金曜日, 7月 05, 2019

カレツキーは 「経済学とは、常にフローとストックを混同する学問のことだ」 といった、とジョーン・ロビンソンが書いている、と Godley&Lavoie は引用し ている




カレツキーは
「経済学とは、常にフローとストックを混同する学問のことだ」
といった、とジョーン・ロビンソンが書いている、と
Godley&Lavoie は引用している(


301 金持ち名無しさん、貧乏名無しさん (ワッチョイ 1322-U+2n)[] 2019/07/06(土) 06:15:59.99  ID:UVGaeq2d0 
『民間の貯金』ではなく
『非政府部門から政府部門への貸し付け金』と表現すると(この2つは同じ意味)
理解しやすくなるかも
政府部門の借金を減らすと、非政府部門の貸し付け金はものすごく当たり前のことだけど減る

「自国通貨建ての」国債の利払いや償還をするときに渡すのは必ず自国通貨(日本の場合は円)
不兌換貨幣の場合、自国通貨は政府部門が自由に発行できるわけだから
好きなだけ刷って国債の持ち手に渡せばそれで終わり
国債の利払いや償還が滞ることは原理的にあり得ない

ただし勿論のこと「好きなだけ刷っ」た場合に悪影響が一切ないと言っているわけではない

ツイッターでいただいたコメントに対するコメント

15/10/18 21:12

ツイッターで、主流派経済学には複式簿記を学習してほしい、
という手前味噌的指摘をしたところ、
それなりの立場のある先生から、
すべてのマクロモデルは会計的恒等関係を満たしている、との
コメントをいただいた。
読んでいただけるかどうか、わからないけれど、
この件について、ひとことふたこと。

マクロ的な恒等関係というのは、おいらの理解では
典型的にはY=C+Iに代表されるような
マクロ方程式のことを指しているのではないか、と思う。
このマクロ方程式が国民経済計算を抽象化したものであり、
そして国民経済計算というものが複式簿記の原則に従って
集計されている、ということを指して
あらゆるマクロモデルは、複式簿記の原理を満たしている、
とおっしゃったのではないか、
というのが、おいらの認識である。

だから、このおいらの認識自体に大きな過誤があれば
済みません、勉強しなおさせてください、という話になって
それで終わりなのだが、
取りあえず、そんな大きな過誤がない、と仮定させてもらうことにしましょう。

さて、この場合、問題点がいくつもあるが
少なくとも、国民経済計算が「複式簿記の原理に基づいて」作成されている、
ということは、マクロ経済モデルが複式簿記の論理に従って構築されている、
ということとは、全く意味が違うことを指摘しておきたい。この点が
もっとも本質的な問題なんだけれど、
それについては、実際、モデルを展開して実例を示したほうがいいでしょう。
でも、今回はそこまで手を広げることはできない。いずれ、ストック=フロー・コンシステント
アプローチ、あるいは、コヘラント・ストック=フロー・モデル、あるはい単純に
ストック=フロー・アプローチ、まあ、呼び方は何でもいいけれど、
Wynne Godley & Marc Lavoie のモデルでも扱うときに(ずっと前から
やるやるって言っているだけで、全然やらないじゃないか!って言うな)
やらせていただきます。したがって、今回のブログは全体として
「主流派経済学には複式簿記の観点から、こんな問題がある」と指摘するにとどまり、
「複式簿記をモデルに組み込むことで、こんなメリットがある」という点は
書かないことにします。というわけで、やや消極的な話であり、
積極的な話にはなりません。
と、いうわけで、今回は、入門レベルのマクロ経済学の標準的な教科書を複式簿記の観点から読むと
どんなおかしな問題があるか、最も顕著な問題だけを(顕著、ということは
本質的とは限らないが)ピックアップします。と、いっても、過去にさんざん書いた
(今でもあっちこっちで書いている)「信用創造プロセス」の話は、今日はやめておきます。
あんまり同じことばっかり書いてもしょうがないから。

