平和の経済的帰結 The Economic Consequences of the Peace (1920)
http://nam-students.blogspot.jp/2017/03/economic-consequences-of-peace-1920.html
参考:
(リンク:::::::::、 柄谷行人)
柄谷行人『世界史の実験』2019:メモ
https://nam-students.blogspot.com/2019/02/2019.html
ケインズ 平和…
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/1919.html@
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参考:
(リンク:::::::::、 柄谷行人)
柄谷行人『世界史の実験』2019:メモ
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ケインズ 平和…
https://nam-students.blogspot.com/2019/03/1919.html@
ケインズ原文
柳田国男がいたのは、☆
委任統治委員会
いにんとうちいいんかい
Permanent Mandates Commission
- 1919年(大正8年)12月 - 貴族院書記官長を辞任[注釈 3]。新渡戸稲造が国際連盟事務次長として訪欧したため、「郷土会」の活動休止[9]。
- 1920年(大正9年)8月 - 東京朝日新聞社客員となり、論説を執筆した。全国各地を調査旅行。
- 1921年(大正10年) - 渡欧し、ジュネーヴの国際連盟委任統治委員に就任。国際連盟において、英語とフランス語のみが公用語となっていることによる小国代表の苦労を目の当たりにする。
- 1922年(大正11年) - 新渡戸稲造と共に、エスペラントを世界の公立学校で教育するよう決議を求め、フランスの反対を押し切って可決される。エスペランティストのエドモン・プリヴァ(Edmond Privat)と交流し、自身もエスペラントを学習。
- 1923年(大正12年) - 国際連盟委任統治委員を突如辞任して帰国(これを契機に新渡戸との交流が途絶える[11])。フィンランド公使グスターフ・ラムステッドと交流。☆☆
- 1924年(大正13年)4月 - 慶應義塾大学文学部講師となり民間伝承を講義。
- 1926年(大正15年)7月 - 財団法人日本エスペラント学会設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。
連合国賠償委員会
れんごうこくばいしょういいんかい
Allied Reparations Commission
柳田曰く「英仏が憎らしく幅をきかしていた」(故郷七十年)というからケインズはその中の一人だろう
(ケインズは多額の賠償に抗議して辞任しているので時期的に接触はない。そもそも委員会が違う)
ケインズ『平和の経済的帰結』山形浩生訳 Keynes, The Economic ...
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平和の経済的帰結. The Economic Consequences of the Peace (1920). ジョン・ メイナード・ケインズ *1.
ケインズ#5より
賠償委員会の権限と定款は、ドイツとの条約の賠償章233-241条と付録IIで主に規定されている。でもこの委員会は、オーストリアとブルガリアにも権限を行使し、また講和が結ばれたらハンガリーとトルコにも権限行使するかもしれない。だからオーストリアとの条約*58やブルガリアとの条約*59にも似たり寄ったりの条項がある。主要連合国はそれぞれ、主任委員一人が代表している。アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの代表はあらゆる議事に参加する。ベルギーの委員は、日本委員かセルビア=クロアチア=スロヴェニア国家の委員が参加するもの以外のすべての議事に参加する。日本委員は海洋問題か日本特定の問題に関するすべての議事に参加する。セルビア=クロアチア=スロヴェニア国家の委員は、オーストリア、ハンガリー、ブルガリアに関する問題が検討されているときに参加する。他の連合国は、自分たち個別の主張や利害が検討されているときに委員が代表するが、投票権は持たない。一般に、この委員会は多数決で決定するが、いくつか個別の例では全員一致が必要だ。その最も重要なものはドイツ債務の減免、長期の先送り、ドイツ債券の売却だ。委員会は決定事項を実施する完全な実施権限を与えられている。