火曜日, 5月 21, 2019

消費税は引き上げられるか?――現代金融理論と「反緊縮」の経済学 / 中里透 / マクロ経済学・財政運営 | SYNODOS -シノドス-





財務省も警戒する「MMT」とは…?政策コンサルタントが徹底解説! tokyomxplus.jp/article/201905… #スマートニュース

珍しい好意的な紹介

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中里透

消費税は引き上げられるか?――現代金融理論と「反緊縮」の経済学 / 中里透 / マクロ経済学・財政運営 | SYNODOS -シノドス-


2019/5/21

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1.現代金融理論をめぐる誤解と理解

 

現代金融理論と「財政ファイナンス」

 

現代金融理論(以下、「MMT」という)については、「自国通貨建ての債務であれば、政府は財政赤字を気にすることなく自由に財政支出を行うことができるとする経済理論」というような紹介がしばしばなされる。これを文字通り捉えると、「政府は際限なく財政赤字を拡大させることができる」という理解になり、「そんなことをしたらハイパーインフレが起きる」という批判が起きるのは致し方ないことかもしれない。これはちょうど「財政ファイナンス」に対する批判、すなわち「(事実上の)日銀引受で財政資金を調達すると、財政規律が弛緩して制御不能なインフレが起こる」という話とよく似ている。

 

だが、このような見方はMMTの基本的な枠組みに対する誤解からくるものだ。MMTでは拡張的な財政運営によって物価の上昇が起こり得ることがきちんと認識されており、物価の高進に対しては、課税による需要の抑制を通じて調整がなされることとなっている(このような調整をうまく行うことができるかという点については後述する)。

 

このような誤解が生じるのは、MMTのもつ政治的なメッセージとしての側面と経済理論としての側面の区別がきちんとなされていないからだ。このことは安倍総理(当時は安倍自民党総裁)が2012年の衆院選の遊説先で、「輪転機を回してお札を刷れば」という表現を使って金融緩和の必要性を訴えたときの状況を想起するとわかりやすい。この発言は、日銀が無制限の資金供給を行うことを主張するものと受けとめられ、これを危険な発想と批判する向きもあったが、実際に行われた政策は、日本銀行が従来から実施してきた国債買い入れの規模の拡大であった。2013年4月に量的・質的金融緩和(いわゆる異次元緩和)が導入されたときには「ハイパーインフレが起きる」との指摘が少なからず見られたが、それから6年が経過した現在でも「2%」の物価安定目標は達成されていない。

 

 

現代金融理論と「裁量的財政政策」

 

このことを踏まえると、「お金(財源)がなければお札を刷ればいい」という米民主党左派の政治的なメッセージを額面通りに受けとめるのではなく、少し引いたところからMMTのマクロ経済学的な側面を冷静にながめてみることが必要ということになる。MMTは「お金とは何か」、「税は何のためにあるか」といった思索と、資金循環についての独特な枠組みを持つ経済思想という趣もあるが、財政運営にかかわるマクロ経済学的な側面については次のようにまとめることができる。

 

(1)政府は貨幣を発行することで財政資金を調達することができる。

(2)政府が課税を行う際の税率は、財政収支が均衡する水準ではなく、雇用の安定が確保される水準に設定することが適切である。

(3)財政赤字が生じていても、物価が高進するおそれがない局面では、政府は拡張的な財政運営を行う余地がある。

(4)物価の高進が懸念される局面では、課税による需要の抑制を通じて物価の調整がなされる。

 

すぐにわかるように、これは伝統的なケインズ経済学の枠組みをもとにした裁量的財政政策において想定されていることと基本的に変わらない。MMTでは一時的な景気対策としてではなく、特定の政策目的(雇用保障プログラム、グリーン・ニューディール、国民皆保険に基づく医療制度改革など)を実現するための継続的な財源確保の手段として国債発行(貨幣発行)を行うことが強調されるが、拡張的な財政運営がどこまで継続できるかは、物価の変動による制約を受けることになる。この点を踏まえると、両者の違いは意図と程度の問題ということになるだろう。

 

貨幣発行による財源調達という側面がMMTの大きな特徴といえるかとなると、これも割り引いてみるほうがよさそうだ。標準的なマクロ経済学の枠組みにおいても、「政府が財源調達のために国債を発行して、その国債を中央銀行が買入れる」という操作をすることで実質的に貨幣発行による財源調達と行じことができるから、MMTにおいて特に独自の枠組みが示されているというわけではない。


現代金融理論と「反ケインズ主義」の経済学

 

