金曜日, 11月 09, 2018

怠ける権利 1883 ポール・ラファルグ(Paul Lafargue、1842– 1911)



怠ける権利 (平凡社ライブラリー0647) 2008 Kindle版



怠惰への権利(怠ける権利) 1884

序 文

第1章 災いをもたらすドグマ

第2章 労働の祝福 

第3章 過剰生産の後に続くもの

第4章 新しい旋律には新しい歌を

第5章 補 論


これは、Paul Lafargue. Le droit a la paresse (1883)の訳文(ver. 05)です。
この論文(パンフレット?)は、以前人文書院から『怠ける権利』(田渕晋也訳)というタイトルで出ていましたが、
今は絶版のようで復活しそうもないので、とりあえず大意を紹介するつもりで訳してみました。
(きちんと理解したい人は原文に当たるか、人文書院版『怠ける権利』を見てください。)

100年以上前のものですが、今読んでも、けっこうおもしろい。
ラファルグについて書かれた文章としては、手に入れやすいところでは、
今村仁司『近代の労働観』岩波新書
小倉利丸『搾取される身体性』青弓社などがあります。
前者はマルクスの持っていた古代ギリシャ的人間観・労働観を受け継ぐ存在として
後者はバフチンが明らかにしたラブレー的グロテスク・リアリズムの系譜につながる存在として、
それぞれラファルグを描き出し、興味深いです。 

訳注等については、後日つける予定です。
訳出に当たっては、Edition Allia 2007年版を使いました。

Paul Lafargue
1871年のP.ラファルグ

ポール・ラファルグ(Paul Lafargue、1842年1月15日– 1911年11月26日)は、フランス社会主義者、批評家ジャーナリストカール・マルクスの婿。産業化した資本主義社会での賃金労働の非人間性を批判した著作『怠ける権利』(Le droit à la paresse)で知られる。

生涯編集

コーヒー農園を経営していたフランス人とクリオーリョの両親のもと、キューバサンティアーゴ・デ・クーバに生まれる。一家は1851年にフランスのボルドーに移住し、ポールはトゥールーズリセーを卒業してパリで薬学を学ぶ。そこで実証主義の哲学やナポレオン3世の支配に反対する共和主義者のグループに接することで彼の政治的なキャリアを始めた。プルードンの影響を受けて第一インターナショナルに参加するが、まもなくカール・マルクスやオーギュスト・ブランキを知ることで無政府主義の傾向は影が薄くなる。1865年リエージュの国際学生会議に参加することでフランスの全ての大学から閉め出され、ロンドンで職探しをすることになる。そこで頻繁にマルクスの家庭に出入りし、1868年にはマルクスの次女ラウラと結婚する。

第一インターナショナルのスペイン支部を任されているが、当時スペインで盛んだった「州分権主義」の運動には関与していない。スペインはイタリアの無政府主義者ジュゼッペ・ファネッリの勢力圏であり、ラファルグはジャーナリストとしてミハイル・バクーニンやその亜流の影響力を落とすことにある程度成功した。パリ・コミューンの鎮圧により、スペインに避難したラファルグは地元のインターナショナルの支持者と連絡を取り合い、マルクス主義の影響力を広げようとするが、1930年代のスペイン内戦にいたるまで、スペインにおける無政府主義との争いは引き続くことになる。

1873年から1882年までロンドンに住み、フォトリソグラフィの店を開いたりフリードリヒ・エンゲルスの援助を受けながら生計を立てた。1880年から「レガリテ L'Egalité」紙の編集を始める。1882年にパリに戻り、ジュール・ゲードとともにフランス労働党を指導し、ストライキや選挙活動で数回投獄された。そして1880年には『怠ける権利』を発表し、資本主義社会の賃金労働は、マルクスの『資本論、第1部』、アリストテレスの引用や、キケローの表現も借りて『奴隷的で、本来創造的であるべき職業の尊厳を奪い』効率を至上とする過労を招くことを指摘。(『共産党宣言』第1部にも同趣の記述がある)その上でそれに対する抵抗権として、怠けの権利週35時間労働制休暇の充実を主張した。この著作は1883年に改定、再出版された。1891年には投獄中にもかかわらず、リール選出のフランス国会議員となる。マルクス主義理論家としてはあらゆる修正主義的傾向(ジャン・ジョレスを含む)や「ブルジョア政府」との闘争を続け、1908年のトゥールーズ会議で複数の社会主義勢力を一つにまとめるように試みたものの断念。これを最後に全ての公的活動から引退し、以後は妻のラウラとドラヴェイユに居住しつつもリュマニテへの寄稿など文筆活動に専念。1911年に70歳を目前として自邸にてラウラと共に自殺し、以下の様な遺書を残した。

生活の快楽と喜びが一つ一つ消えていき体力と知力も衰えてそれが重荷にならぬうち、心身ともに健康である時に自分は生涯を終えることとする。この数年来、私は齢70は越えないと心に決め、死への門出をこの歳に定めて自決する手段──青酸の皮下注射──を準備してきた。45年間我が身を捧げた立場が近い将来勝利することを確信しつつ、私はこの上ない歓喜を以て死ぬ。共産主義と第二インターナショナルに栄光あらんことを!