実施担当者を設置してその係官に権限移譲してよい。委員会とその職員は外交官特権を享受し、その給与はドイツが支払うが、ドイツはその給与決定に関与できない。もしこの委員会がその無数の機能を適切に果たすつもりなら、巨大な多言語による官僚組織を確立することが必要で、職員は数百名にのぼるだろう。パリに本部を持つこの組織に、中欧の経済的な運命が委ねられるのだ。その主要機能は以下の通り:1. 委員会は、賠償章付録Iに基づき連合国それぞれの賠償請求を詳細に検討し、敵諸国に対する賠償請求の厳密な金額を決定する。この作業は1921年5月までに完了しなければならない。同委員会はドイツ政府とドイツ同盟国に対し「意見を述べる公正な機会を提供するが、委員会の決定には何ら参加を認めない」。つまり、委員会は当事者と裁判官の両方を同時に務める。2. 賠償請求額を決めたら、その全額と利息を30年以内に支払うための支払スケジュールを書き上げる。ときどき同委員会は、実現可能性の制限内でスケジュール改変のため「ドイツの資源と能力を考慮し(中略)同国代表が意見を述べる公正な機会を与える」
「定期的にドイツの支払能力を試算するにあたり、委員会はドイツの課税制度を検討し、まずドイツが支払を求められている賠償金額のための課金が、ドイツのあらゆる歳入に対して、国内債務の元利返済より優先されているかを確認し、第二にドイツの課税制度が全般的に、委員会で代表されているどの国と比べても比率として重いものとなっているか確認する」3. 1921 年5月まで、委員会は50億ドルの支払確保のため、どこにあるどんなものだろうとドイツ財産をすべて引き渡すよう要求する権利を持つ。つまり「ドイツは黄金、商品、船舶、証券、その他賠償委員会が定めるいかなる形態であれ、委員会の定める支払計画に従って支払を行う」4. 委員会はロシア、中国、トルコ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、その他ドイツやその同盟国に所属していたあらゆる領土における、公益事業でのドイツ国民の権利や利権のどれが、剥奪されて委員会自身に移転されるかを決める。こうして移転された利権の価値を評価する。そしてその収益を分配する。5. 委員会はドイツから剥奪した資源のうち、ドイツが将来的に賠償支払いを続けられるだけの経済活力を経済組織の中で維持するために、どれだけをドイツに戻すべきかを決定する*60。6. 委員会は休戦下や講和条約下で移譲された財産や利権――貨車や機関車、商船隊、河川船舶、牛、ザール炭鉱、割譲領土にあった財産でドイツに計上されるものなど――の価値をさだめ、これに対する苦情や仲裁は一切行わない。7. 委員会は賠償章の各種付録で定められた毎年の物納について、量と価値(ただしいくつか決まった制限に従う)を定める。8. 委員会は同定された財産のドイツによる回復のための手だてを講じる。9. 委員会はドイツからの現金や物納によるあらゆる受け取りを受領、管理、分配する。またドイツ負債債券を発行販売する。10. 委員会は戦前公債のうち、割譲されるシュレスヴィッヒ、ポーランド、ダンツィヒ、上シレジアが負担すべき部分を割り当てる。委員会はまた旧オーストリア=ハンガリー帝国の公債をその構成地域に対して分配する。11. 委員会はオーストリア=ハンガリー銀行を清算し、旧オーストリア=ハンガリー帝国の通貨システム廃止と置きかえを監督する。12. ドイツが義務を果たせていないと同委員会が判断した場合にはそれを報告し、それを強要するための手法について助言するのが役目である。13. 一般に、当委員会は下位組織を通じて、ドイツと同じ役割をオーストリアやブルガリアに対しても果たし、おそらくはハンガリーとトルコについても同様である*61。これ以外に比較的細かい仕事もいろいろ委員会に割り振られている。だが上のまとめは、その権限の規模と範囲を十分に示している。この権限は、条約の要求が一般にドイツの能力を超えたものだという事実のために、その重要性が遥かに増している。結果として、ドイツの経済条件から見て必要と判断されたら委員会に減免を行う権限を与える条項
ヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ条約(ヴェルサイユじょうやく、仏: Traité de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。
正文はフランス語と英語であり、正式な条約名はそれぞれフランス語: Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l'Allemagne、英語: Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germanyであるが、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されたことによって、ヴェルサイユ条約と呼ばれる。
