◇畠山ゼミ 卒業生共同研究◇
PFLP(パレスチナ解放人民戦線)は、この襲撃は同じリッダ空港で同年5月8日パレスチナ人ゲリラ(黒い9月のメンバー)2人がイスラエル軍に殺害された事への報復措置であると発表した。当時このニュースを聞いた日本人そして世界の人々は「パレスチナ人のイスラエルに対する報復措置を何故日本人が実行したのだろう。」と思ったことであろう。彼らは、学生運動から発した1セクト赤軍派のメンバーであった。赤軍派でアラブにわたって活動を続ける人々は“日本赤軍”と名乗っていた。パレスチナ問題と日本赤軍の関係を考える上でリッダ事件は欠かすことの出来ない大きなファクターである。なぜならば、この事件後、実行犯3人はアラブの英雄として祭り上げられ、日本赤軍もまた、アラブ人の友としてその存在価値を組織内で確かなものとしたからである。彼等は何故活動の拠点を日本国内ではなく海外に求め、そして何故パレスチナ人の報復措置のため命を賭けたテロ行為に出たのだろうか。彼等の日本出国からリッダ事件に到る経緯を検証することによりパレスチナ問題と日本赤軍の関係を考えてみたい。
【国内活動の非必然性と日本出国の必要性】
1969年夏、ブントから独立して赤軍派が誕生した。彼等は、武力闘争の推進と世界同時革命論を主張した。“赤軍派として外に出てくる契機となった理論からいうと、世界同時革命論。単純化して言うと、世界はロシア革命以来革命的高揚を経て、帝国主義だけでなく、「労働者国家」群の官僚主義が二重の意味で今革命を押し止めている。それを突破していく為にもう一度新しいインターナショナルを形成しながら、「武装プロレタリアート」の結束によって世界同時革命の契機を作ろう。
世界には帝国主義本国、労働者国家、第三世界の三ブロックに分かれていて、それぞれで闘う人たちが結合して新しい革命戦争の時代を切り開いていくという考え方。”つまり、彼等は武力によって自分達の主張の実現を目指していたのである。そして、それは日本国内で完成しなければならないというものではなく、むしろ世界規模での団結を理想としていたのである。その意味で彼らが日本に拠点を置かなければならないという必然性はなかったのである。
しかし、彼等が海外に拠点を求めたのは、彼等の主張に裏づけされた国内根拠地の非必然性よりもむしろ、組織内部の問題や社会環境の中で日本では活動が十分に存続出来ないと判断したからではないだろうか。1969年9月に結成した赤軍派は、2ヵ月後の11月最初の軍事訓練、大菩薩峠事件により50名が逮捕される。そして翌70年3月に赤軍派9人によるよど号ハイジャック事件が発生、警察の弾圧は激しさを増す。そのような中で重信房子を中心とするグループはレバノンに新たな拠点建設を計画していた。彼女のグループは初代リーダー塩見孝也が逮捕された後赤軍派を率いることとなった森恒夫と馬が合わなかった。組織内部の事情からしても、警察の厳しい弾圧という環境からしても、彼等には日本を出、海外で活動するという選択肢が最良の解決策と考えたとしても何の不思議もない。まして彼等には自分達の行動を裏付ける思想を持っていたのであるのだから。
【リッダ事件】
日本赤軍のメンバーは何故レバノンに渡ったのであろうか。思想的、環境的背景は前章で述べたとおりであるが、彼等の世界同時革命論を実践するのはレバノンでなければならなかったという理由は見当たらない。当時の世界情勢、そして彼等が“ベトナム反戦”を国内活動の中で唱えていた事を考えれば戦争下のベトナムへという選択肢がまず浮かぶ、しかし彼等はレバノンへ渡った。
“そこではすでに数名の日本人が、パレスチナ難民の救済活動を行っていたし、他の国々の若いラディカルたちも、PLOから軍事訓練を受けていた。また、日本にもPLOとの連絡体制ができていた。赤軍派は、PLOの一機構であるPFLPと手を結んでいたが、PFLPもまた、対イスラエル軍事行動への志願者の訓練に加えて、ハイジャックのような華々しい闘争に興味を示していた。
PLO(パレスチナ解放機構)の左派PFLPと既にパイプがあった事、当時レバノンに他国からの人々が入っていた事などが、彼等の海外拠点作りを容易にさせたのであろう。
