柄谷行人「交換様式入門」
2~3:
エンゲルスは、マルクスの死後にこう書きました。
《マルクスと私は、一八四五年以来、将来のプロレタリア革命の最終の結果の一つは、国家という名のついた政治組織の漸次的な解消であろうという見解をもちつづけてきました。この組織の主要目的は、昔から、富を独占する少数者による、働く多数者の経済的抑圧を、武力をもって保障することでした。富を独占する少数者の消滅とともに、武装した抑圧権力、つまり、国家権力の必要も消滅します。だが同時に、われわれはつぎのような見解をつねにもってきました。すなわち、この目的を達成するためにも、また未来の社会革命のそれ以外のはるかに重要な目的を達成するためにも、労働者階級は、まずもって国家という組織された政治権力を手に入れ、その助けを借りて資本家階級の抵抗を弾圧し、社会を新しく組織しなければならない、と》
( エンゲルス「カール・マルクスの死によせて」、一八八三年五月、全集一九巻、p341)。
13:
ブロッホはそれを受け継いだといえます。彼は、つぎのように述べました。
《唯物論者のみがよきキリスト教徒たりうる、しかし、また確かに、キリスト教のみがよき無神論者たりうる、という命題が可能である》
(『キリスト教の中の無神論』、法政大学出版会)。
一方、キリスト教神学者カール・バルトは、もっと前に次のように言っています。
《そもそも人はこの両者を「イエス・キリストと社会運動」という風に並列して置く、などということを全くしてはならない。あたかも、この両者は総じて二つのものであって、そのあとこの両者を――程度の差こそあれ――わざとらしく一緒に並べねばならない、とでもいうかのように。この両者は、ただ一つのことであり、かつ、同一のことなのだ。[a]イエスは社会運動であり、[b]社会運動は現代におけるイエスである、と》
(「イエス・キリストと社会運動」1911年、『教会と国家1』新教出版社)。
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