日本における正式条約名は同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約(大正9年条約第1号)。
ヴェルサイユの表記揺れで、ベルサイユ条約やベルサイユ体制と表記することもある[3]。
…
ドイツが放棄した植民地については、国際連盟に指名された国が統治する、委任統治に移行した。
- ルアンダ=ウルンディ(旧ドイツ領東アフリカ )(受任国・ベルギー:現在のルワンダとブルンジ)
- タンガニーカ(旧ドイツ領東アフリカ)
- ドイツ領トーゴラント
- 西部三分の一→イギリス領トーゴランド(受任国・イギリス:現在のガーナ東部)
- 東部三分の二→フランス領トーゴランド(受任国・フランス:現在のトーゴ)
- ドイツ領南西アフリカ→南西アフリカ(受任国・南アフリカ連邦:現在のナミビア)
- ドイツ領カメルーン(旧ドイツ領西アフリカ)
- 北部カメルーン→イギリス領カメルーン(受任国・イギリス:現在のナイジェリア東部)
- 南部カメルーン→フランス領カメルーン[要リンク修正](受任国・フランス:現在のカメルーン)
- ノイカメルーン (旧ドイツ領西アフリカ)→ フランス領赤道アフリカに統合
- ドイツ領ニューギニア
- マリアナ諸島、カロリン諸島、パラオ、マーシャル諸島→ 南洋諸島(受任国・日本)
- ソロモン諸島→ イギリス領ソロモン諸島(受任国・イギリス)
- カイザーヴィルヘルムスラント→ オーストラリア領ニューギニア(受任国・オーストラリア:現在のパプアニューギニア北部)
- ナウル→ 三国共同統治領ナウル(受任国・イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)
- ドイツ領サモア[要リンク修正]→ ニュージーランド領西サモア(受任国・ニュージーランド)
賠償
賠償委員会の協議は難航し、賠償総額が1320億金マルク(約66億ドル)、30年賦と決定されたのも1921年になってからのことであった[53][54]。ロシアへの賠償はラパッロ条約によって事実上相殺された[55]が、ドイツ政府は賠償金の捻出に苦しみ、さらに「トランスファー問題」の発生でマルク相場は急激に下落した。1923年1月、フランスとベルギーは賠償金支払いの遅延を理由とし、ベルサイユ条約を根拠とするルール工業地帯の占領を開始した。これに対するドイツ側の対抗措置等も重なり、マルクはおよそ一兆倍に下落するというハイパーインフレーションに見舞われた(ヴァイマル共和政のインフレーション)。
これ以降連合国側もドイツ経済に配慮するようになり、ドーズ案によってドイツの賠償支払いは一段落した。しかし1928年頃からはドイツへの資金流入が減少しはじめ、ヤング案が採択されて支払いはさらに緩和されたものの、1930年代の世界恐慌と欧州金融恐慌により、賠償の支払いは事実上不可能となった。ドイツは賠償支払いの一時停止を宣言し、1932年6月のローザンヌ会議で賠償問題は事実上解消された。
武装解除
ドイツ海軍艦艇は連合国に引き渡されることになっていたが、当時イギリスのスカパ・フロー港に抑留されていたドイツ艦艇は、ルートヴィヒ・フォン・ロイター提督の命令で1919年6月21日にいっせいに自沈し、艦艇74隻中52隻が沈没した(スカパ・フローでのドイツ艦隊の自沈)。いくつかの艦は引き上げられず、連合国は引き渡しを受けることができなかった。ドイツ世論ではロイター提督が国民的な英雄であると受け止められた。
当時の評価
条約成立過程はほとんど秘密にされていたため、全容が世界に公表されたのは5月7日のドイツ側への手交以降だった。イギリスでは講和条約が過酷であり、連合国の戦争目的と異なるという批判が労働組織の機関紙を中心に広がった[56]。ランシングをはじめとするアメリカの代表団内部でも条約が「十四原則」とかけ離れていると批判する声が高かった[29]。また大戦中から和平への努力を行っていた教皇ベネディクトゥス15世も公然の批判は行わなかったものの、ヴェルサイユ条約が復讐の産物であるという認識を示していた[57]。
国際連盟
主要機関
- 総会(Assembly)
- 理事会(Council)
- 常任理事国と数カ国の非常任理事国で運営された。
- 事務局(Secretariat)
専門機関
- 常設委任統治委員会
- 常設軍事諮問委員会
- 軍備縮小委員会
- 法律家専門家委員会
- ナンセン国際難民事務所、ドイツ難民高等弁務官事務所 → 国際連盟難民高等弁務官事務所 - 国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の前身
