト曰ヒ,心ノ發達シテ覺性ヲ具フルモノヲ靈魂ト曰ヘリ。而シテ更ヲニ,心ト靈魂トノ間ニ存スル他ノ區別ヲ説テ曰ク」(478頁)続いて,『モナドロジー』第83節の全文を,ハープストのドイツ語訳文により,次のように引用している。Neben anderen Unterschieden zwischen den gewöhnlichen Seelen
und den Geistern, die ich zum Theil bereits angegeben habe, findet sich auch noch der, daß die Seelen im allgemeinen lebende Spiegel oder Bilder des Universums der geschaffenen Dinge, die Geister aber Bilder der Gottheit oder des Urhebers der Natur selbst und fähig sind , das System des Universums zu erkennen und einen Theil davon durch aufbauende Proben nachzuahmen, da jeder Geist in seinem Bereiche gleichsam eine kleine Gottheit ist.
統覚(apperception)の地位については,ライプニッツによって規定された統覚(意識),それはモナドの「知覚」に付け加わって,それにより想起と道徳という人間の固有性を付与するのであるが,このことに対応する言い方が華厳経の中に見いだされる。天台宗にしたがえば「非情仏性」の概念では,植物,動物はじめあらゆる存在者は仏になることができるとされるが,これに対し華厳経では次のように教える:意識(統覚)をもたないような存在者は,ただそれの本性(「法性」)だけを所有する。そのような存在者はそれが「統覚」(「覚性」)を欠くあいだは,仏になること(「成仏」)は出来ない。「天台宗ニ於テハ,非情佛性ノ說ヲ立テ,艸木國土等ノ非情物モ,尚能ク仏性ヲ具シテ成仏スベシトナスモ,華厳宗ニ於テハ然ラズ,一切諸法ハ眞如ノ随縁シテ成ルモノナリト雖モ,非情物ハ法性ノミアリテ覺性ナケレバ,成佛スル能ハズトナス。・・」(478頁)
正当にも村上は,ブルーノのモナド概念は,ブルーノにおいては,まだ二元論的に考えられていて,魂としての性格と身体としての性格の両方を示している(例えば,天台宗でいう「色心等分論」におけるように),と注意している(472頁6行目)。これに対して,実体としてのライプニッツのモナド概念は,いかなる延長もいかなる身体的な契機も許容しない,ただし身体/物体はそれ自体単に恣意的な主観像に過ぎないのではなくて,「よく基礎づけられた現象」(phaenomenon bene fundatum)なのである。現象とは,ライプニッツによれば,常に「何らかのものの現象」としてそ
)れの基礎をもつのでなければならない。したがって,ライプニッツにとって,「よく基礎づけられた現象」(「真如」)を,非実在的で想像的な現象(「偏計」,「偏計所執性」)から区別することが重要となる。そしてこの視点は基本的に華厳宗でも共有されていると村上はみる。つまりライプニッツと華厳宗もともに「唯心論」であると村上は断定するのである(「華嚴宗ヲ唯心縁起ノ法門トナス」)。村上の次の言は注目すべきである:「之〔=天台宗〕ニ反シテ,華嚴宗ハ唯心緣起ノ法門ニシテ,而カモ其特點ハ事々無礙論ニアレバ,之ヲ,ライブニッツ氏ガ哲学ノ唯心論ニシテ,同時ニ事々無礙ノ元子論ナルニ対比シテ,殆ンド異ナルコトナキハ・・・」(472頁8~10行目)〔二〕同時に村上は,ライプニッツの個々の議論には批判的なコメントを提示している。村上は,単に受動的な受容者でもなければ,いわゆる熱狂的仏教者でもない。彼の論文において,村上は鋭い現象学的で事象的な批判をライプニッツの哲学的立場そのものに対して投げかけている:第一:「神性の連続的な電光放射」(fulgurations continuelles de la Divinité de moment à moment, Mo.§47)という概念を村上は,まったく理解不可能であるとして批判し,これは新プラトン派の「流出」(emanatio)あるいはそのほかのものと同様に理解されるべきなのかどうかと問う。村上は,『モナドロジー』第47節全文をHabs版から引用し,それに続けてライプニッツの創造論は,彼のその他の論点が厳密であるのに対して,「浅薄」であると結論する:「氏ガ此ニ所謂,閃出トハ畢竟何ノ義ナリヤ。新プラトン派ノ合出ト異ナリヤ否ヤ。到底解スベカラズト雖モ,兎ニ角,氏ノ創造説ハ,奇怪淺薄,氏ガ平生ノ議論ノ精緻森嚴ナルニ似ザルモノト云フベシ・・・」(480頁5~6行目)第二:神概念の矛盾に関して,村上は次のように問う:なぜ神は神より下位にたつようなものしか創造できないのか。なぜ神は,実現可能なもの
のなかで,最も完全なものだけを選択し実現しなければならないのか。他方,もし神が理由律をほんとうに凌駕しているなら,なぜ神はただ一つのもの(すなわち「最善」)しか創造できないのか。もし神自身が同様に理由律に従うなら,神は結局この原理によって制限される(481頁7~9行目)。ここから村上は,ライプニッツは彼のモナド理論の文脈では,諸モナドの他にはいかなる他の現実存在も,したがって神の現実存在をも主張してはならなかったのに,と結論するのである(481頁9~16行目)。すなわち村上は,『モナドロジー』第31節の原文を引用し,こう論定する:「予ヲ持ッテ之ヲ觀ルニ,ライブニッツ氏ノ元子論ニ於テハ,元子ノ外ニ神ノ存在ヲ主張スベカラズ。若シ元子存在ノ理由ヲ求メテ,之ヲ神ニ歸スル時ハ,又神ノ存在ノ理由ヲホメザルベカラザレバナリ」(481頁15~16行目)。
