柳田國男:メモ(全集目次)
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柳田国男:メモ(文庫版全集目次)
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柄谷行人『世界史の実験』2019:メモ
グスターフ・ヨーン・ラムステッド(Gustaf John Ramstedt、1873年10月22日、フィンランドのウーシマー県エケネース - 1950年11月25日、ヘルシンキ)は、フィンランドの東洋語学者で、アルタイ比較言語学の権威。また、フィンランドの初代駐日公使を務めた。エスペランティストでもある。
目次
人物・来歴
幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしていたが、学問上の労作は、チェレミス語の実地踏査の結果を発表に始まる。モンゴル、東トルキスタン、アフガニスタン国境地帯の学術探検隊に参加。
1920年2月12日、ラムステッドはフィンランド初代公使として東京に着任した。なお中国とシャム(現タイ)の公使も兼任した。当時彼はヘルシンキ大学教授であった。日本滞在中は外交官としての活動のかたわら、言語学者としても研究を行い、白鳥庫吉の紹介により東京帝国大学で招待講師として教壇に立っている。このときの受講者の一人に柳田國男がいた。ラムステッドは自らの研究を元に、日本語のアルタイ諸語起源説を唱えた。ラムステッドに影響を受けた研究者には柳田國男のほか、言語学の新村出、金田一京助、朝鮮研究の小倉進平(1882~1944)、イスラーム及びトルコ学者の内藤智秀等がいる。
また、1926年12月に行った講演には、宮沢賢治が聴衆として参加していた。賢治はラムステッドの講演内容に感銘を受け、講演後に会話を交わし、後に自著(『春と修羅』『注文の多い料理店』)を贈呈している[1]。また、「著述にはエスペラントが一番」とラムステッドに言われたのを受けて、賢治はエスペラントを勉強し、自作の詩や俳句の翻訳を試みた。
このように、文化学術面にも影響を与えたラムステッドは、1929年まで日本に滞在した。帰国後は1941年までヘルシンキ大学の教授を務め、さらに1944年まで客員教授として教壇に立った。
その学統を継ぐ学者としては、ニコラス・ポッペ、マルッティ・レセネンらがある。
1937年からヘルシンキ大学で日本語講座を開講している。これがフィンランドでの日本語教育の始まりであった。フィンランドが誇る学者であり、初の駐日大使である彼によって始められたため、フィンランドにおいて「日本語教育は、小規模ながら名誉ある歴史を有している」と認識されている。[2]現在も、ヘルシンキ大学は、フィンランド国内において日本語専攻が存在する唯一の高等教育機関である。
また、1891年にはエスペラントを学び、エスペラントの普及にも尽力し、フィンランドのエスペラント協会会長を務めた。日本公使に着任した1920年に日本エスペラント学会の幹部の訪問を受けて以来、日本で多くのエスペランティストと交流している。
著書(訳書)
- 『フィンランド初代公使滞日見聞録』(坂井玲子訳、日本フィンランド協会、1987年)
- 『七回の東方旅行』(荒牧和子訳、中央公論社、1992年)
脚注
関連項目
外部リンク
- フィンランド大使館、東京 - フィンランド・日本外交関係の歴史 - フィンランド大使館、東京
東京帝国大学で言語学、民俗学を講義
ラムステットは、有名な東アジア研究者でフィン・ウゴル学会の外国人会員でもあった白鳥庫吉東京帝国大学名誉教授の紹介により、同大学でしばしば招待講師として講義を行った。講義内容は、フィン・ウゴル人、アルタイ比較言語学、民俗学、地方語や方言などだった。彼の講義を受けた人物の中には、当時農林省の役人であった柳田国男(1875~1962)がいた。国際連盟がジュネーブで会議を開き、オーランド諸島のフィンランドまたはスウェーデンへの帰属問題を討議した際、柳田は日本代表団の一員であった。ラムステットによれば、国際連盟が1921年に同諸島のフィンランドへの帰属を決定するにあたっては、柳田のフィンランド支持は極めて大きな意味を持つものであった。後に柳田は、日本における文化人類学・民俗学の第一人者として知られるようになり、民族伝承の研究を行うため、数年間欧州にも暮らした。ラムステットに刺激を受けた柳田は、日本の方言に関心を抱くようになり、学生を動員して方言の資料収集のためのフィールド・ワークを行い、それに関して夥しい数の著作を著した。彼はまた、民俗学の専門誌『民俗』の編集に携わったが、これにはラムステットも1926 年に寄稿している。
