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第一三章 機械と大工業
第一節 機械の発達
(注89)
…技術学は、自然にたいする人間の能動的態度を、彼の生活の・したがって彼の社会的生活諸関係およびそれからわきだす精神的諸表象の・直接的生産過程を、あらわにする。およそ宗教史でも、この物質的基礎を捨象したものは、──無批判的である。事実上、分析によって宗教的幻像の地上的核心を見いだすことは、その逆に、その時々の現実的生活諸関係からその天上的諸形態を展開することよりも、はるかに容易である。後者は、唯一の唯物論的な、したがって科学的な方法である。歴史的過程を排除する抽象的・自然科学的な唯物論の欠陥は、その代弁者たちが彼らの専門からとび出すや否や、彼らの抽象的で観念論的な諸表象からも看取される。
河出
第一三章 機械装置と大工業
第一節 機械装置の発達
(八九)
すでに彼[ジョン・ワイアット]より前に、非常に不完全なものではあったが、剪紡機が、おそらく最初はイタリアで、使用された。批判的な技術史があれば、一八世紀のいかなる発明も、一個人に属することのいかに少ないかを、一様に証明するであろう。このような著作はまだ存在しない。ダーウィンは、自然的技術の歴史に、すなわち、動植物の生活のための生産用具としての動植物器官の形成に、関心を向けさせた。社会的人間の生産的器官の形成史も、同じ注意に値するのではないか? しかも、それはより容易に提供されるものではないか? ヴィコも言っているように、人類史が自然史と区別されるのは、前者はわれわれが作ったのであり、後者はそうではない、ということによるのだからである。技術学は、自然にたいする人間の能動的な態度を、彼の生活の直接的生産過程を、それとともに、また彼の社会的生活諸関係およびそれから生ずる精神的諸表象の直接的生産過程を明らかにする。宗教史といえども、この物質的基礎から抽象されたものは批判的とはいえない。実際に、分析によって、宗教的幻像の地上的核心を見出すことは、その逆に、その時々の現実的生活諸関係から、その天上化された諸形態を展開することよりも、はるかに容易である。後者が、唯一の唯物論的な、したがってまた、科学的な方法である。歴史的過程を排除する抽象的自然科学的唯物論の欠陥は、その主唱者たちが、自己の専門外に出たときに示す、抽象的で観念論的な諸観念からも、すでに看取される。
岩波文庫
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