柳田によれば、文末の「わ」は、 一人称(我)を意味する。…
…文末の「わ」が人称代名詞として修飾するのだと見てよい。しかし、柳田以前に
「わ」を一人称代名詞として見た国語学者はなく、また、現在でも柳田の見解はほ
とんど無視されている。
柳田は国語学者に対して、つぎのように皮肉をいっている。
日本語は代名詞の不用な言語、少なくとも代名詞の使用度の少ない国のようにいう
人があるのは、言わば文章の本ばかりで、日本語を学び得たと思っている先生方で
あります。(中略)私を文の始めに置かねばならぬようにしたのは、漢語か英語か
は知らず、とにかくに外国語かぶれのようであります。
(「知ラナイワ」『毎日の言葉』『柳田國男全集』19巻、ちくま文庫)
デカルトの『方法序説』を日本語に翻訳してきたのも、そのような「外国語かぶれ」
であった。それについては次回に論じる。今は、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」
を、つぎのように訳し直すことを提案するにとどめる。《思うわ、ゆえに、あるわ》。
(からたにこうじん。思想家)
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