グリーンスパンの話といえば、曖昧で退屈なことで知られていた。もちろん、それはFRB議長という立場上しょうがないのだが、妻にプロポーズしたときも3回目でようやく意味が通じたというのは、有名なジョークだ(本書では「実は、あれは5回目だった」と明かしている)。そういう著者の回顧録がおもしろい本になることは期待できないが、本書では意外に率直に政権の裏側を明かしている。

本書は2つの部分にわかれており、邦訳の上下巻にそれぞれ対応している。上巻では若いころプロの楽団でサックスを吹いていた話や、エコノミストになってからはアイン・ランドとの交友関係から強い影響を受け、リバタリアンになったことなどが書かれている(リバタリアニズムを「自由意思論」と訳すのはおかしい)。もちろん重要なのは、FRB議長になってからの話だが、前任者ボルカーの路線を継承するというのが基本路線だったようで、あまり独自の方針は示していない。

有名な「根拠なき熱狂」のスピーチについても、彼の一貫した方針ではなく、ITバブルの過熱を防ぐ強い金融引き締め策はとらなかった。これについては、FRBの実体経済に与えうる影響は限定的なもので、バブルはどうやっても防げなかっただろう、と弁明している。笑えるのは、クリントン政権末期に巨額の財政黒字が出て、そのうち政府債務が消滅するというシミュレーションをFRBがやっていたことだ。そうなると国債もなくなるので、FRBの仕事もなくなるのではないか、などと真剣に心配していたらしい。

幸か不幸か、そういう心配は現ブッシュ政権によって打ち砕かれた。バブル崩壊と9・11でアメリカ経済が混乱し財政赤字がふくらんでいるとき、大減税の公約を強行するのは最悪の政策だ、と著者は強く抵抗したが、政治的打算を経済合理性より優先するブッシュ政権では、彼の警告に耳を貸す者はなかった。ホワイトハウスは史上最大の財政赤字を戦争のせいにするが、実際には戦費よりも減税や農業補助金の増額などのバラマキの影響のほうが大きい。不況が長期化したのは戦争のもたらした不安のためであり、イラク戦争は石油利権が目的だと評している。

原著が出版された段階(今年9月)では、サブプライムローン問題はすでに表面化していたが、これについてはごくわずかしかふれていない。ただブッシュ政権が政府系住宅供給機関の過剰融資を放置したことに懸念を示し、住宅バブルの責任は金融政策よりも住宅政策を人気取りに使った政治家にあると示唆している。18年も政権を見てきた彼が、他の大統領については是々非々の評価なのに、ブッシュ政権については全面否定に近い。

下巻は、財産権が経済成長の基礎だというリバタリアン的信念にもとづいて、各国の指導者や経済状況についてコメントしているが、こっちは「グリーンスパン節」だ。ロシアのプーチン大統領が「アイン・ランドについて語り合いたい」と言った話や、「グローバリゼーションの脅威」よりもSOX法のような過剰規制のほうが経済にはるかに有害だとか、知的財産権の過剰保護と不透明性が経済成長を阻害しているとか、地球温暖化ガスの排出権取引を統制経済として批判するなど、おもしろいエピソードはいろいろあるが、当ブログの読者には周知の議論が多いだろう。

全体として、上巻の回顧録はおもしろいが、下巻の経済分析の切れ味は今ひとつで、冗漫だ。もちろんこれは経済学の通説に近いという意味であって、啓蒙書としての意味はある。同じような本としては、『ルービン回顧録』のほうが生々しく政権の裏側を描いており、経済的な洞察も深い。