- 知的協力委員会 - 国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の前身
- 麻薬常設中央委員会 - ジュネーヴ国際阿片(アヘン)会議によって設置。国際麻薬統制委員会(INCB)の前身
- 常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice)
- 国際連盟保健機関(Health Organization) - 世界保健機関(WHO)の前身
- 経済金融機関(Economic and Financial Organization)
- 通信運輸機関(Transit, Transport and Communications)
- 社会問題諮問委員会(Advisory Committee on Social Questons)
- 国際労働機関(International Labour Organisation)
- 国際連盟婦人児童売買諮問委員会(Advisory Committee on the Traffic in Women and Children)
- 大使会議
委任統治
委任統治(いにんとうち、mandate)とは、国際連盟規約第22条に基づき国際連盟によって委任された国が国際連盟理事会の監督下において一定の非独立地域を統治する制度である。委任統治の対象地域は、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ帝国のアフリカ及び太平洋の植民地と、敗戦国オスマン帝国の支配下にあった中東地域である。
形式的には戦勝国がこれらの地域を自国の植民地として搾取することを防止すると共に、住民の福祉を推進し、将来の自治・独立に向けたサポートをすることが目的であると謳われた。
…
委任統治を担当する国は、受任国という。大戦中に該当地域を占領した国が受任国となっている。また、委任統治が適用される地域は、委任統治領または委任統治地域という。委任統治領は、地域住民の自治能力の程度に応じて、A・B・Cの3段階に分類され、統治の方法が異なる。
A式は、住民自治を認め、早期独立を促す地域である。この地域は早期独立を前提としていたので、その住民には受任国とは別の国籍が与えられた。
B式・C式にあたる地域は、住民の水準が自治・独立に未だ不十分であるため、受任国の介入が期待される地域である。
B式は、宗教その他の面で地域住民の独自性を可能な限り尊重することが要求され、受任国とは別の法制度による統治方法がとられる地域である。C式は、人口が少なく地域の文化が受任国の文化と共通点が多いため、受任国の構成部分として扱うことが許された。B式・C式の地域住民に対しては、国籍は与えられなかった。
委任統治の監督は、国際連盟理事会の権限であるが、その事務処理を行うための常設の委任統治委員会が設置された。各受任国は、定期的に国際連盟理事会に対し、該当地域の統治に関する報告をする義務がある。
C式
この類型に属するのは、かつてドイツの植民地であったドイツ領南西アフリカ及び太平洋の島々(ドイツ領ニューギニア及びドイツ領サモア)である。
- 南アフリカ委任統治領南西アフリカ(1922年10月1日 – 1960年)
- オーストラリア委任統治領ニューギニア(1920年12月17日 – 1946年12月8日)
- イギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領ナウル(1922年7月20日 - 1947年11月1日)
- ニュージーランド委任統治領西サモア(1920年12月17日 – 1947年1月25日)
- 日本委任統治領南洋群島(1919年6月28日 – 1947年1月18日)
ドイツ領南西アフリカは、イギリス帝国の南アフリカ連邦が受任国となった。「南アフリカ委任統治領南西アフリカ」は、1946年に国際連盟が解散されると、受任国である南アフリカによって委任統治は終了したとして、植民地化され、事実上併合された。ただし、公式に南西アフリカの委任統治が終了したのは、1960年の国連総会決議においてであった。詳細は、ナミビア問題、または信託統治#信託統治地域を参照。
第二次世界大戦で戦場となった後、「アメリカ信託統治領太平洋諸島」となった。この地域の詳細は、南洋諸島を参照。他の2地域は、第二次世界大戦の戦勝国が受任国であったことから受任国が変わることなく、信託統治領へ移行した。
ドイツ領西サモアは、ニュージーランドが受任国となった。この地域もそのまま信託統治領へ移行した。
南洋庁 1922~
南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年の太平洋戦争敗戦時に事実上消滅した。