で、
まず、Y = C + I = C + S
ということは、これは一体何を意味しているのでしょうか。
もしも、C + I = C + S
が、複式簿記をベースにした会計的恒等関係であるなら、
ここから一瞬でも外れることは、ありえないはずです。
なぜなら、ここから一瞬でも外れる、ということは
記帳間違いがあったか、複式簿記形式では記帳できないような何事かが
起こったか(企業会計実務においては、常にイレギュラーなことが発生することが
予想されており、それに対する対応もある程度、決まってしまっているのだが、
そうしたことによっては解決できない何事か)が、起こっている、
ということです。
経済は常にIS線上にあるのであって、それは均衡していようと均衡していまいと関係ない。
もしもそこから外れている、としたら
会計上、つまり、ある人がある人に財・サービスを提供し、その対価を受け取っている、
という関係によっては説明のつかないドラえもん的な何かが起こったことを意味する。
しかるに、我々は、しばしば、IS先から乖離したYr点に「経済がある」状態を
説明されます。。。。
これはこの段階で、奇跡というかファンタジーです。そして、そのようなYr面上の状態から
均衡点へと戻ることが想定されている。。。一体全体、
そのような異常事態の中で、何が起これば、「均衡点」なるものに回復することがあり得るのでしょうか。
こうした問題を設定して、しれっとしていられる、ということ自体が
すでに複式簿記がなんであるかを理解していないこの上ない証拠でしょう。

しかし、それは大したことではない。「貨幣」が登場するとなると
もはや会計実務に携わったことのある人間にとっては
頭痛以外のものを感じることはできません。

カレツキーは
「経済学とは、常にフローとストックを混同する学問のことだ」
といった、とジョーン・ロビンソンが書いている、と
Godley&Lavoie は引用している(いつもながらのひ孫引きカコワルイ)。
実際、LM曲線にせよ、それ以外の何とかルールにせよ、
会計実務に携わる人間からしたら、概念の混乱以外、何ものでもない話です。

M = L (Y, r, P)

あるいは、M/Pだってなんだっていいですが、いずれにしても
これは一体、何を意味しているのでしょうか。
Yというのは、「年間の付加価値の合計」です。つまり、一定期間のフローの合計です。
それに対し、LまたはMというのは、ストック変数、つまりある一瞬の、
瞬間的に存在している貨幣の残高です。そしてrもまた、その時々に決まる
瞬間的な値です。さて、そうすると、この式は一体全体、何を意味しているのでしょうか。
会計を学習している人間であれば、ストック変数は、まあ、実際には
取引が行われる都度、フローに対応して変化していることは分かっていますけれど、
しかし変化があったらその都度全体を集計しなおす、などということは
とてもできる話ではない。だから、「期首」と「期末」の値だけをとる。
そして「期首」の残高を出発点として「期中」にフローの動きがあれば、
それに対応して「期末」の残高が結果として決まる、そう考えるわけです。
つまり、もしもYを「年間」のフローの合計と考えるのであれば、
Mは、Mではなく⊿Mつまり、同じ期間中の「Mの変化」でなければならない。
勿論、期首のMが決まっていれば、期末のMの値も決まります。
(ただしその場合、期末のMの値はYやrの値より、期首のMの値に
大きく依存することになってしまい、この式にはほとんど何の意味も
ないことになってしまうでしょうが。)
そして、期首と期末のMの値が決まれば、足して2で割ることで、平均の
Mもわかる。しかし、いずれにせよ、これは日本の財政会計年度をベースにするなら
毎年3/31の夜中の24時の残高に、翌年の3/31の夜中の24時の数字を加えて
それを2で割ったものです。はっきり言えば、
これらは、ただ年間を通じて行われた取引の結果を示す数字であって、
取引が行われている間、実際に必要とされた数字とは何の関係もないのです。
財務管理理論や管理会計の演習問題でしばしばあるパターンですが、
利益は十分上がるし、期首や期末の現金残高も十分なのに
期中に資金が途絶えて、資金繰り倒産に至るケースがあります。
要するに、期首・期末の残高がいくらあるかによっては
期中に必要とされる現金資産の額も実際に
取引のためにいくらのMが使われたかも、知ることはできないのです。
それとも、期首と期末においてはMの残高は
ゼロである、とでも仮定されているのでしょうか。そして、
取引に際して、必要な資金が金融部門から供給され、そして
その年のうちにすべて回収される。Mというのは、こうして発行される金額のことを
指しているのだ、と。
それなら、
理解できないこともないが、あまりにも非現実的すぎるし、
それならそれで、モデルの仮定として明確に記されるべきでしょうが、
そのような過程が置かれていると明示されているものを見たことはありません。