彼らが日本を離れた事により赤軍派は3つに分裂した。レバノンに渡ったメンバーによる“日本赤軍”、よど号ハイジャックにより北朝鮮に渡った“北鮮赤軍”、そして国内に残った赤軍派と日本共産党革命左派の連合により成立した“連合赤軍”である。1971年3月、重信、奥平はレバノンへ向かい日本を出国する。その後少しずつメンバーがレバノンへ向かって行った。
二人が日本を去った翌年72年2月、赤軍派の名前が再び世間を震撼させた。国内で活動を続けていた連合赤軍による“あさま山荘事件”の発生と逮捕後に明らかになった組織内の粛清=大量リンチ殺害の実態である。このニュースをレバノンで聞いた日本赤軍のメンバーはかなりの動揺を示している。殺害されたメンバーに旧知の者がいたからである。
そして彼等は翌3月に“さらば連合赤軍の同志諸君”と題した声明を発表し、国内赤軍派(連合赤軍)との組織としての決別を発表している。これは、旧知のメンバーに対する怒りのみならず、彼等の組織の信用にかかわる問題だったのである。それは、重信が声明の中で“もっとも革命的で、もっともわれわれの友人であった人々ほど、失望と憎悪が強いことを知っていますか。連合赤軍の同志諸君、パレスチナのたたかう友人たちが、悲しみと抗議をこめて「敵はだれか!友だちはだれか!」と問うていることを告げねばなりません。”と記していることからも明らかである。
連合赤軍の起した事件により彼等はパレスチナ人からの信頼を失いかけ、国内支援者からの援助も激減し焦っていた。“赤軍派レバノン支部は、パレスチナ人の目から見ると、すっかり権威を失墜したかのようだった。血に飢えた、浅はかで無謀なグループと思われたからである。連合赤軍のしでかした事件のために前衛的革命組織というまじめな受け止め方はされなくなってしまった。” “経済面においても、またパレスチナ人の感情問題においても、その解決策は一つだった。名誉挽回のためには、赤軍派の伝統にのっとった果敢な戦いを行って、彼らが依然として顕在であることを示せばよかったのである。”リッダ事件は日本赤軍の海外拠点を守るための賭けであったのだ。
ただ一人生き残った岡本公三の逮捕後、そして後の釈放後のインタビューを読む限り彼が武装闘争に異常とも思えるほどの憧れを抱き心酔しきっていた事も事実である。しかし、実行犯3人の中で一番下端であり、レバノン入りもPFLPでの軍事訓練においても一足遅れて受けたという存在であった。つまり、ただ命令に従い革命により死ぬということに一種の美意識を感じていたといって良いであろう。しかし、一コマンドであった彼もまた、1975年週刊新潮の記事の中で「もし連合赤軍事件がなかったら、テルアビブ空港襲撃もなかったろう」と語っているのである。重信もその著書の中でリッダ事件計画段階でのPFLPと日本赤軍との意見の相違について触れ、その原因をこう分析している。“自爆の必要性を主張する日本赤軍と自爆の必要性はない、奪還闘争を待てという相違でした。
日本赤軍の主張は、「連赤」という国内の誤りをのりこえることに、感情的にも、主観が制約されていたと思います。”彼等の捨身の行為が事件後一時的にしてもアラブの人々に感動を与えた事実を考えると、彼らが彼等の組織を第一に考えて身を投じた事は何とも皮肉な現実である。
【結論】
リッダ事件後3人の兵士はアラブの英雄となり、日本赤軍もアラブの友と評され海外拠点が確固たるものとなったかに思われた。“アラブの大義”のために戦い命を賭してくれた外国人として当初はパレスチナ人のみならずアラブ人からも賞賛を浴びたがPFLPを中心とするハイジャック等のゲリラ行為は国際社会から批判を浴びていく。“パレスチナ人とその同調者によるゲリラ的テロ行為が世界中を舞台にくりひろげられた。襲撃はまさに神出鬼没で全世界を震撼させるのに十分であった。
この一連のパレスチナ・ゲリラの戦術については、当然、これを非とする囂々たる非難がまきおこったが、反面、パレスチナ人をそこまでおいつめた国際社会のほうによりおもい責任があるとする共感論も、第三世界では強かった。実際問題として、パレスチナ人のこの「おそろしい」行動がなければ、世界はパレスチナ問題について真剣にかんがえることをいつまでもひきのばしていたにちがいない。”国際社会にパレスチナ問題を意識させるというパレスチナ問題の国際化という点では彼等の行動は成功したのかもしれない。
