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金曜日, 4月 17, 2020

テツオ・ナジタ

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相互扶助の経済――無尽講・報徳の民衆思想史(日本語) 単行本 – 2015/3/25



相互扶助の経済


無尽講・報徳の民衆思想史


ORDINARY ECONOMIES IN JAPAN


A Historical Perspective, 1750-1950



2009

https://www.amazon.co.jp/dp/4622078899/


  • 単行本: 400ページ
  • 出版社: みすず書房 (2015/3/25)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4622078899
  • ISBN-13: 978-4622078890
  • 発売日: 2015/3/25
飢饉に苦しんだ徳川時代の民衆の実践。その伝統は公の歴史の陰で地道に生き続け、震災のボランティア活動につながる。卓越した歴史家の観察眼と想像力の結晶。

https://www.msz.co.jp/book/detail/07889.html

参考:
柳田国男の農政学の展開 産業組合と報徳社をめぐって
並松信久
http://hdl.handle.net/10965/448
https://ksu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download
&item_id=1516&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=21
#4:
97~203(15~21)

柳田國男:メモ(全集目次)
http://nam-students.blogspot.jp/2013/03/blog-post_30.html


テツオ・ナジタ 
Tetsuo Najita
1936年、ハワイ生まれ。1965年、ハーヴァード大学で博士号取得。カールトン・カレッジ、ウィスコンシン州立大学を経て、1969年以降シカゴ大学で教鞭をとる。現在、シカゴ大学ロバート・S・インガソル記念殊勲名誉教授(歴史学・東アジア言語文化研究)。専攻は近代日本政治史・政治思想史。1989年に大阪府より山片蟠桃賞を受賞。
著書 『原敬――政治技術の巨匠』(読売選書、1974)『明治維新の遺産――近代日本の政治抗争と知的緊張』(中公新書、1979)『懐徳堂――18世紀日本の「徳」の諸相』(岩波書店、1992)、 編著(共著)『戦後日本の精神史――その再検討』(岩波書店、1988、2001)ほか。


慢性的な飢饉に苦しんでいた徳川時代の民衆は、緊急時の出費に備え、村内で助け合うために無尽講、頼母子講、もやいなどの「講」を発展させた。当時の民衆の識字率は高く、商いや貯蓄に関して議論し、冊子を作り、倫理は社会的実践に不可欠であるという明確なメッセージも発信したのである。その思想の根底には、伊藤仁斎、安藤昌益、貝原益軒、三浦梅園などの思想を汲む確固たる自然観があった。
徳川末期になると、二宮尊徳のはじめた報徳運動が、村の境界を越えて講を結びつけ、相互扶助的な契約をダイナミックに広げた。その後、講の手法は無尽会社を経て相互銀行に引き継がれていく。
著者は、大阪にあった徳川時代の商人学問所、懐徳堂を調べていたとき、町人知識人の思想が学問所の壁を越えて広がっていることに気づいたという。元来、公的な政治秩序の外側で形成されたこれらの営みは、明治維新後は、国の法体系にどう吸収されていったのだろうか。少なくとも、新しい翻訳語「経済」からは「民を救済する」という意味が脱落するなど、民衆の歴史は劣性遺伝子になっていく。この近代化の社会史が本書では追跡される。
明治初期の混乱や太平洋戦争後の激動を庶民が生きのびたのは、講の精神が脈々と受け継がれたからだった。著者は地方の相互銀行の書庫まで入念に調べ、この歴史がはらむ驚くべき現代性に光を当てる。
卓越した歴史家の観察眼と想像力の結晶であり、日本思想史学の里程標であろう。



日本の読者のみなさまへ
まえがき

第一章 徳の諸相

第二章 常識としての知識
商業と文化/時間、正確さ、中庸/海保青陵/「中」と信用

第三章 組織原理としての講
宗像常礼/講/第一原理としての自然/三浦梅園と村の講/慈悲無尽講、旨趣、約束、富永村

第四章 倫理の実践としての労働
二宮尊徳/仕法と分度/報徳運動

第五章 報徳と国家の近代化
品川弥二郎と平田東助/岡田良一郎/岡田良一郎と柳田國男

第六章 無尽会社
事業志向型の講/講から会社へ/無尽会社の合法化

終章 断片的な言説

解説  五十嵐暁郎
原注 
参考文献
索引









2017年10月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
過去、同氏の懐徳堂に関する書を読んでおりました。
岡田良一郎と柳田國男の論戦に関する著述はまさに「白眉」でした。
二宮尊徳はかねてより「ロータリークラブ」の理念を先取りしたような彼の生涯と行動に関心を持っており、その再確認ができたことも大きな収穫でした。