第三:「理由律」(principium rationis)について村上は,彼の仏教的な発想から次のように言う:哲学的な探究は実体〔=神〕の現実存在のところで終わらねばならない。そのうえさらに実体の現実存在のその根拠を問うことはわれわれの益にはまったくならない,と。人がそもそも欲してはならない,または欲することの出来ないそのような「ラチオ」を探し求めることにおいて,ライプニッツはなおも神を前提しているが,これ〔=神〕は余計で無益なものだ、と村上は考えるのである。ここの彼の発言も引用しておこう:「哲学的研究ハ常ニ實躰ノ存在ニ至リテ止ヲザルベカラズ。實躰存在ノ理由ヲ對尋スルニ至リテハ,無稽ノ甚ダシキモノト謂ハザルヲ得ズ。ライブニッツ氏ノ元子ハ既ニ實躰ナレバ,吾人ハ又元子存在ノ理由ヲホムベカラザルナリ」(481頁15行目~482頁1行目)。
Ⅱ 華厳仏教の内容的メルクマール
『華厳経』という大部かつ広範な経典は,三十四の異なった部分からなる。
冒頭にみたように,そのサンスクリット語原典は,五世紀初頭インドから中国にもたらされ,北インド出身の僧侶ブッダバドラBuddhabhadraによって421年漢訳されたのである(『大方広仏華厳経』)。しかしその多くの章は,たとえば最終章にして最長の「入法界品」(Gand44avyūha)のように,それぞれ単独ですでに紀元2または3世紀にインドや中央アジアで流布していた。例えば「入法界品」(Gand44avyūha)は竜樹(Nāgārjuna150-250)によって言及され,引用されていたのである。”Gand44a-“とは「花」,”-vyūha”とは「飾る」の謂いである。”Gand44avyūha “とは,それゆえ,宇宙全体がさまざまな花でもって飾られ,ひとつのより大きな調和のうちへもたらされる,しかし宇宙全体は同時に個別的なもの(「個物」)のなかに洞察されることができる,という事態を意味する。なお,日本へは天平年間に審祥が唐に渡り華厳宗を持ち帰り,東大寺で『六十華厳』の講義を三年間行ったのが,少なくとも公には最初である。『華厳経』の教説の内容的な柱として,大きく二つの点にまとめられ得るだろう:一つは,仏あるいは仏陀の光明は(時空を超えて)無量であり,それゆえわれわれは仏の偉大さ,広大無辺さを,さまざまな花(雑華)でもって飾り,思惟と言葉を尽くして讃え「荘厳」すべきである15)。二つめは,〔一つ目にあげたことと関連しているのだが〕仏の慈悲と光が宇宙の隅々にまで行き渡っているということは,宇宙の一一のもの,草木,雑草にいたるまで,仏を蔵しているといえ,それゆえそれぞれがかけがえのないものである。そしてさらに,どの一つ一つのものも相互に蔵しあい,相入しあい,妨げられることがない。第一の点は,西洋哲学の術語でいえば,唯一の「絶対者」der Absolteを肯定し,一切がこれに依存することを知り,無条件にこれに帰依することを言う。東大寺廬舎那仏の建立(752年開眼供養会)は,華厳宗に帰依した聖武天皇(在位724~749年)が,廬舎那仏の威力によって国家の
〔3〕 1945 年までの日本におけるライプニッツ受容の特徴村上のライプニッツ解釈の或る傾向を,われわれはまた,日本におけるライプニッツ受容に大きな役割を演じた大西祝(1864-1900)と西田幾多郎(1870-1945)の両者にも見ることができる。村上のライプニッツ研究は大西の主著『西洋哲学史』(上下,東京,1903/04:これは1891年から1898 年までの大西の講義原稿に,その死後,弟子の綱島梁川らが手を入れまとめあげたもの)にも,また西田の最初の根本書『善の研究』(東京弘道館,1911)にも先行している。ようやく大西の著書が刊行された後,西田はライプニッツ哲学と主題的に取り組んだ,そして個(「個物」)に関する西田固有の見方を定式化し始めた。
西田幾多郎
絶対矛盾的自己同一
二
絶対矛盾的自己同一として作られたものより作るものへという世界は、過去と未来とが相互否定的に現在において結合する世界であり、矛盾的自己同一的に現在が形を有(も)ち、現在から現在へと自己自身を形成し行く世界である。世界がいつも一つの現在として、作られたものから作るものへである。矛盾的自己同一として現在の形というものが世界の生産様式である。此(かく)の如き世界がポイエシスの世界である。かかる世界においては、見るということと働くということとが矛盾的自己同一として、形成することが見ることであり、見ることから働くということができる。我々は行為的直観的に物を見、物を見るから形成するということができる。働くという時、我々は個人的主観から出立する。しかし我々が世界の外から働くのではなく、その時既に我々は世界の中にいるのでなければならない。働くことは働かれることでなければならない。我々の働くということは、単に機械的にとか合目的的にとかいうことでなく、形成作用的ということであるならば、形成することは形成せられることでなければならない。我々は自己自身を形成する世界の個物として形成作用的に働くのでなければならない。
