http://www.freeassociations.org/
《サディスム=マゾヒスムが同一者であるという言葉を聞かされすぎてきた。ついにそれを信ずるまでに至ってしまった。すべてを始めからやりなおさねばならない》
医学には、徴候群と徴候の区別がある。すなわち徴候とは、一つの疾患の特徴的な符牒であるが、徴候群とは、遭遇または交叉からなる幾つかの単位であり、大 そう異質な因果系統や可変的なコンテキストとの関係を明らかにする。サド=マゾヒスム的なる実体は、それじたいで一つの徴候群で、他には還元しがたい二系 統に解離すべきものとは確信をもって主張しがたい。(『マゾッホとサド』)
サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。要約しておこう。
①サディスムと思弁的=論証的能力、マゾヒスムの弁証法的=想像的能力。
②サディスムの否定性と否定、マゾヒスムの否認と宙吊り的未決定性。
③量的な繰り返しと、質的な宙吊り。
④サディストに固有のマゾヒスム、サディストに固有のサディスム、そして両者は決して結合しない。
⑤サディスムにおける母親の否定と父親の膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄。
⑥二つの場合における物神的な役割と意味の対立関係、幻影についても同様の対立関係。
⑦サディスムの反審美主義、マゾヒスムの審美主義。
⑧一方の「制度的」な意味、他方の契約的な意味。
⑨サディスムにおける超自我と同一視、マゾヒスムにおける自我と理想化。
⑩性的素質の排除と再強化の対立的二形態。
⑪全篇を要約するかたちで、サド的意気阻喪とマゾッホ的冷淡さとの根源的命題。
以上の十一の命題は、サドとマゾッホの方法の文学的な違いにおとらず、サディスムとマゾヒスムの幾多の違いをも明白に表明すべきものであろう。(『マゾッホとサド』p163)
期待と宙吊りという体験は、根本的にマゾヒズムに属するものだ。(……)マゾヒズムに特有の形態とは期待なのだ。マゾヒストとは、待つことを純粋状態にお いて生きるものである。それ自身が二つの分身となり、同時的な二つの推移へと変ずることは、純粋なる期待の属性である。そしてその二つの推移の一方は、待 たれている対象を表現し、それは、本質的な引き伸ばしであり、つねに遅刻状態にあって延期される。いま一方のものは、予期している何ものかを表現し、それ のみが待たれている対象の到来を性急に繰りあげうるかも知れないものだ。かかる形態、二様の流れからなる時間的リズムが、まさにある種の快楽=苦痛という 組み合わせによって充たされているという事実は、一つの必然的な帰結なのである。苦痛は、予期しているものの役割を演じ、それと同時に、快楽は待たれてい る対象の役割を演じることになるのだ。マゾヒストは、快楽を、根本的に遅延する何ものかとして待ち、最終的に快楽の到来を(肉体的にして精神的に)可能に する条件として、苦痛を予期しているのである。したがって、それじたいとして待つことの対象たる苦痛が、自分を可能ならしめるのにいつも必要としている快 楽を、マゾヒストは未来へと押しやっているのだ。マゾヒストの苦悩は、ここでは、不断に快楽を待ちはするが、その方法として苛烈なまでに苦痛を予期してか かるという、二重の限定作用をとることになるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳 91~92頁)
柄谷行人)ぼくはドゥルーズがいった概念の創造ということに関して大きな誤解があると思う。概念の創造というのは新しい語をつくることだと思っている人が多い。その意味でいうと、『千のプラトー』はものすごく新しい概念に満ち満ちているように見えるけれど……。
ぼくはそんなものは感嘆に形式化できると言っている。だからそこに新しさを見てはいけない。概念を創造するというのは、あたりまえの言葉の意味を変えるこ となんですよ。しかし、そうやって意味を変えるときに、必ずドゥルーズならドゥルーズという名前がついてくるんです。たとえば、マルクスが「存在が意識を 決定する」と言ったときの「存在」は、マルクスによって創造された概念なんで、その一行は「事件」なんです。ぼくはそれが概念の創造だと思う。
浅田彰)だから、たとえばデカルトの「コギト」(われ思う)というのが概念の創造なんですね。
蓮實重彦)まさにそのとおりだと思うけれども、ちょっと違う角度から言うと、たとえば『マゾッホ』、あれはサディズムの概念をおもしろく定義したからいいのではないし、マゾヒズムの概念をおもしろく定義したからいいのではなくて、ふたつを分けたことが概念の創造なんです。