このように、MMTが示唆する財政運営の枠組みと、ケインズ経学的な枠組みに基づく裁量的財政政策には共通する面があるが、これは偶然の一致ではない。というのは、MMTのマクロ経済学的な側面が、アバ・ラーナーの機能的財政論を源流に持つものだからだ。

 

この点を踏まえると、MMTに対する典型的な批判のいくつかは、1970年代から80年代にかけて、ケインズ経済学的な経済政策(総需要管理政策)に対して向けられたものと同じ性格をもつものということができる。「課税で物価をコントロールするといっても、実際の政策の運営にはラグの問題があるのでうまくいかない」というのは「総需要管理政策によるファイン・チューニング(微調整)は困難」という話と相通じるものがあるし、「財政支出を拡大させると歯止めがきかなくなる」というのは公共選択論の枠組みのもとで論じられた財政赤字の問題点と共通するものだ。

 

もちろん、現実の政府の能力や政府をとりまく政治的環境などの制約を踏まえると、これらの問題点については実際の政策運営において十分に留意しなくてはならない事項ということになる。MMTにおいて想定されている政策が実行可能であるかについては、この点から十分な精査が必要となる。

 

 

2.緊縮的な財政運営の見直しに関する議論の広がり

 

このように、政府と中央銀行はさまざまな制約のもとで政策運営を行っており、適時適切な政策を実行できる保証はない。それでも財政政策と金融政策には経済安定化のための政策手段として大きな役割が期待されてきた。こうした中、近年では財政政策の役割を重視する見方が強まっている。

 

2013年秋に開かれたIMFの会合でハーバード大学のローレンス・サマーズ教授(元米財務長官)が提起した「長期停滞論」では、2007-08年の金融危機以降、経済が緩慢な動きとなるもとで慢性的な需要不足(貯蓄超過)が生じているとされ、長期停滞から脱するための措置として財政支出の拡大という対応策が提示された。

 

また、ピーターソン国際経済研究所のオリビエ・ブランシャール上級研究員(元IMFチーフエコノスト)は今年1月の米国経済学会の会合で、低金利が継続する現在のような状況のもとでは、従来考えられていたよりも拡張的な財政政策を行う余地があるとして緊縮的な財政運営の再考を促している(Blanchard(2019))。

 

財政政策の積極的な活用を求めるこのような動きの背景には、経済成長が減速するもとで、世界的に低金利が常態となっているという経済環境の変化がある。このような低金利の持続は、政策金利を引き下げることで金融緩和を行うという伝統的な金融政策の余地を大きく狭めるものであり、景気の悪化に対する政策対応という観点からも深刻な問題を引き起こしている。低金利(ゼロ金利制約)に直面するもとで、金融政策の面からこの制約を解除しようとして実施された取り組みがマイナス金利政策であるが、マイナス金利政策についてはむしろ経済活動にマイナスの影響を与える可能性が指摘されている(Eggertsson et al(2019))。

 

ゼロ金利制約のもとでの財政政策と金融政策に関して思い出されるのは、ちょうど2年前に「シムズ理論」、「シムズ論文」として話題になったクリストファー・シムズ教授(プリンストン大学)の提案だ。シムズ教授は「物価水準の財政理論」の枠組みをもとに、貨幣と国債がほぼ完全代替になっている現在の状況のもとでは、金融政策における量的緩和が十分な効果を持ち得ないこと、このような状況のもとでは財政政策が物価を調整するうえで重要な役割を果たすことを指摘している(日本については、2%の物価安定目標との整合性が確保されるよう、消費税率引き上げのタイミングについて慎重な対応を求めている)。

 

また、20年ほど前に、明確なインフレ目標を掲げて金融緩和を行えば、日本経済は「流動性のわな」から脱却できるとの提案(Krugman(1998))を行ったポール・クルーグマン・マサチューセッツ工科大学教授(当時・現ニューヨーク市立大学教授)は、その後の日本における大規模な金融緩和の経験を踏まえ、金融緩和のみでデフレ脱却を実現するのは困難であること、金融政策と併せて財政政策の活用が必要となることを指摘している(日本については、2014年の消費増税がデフレ脱却の足かせになったとして、消費増税は2%の物価安定の達成を待って行うべきとしている)。

 

これらの見解はいずれも「正統派」とされる経済分析の専門家からの提案であり、緊縮的な財政運営の見直しを求める動きは、MMTにとどまらず、より広範な広がりをもつものとなっている。MMTは「異端の経済学」とされるが、それにもかかわらず強い関心がもたれている背景には、「反緊縮」の動きが社会的に見て必ずしも異端とはいえない場所に位置しているということがあるのだろう。【次ページにつづく】