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合より成ると考えることができる。斯(か)くいうことは、かかる世界は一面にライプニッツのモナドの世界の如く何処(どこ)までも自己自身を限定する無数なる個物の相互否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕(はら)む一つの時間的連続である、一つの世界である。しかしかかる個物と世界との関係は、結局ライプニッツのいう如く表出即表現ということのほかにない。モナドが世界を映すと共にペルスペクティーフの一観点である。かかる世界は多と一との絶対矛盾的自己同一として、逆に一つの世界が無数に自己自身を表現するということができる。無数なる個物の相互否定的統一の世界は、逆に一つの世界が自己否定的に無数に自己自身を表現する世界でなければならない。かかる世界においては、物と物は表現的に相対立する。それは過去と未来が現在において相互否定的に結合した世界である。現在がいつも自己の中に自己自身を越えたものを含み、超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的なる世界である。過去から未来へという機械的世界においても、未来から過去へという合目的的世界においても、客観的表現というものはない。客観的表現の世界とは、多が何処までも多であることが一であり、一が何処までも一であることが多である世界でなければならない。過ぎ去ったものは既に無に入ったものでありながらなお有であり、未来は未(いま)だ来らざるものでありながら既に現れているという矛盾的自己同一的現在(歴史的空間)において、物と物とが表現的作用的に相対し相働くのである。そこには因果的に過去からの必然として、また合目的的に未来からの必然として相対し相働くのではない。矛盾的自己同一的に、一つの現在として現在から現在へと動き行く世界、作られたものから作るものへと自己自身を形成し行く世界においてのみ、爾(しか)いうことができるのである。
…絶対矛盾的自己同一
本稿では、華厳思想の「一即多」「三界唯心」「四種法界」が、西田哲学にどのように取り組ま れているかといった点に問題の所在を置いて考察した。
西田が主張した「絶対矛盾的自己同一」や「行為的直観」では、「個」と「他個」もしくは「個 物」と「環境」といった二者の相即相入の関係性が説かれている。そこには、「一」と「多」の関 係を相互に限定し合いながらもお互いが束縛される存在ではなく一如と成り得る、華厳の「一即 多・多即一」の論理が見受けられる。
「一即多・多即一」は、現象界における実体を否定する「諸行無常・諸法無我」がその根幹に あるからこそ成り立つ論理である。もし「一」が実体であれば「一」は「多」には成り得ないし、 「多」も「一」と成ることも不可能である。『華厳経』「十地品」の「三界唯心」では、「一即多・ 多一即」という世界観を現前できずに実相を見失う原因を人間の虚妄心に起因すると指摘する。
晩年に「場所の論理」に到達した西田も、「判断的一般者」「自覚的一般者」「叡智的一般者」 といった三つの視点から虚妄的世界を脱自する論理を構築しようと試みている。その内容は「三 界」をあたかも最初の「判断的一般者」「自覚的一般者」でとらえ、「叡智的一般者」が心の創 り上げる妄想(三界)を超越させるかたちで表現されている。
「客観」対「主観」といった二元論を包み込む「絶対的主体性」の存在を根底に置く「叡智的 一般者」の世界観は、正に華厳の「事々無礙」の世界と類似する。華厳の「事事無礙法界」は「理」 と「事」を越えて「事」と「事」が相即相入した「一切一即・一即一切」の円融無碍となる世界 であり、華厳が説く理想世界である。「事事無礙法界」の段階に入ると、異なる性質を持つ「事」 と「他事」とが相互に其々の存在を認め合い円融することが可能となる。この円融した華厳世界 から見れば、其々別々の「個」は世界の一部である故に、「個」と「他個」は同一となる。そし て、「個」が「他個」を否定することによって、「他個」とは違う「個」の独立性が保障される。 「個」が認識されるということは、「他個」の独立性も確立される。
西田は華厳の「多」と「一」の相即相入の論理で成り立つ「事事無礙」と同じ構造を、「個」 が「他個」に対して「個」であるという言い方で両者の区別を明確にしつつも同一であると主張 した。ということは、西田幾多郎が難解な哲学的論理を駆使して解き明かそうとした内容とは、 「事事無礙法界」の世界観と考えることが出来る。このように、西田は「個」の存在を尊重しつ つ、「他」との共存を実現化するといった華厳思想を哲学的方法論で再考し主張した。
これからも『華厳経』や華厳教学を文献的・歴史学的な研究は更に進展するであろうが、華厳 思想を「思想」として現代に活かすような研究を残したという意味では、西田哲学は評価される べきであろう。華厳世界に裏付けされた西田哲学の思想は、今後現代社会が抱えている争いや対 立の世界を共存社会へと導くというところに、存在意義を見出す方法論として実践性を帯びてい る。
18 Comments:
善財童子の旅:〔現代語訳〕華厳経「入法界品」 | 大角 修
2014
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5つ星のうち 4.0善財童子の旅、再び
投稿者 死刑台のエレベーター トップ1000レビュアー 投稿日 2014/6/21
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華厳経、入法界品を読むのはこれで四回目くらいである
内容はやはり夢のように素晴らしい
読みながら自分も善財のように次第に崇高な菩薩の境地に高められるような錯覚さえおぼえる
善財とともに菩薩の修行の旅をしているような、そんな幻想に陥る
それほどまでにこの「華厳経」には素晴らしい魅力があり、大乗仏経のピークを象徴する記念碑的経典だと思われる
本書は入法界品の抄訳本だが、意外と難解な部分もあり
読むのにそれなりの根気が要求される
誤字、脱字があるのはご愛嬌か?