浅田)「マゾヒズム」はサディズムと関係ないというのが概念の創造なんですね。
(……)
音楽でいうと概念というのはライトモチーフなんですよ。だから、一回聴いたらそれがだれのものかわかるんですね、どういう変奏のもとに出てきたとしても。
蓮實)そこで、まさに概念は署名と不可分だということになる。それで、ドゥルーズという署名の問題が出てくるんだけれども、彼がガタリと創造した概念を、あたかもそれがCMでいうコンセプトであるかのようにして流通させている人は、まさに固有名を背後に感じていながらもこれを切断しているという、悪しき流通形態に陥ってしまう。それに対してドゥルーズは非常に厳しく批判していますね。
浅田)たとえば「スキゾ」という概念が80年代の日本で結果的にCMのコンセプトのようなものとして流通したことは事実だし、その責任の一端は感じますけど……。
蓮實)ありますよ、それは(笑)。…
浅田)しかし、本当は、「スキゾフレニー」(分裂症)という言葉だってそれまでにいろんな人たちによっていろんな形で使われてきたわけで、ドゥルーズとガ タリは新しい言葉を作るのではなくそういう既成の言葉を新しい形で使うことで概念を創造したんです。その点では、ガタリはまだ新しい言葉を生み出している として、ドゥルーズはほとんどそういう言葉を生み出していないとあえて言いたいぐらいなんですね。
蓮實)であるがゆえにすごいんだということでしょ。
浅田)そうです。つまり、ドゥルーズはやはり何よりも哲学史家だと思う。音楽の比喩で言うと、作曲家ではなくて演奏家なんです。ドゥルーズとガタリはグー ルドが好きだったけれど、グールドが弾くとバッハもベートーヴェンもグールドになってしまう、しかしそれはやはりバッハやベートーヴェンなんです。ガタリ との関係で言えば、ドゥルーズはほとんどガタリというピアノを弾いているんですね。
柄谷)カント論もニーチェ論もみなそうで、演奏なんですね。
浅田)演奏ってインタープリテーション(=解釈)ですから。
柄谷)ただし、解釈学とは違う解釈ですね。(……)
蓮實)……ドゥルーズは、共通の美的感性の持ち主のグループというのを想定しないと言いつつ、『シネマ』に関してはしているんですね。明らかに、ある種の 『カイエ・デュ・シネマ』的なシネフィリー(映画好き)というものの上に立っている。つまり、与えられた題材をもとにその分類と体験の質を分割しているだ けであの中で、あっと驚く映画はひとつも出てこない。もしそうなら、それは大した哲学者じゃないと言うべきじゃないの(笑)。
浅田)いや、哲学者はそれでいいんでしょう(笑)。
蓮實)ただし、それにもかかわらず、(……)概念化へと向かう言葉がまったく描写することがないのに、映画のひとつひとつのシーンが目に見えるようでしょ う。これはすごい才能だと思う。その才能に立ちあえば、それが、哲学であろうとなかろうといいと思う。概念化されたものが、あれほどまざまざと見えるって ことは、ちょっとないですよ。それは、同じ感性を持ってない人、そもそも映画に興味のない人には、ほとんど何もわからない。だけどそういう力を持っていた 人がいたということはすごいことです。
柄谷)それじゃあ、ぼくには関係ないな(笑)。
浅田)たしかに、『哲学とは何か』でも、哲学と科学に並んで、芸術を大きく取り上げている。芸術家は、自存する感覚のブロックをつくり、そこから、潜在的 でも顕在的でもない、可能性の宇宙を作り上げるのだ、と。とすると、それが哲学的に見ると浅いものかもしれない。にもかかわらず、ドゥルーズにとって はーーそして、柄谷さんはともあれ、蓮實さんと同じくぼくにとってもーーかけがえのないものなんです。
写真左が”Fluctuations”の翻訳書、右が本書 | (拡大可能) |
(H16.12.記. H21.5.12写真追加 B) |
http://zen.up.n.seesaa.net/zen/image/TotalMediaAdRev2017WARC-thumbnail2.png?d=a47
【IT】世界の全広告費の25%を、GoogleとFacebookの2社だけで寡占
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1ノチラ ★2017/12/09(土) 18:21:18.27ID:CAP_USER>>37
GoogleとFacebookの2社が、圧倒的なシェアでオンライン広告市場を占めていることは、良く知られている。特に米国市場における寡占率の予測はあちこちで見かける。
