委任統治を担当する国は、受任国という。大戦中に該当地域を占領した国が受任国となっている。また、委任統治が適用される地域は、委任統治領または委任統治地域という。委任統治領は、地域住民の自治能力の程度に応じて、A・B・Cの3段階に分類され、統治の方法が異なる。
A式は、住民自治を認め、早期独立を促す地域である。この地域は早期独立を前提としていたので、その住民には受任国とは別の国籍が与えられた。
B式・C式にあたる地域は、住民の水準が自治・独立に未だ不十分であるため、受任国の介入が期待される地域である。
B式は、宗教その他の面で地域住民の独自性を可能な限り尊重することが要求され、受任国とは別の法制度による統治方法がとられる地域である。C式は、人口が少なく地域の文化が受任国の文化と共通点が多いため、受任国の構成部分として扱うことが許された。B式・C式の地域住民に対しては、国籍は与えられなかった。
委任統治の監督は、国際連盟理事会の権限であるが、その事務処理を行うための常設の委任統治委員会が設置された。各受任国は、定期的に国際連盟理事会に対し、該当地域の統治に関する報告をする義務がある。
1. 南洋群島(日)
2. ニューギニア(豪)
3. ナウル(豪、NZ、英)
4. 西サモア(NZ)
ドイツ領ニューギニアは、赤道以北は日本、赤道以南のうちナウル島を除く地域はオーストラリアが受任国とされた。ナウル島は、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスが共同受任国となった。
第二次世界大戦で戦場となった後、「アメリカ信託統治領太平洋諸島」となった。この地域の詳細は、南洋諸島を参照。他の2地域は、第二次世界大戦の戦勝国が受任国であったことから受任国が変わることなく、信託統治領へ移行した。
ドイツ領西サモアは、ニュージーランドが受任国となった。この地域もそのまま信託統治領へ移行した。
南洋庁 1922~
故郷七十年(ジュネーヴの思い出は文庫全集#3に長文で別にもう一つある)
沖縄から内地に帰る途中で、国際連盟の仕事でジュネーヴに行けという電報を受けた。私は役所の方を怒って辞めているので、おそらくこれは誤報だろうと思っていた。ところが熊本まで帰ってくると、酷いのがいて、「お口があっておめでとうございます」などという。県庁の役人がそんなことをいったので、「断ってくれ給え、ぼくはもう政府のためには働かないんだから」と言ったりした。長崎へ着くと、もう亡くなったが渡辺勝太郎さんという、よく物のわかった人がちょうど県知事をしていて「そんな馬鹿なことがあるものか。君が喧嘩したのは内閣であって、国じゃないだろう。政府のために働かないでも、国のために働かないということはないはずだ」と、じつに簡単に説伏せられてしまった。「それでは仕方がない。じつはぼくは大阪朝日の社長と、ぼくの養父とには事前に相談をしなければならないのだから、二人が同意したならば受けるという条件つきで返事を出すことにしよう」といった。すると渡辺君は私の見ている前で電報を打ってくれた。
大阪からも、非常に結構なことだからぜひ行くようにという返電が来たし、養父の方も賛成であるということが、長崎を歩いているうちにはっきりした。こうして行かずにはおけないことになってしまった。
今でもよく憶えているが、諫早駅で小さな子供がよちよちプラットホームを歩いているのが目についた。そのとき、あの子は西洋へ行かんでいいなあと感じてしまった。こちらは気が張りつめていっぱいになっているのに、その子供はのんびりとしているのが羨しかったわけで、そんな滑稽な心境も今思えばなつかしいことである。
朝日の方は客員ということにしてもらって、最初に出かけたのは大正十年五月のことで、アメリカ経由にした。和田英作君といっしょに春洋丸の船室をとり、ずっと行動をともにしたが、和田君とは遠く明治三十年のころ、国木田独歩や宮崎湖処子などと六人で出した新体詩集『抒情詩』に絵を描いてもらったとき以来の古なじみであった。同じ船でやはり信州飯田の出身であった樋口秀雄(竜峡)氏の他に代議士が大勢出かけた。
シカゴに和田君の妹さんがいたので、いっしょにちょっと途中下車をしてから、南の方を通って東部に出た。ワシントンを見物したことは憶えているが、他はもう記憶にない。ニューヨークでは、高等学校時代からの親友で住友につとめていた今村幸男君がいて、大変親切に世話をしてくれた。それからフランスの船に乗ってフランスへ直行し、イギリスへは寄らなかった。
月末か八月初めにスイスに着いた。仕事は国際連盟本部の委任統治に関するものであった。農政学の先輩であり、また郷土研究会以来、とくに懇意にしていた新渡戸博士が、連盟の事務総長をしておられたので、大変心強く感じた。当時ジュネーヴには内務省から国際労働局に行っていた吉阪俊蔵君の一家もいた。また今の侍従長の三谷隆信君が新婚当時で、夫婦でスキーなどしていた姿も、はっきり眼に浮ぶのである。
連盟の仕事は割に楽で、春から秋にかけて一通り会合や通常事務などが忙しかったが、その後は翌年にかけて冬休みのようなもので、関係者はみな一応帰国することになっていた。私も最初の年は用事を済ませてから東京に帰り、翌春また出かけて行った。