故郷七十年(ジュネーヴの思い出は文庫全集#3に長文で別にもう一つある)
沖縄から内地に帰る途中で、国際連盟の仕事でジュネーヴに行けという電報を受けた。私は役所の方を怒って辞めているので、おそらくこれは誤報だろうと思っていた。ところが熊本まで帰ってくると、酷いのがいて、「お口があっておめでとうございます」などという。県庁の役人がそんなことをいったので、「断ってくれ給え、ぼくはもう政府のためには働かないんだから」と言ったりした。長崎へ着くと、もう亡くなったが渡辺勝太郎さんという、よく物のわかった人がちょうど県知事をしていて「そんな馬鹿なことがあるものか。君が喧嘩したのは内閣であって、国じゃないだろう。政府のために働かないでも、国のために働かないということはないはずだ」と、じつに簡単に説伏せられてしまった。「それでは仕方がない。じつはぼくは大阪朝日の社長と、ぼくの養父とには事前に相談をしなければならないのだから、二人が同意したならば受けるという条件つきで返事を出すことにしよう」といった。すると渡辺君は私の見ている前で電報を打ってくれた。
大阪からも、非常に結構なことだからぜひ行くようにという返電が来たし、養父の方も賛成であるということが、長崎を歩いているうちにはっきりした。こうして行かずにはおけないことになってしまった。
今でもよく憶えているが、諫早駅で小さな子供がよちよちプラットホームを歩いているのが目についた。そのとき、あの子は西洋へ行かんでいいなあと感じてしまった。こちらは気が張りつめていっぱいになっているのに、その子供はのんびりとしているのが羨しかったわけで、そんな滑稽な心境も今思えばなつかしいことである。
朝日の方は客員ということにしてもらって、最初に出かけたのは大正十年五月のことで、アメリカ経由にした。和田英作君といっしょに春洋丸の船室をとり、ずっと行動をともにしたが、和田君とは遠く明治三十年のころ、国木田独歩や宮崎湖処子などと六人で出した新体詩集『抒情詩』に絵を描いてもらったとき以来の古なじみであった。同じ船でやはり信州飯田の出身であった樋口秀雄(竜峡)氏の他に代議士が大勢出かけた。
シカゴに和田君の妹さんがいたので、いっしょにちょっと途中下車をしてから、南の方を通って東部に出た。ワシントンを見物したことは憶えているが、他はもう記憶にない。ニューヨークでは、高等学校時代からの親友で住友につとめていた今村幸男君がいて、大変親切に世話をしてくれた。それからフランスの船に乗ってフランスへ直行し、イギリスへは寄らなかった。
月末か八月初めにスイスに着いた。仕事は国際連盟本部の委任統治に関するものであった。農政学の先輩であり、また郷土研究会以来、とくに懇意にしていた新渡戸博士が、連盟の事務総長をしておられたので、大変心強く感じた。当時ジュネーヴには内務省から国際労働局に行っていた吉阪俊蔵君の一家もいた。また今の侍従長の三谷隆信君が新婚当時で、夫婦でスキーなどしていた姿も、はっきり眼に浮ぶのである。
連盟の仕事は割に楽で、春から秋にかけて一通り会合や通常事務などが忙しかったが、その後は翌年にかけて冬休みのようなもので、関係者はみな一応帰国することになっていた。私も最初の年は用事を済ませてから東京に帰り、翌春また出かけて行った。
大正十二年九月一日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと十月末か十一月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮に横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持になり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。そして十三年の春に二度の公開講演を試みたのである。
国際連盟の仕事は、委任統治委員会の委員というので、日本の役人ではなく、日本側で指定した向うの人間になっていた。英仏が憎らしく幅をきかしていたが、小さい国々は日本と同じように一種の憂いをもち、そのなかで自国をどう維持していくかということに苦心しているようなところがみえた。オランダ代表は、元ジャバの行政長官かなにかしていた、非常に立派な人だった。ノルウェーは大学の先生であった。女で大学の先生をしていた人がいたり、政治家がいたり、大変いい印象をうけた。それに五月から九月いっぱい会を開けばよくて、あとは翌年暮までゆっくり遊んでいられる。それに本国へ帰ってくる旅費もくれることになっていた。はじめの年は、吉野丸というドイツから取上げた船で帰ったが、翌年(大正十一年から十二年にかけて)は帰らずに、ドイツ、オランダ、フランス、イタリアと、欧州各国を旅行した。イタリアは旧知の関口泰君や矢代幸雄君などの案内で、ずっと南の方まで、くわしく見て歩いた。エジプトからやってきたという木下杢太郎君の一行にも会い『即興詩人』を語り、一緒に鴎外さんをなつかしんだりした。