そこで、放送のTV広告やオフラインの屋外・映画広告なども含めた、世界の全広告市場において、GoggleとFacebookの2巨人がどれくらいのシェアを占めているかも知りたくなる。できれば、巨大化している中国市場も含めたシェア率も知りたい。
その要望に応えた調査結果を、WARC(世界無線通信主管庁会議)がこのほど明らかにした。WARCでは加入国(96マーケット)を対象に、モバイルだけではなくて広告市場の動向も調べており、今回は2017年の予測も添えて発表している。
http://zen.up.n.seesaa.net/zen/image/TotalMediaAdRev2017WARC-thumbnail2.png?d=a47
図1 GoogleとFacebookの2社による2017年の広告売上は、世界のオンライン広告市場の61%、世界の全広告市場の25%を占めている。
世界のオンライン広告市場における、2巨人(Goggle+Facebook)のシェアは、2012年の47%、2016年の58%、2017年の61%とはじき出している。今年(2017年)は、Googleが44%、Facebookが18%も占めている。
オンライン以外の広告市場となると、TV広告は多くの国ではオンライン広告を上回る主役に居座っているし、グローバルに見れば、新聞、雑誌、ラジオ、屋外、映画などの広告費も膨大だ。GoggleやFacebookの影響があまり及ばない市場も大きい。
そのためオンラインとオフラインを含めた全世界の広告市場となると、2巨人(Goggle+Facebook)のシェアは、2012年に9%、2016年に20%、2017年に25%となっている。今年(2017年)の内訳では、Googleが18%、Facebookが7%を占めると予測している。
オンライン広告市場と比べるとシェア率は低いが、全世界の広告市場ですでに25%も占めているということは、やはり凄い。GoogleとFacebookが完全に牛耳っているオンライン広告市場の急成長が見込まれており、一方でオンライン以外の広告市場は成長が鈍ったり縮小傾向にあるだけに、全広告市場でも2巨人のシェアは今後急激に高まることになりそう。TVの動画広告もオンライン広告に流れ出しているし、屋外広告すらもオンライン広告化しそうである。
WARCの調査では、かなりZenithMediaのデータを流用しているようである。そのZenithMediaが、今年の広告メディアの世界ランキングを発表していたので、そのトップ10を以下に掲げる。もちろん、トップ2はGoogleとFacebookとなっている。
Rank Media owner
1 Alphabet(Google)
2 Facebook
3 Comcast
4 Baidu
5 The Walt Disney Company
6 21st Century Fox
7 CBS Corporation
8 iHeartMedia Inc.
9 Microsoft
10 Bertelsmann
(ソース:ZenithMedia)
図2 Ranking of Top 10 Global Media Owners 2017
http://zen.seesaa.net/article/455412093.html
スウィージー『独占資本』もカレツキを参照していた
カレツキの功績は独占度合い表す数式を明らかにしたことだ
資本主義万歳でも国家計画経済万歳のどちらでもない
検証可能にしたということだ
鍋島直樹論考
カレツキアンの経済学とカレツキの経済学資本主義の長期発展理論をめぐって
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/36/36/36_36_77/_pdf
カレツキは, 資本主義経済においては, 寡占ないしは不完全競争が通常の状態であるということをかなり
早い時期から認識していた。「独占は, 資本主義体制の本質に深く根ざしているように思われる。自由競争は,
1つの仮定としてならば, 一定の研究の初期の段階においては有用であろう。しかし, 資本主義経済の通常の状態の
描写としては, それは単なる神話にすぎない」(Kalecki [1939]P. 252, ページは『カレツキ全集』(Kalecki [1990,
1991, 1997])による。以下同)というのが, 彼の一貫した見解であった。こうして彼は, 新古典派経済学における
完全競争という仮定の非現実性を衝いたのだった。不完全競争に対するカレツキの関心は, 国民所得に占める
肉体労働者(manual labour)の分け前の決定要因を解明するという動機に導かれつつ育まれたものである。独占