大正十二年九月一日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと十月末か十一月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮に横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持になり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。そして十三年の春に二度の公開講演を試みたのである。
国際連盟の仕事は、委任統治委員会の委員というので、日本の役人ではなく、日本側で指定した向うの人間になっていた。英仏が憎らしく幅をきかしていたが、小さい国々は日本と同じように一種の憂いをもち、そのなかで自国をどう維持していくかということに苦心しているようなところがみえた。オランダ代表は、元ジャバの行政長官かなにかしていた、非常に立派な人だった。ノルウェーは大学の先生であった。女で大学の先生をしていた人がいたり、政治家がいたり、大変いい印象をうけた。それに五月から九月いっぱい会を開けばよくて、あとは翌年暮までゆっくり遊んでいられる。それに本国へ帰ってくる旅費もくれることになっていた。はじめの年は、吉野丸というドイツから取上げた船で帰ったが、翌年(大正十一年から十二年にかけて)は帰らずに、ドイツ、オランダ、フランス、イタリアと、欧州各国を旅行した。イタリアは旧知の関口泰君や矢代幸雄君などの案内で、ずっと南の方まで、くわしく見て歩いた。エジプトからやってきたという木下杢太郎君の一行にも会い『即興詩人』を語り、一緒に鴎外さんをなつかしんだりした。
ジュネーヴではホテルがざわつくので、一人でフランス領に近い奥の方のボーセジイルというところに借家をしていた。宮島幹之助君がここに訪ねてきてくれて、沖縄の話をしたことを覚えている。同じ町には日本ではだれ知らぬものもないチェンバレン博士が住んでおられたが、目を病んでおられて、あまり人に会われぬという話だったので、とうとうお目にかからずにしまった。先生の旧蔵の書籍が古本屋に出るというのを聞いて、たった一冊、先生の著書の『日本口語文典』を買ってきた。たくさん書き入れのしてある本だった。ときにはジュネーヴの大学へ人類学の講義を聞きに行ったり、書物や辞書類をみせてもらいに行ったりしたが、どこでも大変親切にしてくれた。
ただ言葉の不自由な点が困った。ときどきは、ひとりごとでもいいから思いきり日本語でしゃべってみたいという気がしたこともあった。同じような悩みをもつ人たちが始めていたエスペラントの運動に加わってみようかと思ったことがあった。国際連盟の通訳室にプリヴァという有名なエスペランチストがいて、この人につつかれて私から新渡戸さんに話し、連盟でエスペラントを用語に採用する決議案を出そうとして話を持出したところ、大変な反対にあった。英仏が反対したばかりでなく、他の国の代表も、いまさらエスペラントを覚えるというのでは、学生がかわいそうだと躍起になって反対したので、とうとうものにならなかった。
こんなこともジュネーヴ時代の一つの思い出となったが、この言葉の問題では実際に考えさせられることが多かった。われわれ日本人は機会があっても、どうも避けるようにしてしゃべるけいこをしたがらない傾きがある。連盟で私は日本の不平等な実例をみせつけられたが、この言葉さえ、心を打ちあけて話すことができるようになっていれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであった。
新渡戸稲造
国際連盟事務次長編集
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[7]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
☆☆
グスターフ・ラムステッド
人物・来歴編集
幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしていたが、学問上の労作は、チェレミス語の実地踏査の結果を発表に始まる。モンゴル、東トルキスタン、アフガニスタン国境地帯の学術探検隊に参加。
また、1926年12月に行った講演には、宮沢賢治が聴衆として参加していた。賢治はラムステッドの講演内容に感銘を受け、講演後に会話を交わし、後に自著(『春と修羅』『注文の多い料理店』)を贈呈している[1]。また、「著述にはエスペラントが一番」とラムステッドに言われたのを受けて、賢治はエスペラントを勉強し、自作の詩や俳句の翻訳を試みた。
このように、文化学術面にも影響を与えたラムステッドは、1929年まで日本に滞在した。帰国後は1941年までヘルシンキ大学の教授を務め、さらに1944年まで客員教授として教壇に立った。