特に本書を読んでいて、私が心打たれたのは第14のミトラ・富豪ヴィドヴァーンスの章で
ミトラの言う
「私は、飢えて食物を求める者には食物を、渇いて飲み物を求める者には飲み物を、住まいのない者には温かい家を、
病気に苦しむ者には薬を、(中略)身分や男女の別なく平等に、だれであれ、何であれ、その求めるものを私は与えよう」
という言葉であり、華厳経の原典にない意訳がほどこされている部分だ
こうした箇所に「入法界品」のすぐれた現代性と画期性があると思う
それは同時に訳者である大角修さんの温かい人間性をも窺わせる名訳である
何はともあれ、このスダナ・クマーラ、善財童子の旅の物語から読者は「諸仏の神秘と菩薩行の素晴らしさ」を感じとって頂きたい
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5つ星のうち 4.0仏教用語の基礎知識を持つ人には、『華厳経』への手軽な入門書。
投稿者 johnny walker トップ500レビュアー 投稿日 2016/3/16
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(1)有り難い点:2,500円+税という価格で、あの膨大なる『華厳経』のなかでも名高い「入法界品」の大略を、現代語訳により眺めることができる。
(2)残念な点:仏教用語の基礎知識を持たない読者にとっては、漢訳語の多い抄訳は、少々、面食らうのではないか、と推察される。それを補う手段として、見開きのどこかに、用語の註を載せるスペースを設けることができれば、抄訳本として、行き届いた構成になっていたであろう。
例えば、抄訳を上段に、註を下段(各頁の最下部のわずかなスペース)に配置してゆけば、文字は小さめに、頁は多めになりはしても、「入法界品」の参考文献として、より価値を高められる。今後の改訂新版に期待したい。たとえ、本の価格がUPしても、わかりやすいほうが、読みやすいからである。
(3)総評:この抄訳本の労作は、誠意ある訳者の地道な努力をよくあらわしている。唯、漢訳仏典に精通した仏教学者のように、経典の専門用語を解きほぐして、平易な表現に直していない箇所が少なくない。
また、インド社会の諸相を色濃く反映する「入法界品」の雰囲気(インドの香りともいうべきもの)を、伝えてはいないのが、惜しまれる。(・・・もっとも、インド体験の豊富な仏教学者自体、わが国には、数えるほどしかいないし、彼らとて、『華厳経』に通達しているとは限らないのだが。)
しかしながら、その生硬な文章が、かえって、経典世界の格調の高さを保つのに効を奏していると考えれば、にわかに、読書の味わいが増してくる。経典の原文(漢文)にあたりたいと思う方々にとって、本書は、ひとまずのジャンプ台となってくれる。
大学に属して研究者(・教育者)としての道を往かずとも、このように、自らの心の趣くままに執筆を続けておられる大角氏の生き方もまた「善財童子の旅」と重なっているのであろう。願わくは、仏教の故地インドを訪れて、善財童子とその善知識(原語の「ミトラ」は「朋友」「善き友」の意)の面影を探ってほしいものである。
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5つ星のうち 5.0ファンタジックで壮大な叙事詩。
投稿者 ロードランナー 投稿日 2016/5/27
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「華厳経の原典にない意訳がほどこされている」と指摘されている部分を調べてみた。漢訳経典では「衣服・飲食」などが単語で列記されているだけだが、サンスクリット本からの訳『さとりへの遍歴』(梶山雄一監修)では上巻p245〜246に「(一)彼は食物を求めてやってきた者たちを、天穹から色々な食物をとって満腹させ……、(二)彼は飲物を求めてやってきた者たちを……」等とより詳しい記述で計34項目が列記されている。それを大角氏の現代語訳では短くまとめて表現されている。
サンスクリット本を見ることは重要だが、ひとつ大きな問題がある。千数百年の日本仏教の歴史と文化が欠落することだ。今も読経では漢訳経典を読むものだし、日常語にも漢訳経典の語句が多い。世界、観念、安心など、元はみな経典の言葉だから、それらがなかったら、そもそも日本語が成り立たない。それなのに漢訳経典を軽視してサンスクリット経典を重視する人が多いのは、まことに浅薄な風潮である。
とはいえ、「善財童子」という伝統的な呼び方は「中国のお坊ちゃま」みたいな感じで、どうもついていけない。大角氏の訳では原語によって「大商主の子スダナ」また「スダナ・クマーラ=善財童子」と表現し、イメージを広げている。善知識は「ミトラ(良き友)」、「第14のミトラ・富豪ヴィドヴァーンス」は漢訳経典では「甘露頂長者」だ。
このように表現を斬新に改めながら、漢訳経典の重要語、たとえば「阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)」などはそのまま使われて経典読誦の風格をかもしだしている。
たいへん読みやすく工夫された本だが、やはり難解でもある。華厳経は教義や理屈で理解しようとすると、とても近づけるところにはない。そこで大角氏は「一種の散文詩」として抄訳したという。詩は「論理的には表現できないことを感性に訴えて、読む人の心に届ける文学である」「この善財童子の物語を通して諸仏の神秘を感じていただきたい」(「はじめに」)と。
なるほど。この本は壮大な宇宙叙事詩を読むかのようで、きらきらと輝くファンタジーになっているところがいい。53人のミトラの1項目ずつは短いので、気の向いた項目を詩のように繰り返し読んで味わっている。
>>300
村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 1896年
でライプニッツと華厳宗の類似例として引用参照されたのは以下(村上はドイツ語で引用)、
モナドロジー
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note65
