夜明け前 島崎藤村
参考:
ラウル・ペック監督 映画『マルクス・エンゲルス』予告編
夜明け前 吉村公三郎 1953
夜明け前 上1
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。…
三…
「昔はこの木曾山の木一本伐ると、首一つなかったものだぞ。」
陣屋の役人の威し文句だ。
この役人が吟味のために村へはいり込むといううわさでも伝わると、猪や鹿どころの騒ぎでなかった。あわてて不用の材木を焼き捨てるものがある。囲って置いた檜板を他へ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売りさばいたりした村の人などはことに狼狽する。背伐りの吟味と言えば、村じゅう家探しの評判が立つほど厳重をきわめたものだ。
…
第五章
四…
「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢ごころ』ですよ。外国を夷狄の国と考えてむやみに排斥するのは、やっぱり唐土から教わったことじゃありませんか。」
「寿平次さんはなかなかえらいことを言う。」
「そりゃ君、今日の外国は昔の夷狄の国とは違う。貿易も、交通も、世界の大勢で、やむを得ませんさ。わたしたちはもっとよく考えて、国を開いて行きたい。」
下2
第九章
四
…しかし君、復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあるのさ。そう無造作にできるものが、復古じゃない。ところが世間の人はそうは思いませんね。あの明治三年あたりまでの勢いと来たら、本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言い出した。それこそ、猫も、杓子もですよ。篤胤先生の著述なぞはずいぶん広く行なわれましたね。ところが君、その結果は、というと、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ。いくら、昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい。」
「暮田さん、」と半蔵はほんのりいい色になって来た正香の顔をながめながら、さらに話しつづけた。「わたしなぞは、これからだと思っていますよ。」
「それさ。」
「われわれはまだ、踏み出したばかりじゃありませんかね。」
…
第十一章
五
…
明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩艱難の時に当たって、万民を統べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢の中にある名もない民の一人でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、
蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや 半蔵
この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
さらに三十分ほど待った。もはや町々を警めに来る近衛騎兵の一隊が勇ましい馬蹄の音も聞こえようかというころになった。その鎗先にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額を大地につけ、袴のままそこにひざまずいた。
「訴人だ、訴人だ。」
その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
[#改頁]
第十三章
六
…
先師平田篤胤の遺著『静の岩屋』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病を祷るための御嶽参籠を思い立ち、弟子の勝重をも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音を耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎のように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々より万づの事物の我が大御国に参り来ることは、皇神たちの大御心にて、その御神徳の広大なる故に、善き悪しきの選みなく、森羅万象のことごとく皇国に御引寄せあそばさるる趣を能く考へ弁へて、外国より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏きことなれども、是すなはち大神等の御心掟と思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。
(太字を柄谷が引用)
…
先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、
「吾にしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、又よき考への出で来らむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしき故を言ひて、よき考へを弘めよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾を尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」
ここにいくらでも国学を新しくすることのできる後進の者の路がある。物学びするほどのともがらは、そう師の説にのみ拘泥するなと教えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しい古をさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。
そこまで考えて行くうちに、鉄瓶の湯もちんちん音がして来た。その中に徳利を差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌も炙り直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌で盃を重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代を歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石とせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものを磨きあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙げということもさらにない自然ながらの古の道を一層明らかにされるであろう。
思いつづけて行くと、半蔵は大きな巌のような堅い扉に突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考え究めるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。
彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成し就げ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。
…
『夜明け前』(よあけまえ)は、島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。 日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている[注釈 1]。
米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である[1][2]。
『中央公論』誌上に、1929年(昭和4年)4月から1935年(昭和10年)10月まで断続的に掲載され、第1部は1932年1月、第2部は1935年11月、新潮社から刊行された。 1934年11月10日 村山知義脚色、久保栄演出「夜明け前」(三幕十場)が新協劇団により築地小劇場で初演される。
1953年に「夜明け前」として、新藤兼人脚色、吉村公三郎監督により映画化。
中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主青山半蔵は、平田派の国学を学び、王政復古に陶酔。山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。
半蔵は下層の人々への同情心が強く、新しい時代の到来を待っており、明治維新に強い希望を持つ。しかし、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と政府による人々への更なる圧迫など、半蔵の希望とは違う物であった。更に山林の国有化により、一切の伐採が禁じられる。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。
村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動に。その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。
半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居することに。読書をしつつ、地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが、次第に酒浸りの生活になっていく。
維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。
そして半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助[注釈 2]が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれる。そして、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。
当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。
1953年公開。近代映画協会が劇団民藝と共に製作し、民藝の俳優が総出演している。配給は新東宝。第8回毎日映画コンクール撮影賞を受賞(宮島義勇)。
外部リンク編集
ーー
シナリオ 昭和28年4月(9巻4号)臨時増刊 シナリオ・夜明け前(新藤兼人)、獅子の座(伊藤大輔・田中澄江)、その妹(柳井隆雄)、山下奉文(八木保太郎・西澤裕)
返信削除史録書房
ーーーーー
シナリオ/夜明け前/シナリオ文⑱■新藤兼人■1953年
商品説明 映画タイムス社 1953年 初版 並(経年なり)
※表紙経年汚れ 背上部小破れ小欠 小口経年ヤケ
※A5判 全40頁
※主な内容―画像参照―近代映画協会・劇団民芸共同製作
夜明け前 戯曲
返信削除叢書名
角川文庫 ≪再検索≫
著者名等
島崎藤村/原作 ≪再検索≫
著者名等
村山知義/脚色 ≪再検索≫
出版者
角川書店
出版年
1950.10
大きさ等
16cm 198p
NDC分類
912.6
書誌番号
3-0190357379