いずれにせよ、Yを「年間」の値だと考える限り、Mは⊿Mにならざるを得ないことは
お分かりいただけると思います。Mは、どの瞬間をとってもいいのですが
瞬間の値でしかありえず、年間に必要とされるMの額を合計したところで
何の意味もないのです。預金通帳の「入金」項目の年間の合計額は
年間の現金収入の合計額を指します。「出金」項目を合計すれば
現金支出の合計額がわかります。これらはいずれもフローです。
しかし、毎日入出金がある中で、毎日、取引終了時点における残高が決まるわけですが、
この残高を合計したところで(平均を求める、というような場合の途中計算を除けば)、
何の意味もないのです。一体全体、このMというものは何を
意味しているのでしょうか。

私見ですけれど、このM=L(Y,r,P)という等式の中には「Mは一定期間変化しない」という
根強い偏見があり、それが反映されているのではないか、とおいらは思っています。
実際にはMは、統計上、貨幣ストックから差引されている割引も含めて、
常に変動しています。とりわけ、景気がよくなるときには当座貸し越しなども利用され、
日々のレベルで貨幣の残高が変動しなければ、現代のビジネスを支えることなど
できません。複式簿記的思考が必要だ、というのは、こうした変動を含めて考えるためです。
つまり、C + I = C + S というモデルが一方で(複式簿記に原則に従って)構築され、
それが別に、貨幣市場というところで決まったMと組み合わされている、というのでは
全く複式簿記的思考ではない、ということになります。Mは、Yと、その取引の中で
結びつくのであって、IS曲線は複式簿記ですが、Mは、その外部から
なんとか簿記(何かわかりませんが)によってくっつけられる、というような
性格のものではないのです。

入門レベルの企業会計簿記を学習すれば
貨幣と企業活動がどのように結びつくかを理解する手掛かりが得られるでしょう。
そして、貨幣の残高が年間を通じて一定ということは無い、ということも、
理解されると思います。そして、MとYを同じ方程式の中で無媒介に併記することも
きわめて非論理的だ、ということもです。さらに
複式簿記の思考を負えば、Mが増える、または減る、ということは
それに対応して、単に企業が負債を増やすばかりでなく、銀行部門が
負債を増やすことでもある、ということが理解されると思います。
これは、マクロ経済学とは違うかもしれませんが、
「安定性」の理論でも問題になるのではないでしょうか。
経済にショックがあり、経済が均衡点からかい離したとき
その経済が、均衡点に収束するか、それとも発散するのか。
経済実務の観点から言えば、それは、需要や供給の動きももちろん重要ですけれど、
場合によってはそれ以上に重要なのが債務残高の動きです。
経済が均衡点から外れた時、一部でも
債務不履行が発生するのかしないのか(これは、ケインズの言う「安全性の余地」が
問題になる点です)、発生した場合、それが債権者側の財務によって吸収されるのか
それとも、次に債務不履行を発生させることになるのか。
債務不履行が発生したとき、需要曲線・供給曲線には影響はないのか、
影響があるとすれば、両曲線はどのようにシフトするのか。。。そうしたことを
考慮しない経済の「安定性」なるものに、どのような実務的な意味を見出せばよいのか、
正直、理解できません。が、これはマクロ経済学の話ではないですね。
話を、入門マクロ経済学に戻しましょう。

ここまでMの話をしてきましたが
さらに奇怪なのはrです。
これは一体全体、何でしょう。年間のrの平均値?
年間を通じてrが一定の値であればYも決まる、ということでしょうか。
実際、「Y-r平面」とは、何を指しているのでしょう。横軸は
年間の付加価値の合計です。縦軸は、ある瞬間に決まり、次の瞬間には
変化するものです。もちろん名目金利自体はすべての市場、契約において決まっています。
様々なリスクやプレミアムを加除すれば、裁定の結果すべて同じ金利になっているはずだ、
という人もいますけれど、まあ、その辺の話は飛ばすとして、
それと同じ理屈で、4月1日の金利も、6月15日の金利も、9月28日の金利もすべて
一括に括ることができる、ということでしょうか――ここには、経済学者の先生方が
大好きな「厳密性」のかけらも感じることはできません。いったい
Y-r平面における均衡といった言葉で、何をイメージしたらいいのでしょう。