65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべきわざを
ふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が
可能であるばかりでなく、各部分は実際にさらに多くの部分へと限りなく細分さ
れていて、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなけれ
ば、物質の各部分が宇宙を表出することは不可能であろう。
66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、
魂の世界が認められる。
67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることが
できる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり
同じような庭であり池なのである。
68. そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚で
はないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、
ほとんどの場合われわれには見えない。
[華厳経に関しては漢文で引用、]
一一微塵中、見一切法界(華厳経第4巻)
以一仏土満十方、十方人一、亦無餘。(同上)…
遍満一切諸法界、一切毛孔自在現。(華厳経第3巻)
デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…”
あぜ
一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989)
華厳経
> 華厳経「入法界品」は、スダナという名の少年(善財童子)が仏教に目覚め、
> 文殊菩薩の勧めにより、53人の善友(善知識)のもとを次々に訪ねて教えを乞い、
> その旅の最後に弥勒菩薩や普賢菩薩にも教えを受けて、ついには悟りの世界(法界)に入るという物語。
>
> 53人の善友の中には、菩薩や修行僧だけでなく、
> 女神や仙人、バラモン、船頭、医者、商人、子供、遊女なども含まれており、
> 仏法というものは、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、
> いかなる人からでも学びうることが象徴的に説き示されている。
(1)『善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より』 森本公誠 (1998)
(2)『口語全訳 華厳経 全2巻』 江部鴨村 (1928/2006)
1. 抄訳。絵巻を見ながら、華厳経の物語世界を知ることが出来る。
2. 華厳哲学といわれるものに触れるには、全訳を読むのがいい。
武道における「事理一致」に関する一考察 ──華厳宗思想に着目して──
金 炫勇*・矢野下 美智子*
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hbg/file/12070/20160414190051/47-4.pdf
一つの毛穴(毛孔)に十万三世の仏が存在し,各々の仏には無量の菩薩らがまわりにいて,それぞれ法を説いている。
一本の毛先に,無量の仏国土が存在していて,それらの仏国土は,それぞれその広大な空間を少しも損ねていることは
ない。一切の仏刹は微塵に等しく,爾所の仏は一毛穴に坐し,皆な無量の菩薩衆有りて,各の為に貝さに普賢の行を説
きたまう。無量の刹海を一毛に処し,悉く菩薩の蓮華坐に坐し,一切諸の法界を遍満して,一切の毛孔より自由に現ず。
過去,現在,未来が現在のこの瞬間に融通・包摂し,また,三世(過去,現在,未来)が同時頓起する30)。
華厳経エピソード編-自己相似集合の世界観
http://nichigetu.b-tama.com/e_photo09.html
《そして普賢菩薩の毘廬舎那仏の世界について語る偈文(げもん)「一つの毛孔のなかに、無量のほとけの国土が、
装いきよらかに、広々として安住する」とか「一つの微塵のなかに、あらゆる微塵のかずに等しい微細の国土が、
ことごとく住している」
>>300
村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 1896年
でライプニッツと華厳宗の類似例として引用参照されたのは以下(村上はドイツ語で引用)、
モナドロジー
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note65
65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべきわざを
ふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が
可能であるばかりでなく、各部分は実際にさらに多くの部分へと限りなく細分さ
れていて、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなけれ
ば、物質の各部分が宇宙を表出することは不可能であろう。
66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、
魂の世界が認められる。
67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることが
できる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり
同じような庭であり池なのである。
68. そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚で
はないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、
ほとんどの場合われわれには見えない。
[華厳経に関しては漢文で引用、]
一一微塵中、見一切法界(華厳経第4巻)