度概念に基づくカレツキの分配理論は, 「国民所得の分配の決定要因」(Kalecki [1938])において初めて提示された。
そこにおいて用いられている「独占度」や「産業」といった概念の曖昧さに関して多くの論者から提出された批判
に応えるべく, その後, カレツキは繰り返し分配理論の再定式化を試みた。しかし, 賃金と利潤の間の分配の決定が,
生産物市場における不完全競争のもとでの価格形成に関係しているという彼の見解は, 定式に幾度かの改訂が施さ
れたのちにも基本的には変わることがなかった。
この1938年論文において, カレツキは, 産業の多くの部門はしだいに寡占的となり, さらに寡占はカルテルへと展開
してゆくので, 集中が進行することによって独占度は疑いなく上昇傾向をもつであろうという見解を示している。さら
に, 独占度の上昇の影響が原材料価格の低下によって相殺されつづけるのは必ずしも確実なことではなく, もしそうで
ない場合には, 肉体労働者の相対的分け前は低下しつづけることになるであろうと言う(ibid, pp. 17-8)。独占度が歴史的に
上昇する傾向にあるというのは, 価格と分配の独占度理論を構築する途上にあった初期から晩年にいたるまでカレツキ
が一貫して保持しつづけた見解である2)。
以下では, カレツキの独占度理論の代表的説明と一般に見なされている『経済変動の理論』(Kalecki [1954]ch. 2)に
したがって, その理論的構造をみてゆくことにしよう。まず, ある産業における付加価値, すなわち生産物価値マイナス
原材料費は, 賃金・共通費・利潤の合計に等しい。ここで, 賃金総額をW, 原材料費総額をM, 総主要費用(賃金総額プラス
原材料費総額)に対する総売上高の比率をW(多分誤植。正しくはk)で表せば,
共通費+利潤=(k-1)(W+M)
という式を得る。これより, 1産業における付加価値に占める賃金の相対的分け前は, 次のように表現される。
w=W/W+(k-1)(W+M)
ここで, 賃金総額に対する原材料費の比率をj で表せば, 次式を得る。
w=1/1+(k-1)(j+1)
したがって, 付加価値に占める賃金の相対的分け前は, kに反映される独占度と, 賃金総額に対する原材料費の比率で
あるjとによって決定されることが分かる。さらに, 製造業全体に占める特定の産業の重要性の変化を除去するような
調整を行なえば, 製造業全体についての公式を得ることができる。
以上の定式化に続いて, カレツキは, 所得分配の短期的変化と長期的変化についての説明を行なっている。まず,
短期的な分配の変化について。不況期には独占度がいくぶん上昇するのに対して, 原材料価格は賃金に比べて下落
するとカレツキは言う。上の公式から明らかなように, 独占度の上昇という要因は賃金分配率を低下させるように働く
のに対して, 原材料価格の下落はそれを上昇させるように作用する。これらの要因が互いに相殺しあう結果, 景気循環
の過程を通じて, 賃金分配率は大きな変動を示しそうにはないとカレッキは論じている。しかしながら, 所得分配の
長期的変化については, 「先験的には何もいうことができない」(Kalecki[1954]p. 227, 邦訳29ページ)と彼は述べている。
というのは, 独占度は一一般的には上昇する傾向にあるものの, それを相殺する要因となりうる原材料価格や産業構成の
変化について一般化を行なうのは困難であるからだ。
カレツキの理論体系においては, 競争的経済システムと寡占的経済システムでは, 価格形成, 所得分配, および需要形成
のあり方が全く異なってくる。カレッキは, 先進資本主義経済は本質的に寡占的性格をもつという前提に立ったうえで,
資本主義経済のマクロ経済的動態を説き明かす理論の構築へと向かったのであった。競争的資本主義から独占資本主義へ
の段階移行によって資本主義における経済諸法則の作用の変化が生じるところに19世紀末大不況を転換点とする資本
主義経済の歴史的変容の特質を見るという当時のマルクス経済学者のあいだで広く共有されていた方法をカレッキが
鵜呑みにすることはなかったとしても, 彼の置かれていた知的環境を考えるならば, かかるマルクス主義的なビジョンが
彼の思考に大きな影を落としていたことはほぼ間違いないと見てよい3)。
スウィージー『独占資本』もカレツキを参照していた
カレツキの功績は独占度合い表す数式を明らかにしたことだ
資本主義万歳でも国家計画経済万歳のどちらでもない
検証可能にしたということだ
鍋島直樹論考
カレツキアンの経済学とカレツキの経済学資本主義の長期発展理論をめぐって