広井論考
https://www.jcia.or.jp/publication/pdf/20160801_kantougen.pdf
・近世までの日本には、「講」(頼母子講、無尽講、「もやい」などと呼ばれる、不測の事態などに備えて仲間内で助け合うためお金を積み立てる仕組み)に代表されるような「相互扶助の経済」の伝統が脈々と存在していた。 
・しかもそれは二宮尊徳の報徳運動に象徴されるように、村あるいは個別の共同体の境界を越えて講を結びつけるような広がりをもっていた。 
・明治以降の国家主導の近代化の中でそうした伝統は失われ、あるいは変質していったが、しかしその“DNA”は日本社会の中に脈々と存在しており、震災などでの自発的な市民活動等にそれは示されている。 ・そして上記のような相互扶助の経済を支えた江戸期の思想においては、「自然はあらゆる知の第一原理であらねばならない」という認識が確固として存在しており、「自然」というものが相互扶助の経済の基盤として意識されていた。 



岡田良一郎







岡田良一郎(おかだ りょういちろう、雅号淡山天保10年10月21日1839年11月26日) - 大正4年(1915年1月1日)は、日本の実業家政治家衆議院議員掛川信用金庫(現島田掛川信用金庫)創業者

概要







二宮尊徳の弟子として報徳思想の普及に尽力し、地域の振興に努めた。
遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)出身。雅号の淡山は、掛川にある粟ヶ岳(淡ヶ岳)にちなんでいる。

家族・親族






長男は岡田良平、次男は一木喜徳郎、三男は竹山純平竹山道雄の父)、五男は岡田分平で、実子がなかった兄良平の養嗣子となる。

門下

略歴








栄典








脚注







  1.  『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。
  2.  『官報』第727号「叙任及辞令」1915年1月7日。


2017年3月12日に日本でレビュー済み

 頼母子講というのをご存知でしょうか?とてもシンプルな民間金融のしくみです。まず会員を募ります。10人ならその10人が毎月一定金額、たとえば1万円を出資することをたがいに約束します。月ごとに集まる出資金を会員のだれかが総取りする。その権利を順番に回していく。ただそれだけのことですが、このいたって簡素な相互金融契約がいろいろな効果をもたらします。まず純粋に積み立て預金としての効果。少額ゆえに日々の暮らしの中で無駄に消えていってしまうお金が、他人のお金と合わせることでまとまったお金になる。まるでないところからお金が湧いてくるような話だ。これだけで倹約の動機になります。次に保険としての効果。病気や身内の慶弔で不意にお金が必要になったりする。そういうときは会員同士の間でお金をもらう順番を融通してもらったりする。第三には会員同士の絆を深める効果。毎月一定金額を出資するという行為自体が信用を創出する行為ですし、親睦にもなる。さらにお互いの経済状況がそれとなくわかって、適度な情報共有の効果をもたらす。結果的に近隣住民の相互扶助を促すという、一石二鳥にも三鳥にもなるすぐれもの。
 このシステムは無尽講、頼母子講などと呼ばれ、民間金融のしくみとして古来から普遍的に行われてきました。韓国では今日でも「契」という名前で広く行われていると聞きます。おそらく中国でも東南アジアでも似たことが行われているにちがいありません。頼母子講はそのシンプルさゆえにいろいろなヴァリエーションがあります。お金の消費権を競りにかけたり(そうすることで剰余金が残る。その分がほかの会員にとっては利息になるわけです)、抽選にして事実上のギャンブルにしてしまったり。あるいは誰かの不幸の際の義援金集めにも同じ方式が使われたりしました。もちろん災害保険、医療保険として運用することも可能です。
 しかしこの融通無碍な金融システムは、国家権力や近代的な金融機関からは嫌われてきました。運営が不透明だからというのがその理由です。たしかに講の規模が大きくなると適切な情報公開が難しくなって、管理人の不正も少なくなかったことでしょう。そもそも本質的にギャンブルと紙一重ですし、運用によっては事実上のねずみ講になってしまうこともあったと思います(これは私見ですが、なにより課税が困難だったことが最大の理由でしょう)。そういうわけで明治維新以後はいろいろと規制が厳しくなり、各地で行われていた大規模な無尽講は無尽会社へ、さらに相互銀行へと組織化され、今日では普通銀行と変わらなくなりました。近代的な金融システムの中に吸収されてしまったわけです。
 そういうわけですから、経済学者の間では頼母子講の評価は低い。しかし全国に残る「相互」が付いた銀行の数を見れば、かつての無尽講の規模や普及度を推測することは容易です。たとえいろんな問題があったにせよ、今日のような銀行預金制度や保険制度がなかった江戸時代以前の社会において、頼母子講の果たした役割は決して少なくはないのです。