以一仏土満十方、十方人一、亦無餘。(同上)…
遍満一切諸法界、一切毛孔自在現。(華厳経第3巻)
佛身充満諸法界 普現一切衆生前
應受化器悉充満 佛故處此菩提樹
一切佛刹微塵等 爾所佛坐一毛孔
皆有無量菩薩衆 各爲具説普賢行
無量刹海處一毛 悉坐菩提蓮華座
遍満一切諸法界 一切毛孔自在現
華厳経第3巻
一切佛刹微塵等 爾所佛坐一毛孔
皆有無量菩薩衆 各爲具説普賢行
無量刹海處一毛 悉坐菩提蓮華座
遍満一切諸法界 一切毛孔自在現
一切の仏刹は微塵に等しく,爾所の仏は一毛穴に坐し,
皆な無量の菩薩衆有りて,各の為に貝さに普賢の行を説きたまう。
無量の刹海を一毛に処し,悉く菩薩の蓮華坐に坐し,
一切諸の法界を遍満して,一切の毛孔より自由に現ず。
華厳経第3巻
一切佛刹微塵等 爾所佛坐一毛孔
皆有無量菩薩衆 各爲具説普賢行
無量刹海處一毛 悉坐菩提蓮華座
遍満一切諸法界 一切毛孔自在現
一切の仏刹は微塵に等しく,爾所の仏は一毛穴に坐し,
皆な無量の菩薩衆有りて,各の為に貝さに普賢の行を説きたまう。
無量の刹海を一毛に処し,悉く菩薩の蓮華坐に坐し,
一切諸の法界を遍満して,一切の毛孔より自由に現ず。
口語全訳 華厳経 全2巻 単行本 – 2006/1
江部 鴨村 (翻訳)
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986 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/02/12(月) 13:29:26.13 0
>>976
漢文の思考というのは、表意文字のようなチマチマしたものではなく、
もっと演算子的なものだと思う。
華厳の四法界などは良い例。
「事・理・無・礙・法・界」6文字の組み合わせだけで、
存在論、言語哲学、同一性と差異、宇宙論から核融合までを合わせた様な世界を描いている。
そのスケールの大きさと繊細さは、ドゥルーズ/デリダの比ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3
四法界とは現象世界に対する四つのものの見方である。
1.事法界(じほっかい)
我々凡人の普通の物の見方である。
2.理法界(りほっかい)
すべての物に実体はなく、空であるという見方。
3.理事無礙法界(りじむげほっかい)
実体がなく空であるという理と具体的なものごとが妨げあわずに共存しているという見方。
4.事事無礙法界(じじむげほっかい)
一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。
>>624
大正蔵 第45巻p684b26
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1884_,45,0684b26
T1884_.45.0684b26: 一事法界。界是分義。一一差別。有分齊
T1884_.45.0684b27: 故。二理法界。界是性義。無盡事法。同一性
T1884_.45.0684b28: 故。三理事無礙法界具性分義。性分無礙故。
T1884_.45.0684b29: 四事事無礙法界。一切分齊事法。一一如性
T1884_.45.0684c01: 融通。重重無盡故
以下はもう少し膨らませた説明。
国訳大蔵経. 経部 第5巻「華厳経解題」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207247
p48-52
中沢新一は「現代思想」2018年1月号(kindle版あり)で華厳経と量子力学をつなげている。
そこでは鈴木大拙「華厳の研究」(全集5所収)が参照されている。
これは井筒俊彦も参照した本だが、初心者向けではないので角川ソフィア文庫仏教の
思想6が先に読まれるべきだろう。こちらもkindleで読める。
鈴木大拙が解説した法蔵『探玄記』の華厳経解釈がよりわかりやすく書かれている。
中沢は法蔵『探玄記』に触れていない。数式に重点を置いたのだ。
《鈴木大拙は学的な努力を超越した 『華厳経 』の 「霊性 」を強調するのであるが 、
我々は彼の言うその 「霊性 」もまた 、レンマ的知性のうちの 「外的 」な要素として 、
常識や学から断ち切れたものでない点を強調しておきたい 。》中沢新一
この要約は誤解を生む。
鈴木はこう書く。
《『華厳経』の體系化の結果は『華厳経』の霊的価値を可解性(インテリジビリティ)といふスクリーン
の背後に追ひやつてしまふことになり、従って今では一般讀者は『華厳経』本来の使命
を思索的分析の観念論そのものの中に見出す様になつてしまったのだ。》全集5:278頁
そもそも鈴木大拙の言う霊性とは、
《簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、
精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。》
フロイトの無意識と超自我をあわせた概念と言える。
鈴木大拙は相即相入の教義をinterpenetration(相互浸透)と訳している。
中沢新一は「現代思想」2018年1月号(kindle版あり)で華厳経と量子力学をつなげている。
そこでは鈴木大拙「華厳の研究」(全集5所収)が参照されている。
これは井筒俊彦も参照した本だが、初心者向けではないので角川ソフィア文庫仏教の
思想6が先に読まれるべきだろう。こちらもkindleで読める。
鈴木大拙が解説した法蔵『探玄記』の華厳経解釈がよりわかりやすく書かれている。
中沢は法蔵『探玄記』に触れていない。数式に重点を置いたのだ。
《鈴木大拙は学的な努力を超越した 『華厳経 』の 「霊性 」を強調するのであるが 、
我々は彼の言うその 「霊性 」もまた 、レンマ的知性のうちの 「外的 」な要素として 、
常識や学から断ち切れたものでない点を強調しておきたい 。》中沢新一
この要約は誤解を生む。
鈴木はこう書く。
《『華厳経』の體系化の結果は『華厳経』の霊的価値を可解性(インテリジビリティ)といふスクリーン
の背後に追ひやつてしまふことになり、従って今では一般讀者は『華厳経』本来の使命
