水曜日, 1月 22, 2020

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由(林 貴志) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)林貴志 グラスゴー大学教授 2020/1/23

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由(林 貴志) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)林貴志 グラスゴー大学教授 2020/1/23
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69930

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

本当に「意味のないクソ仕事」なのか?

「ブルシットジョブ」という言葉が日本でも人口に膾炙しはじめているようである。イギリス在住の人類学者デヴィッド・グレーバー氏によって使われ始めたもので、「ブルシット」=牛の糞ということから「意味のないクソ仕事」、とりわけ、何のためにあるのかわからないような管理・事務仕事を指す。
具体例を挙げるのは忍びないので控えるが、他人はおろか自分でもその仕事が何かの役に立っているとは思えないような仕事、と言ったら誰しも心当たりがあるだろう。同じイギリスの大学で働くものとして、私も彼の論考で引き合いに出されるイギリスの大学の実例には逐一首がもげるぐらいうなずいたものである。
グレーバー氏(2014年撮影)〔PHOTO〕Hiroyuki Ito/Getty Images
とはいえ、人類学者としての彼の主張を全てそのまま受け入れるわけにもいかない。彼は現代ビジネスに掲載されたインタビュー
いちばんの近道は、(保育園の先生のような)人の役に立つ仕事の賃金を上げることでしょう。至極わかりやすい解決策です。
と言うが、上げろと言って上がるんならとっくに上がっているし、下げろと言って下がるんならとっくに下がっていることだろう。
ということをつぶやいたら現代ビジネス編集部の丸尾氏に捕捉されて、経済学の立場からブルシットジョブについて語って欲しいという依頼が来てしまった。不用意な言及だったと後悔するしかないが、かといって引き下がるわけにもいかない。
話を戻そう。私みたいな経済学者よりもはるかに長い歴史的射程を持つ人類学という分野からの指摘のわりには、グレーバー氏のこの結語は「人は命令では動かない」という人性の大本を踏まえない、いささか短絡的なものと言わざるをえない。
「この仕事は無駄だ」と言えば「おおそうか、無駄だな、みんなやめよう」となるわけでもあるまい。さながら、「みんなが気をつければいいと思います」で終わってしまう小学校のホームルームのごときである。だが、ある問題が解決しないのは果たして「みんなが気をつけ」ていないからなのか?

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

また、現業職(いわゆる「現場仕事」)は「役に立つ」が管理・事務仕事は「役に立たない」というのは必ずしも自明ではないし、だいたい「役に立つ」の意味をいきおい狭く取ってしまうならば、氏も私もそうである文系大学教員こそが「ブルシットジョブ」なのではないかと言われても仕方がないだろう。そしてニワカ人類学的な物言いをするならば、大学とはそういう人たちが社会で悪さをしないように閉じ込めておく社会的収容所ではないか、と。
〔PHOTO〕iStock

「合理性」からブルシットジョブを見る

私は経済学者という職業柄、物事の背後には何らかの「合理性」があると考えるのが思考の習慣になっている。ただし、「合理性」があるというのは決して「だからそれで世の中うまく回っているのさ」としたり顔で事態を正当化するものではないし、「だからこのことには意味があるのだよ」という慰めを与えるものでもない。
経済学において「合理性」とは、各主体が与えられた状況・制約条件を所与として自己の達成目標を最大限に達成している、というあくまで個人レベルの形式的なものである。このことは、個々人は手持ちの情報を最大限に活用して「合理的」に判断していても社会全体としてはそれが故に負のサイクルにはまっている、という世の中によくあることと全く整合的である(と同時に、「それで世の中うまく回ってるのだ」という結論を結果的に排除するものでもない。うまく回っていることもある)。
そして社会は、「みんなが気をつければいいと思います」では負のサイクルから抜け出すことはできない。現代の経済学者が「合理的」の理論にこだわるのはむしろ、この「みんなが気をつければいいと思います」では解決しない状況を語るのにそれが最も適しているからである。
典型例は自己成就的な統計的差別である。ある属性を持つグループは能力が低いという差別的信念を多くの雇用者たちが抱いていると、その属性を持つ被差別者は自身への能力投資のリターンを低く見積もらざるをえず投資を手控えるので、結果的に能力が低いという差別的信念が統計的に裏付けられる、というものである。
そこにおいては、各人はそれぞれに「合理的」である。雇用者の側も「理解なき正しい予測」——事態の全体像は理解していないが、予測が結果的に正しくなること——ができているという点において。にもかかわらず社会としては負のサイクルにはまっているわけだ。

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

では、「ブルシットジョブ」はどうであろうか? 「それで世の中うまく回ってるのだ」のケースであろうか? それとも、各人は「合理的」に判断していても社会全体としてはそれが故に負のサイクルにはまっているケースであろうか?