 著者テツオ・ナジタは近世日本の民衆思想研究で知られるアメリカ人日系2世の研究者。懐徳堂周辺の民間学問の知識人を調べていくうちに、慧眼にも無尽講の存在が日本の社会システムの安定に大きく寄与していることに気がついてくれました。三浦梅園や海保清涼の思想を無尽講にもとづく相互扶助的な自律経済のしくみに結びつけ、その社会的本質が日本人の勤労観に大きな影響を与えたことを明らかにします。またそれまで思想的にはあまり評価されていなかった二宮尊徳をある種のプラグマティズムな実践思想と位置づけ、その後継者たちが広めた報徳社の運動が、明治維新の近代化の中でときに国家権力と思想的な対立を引き起こしていたことにも触れています。
 
 「日本の長い歴史が示しているのは、『民衆経済』が、不可避な事態に備えるセーフティ・ネットになっているということである。自助と相互扶助の取り組みは、こうした関連を裏付ける十分な証拠である。われわれは、地域に密着した医療援助を提供する宗像定礼や、三浦梅園の無限の慈悲としての慈悲無事項、縄講を検討する中で、こうした事例のいくつかを見てきた。報徳運動は、極貧に陥らないようにし、飢饉という現実に備える人々の心がけそのものである。(・・・)この歴史は、もしこうした『民衆経済』がなかったならば、19世紀後半の近代産業革命はどうなっていただろうか、という問いを投げかける。おそらく、日本の近代化に関するほとんどの解説で述べられている成功物語にはならなかっただろう。」

 著者はこの「自助と相互扶助」の思想は今日の消費文化のなかでは消滅しているように見えるといいます。しかし環境保護や政治腐敗を糾弾する市民運動のなかにその精神は生き残っているのではないか。その好例として1995年の阪神淡路大震災のときに見られた住民同士の助け合いや救援ボランティア活動をあげています。本書が発表されたのが2009年ですから、執筆がもう数年遅れていたら、きっと東日本大震災にもふれていたことでしょう。私たちはもう少し自分たちを見直してもいいのではないでしょうか。たんに日本人であることの誇りというばかりでなく、普遍的な人間性への信頼として。本書は次のようなちょっと感動的な言葉で結ばれています。

 「広い社会において、かならずしも隣近所の住民ではない市民を支援することは協同組合的な自治のあらわれである。他の市民運動と同じく、上下関係も永続的な権威を振りかざす指導者もなく、職員や永久会員も、決まった政治的イデオロギーもないことがその特徴である。そこに満ちているのは、緊急時に他者に手を差し伸べるという根本的な原則と、共生あるいは共存という、よく知られた思想、生命と存在、つまりすべての人間の相互関係性である。」



懐徳堂―18世紀日本の「徳」の諸相 (NEW HISTORY) (日本語) 単行本 – 1992/6/25

  • 単行本: 538ページ
  • 出版社: 岩波書店 (1992/6/25)
  • 言語: 日本語
  • ISBN-10: 4000036238
  • ISBN-13: 978-4000036238
  • 発売日: 1992/6/25
18世紀の大阪に商人たちによって創設されたアカデミー「懐徳堂」。江戸幕府の官許をえたこの学問所では、日本全国と知的ネットワークを結びながら学者や商人を中心とした学問的営為が開花したのだった。これまで、経済思想史あるいは地域史の視点からしか考察されていなかった「懐徳堂」を、18世紀日本における知的・思想的言説の重要なポストとして捉えた本書は、大阪の商人たちが「徳」という言説にこめた意味を明らかにする。思想史の新たな方法的視点によって照らしだされる言説とイデオロギーの社会史。