ジュネーヴではホテルがざわつくので、一人でフランス領に近い奥の方のボーセジイルというところに借家をしていた。宮島幹之助君がここに訪ねてきてくれて、沖縄の話をしたことを覚えている。同じ町には日本ではだれ知らぬものもないチェンバレン博士が住んでおられたが、目を病んでおられて、あまり人に会われぬという話だったので、とうとうお目にかからずにしまった。先生の旧蔵の書籍が古本屋に出るというのを聞いて、たった一冊、先生の著書の『日本口語文典』を買ってきた。たくさん書き入れのしてある本だった。ときにはジュネーヴの大学へ人類学の講義を聞きに行ったり、書物や辞書類をみせてもらいに行ったりしたが、どこでも大変親切にしてくれた。
ただ言葉の不自由な点が困った。ときどきは、ひとりごとでもいいから思いきり日本語でしゃべってみたいという気がしたこともあった。同じような悩みをもつ人たちが始めていたエスペラントの運動に加わってみようかと思ったことがあった。国際連盟の通訳室にプリヴァという有名なエスペランチストがいて、この人につつかれて私から新渡戸さんに話し、連盟でエスペラントを用語に採用する決議案を出そうとして話を持出したところ、大変な反対にあった。英仏が反対したばかりでなく、他の国の代表も、いまさらエスペラントを覚えるというのでは、学生がかわいそうだと躍起になって反対したので、とうとうものにならなかった。
こんなこともジュネーヴ時代の一つの思い出となったが、この言葉の問題では実際に考えさせられることが多かった。われわれ日本人は機会があっても、どうも避けるようにしてしゃべるけいこをしたがらない傾きがある。連盟で私は日本の不平等な実例をみせつけられたが、この言葉さえ、心を打ちあけて話すことができるようになっていれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであった。
新渡戸稲造
国際連盟事務次長
1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長の一人に選ばれた[7]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。
エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対に遭い、結局実現しなかった。同年、バルト海のオーランド諸島帰属問題の解決に尽力した。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。
☆☆
グスターフ・ヨーン・ラムステッド(Gustaf John Ramstedt、1873年10月22日、フィンランドのウーシマー県エケネース - 1950年11月25日、ヘルシンキ)は、フィンランドの東洋語学者で、アルタイ比較言語学の権威。また、フィンランドの初代駐日公使を務めた。エスペランティストでもある。
目次
人物・来歴
幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしていたが、学問上の労作は、チェレミス語の実地踏査の結果を発表に始まる。モンゴル、東トルキスタン、アフガニスタン国境地帯の学術探検隊に参加。
1920年2月12日、ラムステッドはフィンランド初代公使として東京に着任した。なお中国とシャム(現タイ)の公使も兼任した。当時彼はヘルシンキ大学教授であった。日本滞在中は外交官としての活動のかたわら、言語学者としても研究を行い、白鳥庫吉の紹介により東京帝国大学で招待講師として教壇に立っている。このときの受講者の一人に柳田國男がいた。ラムステッドは自らの研究を元に、日本語のアルタイ諸語起源説を唱えた。ラムステッドに影響を受けた研究者には柳田國男のほか、言語学の新村出、金田一京助、朝鮮研究の小倉進平(1882~1944)、イスラーム及びトルコ学者の内藤智秀等がいる。
また、1926年12月に行った講演には、宮沢賢治が聴衆として参加していた。賢治はラムステッドの講演内容に感銘を受け、講演後に会話を交わし、後に自著(『春と修羅』『注文の多い料理店』)を贈呈している[1]。また、「著述にはエスペラントが一番」とラムステッドに言われたのを受けて、賢治はエスペラントを勉強し、自作の詩や俳句の翻訳を試みた。
このように、文化学術面にも影響を与えたラムステッドは、1929年まで日本に滞在した。帰国後は1941年までヘルシンキ大学の教授を務め、さらに1944年まで客員教授として教壇に立った。
その学統を継ぐ学者としては、ニコラス・ポッペ、マルッティ・レセネンらがある。