保険としての「無駄」

まずは、「それで世の中うまく回ってるのだ」の方から言及を済ませたい。あらかじめお金を払っているにもかかわらずほとんどの場合において使われないサービスがある。保険である。
だが、今年一年無事故で終わったドライバーが、この一年支払った自動車保険代が無駄だった、もう払わないなどとはまず思わないだろう。保険においては、事後=結果論においては事故らなかった人には無駄ではあるが、事前においてはリスクシェアリングという形で無駄になっていないのである。私は、見た目に「無駄」と思われるものの一定割合は保険で説明できると踏んでいる
〔PHOTO〕iStock
例えば、UK(イギリス)の大学では学生の提出物は直接教員にではなく事務方に提出せねばならないし、遅延のペナルティも大学側が定める(日本でも一部そのようであるが)。記録業務が伴うからというのはあるものの、ただ提出物を受け取るためだけに別の係を用意するのは「無駄」に見えるかもしれない。だが、提出物の期限を巡ってのトラブルが最近日本で刺傷沙汰に至ったように、やはり「念の為」というのはあるのだ。
またUKでは、成績についての問い合わせや抗議も事務方を通さねばならない。一方で、US(アメリカ)だと採点と成績をめぐって学生が教員のオフィスにやってきて粘るのは日常茶飯事である(そして時折事件が起きる)。それを考えれば、たしかに、試験の2〜3ヶ月前に問題を外部監査に提出せねばならない・抗議は全て公式なものとして取り扱うので上から逐一査問されるなどの面倒臭さは伴うものの、問い合わせと抗議は直接教員にではなく事務方を通さねばならないというUK方式は一理あると言える。
もちろん、現実には傍目には不要な保険サービスが付加されているわけだが、これは最終段で触れよう。
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「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

シグナリングのための「無駄」

次に、厚生や生産性それ自体を直接に改善するものではない資源投入という意味では「無駄」であるが、ある避けられない理由から支払わねばならないものがある。シグナリングのための資源投入がそれである。
資源は有限である以上、その利用に「ふさわしい者」に割り当てられねばならない。では、その「ふさわしい者」を我々はどうやって見分けることができるのだろうか?
ここで我々は、何も策を講じることのないままで、割り当ての候補者たちが自分がどれだけその資源の割り当てにふさわしいか、またはふさわしくないかをそのまま正直に申告してくれるなどとは望むことができない。正直に申告してもらうためにはそれなりの手はずを整えねばならない。
どうするかというと、「本当にそれにふさわしい人」にしか払えないコストを払わせることである。これをシグナリングと言う。学位を取ってきて見せろ、資格を取ってきて見せろ、生活能力を見せろ、愛の証を見せろ、というのがそれである。試験や検査・査定に関わる仕事はおおむねこれに関わるものである。また、就活・人事や婚活に関わる仕事、それに投ぜられる資源もおおむねこれである。
資格試験はシグナリングの側面を持つ〔PHOTO〕iStock
シグナリングに投ぜられる資源それ自体は、投資とは違って生産性の向上に寄与しない「無駄」である。例えば、通過儀礼としてのバンジージャンプは勇気と度量ある大人であることの証となるが、バンジージャンプそれ自体が勇気と度量を与えてくれるわけではない。「人を試す」こと自体は何も産まないのである。
ただし、シグナリング無しでマッチングがうまくなされない状態から比べれば長期的に社会全体の厚生を改善している、という意味では役に立っているわけだから、形容矛盾であるが「必要な無駄」ということになろう。
もちろん、「試される」過程において人は何かを得ることもあるだろう。また、高等教育は純粋にシグナリングのためのものではなく(そうであってはたまらない!)、スキルを獲得し能力を伸長させてくれる場である(はず!)。とはいえ、シグナリングの側面を否定することはできない。

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

モニタリングのための「無駄」

人の行動の多くは他人から見えない。何も策を講じなければ、雇用者は被雇用者が会社の利益になるよう行動しているかを観察できないし、株主は経営者が株主の利益になるよう行動しているかを観察できない。
前段のように直接観察できないものが「ふさわしさ」という特性であるならば、「ふさわしい者」だけが支払うことのできるコストを支払わせるという策が採れるが、ここでは観察できないものは行動なので、シグナリングとは別のものが必要である。
要は直接資源を投入して、対象者の行動を直接にあるいは資料を通じて間接的に監視するわけであるが、当然のことながらこれ自体は直接生産性を高めるわけでもない「無駄」である。実に嫌なことであるが、管理業務・監査業務に関わる仕事はおおむねこれである。