ラムステットに啓発された学者は他に、アルタイ言語学の新村出(1876~1967)、アイヌ語研究の金田一京介(1882~1971)、朝鮮研究の小倉進平(1882~1944)等がいる。
ラムステットは講義の中で、フィンランド民族叙事詩カレワラにも触れ、未だにその日本語訳がないことを指摘した。その後外交任務を終え、既にフィンランドに帰国していたラムステットは、偶然彼の講義を聞いていた森本覚丹が、カレワラの日本語完訳版と専門家によるその書評を持って公使館を訪れたことを、後任のヴィンケルマン(Winckelman)公使から聞かされる。彼は森本のことを覚えてはいなかったが、1937年に刊行された日本語版へ快く序文を寄せた。
ラムステットは講義の中で、フィンランド民族叙事詩カレワラにも触れ、未だにその日本語訳がないことを指摘した。その後外交任務を終え、既にフィンランドに帰国していたラムステットは、偶然彼の講義を聞いていた森本覚丹が、カレワラの日本語完訳版と専門家によるその書評を持って公使館を訪れたことを、後任のヴィンケルマン(Winckelman)公使から聞かされる。彼は森本のことを覚えてはいなかったが、1937年に刊行された日本語版へ快く序文を寄せた。
1926 年12月、ラムステットは東京国際クラブで農業についての講演を行った。講演の最後に彼は「農業技術の近代化によって伝統的日本の栽培方法は時代遅れのものとなる」と不用意な発言をしてしまった。これを快く思わなかった聴衆は、講演者に話し掛けることなく会場を去った。唯一人その場に残ったのは、花巻農学校職員の宮沢賢治(1896~1933)であった。彼はこの日本語を話す外国人に興味を持った。宮沢は、自らの文学作品の中で好んで方言を使用したので、2人はすぐに方言という共通の話題を見出した。
柳田國男、宮沢賢治との出会いと交流
フィンランドの代理大使はフィンランド・エスペラント学会会長でもあることが新聞で報道されると、ラムステットの滞在先である築地精養軒に日本エスペラント学会の代表らが訪れた。ラムステットが到着してからわずか2日後のことであった。2月25日には本郷の燕楽軒で歓迎会が催された。ラムステットは熱心に日本エスペラント学会の月例会に出席し、フィンランドの紹介に努めた。日本のエスペランティストとの交流の上でもっとも重要であった人物、何盛三(1884~1948)は日本全国のエスペランティストにラムステットを紹介した。フィンランドを広く報らしむる上でエスペランティスト達は重要なネットワークであった。ラムステットは仙台、横浜、横須賀、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、福岡、長崎等で、エスペラント語で講演した。1922年1月、金沢では4日間にわたってフィンランドについて講演、地元県知事を含む千人あまりの聴衆が参加した。反対に静岡県知事は日本文化への脅威ととらえ、エスペラント語に反対した。また知事は県内でのエスペラント協会の活動を禁止した。こうした事情を知っていたが、ラムステットは静岡県で開かれる講演会への招待を受け入れた。講演会は警察の介入もなく、順調に進んだ。その後、当地のエスペラント協会は活動を再開できるようになった。こうしてフィンランド代理大使は知事の態度を軟化させることに一役買った。
さらにラムステットの影響を受けた柳田国男はエスペラント語に関心を持つようになった。また宮沢賢治は自作の詩をエスペラント語にするため、エスペラント語を学習しようと考えた。ラムステットのエスペラント語の講演会で今一人影響を受けた人物、川崎直一は後に言語学教授になった。
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フィンランドを知るための44章 - 株式会社 明石書店
... 文化の模索 第26章 戦争と文学――ヴァイノ・リンナと大岡昇平 第27章 トーベ・ ヤンソンの世界――描くこと ... お勧めの場所が 第36章 ラムステット公使とエスペラント 仲間――エスペラント仲間たちが支えた日フィン ...