マルクスの娘婿ということもあってラファルグは、カール・カウツキーカール・ヤルマール・ブランティングからカール・リープクネヒトウラジーミル・レーニンに至るまで長老・若手、穏健・急進を問わず様々な立場から訪問を受け尊敬されていた。それだけにラファルグ夫妻が自殺によって生涯の終止符を打った事件は、ヨーロッパの社会主義者たちにとって衝撃であった。著作『怠ける権利』の内容にもかかわらず、彼ら革命家にとって二人の死は、「労働者のために献身できなくなった時はこの世から去るべきだ」という教訓として受け止められた。1927年アドリフ・ヨッフェが自殺し、発見された遺書の中でラファルグの例をあげて自己弁護をしている。

著作編集

  • Le Droit à la paresse "The Right to Be Lazy"(1880年、1883年)
  • Le matérialisme économique de Karl Marx, (1884年)
  • Cours d'économie sociale, (1884年)
  • Le droit à la paresse, (1887年)
  • The Evolution of Property from Savagery to Civilization, (1891年)
  • Le socialisme utopique, (1892年)
  • Le communisme et l'évolution économique, (1892年)
  • Le socialisme et la conquête des pouvoirs publics, (1899年)
  • La question de la femme Paris, (1904年)
  • Le déterminisme économique de Karl Marx, (1909年)

日本語訳編集

  • 千葉雄次郎・訳『社会主義社会観』(1922年、大鐙閣)
  • 荒畑寒村・訳『私有財産の進化』(1923年、アルス社)
  • 萩原厚生・訳『正義・善・霊・神の唯物史観』(1930年、先進社)
  • 田淵晋也・訳『怠ける権利』(1972年、人文書院)

参考文献編集

外部リンク編集



ポール・ラファルグ

怠ける権利』(原題:Le droit à la paresse)は、1880年に『リガルテ』誌に発表されたフランスの社会主義者ポール・ラファルグエッセイ。1848年の二月革命で打ち立てられた「働く権利」を攻撃し、怠惰を礼賛している。ヨーロッパ中の労働者階級や一般層に広く読まれ、詩人や芸術家にも影響を与えたことで知られる[1]

概要編集

『怠ける権利』は、直接的にはフランスの二月革命において掲げられた「働く権利」に対する反論である[2]。さらにラファルグは「怠惰」を単なる個人的なモラルの問題ではなく、社会的な観点からとらえようとした[3]

もしも労働者階級が、彼らを支配し、その本性を堕落させている悪疫を心の中から根絶し、資本主義開発の権利にほかならぬ人間の権利を要求するためではなく、悲惨になる権利にほかならぬ働く権利を要求するためではなく、すべての人間が一日三時間以上労働することを禁じる賃金鉄則を築くために、すさまじい力を揮って立ち上がるなら、大地は、老いたる大地は歓喜にふるえ、新しい世界が胎内で躍動するのを感じるだろう……。

 ポール・ラファルグ『怠ける権利』[4]

ラファルグは「労働者の権利」を論じたカール・マルクスの娘婿である。『怠ける権利』は、発表された当初こそマルクスの思想とは相容れないものとされることもあったが、現代ではむしろこのエッセイによって、ラファルグはフランスの労働者にマルクスの思想を広めようとしていたといわれる[5]。ラファルグはエンゲルスと親しかったが、エンゲルスおよびマルクスの著作だけでなく書簡にも『怠ける権利』に対する言及はみつかっていない[6]

日本語訳を行った田淵晉也は、例えば銀行員が自分の「正直さ」を、教師が自分の「優しさ」を売る資本主義社会にあっては、ただ「怠惰」だけが自分のものであり続けることを指摘したことに本エッセイの現代的価値をみいだしている[7]。『怠ける権利』あるいは「怠惰であること」に影響を受けた芸術家としてマルセル・デュシャンが知られている[7]

『怠ける権利』は、社会主義的思想の萌芽期において「余暇」について論じた最初期の著作とされている[5]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ 田淵晉也「訳者あとがき」ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社ライブラリー、2008年 205-207頁
  2. ^ 田淵晉也「訳者あとがき」ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社ライブラリー、2008年 205頁
  3. ^ 田淵晉也「訳者あとがき」ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社ライブラリー、2008年 217頁
  4. ^ ポール・ラファルグ『怠ける権利』田淵晉也訳、平凡社ライブラリー、2008年 66頁
  5. a b Stratos Georgoulas (2009). Critical Criminology of Leisure: Theory, Methodology and a Case Study. LIT Verlag. pp.23-24
  6. ^ 田淵晉也「訳者あとがき」ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社ライブラリー、2008年 211頁
  7. a b 田淵晉也「平凡社ライブラリー版 訳者あとがき」ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社ライブラリー、2008年 217-222頁

外部リンク編集