逆に、Mやrを瞬間的に決まるストック変数だ、と考えるとして、
Yを、それ自体は実はYドット(Yの上に黒点)を年換算したものなのだ、
と考えることなら、可能でしょうか。ところがそうすると
CもIもGもそれぞれ、頭の上にドットが付くはずです。ところが、
そうなると、もう最初の出発点が話にならない。つまり
そもそもの会計恒等式は、瞬間瞬間の各取引ではなく
年間あるいは少なくとも一定期間の付加価値を合計したものと
定義されていたわけですが、それが違ったことになってしまう。
最初っから、ちゃぶ台返しになってしまう。
さらに加えると、あらゆる取引の決済に貨幣が出てくるわけではありません。
売掛金と買掛金を相殺するケースや、相互に支払/受取手形を
相殺するケースや手形の多角決裁などいろいろなケースがあり得ます。
そんな中で、すべての取引から計算によって導出できるような
MやrとY(ドット付)の関係などありえないでしょう。

さらに複式簿記のモデルとはかみ合わないのがPの存在です。
このモデルでは、数値表記上、Pとは別の何かによって表記された
YやI、C、G、、、、が存在していることになる。
おそらくYは、基準となるある年の物価水準かそれに類するもの
によって表記されているのでしょう。Pというのは、つまり
どちらかというと物価の変化または変化率を示すもの、と考えたほうが
よさそうです。しかしいずれにせよ、このモデルがもしも
複式簿記的な思考によって支えられている、とすれば、
その複式簿記では、金額は、価格ではなく、あるいは現在の価格ではなく、
何か、過去の特別な参照対象によって記載されることになる――
IFRSでも「ハイパーインフレーションにおける財務諸表」難しいテーマの一つですが
しかし、実際に行われている取引とは別の価格で仕訳をする、
というほど大胆な方法は提案すらされていません。なぜなら
不可能だからです。(ちなみに、取引されるものが毎年同じなら
取引のつど、すべての価格を洗い替えし、その都度、評価損益を
計上することで、理論的には仕訳自体は可能でしょうが、実務的には
とてもあり得ない話です。)
過去の、あるいは現にありもしない価格で取引を記載することによって、
どのような問題が生じるかについては、議論する必要はないでしょう。
これに対し、複式簿記をベースにモデルを構築すれば、
仮にMV=PTといった単純な関係が経済に成立している、として
(そりゃ、事後的には常に成立しているんですけれど)、
最初に、銀行部門がMを増やした結果、誰がそれを取得し、
誰がそれを支出し、どのようにそれが拡散し物価と所得分配に影響が及ぶかが
明示的に理解できるわけです。
なお、また話がずれてしまいますけれど、
この件に関しては、おいらは非常に経済学者の方たちに不満がある。。。。といっても、
主流派か否かに関わらず、まともな経済学者で
そんなことを言っている人はいない、と言われてしまったら、おいらの勉強不足なんですが、
お詫びしますけれど、でも、何を言いたいかはご理解いただけると思うので
あえて書いてしまいますと、

「インフレには、実質賃金と実質金利を引き下げる効果があり、経済全体を
活性化する」という主張です。この事実の妥当性について
ここであれこれ言うのはやめます。問題にしたいのは、言葉使いです。
「インフレ」というのは持続的な物価上昇のことと定義される。
しかるに、実質賃金の低下や実質近隣の下落は、明らかに
相対価格比の問題です。要するに、相対価格比、そして分配問題を
物価の問題にすり替える効果が、意図するとせざるをに関わらず、
行われているわけです。しかし、
複式簿記をベースにする動学モデル――これは、均衡点あるいは不均衡点の
時間的推移を負う、というものとは全く違います――によって
こうした「ごまかし」を回避することができる、と考えます。(あるいは 
「インフレ」と「インフレ政策」は違う、とでもいうのでしょうか。
それもごまかしだと思いますけれど。)
まともな経済学者に、そんなことを言っている人はいないよ、と回答いただければ
一番うれしいのですが。。。

と、いうわけで、
おいらが「経済学者は、基礎レベルの簿記を学習するべきだ」と主張していることの
理由の一部(むしろ消極的な)を説明いたしました。これらはことの一端にすぎませんが、
実際に問題になっているのは、お分かりと思いますけれど、
経済学の比較静学的方法、あるいは、動学という名の比較静学のパラパラマンガのようなものは
複式簿記とはどうしても整合しない、という点です。
なぜなら現在の企業の取引ではフローが変化するときには
ほぼすべてのケースで、ストックも変化するからです。

大変失礼な言い方になってしまいますが、
「すべてのマクロモデルには、会計恒等式が組み込まれている」という言葉自体、
「複式簿記」というものを理解されていない証拠であるように思われてなりません。
おいらの考えに問題があれば(当然、あるはずですが)、ぜひ
お時間のある時にでも、ご指摘いただければ幸甚です。

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