2013年2月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この本は、江戸時代、大阪中心部に開設された「懐徳堂」という幕府公認の民間学問所で営まれた日本思想の歩みである。儒学や朱子学という最近では馴染みのない議論だけに読むには難渋する。しかし、それだけの値打ちはある。
「懐徳堂」とは、江戸時代、1726年から1868年にかけて、大坂商人達が私財を投じて、現在の大阪市中央区今橋に設立、運営した民間教育・研究機関をいう。明治の到来とともに、活動を停止し、戦災で建物も焼失、現在は石碑だけが残っている。
その名の通り、「徳の意味を深く心に省みること」をめざした学校、日本のアカデミーだった。活動中の150年ほどの間、三宅石庵、富永仲基、中井竹山、中井履軒、五井蘭州、草間直方、山方蟠桃などの儒学の思想家を輩出する。明治維新後の日本人の知的活動の多くが、経済、哲学、政治学、社会学など多分野にわたって外来物、西洋的合理主義に侵食されていったなかで、異彩を放つ純日本的な知的営為が、この時代にはあった。

国学者である本居宣長は除いても、萩生徂徠や山鹿素行が政治の中心地である江戸や京都において、幕藩体制をめぐる政治理論として機能したのに対し、「懐徳堂」は、京都の伊藤仁斉とともに、経済首都・大坂において、その商人活動を支える経済倫理を極め、教える場として機能してきた。

なぜ、このような儒学の学問所が、大坂商人達にとって必要だったのか。

網野史学が教えるように中世日本においては、市場町は、世間から隔離された「無縁所」と呼ばれる「公界」であった。封建的領主関係が担う「主従」の「私的」関係とは別の「公的」関係を担う場である。ところが、徳川体制の下では、「士農工商」というように、商人は、最も下層の階層とされた。しかし、一方で、米と銀との交換や米流通の巨大マーケットとして、大坂の商取引は拡大の一途にある。実際、堂島の米相場会所では、世界史上初の商品先物取引市場が誕生している。当然、商人の得る利益も増大していく。

ではいったい、この利益追求には、どのような道徳的根拠が持ち得るのか。商取引は、「欲望」の追求として卑下されるべきものなのか。商売の利益追求と、道徳的秩序との統合、整合性は、どのようにして獲得できるのか。儒学を母胎にして、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」と「資本主義の精神(エートス)」のような議論が展開される。明治以降の近代化を前にして、商品経済、市場経済の到来を準備する思弁である。

即ち、「徳」とは、「善を志向する普遍的な人間の能力、知的能力」であり、「全ての人間は、外的な道徳的、政治的規範の形式や実質をともに<知る>能力を持つ」。「善」とは、誰かにのみ与えられたものではなく、「誰もが有する活動的な可能性」であり、「日常的な仕事の世界で遂行されるべきもの」である。

そして、商取引は、下劣な利己的な行為ではなく、その利益によって国の富を増やす道徳的行為である。売買の倫理とは精確さであり、売買を通じて人間的信用は認識される。「「利」とは人間の合理的判断「正しさ」−善−の認識の延長にある」。商人は、商行為を通じて、社会の「徳」(道徳)や「義」(公正)や「信」(信頼)を確認する。

こうして、大坂商人の商取引は、高い倫理性を有した活動として、儒学のなかで位置づけられる。経済活動に高い倫理性を求める議論は、その後の日本資本主義のエートスを築いて行く。

もう一つ、「懐徳堂」の「徳」をめぐる言説の背景になった日本独自の経済倫理観がある。「経世済民」である。
明治期に英語のPolitical Economyの訳語として、「経世済民」を略して「経済」とされたが、江戸時代に使われた「経世済民」の意味は深い。「経世」とは、「世の中を整える」ことであり、「済民」とは、「民衆を救う」ことを意味する。目的としての「済民」と、手段としての「経世」。経済政策の一種の道徳的基準と言ってよいだろう。

「懐徳堂」は、このような学問・教育所として、江戸時代における知的ネットワークの拠点として機能していた。研究機能と教育機能を兼ね備え、日本における生涯学習の原点とも思える。

1 件のコメント:

  1. タイトル 
    相互扶助の経済 無尽講・報徳の民衆思想史
    著者名等 
    テツオ・ナジタ/〔著〕  ≪再検索≫
    五十嵐暁郎/監訳  ≪再検索≫
    福井昌子/訳  ≪再検索≫
    出版   
    みすず書房 2015.3
    大きさ等 
    20cm 336,45p
    NDC分類
    338.76
    件名   
    講  ≪再検索≫
    無尽  ≪再検索≫
    相互銀行  ≪再検索≫
    書誌番号 
    3-0500255118

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