を思索的分析の観念論そのものの中に見出す様になつてしまったのだ。》全集5:278頁
《若き求道の佛教徒善財の霊の目に展示せられた大毘盧舎那楼閣の有様に対して、
シナの最も優れた哲學的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を興へたとしても、
事實そのものはこの分析に何の関係もないのである。分析は知性を満足せしめるかもし
れぬ、併し知性がわれわれの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうして
も一度は楼閣そのものの中に入つて、自らに輝き出で、また、相互に映發して無凝自在で
ある一切の諸荘巖事を目撃しなくてはならぬ。およそ宗教の世界では、生活と経験が分析
より邊かに重要なものである。従つて、すべての荘厳(存在の多)に飾られたあの楼閣は、
どうしても各々の生活そのものの中からにじみ出たものでなくてはならぬ。》
285頁
そもそも鈴木大拙の言う霊性とは、
《簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、
精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。》
フロイトの無意識と超自我をあわせた概念と言える。
《若き求道の佛教徒善財の霊の目に展示せられた大毘盧舎那楼閣の有様に対して、
シナの最も優れた哲學的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を興へたとしても、
事實そのものはこの分析に何の関係もないのである。分析は知性を満足せしめるかもし
れぬ、併し知性がわれわれの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうして
も一度は楼閣そのものの中に入つて、自らに輝き出で、また、相互に映發して無凝自在で
ある一切の諸荘巖事を目撃しなくてはならぬ。およそ宗教の世界では、生活と経験が分析
より邊かに重要なものである。従つて、すべての荘厳(存在の多)に飾られたあの楼閣は、
どうしても各々の生活そのものの中からにじみ出たものでなくてはならぬ。》
鈴木大拙全集5:285頁
鈴木大拙は通常京都学派には入らないが西田幾多郎と金沢の同郷で互いに影響関係にあった。
華厳宗 - だるま文庫
https://totutotudojin.jimdo.com/八宗綱要/華厳宗/
第三節 華厳宗の教判
第一項 五教と十宗
問い。華厳宗は幾つの宗教(宗旨・教義)によって、釈尊一代の法門を分類しているのか。
答え。五教と十宗によって、一代の法門を分類している。
その五教とは、1.小乗教、2.大乗始教、3.大乗終教、4.頓教、5.円教である。
第二項 小乗教(倶舎宗を参照)
初めに小乗教とは、釈迦如来がこの世に現れて、一乗(唯一の教え)を説いて人々を開化するために、菩提樹の下で『華厳経』にあるように一乗を説かれた。
日の出の時、高山が先ず光を受けて、大益を得た様なものである。
日輪が初めて耀照(輝く)して、人々を覚らせた。
ところが、小志の人々は深法を聞くに堪えなかった。
そのため、如来は一乗の中に三乗を分けて、段階を経て成長させるようにし、そして大道に向かわせた。
その中で、小乗教は如来が手段として作ったものであり、(法華経にあるように)羊車・鹿車を渡して小志を誘い、化城(幻の城)を設けて疲れた人を休めたようなものである。
したがって、その説かれる内容は、対象にあわせて、その覚りの果証は狭く劣る。
このように対象を誘って、段階を経て大乗へ進ませるためである。
問い。小乗教で説かれる内容はどのようなものか。
答え。説かれる内容ははなはだ多い。
ここで一二を挙げれば、法相(事物の姿)で言えば七十五(五位七十五法の事)の数になる。
有為法(現象世界)と無為法(覚りの世界)の相(姿)は歴然である。
その根源を説くと、六識(眼耳鼻舌意)三毒(貪瞋痴)があり、その染(汚)・不染の差も明瞭である。
四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)によって証しみちびかれるところは入寂(灰身滅智)である。
三祇(阿僧祇)の修行で得られるところは五分法身(無漏の戒・定・慧・解脱・解脱知見)である。
外道邪見の旗は塵の如く砕け、分段生死と見思の惑の数は雲の如く晴れる。
しかし、まだ法源を窮めていないために、論争が極めて多い。
小乗二十部がこの教えの姿である。
五位(ごい)とは、仏教においてあらゆる事象を5種類の範疇(カテゴリー)に分類して、人間の精神や物質など全ての現象の要素(法、もしくは ダルマ)をまとめたもの。五法(ごほう)・五品(ごほん)などとも。
目次
概要 編集
五位は、以下の5つをさす。
(有為法(saṃskṛta, サンスクリタ) - 因縁変化を成立させる法。原因・条件によって生滅する事物[1](4つ))
色法(しき-、梵: rūpa、ルーパ[2]) - 物質的なもの(法)[1]。
心法(しんぼう(または、しんぽう)、梵: citta、チッタ[2]) - 精神的なもの(法)、心の働きのあるもの(法)[3]。
心所法(しんじょ-、梵: caitasikaチャイタスィカ、もしくは梵: caittaチャイッタ[2]) - 心作用[4]。心のはたらき[1]。心(法)と心所(法)のいくつかとが互いに必ず倶生(ともに生起する[5])する[6]。心相応行法(梵: citta-samprayukta-dharma、チッタ・サンプラユクタ・ダルマ:心とあい伴う行)に、五蘊の受、想の2つを加えたもの[4]。心所有法(しんじょうほう)とも[1]。
心不相応行法(しんふそうおうぎょう-、梵: citta-viprayukta-saṃskāra、チッタ・ヴィプラユクタ・サンスカーラ[2]) - 心に伴わないもの[1]。
(有為法(saṃskṛta, サンスクリタ)以外の法(1つ))
無為法(むい-、梵: asaṃṣkṛta、アサンスクリタ[2]) - 生滅変化を超えた常住絶対なもの[1]。
各分類の法の数は、説によって異なる。
五蘊・十二処・五位の関係(説一切有部によるもの)