「順選択」による市場の失敗としての「無駄」

「本来ならなされるべき仕事がなされない」という意味での市場の失敗は逆選択(adverse selection)と言って、市場の失敗として経済学の教科書でもよく取り上げられる。ここで「逆」というのは「市場は価値の低い方に不当に合わせる」の意である。
それに対し、「本来ならなされるべきでない無駄な仕事がなされている」という「順選択(positive selection)」とでも呼ぶべき状況もある。ここで「順」というのは「市場は価値の高い方に不当に合わせる」の意である。だが、逆選択に比べたら順選択の研究はさほど多くない。
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「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

簡単な数値例で説明しよう(あくまで説明のためなので、「なんでこの数値なんだ?」とか言わないで欲しい)。1人のクライアントと1人のエージェントを考える。エージェントの仕事はクライアントにとって役に立つかもしれないし役立たずかもしれない。役に立つならばエージェントにとっての便益が10、役立たずだったら0とする。この値はクライアント・エージェント双方にとって既知だとする。
だが、クライントは、エージェントが役に立つ・立たないの確率がそれぞれ0.5であることは知っているものの、実際に役に立つかはエージェントを雇う段階では分からない。一方、エージェントの側は自分の仕事がクライアントの役に立つか立たないかを知っている。ここに情報の非対称性があることに注意されたい。
情報が非対称な時に価格はどうなるか…?〔PHOTO〕iStock
なお、エージェントが仕事に取り掛かったらかかる人的コストを2とする(こんなふうに書くと「人を数値化するのか?」とか言われそうだが、要は人は「タダ」じゃないということである)。
また、クライアントは危険中立的=期待値しか気にしない、とする。現実的には「1万円か0円が半々の確率でもらえる」と「確実に5000円もらえる」だったら後者を選ぶわけだが(これを危険回避的という)、ここでは簡単のためにクライアントにとってはどちらも同じと考える。ただし以下の議論はクライアントが危険回避的だったとしても適宜修正可能である。
この設定で、もし仕事が役に立つならば、仕事の社会的純便益は【10ー2=8>0】なので、それはなされるべきだし、もし役に立たないならば仕事の社会的純便益は【0−2=−2<0】なのでなされるべきではない(このように書くといきり立つ人がいるが、要はエージェントに微少額払って何もしないでどっかに行ってもらった方がまだマシだということだ)。

「意味のないクソ仕事」をしてる風な人に、高い給料が払われる理由

それ、本当に「ブルシットジョブ」?

ではこの状況で、エージェントはクライアントに料金をどのようにふっかけるであろうか? まず考えられるシナリオは次の通り。
【シナリオ1】エージェントは、自身が役に立つならクライアントに10(またはギリギリそれに近い値を)ふっかけ、役に立たないならば引き下がる。クライアントは、10ふっかけられた時には「ふっかけて来たんなら相応の価値があるということなんだろう」と(しぶしぶ)取引に合意する。
だがこのシナリオ1は成り立たない。というのも、クライアントが「ふっかけて来たんなら相応の価値があるということなんだろう」と考えているなら、それに乗っかって、実のところ役に立たないときでもエージェントは10ふっかけるであろうからだ。そして、クライアントとしてもエージェントがそうするのが分かっているから「ふっかけて来たんなら相応の価値があるということなんだろう」などとは考えない。
なのでこの状況では、エージェントは役に立とうが立つまいが同じ値段をふっかけることになる。するとクライアントは料金提示からは何も情報が得られないので、便益の10か0かが半々の確率だと認識し、期待値【10×0.5+0×0.5=5】までなら支払えると考える。そしてエージェントはこの額(またはギリギリそれに近い値)をふっかける。

正確な情報を得られない、という問題

まとめると、
【シナリオ2】エージェントは仕事が役に立とうが立つまいがクライアントに期待値5(またはギリギリそれに近い値)をふっかける。クライアントは料金提示からは何も情報が得られないので期待値5までなら支払えると考え、(しぶしぶ)取引に合意する。
となる。
このシナリオ2においては、役に立っても立たなくても仕事が行われるので、事前の確率で0.5の割合で役に立たない仕事が行われていることになる。
おそらくはこれがグレーバー氏の議論に最も沿うたぐいの「無駄」であろう。ではそのような無駄はどうやったら排除できるか? 「正確な情報をカネを払う側が得れば良い」となるだろうが、自分で正確な情報をコストを伴うことなく得られるならば、そもそもこんな問題には立ち入っていないわけである。