1937年からヘルシンキ大学で日本語講座を開講している。これがフィンランドでの日本語教育の始まりであった。フィンランドが誇る学者であり、初の駐日大使である彼によって始められたため、フィンランドにおいて「日本語教育は、小規模ながら名誉ある歴史を有している」と認識されている。[2]現在も、ヘルシンキ大学は、フィンランド国内において日本語専攻が存在する唯一の高等教育機関である。
また、1891年にはエスペラントを学び、エスペラントの普及にも尽力し、フィンランドのエスペラント協会会長を務めた。日本公使に着任した1920年に日本エスペラント学会の幹部の訪問を受けて以来、日本で多くのエスペランティストと交流している。
著書(訳書)編集
- 『フィンランド初代公使滞日見聞録』(坂井玲子訳、日本フィンランド協会、1987年)
- 『七回の東方旅行』(荒牧和子訳、中央公論社、1992年)
- ^ 賢治が贈った2冊の著書がフィンランドに現存し、そのうち『注文の多い料理店』にはラムステッドによる書き込みが残されていることが確認されている(出典:佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」、『宮沢賢治研究Annual Vol.2』1992年、宮沢賢治学会イーハトーブセンター)。
- ^ 『北緯60度の日本語人たち』
外部リンク編集
1 Comments:
#3
べると富の面でもその生産能力の面でも深刻に立ち後れていた。だから、今回の争いからフランスが(今回は英米の支援を受けて)勝利を手にして出てきたとはいっても、フランスの将来の立場はヨーロッパ内戦が平常の、少なくとも繰り返して起こる将来に向けての出来事だと考えるべきだという見方を採る者の目からすれば、相変わらず危ういものだった。そういう者たちは、組織化された超大国同士が過去百年にわたり続けてきた類の紛争は、今後もまた続くと考えているのだ。こういう将来ビジョンに従えば、ヨーロッパ史は果てしない優勝争いであり、今回のラウンドではフランスが勝ったが、今回がどう見ても最終ラウンドではないのだ。基本的に旧秩序は、常に同じである人間の天性に基づいているが故に変わらないという信念から、そしてそれに伴い生じてくる、国際連盟が体現している各種一連のドクトリンすべてに対する疑念から、フランスとクレマンソーの方針は論理的に導かれる。というのも、ウィルソン大統領の14カ条の平和原則といった「イデオロギー」に基づく寛容な平和条約や、公平で平等な扱いをうたう平和条約は、ドイツの復興期間を短縮し、そのフランスに勝る人口や資源や技能をフランスに対して再び投入する日を加速する効果しか持ち得ないからだ。だからこそ「保証」の必要性が出てくる。そして保証が増えればそれだけドイツの苛立ちも高まり、したがってその後のドイツの報復確立も高まるから、ますますドイツの手持ちを潰しておく必要も増す。このように、こうした世界観が採用され、別の世界観が破棄されたとたんに、一時的に権力を握っている側が課せるだけの、最大限に厳しいカルタゴ的平和の要求が不可欠となる。というのもクレマンソーは、自分が14カ条の平和原則にしばられるふりなど一切示さず、大統領の疑念や体面を保つために場当たり的に必要となるおためごかしは、主に他の連中に任されたのだから。つまりフランスの政策としては、時計の針を戻して1870年以来ドイツの進歩が実現したものを、できる限り解体してしまうことだった。領土の喪失などの手段により、ドイツの人口を削ろう。だが何よりもその経済システム、ドイツの新しい強さが依って立つ経済システム、鉄鋼、石炭、輸送力の上に築かれた広大な経済網を破壊せねばならなかった。フランスとしては、ドイツが落とすよう迫られたものの一部でも掌握できるなら、ヨーロッパ覇権の両ライバル国間の力の格差を、幾世代にもわたり矯正できるかもしれないのだ。こうしたわけで、高度に組織化された経済生活を破壊するための、累積的な状況が飛びだしてきたわけだ。これについては次章で検討する。これは老人の政策だ。その人物の最も鮮明な印象や最も活き活きとした印象は過去のものであり未来のものではない。この人物は問題を、フランスとドイツという枠組みで考え、新しい秩序に向けて苦闘する人類とヨーロッパ文明という枠組みでは考えない。戦争はこの人物の意識に対し、私たちとはちょっとちがった形で食い込み、そしてこの人物は私たちが新時代の間際にいるのだということを予想も希望もしていない。だが実は、この問題に関係しているのは理想の問題だけではなかったりするのだ。本書での私の狙いは、カルタゴ式の平和(訳注:敵にやたらに厳しい条件を課す和平のこと)は、実務的にも正しくないし実施可能でもないというのを示すことだ。この平和条約が生まれてくる学派は経済的要因に気がついてはいるが、それでも未来を司るもっと深い経済的傾向は見すごしている。時計の針を戻すわけにはいかない。1870年の中欧を復活させようとすれば、ヨーロッパの構造に莫大なストレスを創り出し、すさまじい人間的、精神的な力を解き放ってしまうことになって、それが国境や人種を越えて押し広がり、人々や
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