1937年からヘルシンキ大学で日本語講座を開講している。これがフィンランドでの日本語教育の始まりであった。フィンランドが誇る学者であり、初の駐日大使である彼によって始められたため、フィンランドにおいて「日本語教育は、小規模ながら名誉ある歴史を有している」と認識されている。[2]現在も、ヘルシンキ大学は、フィンランド国内において日本語専攻が存在する唯一の高等教育機関である。
また、1891年にはエスペラントを学び、エスペラントの普及にも尽力し、フィンランドのエスペラント協会会長を務めた。日本公使に着任した1920年に日本エスペラント学会の幹部の訪問を受けて以来、日本で多くのエスペランティストと交流している。
著書(訳書)
- 『フィンランド初代公使滞日見聞録』(坂井玲子訳、日本フィンランド協会、1987年)
- 『七回の東方旅行』(荒牧和子訳、中央公論社、1992年)
脚注
関連項目
外部リンク
- フィンランド大使館、東京 - フィンランド・日本外交関係の歴史 - フィンランド大使館、東京
#3
返信削除べると富の面でもその生産能力の面でも深刻に立ち後れていた。だから、今回の争いからフランスが(今回は英米の支援を受けて)勝利を手にして出てきたとはいっても、フランスの将来の立場はヨーロッパ内戦が平常の、少なくとも繰り返して起こる将来に向けての出来事だと考えるべきだという見方を採る者の目からすれば、相変わらず危ういものだった。そういう者たちは、組織化された超大国同士が過去百年にわたり続けてきた類の紛争は、今後もまた続くと考えているのだ。こういう将来ビジョンに従えば、ヨーロッパ史は果てしない優勝争いであり、今回のラウンドではフランスが勝ったが、今回がどう見ても最終ラウンドではないのだ。基本的に旧秩序は、常に同じである人間の天性に基づいているが故に変わらないという信念から、そしてそれに伴い生じてくる、国際連盟が体現している各種一連のドクトリンすべてに対する疑念から、フランスとクレマンソーの方針は論理的に導かれる。というのも、ウィルソン大統領の14カ条の平和原則といった「イデオロギー」に基づく寛容な平和条約や、公平で平等な扱いをうたう平和条約は、ドイツの復興期間を短縮し、そのフランスに勝る人口や資源や技能をフランスに対して再び投入する日を加速する効果しか持ち得ないからだ。だからこそ「保証」の必要性が出てくる。そして保証が増えればそれだけドイツの苛立ちも高まり、したがってその後のドイツの報復確立も高まるから、ますますドイツの手持ちを潰しておく必要も増す。このように、こうした世界観が採用され、別の世界観が破棄されたとたんに、一時的に権力を握っている側が課せるだけの、最大限に厳しいカルタゴ的平和の要求が不可欠となる。というのもクレマンソーは、自分が14カ条の平和原則にしばられるふりなど一切示さず、大統領の疑念や体面を保つために場当たり的に必要となるおためごかしは、主に他の連中に任されたのだから。つまりフランスの政策としては、時計の針を戻して1870年以来ドイツの進歩が実現したものを、できる限り解体してしまうことだった。領土の喪失などの手段により、ドイツの人口を削ろう。だが何よりもその経済システム、ドイツの新しい強さが依って立つ経済システム、鉄鋼、石炭、輸送力の上に築かれた広大な経済網を破壊せねばならなかった。フランスとしては、ドイツが落とすよう迫られたものの一部でも掌握できるなら、ヨーロッパ覇権の両ライバル国間の力の格差を、幾世代にもわたり矯正できるかもしれないのだ。こうしたわけで、高度に組織化された経済生活を破壊するための、累積的な状況が飛びだしてきたわけだ。これについては次章で検討する。これは老人の政策だ。その人物の最も鮮明な印象や最も活き活きとした印象は過去のものであり未来のものではない。この人物は問題を、フランスとドイツという枠組みで考え、新しい秩序に向けて苦闘する人類とヨーロッパ文明という枠組みでは考えない。戦争はこの人物の意識に対し、私たちとはちょっとちがった形で食い込み、そしてこの人物は私たちが新時代の間際にいるのだということを予想も希望もしていない。だが実は、この問題に関係しているのは理想の問題だけではなかったりするのだ。本書での私の狙いは、カルタゴ式の平和(訳注:敵にやたらに厳しい条件を課す和平のこと)は、実務的にも正しくないし実施可能でもないというのを示すことだ。この平和条約が生まれてくる学派は経済的要因に気がついてはいるが、それでも未来を司るもっと深い経済的傾向は見すごしている。時計の針を戻すわけにはいかない。1870年の中欧を復活させようとすれば、ヨーロッパの構造に莫大なストレスを創り出し、すさまじい人間的、精神的な力を解き放ってしまうことになって、それが国境や人種を越えて押し広がり、人々や