しかし、無差別のテロ行為はPLOそしてパレスチナ人の国際的評価を貶め、イスラエルの格好の宣伝材料となってしまうのである。国際社会が真剣に中東和平を考え始め、模索していく中で、アラブの国々も一枚岩では行かなくなる。その上、彼らが行動を共にしていたPFLPはPLO内の過激左派であり、あくまで少数派であった。和平交渉が進む中でPLO内でのPFLPの立場も弱くなり、赤軍派のメンバーはより微妙な立場に立たされたのである。言い換えれば、国際的にテロ集団として名を馳せた日本赤軍派は和平交渉を進める段階に到っては、PLOにとっては厄介な存在となっていたのである。
しかし、これは当然の結果なのである。なぜなら、パレスチナ人と日本赤軍派は戦う目的もその理想も異なっているのであるからである。パレスチナ人にとって、過激派PFLP にとっても戦いは自分達の土地=国家の奪還であり、生活のための戦いである。それに対し、赤軍派のメンバーは現状を帝国主義によるものと捉え反帝、プロレタリア革命の世界的規模の実現という彼等の理想の実現にために戦っていたのである。重信は、レバノンへ渡った当初、日本で抱いていたパレスチナ闘争と現実とのギャップに愕然としてこう記している。
“当時、日本の中からパレスチナ革命、国際遊撃戦をみている時、ゲリラ組織に対する武装闘争に対する少なからぬ神秘主義がありました。比較的職業革命家の規律が貫かれ、党的にもビシッとして常に政治理論的ケジメがあり等々。(中略)ところが、私たちの接した比較的“党的な”M・L主義に依拠したPFLPにしても、どちらかといえば、どこにでもいる生活者のおじさんおばさんが主体であり、赤軍派の「武装プロ論」コミンテルン批判はフンフンとききながし、「そいで今どうするの?」という所に力と関心角度が集中するのでした。”日本で描いた机上の空論を実現させる場としてやって来たレバノンは彼らにはもっと生臭い生活臭のプンプンした場所であったのだ。
PFLPが国家奪還のための一手段(彼らにとってはイスラエルに対する戦争行為)としてテロ行為を行ったのに対し、赤軍派にとってはテロ行為そのものが革命行動の一環であり、革命こそが彼等の目指すものなのである。その意味でもし、パレスチナがイスラエルを破り退け全面的に勝利するような場面が起きていたとしても、日本赤軍にとってはそれが目指すゴールではないのである。パレスチナ国家が樹立されたとしても赤軍派が目指すプロレタリア国家たるものになるとは限らないからである。さらに言うならば、彼等の最終目標は何なのか、彼等の出版物からは理解することが出来なかった。“反帝国主義打倒によるプロレタリア国家の樹立”等々あるが、それが具体的にどのようなものかは言及されていない。彼等は戦いのために戦っているように思えるのである。
パレスチナ人にとって日本赤軍派は当時パレスチナを支援していた他の外国の若者同様一ボランティア団体でしかないのである。彼等には“パレスチナ国家樹立”という確固たる目標があり、その手段は武力でなければならないという事はない。一方、日本赤軍派は、戦える場を求めていたのである。自ら描いた日本では実現不可能と思われる武力闘争を実現できる場所を、である。そして当時のPFLPはそれを歓迎していたのである。しかし、目標も理想も違う人々が共存するのは困難であり、和平というプロセスが進む中で赤軍派はアラブでの拠点を追われて行くのである。
パレスチナと日本赤軍派の関係は需要と供給が上手く釣り合った極々限られた場面にのみ共存しえた多分に不安定な関係だったのである。そして、昨年の重信逮捕の報に接し改めて気づかされる事は、赤軍派が去ってもパレスチナ人に大した影響も与えることはないが、アラブから追われた日本赤軍派はその活動拠点をそして彼等の生き場所を失ったのである。
-参考文献-
『日本赤軍20年の軌跡』 日本赤軍 話の特集 1993年
『日本赤軍派』 パトリシア・スタインホフ 河出書房新社 1991年
『十年目の眼差から』 重信房子 話の特集 1983年
『パレスチナ問題の歴史と国民国家-パレスチナ人と現代社会』
富岡倍雄 明石書店 1993年
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