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/36/36/36_36_77/_pdf
カレツキは, 資本主義経済においては, 寡占ないしは不完全競争が通常の状態であるということをかなり
早い時期から認識していた。「独占は, 資本主義体制の本質に深く根ざしているように思われる。自由競争は,
1つの仮定としてならば, 一定の研究の初期の段階においては有用であろう。しかし, 資本主義経済の通常の状態の
描写としては, それは単なる神話にすぎない」(Kalecki [1939]P. 252, ページは『カレツキ全集』(Kalecki [1990,
1991, 1997])による。以下同)というのが, 彼の一貫した見解であった。こうして彼は, 新古典派経済学における
完全競争という仮定の非現実性を衝いたのだった。
…
この1938年論文において, カレツキは, 産業の多くの部門はしだいに寡占的となり, さらに寡占はカルテルへと展開
してゆくので, 集中が進行することによって独占度は疑いなく上昇傾向をもつであろうという見解を示している。さら
に, 独占度の上昇の影響が原材料価格の低下によって相殺されつづけるのは必ずしも確実なことではなく, もしそうで
ない場合には, 肉体労働者の相対的分け前は低下しつづけることになるであろうと言う(ibid, pp. 17-8)。独占度が歴史的に
上昇する傾向にあるというのは, 価格と分配の独占度理論を構築する途上にあった初期から晩年にいたるまでカレツキ
が一貫して保持しつづけた見解である2)。
以下では, カレツキの独占度理論の代表的説明と一般に見なされている『経済変動の理論』(Kalecki [1954]ch. 2)に
したがって, その理論的構造をみてゆくことにしよう。まず, ある産業における付加価値, すなわち生産物価値マイナス
原材料費は, 賃金・共通費・利潤の合計に等しい。ここで, 賃金総額をW, 原材料費総額をM, 総主要費用(賃金総額プラス
原材料費総額)に対する総売上高の比率をW(多分誤植。正しくはk)で表せば,
共通費+利潤=(k-1)(W+M)
という式を得る。これより, 1産業における付加価値に占める賃金の相対的分け前は, 次のように表現される。
w=W/W+(k-1)(W+M)
ここで, 賃金総額に対する原材料費の比率をj で表せば, 次式を得る。
w=1/1+(k-1)(j+1)
したがって, 付加価値に占める賃金の相対的分け前は, kに反映される独占度と, 賃金総額に対する原材料費の比率で
あるjとによって決定されることが分かる。さらに, 製造業全体に占める特定の産業の重要性の変化を除去するような
調整を行なえば, 製造業全体についての公式を得ることができる。
以上の定式化に続いて, カレツキは, 所得分配の短期的変化と長期的変化についての説明を行なっている。まず,
短期的な分配の変化について。不況期には独占度がいくぶん上昇するのに対して, 原材料価格は賃金に比べて下落
するとカレツキは言う。上の公式から明らかなように, 独占度の上昇という要因は賃金分配率を低下させるように働く
のに対して, 原材料価格の下落はそれを上昇させるように作用する。これらの要因が互いに相殺しあう結果, 景気循環
の過程を通じて, 賃金分配率は大きな変動を示しそうにはないとカレッキは論じている。しかしながら, 所得分配の
長期的変化については, 「先験的には何もいうことができない」(Kalecki[1954]p. 227, 邦訳29ページ)と彼は述べている。
というのは, 独占度は一一般的には上昇する傾向にあるものの, それを相殺する要因となりうる原材料価格や産業構成の
変化について一般化を行なうのは困難であるからだ。
カレツキの理論体系においては, 競争的経済システムと寡占的経済システムでは, 価格形成, 所得分配, および需要形成
のあり方が全く異なってくる。カレッキは, 先進資本主義経済は本質的に寡占的性格をもつという前提に立ったうえで,
資本主義経済のマクロ経済的動態を説き明かす理論の構築へと向かったのであった。競争的資本主義から独占資本主義へ
の段階移行によって資本主義における経済諸法則の作用の変化が生じるところに19世紀末大不況を転換点とする資本
主義経済の歴史的変容の特質を見るという当時のマルクス経済学者のあいだで広く共有されていた方法をカレッキが
鵜呑みにすることはなかったとしても, 彼の置かれていた知的環境を考えるならば, かかるマルクス主義的なビジョンが
彼の思考に大きな影を落としていたことはほぼ間違いないと見てよい3)。