以下に宮沢賢治に関する記述はない
返信削除フィンランド初代公使滞日見聞録
著者名等
グスタフ・ヨン・ラムステット/著 ≪再検索≫
著者名等
坂井玲子/訳 ≪再検索≫
出版者
日本フィンランド協会
出版年
1987.1
大きさ等
20cm 246p
注記
編集:講談社第一出版センター 著者の肖像あり
NDC分類
291.09
件名
日本-社会-歴史-大正時代 ≪再検索≫
件名
フィンランド-外国関係-アジア ≪再検索≫
書誌番号
3-0190249668
雑誌 宮沢賢治学会イーハトーブセンター編集委員会 編. 宮沢賢治学会イーハトーブセンター
返信削除記事・論文名
フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本--『注文の多い料理店』と『春と修羅』
著者名
佐藤泰平
巻号、ページ
p218~228
備考(その他の指定)
表紙 / 目次 / 奥付 / 文字、写真が不鮮明になることを了承
一225一
また、彼が紙片や書き込みの字をラムステットの筆跡だと鑑
定してくれたのも、さらなる好運といえる。その意味で第一
の証言者はハレン氏である。
四、もう一人の証言者
私が帰国してから1ヶ月後の十一月、日本フィンランド協会専務理事·早川治子氏が『日本フィンランド協会ニュース』
のバックナンバーを送って下さった。それで初めて知ったのだが、その『ニュース』の№ 24·25·26·28·29 (一九八九
年八月から~一九九一年一月)には、市河かよ子氏の随筆「ラムステッド博士のこと-フィンランドの思い出-」(随筆集
『白樺を焚く』岡倉書房,昭和十六年六月より)が五回にわたり連載されていたのである。
著者の市河氏は、元駐フィンランド公使·市河彦太郎の夫人で今年九一才。一九三二年から三年間、夫君と共にヘルシ
ンキに滞在中、以前から親交のあるラムステットとさらに深い交わりを続けられた方である。
その連載の第三回に、賢治の童話集淫文の多い料理店』がラムステットの愛読書であったことを書いておられたのに
は驚かされた。少し長い引用になるが、ぜひ紹介しておきたい。十月なかばの話で、博士が入院していると聞いた市河夫
妻がお見舞いに行かれたときのことである。
病室が清潔で、設備のゆきとどいているのに驚いた。浴室もついているし、電燈も、卓上スタンド、天井の電燈、
夜間用の暗い紫色の電燈もあって、ベッドについているスイッチで,病人が自由に、消したりつけたりできるように
なっていた。
博士は、そのスイッチをにぎって、あちこちの電燈を得意気につけたり消したりしながら、
ー-あんまり便利なので、つい勉強してしまいます」と,弱々しい声で言われた。
御病気中に、何を勉強していらっしゃるのですかと私たちが質問すると、
--え、日本語の勉強を少しばかり……」
と答えながら、枕の下から、小さな日本語の文法書をとり出した。そのはずみに、何か、もう一冊の本が、枕の下
から、床の上にすべり落ちた。私は、拾ってあげるつもりで、何気なく手にとると、それは、日本語の本であった。
--字引をいきながら、少しづつ読んでいます。とても、おもしろい本です」
私は、その本をひらいてみた、方言のたくさん使ってある本であった。私は、その本と、著者の名を、手帳にかき
とめておきたいとおもったが、あいにく手帳を忘れてきたので,手提のなかにはいっていた、電車の切符の裏へ、急
いで書きつけておいた。
ずっとあとになって、その切符の裏をみると、宮澤賢治。大正十五(ママ)年。注文の多い料理店。と書いてある。果して
「注文の多い料理店」というのが、その本の名前であったかどうか、私ははっきり思い出せなぃ。
(連載第三回より)
日本から遠く離れたフィンランドの病院で闘病生活を続けながら、無名の青年·宮沢賢治から贈られた童話集を病室に
持ち込み、熱心に読んでいるラムステットの姿が目に浮かぶ。真の文学作品はいかに人に作用するものであるかを、改めて
感じさせるエピソードではないだろうか。
おわりに
…
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1044332
白樺を焚く : 北欧日記
著者
市河かよ子 著
出版者
岡倉書房
出版年月日
昭和16
駐日フィンランド大使館 (@FinEmbTokyo)
返信削除2019/09/28 12:02
【ご招待】フィンランド人初の日本への特使、グスタフ・ヨン・ラムステッドの、モンゴル、日本への未知の旅を追ったフィンランド映画「東方の記憶」が全国8か所で上映。うち、10月31日(土)18時半、ユーロスペース東京の上映会に皆様をご招待!応募は10月1日昼12時より。詳細
japanfinland100.jp/event/ramstedt…
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