五蘊・十二処・五位の関係[4]
諸説 編集
説一切有部 編集
五蘊・十二処・十八界という部類分けは、いずれも阿含以来のものであるが、さらに説一切有部の「五位」の範疇が加わって、法の体系は一段と整備される。これは蘊・処・界の部類分けの中で、行蘊や法処・法界の部分をいっそうこまかに考察した結果である[7]。説一切有部の論が記された『倶舎論』では、色法11・心法1・心所法46・心不相応行法14・無為法3の75種(五位七十五法)と成す。
有為法(ういほう、saṃskṛta dharma、サンスクリタ・ダルマ)(72)
色法(しきほう、rūpa dharma、ルーパ・ダルマ)[8](11)
眼(げん、梵: cakṣus、チャクシュス) - 視覚能力もしくは視覚器官
耳(に、梵: śrotra、シュロートラ) - 聴覚能力もしくは聴覚器官
鼻(び、梵: ghrāṇa、グラーナ) - 嗅覚能力もしくは嗅覚器官
舌(ぜつ、梵: jihvā、ジフヴァー) - 味覚能力もしくは味覚器官
身(しん、梵: kāya、カーヤ) - 触覚能力もしくは触覚器官 (以上を五根という(三科を参照))>[2][9]
色(しき、梵: rūpa、ルーパ) - 視覚の対象
声(しょう、梵: śabda、シャブダ) - 聴覚の対象
香(こう、梵: gandha、ガンダ) - 嗅覚の対象
味(み、梵: rasa、ラサ) - 味覚の対象
触(そく、梵: sparśa、スパルシャ) - 触覚の対象(以上を五境という(同上)[2][10]
無表色(むひょうしき、梵: avijñapti-rūpa、アヴィジュニャプティ・ルーパ)もしくは無表業(むひょうごう、梵: avijñapti-karman、アヴィジュニャプティ・カルマン)[11] - 行為者の内面に潜み他から認知されないような行為[12]。物質的存在でありながら五感覚器官のいずれの対象ともならず[7]、色蘊に属しながらしかも法処(法界)に含められる特別な法[12]。強力な善あるいは悪の行為が行われるとき(つまり業(身表業・語表業)が造られるとき)に、その業の余勢(表面から窺い知れない)が行為の終了後も行為者自身の上にとどまること[13]。
心法(しんぼう(、しんぽう)、citta dharma、チッタ・ダルマ)(1)
心 (識・意)(しん、梵: citta、チッタ)
心所法(しんじょほう、caitasika dharma、チャイタシカ・ダルマ)(46)[14]
大地法(だいじほう、梵: mahābhūmika、マハーブーミカ)または遍大地法(へんだいじほう[1])(10) - 最も普遍的な心作用。
受(じゅ、梵: vedanā、ヴェーダナー) - 苦・楽・不苦不楽の感受(五蘊の「受」に相当)[15]。
想(そう、梵: saṃjñā、サンジュニャー) - 対象を心にとらえる表象作用(五蘊の「想」に相当)[15]。
思(し、梵: cetanā、チェータナー) - 心がある方向に動機づけられること(五蘊の「行」に相当)[15]。意志の発動[15]。
欲(よく、梵: chanda、チャンダ) - ものごとをしたいという欲求[15]。
触(そく、梵: sparśa、スパルシャ) - 根・境・識の接触、すなわち心の内界と外界との触れ合い[15]。
慧(え、梵: mati、マティ) - 分別し判断する作用[15]。
念(ねん、梵: smṛti、スムリティ) - 記憶作用[15]。
作意(さい、梵: manaskāra、マナスカーラ) - 対象に注意を向けること[15]。
勝解(しょうげ、梵: adhimukti、アディムクティ) - 対象がいかなるものかを確認し了解すること[15]。
定(じょう、梵: samādhi、サマーディ) - 心を浮動させず一点に集中させること[15]。三摩地(さんまじ、梵: samādhi、サマーディ)ともいう[16]。
大善地法(だいぜんじほう、梵: kuśala-mahābhūmika、クシャラ・マハーブーミカ)(10) - すべての善心とあい伴うもの。
信(しん、梵: śraddhā、シュラッダー) - 心のきよらかさ。四諦、三宝、および業とその報いとの間の因果性、とに対する確信。
勤(ごん、梵: vīrya、ヴィーリヤ) - 善行に対して果敢なこと。
捨(しゃ、梵: upekṣā、ウペークシャー) - 心の平静。かたよりのないこと。
慚(ざん、梵: hrī、フリー) - 「他者の徳に対する恭敬」、もしくは「みずからを観察することによっておのれの過失を恥じること」。
愧(ぎ、梵: apatrāpya、アパトラーピヤ) - 「自己の罪に対する畏怖」、もしくは「他を観察することによっておのれの過失を恥じること」。
無貪(むとん、梵: alobha、アローバ) - 貪りのないこと。
無瞋(むしん、梵: adveśa、アドヴェーシャ) - 憎しみのないこと。積極的に、欲望の対象を捨てること、他を愛憐すること。
不害(ふがい、梵: ahiṃsā、アヒンサー) - 非暴力。
軽安(きょうあん、梵: praśrabdhi、プラシュラブディ) - 適応性。心の巧みさ。
不放逸(ふほういつ、梵: apramāda、アプラマーダ) - 精励。専心して善を行うこと。…
性起(しょうき)
仏教用語。華厳教学で用いられる。
悟った仏の立場からみれば,あらゆる現象はその真実の本性に従って現れるという意味。
[ブリタニカ国際大百科事典]
華厳の四法界
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3
四法界とは現象世界に対する四つのものの見方である。
1.事法界(じほっかい)
我々凡人の普通の物の見方である。
2.理法界(りほっかい)
すべての物に実体はなく、空であるという見方。
3.理事無礙法界(りじむげほっかい)
実体がなく空であるという理と具体的なものごとが妨げあわずに共存しているという見方。
4.事事無礙法界(じじむげほっかい)
一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。
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